Evolution of White disaster (act10)
エイル、ノゾムの臨時コンビが、ギルタブルルとの戦闘を続けている廃工場の敷地外に、けたたましいエンジン音と急ブレ
ーキの音を立てて車が殺到した。
ジープから冷たい夜気の中へ次々と飛び出したのは、それぞれ別の場所を捜査していた調停者達。
「戦争でもしてるのか!?」
ジープから降りた調停者の一人が、響き渡る派手な銃声と爆音に驚愕して叫ぶと、別のジープからトウヤと共に降り立った
アルが苦笑いしながら頬を掻く。
(気を抜ける相手じゃないって言ってたっスからねぇ…。一体どれだけ武器を持ち込んだんスかねエイルさん?なんか爆発音
までしてるんスけど…)
「ん?」
アルは耳をピクリと動かし、首を巡らせた。
響き渡る銃声の中で、ガサリという微かな音を聞き取ったアルの視線の先には、廃工場を取り囲む雑木林。
その中、闇に溶け込んでいる人影を、薄赤い瞳が捉えた。
「あの…、林の中に一人だけ離れてるのって、誰っスか?」
アルに声を掛けられた、三十代前半程の調停者は、「ん?」と首を巡らせて白熊と視線を揃え、訝しげに眼を細めた。
「…まだ展開命令は出てないっていうのに…、どこのだ?勝手な真似して…。ナガセ君が頑張って纏めてるっていうのに、こ
ういう時に寄せ集めの粗が出るなぁ…」
浮き足だって先走ろうとしているのかと思い、呆れたように言った調停者は、その人影に一言注意しようと足を踏み出しか
け、傍らのアルの顔を見上げた。
「…おかしい…。なぁオールグッド君、誰かが林に向かったのに気付いたか?」
「いや、気付かなかったっス」
分乗してきた人数は先程確認している。それから間もないのに一人だけあんなにも離れた位置に移動しているのは妙であった。
林に駆け込んだならばこの短時間にここまで離れる事もあるだろうが、慌ただしい動きがあれば誰かが気付く。
「仲間じゃないぞ…!誰だアイツは!?」
「音に気付いて来た一般人とかっス…?でも道は警察が封鎖して…あ!逃げるっス!」
二人が上げた声に気付いた一同が、白熊が指差す方向を一斉に振り向いた。
皆の視線の先で雑木林に駆け込んでゆく人影は、頭部を包帯で覆っているのか、頭が白っぽく闇の中に浮かんでいる。
「恐らくヤツだ!オカダウンジ!捕らえるぞ!」
トウヤが叫び、調停者達が一斉に駆け出す。
「ギルタブルルが同行しているはずだ!絶対に油断するなよ!」
トウヤの指示を聞きながら、アルはいまだに銃声が響いている工場の敷地内に視線を向ける。
違和感があった。同僚達の中でも良く知る相手、エイルの行動だからこそ、現在の状況の妙な点が気になった。
(おかしいっス…。逃がしたり見失ったりしたら、エイルさんなら攻撃を中断するはずっス…。見失って燻り出しにかかって
るにしても、攻撃が派手過ぎるっスよ?じゃあ…)
眉根を寄せたアルは、その違和感について考察し、その可能性に思い至る。
マスターの中年が脱出したにも関わらず、エイルはその後を追わず、敷地内で戦闘を続行している。
それは、追跡を後回しにし、戦闘を続行しなければならない状況に陥っているからではないのか?と。
アントソルジャークラスの危険生物であれば、例え十体居た所で、一対多数の戦闘を得意とするエイルが手こずる事は無い。
制圧が難しければ、機動力を活かして振り切り、大本の方を確保するはずである。
アントどころではない、それ以上の脅威と遭遇しているからこそ、首謀者の捕縛を後回しにしなければならなくなっている
のではないか?
