Hydra

 決戦直前となった状況の説明については、スムーズに進んだ。

 客への礼儀としてあえて肉声を発して対話していたシバの女王だが、基本的には念話で意思疎通をする存在である。イメー

ジ込みで頭の中に情報が入ってくるので、ルディオにも理解し易かった。

「何か…、タマネギとか、球根とか、ああいうのを引っくり返したみたいな格好なんだなぁ」

 脳内へ転送されてきたヒュドラの全体像を確認したルディオが、状況にそぐわない牧歌的な例えを持ち出すと、イメージ転

送の波にシバの女王の笑いの気配が乗って届いた。

「可愛げがねェタマネギだがなァ。グフフフフ!」

 含み笑いを漏らして応じながら、シャチは冷静に思考していた。

 引っくり返した球根の根が、映像で見せられた大海蛇の如きサイズならば、胴体の規模は推して知るべし。有効打を見舞う

ためには一発一発の破壊力に相当な力を割かねばならないだろう。

「とはいえ、今宵の孵化では、彼奴のサイズはこの一割程度に過ぎぬ」

 女王が孵化直後の大きさを試算し、デュカリオン・ゼロとのサイズ比を両者の頭に転送すると、シャチは口角を吊り上げた。

「あァ、いい報せだァ。この程度ならぶった切れねェ首の太さじゃねェなァ」

 それでも女王が見せた比較図では、無数にある首の一つ一つが巨漢のルディオやシャチを一口で飲み込めるサイズである。

 ヒュドラはかつて肉体を四散させられ、思念体のような物になっていた。訳あって力の大半を失っているシバの女王はそれ

を処理する事ができず、世界中に広がらないよう一箇所に止め置いた。

 本来であれば、ヒュドラは永い時を経て、自然の中で死した魚介類の死骸を栄養に、ゆっくりと覚醒するはずだった。自然

な時の流れの中ではその復活は遥か遠い未来での事となるので、いずれ力を取り戻したシバの女王が対処できるはずだったの

だが、そうは行かない事が予測されてしまった。

 歪み始めた世界の全てを、シバの女王は把握する事も制御する事もできない。

 エルダーバスティオンの術士のグリモア。人骨から作られた魔道書。組織側でも気付いておらず、あくまでも個人用の携行

武装としか認識されていないソレは、しかしシバの女王などの高次存在から見れば、極めて危険な物だった。

 亡骸と怨念を用いた器に、ひとの思念と殺意を注ぎ込む事で、使い込まれるほどに成熟してゆく「呪詛結晶」。エルダーバ

スティオンのグリモアは、当人達はそういった使い方を知らないしできないが、高純度の「贄」や「触媒」となる品だった。

 皮肉にも、シバの女王はひとの善性を信じていたが故に、人類がここまで醜悪で忌まわしい技術を編み出し、実用化してし

まう事を予測し損ねた。察知できたのは二年と少し前の事で、その段階では既に打てる手が限られていた。

 ソレらは、ヒュドラを受肉させる触媒として非常に優秀だった。ルディオの漂着が無くとも、ONCの輸送事故が無かった

としても、エルダーバスティオンが諸島近辺で他の組織と抗争する事は決まっていた。そして術士達が死に、多数のグリモア

が沈んだ海域でヒュドラが受肉する事も確定してしまっていた。

 この未来を予見したからこそ、シバの女王は休眠の中から、乏しい力を振り絞って因果に干渉した。

 しかし、シバの女王でもひとの意思まではどうしようもない。用意する決戦兵器が「善き心」を持ち、島を守りたいと思う

かどうかは最大の賭けだった。カムタと巡り合わせたのも、規定路線にヤンをはじめとする「異邦人」の来島を捻じ込んだの

も、全てはルディオの価値観と人格を「善きもの」に寄せるため。

 時間的にもギリギリだった。特異日に至れば受肉したヒュドラの力は増す。その前に決着をつける必要があった。

「特異日…。クリスマス?」

 イメージと情報を受けたルディオが呟くと、シャチが補足する。「世界の綻びが最大になる夜、それが特異日だぁ」と。

「然り。そこな逸脱者が述べる通り「綻ぶ日」…。綻びから祝福が零れ出る事もあれど、封じられしモノが綻びに乗じて顔を

覗かせる日でもある。この海に於いては、ヒュドラを拘束しておる儂の結界が綻び、彼奴が綻びから力を吸い上げる羽目にな

る。しかし…」

 シバの女王は微かに顎を引き、顔を覆うヴェールを揺らした。

「特異日を経る前であれば、生まれたてで空腹の弱った状態…。せいぜい全盛期の一割程度の存在強度であろう」

 最悪のタイミングは目前まで迫っているが、裏を返せば今が好機。孵化した直後ならば叩く手もある。

「ルディオや。貴様のその能力が鍵となる」

