Over drive
「パパは何と?」
ゼファーの問いに、スタイルが良い狐の少女が肩を竦める。
「「動くな」って」
「そうか」
ゼファーは黙る。その伸ばした腕にクルクルと包帯が巻かれてゆく。巻いているのは、明らかに怒っている表情のヤン。
船医であるゼファー自身の負傷だったので、治療の為に診療所を頼る。正しい判断で嬉しいと感じながら、しかしやはりヤ
ンは怒っている。
カムタを助けるために動いてくれた事には感謝している。が、怪我は頂けない。都合よく無傷で全て平和に解決…などとい
う甘い幻想は望めないと頭で判っていながら、負傷覚悟で敵わないと判っている相手に突っ込んで陽動するという行為に腹が
立つのは、ヤンの性格と職業理念上仕方がない事である。
しばし無言で、シュルシュルと包帯の音が聞こえていた診察室に、
「…動かねぇはずねぇだろ。バーカ」
狐の少女が発したドスの利いた声が響く。キツい目つきになって牙と歯茎を剥き出しにした少女は、美しい顔が一変して獰
猛な表情に変化していた。
「弟と妹、それにカムタが攫われてんだ。アタシらが動かねぇでいられるはずがねぇだろうが、糞親父め…」
ゼファーは黙している。が、狐の言葉を咎めもしないし否定もしない。何故なら、「既に動いているから」である。
サービスで仕事中のシャチから回答を待っていては出遅れると判断したリンは、救出に行くと主張するルディオを乗せて、
デュカリオン・ワンで追跡に出た。ダメと言われてもやるつもりだったので行動は早く、カムタ達が連れ去られてからクルー
ザーを出すまで30分もかかっていない。
もっとも、シャチの方でも自分の指示を聞く前に長女が動く事は想定済み。「動くな」という命令に従わなかったと後から
咎めても、子供達から「全員では動いていない」という屁理屈が返って来る事も織り込み済みである。
「大丈夫…なのかね?」
リンがルディオを乗せて追跡に出たと、治療を受けに来たゼファーから事後報告されたヤンは渋い顔である。
「ジョンが動くなと言ったのは、君達を心配しての事ではないのか?」
子供らまで危険な目に遭うのは容認できないと、憂いと苛立ちを押さえ込むヤンに、
「ええ!心配要りませんよ、何にも!全て上手く行きますとも!ですからどうか先生、ご安心を!」
ヴァージニアは直前までのドスが利いた声と険しい表情を消し、にこやかに尾を振りながら猫なで声になる。
「何と言っても、リンはデュカリオン・ワンのキャプテンです!手前味噌になりますが、私共の姉は、パパを除いた家族全員
中、最も高い操船技術を持っておりますから!」
向かい風に混じる波飛沫が、ビチビチと被毛を通して肌を打つ。
波を越えて跳ねたクルーザーは、まるで鯱のように軽快に、素早く、海を割って突き進んでゆく。
与えられた通信用ヘッドセットを装着し、舳先の傍で手すりにしがみ付いているルディオは、クルーザー上の操舵席を振り
仰いだ。
そこには仁王立ちする少女の姿。風圧ではためかないようにアロハシャツを臍の少し上でギュッと縛り、袖を捲り上げて舵
輪を掴む、凛々しく勇ましい女キャプテンの顔を見せるリン。その腹部には、普段は隠している弾痕が見えた。
それは、まだ少女が「リン」になる前に負った銃創。
その傷は一度リンを殺しかけた。シャチが拾って治療を受けさせなければ、間違いなくこの傷で死んでいた。
リンが望めば、傷を目立たなくする事も消す事もできる。その程度の事ならばシャチには問題にすらならない出費である。
だがリンはこの傷を消したいとは思わない。目を引くのは嫌なので家族の前以外では隠すが、無くしてしまおうとは思わない。
その傷跡は、かつてどん底にあった頃の自分の印。そして、心壊の鯱が見せた気紛れな善意と、条件付きの親切、養父との
繋がりの証でもあるから。
船内操縦席では風と波を嗅ぎ辛い。そんな事を言って船上の操舵席についているリンは、船を出す直前にルディオに言って
いた。「ちょっと荒っぽくなるから、酔ったらごめんね?」と…。
(「ちょっと」…)
言葉の意味を登録し直すルディオ。痛感した。この少女は間違いなく本当に「シャチの娘」だと。
テシーやカムタの操船を経験して、ルディオも理解はしていた。操舵手によって同じ船でも動きはかなり違うのだと。
カムタの操船ではキビキビ動く。魚群を驚かせないよう静かに待機し、しかしポジショニングは素早く行なう、まさに漁師
のソレ。
テシーの操船は優雅で、乗員は波揺れと加減速以外の負荷を殆ど感じない、ゲストを楽しませるための操船。
しかしリンのこれは、獲物を追い、あるいは危機から逃れる、野生動物のような操船。さらに、可能な限り抵抗による減速
を受けないよう波への進入角度を計算し、刻々変わる風向を読み、最短最速で突き進むその操船技術は、テシーやカムタの腕
を凌駕している。激しい縦揺れや落着の振動に耐え、怯みもせず操舵する度胸と耐久力、そして腕前は、一朝一夕で身につく
物ではない。
カムタが持っているラークのボタンはそのまま所持できているらしく、リンの手元のモニターに表示されるレーダーには、
おおまかな距離も表示されていた。迷う事無く最短距離で突き進むクルーザーは、やがて…。
