Nemeos leon

 日没迫る夕暮れの海を、ウッドテラスから眺める。

 テーブルの上にはテシーから貰った輸入紙たばこの試供品パッケージ。初めて吸う銘柄で、カカオのようなフレーバーが新

鮮。初めて味わうタイプだが悪くない。

 紫煙を吐き出し、海にかかる太陽の乱反射に被せる。

 平和だ。…と、思いたい一時なのだが…。

「………」

 肥満した虎医師は、くつろいでいるとは言い難い、険しい表情だった。

「グフフフフ!絶景だなァ」

 テラスに置いている丸テーブルを挟んだ反対側の椅子には、大柄な鯱が座って葉巻を咥えている。

 島の漁師達は朝が早い一方、夕暮れ前にはだいたい仕事を終える。患者が来る時間が過ぎたこの時刻は、ヤンにとっても憩

いの一時。普段であればテシーが夕食を持ってきてくれるのをゆったりと待っているところなのだが、「ウチで晩飯しながら

マシュマロ焼くからヤン先生も来てくれよ」、…とのカムタの言伝を持ってきたシャチが、そのまま尻を据えてしまったので

ある。なお、テシーの方にはゼファーが声を掛けに行ったらしい。

(どっちもゼファー君が呼びに来れば良いじゃないかっ!!!)