エイルに首謀者の追跡を断念させ、かつこれだけの大規模攻撃をさせている相手…。
脳をフル回転させて違和感を分析したアルは、エイルと交戦中の相手の正体を確信するなり、雑木林に駆け込む皆の最後尾
に視線を向ける。
そして、ライフルを携えて走るトウヤの背に声をかけた。
「ナガセさん!オレ、中に行くっス!」
足を止めて振り向いたトウヤに、アルは確信を込めて告げた。
「逃げたのはたぶん男だけ…、ギルタブルルはまだ中にいて、エイルさんと交戦中っス!」
「なっ!?」
アルの声に気付いた数名の調停者達も足を止め、困惑しながら白熊を見遣った。
「…なら、そっちに半分割こう!ギルタブルルの方が脅威だ!」
トウヤの提案に、しかしアルは首を横に振った。
「先に男の方を捕まえて欲しいっス。それで停止指示を出させれば、ギルタブルルも楽に捕まえられるっスから。それまでは
オレとエイルさんで時間稼ぐっス!」
包みからブリューナクを引き抜き、ギュッと握りこんで表情を改めたアルは、力強く頷いて見せた。
「心配は要らないっス!エイルさんの戦い方、オレなら判るっスけど、不慣れな皆が一緒に行って巻き添えなんかが出たらシャ
レになんないっス。一人の方が都合良いっスよ」
苦悩するように顔を顰めたトウヤは、仕方が無いといった様子でかぶりを振った。
「良いか?絶対に無茶は無しだ!君の無事は神代のご当主とも約束しているんだからな?…私を…、二度も約束を守れなかっ
た男にはしないでくれ…」
トウヤが婚約者を守りきれなかった事を言っているのだと気が付いたアルは、神妙な顔で頷く。
「勿論っス…。自分で志願して突っ走った挙句に、お世話になってるひとの顔を潰す事になったら、リーダーにどやされる上
に、ユウヒさんにも愛想尽かされるっスからね!」
気合を入れるようにブンッと槍を横に一振りしたアルは、トウヤ達と頷きあう。
そして、工場へと視線を向けるなり、白い突風となって走り出した。
追い縋る調停者達の足音と気配が遠ざかると、中年は身を潜めていた木陰の暗がりから周囲の気配を窺った。
遠くから響く銃声は、ギルタブルルがいまだに交戦中である証拠。
一人でも多くの敵を足止めし、少しでも時間を稼ぐ事を期待しつつ、中年は逃走を続ける。
脱出の間際、彼はギルタブルルに最後の命令を下した。
それは、自分を除く視界に入った者を、時間を稼ぎつつ、可能な限り効率よく殺せという内容であった。
無論、すぐに死なれてしまっては困るので、手強いならば後回しにし、戦いやすそうな相手から優先的に殺し、効果的に時
間を稼ぐよう指示している。
つまり、あの巨熊と出会った場合は戦闘を避け、他の者を標的にするように。
調停者達が到着したからといって、あの巨熊と三毛猫が素直に退いたとは思えない。
もしも再び交戦すれば、ギルタブルルといえども仕留められてしまうのは明らかである。
虎の子であるギルタブルルすらも囮にし、自身が逃げ延びる事を優先せざるを得なかった中年は、息を殺し、足音を潜めて
慎重に雑木林の中を進む。
駆けて行った調停者達の姿は見えない。足音ももう聞こえなくなっていた。
だが、やり過ごしたとはいえ気は抜けない。急いで脱出しなければこの林ごと包囲されてしまう。
気が逸る中年の耳に、カシュッという擦れるような金属音が届いた。
「両手をゆっくり上げ、その場で地面に両膝をつけ。指示に従わなければ、任務中の生殺与奪権限において発砲する」
凍りついたように動きを止めた中年の背に、静かに声がかかった。
弾丸が装填されたボルトアクション式のライフルを構えたトウヤは、中年の背に狙いをつけていた。
中年はゆっくりと両手を上げる。調停者達の足音が遠ざかった事で、中年自身気付いていなかったが、幾分気が弛んでいた。
その僅かな気の弛みが明暗を分けた。
自分を安堵させようと言う心理が無意識に働き、前に去って行った危機…調停者達の足音と気配に注意が向いてしまっていた。
その為、これを狙って距離を離して最後尾につき、気配を絶って接近していたトウヤには全く気付けなかったのである。
「危険生物の不法取引関与、並びに調停者殺傷、その他三件の容疑でお前を捕縛する。抵抗するならば容赦はしない。良いな?」
ゆっくりと身を屈め、枯れ葉が積もった地面に膝をつこうとした中年は、指を揃えて頭上に上げていた右手の人差し指と中
指の間を僅かにあけた。
その隙間から落ちたマッチ棒のような閃光発生装置が、眩い光を周囲にばら撒く。
閃光でやられて目を閉じたトウヤを尻目に、水にでも飛び込むようにして傍の木陰に飛び込んだ中年は、懐から拳銃を取り
出した。
居場所が知れるので発砲は避けたかったが、閃光を焚いてしまった以上確実に気付かれている。
先ほどやり過ごした調停者達が、すぐにも駆けつけて来るのは目に見えていた。
ならば、この調停者を始末して引き返した方が良い。おそらく後方は手薄な上に、先に通り過ぎて行った調停者達とも距離
が保てる。
閃光と同時に発砲して来なかったのは少々以外だったが、撃つ度胸が無かったのだろうと判断し、中年は拳銃の安全装置を
外した。そのカチッという微かな音の直後、
「抵抗の意思有りと判断する」
静かな声と共に、目を閉じたままのトウヤが引き金を引いた。
しかし轟音を鳴らしたライフルの銃口は、何故か真上、夜空に向けられている。
(この期に及んで仲間への合図とは…)
