Ocean tribe

 南海に浮かぶ美しい諸島。その片隅にある島。

 エンマンノ…諸島の古い言葉で「波の月」と呼ばれる島の診療所で、半袖ワイシャツ姿の黒髪の青年は、ほっそりしたテン

ターフィールドの青年の片足を上げさせ、足首を見ている。

「軽い捻挫だな。炎症が酷くならないよう、最低でも今日明日は大人しくしておくように」

「あちゃ~…。里帰り早々についてない…」

 顔を顰めたハミルに、黒髪の青年は「お前は帰って来る度になにかしらの怪我をする男だな」と、悪意無く素直な感想を伝

えた。

「鈍いのは認めるけど、好きで怪我する訳じゃないよ」

「好きで怪我をされては俺も先生も困る」

「そういう事じゃなくてね…」

「では、どういう?」

「う~ん、ゼファーはそういう所が優しくないな」

「先生もこうだと思うが…。判った。課題と受け止めて善処しよう」

 診療所を任されているのは、シャチの養子のひとりゼファー・ウォーターフロント。

 シャチが二年前に島へ置いていったゼファーは、今では島の住民として生活しており、ヤンの診療所で働いている。元々医

療の知識は多少あったので、ゼファーはヤンの教えをすんなり吸収して身につけ、二年の間に新人助手から若先生へと格上げ

された。

「ヤン先生は何処に出かけたの?」

「ゲストハウスの草刈りに行っている」

「あれ?この間来た時も刈ってなかったっけ?」

「今年の雨季は植物の成長が早い。俺も驚いた」

 驚いた顔には見えないなと、テンターフィールドは苦笑い。

 感情表現が下手で愛想が良くないゼファーだが、島民のウケは良い。真面目な上に容姿も悪くないので、島のおばちゃん達

からは特に人気がある。

「湿布薬を処方する。痛み止めは必要ないと思うが、夜に痛んだ時は連絡を寄越せ。届けに行こう」

 カルテを書いたゼファーは、席を立って隣室から湿布を取ってくると、立ち上がるハミルに手を貸してやった。

「ひとりで帰れるか?」

「うん、大丈夫。あ~あ、今夜は兄さんのお店で…とか考えてたのに」

「関節を痛めた時の飲酒は厳禁だ。痛みが増す可能性がある上に、酔ってふらついて捻ったりでもすれば悪化する」

 溜息をついたハミルに、ゼファーは生真面目に応じる。が…。

「三日後以降なら付き合おう」

「…うん、我慢するよ」

 微苦笑を浮かべたハミルに、肩を貸して入り口まで送ると、

「お大事に」

 ゼファーは軽く手を上げて、友人を送り出した。



 草刈機の音が夏の青空に舞い上がる。

 ベルトを肩掛けし、腰で上半身を捻りながら、刈り残しが無いよう几帳面に庭を綺麗にしてゆくのは、でっぷり肥った虎。

 タオルを頭に巻いてアロハシャツを汗染みだらけにしたヤンは、度々草刈機に油を補給しながら、かつて少年とセントバー

ナードが住んでいた家の庭を刈ってゆく。ひとの足が日常的に踏まない場所は草が茂り易いので、定期的に刈り込まないと端

の方からどんどん領地を広げてくる。

 庭先の小屋の中から、出せと訴えるようにニワトリ二羽が鳴いているが、今出しては邪魔になるので、催促を無視して作業

を続行。声のうるささが体感温度を数度上げて来る、とんだ妨害である。

 何度目かの給油になり、野外キッチンの日陰に置いていた水筒を取って小休止に入ったヤンは、グビグビと音を鳴らして水

分補給した。

 首にかけたタオルで顔をゴシゴシ擦り、汗と草屑を拭い取ったヤンは、刈ったばかりの庭にノソノソと入って来たヤシガニ

に気付くと、近付いて来る彼を迎えるように屈み込んだ。

 かつての住人とそうしていたように、ハサミを振り上げて挨拶するヤシガニ。ヤンも目を細めてバンザイし、挨拶を返す。