 ヤンは、シャチが嫌いである。

 敵対してうんぬん…の所は論理的思考で整理した。ルディオとも上手くやっているしカムタとも打ち解けているし連れてき

た子供達は若干クセが強いのも混じっているが比較的良い子揃い。カムタだけでなく他の島の子供達とも仲良くやっており、

問題ない。ない。が。

「ところで俺様はバイなんだがなァ。デブ虎先生、オメェちょっと同族の匂いがするぜェ?グフフフフ!」

 などと、肩を組んで来つつ胸と腹を素早く撫で、かつ揉むという暴挙染みたセクハラを受けたのは十日前。フライパーティ

のお裾分けを持って来ながらベッドへ連れ込もうとしたシャチに、力一杯「お断りだ!」と声を叩き付けて以降、当たり前に

嫌いになった。なお、この時に自分がシャチの指摘を否定し損ねていた事には全く気付いていない。

「この島にいつまで居るつもりだ?」

 自然と刺々しくなる言葉を煙と一緒に吐き出すヤン。

「まァあと数日ってェ所だなァ。ガキ共は名残惜しいだろうがァ、クリスマスには別の予定を立ててるからなァ。そころで話

は変わって…」

 咥えている葉巻をピコピコ揺らしながら、シャチは口の端をニタァッと歪ませた。

「俺様の再三の誘いにも乗る気配がねェ訳が、やっと判ったぜェ…。意中の相手は酒場の兄ちゃんだなァ?グフフ…!」

「ッ!?」

 目を見開くヤン。

「おっとォ!その反応は正解って事だなァ、グフフ!実はカマかけてみただけェ…!キンタマ縮み上がったろォ?グフフフ!」

 ビキリと、ヤンのこめかみが亀裂でも入ったような音を立てる。

「でェ?もしかして今夜はお楽しみの予定だったかァ?だったら悪ィ事したなァ?グフフフフ!」

 最低だと思った。

「どっちがタチだァ?兄ちゃんの方かァ?それともデブ虎先生かァ?いやァ、運動不足なその体じゃァ腰を振るのもしんどい

かァ。まさかマグロって事ァねェよなァ?グフフフフフフフフフ!」

 実際最低だと思った。

「…清い交際だっ…!」

 イラッとして吐き捨ててから、しまった、と失策を悟るヤン。シャチがズイッと、テーブルに肘をついて身を乗り出してき

ていた。

「清い交際かァ…。そうかそうかァ、実は俺様、ズッコンバッコン大好きなクチだがプラトニックラブもエンタメとしては嫌

いじゃねェ…。つまり自分はゴメンだが見てる分にはもうオッケェよォ…。馴れ初めからできるだけ詳しィ~く、話を聞かせ

て貰おうじゃねェかァ…」

 含み笑いが消えた代わりに下世話な好奇心が前面に押し出された真顔。ヤンは悟る。現場を見た事は無いが、きっと覗き魔

はこういった顔で犯行に及ぶのだろう、と。

「…君は自分を兵器だと言ったな?」

「兵器だがァ?」

「兵器がそんな事を気にしてどうする?」

「グフフフフ!兵士には休息が必要で、兵器には娯楽が必要なんだぜェ?判ってねェなァデブ虎先生ェ」

「判ってたまるか!」

 怒鳴ってから、いかんいかんと眉間を摘んで揉む虎医師。この男と話しているとどうにもペースを握られてしまう。下手に

構うなと自分に言い聞かせ、煙草を揉み消し、無言で腰を上げる。

「お、行くかァ?酌してやるから、初めて会った時から交際までじっくりたっぷりとっくり聞かせろォ。兄ちゃんも来るから

なァ、丁度いい…、グフフフフ!」

「子供の前でする話だと思うか?」

「だからソコはガキ共が寝静まった後、大人の時間の酒のツマミにするんだろォ?」

 つくづく最低だと思った。

 話をしていては埒があかないと、ウッドテラスを後にするヤン。葉巻をカキンと、手の平サイズの氷に閉じ込めて瞬間消火

したシャチが、「待てよォ」と後を追う。

 本人は気付いていないのだが、ヤンはシャチを嫌ってはいても、もう過度に恐れたりはしなくなっていた。

 島を壊滅させ得る力の塊であり、自分を瞬時に殺せる相手であるという認識は変わっていない。だが、口で言っても本人が

認めても、もう「兵器」とは捉えていない。「戦争の道具」とは感じていない。

 ルディオと同じ。構造がどうあれ、起源がどうあれ、ヤンが見るシャチは感情を持つ「ひと」である。判り合おうとも判り

合えるとも考えていないが、危険であっても狂気を宿していても、自分達との絶対的な乖離は無い。

「なァ。どっちから告ったんだァ?そこだけ聞かせろよォ、グフフフフ…!」

「………」

 あえて無視しながらカムタの家に向かうヤンにとって、付き纏ってくるシャチは、今では兵器と言うよりも「面倒臭くて品

が無くて下世話で煩い相手」である。




「ああコレ?自家製オリオピカンテ。だいたい普通の手順で作る唐辛子のオリーブオイル漬けなんだけど、好みの香草も一緒

にして香り付けを…」

 カムタの家の屋外キッチン。テンターフィールドが持ち込み、ペペロンチーノに使用している、オイルが小分けされた瓶を

見つめ、太ったイグアナが熱心に説明を聞く。他国が源流でも地域色豊かにアレンジされ、進化を遂げた自家製調味料や調理

の手法は、基礎と修練の上に重ね上げた独自の物。ラークはテシーから、料理が好きで詳しいからこそ判る「本物の香り」を

嗅ぎ取って教えを乞うていた。

「こっちは唐辛子をスライスニンニクと一緒に火にかけて、泡立って火を止めた後に刻みパセリ入れたヤツ。で、こっちは…」

「ゼファーアンチャン、ササミのスライスくれ」

「了解した」

 テシーとラークがパスタを茹でながら話しているその横で、カムタはゼファーに手伝って貰い、パスタに添える具を用意し

ている。

 シャチと子供達が滞在している間、提供している食事は野趣溢れる豪快な焼き料理が多いのだが、そればかりでは飽きてし

まうからと、ちょくちょく西洋料理なども作っている。一昨日はテシーとカムタとルディオの三人がかりで、カナデに出した

のと同じラーメンを作ってみせたのだが、これには子供達もシャチも大喜び。さらに、シャチから「トンコツスープ」の存在

を教えられ、早くも翌日にはレパートリーが増えた。

「手伝えないのが少し申し訳ないが…」

 庭に出してきた椅子に腰かけ、グラスを片手にヤンが呟く。

「子供達まであの手際だと、僕では邪魔にしかならないな…」

「おれも」

 隣の椅子で頷くルディオ。

「俺様も」

 反対の椅子で頷くシャチ。

 挟まれているヤンは微妙な表情である。シャチが隣に居るので落ち着けないが、不機嫌な顔をしては楽し気な子供達の気分

を害してしまうという、ストレスと気配りが胸中で鬩ぎ合っていた。

 三人のグラスに入っているのは、テシーが持ってきたミード…蜂蜜酒である。甘い酒の後味が珍しいのか、しきりに口の周

りを舌で舐めているルディオを横目で見遣り、景気よくグラスをあおったシャチが口を開く。

「ああそうだァ。蜂蜜酒ってなァ、ハネムーンの語源だったってェ説があるんだぜェ?」

「ひゅあ!?」

 変な声を出して椅子から転げ落ちるヤン。ルディオも、彼に雑学を一つ教えただけのつもりだったシャチも、間でコケた虎

を怪訝そうな顔で見下ろした。

「…背中に虫が入ったような気がしたが気のせいだった」

 早口で弁解するヤンは、しかし激しく高鳴っているその胸中で…。

(そ、そうだったのか…!そうだったのか…!)

