World saver

 夜空に突然出現する氷塊が、頭めがけて落下してくる異常事態。エルダーバスティオンの部隊は、轟音響き渡る島を逃げ出

し、我先に揚陸艇へ撤退する。

 しかし、「気付かない間に」相当数の兵員が間引かれていたため、混み合ったりはしない。快適かどうかは別として、各船

の収容スペースはだいぶ余裕があった。

「え?何?大損害?何で?」

 海上で待機している200メートル級戦闘艇のブリッジで、士官服で身を固めたケンディルは、突然上がって来た被害報告

に困惑した。

「損害報告殆ど無かったじゃない?え?さっきまで通信できてた部隊も落ちてるの?」

 ホープの仕込んだ偽装信号とヴァージニアの音声報告偽装によって、エルダーバスティオン側は正確に把握できていなかっ

たが、シャチが爆撃を開始する前に兵員の三割近くが片付けられてしまっていた。

 ケンディルは考える。作戦失敗…は別にいいや、と。ここからの問題は成果が得られなかった事よりも、「成果を得られな

かった理由」の方。

(大損害なら、撤退も仕方ない訳で…)

 上陸戦力が全滅する程の大損害。指揮の是非以前に戦力差が圧倒的だった。…という事にしておいたほうが責任や能力不足

を問われ難い。

 そしてケンディルは戦闘艇に撤収を命じ、逃げ帰って来る揚陸艇については、沖に出た所で自爆するようセットした。

 だが、この時点で撤退の判断が手遅れだった事には、ケンディルも気付いていない。



 岬の端を掠めるように、クルーザーが暗礁を避けて疾走する。

 自動航行で障害物を避けながら進むデュカリオン・ゼロの上で、ルディオは頭上を見上げた。

 切り立った崖。聳え立つ尖塔の如きそのシルエットから、人影が跳躍する。

 降下してきた巨漢は、通過するタイミングでドズンと甲板に着地すると、

「よォ。調子はどうだァ?グフフ!」

 片手を上げ、軽い調子でルディオに声をかけた。

「飯も食べた。万全だぁ」

 海に放り出されて漂着するまで三日。飲まず食わずだった体は、やっとの栄養補給で調子を取り戻している。

「ならオーケーだァ。一応足止めはさせるがァ、飛ばすからしっかり捕まってろォ。あと水没してから今日までの事を話せェ」

 操縦席に移動したシャチは、自動航行を切って手動に切り替えつつ、通信機を取った。

「あ~デュカリオン・ワンへ、デュカリオン・ワンへ。こちらデュカリオン・ゼロだァ。足止め準備はいいなァ?預けた弾ァ

全部ブチこんでやれェ。グフフフフ!」

 かくして、シャチの戦闘艇は獲物を追う。通信から割り出した物理的な位置は、遠ざかる方向に移動しているが…。

 

 エルダーバスティオンの戦闘艇をギリギリ水平線に望む距離で、一隻のクルーザーが航行していた。

 デュカリオン・ワン。リン達のホームシップだが、しかし今は本来のクルーが誰も乗っていない。

 自動航行で進路維持するクルーザー上。甲板中央が開放され、そこにある砲手席からはロングライフルが取り外されている。

 甲板に人影は一つ。

 ゴムベルトを甲板上のフックに固定して腰に繋ぎ、スコープを取り付けたライフルを片膝立ちの姿勢で手すりの上から構え、

トリガーガードから外していた指を引き金にかける。

 呼吸は、しばらく前から止まっていた。波を乗り越えるクルーザーの揺れを感じながらタイミングを測り、波越えからの下

降に入った一瞬を逃さずトリガーを引く。

 鐘を打つような、あるいは大型の獣が吼えたような、轟音が海上を駆け抜けた。

 約4キロに及ぶ距離を一瞬で駆け抜けた弾丸は、戦闘艇のブリッジ上部、レーダーアンテナの根元を、基部ごとゴッソリ吹

き飛ばす。

「砲撃です!」

「何処からだ!?」

 ミサイルでも何でもない、ただひたすらに「速い弾」であった事など判るはずも無く、混乱する戦闘艇。

 腰に繋いだ固定用ベルトが伸びてクルーザーの甲板の端から端まで滑り、反対側の手すりに激突した男は、打ち付けた腰を

押さえて痛みに呻いた後、ライフルのボルトを掴む。

 砲撃の正体は、エナジーコート能力者が高密度純エネルギーの塊を火薬の代わりに封入した特製弾丸。このロングライフル

で使用すべき本来の弾丸をもって、狙撃手は戦闘艇の耳を奪った。

(全て使って良いとのお話でしたから…)

 彼自身はこの弾丸を用意できないので、与えられた分しか撃てない。援護射撃はあと7回のみ。ガギンッと音を立ててボル

トを前後させ、再び射撃位置まで前進した男は、弾丸を咥え込ませたロングライフルを、ひたりと戦闘艇に向ける。

 雲の切れ間から、柔らかに月光が注いだ。

 潮風に踊る被毛が光を浴びて、輪郭が浮き上がる。

 顔の上半分を覆うのは、VRヘッドセットにも似た、スコープと連動する精密狙撃サポート用デバイス。

 黒いパンツに純白のシャツ。袖の無いタイトな黒ベストを身につけ、ホワイトタイと白手袋を着用した影は、目元こそ確認

できないものの、歳若い印象のコリーだった。

(それにしても全8発とは…。シャチ様があえて用意した数…?ラッキーナンバーのおつもりですよね、きっと…)

 狙撃用ヘッドセットを装着したコリーは、命令どおり戦闘艇の航行能力を奪いにかかる。

(ああ!気付かなければ良かった!外せなくなってしまった!)