 老婆が右手を翳すように上げると、ルディオの眼前で陽炎のように空間が揺れた。ブレが戻った時、そこに浮かんでいたの

は、親指の先程の大きさの楕円形の琥珀。しかし不思議な事に、その琥珀の中心には小さな灰色の球体が閉じ込められ、灰色

の光を周囲に放ってぼんやりと発光している。

「それがヒュドラを滅ぼす切り札となる。しかし、その力を「安全に行使できる」者…、その能力を宿しておる者はバーナー

ズ家の血筋にしか残っておらなんだ…」

 だから自分だったのだとルディオは理解する。そして手を伸ばし、宙に浮かぶ琥珀をそっと右手で包み込むように掴む。

 感触はほとんど無かった。触れたと思った瞬間、琥珀は掌に吸い込まれるように消え失せていた。

 だが、ソレが変わらずソコに在る事をルディオは認識している。形の上では残っていないが、手の中に握っているに等しい

状態で存在している事を。

 そして理解する。

 自分が握らされたソレは、たった一発きり、たった一度きり、予備の無い切り札なのだと。

「まったく、やってくれたぜェ。この俺様が世界を救う羽目になるとはなァ。皮肉が利いてやがる、グフフフフ…」

 女王が招いた最後の異邦人にして、ヒュドラに抗し得る戦力…シャチが低く笑う。

 シャチの存在もまた不可欠な要素だった。シバの女王がカナデを島へ導き入れたのは、ルディオの価値観に良い影響を与え

るためだけではない。構築される「カナデとの関係」という要素は、本来ならばルディオを殺してしまいかねないシャチを思

い止まらせるために必要だった。

「まァいい。人類に絶滅して欲しい訳じゃねェからなァ」

「儂も人類が滅んでは困る。なにせ「我が愛しきひと」が生まれなくなってしまうのでな」

 ルディオはしばらくぼんやり顔で考えてから、シャチを見遣った。

「女王は、好きなひとが居るんだなぁ…。でも、そのひとは生まれてないんだなぁ…。なのに、昔ヒュドラをやっつけたんだ

なぁ…。ジョンさん。合ってるかぁ?」

「グフフフフ、俺様に訊くなァ。ワールドセーバーの事なんぞ判るはずがねェ」

 とにもかくにも、ルディオも状況がしっかり把握できた。

 ヒュドラを仕留める。それがシャチとルディオの役割。女王とその戦士達は、受肉したヒュドラの力と、世界に与えられる

侵食の影響を防ぐ事に集中するため、助力はできない。

「刻限は近付いておる。既に結界の支度は整った。どうか?」

 シャチが頷く。「いつでもいいぜェ」と。そしてルディオは…。

「ハークが父ちゃんみたいな物なら…」

 視線を少し上に向けて、考えながら言った。

「おれが生まれる準備をしてきた女王様は、おれの母ちゃんみたいな物って事になるのかなぁ?」

「………」

 シャチが微妙な半笑いを老婆に向けた。怒るかなこれは、と、少し興味を持って。

「…好きに考えよ」

 喪服の老女の答えは素っ気なかった。

 そして、景色は変わる。

 海を上から見下ろす位置に、ルディオとシャチは立っていた。

―では、始める―

 女王の声が頭に響くと同時に、イマジナリーストラクチャー…空想構造領域から弾き出された二頭は重力に従って落下し始

めた。だが加速度は鈍い。シバの女王の加護が働いており、水中を沈んでゆくようにゆっくりと、激しい風に晒される事もな

く降下してゆく。

「よォく見とけよォ?グフフフフ」

 シャチがルディオに囁いた。

「生涯に一度どころじゃねェ。現行人類で見た事があるヤツが、十人居るかどうかってレベルの、奇跡の大偉業が始まるぜェ」




 かつて、この地で討たれた怪物があった。

 現在の「ひとの時代」が始まる以前の歴史に在ったソレは、肉体を滅ぼし尽くされてなお意識は拡散し切らず、海域に留ま

り続けていた。

 ソレを吸着し、依り代となったのは、ギュミル達がエルダーバスティオンの術士部隊から回収し、最終的に船ごと海へ沈め

た無数のグリモア。ひとの骨から作られた魔術板は、すなわち「かつて生物の身体であった物」…、怨念がたっぷり染み込ん

だグリモアは媒体としての条件を十二分に満たしていた。

 遅かれ早かれソレが復活を果たす事は避けられなかった。故に、シバを統べる女王は策を講じた。

 ソレに対処する駒が揃う、ソレに対処する力が集う、その時期を狙って可能性を収束させた。か細い因果の糸を手繰って…。

 収束の行き着く先。それが、今日、この時である。

―告ぐ―

 その声は、島に残っているカムタやヤン、シャチの子供達、そして海上に避難している島民達の頭に、直接届いた。