 かなり動揺していた。もしもテシーに雰囲気作りの意図があって蜂蜜酒を紹介されていたのだとすれば、無反応だった自分

が少し恥ずかしいし申し訳ない。

「パパとルディオ、またムズカシーおはなしー?」

 座り直したヤンは、小走りに駆け寄って来た子供に気付く。

 シャチの脚に縋り、乗っかるように身を預けて甘える幼い猫の女の子は、シャチによってパルパルと名付けられている。甘

える仕草も愛らしい子猫を眺めながら、しかしヤンの目は悲しげな蔭りを帯びていた。

 子供達が全員島に入ってから三日目に、特に幼い子供達三人の、シャチに養育されている経緯が流石に気になったヤンは、

それとなく話を振って、彼らの出自と養子になった流れを簡単に聞いた。

 パルパルと、コイーバ、そしてカプリという最年少の三人組は、領土紛争中の国から逃げ出した中東の難民だったのだと、

シャチは言った。

 難民は、亡命される側からすれば面倒な火種にも成り得るし、中にゲリラが潜んでいる可能性もある。出て行かれる側から

すれば中に重要人物が紛れ込んでいる可能性も看過できない。誰が何の目的で、という事はシャチは断言しなかったが、結論

から言えば彼らが居たキャンプは襲撃された。

 難民キャンプは夜闇に乗じて焼き討ちされ、その時点で大勢が死んだ。命からがら四方へ逃げ散った難民達も無情に掃討さ

れた。パルパル、コイーバ、カプリは、公的には生存者ゼロとなっている難民キャンプ虐殺事件から生き延びた、たった三人

の生存者である。

 たまたま別件…紛争中の政府への介入工作のために近くに居たシャチが三人を引き取る事になったのは、彼らを一旦保護し

たのがカナデだったからである。

 あのジャーナリストが、自身も紛争地域のゴタゴタに巻き込まれ、重傷を負ってなお拾った三人を見捨てようとしなかった

ので、堪りかねたシャチは助け舟を出した。今更子供の三人程度、増えても養育の負担にさほど変わりは無い、と…。

 今もキャンプ襲撃者の正体については公的には判明していない。彼らの母国の軍はゲリラの仕業と言い、ゲリラは濡れ衣だ

と反論して。ラグナロク側から見て作戦に影響がある事ではなかったので、当時は組織側からも特に調べてはいなかったが、

後にシャチが調査した所によれば、母国側の軍部の一部が独断で行なった掃討作戦だった。関係者は、今となってはひとりと

してこの世に残って居ないが。

 そんな保護に至る経緯を聞いて、ヤンは複雑な心境になった。

 世界はきっと残酷で、それでも捨てた物じゃない。

 ストレンジャーが言っていた言葉の重さが、急に変わって感じられた。無責任な楽観視でも、無神経な希望的思考でもない。

あのひとは、一体どれほど凄惨な世界を見て来たのだろう?どれだけ傷を負って来たのだろう?処方するばかりで肌を診る機

会は無かったが、あの体を覆う被毛の下に、どれだけの傷を隠していたのだろう?どんな傷と気持ちを抱いて、なおもあの言

葉を口にできるのだろう?

 同時に、シャチの言葉もあながち間違いではないと、ヤンは思う。

 この歪んだ世界は、存続に値するかどうか疑わしい。

 そう語る鯱の巨漢は、兵器として産み出された己の役割とはまた別に、世界を、そこに生きる者を、じっと凝視している。

生きようと生きる命を眺めながら、しかしそうではないより多くの生命を睨む。黄昏の海に浮かび、世界の果てより命を見つ

め続けている。

 双方共に、いくつの絶望と希望を見つめてきたのだろうか?対照的な異邦人達の言葉はどちらも、重い。

「トラのおじちゃんも、ムズカシーかおー」

 ハッと我に返ったヤンは、見上げて来るパルパルに顔を向けると、目を細くして口を開いた。

「いや…、少しお腹が空いているんだよ。晩御飯が楽しみだね」

 島の幼い子供に向けるのと変わらない笑み。笑顔を意図して作るのは得意ではないが、子供の無邪気な表情に対しては、引

き出されるように浮かぶ自然な笑顔で応じられる。

「パルパル、先生達のお話を邪魔してはだめですよ」

 少女ながら既にスタイルの良い狐が、話の邪魔にならないようにと猫の子を呼びに来る。この少女はデュカリオン・ツーの

責任者で、リン、ゼファー、ラークと同じ最年長なのだとヤンも聞いている。

「料理はもうじきできるようです。先生もお腹が空いていらっしゃるでしょうが、もう少しだけご辛抱下さいな?」

 毛並みの良い尾を振りながらニコニコしている狐は、

「ああ。ありがとうヴァージニア君」

 ヤンがそう応じると、恥らうように身をくねらせて「どうぞジニーとお呼び下さいな先生!」としなを作る。そこへ…。

「グフフ…!狐が猫かぶってやがる…」

 養父の含み笑いが浴びせられた。

「何か言いましたかパパ上様?」

 笑顔で低い声になる狐。

「いいやァ?なァんにもォ?」

 肩を竦めてとぼける鯱。

「さ、パルパル。行きましょうね!」

「うん~!」

 気を利かせたヴァージニアがパルパルを連れてゆくと、少し不思議そうな顔のヤンに、シャチが小声で囁いた。

「ジニーの態度の事は気にすんなァ。アイツは先生みてェなデブった虎が、特別気になるんでなァ。特に、アンタは姿格好顔

まで似てらァ」

「気になる…?僕が似ている…?」

 ヤンの問いに、シャチは「そういうのに育てられたんだァ」と応じる。

「………」

 それ以上、ヤンは質問しなかった。ヴァージニアがシャチの養子になっているという現状が、話させる事を躊躇わせて。

 しばしの沈黙の後、ルディオが話題を変えるように「パルパルは」と、視線を子供らに向けながら言う。低空飛行するフレ

ンドビーについて行進を始めた子供達は、無邪気で愛らしい。

「三人の中で、一番英語が上手いなぁ」

「あの中で四ヶ月年長だからなァ。対等なようでもお姉さんって訳だァ、頑張り屋だぜェ?」

「それでも、三人ともあの歳でかなり喋れるじゃないか?」

 これ幸いと、変わった話題に加わったヤンに、シャチは肩を竦める。「ハウスキーパー兼家庭教師が優秀でなァ」と。

「…母艦に居る、料理が得意なひとの事だな?何故降りて来ないんだ?」

「単純に空にするのが心配だからだァ。無人にゃできねェ」

「無人?何故無人になるんだ?」

 首を傾げたヤンに、シャチは目を少し大きくしながら「言ってなかったかァ?」と不思議そうな顔をする。

「何を?」

「他に居ねェんだァ、船員」

 これにはヤンも絶句した。デュカリオン・スリーは大型客船規模と聞いたのだが、どうやら留守番役は沖で停泊している船

の番を独りでこなしているらしい。

「制御系は一箇所でやれるし自律機能もあるから、一応独り居りゃ動かせるんだが、それにしたってゼロにはできねェ」

 どんな船だ?と頭痛を覚えてこめかみを揉むヤンだったが、思えばシャチの船であるデュカリオン・ゼロも、自動航行で本

人の後から単独で島に来ている。シャチが所有する一見普通に見えてオーバーテクノロジーの塊でしかない船舶類については、

もう自分や一般社会の常識は通用しないと考える他はない。

 程なく出来上がったのは、鶏肉たっぷりのペペロンチーノとポタージュスープ、ぶつ切りにした豚肉と野菜の串焼き、パン

の木の実を添えて供される、立食形式の多国籍夕食。屋外テーブルは子供達に使わせて、大人組は引っ張り出してきた丸テー

ブルを囲んで、酒も飲みながらの食事になった。

 食中酒はテシーが選んできたワイン。ヤンとルディオは名前を見てもピンと来なかったが、理解したシャチが上等なロゼだ

と唸ると、テンターフィールドの青年は「あ!ご存知でしたか、お目が高い!」と嬉しそうに尾を振った。

(酒にも詳しくならなければ…!)