 

 一方的、と言って良い砲撃だった。そもそも、ジャマーで反応を消したデュカリオン・ワンはレーダー機器が万全であって

も捕捉できない。砲撃の着弾から方角を割り出すも、主砲は一発撃つ間も与えられずに基部を抉られ、捲れ返った鉄材の上で

斜めに傾いたまま動かせなくなった。船腹には四箇所も孔があけられ、うち喫水線の下を穿った二つからは浸水している。

「その有様じゃ金魚からも逃げられねェなァ?帰ったらご褒美やるぜェアンフィニアス、グフフフフ!」

 夜の海を一文字に裂いて走るクルーザーは、慌てふためく戦闘艇に迫る。

「グフフ!すり抜け様に飛びつくぜェ!遅れんじゃねェぞォ!?」

「了解だぁ」

 自動航行に切り替えたデュカリオン・ゼロから、二つの影が跳躍した。

 先に跳んだのはシャチ。気付いて顔を向けた兵士の顔面を厚底ブーツで踏み、そのまま蹴り倒して踏み砕きながら着地する

と、死体の胸襟を掴んで手近な兵士に投げつけ、まとめて薙ぎ倒す。

「大サービスだァ!グフフフフ、遠慮なく食らいなァ!」

 降り上げた手の先には、海水が巻き上がって集結した水球。直径10メートル超のそれを質量兵器として落とし、重量で兵

士達ごと甲板を押し潰し、洪水のように四方へ流す。

 その背後に、胸の前で向き合わせていた手を離しつつ着地したルディオは、脇に挟んで保持していた新たな得物…手槍を手

元で回転させる。旋回する手槍の前方で、あわをくって発砲された弾丸が弾き散らされた。

 ルディオが特に注力しなくとも、局在衝撃は手槍全体を覆っている。本来ならば、体に密着している衣類などならともかく、

長物の隅にまで能力を付与する事は難度が高い。そのような芸当にはその手の才能か相応の修練が必要なのだが、ルディオの

ためだけに調整されたポールは、ルディオ自身の思念波だけは容易に伝播するよう特別に誂えてあった。シャチがルディオか

ら採取したサンプル…血液を混ぜて鍛造されているのがこの特色の種である。

 直後、回転から一変して、半歩踏み込んでの突きに転じた穂先が、近距離で向けられていた銃を先端から上部にかけて、ス

カンッと、魚でもさばくように断ち割った。

「ひっ!?」

 驚いた兵の視線が手元に落ちる。踏み込んで突いたルディオが素早く身を引いた次の瞬間、一突きと共に伝播させられた局

在衝撃が弾倉の中の火薬を一斉に起爆させた。弾け飛ぶ銃の残骸と撒き散らされる硝煙。一瞬の花火で、闇に軌跡を残す手槍

の穂先が白銀に朱を映して煌めく。

 ルディオは槍術の修練など受けた事はない。チップ内の基本戦闘データは徒手空拳が優先されており、槍に関する技能デー

タは無い。だが、銛の扱いであれば話は別である。

 ルディオは島で生きる内に、釣り竿から投網、仕掛け縄まで、一通り漁具の使い方を覚えた。何せカムタはシーカヤックし

か船を持たない小漁師なので、自力で獲れる物が食卓に並ぶ物に直結する。ふたりで獲物を得て暮らす生活の中で、ルディオ

が腕前でカムタに勝る唯一の漁は、肺活量と泳力を活かした素潜りでの銛漁だった。カムタに基本を教えて貰った銛打ちを、

ルディオが外した事は一度も無い。

「いいなぁ、コレ」

 思わず呟いたルディオはポールの肌触りに感嘆していた。まるで体の一部であるかのように思念波が馴染む上に、返しがつ

いたガットフックナイフと合体していると、巨大な銛とも取れる使い勝手。不慣れな武器にも関わらず、不便さを感じない。

強いて言うなら重量はかなり嵩んでいるのだが、ルディオの筋力と体重には丁度いい程度の重さだった。

「あとで伝えとくぜェ。喜ぶだろうよォ、グフフフフ!」

「作ってくれたひと誰なんだぁ?」

 ルディオの問いに、シャチは一瞬考えた。思えば、セントバーナードは黄昏に来ないのだから、もう私的な手札を隠す必要

も無くなっていたな、と。

「…アンフィニアス。デュカリオン・スリーに残してるヤツの話は覚えてるなァ?船の留守番して、食材用意して、さっきま

で狙撃してたヤツだァ」

「何でもできるんだなぁ」

「何でもさせるからなァ」

 シャチが両腕に無数の棘を生やした氷の手甲を装着し、ルディオは逆方向を向いて手槍を構える。

 お互いに背中を預け合う格好で立つ二頭。

 奇妙で奇跡的な縁が結び付けた共闘関係。

 不幸なのは、一騎当千という言葉を文字通りの物とするこのふたりを、同時に船上に迎え入れて相手取らなくてはならない、

エルダーバスティオンの兵士達だった。

「腕に覚えがあるようだな、襲撃者!」

 大声が響き、兵の隊列を割ってシャチの行く手へ現れたのは、コンバットスーツの上にハーネスアーマーを身につけた、ゴ

ツいフレンチブルドッグ。

「だがたった二匹とは!過信が過ぎたな!この船には近衛たる精鋭…」

 口上が終わらない内に、おもむろにシャチが右腕を上げた。そこから、ロケットパンチの如くトゲトゲ手甲が発射される。

慌てて腰から手斧を抜いたブルドッグは、危ういところで氷塊の拳を弾いたが…、

「く!不意打ちとは卑…」

 非難の声も終わらぬ内に、巨漢の鯱は肉薄している。

 ブルドッグの得物は二丁の手斧。両腰のソレを抜き、迫る左拳めがけて揃えて叩き込むが、今度は刃の方が弾かれ、両腕が

上がって無防備になった。

「貴様…!名を名乗…」

 結局、ブルドッグの呼びかけにシャチが応じたのは、

「グフフ!正々堂々の果し合いがしたけりゃ他所でやれェ。俺様は戦いに来たんじゃねェ。殺しにきたんだぜェ?」

 指を四本揃えた右の抜き手で喉を貫き、黙らせた後の事だった。

 

