Evolution of White disaster (act11)
ギルタブルルが窓枠に足をかけ、夜空に向かって跳躍した様子を瞳に映しながらも、朦朧となっているアルには、敵が去っ
た事すら理解できていなかった。
薄れゆく意識の中、アルは漠然と思う。
終わりとは、結構あっけなく訪れる物なのだなぁ。と、他人事のように。
鼓動が緩慢になり、血が流れ出てゆく自分の身体が徐々に冷えてゆくのが判る。
苦痛を脳へ伝達する機能すら失われつつあるのか、それとも生命維持がままならなくなった今、危険信号たる痛覚も不要と
なった為にシャットアウトされているのか、もはや痛みも苦しみも感じない。
だが、身を引き絞られるような切ない喪失感がある。
このまま自分という存在が消滅してしまった後、残った皆がどう感じるのかと考えると、やりきれない気分が込み上げてくる。
「……け…み…」
血と共に口からこぼれ落ちたのは、愛おしい少女の名。
「…り……だ……。ねね…さん…」
続く言葉で喉がこぽりと鳴り、口の端から溢れた血が床へ零れる。
細面の若者の顔が、栗色のレッサーパンダの顔が、厳しい表情を常に湛えていた上官の顔が、居なくなってしまった者も含
め、幾多の同僚達の顔が目の前に浮かんでは消える。
短い間共に過ごしただけだが、今では尊敬すらしている赤銅色の巨熊の顔や、自分と同じカラーリングの真っ白な赤目の猫。
次いで浮かぶのは、厳つい顔に開けっぴろげな笑みを浮べる熊の顔や、愛らしく微笑むクリーム色の猫の顔。
それに東護町で知り合った人間の友人達の顔が続き、まだ出会って間もない、親しくなったばかりの太った狐の顔が浮かぶ。
「ゆ……と…さ…。たけ……さ…」
コポコポと血が流れ落ちる口から、敬愛していた二人の若い調停者の名が漏れた。
瞳孔が開き、何処も見ていない瞳には、柔和な笑みを浮べている金色の被毛を纏う大熊と、有るか無しかの微笑を口元に湛
える細身で長身の青年が、寄り添って立つ姿が映っていた。
(キミが護らなきゃいけないモノは何?)
いつか聞いた問い掛けが、耳のすぐそばで響いた。
もはや自分の意思では指一本動かす事すらままならないアルの目から、ゆっくりと光が失せる。
「オレ…の…、ま…も…」
呟きを途切れさせ、こぽっと喉を鳴らし、白熊は呼吸を止めた。
それきりピクリとも動かなくなった白熊の、己の血で真っ赤に染まった被毛を、隙間風が撫でて行った。
ギルタブルルが窓から外に出て来た事を確認すると、身じろぎ一つせずに闇に溶け込んでいた巨熊は、再びバイザーに触れ
て反応を探った。
ギルタブルルが出てきて、調停者は動いていない。槍は依然として室内にある事が、バイザーに表示される情報から判る。
まずは槍の入手。そのついでに、まだ息があるようならば、若い調停者を仲間の目につく場所にでも移動させておこうと考
え、ゆっくりと移動を開始する巨熊。
だが、その歩みは数歩進んで再び止まった。
バイザーに表示される情報に、突如出現したレリック以外の何かの反応が加わった。
巨熊は無言のまま、先程白熊を見た際に抱いた感覚を思い起こす。
孵化寸前の卵のような、不安定な可能性に満ち溢れた何か…。
雪崩。
出し抜けにそんな単語が巨熊の脳裏をよぎった。
雪崩が来る。
興味を覚えた巨熊は、しばし事態を静観する事に決めた。
動く者の無い静かな室内に、白熊が横たわっている。
破壊されたアントソルジャーの死骸と、中年が持ち込んでいた少ない生活用具以外には何も無いその部屋に、血溜まりの中
で動く事なく。
横たわる白熊の耳が、隙間風にくすぐられて微かに動いた。
痙攣したようにも見えたその耳は、しかし続けて一度、二度と、ピクピク動く。
それはまるで、話し声に耳をそばだてているようにも見えた。
(性懲りも無く、また来たんスか?)