 テシーの関心をナチュラルに引いたシャチをまた少し嫌いになるヤン。何となく面白く無さそうな虎の雰囲気を察しながら、

しかし原因が判らなくて不思議そうなルディオ。

 和気藹々と夕餉の時間は過ぎ、デザートに焼きマシュマロをチョコと一緒にクッキーに挟んで舌鼓を打ち、コイバナを聞く

タイミングをはかるシャチを牽制するヤンはテシーを店まで送って行き、子供達は年長組に引率されて船着場に戻って…。

「一応、14日に発つ予定だァ」

 屋外キッチンの片付いたテーブルに座り、ビールジョッキを煽りながらシャチが言う。向かい側には、並んで座るルディオ

とカムタ。

「そっか…。寂しくなんなぁ…」

 本音をそのまま口に出すカムタと、垂れ耳の基部を下げるルディオ。ふたりの気持ちを表情で確認したシャチは、

「でもさ!また遊びに来てくれるだろ!?」

 次いでカムタが発した言葉を聞き、笑顔を見て、するべきかどうか数日に渡って思案していた提案を引っ込める。

 何だかんだでルディオはワケアリである。今更一匹増えた所で危ない橋を渡っている事に何ら変わりはないし、もしも望む

ならルディオをかくまってやってもいい。カムタを養子にして一緒に連れて行く事もできる。

 そんな提案を、シャチは結局口にしない事にした。カムタの顔を見て、隣のルディオの表情を見て、理解した。

 ふたりともこの島が好きなのである。ならば、ここで静かに暮らす方がいいだろう、と。

「そうだなァ。ガキ共も気に入ってる事だァ、また来るのもアリかァ。グフフ…!」

 ビール瓶を掴んだシャチが口を向けると、底に残ったビールを飲み干したルディオがジョッキを出す。

「来た時に島がなくなってねェように、目立つ真似はするんじゃねェぞォ?」

「ん。わかった」

「別に世界を滅ぼすってもなァ、人類皆殺しとか考えてる訳じゃねェ。そこに至るまでの犠牲は出すが、この島みてェな無関

係なトコはわざわざ手出しする必要もねェ。標的は先進国政府連合様と、その足を引っ張るために必要な紛争や関係国、あと

は実験に打って付けな場所ぐれェだからなァ」

 静かに暮らすなら、ラグナロクの目に止まる事がなければ、この島もふたりも世界の焼却を免れ、黄昏の先へ続くだろう。

 逆にラグナロクが世界に敗北したとしても、ひとのふりをし続ける限り、今の世界で平和に穏やかに暮らしてゆけるだろう。

「だいたい、オメェが見つかって俺様と接触してたなんて知られたら、俺様かなりやべェんだからなァ立場的に。そこは忘れ

んなよォ?」

「ん。わかった」

 同じ返事を繰り返すルディオに酒を注ぎ返され、「本当に判ってんだろうなァ?グフフ」と笑ったシャチは、宵の入りに浮

かぶ月を見上げる。

 島を発つ前に、済ませておくべき事がある。

 エルダーバスティオン。この島に黄昏の目を向けさせる要因になり得る、かの組織の介入と駐屯は邪魔だった。

(ちょいと大仕事になるが、虱潰しに行くかァ)