「指揮官殿は!?」

 警告灯が回転して赤い光が巡るブリッジは、混乱の極みにあった。

 誰も答えられない。眼下の甲板で行なわれる虐殺に震え上がっているだけでなく、空席となった指揮官席に今になって気付

く有様。誰も、指揮官から行く先を聞いていなかった。

 

 護衛として乗船させた手錬達が抵抗らしい抵抗もできずに屠られてゆき、もう船が長く保たないと判断したケンディルは、

座すべき場所を放棄して船室に戻っていた。

「これと…、これ…、あとは…!」

 脱出に際して持ち出すべき品を選ぶ男は、次々とトランクに荷物を入れてゆく。通信機器や端末、それから自分の身元を示

すものは残して行けない。

「何でこんな事に…。楽して、ぼーっとして、静かに平穏にやって行きたいのに…!」

 持てるだけ持ち、残りは船ごと沈めるのがベストだと考えた。が、本当の正解は、何も持たずにこっそり、速やかに、身一

つで逃げる事だった。

「命のやりとりとか、あんな危ない事が目の前に来るとか、冗談じゃない…!そんなのは兵隊の仕事だ…!私は安全なところ

で穏やかに平和にのんびり…」

「おゥおゥ。なかなか立派な部屋じゃねェかァ」

 突然の声に、ケンディルの背中が震えた。

 振り返ったそこには、ドアを開けている鯱の顔と、その後ろから覗き込んでいるセントバーナードの顔…。

「ひっ!」

 悲鳴と共に拳銃が向けられる。が、銃口はシャチの体ではなく、その少し上を向いて震えていた。家柄のおかげで戦闘訓練

も免除されているケンディルは、近距離の相手に銃弾を命中させる事すらできない。

 とはいえ、震える銃口が自分に定まっていなくとも、シャチにとっては充分な敵対行動である。

 ケンディルの右手が下がった。下がって下がって床に落ちた。その上からバタバタッと、瓶から注がれるように鮮血が降る。

「っ!!!!!!!!!!!!!!!!」

 肘のすぐ先で切断された自分の腕と、空中で回転する丸鋸のような氷を見つめ、ケンディルは口を大きく開けた。声は出な

い。激痛のあまり息しか出ない。

「安全なところで穏やかに楽にぼーっとして静かに平穏に暮らしてェかァ。なるほどなるほどォ。ならこんな事態は歓迎でき

ねェ。さっさとケツまくりてェってモンだァ」

 腕を抱えて突っ伏したケンディルに歩み寄ると、

「指揮してた兵隊も放り出して、なァ…」

 シャチはその髪の毛を掴んで無理矢理顔を起こさせた。

「…ひぎ…、いひぃ…!ひ…!」

 ケンディルの整った顔は苦痛と恐怖に歪み、青褪め、どっと噴き出した脂汗で湿っている。

 それを間近から覗き込むシャチの顔は怒りと憎悪に染まり、凄絶に、そして楽しげに、嗤っていた。殺意と歓喜で、侮蔑を

込めた瞳が爛々と輝いていた。

「どうせ生きるなら必死になって生きろ。惰性で生きてんならこれ以上命を消費しねェ為にとっとと死ね。「生きる」重さも

「死ぬ」意味も判ってねェ命に、生にしがみつく権利なんぞねェ。そんな下らねェ命を乗っけて回り続けてるから、余裕を無

くした世界はこうまで歪んだんだよ」

 極端で苛烈で乱暴なシャチの言葉には、しかし真実の一端が確かにあるとルディオは感じた。

 自由人として島の生活を満喫する姿も、養子達と家族として生活する姿も芝居ではない。が、残虐で冷酷で非情で凶暴な部

分もまたシャチの本質。特に、仕事上での殺しではなく「個人的に殺したい」と感じた者への処遇については、徹底的を通り

越して過剰なまでに残酷な物となる。

「ひっ、か、金っ…!」

 ガクガクと顎を震わせながらケンディルが声を発した。

「…ひぃ…!金なら…!はっ…!金、なら…!いくらでも、金なら…!だから、た、助けて…!」

 その命乞いに、シャチは反応しなかった。死にたくない。生きていたい。助けて。その懇願を一切聞かなかった事にし、表

情は一切変わらなかった。だから、ケンディルの結末も変わらない。

 シャチの周囲で、出現した氷が円盤状に形を整える。四枚のそれはグラインダーの刃のような、表面がザラついた円盤。処

刑用具として作られたそれらが、浮遊しながらシュウゥ…と音を立てて回転を始めた。

「オメェを乗っけて回るような余裕は、この世界にはねェんだなァ。居場所がねェ事に同情はするが、当然容赦はしねェ」

 シャチの中では、「犠牲」と「惰性」が天秤にかけられている。

 歪んだ世界は蝕まれて出来上がる。その蝕む物の一つは「惰性」だと、シャチは考えている。

 世界は犠牲の上にしか成り立たない。だが、誰かを惰性で生かすために犠牲がある訳ではない。そんな命ばかりが生きる世

界になってしまったら、あらゆる犠牲が報われない。

 だから彼は、漫然と生を貪り惰性のまま生きる者に、決して理解を示しはしない。

 だから彼は、命の終わりまで力強く歩き抜こうとする者を、決して嗤いはしない。

 残酷である世界に対し、それでも「捨てた物ではない」と言い続けられる者こそが、残酷である世界で、なおも「命を生き

ようとする」者こそが、シャチと対話するテーブルに着く事を許される。

 そう、カナデやカムタ達のように。

「おい。こっちは押さえたから残り片付けて来い。そろそろ悲痛な救援要請だのなんだのも一通り発信した後だろうし、もう

ブリッジも潰していいぜェ」

 シャチは振り返ってルディオに告げ、「この部屋は俺様の領分だァ」と付け加えた。

「わかった」

 顎を引いたルディオは、船内通路を通ってブリッジに向かう。圧倒的戦力で無残に蹂躙されたという事実は、むしろ本部な

り予備戦力なりに訴えて貰った方が良いというのがシャチの意見だったので、あえて後回しにしていた。

 増援が来るなら好都合なので、もし来てくれるならシャチはそれも全滅させるつもりである。ただし主眼を置いているのは、