―危機が世界を脅かす―

 ウッドデッキから、カムタとヤンと子供達は沖を眺める。

―侵食し、蝕む毒。星を殺す厄が目覚める―

 大型客船の上で、戻って来たデュカリオン・ワンにラダーを降ろしたリン達も、海を望む。

―抗し得るはひとの意思。汝らひとりひとりの意思―

 客船の窓から、テシーが水平線を見つめる。

―祈れ、我が子らよ。汝らの祈りにこそ未来は委ねられる―

 クルーザーの甲板で、ゴーグルを上げたコリーが目を閉じる。主人と、今は共にあるはずのセントバーナードを想って。

―これは、ひとの未来を勝ち取るための闘いである―




「「母ちゃん」とな…」

 玉座で独り、女王は呟く。

「想い人は未だこの世界に生まれず、「オールドミス(未婚の年増)」の名が示す通り、独り身ではあるが…」

 ヴェールを揺らすのは笑いの吐息。

「「母ちゃん」か…。ふふふ…、悪い気はせぬ…。思えば、我が子と呼ぶこの世の人類から、母と呼ばれた事は一度も無かっ

た。それが…、よりにもよって過酷な運命の中に放り込んだ子から、「母ちゃん」かと問われようとは…!」

 愉快そうに笑う老女の周囲で、空間が揺らめく。

 それは人々の祈り。捧げられた思念波のエネルギー。信仰心とも呼ばれる供物。

「子にだけ苦労を強いておっては、どの面下げて「母」であるなどと応じられようか!まして、仕掛けの最後でしくじっては

親の面目丸潰れ…!」

 祈りという供物を受け取って、老婆が立ち上がる。その手が顔を覆うヴェールにかかり…、

「アンヴェイル!」

 喪服が毟り取られ、腕の一振りで放り捨てられたその下から現れた姿は、もはや老女の物ではなかった。

 若い、グラマラスな女性の姿がそこにある。

 カムタ達と同じ褐色の肌は、瑞々しく張りがあり、皺一つ無い。胸は大きく、胴はくびれ、腰つきは豊か。腰まで伸びた黒

髪は背中を覆い、艶やかに煌いている。

 美しくも儚さや脆さを感じさせない意志の強そうな顔立ち。吊り上がり気味の目で、生気に満ち溢れた瞳は星の海のように

深く、美しい。

 踊り子のような、薄い布と装身具で胸と腰を覆っただけの官能的な姿。その背からは、大鳥が羽根を広げたように琥珀色の

後光が射す。

 この若々しい姿こそが、シバの女王と呼ばれる存在の、本来の姿である。

「除幕もかれこれ何年ぶりであったか。肩が多少重いが贅沢は言うまい…。我が精鋭達よ!これより執行を開始する!」

 生気漲る不敵な笑みを口元に湛え、無人の広間に女王が宣言する。

「インスタントイマジナリーストラクチャーを展開、現実空間と置換し、指定区域の因果を一時遮断する!彼奴をダミー空間

に隔離し、殲滅完了まで毒の一滴も漏らすまい!ゆめ、抜かるでないぞ!」




 ルディオとシャチが転送されたポイントを遠巻きにし、包囲を完了していた獣骨面の戦士達は、女王の命を受け、一斉に手

槍を垂直に立てた。

 

 事象 隔離開始

 

 海面を大地のように踏み締める戦士達は、高空から見下ろせば直径10キロにも及ぶ巨大な円陣を作っている。

 彼らが構えた手槍が、穂先を下に向けて、全く同時に海面へと突き降ろされた。次の瞬間、突かれたポイントを結んで青い

光が円を描く。そして…。

 

 隔離完了 疑似世界線構築開始

 

 玉座の前で、ルディオが能力を行使する時のように両手を向き合わせていたシバの女王は、サッと両腕を左右に広げる。

 

 疑似世界線構築完了 置換開始

 

 ルディオとシャチが居る円の内側が、白と黒、そして灰色が構成するモノクロの世界へと変容する。そして円の外側は…消

失した。

 支柱のように端を支える獣骨面の戦士達の手前が、終わり無き滝として水が落ち続ける世界の果てとなる。古代の人類が描

いた夢想の世界地図のように。

 

 置換完了 因果断絶を確認

 

 ふぅ、と息を吐き、不敵な笑みを浮かべたままの女王の顔には、しかし色濃い疲労が見える。

「死したる者が存在せぬ、生まれたての即席世界であれば彼奴といえども尖兵は作れぬ。何があろうと大結界を維持せよ!彼

奴が討ち果たされるまで崩す事はまかりならぬ!」

 ヒュドラの侵食は大規模にして迅速。囲いから溢れ出てしまえば、島は勿論、海上に非難している島民達すら飲み込まれる。

 休眠状態で蓄えてきた力と、島民達の祈りを全て注ぎ込み、女王と戦士達は総力をあげて決戦場を維持する。




「グフフフフ!一時的な措置なんだろうがァ、これだけの空間を丸ごとイマジナリーストラクチャーに置き換えるとはなァ!