まるで素人だと嘲笑った中年は、自分の手から弾け跳んだ拳銃を視界の隅に捉え、次いでやって来た衝撃に手を痺れさせた。
「な!?」
どこから狙撃されたのかが判らず、慌てて身を屈めたその瞬間、今度は右足の甲が撃ち抜かれた。
「あがっ!ぐっ!がぅっ!?ぎゃあああああああああああああああああああっ!」
次いで左肩、左の腿、右の手の甲と、続け様に四箇所銃撃され、中年は絶叫を上げて倒れ、地面を転げ回る。
ようやく視力が回復してきたトウヤは、銃創から大量に出血しながら転げ回る中年を見下ろした。
相手が閃光でのめくらましを仕掛けてくる事は想定範囲内。
一度上手く行った事は繰り返したくなるのは人の性。失敗した事が無い事ならばなおの事。
土壇場のこの場面においてはまず同じ手を使って来るだろうとトウヤは踏んでいた。
撃った弾丸、投げたナイフなど、トウヤが放った物が慣性や重力すら無視し、思い描いた通りに、あるいは自動で対象を追
尾し、対象を攻撃するという力。
この力は、興りは忍、近代では代々軍人の家系であるトウヤの家の血統に伝わる、希少な能力で、制限は多いが、発動さえ
させれば逃げようの無い強力無比な攻撃が可能となる。
対象となる者の体の一部、血液なり毛髪なりを込めた弾頭を用意しなければならないというのが第一の制限。
発射前に自分自身の目で、対象を直接見ておかなければならないというのが第二の制限。
そして、目視時間…つまりチャージ時間の十分の一が、放った弾丸等のコントロール時間の限界になるというのが第三の制限。
この能力の条件が満たされていれば、めくらましを受けようが、壁の陰に隠れられようが関係ない。マニュアル操作が無理
でも、障害物を避けて自動追尾させるだけである。
中年を二十数秒目視したトウヤが頭上に向けて放ったライフル弾は、天空より落下して拳銃を弾き飛ばし、四肢を撃ち抜い
ていた。
さながら、音速で飛行が可能になったスズメバチのように、獰猛に、容赦なく。
特解中位調停者であり、二つ名を名乗る階級には達していないトウヤは、しかしこの数ヶ月後にはこの能力を由来とする、
ある異名で知られる事になる。
赤銅色の巨熊が評した、鵺をも仕留める魔弾の射手。ディアフライシュッツの二つ名で。
「昨夜、タカマツさんとヤマギシ君と出会った時点で、お前は詰んでいたのさ…」
ライフルのボルトを操作し、次弾を咥え込ませたトウヤは、念の為に中年に銃口を向けつつ、このまま仲間の到着を待つ事
にした。
警戒を解かずに仲間達が走って行った方向へ目をやったトウヤは、
「あ〜らら…。痛そぉやなぁオカダはん…」
不意に背後から発された声と濃密な殺気に、弾かれたように振り返った。
いつからそこに居たのか、トウヤの後方僅か5メートル程の距離まで音もなく忍び寄っていた三毛猫は、フードつきのコー
トのポケットに両手を突っ込んで、苦痛にのた打ち回る中年の姿を眺めていた。
「も…、もち…!?」
苦しげに呻いた中年に、三毛猫はポケットから取り出した丸い物を見せた。
「忘れもん、お届けに上がりましたで〜」
それを見た中年の目が、三毛猫の意図を悟って大きく見開かれる。
「ま、待っ…!」
「ほなサイナラ」
恐怖に顔を引き攣らせた中年の制止も、銃を構えるトウヤも無視し、三毛猫はニードルボールを放り投げた。
身を伏せたトウヤの頭上を越えて、中年の顔の前にポ〜ンと跳んだボールは、ジャキッと針を生やす。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
至近距離から連続して撃ち出される細かなニードルで、包帯を巻いた頭部を穴だらけにされた中年は、壮絶な断末魔を上げた。
のた打ち回る中年は、頭部に執拗なまでに針を打ち込まれ、やがて動きを緩慢にさせ、ついには痙攣するだけとなった。
凄まじい絶叫で思わず顔を顰めつつ身を起こしたトウヤに、三毛猫は「あのぉ〜…」と困ったように声をかけた。
トウヤが素早く巡らせたライフルの銃口が眉間にヒタリと狙いを定めるが、三毛猫は恐れる様子もなく、少し困ったような
愛想笑いを浮かべている。
「本当は調停者との接触は禁じられとるし、半端なヤツらやったら蹴散らしたろ思っとったんやけど…、お兄さんら相当腕が
立つみたいやから、ちょっと予定変更さして貰いますわ」
包帯の上から無数の針を生やし、ビクビクと痙攣している中年にチラリと目をやったトウヤは、三毛猫に視線を戻す。
「一つ取引と行きましょ。ワイらはもう、お兄さんらとドンパチするつもりはありまへん。見逃してくれるゆうなら大人しく
引き上げましょ」
「交渉の前に自己紹介はないのか?」
警戒しつつも口を開いたトウヤに、三毛猫は苦笑いしつつワシワシと頭を掻く。
「ホンマは上から接触するな言われとりますさかい。プロフィール公開はちょっと勘弁したってぇな」
トウヤは訝しげに眉根を寄せる。目の前の三毛猫からは敵意が感じられない。
先程発した背筋が冷たくなる程の殺気は嘘のように消え、何事もなかったかのように人懐っこい笑みさえ浮かべている。
背が低く極端な肥満体で、機敏そうには見えない。立ち振舞いは一見隙だらけで、今は敵意も殺意も感じない。
だが、中年に注意を向けていたとはいえ、この距離になるまで気付かれずに接近している以上、只者でない事は明らか。
目の前の三毛猫が持つ危うい何かを敏感に感じ取りつつ、トウヤは口を開いた。