むしろ「戦後処理」の方。理想の形に持ち込むためにも、エルダーバスティオンにはできるだけ大きな悲鳴を上げて貰った方

が良い。

 ルディオが去ってドアが閉まると、シャチは目を戻してケンディルの顔を覗きこんだ。

 舌なめずりしたシャチの顔を、凶悪な笑みが彩っている。憎悪の発散と怒りの解消への歓喜に、双眸がギラついている。

 怒りを知らず、他者を憎悪する事ができないルディオの分まで、シャチは怒っていた。

 年少組三匹が浚われた。しかも不要とされて処分されかけた。発信機を渡す隙を作るために息子がひとり負傷したが、場合

によっては獅子に殺される事もあり得た。

 さらに、殺されそうになった子供達を救ったカムタは、一度「死んだ」。

 おそらくはヤンも、ルディオも、子供達も、カムタ自身すらも、事の重大さに気付いていない。あの琥珀色の中にあるカム

タの「死体」を見て、シャチだけが真実に気付いた。

 カムタは医学用語で言うところの「蘇生」を果たしたのではない。あの時、本当に死亡していた。

 ウールブヘジンの奇跡は「瀕死のカムタを生かした」という性質の物ではない。エインフェリアのような「死体の再起動」

でもない。あれは本物の「死者の復活」だった。

 死した瞬間から、その生命体からは構成要素が散逸してゆく。意識、記憶、知識、性質、そして魂。肉体が崩壊するよりも

早く、それらは失われてゆく。

 ウールブヘジンが作り出したあの琥珀の塊は、本来ならば散逸してゆくはずだった「カムタをカムタとして成立させる要素」

を、その内側に留めておくための物。だからこそ、琥珀の塊の性質を把握したシャチはあのように呼称した。琥珀の集積装置

(アンバー・ストレイジ)と。

 あの中に全ての要素が格納され、補修された肉体へ完全に戻されたからこそ、カムタはカムタのまま蘇った。

 だが、蘇ったカムタはもう厳密には「人間」ではない。取り返しの付かない変化を経て、今の世界には受け入れられない存

在となってしまった。平和な島で、生命の循環の中で、命を生きて、やがては老いて、いつか普通に死んでゆけるはずだった

少年が。

 人類史上最高最悪の天才、ミーミル・ヴェカティーニですら成し得なかった奇跡。数十年が経ち彼が残した研究が発展させ

られてもなお、エインフェリアという歪な兵器として活用するのが関の山。行き詰った死者復活の研究…。故に今のカムタは、

生に執着する者にとっても、戦力を欲する組織にとっても、前例の無い垂涎の「サンプル」となる。

 だからシャチは激怒している。気に入った少年を取り返しの付かない目に遭わせた者に。

 実行した者達が死んでも気が済まない。関係者全員皆殺しにせねば気が済まない。作戦行動に伴う責任はそれを命じた者に

帰するのだから、指揮官まで殺さねば気が済まない。

「オメェはここでなるべく惨めに死ねェ。俺様の気分を少しでも晴らすためになァ」

 かくして、ケンディル・ホプキンスはミンチになる。舌を噛んで自害できないよう、歯を全部抜かれた上で。

 部屋を満たすのは絶叫と、血抜きしないまま挽肉を作るが故に生じる、生臭さが酷い血の匂い。

 もしも、こんな事に何の意味がある?と、拷問するでもない責め苦は無意味だろう?と、この場を見た誰かに問われたとし

ても、シャチは、そんな事も判らないのか?と軽く顔を顰めながら答えるだろう。「俺様がスッキリするだろォ?」と。

 しばらくの間、手足の先から氷のグラインダーで丁寧に摺りおろし続け、肺と心臓を含めた胴体の上半分と首から上だけを

残し、ケンディルが喋れる状態で丹念な削り取りを一度止めたシャチは、出血が進まないように傷口を氷で塞いでやり、ビデ

オレターを撮ってやった。息も絶え絶えに殺してくれと懇願する男が、身を起こしているのも辛そうだったので、船室の壁面

に縫い留めてあげた上で、ニッコリ笑うよう笑顔で促しながら。

 死なせてくれと訴えるケンディルが他の事を殆ど喋らなかったので、親切なシャチは彼の人生最後のビデオレターが味気な

い物や無意味な物になっては不憫だと気を回し、内容を充実させるために協力した。

 そうしてビデオレターの内容は、殺して欲しいと泣きながら懇願するケンディルを映しながら、黄昏の構成員が諸島には来

ない方がいいかもよ、とアドバイスする、有意義な物に仕上がった。

「よォし!それじゃあ最後のひと頑張りだァ!俺様も頑張るからオメェも頑張れェ。おとこのこだろォ?簡単にショック死し

ねェで最後まで頑張れよォ?グフフフフフフ!」

 そして、解体が再開された。端から、端から、遠くから、遠くから、隅から、隅から、惜しむように少しずつ、ケンディル

は氷のヤスリで削り落とされてゆき…。

 結局、頭部の皮膚を全て削いだ辺りでケンディルが死んでいる事に気付いたシャチは、舌打ちをして血みどろの挽肉の上に

「残り」を放り出し、彼の携帯式通信端末と、最初に切断しておいた腕から指を一本失敬して部屋を出た。

 

「よう、待ったかァ!?」

 すこぶる機嫌が良いシャチが、スッキリした顔で片手を上げて甲板に上がって来た時には、既に仕事を終えたルディオは、

累々と倒れ伏す死体を前に佇んでいた。

 船は、異常なほど静かだった。

 甲板には無数の兵士が倒れ伏しているが、シャチに破壊された者以外は流血も見られない。

 無血の抹殺。外傷がない兵士達は、体を突き抜けた衝撃波で心停止か、脳血管破裂に追い込まれ、いずれも苦痛を感じずに

驚いているような表情のまま事切れている。怒りでもなく、憎悪でもなく、必要性をもってルディオは敵の命を奪い尽くした。

(道中聞いた、「ハークとやら」との戦闘訓練ってのはマジらしいなァ)