「…見えた」
舳先のルディオが水平線に船影を見る。作業設備つきの大型船は、ゼファーが証言した「ボートが向かう先に見えた船」と
特徴が一致した。
「居た!?それじゃあ…」
目視で周辺海域を確認し、手元のレーダーをチェックしたリンは、目撃者が居ないと判断し…。
「飛ばすよ!がっちり捕まっててね!」
追加ベルトで体を固定しつつ、舵輪の中心にあるパネルに、掌をバンッと押し当てた。
生体認証が通り、船尾のスクリュー両脇が左右へ展開。そこから突き出したのは、旅客機のエンジンにも似た形状の噴射ノ
ズル。海水を吸入、変換、圧縮して船底に貯蔵し、それを噴射する事で推進力を得るこの装置の名は、ヒポカンポスロケット
スラスター。当然、ルディオのガットフックナイフ同様オーバーテクノロジーの産物である。
波を越える勢いを利用し、後部から凄まじい量の霧を吹き出しながらデュカリオンが飛翔する。トビウオのように、水切り
した石のように、海面を跳ねて突き進む。
手すりを掴むセントバーナードの巨体が、加速と上下動で風に揺られる木の葉のように激しく上下した。
今まで本当に「ちょっと」しか飛ばしていなかったらしい。というよりも、今度は文字通り飛んだ。知識を参照した上で、
ルディオは頷く。やっぱりこれは普通じゃないなぁ、と。
後ろに引っ張られるように髪をなびかせながら、リンは鋭く細めた目で対象の船を睨む。
(もう向こうからも見える。ここからはスピード勝負!)
とはいえ、今更あちらが加速したところでもう逃げられない。獲物を追う鯱のように、デュカリオンは作業船に迫る。
「あっちも気付いた」
その視力で前方の船上に動く人影を視認したルディオが報告すると、
「ラーク!お願い!」
リンの声と共に、ルディオの傍で甲板中央がガゴンとせり上がった。長方形に切り取ったように浮いた床板の下から出現し
たのは、2メートル程の長さを持つゴツい銃身。よくよく見れば、衝撃吸収構造に固定されているそれはボルトアクション式
のライフルなのだが、ひとが扱う事を想定したとはとても思えない長大さである。
それもそのはず。これはエインフェリア、しかも特定のタイプの能力者が携行使用する事を想定して作られた武装。しかも
身体強度によっては発射の反動でエインフェリアでも体が損傷してしまうという、射撃手を選ぶゲテモノである。
「連中のケツ、思いっきり蹴飛ばしてやって!」
「アイアイサー、キャプテン」
リンの声に応じたのは、甲板の下からライフルと共に上がってきた砲手席に着座し、トリガーガードに指をかけているイグ
アナ。砲手席には砲撃手を守るシールドと、狙撃用のスコープと連動するモニターが可動アームで備え付けてあるが、ラーク
に限ってはスコープを押し退け、シールドの覗き穴越しに自分の目で狙いを定めるのが常。
ガギンと硬質な音を立ててライフルのボルトを前後させ、弾丸を咥え込ませると同時に、いつも閉じられているようなラー
クの瞼が開き、青い光を全体に湛えた眼球が露出した。
(義眼?)
ルディオは気付く。半ば構造に固定されているライフルに取り付き狙いを定めるラークの右眼は、内側から発光している上
に、瞳孔がトランプのダイヤのような形状…つまり菱形だった。
刹那、義眼の表面を短い走査線が数条、ノイズのように走り、イグアナが指を引き金にかける。トリガーを絞る指の動きに
も、狙いを定める間にも、かける時間はほぼゼロだった。
ガウンッ、と砲身が鳴く。
ジェット推進中の船上、向かい風と縦揺れ、この状況で放たれた弾丸は、遥か彼方の船の後部へ難なく到達し…。
「あ」
ルディオが声を漏らす。船尾でひとが取り付いた、おそらく機関砲と思われる固定砲が、支えの脚から転落して、狙いをつ
けようとしていた男を下敷きにした。
ラークが狙撃に使用したのは、このライフルで使用を推奨されている本来の弾ではなく、強力ではあっても普通の火薬が詰
まった一般流通しているメタルジャケット。それでも芯を射抜く精密な射撃であれば、支柱も一撃で破壊可能。
続けてボルトを前後させたラークは、装填するなりすぐさま狙撃。恐ろしく正確な射撃が、残り三機の機関砲を立て続けに、
それぞれ一発で破壊する。
負傷したゼファーに代わり、代役でリンの護衛を任されたラークは、同時にこの状況でのミッションに有効な人物でもある。
作業船の船尾固定武装を五秒とかけずに全て破壊してのけたイグアナは…。
「今ので「眼」は何秒使った!?」
「4.3秒ってところ」
「じゃあ砲撃やめ、一時休憩!」
「アイアイ、キャプテン」
リンの指示に従ってライフルのボルト操作を辞め、頭痛を堪えるように右手で顔の半面を覆った。
「ごめんねぇルディオさん」
生身の左目を薄く開けて、ラークは作業船の後部を見つめる。
「アレは、ちょっと無理そうだよぉ」
セントバーナードは「ん」と顎を引く。船の後部に、巨大な獣の姿があった。
ゼファーもそうだが、ラークも理解している。「多少弄られた」程度の自分達とは、アレは存在その物の危険性も強度もま
るで違うのだという事を。
六本脚の、目も鼻も無い獅子。その「視線」をルディオは感じ取る。
(ウールブヘジン、危ないのはアイツ…だなぁ?)