「どこのメンバーだ?その男と面識があったようだが…、オブシダンクロウの幹部と知っていたのか?」
「はて?そこそこお偉いさんやゆぅのは知っとりましたけどなぁ」
とぼける三毛猫に、トウヤは目つきを鋭くしながら続けた。
「この男に停止命令を出させ、ギルタブルルを止めるつもりだった。殺されたのはかなりの痛手だよ…」
実際に口にした理由以外にも、自分達の街を荒らした上に仲間を殺した相手である。できれば捕らえてしかるべき裁きを受
けさせたかった。
仇を横取りされた形になったトウヤは、冷静に見える態度ほどに心中は穏やかで無い。
得体の知れない三毛猫がのたまう交渉とやらに乗るつもりは無かったが、恨み言の一つは言ってやろうと口を開いたトウヤ
に、三毛猫は「そうそうソコですがな!」と声を上げた。
「ワイの同行者がアレを止めますよって、心配御無用ですわ。けど、大人しゅう見逃してくれへんゆぅなら、ほっぽって帰り
まっせ?」
どちらにせよギルタブルルは放置できないのだが、三毛猫はそう言ってトウヤに揺さぶりをかけた。
が、その程度で揺らぐトウヤではない。「ふ…」と微笑すると、これ見よがしにライフルを構えて見せた。
「それならそれで結構。元より自分達でケリをつけるつもりだった」
「そんなぁ…!」
眉を八の字にして情けない声を上げた三毛猫に、しかしトウヤは軽く肩を竦めた。
「だが、こちらも労力を費やさなくて良いならばそれなりに嬉しい。私個人に限りこの場では一切の手出しをしない。が、ギ
ルタブルルの捕縛作戦は継続する。そっちはそっちで勝手にやれば良い。ただし、ギルタブルルの捕縛、あるいは停止後には、
今目の前で起きた殺人の現行犯でもあるので、見付け次第君を捕縛する事になる。…それでどうだ?」
協力はしない。そちらはそちらで好きにしろ。この場においては捕縛しないが、作戦終了後に姿を見れば捕らえる。トウヤ
としては最大限の譲歩であった。
それをまんまと引き出した三毛猫は、ニマ〜っと表情を弛ませ、
「いやぁ〜、お兄さん話が判りますなぁ!見込んだ通りの器がデカイひとで助かりましたわ!」
と、声を上げて調子よく笑った。
フェンスを乗り越えて敷地内に侵入したアルは、響く銃声と爆発音を聞きながら闇を裂いて駆ける。
音の出所へ向かって一直線に走るその姿を、工場の屋根に突き出た短い煙突の脇に立つ、大きな影が見下ろしていた。
黒ずくめの巨熊は、赤銅色の被毛をゆるやかな風になぶらせながら、アルの行く手へと視線を向ける。
そちらでは派手な銃声と炎が上がっており、建物内に入り込んだギルタブルルが丁度屋上へと退避して来た所であった。
彼に与えられた任務はギルタブルルの抹殺か捕縛。同行者によれば捕縛優先という事になる。
調停者との接触は避けろと言われているが、このままギルタブルルに接近すれば、調停者達に姿を見られる事になる。
さらに、例え死骸でもギルタブルルをあちらに渡すなとも言われているため、調停者達がギルタブルルを倒してしまっても
まずい。
もしもそうなってしまった場合は、姿を見せずにギルタブルルの死骸を回収しなければならなくなり、目的を果たすのはさ
らに難しくなる。
しばし考えた巨熊は、ゆっくりと屋根の上を歩き出した。
調停者達に姿を見られても、所属と正体さえ悟られなければさほど問題はないだろうと判断して。
隙を突いてギルタブルルを無力化し、調停者達から逃れる。彼の力を持ってすればそれも不可能ではない。
少し気になるのは、先程自分の足元を駆け抜けて行った若い白熊の存在であった。
立ち振る舞いに隙が多く、未熟さが見て取れるが、何か得体の知れない物を秘めている。
孵化寸前の卵のような奇妙な気配を、彼の野生の勘は嗅ぎ取っていた。
念のためにとバイザーに指を当てた巨熊は、自分の存在に気付かずに疾走してゆき、徐々に小さくなってゆくアルの姿をじっ
と見つめる。
スキャニング機能が作動したバイザー経由の視界に、瞬時に赤い文字や図形が表示された。
アルの後ろ姿に重なって出現したターゲットサイトとその周囲の文字、そして数字を読み取った巨熊は、僅かに眉を上げる。
違和感は覚えたものの、バイザーの機能を信用するならば、どうやらあの白熊は能力者では無いらしい。
だが、バイザーは別の物に対してはしっかり反応していた。
類別「戦闘用遺物」 細分「エリンの四秘宝」 個別名称「ブリューナク」 備考「最優先入手対象遺物」
青みがかった髪をショートにしている若い女性の顔が、巨熊の脳裏に浮かぶ。
白熊が手にしている槍が、彼女が求めている物の一つである事を確認した巨熊は、任務に加えてそれの入手も視野に入れた。
間断なく炸裂する炎の華と、闇を穿つ銃弾の雨。
自身の生命維持からの観点ではなく、効率よく多くの者を殺傷せよとの命令に従って離脱を試みたギルタブルルは、一時待
避した屋上で、地面を疾走して来るアルの姿を捉えた。
片側を失った複眼に映った白熊は、他の調停者と比べて頑強なものの、今しがた相手にしていた二人よりは戦い易い相手と
いう認識がある。
身体能力でも上回り、なおかつ厄介な能力は持ち合わせていない。
注ぎ込んでやった毒で死ななかった事は気になるものの、比較的簡単に殺す事ができる。
そう判断したギルタブルルと、観察する気配に気付いたアルの視線が交わる。
(ギルタブルル…!)