 ルディオの技術精度は以前とは別人のよう。ハーキュリー・バーナーズの卓越した抹殺技能をそっくり受け継いでいる。黄

昏に連れて行かないと決めたにも関わらず、シャチも個人的に欲しくなってしまうほどだった。

「アイツはどうしたんだぁ?」

「静かになったぜェ。グフフ」

「そうかぁ」

「そうだァ」

 ふたつの影が、戻って来たデュカリオン・ゼロに飛び移る。生きている船員がひとりも居なくなった船の周囲をグルリと一

周しつつ、船腹に時限式の爆薬を投げつけてセットしてから、シャチは距離を取った。

「さァて。一つ片付いたが…、本番はここからだぜェ」

「ん」

 疾走を開始したクルーザーの甲板で、ルディオは顎を引いた。

「もう、始まるんだなぁ…」

 遠ざかった船影が、轟音と共に火を上げて沈む。夜の海は燃えるように明るくなった。






「舌を出して」

「べ~…」

「「あー」と言ってみて」

「あ~…」

 ヤンの診療所。健康状態をチェックされているカムタは、医師の指示に従って検査を受けていた。

「瞳も琥珀色ではなくなったが…」

 改めて指で目を広げて覗き込んだヤンは、少年の瞳に横からライトを当てて確認する。

 危険な存在が感知されなくなったせいなのだろう、少年の瞳からは琥珀色が失せていた。だがその瞳は、完全に元通りには

なっていない。

(トルマリンの瞳…)