体温の上昇を感じる。緊張を強いられる。アレは危険なモノだと、ウールブヘジンの警告抜きでも判る。
「リン。船尾にひとが集まってくるよぉ」
「オッケー!」
海上を高速疾走するクルーザーは、作業船に迫りつつその側面を狙う。事前の申し合わせ通り、飛び移る準備をするルディ
オは、船の上を移動して迎え撃ちに来る獅子をじっと見つめる。
狙いも定め難い揺れる船の上、追い抜くように並走状態に入ったデュカリオン・ワンから、セントバーナードが跳躍した。
その後方から、銃弾が連射されて着地点に入ろうとする船員達を牽制する。座席下の収納ボックスから引き抜き、ラークが
構えているのはアサルトライフル…SIG、SG550。スコープをオミットしてあるが、彼が用いればフルオート射撃でもなおス
ペック上の集弾率を越えた性能を発揮する。
「8秒…。あと2秒分は行けるねぇ…」
牽制射撃で唯一怯まなかった獅子がルディオの着地点へ割り込むが、これを見据えるルディオの瞳が、トルマリンから琥珀
色へ変色する。
「アコルディオン…」
胸の前で手を向き合わせ、集中、開放。即座に獅子の四方に局在衝撃が敷設され、間髪入れずに爆散する。
サイドデッキに轟音が響き渡り、船体も床もいびつに歪むその中で、しかし獅子は、多少体勢を崩しただけで、吹き飛びは
しなかった。その金色の被毛には、無数の薄赤い波紋が見える。
(衝撃波が…、いや、たぶん、能力の元になってる思念波っていうヤツが…)
ルディオは直感した。獅子の毛皮に阻まれて、自分の能力はその効果を減衰させられていると。
着地体勢に入ったルディオに、獅子が飛び掛る。迎え撃つために腕を引き、拳を固めたセントバーナードは、金色の怪物と
空中で交錯し…。
(あ)
大気を裂いて弧を描く黒爪を、衝撃波のフィールドを纏う腕で受けようとしたルディオは、勘で危険を察知する。
能力が効かない毛皮を持つ獅子。…では、爪はどうなのだ?
ガードするのではなく、左前脚を両手で掴み止めに行ったルディオは、その勘が当たっていた事を悟る。ひとで言う手首の
位置で掴んで何とか止めたその先で、胸元に接する寸前まで迫った黒い爪が、チリチリと、体表を覆う衝撃波の障壁に触れて
黒い火花を散らしている。
被毛は能力による攻撃を散らし、爪は能力を…おそらくは切り裂く。
理解したルディオが、前脚を捕えた格好のままスイングに運ばれ、弧を描いて船の壁に叩き付けられる。頭から通信用ヘッ
ドセットが外れ、砕けて割れ飛んだ。
さらに、左のもう一本の前脚が、壁面に叩き付けた状態で固定したルディオの太鼓腹に突き込まれた。
「…げぶっ…」
一瞬視界が暗くなり、景色が揺れた。ガードもできずに叩き込まれた二本目の左前脚は、ルディオの腹を圧し潰すように叩
き付けられた上で、鉤爪が鳩尾と胸に食い込んでいる。
咳き込みそうになって開いた口からは、込み上げて来た血が溢れる。叩き付けられた衝撃で金属の壁面が人型にへこんでい
た。ウールブヘジンがすぐさま臓器から修復を開始するが…。
(本当に、ウールブヘジンと同じなんだなぁ…)
ONCの生物兵器や、エルダーバスティオンの術士とは格が違う。それもそのはずで、ギュミルとその配下の二人組によっ
て大打撃を受けたエルダーバスティオンが、正体不明の驚異に対処するために送って寄こした、確実な戦力がこの獅子。もし
も遭遇したならば、ウォッシュとホニッシュのエインフェリア二人組でも勝ち目がない戦力である。
(ゴメンなぁウールブヘジン…)
捕えていた左前脚を捩じるように捻り、関節を攻めて押しやったルディオは、間髪入れず腹に叩き付けられたまま抑え込ん
でいるもう一本を膝で蹴り上げる、即座に、壁に埋まった体を外すようにルディオが動いた瞬間、獅子の右前脚が二本、頭部
と胸部があった位置を叩いて壁に大穴を穿つ。
(なるべく怪我しないようにするから、キツいと思うけど、頑張ろうなぁ)
ルディオは感じていた。何せ「肌で感じる」と表現するのも他人行儀になる、体内に同居している同志の事、ウールブヘジ
ンの不調については、ヤンやシャチから指摘される以上に実感できている。
致命的だったのは、ギュミルとの戦闘で肉体が大損壊した事だろう。損傷そのものはシャチとの戦いも酷かったが、あちら
は失った部位も返して貰えたし、手当もすぐに受けられた。だがあの時は、体の大部分が炭化して失われ、修復のために必要
になるエネルギーが莫大だった。
ウールブヘジンには、かつてあったような、死体に等しい損傷状況から生存可能な状態にまで肉体を修復するだけの力がも
う残っていない。致命傷を負ったが最後、自分達は今度こそ本当に死ぬ。