…ワールドセーバーおっかな過ぎだろォ…?」

 ルディオとシャチが落下してゆく先で、戦士達に囲まれた円形の海域が、現実に重なる虚構の空間に置き換えられた。その

事実を把握したシャチは、海面に干渉して塔のように立ち上げ、ゆっくり降下してきた自分とルディオを受け止めさせる。着

地と同時に、ふたりにかかる重力が通常の範疇に戻った。

「ここは異空間みてぇなモンだァ。この中で何が起きようと、解除された後は現実に影響を及ぼさねェ。つまり、コイツが維

持されてる間に仕留めさえすりゃァ、海も世界も汚染されねェって寸法だァ」

 天辺の面を地面ほどの硬さにした水柱の上で、シャチは額に手を当てて周囲を見回す。

 女王がそう「設定」したのだろう、夜なのだが、黒白の空間は光量とは無関係に物が良く見えた。まるでシミュレート上の

映像のように。

「でも、これって…」

 これだけ大掛かりな真似はシバの女王や戦士達への負担も大きいだろう。そんなルディオの考えを読み、シャチは顎を引く。

「この一回きりのために、休眠状態で溜めた力を丸々使うんだろうよォ。このチャンスを逃したら次の手はねェって事だァ」

 あるいは、黄昏の総帥などであれば怪物も屠れるのだろうが、察知した時には手遅れだろう。討伐可能な者の目に止まる前

に、世界への侵食汚染は不可逆なレベルに達するからこそ、シバの女王は、ヒュドラが目覚めた直後に影響を漏らさず瞬殺で

きる機会を作り出す事で対処を試みた。

「…居るなァ」

 シャチが呟く。海面を見下ろして。

「…これが…」

 ルディオが目を丸くする。

 黒い影が見えた。視界いっぱいに。

 ふたりが居る真下、周辺600メートル四方に、海中の黒い影は広がっていた。

「来るぜェ」

 シャチの呟きが終わらぬ内に、ふたりの周辺で次々と、巨大な質量物が浮上して水柱を上げた。

 それは、蛇のようにも見えた。長い首は直径3メートルを軽く越え、海水で濡れた表面がヌラヌラと光っている。黒々とし

たタールのような質感で、頭部と思しき先端の膨らみには目鼻口が見えない。

 その数9本。海面から立ち上がって鎌首をもたげたそれらは、ルディオとシャチを包囲するように、遠巻きに囲んでいた。

「腹ァ減ってんだろうなァ、グフフフフ!」

 ヒュドラの首を見回して、シャチは笑う。焦がれるような欲と強烈な憤りを感じた。

 目覚めた直後で「栄養」が欲しいのに、ろくに摂取する物が無い隔離空間…虚構の海に閉じ込められている。目に付く獲物

はたった二匹だけ。腹の足しにもなりそうにないが、無いよりマシといったところ。

「おい、海面見ろォ」

 シャチに促されて海面を見下ろし、ルディオは軽く顔を顰める。ヒュドラの首と接している辺りが、まるで黒い体が溶け出

したように黒ずみ、沸騰しているようにボコボコと泡立っていた。しかもそこから立ち昇る煙も、不完全燃焼で生じるような

黒さ。

 猛毒。海に溶け出しているのは、ヒュドラの体表から滲み出て全体を覆っている毒液で、立ち昇っているのも毒の煙である。

「ワールドセーバーの加護が働いてるんだろうがァ、まともに浴びたら煙でもやべェなァ」

 シャチが言うとおり、それは煙を浴びただけで体が爛れるほどの猛毒だった。眼下の毒液の海に落ちたならば、即座に骨も

残らず溶け落ちるだろう。シバの女王の祝福で、シャチとルディオに近付くほど毒素は薄れているが、それでもまともな生き

物であれば吸い込めば死に至るほどである。減衰してもなお完全に無害とは言えないのだろう、ルディオのベストのファー…

ネメアーの獅子の鬣は防御反応を示し、表面にフツフツと薄い朱色の波紋を浮かべている。まるで沸騰寸前のお湯のように、

無数に、細かく。

 ふたりが毒気混じりの空気を吸い込んでも無事なのは、エインフェリアとして調整された肉体が毒に強い耐性を持っている

おかげである。それでも、もしも毒液をまともに浴びたなら、シバの女王の加護も、体の毒耐性も役に立たない。

「しかし、だァ」

 シャチが顎を上げる。得意げに口の端を歪めて。

「俺様が呼ばれた理由が、コレって訳だなァ?」

 周辺で毒の煙が色の濃さを増す。濃度が上がっているのではない。蒸発して来た中から水分が抜かれて、視覚的な白さが薄

れているせい。

 シャチは能力で毒と混じっている水気に干渉できるかどうかを試してみた。その結果、水気を分離され、水蒸気と共に立ち

昇る事を許されなかった毒素は、自重でゆっくり下降してゆく。

「…よし。水は俺様の支配下におけるぜェ。つまり…」

 眼下の海に異変が生じる。立ち昇る煙が途絶え、海が水面下で黒さを増す。

 成分操作。シャチはその能力をもて海面を支配下に置き、混ざり込む毒を海水から分離した。比重が水よりも重いヒュドラ

の毒は海面下へ徐々に沈下してゆく。

 これが、シバの女王が決戦の舞台にシャチを用意した理由。海上というフィールドにおいて、海水を毒で冒すヒュドラに対

し、シャチの力は特効能力となる。水と結びつくことで蒸発もするし広まりもする猛毒も、海面下に沈降させ、大気中に発散

される毒の霧状拡散も封じれば、深く吸い込んでも問題ない程度の汚染濃度に押さえ込める。

 問題は…。

「それでも、あっちの体に直接触れるのはやべェって事だァ。グフフ!体表から分泌してやがるからなァ」

 ヒュドラの首は全体が黒々とぬめっている。粘液のように纏っている毒はシャチの能力対象外…つまり「支配権」が確立さ

れない類の物。あれも脱脂粉乳のように水気を抜ければ良いのだが、纏っている状態ではまだヒュドラに支配権がある。

「じゃあ槍が役に立つなぁ」