 ヤンは少年の目をじっと見つめる。カムタの瞳は平時のルディオと同じ、宝石のトルマリンを思わせる色に変じていた。

 ウールブヘジンが行なった修復は、おそらく自身が個としての消滅を迎えるレベルでの融合による奇跡だったのだろう。カ

ムタの身体はもう、純粋な人間の物とは言い難い変質を遂げており、体液にもルディオ同様の変化が確認された。

 詳しい検査をしなければ正確な事は言えないが、この事をどう告げようかとヤンが思案していると…。

「大丈夫だぞ、先生」

 カムタは硬い表情のヤンに笑いかけた。

「自分の体だ。変わった事は判ってるよ。で、ウールブヘジンがそうしてくれなかったら、オラは助からなかったんだ」

 晴れ晴れとした笑顔だった。自身に起こった事を少しも悔いていない顔だった。

 体の事で言えば、まっとうな「ひと」ではなくなったかもしれない。だがカムタは元々、ルディオの事も、肉体改造を受け

たリスキー達も、自分と同じ「ひと」だと思って来た。

 だから悲嘆は無い。体の変質はウールブヘジンが生きた証。自分に注がれたウールブヘジンの愛の証。この体で生きてゆく

事に、何の不満も無い。

「…そうか」

 ヤンは目を細める。何も判らなくて吐いた言葉ではない。カムタは理解してなおこう言っていると察した。

「とりあえずの診察結果だが、太鼓判を押して「健康」と言おう」

 ヤンがそう宣言した途端、バンッと診察室のドアが開き、「わー!?」と声を上げた子供達が雪崩のように倒れ込んできた。

 その頭上をブブブンと飛び越えたフレンドビーは、嬉しそうにカムタの頭の上をグルグル旋回飛行してから、蓬髪の上にス

トンと降りる。

「ただいま!バルーン!」

 翅をブブッと鳴らして返事をするバルーンの脇腹を撫でてやってから、カムタはシャチの子供達に目を向けた。

「健康!?」

「何とも無い!?」

「怪我は!?」

 諸共に転んで詰み上がったまま口々に問いかける子供達を、ふわりと跳び越える影があった。

 黒髪の少年はカムタの前に立つと、視線を下げ、傷があったはずの腹を確認する。跡も残さず綺麗な肌になってはいるが…。

「痛まないか?」

「うん!平気だ!」

 カムタの返答を貰ったゼファーは、そっと目を閉じて会釈する。

「感謝する。きょうだいを守ってくれて。そして謝罪する。助ける事ができなくて」

「何で謝んだよ?助けに来てくれたろ?」

 笑って応じるカムタは、起き上がる子供達を見回して苦笑いした。「良かった。これでオラも約束守れんな!」と。

「さて、部隊は引き上げたという事だが…」

 一同の気を引き締めるようにヤンが口を開く。

「ジョンとルディオさんが戻るまでは気を緩める訳に行かない。怪我がある子は並びなさい。草で擦った擦り傷でもだ。黙っ

ていたら承知しないぞ?」

 ドスンと椅子に尻を下ろし、その正面に患者用の椅子を据え直すヤン。無傷のヴァージニアが残念そうな顔をする中、嫌そ

うな顔をしながら切り傷や擦り傷を作ったコイーバとチェロキー、ラークが渋々ながら怪我した部位を確認しつつ袖をまくっ

たり裾を捲ったりする。

「処置を手伝います」

 きょうだいの手当てを手伝おうと、ゼファーが申し出た、その時だった。

 ブブブッと、バルーンが威嚇するように翅を鳴らして浮上する。

 黒髪の少年が腰の後ろのダガーを掴む。

 イグアナが太腿から拳銃を抜く。

 狐の娘が素早く構える。

 三者の視線はヤンの後方…診察室のドアに向いている。擦りガラスがはめ込まれた顔の高さの窓に、影が映っていた。

 丸みを帯びた、ひとの頭の影。

 ゼファーの行動は速かった。左手で逆手にナイフを握ったまま、腰掛けているヤンに半身になって左手を伸ばし、その胸元

でシャツの生地を指を噛ませる格好で巻き取り気味に掴んでいる。

 そのまま無理矢理引き倒すように寄せられてつんのめるヤン。その体に押されて手前に居たカムタも諸共に倒れ込む。同時

に、飛び込んだヴァージニアがゼファーの右後方かつヤンとカムタを守れる位置に入る。瞬間、きょうだい達が前線を固めた

上で射線が確保され、ウージーを構えたラークの義眼が対象を捕捉し…。

「だめだ」

 イグアナが硬い声を漏らす。肉眼で捉えているその影に義眼が反応していない。熱も、音も、動体反応すらもない。動いて

いるのに。

「ひとじゃ…いや、「生物じゃない」」

 緊張を孕んだ声でラークが断じた次の瞬間、ソレはドアを抜けてきた。ズブリと、柔らかい泥を潜って抜けるように。

 振り向いたヤンとカムタが見たのは、ドアをすり抜けて侵入してきた人影…のような何か。

 カムタは泥の色と受け止めた。茶色が黒ずんだ泥の色だと。その泥一色の何かは、服を着て、手足があって、顔もある。だ

が、シルエットはひとから離れていた。

 腕が長かった。前腕と上腕が引き延ばされたように、異様に長くなっていて、手を床に引き摺っていた。

 その顔を見た瞬間に、カムタは気付いた。

 痩せ細った眼鏡の男。枯れ枝のような細い手足。綺麗に切り揃えられたオカッパ頭。頬がこけた細面に、落ちくぼんだ目…。

 幻臭か、整髪料やコロンの濃い匂いが混沌と混ざり合ったあの異臭を、カムタは再び嗅いだ気がした。

 かつてカムタを誘拐したONCの男。リスキーの策で死んだはずの男。泥のような色のソレは、確かにショーン・ディアス

の顔をしている。ただしその顔は、断末魔の絶叫を上げているような表情で固まっていた。

 危険に気付いたヤンが我が身を盾にするように少年を抱えた。謎の存在への疑問よりも、状況が把握できない事よりも、目

の前の命を守る行動を反射的に優先した。

「何で…」

 覆い被さる格好のヤンに庇われながら、疑問がカムタの口を突いたその瞬間、ショーンのような異形の何かの胸に、風穴が

あいた。ヂュンッ…と、空気を全く振動させない、音にならない音を立てて。

 全員の目が、その信じ難い光景を見つめている。

 侵入してきた異形に次いで、一瞬前まで存在していなかった何者かが、そこに現れていた。

 矢面に立ったゼファーと、異形の間に立ちはだかったのは、逞しい褐色の背中。

 腰を落とし、石器の穂先を備えた手槍で異形の胸を貫いたのは、屈強な偉丈夫。

 腰蓑を身に着け、牙と貝殻と骨の首飾りと、イヌ科の物と思しき頭蓋骨のマスクを着用した男は、獣骨面の眼窩から鋭い目

で異形を睨んでいる。

 イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイィ…。

 ショーンの顔をした異形が、金切り声のような、音にならない悲鳴を上げる。槍の一突きを受けた穴から一瞬の内に連鎖的

に融解し、液状化してバチャリと床へ崩れる。

 完全に形を失って崩れたソレは、床に染みこむように消えて、何の痕跡も残さない。

 これは、島の何人にも気付かれないまま、ずっと昔から、幾度も、幾度も、気が遠くなるほど繰り返し行われてきた事。し

かし、かつてはそれほどの頻度で行なわれては来なかった事。

(「侵食」の規模が増している…)

 シバの女王の近衛たる戦士は、初めて島民の眼前まで脅威を接近させてしまった。

(この分では特異日を迎えたら手に負えなくなる…。女王様の御英断は、やはり正しい)

 何が起きているのか判らない一同を、偉丈夫はチラリと半面だけ振り返った。

(カムタ・パエニウ…)

 獣骨面越しの視線を受け、驚きと緊張の表情から一転し、カムタはキョトンとした。

 僅かに覗けるその目に、親しみの光が見えた気がして。

 屈強な男はグッと膝を縮めて跳躍の姿勢に入ると、映像の乱れにも似たノイズを一瞬だけ残し、部屋の中から消え去った。

 

 声が聞こえる。騒ぎになった診療所を、上空から跳躍の姿勢で眼下に見下ろし、獣骨面の戦士は微かに口角を上げた。

(カムタ・パエニウ。オラの名をつけられた子。この計画において最も重要な役割を、見事に果たし遂せた子…)