 グビリと喉を鳴らしてビールを飲み干し、ジョッキをテーブルに戻したシャチは、「じゃァ、明日は頼むぜェ?」とカムタ

にウィンクした。




「パパ、出かけるの?」

 小さな蜥蜴の男の子が鯱の尻尾にしがみ付く。

「ん~、まァちょっとなァ」

 デュカリオン・ツーの甲板、リンとゼファーになにやら話をしていたシャチが丁度下船しようとした所へ、年少組三名が船

室から上がって来ていた。

「姉ちゃん兄ちゃんの言う事よく聞くんだぜェ?」

「うん!」

「明日はカムタと浜遊びだろォ?寝坊しねェように早く寝とくんだぞォ」

「うん!」

 屈んで目線を近付けたシャチに頭を撫でられ、子供達は笑顔になる。雑で乱暴な撫で方だが、子供達はそれが嫌いではない。

 子供達を呼び、船室に戻しながら、リンは自分の船に戻る養父を見送る。月影のシルエットは、黒いタイガーカモのカーゴ

パンツとベストの夜間迷彩…仕事着である。

 停泊中のデュカリオン・ゼロを寝床にしていた子供らは、他の二隻に分乗させられた。年長四名だけは簡単に説明されたが、

シャチはこれから数日の内に諸島に居座る組織を追い出すと決めたらしい。

 この島で晩飯を一緒に摂るのは今夜が最後。だからシャチはヤンにも絡んだし、カムタとルディオにも念押しで話をした。

 夜の海に漕ぎ出すシャチを、リンとゼファーは甲板から見送る。

「サービスいいわね」

 そんなリンの言葉に、ゼファーが応じる。

「パパは基本的に気前が良い」

「確かに。気前が良くなかったらわたし達を養子になんかしてないか」

 おかしそうに笑ったリンが船室に戻ろうと、体の向きを変えたその後ろで、ゼファーも微かな笑みを浮かべていた。



「なぁアンチャン」

「ん~…?」

 ベッドの上、抱えられる格好でルディオと向き合い、全裸で抱き合うカムタは、鼻を胸に埋めたまま話しかける。

「オッチャン達帰ったらさ、すぐクリスマスだろ?」

「あ~…、クリスマス」

 ルディオにとっては、知識はあっても生まれて初めてのクリスマスである。カムタ自身も少し豪勢な食事を摂る程度で、父

が死んでからは特別祝うような事もなかったのだが、皆が帰ってしまう寂しさを紛らわせられるかもと考えた。

「クリスマスツリーとか飾ってみても良いかなって思ったんだ。シチメンチョー?とか、食うモンもクリスマスっぽくしてさ」

「あ~…。ツリー…」

 参照した知識と共に頭に浮かんだのは、入り口ドアと思しき脇の壁際に置かれ、煌びやかな電飾で輝くモミの木と、そこに

テキパキと飾りを吊るしてゆく巨漢のセントバーナードの手。

「たぶん、ハークが隠れ家の入り口に飾ってたなぁ」

「え?隠れ家なんだから目立っちゃダメじゃねぇかな?」

 そんなカムタの言葉と同時に、ルディオの頭に浮かんでいる影際のツリーが、横合いからザコッと下に入った車輪つきトレ

イに乗せられ、そのまま横にスライドして視界外に消え去り、大きな手が頭を抱える。

「たぶんハウルだコレ。片付けられたなぁ」

「もしかして、いま昔の記憶とか見えてんのか?」

「ハークが怒ってる」

「アンチャンそれオラも見てぇな…」

「だいたい判った。楽しそうだなぁ、ツリー飾るの」

「だろ?おし!今年から飾ろう!」

 ムギュッと顔を胸に押し付けてから離し、カムタは首を伸ばす。

 迎えるようにルディオは首を下に曲げ、少年に口元を近付ける。

 口付けして、舌を絡めて、それからギュッと抱き締めあって、カムタはまどろみに落ちて行き…。




 翌朝、朝食を済ませた後で、カムタはシャチの子供達と一緒に浜辺へ向かった。

 島に滞在できる日もあと少しなので、思い出作りに島を歩いて海で遊ぶ子供達とカムタに気を遣ったルディオは、岩場の仕

掛けをチェックしたり、魚を釣ったり、日課を独りでこなしながら過ごす。

 入り江が多い島の、岩場と小さな砂浜が木立に抱かれた小さなビーチの一つで、子供達とカムタは波遊びし、昼食を摂る。

両端の岬が遠く、砂浜が奥まって幅が狭いこのビーチは、景観はあまり良くないが湾内の波が特別穏やかな一つ。小さな子供

も居るので一目で見渡せる程度の狭さが丁度良いと、カムタが提案したスポットである。

 ラークが用意してきた大量のパンに、一緒に持ち込まれた好みの具材を挟んで食べる昼食は、一番人気のローストビーフが

最初に無くなり、次いで年少組に人気のピーナッツクリームが無くなった。

 思い思いに水着で過ごす子供達の中で、リンだけは監視役を優先しているらしくアロハシャツにホットパンツ姿。ゼファー

は膝丈までの水着を穿いているが、こちらはきょうだいが溺れるなどした場合にすぐさま飛び込む為の物で、水遊びする気配

もなく浜辺を一望できる位置にじっと立っている。

 スタイルのいい狐の少女が十歳ほどの子供達とビーチボールで遊び、肥ったイグアナは泳ぎが得意でない子供の手を引いて、

バタ足の練習をさせている。波と闘うように、あえて波打ち際に砂を盛って城砦を作って遊ぶ子供達もおり、思い思いに楽し

んでいるが…。

「リン。あれは呼び止めた方が良いか?」

 ゼファーに問われたリンは、最年少の三人組が岩場を伝って移動してゆくのに気付いた。

「ん~…、磯の生き物が気になってるんだろうけど…」

 目が届かない所に行かれると、危なくなっても注意できない。連れ戻そうと決めて足を踏み出しかけたリンは、

「ならオラが呼んで来るよ。リンネーチャンは他の子供も見てなきゃいけねぇだろ?」

 水分補給に戻って来て、レモネードを飲んでいたカムタからそう提案された。

「そう?助かるけど…」

「うん!任しとけ!」

 快活に返事をして、岩場をえっちらおっちら進んで岬側の木立に消えようとしている子供達を目指し、カムタは駆け出す。

「アイツは良い奴だ」

 背中を見送ったゼファーがポツリと漏らすと、リンは「おや」と眉を上げた。

「珍しいね?ゼファーがそんな風に感想言うの」

「そうだな」

 黒髪の少年は素直に肯定する。

 シャチは、ルディオとカムタに自分達養子の素性はだいたい話したと言っていた。素性が不確かな孤児や、ストリートチル