背の高い灰色の草が音も無く風に揺れる灰色の平原で、白い太陽が光を投げかける中、アルは耳を動かして振り返った。
色も音も無いその平原の真ん中で、アルの薄赤い瞳に、自分と同じく真っ白い被毛の熊の姿が映り込む。
ブルーティッシュのユニフォームにも似た、しかし黒に近い紺のジャケットとズボンを身に着けた白い大熊の顔を見上げ、
アルは「あ…」と小さく声を漏らす。
大柄なアルよりさらに大きい、神代の当主にも迫ろうかという巨体の白熊は、金色の瞳にアルの顔を映して目を細めた。
目の色が違うだけで、顔立ちから体型までそっくりな、そのままアルを大きくしたような白い大熊は、口の端を少しだけ吊
り上げて口を開く。
(なぁ〜にしょげてんスかぁ?ひょっとして、彼女とケンカでもしちまったとか…)
(…違うんス…。オレ…、ギルタブルルに負けちゃって、それで…)
顔を俯け、ぼそぼそと言ったアルの様子を見て、茶化すような表情を浮かべていた白い大熊は眉根を寄せる。
(あんたが居るって事は…、オレ、死んだんスね…?今度こそ…。ここ、あの世っスよね?確か、涅槃の平原とか言う…)
アルの呟くような問い掛けに、白い大熊は(ん〜…)と唸りながら太い指で頬を掻く。
(あの程度の損傷で死ねるニーベルンゲンなんて居ねぇっスけど…)
(ニーベ…、何スか?)
(オレやお前の事っスよ)
首を捻ったアルに、しかし詳しい説明をするつもりは無いのか、白い大熊はそれ以上続けず、話を変えた。
(にしても…、力をさっぱり使いこなせてねぇっスね?これまでの発動二回も無意識でやってるっス)
(力?…って、何スか?)
(お前の能力っスよ。オレ達二人から受け継いだ、ある意味完成した、そして不完全な能力っス)
チンプンカンプンな事を言われ、アルは眉根を寄せて上目遣いに白い大熊を見つめる。
誰かの顔を見上げて話す事など殆ど無いのだが、ユウヒ相手に慣れたせいか、不思議と違和感はなかった。
(さぁ、そろそろ帰って見せてやるっスよ。お前の力がどんなもんか!)
大きな手をアルの頭に乗せ、ワシワシと乱暴に撫でた白い大熊は、歯を剥いてニカッと笑った。
(けど…、オレもう動けないし…、腹痛いし…、息できないし…、立つ事だって…。これっぽっちも力が残ってないっス…)
力なく呟いたアルは、背にそっと添えられた何者かの手の感触に振り返る。
自分よりずっと背が低い、薄赤い色の髪と目をした人間の女性が、いつからそこに居たのか、アルの真後ろで微笑んでいた。
(かっ…、母ちゃん!?)
ビックリして目を丸くしたアルに、女性は優しげな笑みを浮べたまま頷いた。
(力なら得られるわ、アル。わたくしから瞳を受け継いだもの)
(得られる?瞳?一体、どういう事っス?)
困惑しつつ呟いたアルは、数日前に見た光景を思い出した。
(あれは…、朦朧としてて見た、夢みたいなのじゃあ…、無かったんスか…?)
二人はアルの言葉に頷くと、揃って手を上げ、同じ方向を指し示した。
(そして、オレから受け継いだ体は、そう簡単には立ち止まる事を許しちゃくれねぇっス)
(さあ、帰りなさいアル。あなたはまだ歩けるはずよ?)
(お前はまだ、立ち止まって良いトコまで来てないっス)
(う…、うっス…。でも、帰るって…)
戸惑いながらも促されるまま踵を返し、二人が指し示した方向へと目を向けたアルの背に、白い大熊が声をかけた。
(何としてもするべき事、護るべき物があれば、迷わず帰れるっス。…アルビオン?お前が護りたい物は、何スか?)