ショットガンを引き抜いたアルは、銃声が聞こえてくる建物の隙間にちらりと目を向け、エイルはまだギルタブルルが離脱
をはかっている事に気付いていないと察した。
すぅっと大きく息を吸い込んだアルは、
「エイルさん!上っスぅうううううううううううううううううっ!」
銃声に負けない程の大声で、同僚へ合図を送った。
直後、ボヒュヒュッと二つの弾頭が建物の間から上がる。
ギルタブルルの居る屋上の高さまで上がったグレネードは、しかし何にもぶつかっていないにも関わらず、急に爆発した。
妙な現象を目の当たりにしたアルは眉根を寄せる。
今のグレネードの爆発は、直前に何もない所に発生した炎に巻き込まれ、炸裂したように思えて。
本来ならばもっと高くまで上昇し、その後落下するはずのグレネード弾を、何者かが何らかの手段をもって発火させたよう
に見えた。つまり…。
「…まさか…」
呟いたアルの疑念は、直後、ギルタブルルの姿が見えなくなるほどの巨大な炎が、屋上間際の空中で炸裂した事で確信に変
わった。
「なんでノゾム君が来てるんスか!?」
目をまん丸にしながら声を上げたアルは、ギルタブルルが炎から逃れ、他の建物に飛び移る様子を目にすると、建物の間に
駆け込んだ。
「エイルさん!それに…、やっぱりノゾム君!」
上方への攻撃をおこなっていた、コロっとしたレッサーパンダと狐は、駆け込んで来た白熊に視線を向けた。
「撃ち方止め、であります」
「はい!」
地面に片膝をついたままグレネードに弾を入れているエイルの指示に、ノゾムが元気よく応じる。
銃器類が周囲に配された二人の様子は、さながら、塹壕に身を潜めて敵軍の進行を阻んでいる兵士達のような趣きがあった。
「ななななななな何してるんスかぁあああああああああああっ!?あんた大怪我してるんスよノゾム君っ!?!?!?」
自分が病室に忘れて来たジャケットを着込んでいる狐を見つめ、アルは頭を抱えて大声を上げた。
「えと…、その…、皆が頑張ってるんだって思ったら…、じっとしてられなくなっちゃって…」
もごもごと応じたノゾムは「それより、アイツは?」とアルに訊ねる。
「そうだったっス…。ギルタブルルは離脱したっス。マスターの男は敷地外に出て逃走中っスけど、皆が追ってるからすぐ捕
まるっスよ。だから、あとはギルタブルルを止めるだけっス。さぁ追いかけるっスよ!」
グッと拳を握ったアルは、しかしノゾムに釘を刺す。
「ノゾム君は外に出て車で待ってるっスよ!頭縫ってるんスから、あんまり動いて傷が開いて、脳みそ落っことしちゃったら
大変っス!」
そこまでの怪我だったらさすがに動けはしない。と思ったノゾムだったが、素直に頷き、白熊に詫びた。
「…うん。もう大人しくする…。心配かけてごめん」
自分が負傷を押して無茶をした事で、アルがプンスカしている。自分の身を案じて怒ってくれている事が、ノゾムには少し
嬉しかった。
「じゃあ、行くっスよエイルさん」
声をかけたアルは、しかしエイルが地面に片膝をついたままである事に気付き、訝しげに眉根を寄せた。
「申し訳ないのでありますが、両脚がオーバーヒート中であります」
疑問の視線にエイルが応じると、アルは愕然とした。
エイルの場合、体の強度の問題で回数制限が厳しいものの、リミッターカットは小柄な体に圧倒的な機動力をもたらす。
瞬間的ながら、一般人では視認する事すら困難な程の推進力を発揮するエイルは、その速力をもって一瞬で奇襲、及び離脱
し、ターゲットに行動不可能な深傷を負わせる。
凄まじい火線に晒されながら距離を詰め、しかもエイルにリミッターカットを使わせた上に負荷で動けないまでにする…。
ギルタブルルの戦闘能力に、アルは今更ながら驚愕していた。
「…判ったっス。ノゾム君、悪いんスけど、エイルさんを連れて待避して欲しいっス」
「え?」
太った狐はキョトンとした。出会って間もないが、アルの性格はだいぶ把握できて来た。
この状況でまともに動けない同僚と怪我人から離れる事は好みそうにもない。にも関わらず、アルは手早く武装を確認する
と、二人を残して踵を返す。
一瞬意外に思ったノゾムは、アルの考えている事を察し、驚きで目を見開いた。
「ま、まさかアル君…!」
「ギルタブルルは、オレが引きつけとくっス」