 テシーに譲られたこの家は、元の住人の私室は鍵をかけて保存し、残りの部分はゲストハウスとして活用されている。保養

にやって来るシャチとその家族や、カナデ、そして前触れもなくフラッとやって来るリスキーなど、個人的なゲストを滞在さ

せる場として。

 シャチとその家族は時々総出で賑やかにやって来る。度々の訪問については、島が気に入ったというのも理由の一つだが、

最近はゼファーに会いに来るためでもある。

 ゼファーが居るので、ヤンの診療所の仕事はだいぶ楽になった。急患で出かけなければいけない時や、医療品を買い足しに

行かなければならない時でも診療所が空にならないし、こうして他の作業をする事もできる。

 仕事が楽になったからなのか、それとも手料理を褒められるテシーが徐々に量を増やしたからなのか、ヤンはますます恰幅

が良くなった。印象だけなら大病院の隠居院長の風格である。流石にそろそろまずいと本人も自覚しているので、今年に入っ

てからは野良仕事や長距離ウォーキング、急患発生時を除くスクーター移動の自主的な禁止でダイエットに励んでいる。

 虎医師は椅子に腰を下ろし、木陰を抜けてゆく風を浴びて、汗が引くのを待つ。

 島は、ずっと平和だった。

 人類の危機が目覚め、そして人知れず排除されたあの事件の後、シャチが上手く立ち回って、エルダーバスティオンには「

諸島には黄昏の保養地のような物がある」と誤認させ、ラグナロクには「諸島全体がワールドセーバーの縄張りだったようで、

つついたエルダーバスティオンが慌てて逃げる様子を偶然確認できた」と報告した事で、マーシャル諸島は二つの巨大組織が

別々の理由で不干渉を決める、世界中見回しても稀有な安全地帯となった。

 ONCの流出物は最後の一件が未解決のままなのだが、今に至るまで何も無いので、結局どこにも漂着せず海の藻屑になっ

たのではないかとリスキーも言っている。

 人騒がせな話しだった、と昔を思い出すヤンの頭上を、音も無く長い影が横切った。全長2メートルほどある上に禍々しい

牙を口に備え、背中に無数のトゲを生やした、あからさまに生物兵器な巨大トンボが。

 直後、その側面から高速で接近するもう一つの大柄な影。

 ひとと同じ四肢と体型。兜を被って面当てを着用したような頭部。先端が斧のようになった一本の角。日本人であれば「鎧

武者」と表現しそうな、甲冑を纏った偉丈夫にも似た屈強な見た目…。

 青黒く光る甲殻に覆われた最上級インセクトフォーム「アックスヘッド」…カブトムシをベースにした生物兵器は、ブンッ

と低い羽音を立てつつ、巨大トンボにヒーローのソレを思わせるダイナミックかつスタイリッシュな飛び蹴りを食らわせる。

そして、吹き飛ばしたトンボを追撃して連続で殴りつけながら彼方へ遠ざかってゆく。

 パイプを咥えて一服し始めたヤンは、今日も平和だなぁと、紫煙を吐き出した。数年前から諸島で噂になっている「コスプ

レをしたヒーロー」が、通りすがりに自分の頭上で野良危険生物を駆除して行った事には全く気付かないまま。

 シバの女王がリスキーに約束した通り、ヤンの安全は保証されている。

 様々な偶然を本来在り得ない確率で重ね合わせる事でできあがった、自分の事を「ひとを守る正体不明の正義のヒーロー」

と定義している元ONC所属で現在フリーのアックスヘッドが、諸島周辺の危険を積極的に排除しているのも、女王が仕込ん

だ防衛機構の一つ。基本的に休眠状態で力を溜めているシバの女王は、危険が近付くその都度対応するのは難しいので、こう