 彼は、自分に因んで同じ名を付けられた少年の事を、生まれた時から知っていた。

 しかしカムタは知らない。その偉丈夫が遥か昔に、シバの女王に謁見した若者である事を。その冒険を島の御伽噺に語り継

がれている若者だという事を。親がその伝承にあやかって名を貰った、自分の名前のルーツである事を。そして、遥か昔まで

血を遡れば、島の住民の多くが彼に行き着く事を。

 「カムタ」。

 島の伝承に語られる若者は、冒険の末に目的を果たし、島に帰って天寿を全うした後で、シバの女王に召し上げられた。そ

して、全盛期の肉体と守護の力を与えられ、愛した島をずっと、ずっと、「侵食」から守り続けて来た。

 だが、もうじき終わる。この終わりの見えない彼らの防衛戦も。

 崖下の海めがけ、そこに坂道があるかのように空中を駆け下りながら、獣骨面の戦士は手槍を繰り出す。

 海から出でて崖を這い上がろうとしていた泥のような色の異形が、叫びを上げているような顔を後頭部まで刺し貫かれ、即

座に溶け落ちた。

 「侵食」を阻む防衛戦はもうじき終わる。

 か細い因果を辿って結び、シバの女王が目指した決着が、異邦人達に託される時がやってくる。






「ん?」

 ルディオは天を仰いだ。

 頭の上に海がある。明るい、昼間の海面が見える。さっきまで見えていた夜空は、どこにも無かった。

「お」

 舵輪を握っていたはずのシャチも、ルディオと並んで頭上の海面を見上げている。

 頭上の異変に気付いたその直後、クルーザーの上に居たはずの二頭は、美しい石畳の上に立っていた。

 柱が立ち並ぶ海底の広間。謁見の間に召喚された二頭を、玉座の老婆が見つめている。

「おい。頭下げろォ」

 二度目のシャチは先に跪き、キョロキョロしているルディオを促す。

「ジョンさん。ここどこだぁ?船は?」

「グフフ!気にすんなァ、俺様もよく判ってねェ。たぶんただの空間跳躍と生身の肉体ごとのイマジナリーストラクチャー・

シバへの領域移動だァ。…ワールドセーバーおっかねェなァ…。とにかく跪いとけェ」

 シャチの説明に首を傾げるルディオだったが、

「よい」

 響いた女性のしゃがれ声で垂れ耳を震わせ、視線をそちらに向けた。

「顔を上げよ異邦人」

 肉声で語りかけられたシャチは、立ち上がりつつ周囲を窺った。獣骨面の戦士達が謁見の間にひとりも居ない。老婆だけが

玉座についている。

(いよいよ時間がねェ、か…)