白い大熊の問いに、アルは少しの間考え、それから口を開いた。
(オレが…護りたいのは…)
血溜まりに倒れ伏した白熊の目が、薄く開いた。
「え…が…お…」
ゴポリと音を鳴らして、血と共に吐き出される微かな呟き。
殆ど音にならないそれを発したアルの瞳が、強い赤光を帯びた。
直後、アルの周囲で空気が揺らめき、その全身から蒸気が立ち昇り始める。
被毛と同じ真っ白な蒸気は、闇の蟠る室内に窓から入り込む僅かな光を受け、白々と輝きを放っていた。
(熱い…。腹…、痛くないっス…。中からカッカして、熱いっス…!)
もぞりと身じろぎし、床に手をついて体を起こすアルの周囲で、放出される熱によって空気が揺れる。
暗がりで、それ自体が発光している瞳が、傍に横たわるアントの死骸を映し、焦点を定めた。
ルビーの如く赤々と輝く瞳に様変わりした世界が映り込み、アルはゆっくりと、それに向かって手を伸ばす。
倉庫の天井を踏み締めたギルタブルルは、次に殺すべき者の事を考えていた。
あのレッサーパンダとどうやら狐らしい少年は、殺せぬ事は無いが、自身もそれなりのダメージを覚悟しなければならない。
自身を消耗品としてみなしているギルタブルルにとって、効率的に殺すという観点からすれば避けるべき相手であった。
先程車が到着した音が聞こえていたため、何者かが近くに来ている事は確かであった。
あの二人を相手にするよりもそちらへ赴く方が良いと、短い思考の末に判断する。
トウヤ達が車を停めた方向へ視線を向けたギルタブルルは、風切り音を捉えて素早く振り向いた。
隣の建物から闇を裂いて跳躍し、自分が立つ倉庫の屋根にドシッと降り立った白い巨体を、片側だけとなった複眼で捉え、
ギルタブルルは疑念を覚る。
他者を誤認識している訳ではない。まぎれもなく、先程自分の手で絶命寸前に追い込んだ白熊が、自分を追ってきた。
腹部の衣類が破れ、腹が晒されている箇所は、間違いなく先程自らの手で攻撃を加えた箇所。その時の内臓を破壊した手応
えは確実な物であった。
さらにおかしな事には、着地して身を屈めた状態からすっくと身を起こした白熊は、全くダメージを負っていないように見
える。
夥しい量の吐血の痕跡として衣類は血に塗れ、口元から胸元までが赤黒く染まっているが、すでに乾いており、見ている間
にもパラパラと剥離し、落ちてゆく。
しかしギルタブルルは、全く動揺を見せなかった。
思考形態自体がひととは大きく異なる、生物兵器である彼は、理解できない事は理解できないまま、現実を受け入れて行動
方針を定めた。
つまり、つい先程そうしたように、目の前の白熊を再び破壊するという行動方針を。
対するアルの様子は、先程までとは様変わりしていた。
薄赤い目はそれ自体が燐光を発して赤々と輝き、白い巨躯からはゆらゆらと微かに、被毛と同色の蒸気が立ち昇っている。
左手に握り締めるはレリックウェポン、ブリューナク。右手には脱いだ防弾防刃ベストがぶら下げられていた。
ギルタブルルを真っ直ぐに見据えたまま、アルは目つきを鋭い物にし、ベストを手放して足下に落とした。
腹の部位に大穴が空いたシャツ、その左の肩口に右手をかけ、わずらわしげに引き裂いて破り捨てる。
純白の被毛に覆われた上半身をあらわにし、ブリューナクの穂先をやや下向きにする形で左手で前を、右手で後ろ側を持ち、
グッと腰を落として左足を前に出し、アルは半身で構えた。
最終ラウンドとなるこの戦闘で、嚆矢を放ったのはギルタブルルであった。
ゆらりと体を前に倒し、そのまま倒れ込むかのような前傾姿勢から、屋根に足の爪を食い込ませて素早く突進する。
体の両脇に垂らした長い両腕が、接近しつつ持ち上がった。
両側から挟み込むように振るわれる両のハサミ。アルは逃げもせずに、低く構えたブリューナクの穂先を跳ね上げて右のハ
サミを弾く。