して自立防衛戦力を放っておいた。リスキーが目にしたら卒倒しそうな光景だが。

「先生!」

 響いた声に首を巡らせたヤンに、庭に入って来たテシーが笑顔で手を振った。

「カムタから手紙来ましたよ!」

「おや、今年は頻度が高いな」

 歩み寄ったテシーはヤンの隣に腰を下ろして、封筒と手紙、同封されてきた写真を見せる。

 小麦色の肌をした蓬髪の少年がブイサインで自撮りした写真は、混み合っているから脇から撮ったのだろう、「雷門」と書

かれた提燈がぶら下がる大きな門が斜めに見えている。少年の後ろには、門をぼんやり眺めているセントバーナードも横向き

で写っていた。

「また日本に行ったみたいですよ。今回はすぐ出発するけど、って」

「やれやれ忙しい事だ…。あのふたり、日本にも随分詳しくなったんじゃないかね?」

 苦笑いしたヤンは、「変わらない」カムタの顔を優しい眼差しで見つめていた。

「今頃はもう、またどこかの海の上かな…」



「いや、流石に夏ともなれば暑いものですね」

 アジア系の若者は、照り付ける太陽の陽射しを手で遮り、目の上に影を落としながらボヤいた。

「暑くないですか?」

 尋ねた相手は、頭までスッポリとフードで覆い、ゆったりとしたローブを着込んでいる。大柄でふくよかな体型、格好が格

好なので目を引きそうなものだが、ロシアの港でその姿に注意を払う者は誰も居ない。むしろ普通の格好をしているアジア系

の男の方が目を引いている程である。

「視線除けと一緒に、内側に空調を利かせているので。辛ければ付与しますが…」

「いいえ、有り難いですが遠慮させて頂きます。先生に余分な労働をさせたとなれば上司に叱られますので」

「そうですか」

 大柄なローブ姿の男は、フードの先端を摘んで少し持ち上げた。下から覗いたのは日本の固有種である犬獣人の顔。

「黙っていればバレませんよ」

「それもそうですね。キツくなったらねだります」

「そうして下さい」

 上客と護衛者という関係ながら、付き合いが長いので気心知れた間柄。先に立って歩くローブの男の後ろに従うアジア系の

男は、何処か猫科の肉食獣を思わせる身ごなしで、自然体に見えながら常に警戒態勢にある。

「それにしても…。本当に実在していたんですね、ラスプーチン。本当に居る上に、自分が実際に会う事になるとは思いませ

んでした」

 呟いたリスキーの声は、しかしローブの男にしか届かない。音声が漏れないように高度な隠蔽術式が展開されており、会話

はリンクされているふたりの間だけで交わされる。

「居ないどころか、むしろ非実在にする方が困難な術士ですよ。先代と同等の怪物な上に、寿命の継ぎ足しでずっと現役です

からね」

「先生が怪物とかおっしゃる物は、本当に人智を超えた怪物だったりしますからね…。ぞっとしません」

「少なくとも、ラスプーチン氏から変に気に入られない限りは害はありません」

「気に入られないのではなく、「気に入られる」と害があるんですか?」

「弟子として勧誘されちゃいます。かなり熱烈に」

「それはそれは…」

「お断りするなら実力行使になりますから、そうなったらリスキー君を通して「海の一族」に要請を出したい所ですが…」

「やっぱり物騒な神話級存在のカテゴリーに入ってきているひとなんじゃないですか…」

「基本的には穏やかなひとですよ。きっと快く「雷帝の書庫」についても教えてくれます」

「そう願います」

 軽く溜息をついたリスキーは、会話に出た単語で思い出す。

 彼らは今、どの辺りを旅しているのだろうか、と…。

(そろそろ現在地情報の更新をかけておきますかね…)