「承諾しかねるであります」
レッサーパンダが即答すると、白熊は肩越しに首を巡らせて、二人に笑いかけた。
「オレ、今回の事件じゃ出し抜かれっ放しだったっスから、ここらで挽回しなきゃいけないっス…。二人はもう休んどくっスよ」
ノゾムは傍らに跪いているエイルの顔を見遣る。「無茶は止めろ」と止めて欲しかったのだが、レッサーパンダはノゾムの
期待を裏切り、「了解であります」と頷いてしまった。
「速度、出力、強度、いずれも自分が以前交戦したモノと同等であります。参考までに、ギルタブルルの活動停止にリーダー
が要した時間は、抜剣から17秒であります」
「リーダーの数字は参考になんないっスよ…」
苦笑いしたアルは、エイルが次いで発した「リミッターカットして、であります」という言葉で表情を改めた。
「…判ったっス。加減抜きのリーダー相手に17秒生き延びる…。そういう生き物なんスね?…気が滅入るっス…」
げんなりしたように呟きつつも、薄赤い瞳に鋭い光を宿したアルは、顔を前に向け、肩越しに手を上げて見せた。
「じゃ、行って来るっス!」
足を踏み出したアルを引き留めようと、声を上げかけたノゾムは、しかし一度口をつぐんだ。
無茶ならば自分もしている。決意をもって挑んでいる。今のアルも、それは同じ事だろうと思い至って。
「アル君…。気を付けてね?」
「うス!」
「ジャケット、要らない?」
「着てて良いっスよ。ノゾム君こそ怪我人なんスから、ちょっとでもあったかくしとくんスよ?」
自分の身を案じてくれたノゾムに、振り返らぬまま大きく頷いて応じたアルは、地を蹴って駆け出した。
アルの勘が告げている。ギルタブルルは、自分に狙いを定めているのだと。
先に視線を交わらせた際に直感したアルは、口にこそしなかったものの、それが理由で二人から離れる事を選んだ。
トウヤ達がマスターを捕まえ、停止命令を出させられれば良し。もしも逃げられたならば…。
(その時は、まぁやるしか無いっスね!)
決意を胸に、白熊は闇を掻き分けるようにして、ギルタブルルの姿を求めて疾走した。
錆びた階段を駆け上り、加速をつけたアルは、まだある程度の強度を有している手すりに足をかけ、リミッターを解除しつ
つ一気に跳躍した。
屋根伝いに移動していたギルタブルルが四つん這いの姿勢で振り返り、追跡者の姿を片側だけとなった複眼で捉える。
人の皮を完全に焼かれ、本来の姿となっているギルタブルルが、ゆっくりと上体を起こし、二本の足で立った。
擬装維持の為の粘液分泌を止め、外気に触れて黒みを増し、赤黒く、鈍く輝く外骨格。
先にハサミを有する長い二本の腕は、まるで昆虫の足を繋ぎ合わせたかのような多関節。
人間の頭蓋にも似たフォルムの頭部は、まるで磨かれた甲冑…、それも、激戦を潜り抜けて細かな傷で表面が覆われた物の
ような、鈍い光沢を帯びている。
半端に擬装が解けた先程までの醜悪な姿と比べ、今の姿は機能美すら有している。そう、改めてギルタブルルの姿を見たア
ルは感じていた。
体躯の大きさとウェイトならば、アルの方が上である。
だが、ギルタブルルの体は無駄を廃して機能に特化した物、単純に大きいから有利という事はない。
事実、リミッターをカットした状態でもなお、アルの腕力はギルタブルルとかろうじて並ぶ程度。スタミナやスピードは比
べるべくもない。
右手に銃を、利き手の左にブリューナクを握り締め、アルは油断無く身構えた。
「ブルーティッシュ切り込み隊の実力、見せてやるっスよ…」
嚆矢となったのは、アルの銃が吐き出した弾丸であった。
素早く振り上げられた右腕が、狙いをつけたかどうかも定かでない内に引き金を引き、凍結弾頭が放たれる。
素早く横へ動いたギルタブルルの横で、建物の屋根が直径1メートル程の狭い範囲で凍結した。
足を止める目的で放ち、しかしあっさり逃れられながら、アルはギルタブルルの動きに若干の鈍りがある事を見抜いていた。
(やっぱり手負いっスね…。エイルさんとノゾム君が食らわせたダメージ、思ったよりデカイみたいっス)
実際にはアルがその存在を悟っていない第三者の手によるダメージが大きいのだが、ギルタブルルの擬装が解けてゆく経緯
を一貫して見てはいないエイルも、ノゾムも、アルも、自分達以外からの攻撃によってギルタブルルが痛めつけられていた事