ドレン、ひとに言えない仕事をさせられていた者も居る。

 それだけではない。自分を含む数名のように、今の世界では存在を認められない者も…。

 だがカムタは、同情も憐れみも差別も無く、「歳が近い子供」として全員と接してくれる。分け隔てなく、普通のひとと接

するのと何ら変わらない態度で。それが心地良い。ラーク達もたぶん同じ気持ちだろうと思う。

「アイツは、良い奴だ」

「同感だよ」

 繰り返したゼファーに微笑んで頷いたリンは、子供達を追ってゆくカムタに視線を向けた。

 三人の幼子は、おそらく充分に運動させられているのだろう、身軽で足腰が強かった。慣れていないと岩場は危ないと思っ

たカムタだったが、どの子も波に濡れた岩を危なげなく飛び移って、潮溜まりを覗き込んでゆく。

「イソギンチャクいた!」

「どこ!?」

 先行する猫の子が声をあげ、兎の子が近付く。そこはもう海へ張り出した岩場の突端近くを過ぎており、皆が居る浜辺から

は切り立った崖が壁になって見え難くなっていた。入り江の外側へ、生き物を探しながら歩いてゆく子供達は…。

「コ~ラッ!ネーチャン達から見えねぇトコに行っちゃダメだぞ?」

 一際大きい岩のくぼみを覗き込んだところで、後ろからカムタに声をかけられた。

「サカナ!」

 兎の子が潮溜まりを指差す。子供達の指ほども無い小魚が、満潮で取り残されて暇を持て余しているのが見えた。

「遊んでて引き潮から置いてかれたんだな。気をつけねぇとオラ達だって、岩の上にチョコンって残されるぞー?」

 ふざけ混じりに脅かすカムタの顔が面白かったのか、子供達はキャッキャと笑った。

 そこはもう隣の入り江の端。来た岩場を戻るより、こちらから近い砂浜から上がり、上の道を通って元の浜に下って行った

方が安全だと考えたカムタは、「んじゃ、あっち側まで行ってから戻ろう」と子供達を促す。

「足元に気をつけんだぞ?」

 先に立って安定した足場を選びながら、子供達の手を引き、促し、時には抱き上げて岩の上を移動してゆく。そういえば小

さい頃、父親にこうして手を引かれたり抱き上げられたりしながら磯を歩いたなぁと、蜥蜴の子供の小さな手を取りながらカ

ムタは思い出した。

「お兄ちゃん…」

「うん?おっかねぇトコあったか?じゃ、抱っこしてやっからちょっと待っててな?」

 蜥蜴の子を天辺がなだらかな岩の上に立たせ、声をかけてきた猫の子を振り返ったカムタは、

「………」

 ゆっくりと、海の方を向いている猫の腕に手を伸ばす。

「あれ…!」

 兎の子も同じ方向を見ている。発した声は震えていた。

「静かに…。声出すな…」

 カムタの褐色の肌が、粟立って汗に濡れた。

 そろそろと、猫と兎の手を掴む。その目はじっと、ふたりの隙間から海の方向を凝視していた。

 波の上に、ソレは立っていた。

 海面を大地のように踏み締めて。

 金色の鬣を持ったライオン…。カムタは初見でそう感じたが、違う、とすぐさま直感する。ライオンの種類について詳しい

訳では無いが、ソレは明らかに、パソコンの画像で見たライオンの写真とも、テレビで見たライオンの映像とも、シンボル化

されたライオンのイラストとも違っていた。「こんな生き物が普通に居るはずがない」と、少年も子供達も判る。

 シルエットとしてはライオンに近い。だが、部分的には大きく異なる。

 脚が六本あった。前脚にあたる脚が二対ある。先端に房を持つ尾は獅子のそれと似た形状だが、人の腕ほどの太さがある上

に全長1メートル半はある。

 何より、顔が顔の形をしていない。鬣の中心には上下対称な顎だけ。目も鼻も耳も無く、マズルだけが突き出している。鬣

に隠れて見えないが、顎の付け根には開閉可能な無数の穴がぐるりと囲むように空いており、それが鼻の役割を果たしている。

 体高は1.5メートルほどと、普通のライオンよりかなり高いが、異様なのはその体長。六肢を備えたその体長は4メート

ルほどあった。

 異形の獣を見て脅え、小刻みに震えている兎と猫を、カムタはゆっくりと引っ張って自分の後ろに回した。

 胸の奥にチリチリと、火で炙られるような不快な感触。不調を感じるほどの危機感。目が無いにもかかわらず、ソレが自分

達を「視て」いる事をカムタは直感していた。

(怪獣だ…!あれも生物兵器の仲間なのか?でも、リスキーが言ってた見つかってねぇ最後のヤツじゃねぇ!全然違う!)

 リスキーから聞いていた最後の流出物は、鎧を着込んだ大男のような姿の、甲虫の生物兵器だと聞いている。いま目にして

いる存在とは全く一致しない。

(諸島に入ってる、別の連中が連れてきたのか…!)

 ONCの流出物ではなくエルダーバスティオンの生物兵器だと察したカムタだったが、状況の悪さ故に何もできない。シャ

チは島を離れ、ルディオは遠い岩場、この数日の中でもっとも隙が大きい、最悪のタイミングだった。

 海面に立ち、こちらに顔を向けている獅子のような怪物の向こうに、一隻の船が見えた。甲板にクレーンを備えた大型船、

そのデッキには数名の人影が出ている。そして、そこから降ろしたのだろう小型ボートが二つ、波を立てて接近していた。

「制御できていたんじゃないのか?」

 両目以外の頭部をすっぽりと覆うマスクで顔を隠した男が、緊張を孕んだ声で呟く。舵を取る、同じくマスクを被った男が

「そのはずだ」と、やはり固い声で応じた。

「自発的にあの子供達を確認しに行く…。自動防衛行動とも考え難い。もしかしたらあの子供達がホプキンス様が言った「異

常」の原因か?」

 二隻の船にはそれぞれ三人の男が乗り込んでおり、全員が短機関銃…H&K、MP5で武装している。

 カムタは迷った。

 隣の浜の子供達は、入り江が深い事もあり、角度の関係で岸壁の影になってボートや大型船側からは見えていない。気付か

れなければそちらはとりあえず大丈夫だが、問題は自分と三人の子供。

 獅子の怪物は動かない。迫ってくるボートの上陸も怖い。

(何とかしてこの子達を逃がしたら…?)