 そんな事を考えているリスキーを他所に、犬の術士は、一体どうなっているのか、百科事典のように分厚い古びた書物を、

明らかに入るはずがない袖の下からスルリと取り出し、パラパラと頁をめくって目を落としながら「う~ん…」と唸る。

「これだけ見つからないなら、おそらく存在座標がズレている…。書庫自体が異層領域構造化されているか、最初からイマジ

ナリーストラクチャー内に建造されたかのどちらかと思うんですが…」

 そんな術士の呟きで、リスキーは現実に引き戻された。

「待って下さい!また大冒険ですか!?」



「来月?マーシャルに?また急だよ…」

 ヨットハーバーの一画、軽食を提供するカフェのオープンテラスで、大柄で肥っている中年狸が眉を上げる。

「グフフ!その先になると俺様の予定が立て込んでるんでなァ」

 テーブルを挟んで向き合うのは鯱の巨漢。仕事の合間、たまたま近くに居ると知ってカナデに接触しただけなので、シャチ

は子供達を連れていない。

 過激な改革派のテロ騒動があった直後の港街は閑散としており、長閑な海には船影もヨットも無く、カフェにも店内に一組

他の客が居るだけだが、肝が据わっている二頭はお構いなしでくつろいでいた。もっとも、カナデは塀を背後にして通りの車

道が端まで見渡せる席についており、シャチも店内と裏路地入り口が一望できる席。死角は無く、危険をいち早く察知して対

処できるポジションになっている。

「しばらくゼファーの顔も見れなくなっちまう」

「ゼファー君、上手くやれてるんだよ?」

「人気者らしいぜェ?顔は良いからなァ、グフフフフ!」

 ハムサンドにかぶりついたカナデは、頬を膨らませてしばし噛みしだく。スケジュールと相談して考えている狸に、

「パルパル達もオメェに会いたがってたぜェ?」

 と、鯱は年少の子供の名を引っ張り出して追撃をかける。

「う~ん…、じゃあ予定詰めてみるかナ」

「グフフ!そう来なくちゃなァ!ところで…」

 懐からスキットルを取り出し、ポンと放ってやりながら、シャチはニヤリと口角を上げた。

「この後は時間あんのかァ?溜まってんだろォ?俺様は溜まってる。グフフ…!」

 酒が入った革張りスキットルを胸の前でキャッチしたカナデは、少し考えてから蓋を開ける。

「先にシャワーだよ。これは譲れないナ」

「グフフフフ!オーケーオーケー!」

「あ!オーケーと言いつつお構いなしな顔してるよ!?」

「そんな事ァねェぞォグフフフフ!」

「それと…」

 口内が焼けるようなウォッカを一口煽ったカナデが、蓋を閉めて投げ返す。受け取ったシャチはニヤニヤしながらグビッと

あおり、懐に仕舞う。

「…見られながらっていうのはゴメンだネ…」

「…グフフフフフ、じゃあ撒くとするかァ…」

 しばらくして、席を立った狸と鯱が、連れ立って裏路地へ入って行ったところで…。

「…何処に行った!?」

 客のふりをして監視していた政府の調査員は、過激派メンバーの疑いで付け回していた異国人達を、完全に見失った。



 早朝の海。漁から戻る漁船と入れ替わるように、クルーザーが波を掻き分けて陸から遠ざかる。

 日本の首都、港を出た船は、客を運んでいる最中だった。

「悪いな、ろくに休めねぇままとんぼ返りで」

 船内にある第2コックピットに座る浅黒い肌の船長に、ムックリ骨太なマヌルネコが小さな耳を倒しながら声をかけた。

 一見肥満体に見えるが、ゴツい固太りの体である。防弾防刃ベストにコンバットスーツ、ブーツという戦場の出で立ちだが、

これは何かが起きた際に疲弊及び負傷している同行メンバーを守れるように配慮しての事。船長に断りを入れた上で武装を継

続しており、腰には肉厚で大ぶりな山刀とサバイバルナイフを帯びている。

「構わねぇよ?日本はこないだも来たばっかだったし、オラ達は元々一ヵ所に落ち着いてる方が少ねぇからな!」

 カラカラ笑って応じた少年は、方位とレーダーを確認して、進路にも周辺にも異常が無い事をチェックした。

 その頭の上にはメロン大のクマバチが乗っており、朝も早いせいかまどろんでいる。