 ヒュンヒュンと、中ほどを持った手槍を回転させたルディオは、シャチを横目で見遣る。

「判ってるなァ?シバの女王から貰った情報だとなァ、頭を全部潰した上で、本体を叩く必要がある…。正確にゃ頭が残って

る状態じゃ本体に攻撃するどころじゃねェ訳だ」

「ん。邪魔されないように、先に頭を全部潰すんだなぁ?」

「そういう事だァ。準備は良いなァ?」

「いつでもいいぞぉ」

 それが、開戦前最後の会話になった。

 最も近い位置にあったヒュドラの首が、鎌首をもたげた状態から突っ込んで来た。頭をそのまま

叩き付ける質量攻撃で、シャチが作った足場が砕け散る。が…。

「まずはコイツだァ!」

 飛び退いた宙で、シャチはヒュドラの頭部めがけて手を広げている。その上空から、約3トンもの重量になる巨大な氷の杭

が落下した。

 ブヂャッ。

 湿った音。それも大音響の。

「オーバードライブ…」

 刮目せよ。其は世界の敵。其は世界の果てより。黄昏の訪れを眺む一頭の怪物。

「フロムオケアノスッ!」

 筋肉が膨れ上がった全身に無数の傷跡を浮き上がらせ、全力の駆動状態に入ったシャチが力を込めて腕を振り下ろす。それ

に導かれるように、大質量の氷塊は着弾したヒュドラの頭部を潰し砕いてさらに加速。海中へ、その下へ、潜む物めがけて隕

石の如く落下する。

 エサと認識した相手からの手痛い反撃で、頭の一つを潰されたヒュドラは、海中の本体へ直接氷の杭を打ち込まれた。

 疑いも無く足場から跳躍して攻撃から逃れたルディオは、シャチが空中に作ってくれた氷の板の上に着地して、その光景を

見下ろす。

 全ての首が一斉に仰け反り、苦悶しているのか、イイイイイイイイイイイイイイィ…、と悲鳴のような音が隔離空間を満た

した。

「さァて、問題はだァ…」

 激しくのたうち海面を叩く首、その内の一本をシャチは凝視する。

 潰されて頭を失った、グズグズの断面からは毒の霧が噴き出していたが、その中からモコリ、モコリ、と肉隗が盛り上がり、

再生してゆく。

「単純な破壊じゃ再生する…。シバの女王の事前情報通りだァ。って訳で」

 生成した氷板にダンッと着地したシャチは、自分より上方に居るルディオを見上げた。

「出番だァ!ブチこめェ!」

 言われたその瞬間には、ルディオは胸の前で両手を向き合わせている。右手は手槍を掴んだままだが、片方が拳でも力の圧

縮には影響しない。

「アコルディオン…」

 頭を失ったヒュドラの首、その断面を覆って発現したのは、直径10メートルにも及ぶ球体型の局在「振動」。数日前のル

ディオには使用できなかった「ハーキュリー・バーナーズ直伝」の一撃が、再生しかけているヒュドラの首を包み、爆ぜた。

 バシャリと飛び散る毒液と肉片。千切れた傷口は、茹で過ぎた上に乾いてしまったササミのようにボソボソになって、再生

が止まった。

 衝撃波よりもさらに細かな波動…振動波の局在乱反射。それは対象の細胞自体を揺らし、電子レンジに放り込んだが如き作

用を生み出す。とはいえ…。

「ジョンさん」

「おゥ!いいぜェ、これなら通じるなァ!」

 氷の板に仁王立ちしたシャチは、ゲラゲラと笑い…。

「これ凄く疲れる。何回も使うの無理だぁ」

「………」

 見上げるシャチ。見下ろすルディオ。

「根性であと八本、何とかなんねェかァ?」

「他に何もしなくていいならもっと頑張れるけどなぁ」

「ダメかァ」

「ダメだぁ」

 超火力での一撃は再生阻害に有効だが、全部の頭を破壊するには消耗が大き過ぎる。途中でヘバっては止めを刺せない。

「仕方ねェ、コツコツ丁寧に行くかァ…!」

「ん」

 言い交わした両者は直後に跳躍する。氷の足場が首二本からの頭突きで破壊され、シャチは新たに二つの足場を用意した。

シャチが自分を受け止めるのはともかく、ルディオの方も跳んだ先で理想的な位置に足場を生成されており、空中でありなが

ら足元の不安は全く無い。

「言っとくがァ、フロムオケアノスの持続は残り9分ぐれェだからなァ!」

「わかったぁ。その間に…」

 ルディオが足場を蹴る。同時にシャチが両腕を空に掲げる。

「ヘビーレイン、フルコースバージョンだァ!」

 天に現れるのは、海面から吸い上げられて固められた無数の氷塊。一つ一つが直径2メートルほど、長さ5メートルほどの

氷の杭だが、海上というこの闘技場ならば材料切れは心配ない。眼下にいくらでもある。

「グフフフフ!大盤振る舞いで行くぜェ!物量火力大作戦だァ!」

 空を掴んで引き落とすように振り下ろすシャチ。問答無用の質量爆撃が、四方から迫るヒュドラの首をズタズタにしつつ海

面へ叩き落す。

 神話の存在を圧倒して見せるシャチだが、しかし余裕がある訳ではない。オーバードライブで反応速度や能力の範囲、精度

などを限界まで強化していなければ太刀打ちできない相手、持続限界時間である10分を迎えたら打倒は不可能になるため、

出し惜しみもできない。

(頭を…)

 海面に叩き付けられ、苦しんで身悶えする首の一つめがけ、ルディオは宙を駆ける。その行く先には、シャチが作ったトレ

イのような小さな足場が飛び石のように連続して出現しており、文字通り駆けて行ける。

 あちこち食い千切られたように欠けて暴れる首が、海面を叩いて弾んで浮き上がったその一瞬で、ルディオは駆け抜けざま

に手槍を振るった。

 ボジュンッ、と爆ぜる音と焼ける音が混じったような異音。局在振動波を付与された槍の一振りは、見事に首を飛ばしての

ける。
再生できない傷を与えられた首は、断面を振り回してのたくるが、その大暴れに巻き込まれる前にルディオは大きく跳

躍していた。

(もう一本…!)