 どうにかしてルディオを呼ばなければいけないが、まともに逃げるのは不可能。自分が囮になり、子供達をリンやゼファー

の所へ逃げ帰らせるという手を考える。そこから誰かがルディオを呼んでくれれば…。

「いいかロキシー、パルパル、カプリ」

 カムタは小声で囁く。

「今から逃げる。岩場を抜けたら、浜から坂を上がれ。上がりきったら草っ原だから、茂みに隠れろ。そして、連中に見つか

らねぇように、アンチャンに教えてきてくれ…」

 獅子がゆったりと足を踏み出し、水面を進み始める。

「1、2、3で行くぞ…」

 ゆっくりと、後ろを確認する。カムタは坂道で自分が気を引き、子供達を逃がすつもりだった。

「1」

 足場を確かめる。一番足元がおぼつかない兎の子の腕をしっかり掴む。

「2」

 獅子がゆらりと体を揺する。青褪めている蜥蜴の子が、目で岩の上のルートを確認するのが見えた。

「3!」

 カムタの合図と同時に子供達が駆け出す。

 足を滑らせた兎を引っ張り上げるように抱え、カムタは走る。猫の子の背に手を当てて支え、先頭を走る蜥蜴の子を見守り、

…ゾクリと、寒気を感じた。

 振り返らなくても判った。獅子の怪物が追ってくる、と。

「走れ!走れ走れ!」

 声をかけながら子供達を促すカムタ。ゾワリと背中に鳥肌がたった。冷や汗が止まらない。

 岩場を抜け、砂浜を横切り、入り江から出る坂を目指す。茂った草に残る少人数の往来でできた細い道が、今は異常に遠く

見えた。

(もう少し…、もう少しだけど…!)

 後ろは見ない。見た所で距離を離せる訳ではない。ならば数センチでも前へ…。

 唐突に、風が唸った。

 カムタは反射的に手を伸ばし、蜥蜴の後ろ襟を掴んで引き戻す。

 直後、地響きと共に砂埃が巻き上がり、四人は纏めて後ろに引っくり返った。

 跳躍し、飛び越えて着地したのだろう、そこに六本脚の怪物が居た。

 唸り声すらない。不気味な静けさを纏い、四人…特にカムタへ注意を払っている。

(ロキシーを殺す気だった…!)

 カムタの頬を汗が伝う。眼前の獅子の、砂地を抉った前足の一本が、収納式の赤黒い鉤爪を展開させていた。これで一掻き

されただけで、ひとの頭などズタズタになってしまうだろう。

 退路を断たれたカムタの後ろに、上陸した男達が駆け寄り、銃口を向けながら包囲する。

「先日の能力の余波と思われる気象の異常、あれが確認されたと思しきポイントに近い島で、子供らにネメアズレオが反応し

ました」

 無線機を片手に、男のひとりが誰かへ報告する。

「…了解。生きたまま確保します」



 泣き出してしまった三人の子供達を宥めながら、カムタは振り返る。

 浜辺からボートが押し出されて、島の景色が大きく揺れた。

 船に乗せられたカムタ達は、ふたりから銃を向けられており、下手な動きは取れない。

(アンチャン、気付いてくれるかな…)

 沖に見える大型船へ向かう途中、ルディオが釣りをしている場所から見えるだろうかと考え、無理だと肩を落とす。

 何とか知らせる手段は無いかと、必死に頭を巡らせるカムタだったが、焦りそうになる自分を宥める事も忘れなかった。

(…無茶はダメだ。オラだけじゃねぇ、子供達も居るんだから…)

 船が出る。獅子の怪物が水面の上に立つ。二艘のボートの間を悠然と歩むその脚が…、突然水を蹴って巨躯を転身させた。

 軽い音。砂を蹴る音。僅かな砂塵を後に引いて、影が一つ空中に躍る。

「!」

 男達が気付いた時には、その少年はカムタ達が居る船に接近していた。

 クワッと目を見開き、異形の獅子を睨むゼファー。その両手には直刃のナイフ。

 迎撃する獅子の腕。一本目が爪を広げて振り抜かれ、軽い金属音と共に黒髪の少年が回転する。

 ナイフで爪を受け流したゼファーは、その勢いで回転した。その状態でなお獅子の手にナイフで斬り付ける。が、

(通らない?体毛が防刃効果を…)

 刃は表面が滑る強靭な毛に阻まれて、傷一つつけられなかった。そこへ、同じ方向から二本目の前足が叩き付けられる。

「っ!」

 カムタは反射的に子供達を抱え込み、その光景を見せなかった。

 スピンしながら高々と跳ね上げられたゼファーは、激しい水飛沫を上げて海面に落下する。獅子はそれを追おうとして…、

「戻れ!」

 男のひとりが発した声で踏み止まり、身を翻して離岸するボートに並走する。

「島に何処かの戦闘員が!?」

「判らん。が、威力偵察の人員では無理を通せない。情報を持ち帰るのが先決だ」

「ああ。兵力が1か100かも判然としないのでは…」

 男達が言い交わし、沖へ出てゆくボートの上で、

「…大丈夫…、大丈夫だ…!ゼファーアンチャンは大丈夫…!」

 声を上げて泣き出した子供達を励ましながら、カムタが握り込んだ手にはシャツ用の小さなボタン。

 真珠色のソレは、ゼファーが獅子と交錯した一瞬に飛んできて、カムタの胸に当たった物。

 カムタは確信していた。コレは、自分達が持っていなくてはいけない物だと。

 ゼファーは船医を兼ねると聞いた。合理的な判断で「皆」を守るのが仕事だと。そんな彼が無策に、無駄に、無意味な特攻

を仕掛けるとは考え難い。子供達を守るためなら別の手があるはずだった。

 にも拘らず、自ら姿を見せて怪物に攻撃を加えたのは、これを持たせる隙を作るため。おそらくは、救出のための手を打つ

にしても「自分達がこれを持っていなければまずい」から。

 カムタは子供らを見る。三人とも水着姿で、シャツは着ていない。思えばシャチの子供達は、着ている物は違っても皆が真

珠色のボタンを付けていて…。

(コイツは…、たぶん…!)