「重ねて悪ぃが、予定通りに着けるかい?迎えの都合もあるからよ、到着がずれるんだったら先に連絡を入れとかなきゃなら

ねぇんだ」

 マヌル猫は人相が悪く、口調も態度も荒っぽく、ガラの悪いチンピラのような見てくれなのだが、少年に対する表情と声は

優しい。

「勿論だ!何たってオラ達は…」

 少年は胸元に手をやり、貝をあしらった首飾りに付けてある、舵輪を象った金属飾りを揺らして見せる。

「「海の一族」だからな!」

 このクルーザーの登録船名は「磯風」。登録上は浮魚資源調査船となっている。

 だが、実際には気ままにあちこち冒険しながら、「仕事」であれば荷運びでもひとの輸送でも、要人警護でもやる。

 所属は「海の一族」。いずれの国家にも組織にも属さないが、依頼があれば契約を交わして仕事を請け負う非合法海運組合

に籍を置く船。

 磯風は、テシーから譲って貰って島を出て以降、外観こそ変わっていないが、度重なる修繕と改造を経て中身はほぼ別物に

なっている。ロケット推進装置やレールハープーンなどの武装を含めてオーバーテクノロジーが詰め込まれ、術士の協力によ

り真正のグリモアを参考にした思念波感知回路を鋳込んだ内部構造材まで張り巡らされており、緊急時にはクルーの意思で各

種挙動を制御できる。デュカリオン・ゼロと同タイプの自立行動用OSまで仕込んであるので、陸路を挟んだ目的地での合流

まで可能。

 「業界」で知られる名は「デュカリオン・テン」。七つの海最速の巡洋船。

 現在は、非公式で日本に入国していたドイツ軍の秘匿事項担当特殊部隊員達を回収し、国外へ運ぶ仕事の最中である。

「オッチャンもまだ甲板でのんびりしてて良いぞ?外洋に出るまではそんなに飛ばせねぇからな」

「ああ、甘えさして貰うぜ」

 目を細めたマヌル猫は、コックピットを離れて船室側に移動した。ホテルの一室のようにも見える、ソファーと長テーブル、

各種家具類が揃えられた船室は、普段は船のクルーの寝床であり居間なのだが、今は客のために解放されていた。

 ソファーをフラットに変形させた上に、クッションとシーツを敷いてベッドメイキングしているのは、金色のファーがつい

たベストを羽織るセントバーナードの巨漢。首には少年とお揃いの、舵輪を吊るしたネックレスを下げている。

 戻ってきたマヌル猫に気付くと、セントバーナードの脇でシーツを手にし、模様替えの手伝いをしていた肥満体の若いカエ

ルが、「何かあったんですか曹長ー?」と不安そうな顔をした。エルダーバスティオンまで絡んだ大事件に関わった直後なの

で、通信やメンバーのバックアップが任務のカエルは神経質になっている。

「何もねぇよ、快調な出だしだから安心しろ。それよっか、ミューラーのオッサンとミオちゃんは上か?」

「はいー。呼んで来ますかー?」

「ああ、潮風が傷に障るかもだ。ふたりとも中で大人しく寝てて貰おう」

 カエルがノロノロヨロヨロとデッキへ向かうと、セントバーナードはマヌル猫に声をかける。

「仲間、随分疲れてるみたいだなぁ。新しい寝具出すから、遠慮しないで休んでくれぇ」

「悪ぃな、気ぃ使わせちまってよ…」

 小さな耳を倒して頭を掻いたマヌル猫に、セントバーナードが応じる。

「ブルーノさんは、カムタに優しくしてくれるからなぁ」

「へっ…!」

 苦笑いを浮かべたマヌル猫は、「あのぐれぇのを見てると、弟を思い出し…」と言いかけて言葉を切った。鈍いカエルが、

デッキに上がる途中で船の揺れでバランスを崩している。

「おいしっかりしろラド!お前だけは何処も怪我してねぇだろう?ったくよぉ…」

 心配になって支えに行ったマヌル猫は、カエルだけでは不安になったようで、手を取って一緒に甲板へ上がって行く。

 その後姿を見送り、セントバーナードは思う。カムタは、マヌル猫が言う「あのぐらいの」年齢ではないのだ、と。

 のっそりと船室からコックピットに移り、セントバーナードは船長に声を掛けた。

「寝室の準備は終わったぞぉ、カムタ」

「うん。ご苦労さんなアンチャン!」