 飛び上がりながらの一振りで、斬り上げて断つ。蛇に例えれば顎骨の根元から首を刎ねる格好だが、ヒュドラは顎骨どころ

か骨自体が存在しないので、断面は肉の塊にしか見えない。

「これなら、あまり疲れないからしばらくやれるなぁ」

「よォし三本!いいぜェいいぜェ、もう三分の一だァ!」

 ルディオの足場を作ってやりつつ、シャチはアーチ状の水の道を作り出して滑走を開始している。氷のサーフボードで滑り

込む先には、既に再生が進んで元通りになりつつある首の一本。その首を取り囲むように、水の道は螺旋状に敷設された。

 螺旋水流の内側を、サーフボードに乗ったシャチが高速で駆け抜け、ヒュドラの首めがけて翳した手の先に、置いて行かれ

るように鋭い剣氷がセットされる。

 そしてサーフボードが水の道を外れて跳びあがった直後、首を囲んで螺旋状に配置された刃が一斉に発射され、四方八方か

らズタズタにする。

 そこへ、大柄な影が落下した。シャチの攻撃にあわせ、足場の道で誘導されたルディオが、グズグズになった首に止めの一

突きを加えて頭部を爆散させる。

 そのまま海面へ落下してゆくルディオを、水のアーチロードを滑走するシャチが水面スレスレで拾い、後ろに乗せた。

「四本目だァ!次行くぜェ、しっかり捕まってろよォ!」

 氷のサーフボードが水流の道に運ばれてゆく。低く落としたシャチの腰でベルトを掴み、右手で槍を構えたルディオは、海

面下をちらりと見遣った。

「ジョンさん。ヒュドラの首は何本だったぁ?」

「あァ?そりゃあ9本だろォ。図解でも…」

 シャチの言葉が途切れる。

 海面下で、揺れている物が見えた。海草のように揺れる…、つまり、無数の何かが。

 

「しもうた…!」

 謁見の間で、頭上の海を見上げる女王が呻く。

 海面のスクリーンに映し出されている戦場の海で、ルディオとシャチの眼下から、水面を乱して無数の細い物が飛び出した。

 それは、ヒュドラの首と同じ構造の、しかしひとの腕ほどに細くダウンサイジングされた新たな器官…触手だった。

「呪詛を取り込み変質しおったのか…!」

 贄となり受肉の触媒にもなった人骨製グリモアが、ヒュドラに形質変化という進化をもたらしていた。ひとの業の深さが世

界の守護者の予想を越え、期待を踏み躙り、形を成している。
空中に向かって根を張るように触手を伸ばすその姿は、ルディ

オが形容したように、逆さまにしたタマネギのようでもあった。

「まずい…!」

 シバの女王の表情が強張る。その触手がどんな性質なのか、彼女は一目で看破した。

 