ルディオは自覚する。カムタの無事も、ウールブヘジンの無事も、自分にかかっているのだと。
濡れて滑る甲板を踏み締め、向き直って咆哮する獅子と正対する。
(アコルディオンが効かなくても…)
手は、まだある。
自分にはまだ、意図せずに、無意識に、使い続けていた物があるらしい。
シャチから聞いた話を思い出し、ルディオは深呼吸する。思い浮かべるのは、自分の中を通い巡る流れと、循環させる構造
のイメージ。
その、ほんの少し前。
「反応を示したのは人間の子供だけです」
船室の一つに押し込められたカムタ達に、ふたりの男が銃をつきつけている。
普通の部屋ではない。床も壁も天上も鉄材剥き出しで、部屋の四隅には大きな排水溝が口をあけている。
そこはまるで、解体処理室のようだった。
カムタは子供達を自分の後ろに庇い、壁際に寄せている。
三人目の男は肩から吊るしたマシンガンを片手で保持したまま、携帯端末を子供達に向けて画像を送信しつつ、ヘッドセッ
トのマイクで何者かへ報告していた。
『何だろう?獣人じゃないなら古種ってわけでもないだろうし…、ああ、めんどいなぁ。後回しでいいか…。本人に話を聞く
のも面倒だけど…』
カムタ達には聞こえていないが、報告を受けている者は億劫そうな声だった。
『じゃあ、めんどくさいから要らないのは殺しちゃって』
「は」
通信を切った男は、部下なのだろう、銃を構えている片方に小声で告げる。
「人間の子供だけでいいそうだ。他は殺せと」
「了解」
短く交わされた言葉で、子供達が震え上がる。その前に立つカムタは、奥歯をギリリと噛み締めていた。
男がふたり部屋を出る。残った男がカムタの後ろの幼子達を覗き込むように視線を投げかける。
「悪いな」
特に何も感じていないような、平坦な声。
カムタは考える。こうして庇っておけば、殺すために近付いて来る。チャンスはそこにしかない。銃を奪えるかどうかとい
う点は考えない。奪わなければどうしようもないのだから、必ず奪う。
「じゃあな」
カムタを迂回するように側面へ回ろうとしながら、近付いた男が銃口をパルパルに向けたその瞬間、少年が走った。ドアに
向かって。
「この!」
逃げられると思ったか?腹立たしさと短慮への嘲りが混ざった声は、しかしそこから続かなかった。
急停止したカムタの脚が床を踏み締める。向き直ろうとした男が虚を突かれる。
カムタの制動の姿勢はそのまま、半身に構えて腰を落とした、空手のそれにも幾分似る格好。踏み締めた足の裏を意識し、
素早く捻りを加えて繰り出すのは、胸の中心を狙ったかち上げの掌底突き。
ベストの隙間に命中したカムタの掌は、体重をしっかり加えた一発。防弾だろうが防刃だろうが、圧迫打撃なら関係ない。
肋骨の内側に胸骨を陥没させる形で、男の肺を圧迫させて空気を全て吐き出させた。
「!?!?」
子供相手だと油断していた。田舎の島民だと舐めていた。だから不意打ちは綺麗に決まった。声も無く悶絶する男の腕を、
即座に抱え込む格好で取り押さえるカムタ。撃たれないように腕を拘束しつつ、なおももがく男の顎下に喉輪を食らわせて、
引っくり返すように仰向けに倒す。
ゴォンと、鐘を打ったような音が響き、喉輪落としの格好で固い床に頭部を痛打させられた男が昏倒する。
「…………………………」
動かなくなった男を見下ろし、乱れた息をしばらくかけて整えたカムタは、奪った機関銃を肩にかけた。
「おし、逃げるぞ…」
子供達を手招きし、後に続くよう指示してドアの向こうの気配に神経を尖らせたカムタは、
「………アンチャン?」
おもむろに首を巡らせ、きょとんと天上付近を見上げた。
直後、船体が激しく揺れる。ルディオの衝撃波で叩かれて。
警報が鳴り響き、部屋の中の回転灯が真っ赤に光った。
絶好のチャンスと見て、カムタは銃を確認する。前に見た映画では、主人公側の相棒が安全装置を外していなくて失敗した
ので、念のためにまずはセーフティーバーを確認した。子供達を射殺するつもりだったのだから、当然外されている。
(殺す気なんだよな…、当たり前に…)
黒い鉤爪が呻りを上げて宙を切り裂いた。
前脚の一振りがルディオの胸とベストに、水平に走る三本の爪痕を刻み、鮮血がパッと潮風に混じる。
だが、それはただの傷に過ぎない。被毛と皮膚と脂肪を裂いてこそいるが、筋肉にも骨にも届いていない。痛みにさえ目を
瞑れば、動作に支障は無い。
続けて走った二本目の前脚は、先の攻撃を最小限の動きで回避したおかげで、さらに余裕をもって対処できる。
銃弾にも迫る速度で縦横無尽に振るわれる上に、四本という数によって間断なく、しかも変則的なパターンで襲い掛かって