 予想はついた。これは自分達の位置を知らせるための品なのだと。



 ボートが遠ざかり、米粒よりも小さくなった頃。

 隣の入り江と浜を隔てている崖と木立ちの中から、ガサガサノソノソと茂みを揺すって、ずんぐりした人影が現れた。

 急斜面の草を掻き分けて現れたのは、丸々としたグリーンイグアナ。海水で濡れたズボンの上からアロハシャツを羽織った

ラークは、右手に掴んでいた物に手を添えて畳む。

 それは、拳銃のようなグリップで、手首に固定して安定させるための折り畳み式リストロックを備えた、全体が黒色のスリ

ングショットである。

 収納形状にしたスリングショットをアロハシャツの内ポケットに仕舞ったラークは、海上を見遣り、浜辺を見遣る。それか

らうつ伏せに浮かんでいるゼファーを確認して、どっどっどっ、と肥った体を揺すって砂浜を横切り、波打ち際にザブザブ踏

み込んで、うつ伏せの少年を引っ張り起こして背中におぶる。

「ゼファー確保完了ぉ」

 呟いたラークは、まるで誰かと会話するようにウンウンと数回頷き、「発信機はカムタ君が持った所まで「右眼」で確認し

たよぉ」と、のんびりした声を発する。そして、海から上がって波打ち際を離れると、乾いた砂の上にゼファーを降ろして仰

向けに寝せ、軽く頬を叩いた。

「ゼファー起きて、どんな具合なのぉ?」

 呼びかけと同時にパチリと目を開けたゼファーは、口を開いてコポコポと水を追い出してから声を発した。かなりの長時間

だったが、俯せに浮いたまま呼吸を止め、仮死状態で死んだふりを遣りおおせている。

「臓器は無傷。右腕尺骨、左上腕骨に軽度の亀裂骨折、及び両前腕に打撲。いずれも損傷軽微」

 ゼファーの体は真っ当な人間のそれではない。リスキーとはまた経緯や手段が異なるが、改造されたクチである。身体性能

と反射神経は常人を遥かに上回り、獅子の一撃で派手に吹き飛びはしたものの、打点をずらす事で致命傷を避けている。腕の

負傷を自覚はしているが、痛覚を遮断する事も可能なため、痛みに苦しむ事もない。

「重傷じゃなくて何よりだよぉ。あ、バイオレットぉ、リンにも「とりあえず無事」って教えておいて欲しいよぉ」

「首尾は?」

 この場に居ないきょうだいと話すラークに、ゼファーが問う。

「この通り、だよぉ」

 イグアナが親指で自分の首の辺りを示すと、黒髪の少年は顎を引く。ラークのアロハシャツからは第一ボタンが無くなって

いた。

「ゼファーの判断は、今回も正しかったよぉ」

 先ほど、カムタと子供達が引き返して来ずに視界から消え、反対側の入り江へ回った事で、ゼファーは迅速に行動を起こし

ていた。危機を察知するしない以前に、警戒を持続させるのがこの少年の性分。例え何も無かったとしてもカムタと子供らを

確認しに行っていたところである。

 結局彼の日常的警戒行動は正解で、カムタ達がボートへと連れてゆかれる様と、危険な生物の存在を確認したゼファーは、

ラークに連絡を取って行動を指示し、彼がポジションにつくのを待って、無謀に見える奇襲を敢行した。ラークがカムタに向

かって発射するボタンの存在を気取らせないために。

「パパに連絡を…、そうか。もう済んだのか」

 呟き、そして誰かから返答を貰ったように顎を引いたゼファーは、すっくと立ち上がり、素早く首を巡らせた。

 隣では少年と同じくイグアナも、アロハシャツの内側に隠したスリングショットへ右手を伸ばしつつ振り向き、怪我をして

いるゼファーを制するように左手を水平に伸ばす。

 音がした。風が唸る音。重量と体積がある物体が、大気中を高速移動する時の音…。

「あ」

 視線を上げ、音の出所に気付いたラークが納得の声を漏らし、ゼファーが眩しそうに目を細める。

 木々の上、地上十数メートルを、ひとっ跳びに越えて接近してくる大柄な影は、セントバーナードの物。

 高台から木立を跳び越えて、ドズンと砂浜を震わせながら着地したルディオは、既にボートの影も無い沖に目をやり、「カ

ムタは!?」と、焦りと困惑が窺える顔で少年達に問う。

「連れ去られました。が、全員無傷。追跡も可能です」

 冷静に応じるゼファーの顔を見て、ルディオは二秒黙り、頷く。

「カムタは無事。そして、追いかけられるんだなぁ?」

「そうです」

 首肯した少年から沖に目を戻し、ルディオは軽く眉根を寄せた。

 カムタの危機を察知したのは、ウールブヘジンの警告が体中を駆け巡ったおかげ。弱っているせいで最近めっきり反応が薄

くなったが、それでもなお、今回の警告ははっきり認識できた。何せ、その内容は…。

(ウールブヘジン達と同じ、「古い世界」の何か…)

 かつて遭遇したジ・アンバーのような、現行の技術で作られた存在ではない、異物であり遺物。それがカムタの傍に現れた

と、ウールブヘジンがルディオに告げていた。