―告ぐ―

 ルディオとシャチの頭の中に声が届く。

―その触手は、空間を掴みて侵食する―

「あァ?空間を…」

 言いかけたシャチは見た。無数に伸び上がる触手が、その先端を開く様を。

 ルディオも見た。元々あった残り五本の首。その先端が開く様を。

 それは頭ではなかった。先端が花弁のよう開き、五本に別れたそれは、「手」だった。

 禍々しくおぞましい、無数の「手」が根を張るように伸びて虚空を掴む。掴んだ傍からさらに無数に枝分かれし、空中に伸

びる。その細く分かれた先もまた、「手」…。

 「手」の指先から分かれた「手」がその指先から「手」を産みさらにその指先から「手」が…。眩暈がするようなフラクタ

ル構造。枝分かれして伸びる毎に、空間から何かを吸い上げて成長しているのか、最初は細かった部位が太くなってゆく。

 ヒュドラの侵食は、その形質自体が変化していた。ひとがもたらす呪詛。死してなおこの世にしがみ付く妄念の具現か、あ

るいは果て無き欲の似姿か、ヒュドラの新たな体は、ひとという下位の存在から学んだ侵食呪詛そのものとして成立していた。

―その閉鎖領域を掴み尽くして埋め尽くすつもりじゃ―

 密閉されたこの空間、戦士達によって分かたれたこの空間自体を占拠するのがヒュドラの目的。空に向かって根を伸ばすよ

うに、伸びて増えて枝分かれを無限に繰り返してゆく黒い手が、見る間に空間を覆って広がってゆく。

「じゃァどうするゥ?根こそぎ全部は叩いちゃいられねェ…。あと五分だァ」

 シャチのオーバードライブ持続時間の、約半分が経過した。頑張りやペース配分でどうなる物ではなく、限界が来れば全身

が機能低下をきたし、戦闘行動は不可能になる。しかも…。

「あ」

 ルディオが声を漏らした。同時に、掴まれている腰をガクンと引かれ、シャチもバランスを崩す。

 ルディオの肩に、後方から黒い手がかかって引っ張っていた。金色のファー…ネメアーの獅子の鬣が赤い波紋を大きくし、

表面に連続で映し出す。何らかの攻撃を受け、防御機能が強く働いている証拠だった。

 素早く手槍を振るって触手を斬り飛ばしたルディオは、ベストの表面に付着した黒い粉末に気付く。それはヒュドラの触手

が張ろうとした物。細い細い、先端が「手」になっている無数の根の枯死した残骸。何の防御機能もなく触れられれば、体内

に潜りこんだ「手」が内側に根を張ってしまう。しかし…。

「…ジョンさん。シバの女王。この根っこ、張れないとすぐ枯れるんだなぁ」

 シャチが片目を大きくする。異常な侵食と増殖だが、それを支えるには当然エネルギーが要る。張った先から何も得られな

ければ枯死してしまうのは、その異常な侵食が自転車操業である事を意味していた。

―そういう事であれば打つ手はある。これより隔離空間の設定を変更し、短時間だけでも「何も無い」状態にすればよい―

 その声が終わるや否や、シャチとルディオはサーフボードごと空間隔離される。

 そして、ダミー空間は設定を変えられ、完全な虚空と化した。

 海水すら消え去った、宇宙空間の虚空以下の「無」に放り出され、ヒュドラの全身が露出した。

 逆さまのタマネギ、その表面のあちこちがビクビクと波打つように脈打ったかと思えば、無数の切れ目が入り、そこからオ

レンジ色の瞳をそなえた黄色い目がギョロリと見開かれる。おびただしい数の巨大な目…、赤紫の毒の涙を流す、直径4メー

トル近くあろうかという眼球は、ヒュドラの全体にびっしりと存在した。

 そして、本体上部からうごめき伸びる「手」が一度止まり、次いで思い出したように激しくもがく。何かを掴もうとするよ

うに。何かに縋ろうとするように。

 しかしそれも短時間の事。やがてピタリと止まった「手」は、先端からボロボロと灰のように崩れ去った。

 おそらくは酸素も窒素も水分も吸収して侵食するのだろう「手」を壊滅させたのは、たった数秒の絶対虚空。ワールドセー

バー故に可能となる、地上においての虚空再現。ヒュドラの巨体を直接どうこうする事は難しくとも、自分で構築したダミー

空間の設定変更ならば可能。

 そして空間は元通りにされ、強制断食を経て放り出されたヒュドラが海面に激突して巨大な水柱を立てる。

「おゥおゥ、元の首以外は綺麗に枯れたかァ!?」

 空間隔離から復帰したシャチは、ルディオとともに立つサーフボードを即座に作った水流のレールに乗せた。

「凄いなぁシバの女王。手が全部消えたぞぉ。…シバの女王?」

 念話の気配が消えて、訝るルディオだったが…。

 

「ふ…。これしきで…、膝が笑いおるか…!」

 謁見の間。前屈みになって膝に手をつく女王の顔に、黒髪が落ちかかる。

 神々しかった背中の翼印からは光が弱まり、頭上のヴィジョンはノイズが混じって不鮮明になった。

 隔離空間を維持する戦士達も、女王からの力の流入が途絶えて負荷が増し、獣骨面と構えた手槍がひび割れてゆく。

 一気に力を消耗してしまった。短時間とはいえ、地上に無い異空の環境を再現するという無茶をしたのは、シャチが闘える

残りの時間が惜しいから。ルディオに預けた一撃を成立させるには、シャチの援護が不可欠である。

―シバの女王?―

 ルディオの声が聞こえる。何かあったのかと案じている。まったくあやつめ…、と口の端が上がる。

「何としても隔離空間は維持する…!踏ん張らねばな、女王としても「母ちゃん」としても!」

 身を起こし、腰を伸ばし、胸をそらす。女王が跪いては格好がつかぬと、自らの意気を叱咤する。

「往け!これが最後の援護じゃ!貴様らに付与する最後の加護は…」

 