くる獅子の爪を、しかし瞳孔が拡大した琥珀色の瞳は精密に捉えていた。
(もっとだ。もっと…、「内側」に…)
通過した二本目の左前脚を追いかけるように、左の裏拳を打ち付ける。スイングを加速させられつつ体勢を僅かに崩す獅子。
セントバーナードの右腕は、拳を固めて大きく引かれている。
その、肩幅よりも開いて踏ん張った両脚…甲板を素足で踏み締めるその爪先が、じわりと、指の先端から黒ずみ始めている
事に、ルディオは気付いていない。
(意識する…。体の中の、伝達の流れを…。思い出す…。ハークの記憶の欠片…、あのひとが闘っていた時の、体の使い方…)
この数日、シャチと話したのは組織の事ばかりではない。ルディオが理論的には把握できていないこの体の事、使い方の事、
闘い方の事も、詳しく聞かされた。
シャチもそうだが、チップが機能していないルディオは、本来生物に働いているはずのリミッターが不完全になっている。
従来であれば、意識してこれを外す訓練を積む事でリミッターカットと呼ばれる身体能力強化状態に至る事ができるのだが、
シャチもルディオもそもそもリミッターのロックが壊れているため、特に意識しなくとも、全力を出すという意識の延長で出
力上限まで至る。本来は、軽々しくそんな真似をしていれば負荷で肉体が傷んでしまうのだが、ルディオの場合はウールブヘ
ジンが肉体の強度と治癒力を底上げしている上に、いざとなれば高速修復してくれていたため、負荷を帳消しにできていた。
そして、これからルディオが覚えるべきは、まず肉体の負荷が軽減できる力加減と、その「逆」だとシャチは言った。
「ある文化圏での説によるとだァ、特殊なチャクラってェのを回す事で、リミッターが外れるんだとよォ」
デュカリオン・ゼロを沖に出しての投げ釣りの最中に、ふたりきりの状態でシャチはルディオにそう説明した。また、チャ
クラに関しては娘の中のひとりが詳しく知っているので、興味があったら聞いてみろとも。
掻い摘んで言えば、従来七つと言われるチャクラは、獣人のみ八つ目を宿す事があるとされる。本来ならば尾に類する位置
に生じる八つ目…末端のチャクラ。尾が無い種でも尾てい骨の辺りに持つらしいが、これが生じている獣人にだけできる芸当
がリミッターカットと、もう一つ…「その先」だとシャチは言った。
「それで、このチャクラでの説明によるとだァ、こいつを含めて八つ全部のチャクラが一斉に回せた時に、獣人は「オーバー
ドライブ」するらしいぜェ」
それはどうやったら出来る?そんなルディオのざっくりした問いに、シャチは難しい顔になって答えた。
「オメェは入りかかってんだよなァそこに…。俺様が見たところ、リミッターカットのラインを時々越えてんだぜェ?」
(回す…。意識して…)
固めた拳を繰り出す動作とは別に、自分の体内を垂直に循環する流れをイメージする。四肢が車輪だとすればそれはシャフ
ト。運動方向が違うように見えても繋がっているもの。シャチから聞いた物をイメージし、捻る体に体重を、力を、駆動の元
から繋がる伝達の流れを乗せて…。
脇腹に拳が飛び込む。同時に、獅子の長い胴が、前半分転倒するように捻れて吹き飛ぶ。反撃に飛んで来た苦し紛れの爪も、
避けたルディオの肩口を浅く掠めるだけ。衝撃波はやはり体表に波紋が浮かぶだけで効果が無いものの、クリーンヒットで体
勢を大きく崩していた。
(これが…、「オーバードライブ」?)
腕が軽い。なのに、力の入りは重い。五感が鮮明になり、思い描いた通りに体が動く。だが…。
(たぶん違う。ハークは確か、もっと…)
おそらくこれはまだ、シャチのフロムオケアノスやハークの物まで行っていない段階。なのに、この「やっと少しアクセル
を踏めた」だけのような状態で、ルディオの動きは格段に素早さと力強さを増している。
一度は圧倒された獅子と拮抗し、さらには圧倒し返すまでに。
ルディオは知らないが、その獅子は「ネメアーの獅子」。今の人類が模倣生産した生物兵器ではなく、ドリュアス同様、神
話に謳われる古代存在の生き残り。
この個体は、頭部に修復不能な損傷を受けて休眠していた物をエルダーバスティオンが発見し、再利用した物。頭脳部の損
傷により知性を失って、不完全な修復を遂げた頭部も異形と化し、万全の状態よりも二割ほど性能が落ちているが、それでも
現行の生物兵器とは一線を画す破格の戦闘能力を有する。
特徴である黄金の被毛は、およそあらゆる能力の元である思念波を、表面で受け流し、拡散させ、正常な効果を発揮させな
い上に、瞬間的な衝撃に対しては波紋状の膜のように見える疑似界面を生成し、威力を分散させる。黒い鉤爪は思念波を散ら