など思いも寄らない。
アルが続けてもう一発放つと、床にはいつくばるような低姿勢で銃弾をやり過ごしたギルタブルルは、四つん這いの姿勢の
まま素早く接近を開始した。
銃を素早く腰の後ろに戻し、手槍を両手でしっかりと保持して腰を落としたアルは、伸び上がるようにして低姿勢から繰り
出されたギルタブルルの一撃を、後方へ軽くステップする事でかわす。
下から顎を断ち割るべく伸びた長い右腕が上へ抜けると、僅かに下がってやり過ごしたアルが力強く踏み込み、ブリューナ
クの穂先を鋭く突き込んだ。
続けて左腕を伸ばそうとしていたギルタブルルは、攻撃を中止して反撃を防ぐ。
折り畳んで顔の斜め上に翳した左腕が、残っている複眼めがけて突き込まれた槍の穂先と音高く触れ合い、その軌道を上に
逸らす。
槍を腕で滑らせつつ懐に飛び込んだギルタブルルは、しかしおもむろに上げたアルの足に顔面から突っ込んでいた。
防がれる事も考慮した上で、引いていた左足を続けざまに前に蹴り出したアルは、その分厚い靴のつま先で、四つん這いの
上体で突っ込んできたギルタブルルの顔面を捉えている。
常にその巨体を支えている事で嫌がおうにも鍛えられた強靱な足腰は、リミッターをカットした今、並のインセクトフォー
ムならば一撃で蹴り殺せる程の馬力を発揮している。
人の体で同じ目にあえば、顔面が陥没し、一直線になっている首が砕け、背骨が折れる程の一蹴り。
低姿勢の状態でまともに顔面を蹴り上げられたギルタブルルは、縦にキリキリと回転しながら吹き飛んだ。
が、宙で体勢を立て直し、四つん這いで床に降り立ったギルタブルルは、その手足を床に食い込ませて勢いを殺し、5メー
トル程滑った所で静止する。
アルの予想通り、与えられたダメージはさほど無い。
「まだまだぁああああああああああっス!」
蹴り一発で10メートル近く離れた間合いを、雄叫びを上げて疾走し、一気に詰める白熊の巨躯。
駆け込みながら身を撓め、バネ仕掛けのように跳ね起きたギルタブルルめがけて、手にしたブリューナクを右から左へと大
きく横振りする。
首をガードしつつ後退したギルタブルルの両腕がブリューナクの穂先に掠められ、火花を散らした。
槍を振り切って左手一本で保持する格好になったアルは、振った勢いそのままに身を捻りつつ、その丸太のような足を蹴り
上げた。
がら空きの胴に横から飛び込んだアルの足が、ギルタブルルの体を真横に蹴り飛ばす。
両足の爪を床に食い込ませたギルタブルルは、2メートル程横滑りしたものの、痛みなど感じていないかのように体勢を立
て直した。
(脛痛ぇええええっス!)
顔には出さないものの、硬い外骨格との激突で衝撃がブーツを貫通し、アルは心の中で声を上げていた。
再び足を止めて対峙したアルは、改めてギルタブルルの性能に舌を巻いている。
ペースを握っているはずが、ギルタブルルには有効打を与えられていない。
(全然きいて無いっスね…)
身構えたアルは、リミッターカットの反動が出始める前に自力でケリをつけるか、トウヤ達が男を捕らえるかしなければ、
自分が敗北する事を悟っていた。
闇に溶け込む漆黒のインバネスコートを纏い、巨熊はかなり離れた位置から二者の戦いを観察していた。
ギルタブルルは先に比べて動きが鈍っている。とはいえ、対する白熊の技量も相当な物だと感じている。
戦い方は荒削りで足運びも身のこなしも未熟。しかし実戦に適した合理的な攻め方、そして守り方がしっかり身についている。
若さと今後の伸びしろを考慮すれば、逸材と呼べる若者であった。
だが、巨熊は確信する。あの白熊は、今はまだギルタブルルに勝てないと。
一見善戦しているように見えるが、禁圧解除を用いて何とか食らいついているに過ぎない。
反動が出て動きが鈍り始めれば、ギルタブルルの猛攻を防ぎ切れはしない。
そして、ギルタブルルのスタミナは未だ底をつく気配は無く、白熊が禁圧解除を維持していられる間に仕留めきれる相手で
は無い。
白熊が力尽きたその時こそが、槍を入手し、ギルタブルルを捕らえるチャンスであった。
第三者が自分達の戦いを観察しているとは気付かず、アルは果敢にギルタブルルに挑みかかっていた。