 シャチは小声で、状況を把握できていないルディオに囁いた。

「あの方は「シバの女王」様だァ」

「え」

 ルディオの目が丸くなった。

「シバの」

 口がポカンと開く。

「女王」

 パチパチと瞬きする。

「あのぉ、シバの女王」

 やにわにポケットなどをまさぐり出して、セントバーナードは何かサインをして貰える物は無いかと探す。紙か何か持って

いなかっただろうか?と。

「カムタがアンタのファンで、いつも話してる。ファンってちょっと違うかなぁ?でもカムタは女王が好きだ。おれもたぶん

好き。御伽噺いくつも聞いた。シバの女王はサインとか貰えるひとかぁ?」

 疑う事もなくシャチの言葉を信じ、シバの女王に確認するルディオ。しかしサインを書いて貰うための紙等が無かったので、

垂れ耳の基部がショボンと下がっている。シバの女王のサインを貰って帰ればカムタが喜ぶだろうと考えたのだが…。

「おいィ…」

 流石に顔を顰めたシャチだったが、老婆の声は「よい」と繰り返す。僅かばかり楽しげな響きを伴って。

 黒いヴェール越しに、女王の目がルディオを窺った。

 大兵肥満の偉丈夫。腹は出ているが弛みは無く、張りがある重量感溢れた体躯。逞しく頼もしく重々しいセントバーナード。

 ファーつきのベストを羽織り、膝上までたくし上げて半ズボンのようになったカーゴパンツを穿き、手槍を携えたその軽装

は、女王の戦士達の格好にも通じる物がある。

 可能性の収束は、今日この時に為った。

「ルディオや。島はどうであった?貴様にとって、島は良き物であったか?」

 老婆の問いに、セントバーナードは数度瞬きする。

 優しげな呼びかけだった。親しみを感じる声だった。会うのも話すのもこれが初めてのはずなのに、ルディオはその「気配」

に覚えがあった。

 例えば、白い部屋の白昼夢を見る時。

 例えば、ハークの記憶を垣間見た時。

 この気配はずっとあった。まどろみにも似た穏やかで心地良い感覚は、単に意識の沈降と覚醒に伴う意識の揺らぎの産物で

はなかった。想い出に触れるよう導く干渉が、自分に働いていたのだと確信した。

「…ずっと…」

 ルディオは呆然とした面持ちでシバの女王を見つめる。

「シバの女王はずっと、おれの事を見守ってくれてたのかぁ?」

 返事は無かったが、その沈黙は確認に対する肯定だった。

 ルディオはしばらく黙った後で、コックリと頷いた。

「ん。島は好きだぁ。あの島で暮らせて、幸せだぁ」

「では、話そう」

 老婆はしゃがれ声で言う。老いているからでも、呼吸が苦しいからでもなく、心苦しくて辛そうな声だった。

「島は、この諸島は、このままでは数日の内に滅ぶ」

 突拍子もない唐突な言葉…、とはルディオは感じなかった。真実なのだと理解できた。

「島を守りたいと思うか?救いたいと願うか?」

 軽く眉根を寄せたルディオは、一拍置いてから頷いた。

「シバの女王。それが、ハークが言ってたおれの役目なんだなぁ?」

 喪服の老婆が顎を引く。「アレにも苦労をかけた」と黒いヴェールの下から声が漏れた。

「把握しておるならば構わぬ。話を続けよう」

 老婆の声が残響を伴って消えると、周囲の景色が一変した。

「かつて、この世界に放たれたモノがった」

 雷鳴轟く海上を見下ろす高みに、玉座とシャチとルディオは浮かんでいる。その眼下で、真っ黒な海の下から蛇のように長

い、黒くて巨大な物が鎌首をもたげる。

 ひとつではない。ふたつ、みっつ、よっつ…、次々と海面に現れる九本のソレの周辺で、海は黒く、毒々しい紫を濃くした

色へと変色してゆく。

「星を蝕む毒。形無き声を尖兵とする者。「侵食者ヒュドラ」。儂と妹達はそう呼んだ」

 巨大過ぎて遠近感が狂っていたルディオは、黒い海を纏う蛇のようなソレの周辺…激しく波打つ海面に、無数の人影が見え

る事に気付いた。

 それは、腕が異様に長い、絶叫をあげる顔のまま表情が凍りついた、人型の異形の群れ。毒の海で溺れるようにもがくそれ

らの姿に、地獄の一部を切り取って見せられている気分にさせられる。

「彼奴は死者の残留思念波に姿形を与え、尖兵とし、生者を侵食させる。命を落とした者は新たな尖兵となる。海も陸も、そ

うして侵食し尽くし、やがては星を覆い尽す」

 老婆は一度言葉を切った。

「…一度は彼奴も滅んだ。現行人類の歴史が始まる、ほんの少し前に…」

 雷光が天から駆け下り、海中の蛇を撃った。

 その閃光がおさまった瞬間、忽然と姿を現わしたのは、無数の影と…。

「?」

 シャチが眉根を寄せる。

 雷鳴轟く曇天の下、宙を大地の如く踏み締め、全方位からヒュドラを囲む七十二の人影。その円陣よりも少し内側に立つの

は、ずんぐりしたシルエット。

 鋼鉄を思わせる灰色の被毛に黒い縞が入ったその男は、丸々と肥えた虎の獣人。2メートルはあろうかという体躯の巨漢で

ある。

 まだ若く、おそらく二十代後半といったところ。身の丈ほどもある無骨な黒い大剣を背負い、腕を組んで仁王立ちし、巨大

な怪物を睥睨している。ふてぶてしい面構えで、面倒臭そうな表情で、緊張も萎縮も見えない態度で。

 黒い大剣を背負った虎の大男の姿を見て、シャチの胸の内で何かが引っ掛かった。しかしそれが何に対する引っ掛かりなの

か本人もピンと来ない。虎獣人である事、黒い大剣を所持している事、それらが脳内の情報を掠めているのだが…。

「「我が愛しきひと」の手で、彼奴は滅んだ。しかし…」

 肥った鉄色の虎が漆黒の大剣を片手で掴み、高々と掲げ、号令を下すように前へ振り下ろした瞬間、周囲の景色が切り替わ

り、日差しが僅かに注ぐ海底に変わった。

 穏やかで美しく見えるそこに、しかし色も形も無く不吉な気配が漂っている事を、シャチもルディオも感じる。

「肉体を失ったアレは海中を漂い続けた。抽象的な表現となるが「怨念」とでも言おうか…。ひとの思念とは性質が似通いな

がらも強度が違うモノ、減衰せず永劫に残る怨念と思うが良かろう。儂はそれらを一箇所に誘導し、海に広まらぬよう封じて

見張り続けた。…口惜しや…。この身が死に体でなければ打つ手はいくらでもあったが…」

 老婆が嘆く。そしてルディオは察した。この老婆はおそらく「弱って」いるのだと。かつてはあったのだろう力が、今はそ

の何分の一にも満たないのだと。何せ、希薄になった後のウールブヘジンにも似た疲弊と消耗の気配が、女王の声からも感じ

られるのだから。

「彼奴の受肉は避けられぬ。受肉して現世の存在として確定してしまえば、万全ならばいざしらず、今の儂では効果的な干渉

が殆どできぬ。受肉すらできぬほど弱ったこの身では、物質世界への手出しなどたかが知れておる…。そして、封じ続けるに

も限界がある。いずれ彼奴は再び大海に出よう。しかしニーベルンゲンは人の世との関わりを断っており、ニブルヘイムより

まろび出た「竜殺し」もこの世を去った。「我が愛しきひと」もまだ生まれておらぬ。このままゆけば特異日を経て力を取り

戻す彼奴めの侵食に、まずこの諸島が飲み込まれよう。故に…、ルディオや」

 老婆はヴェール越しにルディオを見つめた。酷くしゃがれた呼びかけの声は、憐憫と哀切が同居する物だった。

「儂は、彼奴を屠れる者を用意せねばならなかった。最も犠牲が少ない流れを選び、か細い因果の糸を結びつけ、彼奴を滅ぼ

せる状況を整え、彼奴を滅ぼせる力を呼び込まねばならなかった…」

 セントバーナードは理解した。与えられた役割…などではない。逆だった。自分は、この役目の為に生まれたのだと。

 集団を取り巻く環境という意味の「世界」でも、島や海など見えている範囲という意味の「世界」でも、国家というレベル

の「世界」でも、その全体を見渡したレベルでの「世界」でもない。星一つという規模の「世界」に対する脅威がヒュドラ。

そして、自分は…。

「幾多の苦難と犠牲を、数多の困難と痛みを、貴様が味わうと知りながら、ここに貴様が居る今日この時に向けて、因果を収

束させ続けた。今の儂に因果の隅々にまで干渉する力は無い。故に、激流の中に放り込まれるに等しかった貴様に対し、助け

になる杭をいくつか置いておく事と、見守る事しかできなんだ…」

 世界の守護者が、世界の危機を阻むために用意した「世界の敵の敵」…。

 それが「ルディオ・ハーキュリーズ」。今日この時のために生まれた、「侵食者ヒュドラ」に対抗するための決戦兵器。

「恨むか?」

 老婆の問いに、ルディオは首を横に振った。

 恨めるはずがなかった。幾多の苦難も、数多の喜びも、等しく「生まれたから」、「生きていたから」、味わえた物。

 何より、たった一つのちっぽけな命とその運命に、悠久の時を越えて在る女王は憐憫と悔恨を抱いてくれる。道具として見

る事もなく、決して軽んじる事なく、真摯に向き合ってくれている。

「役割…。それが大変な物でも、おれは悪い事って感じないなぁ」

 エンマンノ(波間の月)。カムタが生まれた島。自分が生まれた島。自分達の故郷。

「島は綺麗だ。住んでるひともみんな良い人だ。おれは島とみんなが好きだ」

 目覚めてから島で過ごした日々を思い返し、ルディオは繰り返し顎を引いた。反芻し、飲み込むように、何度も、何度も。

「助けられて、育てられて、島で生きた。そんなおれが、今度は恩返しできるんだなぁ」

 どんな思惑で生まれようと、どんな運命で今に至ろうと、自分が見て、聞いて、触れて、経験してきた事は何も変わらない。

今日までの人生は全て、自分を形作る一部になっている。

 その上で思う。島を、皆を、守りたいというのは、役目や運命を抜きに、自分自身の意思でもあると。

「誇りに思う」

 ドンと、分厚い胸を右拳で叩いたルディオを、シャチは横目で見遣った。セントバーナードは尾を振って笑っていた。嬉し

そうに。誇らしげに。

「おれは、この島で生まれて、この島で生きた」

 それは、誰の意図とも無関係な、ルディオ自身の意思。

 シバの女王が願った、物を感じない兵器ではなく、心ある防人(ヴィジランテ)としての在り方。

「誇りに思おう」

 老婆が応える。穏やかな声で。

「その答えを寄越す貴様の、魂の在り方を」