 座席についているカムタは頭の上のバルーンの脇腹を片手で撫でてやりながら、手元のモニターに表示されるログを見遣る。

「ONCの海運情報更新されたぞ。リスキー、アグリッパ先生と一緒にウラジオストクに入ったみてぇだ」

「ん。客を降ろした所でまた会えるなぁ」

「だな!来月の仕事の話もあっから、後で連絡しとこうな!相談しながら一緒に飯だ!」

 ルディオもそうだが、浅黒い顔を嬉しそうに緩ませているカムタも、島を出た頃と容姿が変わっていない。もう成人してい

るのに、である。

 髪も爪も普通に伸び、代謝は正常なのだが、カムタの肉体は成長…あるいは老化が殆ど進んでいない。完全に停止している

訳ではないが、ウールブヘジンが修復した肉体は生存に有利な若い状態を保とうとしているようで、一年に一ヵ月分程度しか

歳をとっていない。

 ルディオも含め、加齢に伴う容姿の変化が殆どないふたりは一箇所に定住する事が難しい。特にカムタは十代半ばのまま何

年も変化が無いので、すぐにおかしいと気付かれてしまう。だから、こうして一ヵ所に留まらず、世界中を巡りながら生活し

ている。

 そんな日々の中、様々な組織が欲しがる垂涎の財宝などを手に入れて、追い回される事もあった。偶然大事件に首を突っ込

んで、トラブルに見舞われる事もあった。さらに、これまでに数度「星の脅威」と出くわして、ルディオが「世界の敵の敵」

として対処に当たらなければならない事もあった。

 平穏とは縁遠い冒険生活だが、カムタもルディオも捨てた物ではないと思っている。

 航海の中で、リスキーから高名な術士を紹介して貰えた。なるべく平和な財宝の処分方法として、その術士のツテでOZに

寄付する事でパイプができた。巻き込まれた大事件の中でドイツの特殊部隊ヴァイスリッターと業務提携できた。星の脅威を

退けたおかげで北原の大手運送組織と協力関係を構築できた。

 苦難を乗り越えるたびに人脈が増えたので仕事には困らない。そうでなくともリスキーがONCの物品輸送を斡旋してくれ

るし、シャチも個人的な仕事を依頼してくる。何より、この数年で得たパイプのおかげで、今回のように実入りの良い仕事も

飛び込んでくる。

 依頼側のだいたいの目当てはルディオである。八つの難行…実際にはエンマンノ島で乗り越えた二つの難行も含め、十の難

行を乗り越えた戦士は評判も高い。関わった組織の中には専属で召し抱えたがっている所も多いのだが、セントバーナードは

あくまでも磯風のクルーという立場を変えず、キャプテンのカムタの傍らに在り続ける。そもそも黄昏に戻れというシャチの

誘いを一度蹴っているのだから、何処かの組織に入っては彼の顔に泥を塗ってしまう、というのがルディオの言い分。

「まずウラジオストクだろ?次は北原の入港ゲートから台湾まで荷物の輸送だろ?その後、ONCの輸送船からアグリッパ先

生をOZに運んで、行ったついでに船の思念波回路見て貰って、乗せて帰って来て…、ブルーティッシュの業務提携、契約履

行いつからだったっけアンチャン?」

「10月1日から履行開始だったなぁ」

「結構余裕あったな。あー、テシーに手紙出す時、一回島に帰れそうって書いとけば良かった…」

「リンに頼むかぁ?ゼファーに伝えて貰えばいい」

「だな!それならアシもつかねぇし、そうしよう!」

 それから二三言やり取りして内々の話を終え、ルディオは船室に戻る。

 甲板に上がったマヌル猫達と入れ替わるように降りて来ていたのは、若い細身のアメリカンショートヘアーと、肥り肉の猪

だった。どちらも負傷しており、特に猪の方は頭に包帯を巻いている。

「新しい寝具まで用意して頂いて、申し訳ありません…」

 恐縮して耳を倒すアメリカンショートヘアーに、ルディオは「ん」と顎を引く。船に乗せた面子の中では最も若いのだが、

階級は彼が最も高く、今回の客の中で唯一の将校との事だった。

 セントバーナードはこの若いアメリカンショートヘアーから、奇妙な、そしてどこか懐かしさを感じる匂いを嗅ぎ取ってい

る。この青年自身の匂いというよりも、残り香のような物に覚えがある。

(もしかしたら…)