「…ありがとう。シバの女王」

 念話と力を受け取って、ルディオが呟く。

 海面下に光るのは、巨大な影を覆う無数の巨大な眼球。いまやそれら全てがシャチとルディオに警戒を払っている。

 自分を空間ごと隔離している脅威が直接干渉してきた事で、ヒュドラは危機感を持ち、より積極的な行動に出た。

 残った首が鎌首をもたげ、シャチとルディオに向くなり、先端を開いて「手」にする。その掌から、赤紫色の毒々しい霧が

放射された。

 浴びれば即座に溶け落ちる強烈な毒気。しかしシャチは回避もせず、ルディオもろともそのまま浴びる。だが、毒々しい色

の霧で全身を湿らされながら、シャチもルディオも生暖かい不快なミストシャワーを浴びた程度の物にしか感じず、その体に

は一切ダメージがない。

 シバの女王が最後の力を振り絞って与えたのは、不可侵の加護。万が一にも生物がこの力を獲得できれば、世界の生態系の

頂点に立つ孤高となる事も、他の何とも接触しない永遠の孤独を得る事も可能な絶対防御「干渉否定(アンタッチャブル)」。

毒や病などの「侵す」という概念に属する効果を全て遮断する形で付与した、たった二分弱の奇跡。

 そして、その加護は防御面の万全を期すだけではない。毒を無効化できるのであれば…。

「グフフフフ!これなら肉弾戦ができるってモンだァ!」

 突然、跳躍しながらサーフボードを蹴り出し、乗ったままのルディオをヒュドラの首めがけて射出すると、宙返りする格好

になったシャチは、逆さまの状態で腕を交差させ、肘から先を覆う氷のランスを生成する。

 食らいつくように「手」を広げたヒュドラが、シャチを掴み取り…、爆ぜた。

「気色悪ィ感触だなァおい!グフフフフフフッ!」

 握り潰すように掴んできた「手」を、潰される前に内側から爆砕したのは氷の槍。刺さった途端に無数の鋭い氷片と化し、

対人地雷の如く飛散したそれはヒュドラの頭部を微塵に散らした。さらに、その断面が再生する前に傷口表面を氷でコーティ

ングして回復を遅延させる。

 一方ルディオはサーフボードで突っ込まされた先で、そのまま手槍でヒュドラの頭…掌を突き刺し、局在衝撃で分解、シャ

チのコントロールで機敏に方向転換するボードに乗ったまま、氷で再生を阻害された頭に誘導され、一撃加えて粉砕する。そ

の時には、一見デタラメに氷の足場を配置したように見えたシャチが、狭い路地を跳ね回る鞠のような動きで、次の首へ迫っ

ている。

 残る首が立て続けに襲い掛かるも、接近戦が可能となったシャチは、水を得た魚の如く縦横無尽に暴れまくるため、捕らえ

られない。シャチが破砕し、ルディオが止めを刺すコンビネーションは、遠目に見てもなお目で追うのが難しいほどの高速高

機動戦闘。

「楽しくなって来たぜェ!グフフフフ!」

 生物の肉体が耐え切れないほどのGが生じる機動で空中を跳ね回り、動線が重なったヒュドラの肉体を抉り断つシャチの両

腕には、氷の大盾…アイギスが二つ。強固であり修復も可能なソレを、叩き付けて抉り斬る鈍器兼刃物として活用している。

「あと…、1分20秒!」

 シャチの全身に浮かび上がっている古傷から、一斉にブシュッと血がしぶいた。Gの負荷と限界に近い身体駆動で、脈も体

温も生物の生存可能域から大きく逸脱している。双眸はどす黒く充血し、白い部位と瞳の区別がつき難いほど。オーバードラ

イブの持続も、肉体の耐久力も限界間近。しかし…。

「ギリギリ間に合ったぜェ!」

 「干渉否定」の加護が効果を失うと同時に、ルディオが手槍を一振りする。こびりついた毒液を振り落としたその眼前で、

断たれた首が爆砕した。

 最後の首が。

 イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイィ…。

 悲鳴のような声が上がる。海面が盛り上がり、ヒュドラ本体が浮上する。

「グフフ!ガキ共にゃ見せられねェ光景だぜェ。紫タマネギとか食わなくなりそうだァ」

 落下するシャチの下に、水流の道とルディオを乗せたサーフボードが滑り込み、キャッチする。

 引っくり返したタマネギ。根にあたる位置に生えるのは再生する首。手足は無く、下部先端は尾。全身に毒の涙を流す目。

生物として異様過ぎるその姿は、通常の進化の系統樹から生じる物とは思えない。

 おそらくは、とシャチは仮説を立てる。

 「侵食者ヒュドラ」と名付けられたソレは、かつてワールドセーバーかそれに類する存在によって作られたか、あるいは…。

(変質した、成れの果てなのかもしれねェなァ)

 シバの女王が「受肉」と表現した事からも、元々は肉の体を持たないまま生きられる高次存在だったという事は窺えた。物

質空間…地上に干渉するために肉の体が必要なのだろう、と。

 これより執り行うは一種の神殺し。ひとの認識で言えば神にも等しい怪物を屠る儀式。肉の体を得た高次存在を、ひとの範

疇にある物理存在の手で葬る、神話級の無茶。

 このためにシバの女王は無数の奇跡を行使したが、こうでもしなければ実現不可能だった、本物の奇跡。

「さァ決着だぜェ…。行けるかァ?」

 呼吸を荒々しく乱したシャチの問いに、ルディオが頷く。

「ジョンさん。アイツに向けておれを落としてくれ。狙いは…」

 セントバーナードが指し示したのは、ヒュドラの本体の、一つだけ潰れている目。

 警戒が薄かった開戦直後、シャチが初撃で頭の一つを潰しながら本体に打ち込んだ巨大な氷の杭は、突き刺さったまま残っ

て再生を邪魔していた。その一点だけは、無数の目に覆われた本体の中で、唯一防戦の備えが無いと感じる。

「サポート頼んだぁ」

「おォ任されたァ!」

 トンと、シャチが後ろに跳ぶ。より良く全景を見下ろせるよう、作った足場に着地するなり浮上させる。

 水流の道に導かれ、落下に近い速度で降下してゆくサーフボードの上、ルディオは深呼吸した。

「オーバードライブ…」

 呟いたセントバーナードの四肢が、指先から徐々に黒く変じる。光を反射しない黒は、手を、足を、腕を、脚を、這い上が

るように下から染めてゆく。

 両側から肩まで覆い、太鼓腹を経て胸まで覆い、黒が首元まで及んだルディオは目を閉じる。

 その頭部を、黒が下から一気に染め上げた。

(モノにしやがったかァ、グフフフ!)

 ラウンズ十席目の「サー」。円卓最強の破壊力を誇ったサー・ハーキュリー・バーナーズ。破壊と殲滅に最適化された戦闘

技能を有し、英国に害為す敵をひたすらに駆逐し続けた猟犬。
長らく正体不明であったが故に冠された様々な通称や仮称は、

「ブリテンのブラックハウンド」「英国の黒い魔犬」「ファントムブラック」など。

 それら異名の由来となった姿を、シャチは再び目にした。

 バーナーズ家の血統が行使する能力は局在衝撃である。だが、能力の本質は「衝撃」の部分にはない。波動を「局在」させ

るという物理現象を越えた部分こそがその本質。

 波動の性質を合わせ持つ光子すらも捕まえる、発展型局在現象。その被膜に覆われ、影のようになった体躯の頭部で、目が

ゆっくりと開かれた。

 全身の丸ごと局在の界面で覆い、光を全く反射しないが故に真っ黒いシルエットとなったルディオの姿の中で、局在フィー

ルドが発生していない双眸だけが琥珀の輝きを発している。エインフェリアなどの鋭い五感を持つ者ですら、今のルディオか

らは鼓動や体温を含めた生体反応を間近でも感知できず、気配も感じ取れない。

 あまりにも静かなその体は、しかし威力そのもの。局在に囚われた波動で覆われ、静止状態の破壊力と化している。

 これこそが、ハーキュリー・バーナーズの限界駆動。爆ぜず、散らず、しかして確たる「静謐なる猛威」。シャチが使用す

るものと同じく、自身に最適化され、完全制御に至ったオーバードライブ。その名は…。

「そうか…、これがハークのオーバードライブ…」

 囁くように声を発するルディオの、開いた口の中には、牙の白や口内の赤が見て取れた。

「アンバースト…レイジ…」