す機能に加えて鋼鉄も掻き切る強度を持ち、秒単位での生え変わりを可能としている。水上を歩行する機能に見られるように、
疑似的界面を足場として重力を無視した歩行もでき、虚空に発生させた疑似的界面を利用する事での加減速…事実上の慣性コ
ントロールや空中歩行すら実現させている。その性能の一部だけを抜き出してみても、現行の技術で製造できる生物兵器とは
比較にならない。
それを、ルディオは圧倒し始めた。能力が通じないまま肉弾戦で。
実はシャチも、ルディオと出遭った時点で直感していた。「あ。コイツと肉弾戦で殴りあうの絶対ヤベェ」と。だからこそ
接近戦を避けた立ち回りに徹したのである。
ハーキュリー・バーナーズを素体にしたルディオの肉体は、ゴリ押しのパワー勝負に限ればシャチでも敵わないほどの出力。
その剛力をもって、ルディオは神話の獅子を素手で屠りにかかった。さながら、シャチに貰った姓にその名を関された、神話
の英雄の如く。
(殴っても、蹴っても、結構平気っぽいなぁ)
前脚での攻撃を叩き払って、反撃にアッパーカットで殴り飛ばしながら、ルディオは考える。
オーバードライブの駆動で体の調子は良いが、これがそう長く持続できない物だという事はシャチの説明で理解している。
彼の場合は駆動限界を迎えた後は長時間の副作用が出るそうだが、個人差があるので自分の場合どうなるのかは判らない。こ
のまま押し切れず、獅子に凌ぎ切られるのはまずかった。
そもそも、できるだけ早く突破しなければならない。長引けばそれだけリン達が危険に晒される時間が延び、カムタ達の周
辺に兵力が集まる可能性も高い。
(少しだけ、一瞬だけで良いから、隙があれば…)
アッパーカットで殴り飛ばされながらも宙でしなやかに身を捻り、着地するなり跳びかかろうと姿勢を整える獅子を前に、
ルディオが対処の選択を迫られたその瞬間…。
「ゴアォッ!?」
横っ面を張られたように首を捻じ曲げた獅子が、初めて苦鳴を上げた。一瞬遅れて響き渡るのは、鋼鉄を鉄槌で強打したよ
うな激突音。
「…トータル9秒」
デュカリオン・ワンの甲板上、再び備え付けロングライフルに取り付き、砲座ごと旋回させたラークは、高速で動き回る獅
子とルディオの戦闘にかろうじて介入できた。メタルジャケットは獅子の頬…異形と化して上下対称になった顎の付け根、頬
骨を正確に痛打している。瞬間的な衝撃に強い獅子は傷を負わなかったが、真横からストレートパンチで殴られたような物で
ある。
即座に両腕を広げ、姿勢を低くしたルディオは、レスリングの構えにも似た中腰で、飛び掛る途中で首を捻じ曲げさせられ
た獅子を向かえ打ち…。
「えぇとぉ…、リン?」
作業船を混乱させるため、前へ出ようと加速するデュカリオン・ワンの上で、甲板の砲座から離れながら、ラークは珍しく
困惑気味の声を発した。
「何!?」
風音と波音に負けないよう声を張り上げて聞き返したリンは…。
「ルディオさんがライオンと一緒に落ちたよぉ」
「何処にだよ!?」
答えが判っていながら、思わず叫んでいた。
(騒ぎで、皆上に上がってったみてぇだな…)
時折聞こえる銃声が遠い。船室を出て、注意深く通路を進みながら、カムタはここに来るまでの道順を思い出す。大きいし
初めて乗る船だが、ルートはしっかり記憶していた。
「大丈夫だ。大丈夫だからな…」
泣いている子供達を先導し、カムタは震える息を吐く。初めて持ったマシンガンは、思ったほど重くはなく、じわりと冷た
かった。
猫の子がカムタのシャツの裾を摘まんだ。振り返り、震えている子供達に笑って見せる。「大丈夫だよ」と。
銃を撃った事などない。子供達を守りながら戦うような力など、自分にはない。
だが、できる事はある。
ルディオが助けに来た事は判っている。自分達が人質に取られたら身動きできなくなる事も理解している。
息が熱い。体が熱い。嫌な汗が止まらない。階段を上がる脚が重い。誰とも出くわさないよう願いながら、足音が聞こえた
ら息を殺し、こちらに来ませんようにと祈り、結局出くわさずに済んでシバの女王に感謝する。
(ボートまで行けば…!)
この船に連れて来られた後、乗ってきたボートはクレーンで船上に懸架された。銃を突きつけられて船内に降りる途中、カ
ムタはクレーンの操作パネルの前に立つ男の姿も見て、把握している。
上手くボートを着水させ、逆方向に走らせれば、方向転換に時間がかかる作業船から素早く距離を取れるし、回収もして貰
い易くなる。
(この子達を安全にするなら、それが…)
自分では守れない。自分だけで手一杯。ルディオのようにはできないけれど、自分にできる事はちゃんとある。
(ぜってぇ、助けてやる…!)