が、既に息が上がり、リミッターカットの負荷に耐えられなくなった関節が、筋肉が、悲鳴を上げ始めている。
吐き出される荒い息が、冷えた夜の大気に白く散り、消えてゆく。
発汗量も尋常ではなく、上昇し切った体温により汗が気化して白い体から立ち昇る。
激しい消耗と反動により動きが鈍ったアルへ、飛びかかったギルタブルルの長い両腕が振り下ろされた。
頭の上で槍を水平に構え何とか受け止めたアルは、ギルタブルルが身を捻った事を見て取り、即座に回避運動に移ろうとした。
が、振り下ろしの一撃には何とか持ち堪えたその両膝が、続く回避には耐えられなかった。
左足のふくらはぎに激痛が走り、後退が遅れる。
まごついたその隙に、横薙ぎにされたギルタブルルの尾が、アルの右脇腹へと飛び込んでいた。
「げばっ!」
脇腹を痛打され、苦鳴と共に空気と胃液を吐き出したアルの体が傾ぐ。
苦痛に耐えかねて身を捻り、バランスを崩した白熊の顎を、滑るように一歩踏み込み、跳ね上げられたギルタブルルの膝が、
真下から捉えた。
ガツンッと上下の顎が噛み合わされ、アルの体が強制的に仰け反らされる。熊族の頑強な顎骨が、膝の一撃で真っ二つに割
れていた。
軽く跳びながら放った膝蹴りで白熊の体を浮き上がらせたギルタブルルは、伸ばしていた腕を折り畳み、人間の腕に擬態さ
せていた時と同じ形に固めた。
人間で言うなら拳の部位、ギルタブルルの腕では中央の肘に該当する部位が、がら空きになったアルの腹へと打ち込まれた。
サイズの問題で締まり切らなかったベストの中央を抜けた「拳」が、毛皮と分厚い脂肪層、鍛えられた筋肉に守られたアル
の腹に深々とめり込む。
くの字に折られながら、アルの巨体が浮き上がった。
「…っ!!!」
深さにして20センチ以上も拳を埋没させられたアルの、大きく開けた口からは、しかし苦悶の声も出ない。
一撃で胃を破裂させられたアルの口と鼻から、絞り出されるようにして血が滴った。
致命的な一撃を受け、激痛に目を見開くアルを、腹にめり込ませた腕一本で吊り上げ、ギルタブルルは彼我の体重差を無視
する膂力を見せる。
ゴボゴボと血を吐き出すアルを下からしばし下から見上げていたギルタブルルは、突如腕を無造作に上げ、アルの体を軽々
と浮かせる。
そして、その場で素早く回転しつつ足の爪を床に食い込ませて固定すると、しならせた尾に全力を込め、白熊の巨躯を真横
から強打した。
右の脇の下に飛び込んだ尾が、あばらを粉々に粉砕して肺を押し潰す。
きりもみ状態で吹き飛ばされたアルの体が、屋根のへりを越えてその向こうへ、隣接する別棟の窓を破って中へと消える。
割れていた窓ガラスを突き破り、硬いコンクリートに叩き付けられたアルの体が、二度バウンドしつつ転がり、途中で転がっ
ていた何かに当たって巻き込みつつ、一部が崩れた壁に当たって止まる。
一瞬。リミッターカットが維持できなくなってからほんの短い間に、アルはそれまでのリードを帳消しにされ、致命的なダ
メージを受けていた。
横たわったアルは、奇跡的にブリューナクを手放さなかったものの、立ち上がるどころか動くこともできない。
胃の辺りに耐え難い激痛と熱さがあり、呼吸すらもできない有様。
全身が意志と無関係に痙攣し、激しく損傷した臓腑の奥から込み上げた血が、口からゴパゴパと止めどなく溢れ出る。
片肺が潰れ、折れた肋骨が突き刺さっている。破裂した胃と肺からの出血と激痛は、息を吸う事も許さない。
強靱なアルの身体を、数分で死に至る程に破壊したギルタブルルは、アルが叩き込まれた窓から室内に侵入した。
ビクビクと痙攣している白熊の様子を確認すると、ギルタブルルは改めて周囲を見回す。
そこは、彼がつい先程まで、マスターである中年と潜んでいた部屋であった。
黒ずくめの巨熊と遭遇してはまずい。先程の交戦の場に立ち、自己保存の為ではなく命令の遂行の為に接触を警戒したギル
タブルルは、しかし襲撃の気配は無いと判断し、白熊へと視線を戻す。
先程巨熊に葬られたアントの死骸を巻き添えにして傍に従え、崩れた壁の傍に横たわる白熊の瞳からは、徐々に光が失われ
てゆく。
放っておいても数分で絶命する。そう判断したギルタブルルは、踵を返して窓に足を乗せ、外へと跳躍した。
下された命に従い、己の命が続く限り、他者の命を奪う為に。