 詮索こそしないが、ルディオは思う。あるいはこの青年も「役目」を与えられた者…かつての自分と同じように、いつか果

たすべき役目を持つ者なのかもしれない、と。だが…。

「…どうかしましたか?」

 じっと見つめられたアメリカンショートヘアーは、小首を傾げて自分の顔に触れた。何かついているだろうか、と。しかし

セントバーナードは軽くかぶりを振る。

「若いのに隊長は、大変だなぁって思っただけだぁ」

 もしかしたら、彼の行く先が自分達の航路と交わる事もあるかもしれない。だが、この青年がどんな役目を背負っていよう

が、少なくとも今日の自分達には関係のない事。自分達はその日その日を旅に費やし、世界の果てを渡って生きてゆくだけ…。

「船旅の間はカムタが飯作るけど、食えない物とかあるかぁ?」

 気を取り直してルディオが問う。マヌル猫は今回で二度目の客で、往路でも乗せてきているので好みは把握しているが、他

の三人は今日初めて乗せる客。まだ名前ぐらいしか知らないので、今から訊いて把握しなければいけない。ただ期限通りに運

ぶだけでなく、食事を含めた快適な船旅も自分達が提供するサービスの魅力なのだから。

「有り難うございます。だいたい何でも食べれますし、普段の任務中はレーションで済ませる事も多いですから、食事に贅沢

や文句を言うメンバーは居ません」

「今回も缶詰だけは大量に確保して来ましたからな」

 アメリカンショートヘアーの言葉に壮年の猪が頷く。

「肉は好きかぁ?」

「にく!?」

 セントバーナードの同意を求めるような問いで、猪が目の色を変える。

「日本で牛肉と、有名らしい地鶏と、新鮮な魚を仕入れたんだぁ。酒もあるぞぉ?仕事が終わったらパーッとやる。英気を養

うにはそれが一番だからなぁ」

 船内キャビネットには各国で仕入れた様々な酒が保管されているし、キャプテン兼料理番は腕が良い。迅速な契約履行だけ

ではなく、行き届いた客への持て成しもまた、リピーターが多い磯風の特徴の一つ。

「食事の希望があったら言ってくれぇ。カムタに頼んでおくからなぁ」

 セントバーナードはキャビネットから青いラベルの酒瓶を一本取り出して、「これウェルカムドリンクなぁ」と気前良く壮

年の猪に渡す。

「ジョニ青!?良…、良いんですかなこんな酒を!?」

 アメリカンショートヘアーはピンと来なかったが、酒好きな猪はラベルの色で価格帯を察し、目を白黒させた。

「サービスだぁ。アンタらのトコの少佐から、前金でたんまり振り込んで貰ってるからなぁ」

 目を細めるルディオ。ブルーラベルも好きだし、シャチが好むので常に最低一本キープしているが、ルディオはブラックラ

ベルの方が好き。特に、ハークがハウルと共に過ごした記憶で飲んでいた、挽いたコーヒーを角砂糖と共に漬け込んでフレー

バーを加えた飲み方を気に入っている。島に帰った際には一度にいくつかずつテシーからレシピを習っているし、シャチのと

ころのハウスキーパーからも教えて貰っているので、カクテル等のレパートリーは随分増えた。もっとも、ブルーラベルは手

を加えない方が良いので何もしないが。

「簡単なカクテルなら作れるからなぁ。希望があったら言ってくれ」

 海を駆け回り、様々な国を巡り、色んなひとと出会う旅。自分とカムタには性にあっていると、つくづく思う。苦労もある

し大変な思いもするが、それでも概ね毎日が楽しいのだから。




「もうじき海峡抜けるな」

 黄昏迫る海の上、睡眠を取る客に気を遣って船外デッキで舵を取るカムタは、バルーンを背中にしがみつかせながら、脇に

立つルディオに話しかけた。

 行程はまだ半分以下だが、海峡を抜けたら飛ばせる。限界にチャレンジした事は無いが、磯風はジェット推進装置込みで時

速500キロを超える速度を出せる。人目が無い所では一気に時間短縮ができるので、実質ここからは前半よりも短い。

 他船の目や計器がある所ではあまり速度を出せないので、津軽海峡はだいぶ速度を落として抜ける。やや強めの潮風に、被

毛とベストのファーを撫でさせながら、ルディオはモソモソと乾パンにも似たビタミン入り携帯食料を齧る。

 ふたりとも疲れは無い。ルディオだけでなく、かつてウールブヘジンの融合補修によって復活したカムタの体も光合成によ

るエネルギー補給が可能で、必要とする睡眠時間が少ない。まとまった休息無しでも数日間連続活動が可能で、タフさならば

並のエインフェリアと変わらず、身体性能はブーステッドマン級、損傷の修復能力も普通の生物の範疇から逸脱しており、指

が飛んでも数日で元通りに生え揃う。流石に頭などが吹き飛べば死ぬのだろうが、普通なら助からないような傷でも、即死さ

えしなければじきに治ってしまう。

 だが、ひととして暮らして行けないこの体を、カムタは受け入れている。琥珀色の記憶の証…、大切な仲間が自分達と一緒

に居た、あの島で一緒に生きた、その証だから。

「またハコダテ行きてぇな?イカ食いてぇな!マヨネーズと七味唐辛子!世界は繋がってんな!」

「ん。繋がってるし、酒にあう。リスキーからは、何か返事とかあったかぁ?」

「うん。やっぱアグリッパ先生と一緒だって。泊まるトコ聞いたし、先生も誘えって言ってくれたらしくて、飯一緒する約束

もした。「もしかしたらまた大冒険ですよやれやれ」だってさ」

「そうかぁ。手伝うかぁ?」

「だな!助け要りそうだったら手伝うか!」

 海原を船は往く。

 ウールブヘジンから貰った命を生きて行く。

 海原を越え、終わり無き旅路は続いて行く。

 埋もれた昨日に別れを告げて、降り積もる今を踏み越えて、迫り来る明日に挑み続けて。

 昨日も、今日も、明日も、その先も、ふたりは命を生きてゆく。