水柱を盛大に上げて水没した獅子が、海中で激しくもがく。
その首は、筋肉で怒張したセントバーナードの腕で締め上げられている。
飛び掛った獅子を捕らえながら船から落ち、その落下の間に素早く背後を取ったルディオは、チョークスリーパーで首をギ
リギリと締める。
絡み合う両者は、ガゴンと激しく船腹にぶつかった。
海中に没してはいるが、船からは離れていない。ルディオは獅子と共に転落する際に、船の手すりからロープを取ってしっ
かり握っていた。
海中に連れ込んで首を絞めてはいるが、セントバーナードは相手の窒息など狙っていない。時間も無いので「雑」にゆく。
ミシミシと、獅子の首が鳴る。ルディオはシャチの言葉を参考に、力の起点を意識する。
(腕に…。全部…)
ルディオは気付かない。煮詰めるように、凝縮するように、上限を超えて力を集約するその最中、自分の両腕が、指先から
ジワリと、黒く変色してゆく事に。
階(きざはし)を越えた変化が、足に次いで再びその片鱗を覗かせた直後…。
ボギュッ…。
そんな音が海中に広がった。
もがいていた獅子の六本脚がだらりと脱力し、大きく開いていた顎は、伸ばした舌をそのままに半開きになる。
獅子の首の骨を圧迫して粉砕したルディオは、ただちに放し、掴んでいたロープを手繰り出す。
指先から手首に、爪先から足首に及んでいた黒い変色は、いつのまにか消えて元に戻っていた。
ザボッと海面から顔を出すなり、周囲で高く白波が上がり、真正面を向いていたルディオはガボボッと潮水を飲んで激しく
むせる。ロープ一本、生身で牽引されている状態、もはや海上引き回しに等しい状況なのだと一瞬遅れて理解し、顔を進行方
向と逆に向けながら、ロープを頼りに体を引っ張り上げる。
「あ。ルディオさん昇って来たよぉ」
「心配したよ!?」
ラークの報告でホッとするリン。水没したルディオの回収を考えて移動しかけていたデュカリオン・ワンは、作業船の前に
出て尻を振り始めた。
甲板の砲座から外した防盾を少女の後方に立て、ストックを折り畳んだSG550を二丁、両手で構えて反動を抑えながら乱れ
撃ちするという、馬鹿力と独り弾幕を披露するラークが見守る先、ロープを使って船腹をよじ登るルディオが顔を上げ、駆け
つけて上から覗き込んだ船員達が驚いて銃を向ける。が、これはイグアナがアサルトライフルの掃射で片付ける。おっとりの
んびりしている振る舞いとは裏腹に、ゼファー同様、ラークも必要であれば行動に躊躇いが無い。ただし…。
(トータル10.3秒…)
狙撃レベルの援護掃射を行なった直後、ラークの右眼と鼻腔からツツッと赤黒い血が垂れた。
「リン、ごめん。使い切っちゃったよぉ」
「仕方ないよ!ご苦労様!」
義眼の使用限界を迎えたラークからの報告で、神掛かった狙撃というカードを手札から除外し、リンはクルーザーの配置を
敵船前方左45度に移す。せめて前方甲板からルディオを阻止に出る船員だけでも、ラークの弾幕で牽制できるように。
リン自身は普通の人間である。何の能力も無く、脆弱な、ただの少女に過ぎない。
だが、シャチの長女はその肝っ玉こそが最大の武器。残酷な世界を見続けて、シャチの言葉を聞き、カナデの言葉を聞き、
きょうだい達それぞれの話を聞き、なおも前向きに舳先を見つめている。自分なりの、許容できる事と許せない事を、しっか
り決めて。
船の連中がどんな悪い事を企んでいても、目に見える害が無いならば見過ごす。だが、きょうだいとカムタを喪うのは許せ
ない。だから引き下がる気はない。
「ルディオさんはどう!?」
「船に上がった。包囲されてるけどぉ…、皆脅えてる。手を出せないみたいだ」
「オッケー!ま、パパが「あいつマジでヤベェなァ」っていうぐらいのひとだもん。武装してる程度のただのひと相手なら心
配ないで…」
「…リン!」
長女の言葉を遮って、イグアナが義眼と肉眼を大きくあける。
船の反対側、ブリッジタワーの向こうに見える位置で、懸架されていたボートがクレーンで移動させられている。
「脱出する気!?」
人員が減るならそれに越した事は無いがと、振り返って目を凝らしたリンは、ボートの上に見える人影を確認して目を見開
いた。
「大丈夫だ。すぐ助けて貰えるからな?」
子供達をボートに乗せたカムタは、身を低くしているように言い聞かせる。
「あ、うう、う…!」
首を振ってイヤイヤをする猫の子も、兎の子も、蜥蜴の子も、泣きじゃくってカムタの腕を取ろうとするが、少年はその手
をやんわりと押し遣り、力付けるように笑顔で頷いた。
「オラもすぐ行くからな!帰ったら、浜遊びの続きだ…!」
子供らの頭を撫でてやり、カムタはくるりと踵を返す。クレーンの操作はボート側からはできない。子供達を逃がすにはこ
れしかなかった。
(大丈夫だ…)
操作は判る。ボタンの表示を見比べて、クレーンアームをゆっくり動かす。
幸いにも、クレーンは隠密作業用に静音仕様で、頭上を気にする余裕がある者も居ない。襲撃者に掛かりきりで、カムタ達
の脱走は気取られていない。ブリッジなどでは計器類で流石に気付いているだろうが、邪魔が入る様子はなかった。
気は急くが、誤って子供達を振り落とさないよう、慎重にアームを船外へ伸ばし、下降させる。
(大丈夫、やれる…!)
「ボート着水。カプリ、パルパル、ロキシーは無事だよぉ」
「馬鹿でっかい借りができちゃったよ!ホントにもう…!」
ラークの報告を受け、リンはホッと息をついた。
「カムタ君は!?」
「クレーン操作のために残ったみたいだけどぉ…。身を低くして隠れたよぉ」
「正解かもね。ルディオさんに何とか伝えられないかな…」
救出さえできればもう用はない。子供達がボートで離れた今、ルディオとカムタを拾えばミッションは完了となる。
「ルディオさんはどう!?」
「牽制しながら前甲板側に回って来てるよぉ。もう少し近付けば、指差しで伝えられるかもぉ…」
「じゃあ援護してあげて!」
「アイアイサー、キャプテン」
ライフルを片方足元に置き、防盾に半身を隠して片膝をついたラークは、ストックを伸ばしつつレバーを操作して単発射撃
に切り替える。
念入りな掃射が長時間続いたので前甲板に出たがる船員は既に居ない。即座に一発ずつ、丁寧に射撃し、送り込まれる弾丸
はルディオの進路に当たる位置で手すりや壁に当たって甲高い音を立てた。
後方から弾丸が飛んで来てあちこちに当たっている状況で、そちらに背を向けて侵入者を排除しようなどと考えられる者は
居ない。船員達は逃げ場を求めたり身を潜めたり、前進するルディオを阻む事など忘れて右往左往する。
「ルディオさんの移動に合わせて右舷側に回りこむわ!減速してふたりを飛び移らせたら、反転してパルパル達をボートから
移してトンズラ!スピード勝負だし、減速から回頭、離れるまでは射線に晒される。ラークの威嚇射撃が頼りだからね!」
「アイサー」
船上を移動するルディオは、しかしリンの心配をよそに、状況の変化を感じ取っていた。
ラークの牽制があってもなお銃弾は飛んでくる。前面に展開する局在衝撃で軌道を曲げてそれらをやり過ごしながら、前方
の甲板へ出たセントバーナードは、迷う事なく右舷を目指した。
(カムタが…)
近い。
何故なのか、カムタの存在を知覚できた。だいたいの位置が判っていた。
クレーン操作パネルの傍、壁に背を預けて座りこんだカムタは、ぼーっと、海を見ていた。
ずっと見ていた海。ずっと見てきた海。
しかし、今は水平線が霞んで見える。
息が苦しい。寒い。冷たい。
カムタの腹にはナイフが一本深々と突き刺さって、ズボンも脚も真っ赤になっている。
子供達を殺させまいと男に突っかかり、銃を奪ったあの時、苦し紛れの反撃を受けて、腹を刺されていた。
外傷性ショックで血圧が急激に下がり、失血が酷い。鼓動に合わせるように傷が痛む。だが、痛みその物よりも、傷周辺の
熱っぽさと、刃の冷たい感触が耐え難かった。
抜いたらたぶんまずい。直感的にそう判断し、あえてナイフを取り除かなかったのでここまで保ったが、既に出血は致死量
に及んでいる。
寒さを感じているのに体が震えたりはしない。肌が冷えるというよりも、自分から熱が抜けて行っているような感覚だった。
急に父の事を思い出した。
自らを犠牲にしてヤンを救った父。立派な事をしたと頭で解ってはいても、どうして帰ってきてくれなかったのだと、責め
る気持ちが全く湧かなかった訳ではない。
だが今、父がヤンを救った時の気持ちがはっきり判った。
どうしようもなかったのだ。
救える命が目の前にあって、それを見過ごす事など、できるはずがなかったのだ。あの時の父にも、さっきの自分にも。
正しい事をしたと思うが、気がかりなのは子供達の事。帰ったら…などと嘘を言ってしまったけれど、自分が帰らなかった
ら子供達は悔やむだろう。苦しむだろう。ヤンのように、いつまでも苦しんだりはしないで欲しい。こっちが勝手に助けたの
だから。こっちが好きで救ったのだから。
命を生きた。
それだけは胸を張って言える。
だが、悔やんでいるかと問われれば、当たり前に悔やんでいる。
子供達を救った事ではなく、やりたかった事がまだまだ残っていたから悔いている。ヤンとテシーには、最後に言ったのは
「おやすみ」だった。ルディオとバルーンには、「行って来ます」だった。もっと違う事が言えていればなぁと思わないでも
ない。ちゃんと最後の挨拶ができればよかったのに、と。
ヤンがそろそろまた身長を計ってみようと言っていた。
テシーが新しい香辛料フレーバーオイルを開発したと言っていた。
シャチが出発する前に調味料と酒をたくさん譲ってくれると言っていた。
リンが他国の旅行ガイドと絵葉書を何冊かくれると言っていた。
ゼファーと約束したのにカナデが島に居た時の話をまだしていなかった。
ラークにはストロベリームースの作り方を教えて貰えるはずだった。
パルパル達にはビーチバレーで遊ぶ約束もした。
バルーンはしばらく留守番させっぱなしだ。
ハミルからの手紙に返事をまだ書いていない。
カナデはまた来ると約束してくれていた。
リスキーだってまたいつか会いに来ると。
ルディオとウールブヘジンは…。
(…アンチャン…)
浅く弱々しい呼吸を繰り返しながら、もう動けないカムタは待つ。
近くまで来ている。すぐに会える。最後の願いだけは、まだ何とかなる。
(アンチャン…)
会いたい。
(アン…チャン…)
一目でいい、最後に会いたい。
(ああ…、海が…遠いなぁ…)
遠い。波音が遠い。海が遠い。まだ遠い。
ルディオは来ない。
(アン…チャ…)
溜息のような、長い息が漏れる。
(………………)
眠い。寒い。暗い。もう日没なのかと、ぼんやり思う。
(………)
カムタの首が下がった。
待ちくたびれて、眠ってしまったように。