左への対応は間に合わない。先程までのアルの反応速度や身体能力を把握しているギルタブルルは、そう確信していた。
が、その確信は直後に崩れる。右のハサミを弾いたアルの手が槍と共に翻り、その石突きが稲妻の如く左のハサミを弾く。
さらに、両腕が弾かれたギルタブルルの無防備な胸へ、半歩踏み出したアルが繰り出す、手槍の穂先が突き込まれた。
穂先を跳ね上げ、石突きで払い、すばやく反転させての突き込みと、続けて動いたアルの手元が闇に白い残像を刻む。
かろうじて身を捻ったギルタブルルの胸甲を掠め、ブリューナクの穂先は右の腋下へと抜ける。
直後、左を前に半身になって突きを放ったアルの、前に出ている左足が跳ね上げられ、ブリューナクの柄を下から蹴る。
速度と重さを加えられて跳ね上がったブリューナクは、穂先のすぐ下の部位でギルタブルルの右腕の付け根を打ち据え、そ
の体を易々と宙へ跳ね上げた。
重心点をずれた打撃位置で強引に打ち上げられたギルタブルルは、横回転しつつ3メートル程も宙に浮く。
そこへ、蒸気を後ろに引き摺る白い砲弾が、間髪入れず襲いかかった。
ほぼ真下から跳ね飛んだ白熊が繰り出す突き上げを、ギルタブルルは不安定な姿勢のままハサミでいなす。
突き込まれた穂先は鋭く、重い。いなしたハサミもまた大きく跳ねられ、ギルタブルルの体勢はさらに崩れた。
アルもまた槍を払われて左腕が大きく横に弾かれたが、ギルタブルルのがら空きになった胴へ、跳ね上がったその勢いを加
えた右足を蹴り込む。
太い腿が突き出た腹に密着し、足の裏が完全に頭上を向くまで跳ね上げられたその前蹴りは、ギルタブルルを木っ端の如く
吹き飛ばした。
キリキリとやや捻りを加えた縦回転をしつつ夜空を舞い、ギルタブルルは隣の倉庫を越えて、その向こうへと落下し、コン
クリート敷きの地面へ激突する。
倉庫の屋根にズシッと着地したアルは、湯気が立ち昇っている自分の体を見下ろした。
(体が火照って熱いっス…。カッカしてて、体の底から力が湧いて来る…!)
その奇妙な感覚は、しかし以前にも感じた事があるような気がした。
その身に纏う煌めく蒸気は、身から離れるとたちどころに冷たい夜気に溶け込み、消えてゆく。
(これだけ動いてるのに、リミッターカットの反動が全然来ないっス…。どうなってるんスかねコレ?関節なんかが痛んでも、
痛みがすぐ引いて、筋肉も痙攣しないし…。リミッターカットを連続で使っても全然平気っス…!これならもしかして…?)
グッと身を縮めたアルは、白い蒸気をたなびかせ、加速を付けて跳躍した。
跳躍の瞬間に筋肉で盛り上がり、ググッと太くなった脚や、曲げた膝、ふくらはぎ、足首から、立ち昇る蒸気が勢いを増し
ている。
隣の倉庫を飛び越える程の大跳躍を見せながら、アルは驚いていた。
もしやと思い試してみたのだが、それまで瞬間的に発動させていたリミッターカットを、駆け込み、跳ぶまで持続させる事
ができた。
瞬間的な物に限った発動から、持続が可能になった事で、これまでを大きく上回る機動力が獲得できている。
その上、リミッターカットでかかった負荷による痛みが、反動が、瞬時に霧散して消える。
まるで、負荷によって破損、摩耗する筋肉や軟骨や腱が、瞬時に修復されているかのように。
倉庫を飛び越えてズシンと、殆ど四つん這いの格好でコンクリートの上に着地した白熊の両手両脚から、その衝撃を逃がす
かのように、ボシュッと強く蒸気が噴き出した。
着地の衝撃すら物ともせず高所から降り立ったアルは、身を起こしたギルタブルルを見据えて、右足を前に出し、左足を後
ろに引き、腰を落として手槍を構える。
広い範囲がコンクリート敷きになっているそこは、どうやらこの工場が稼働していた頃は、洗車場として利用されていた場
所らしい。
大型トラックが十台は同時に洗えるような広さを持つそこは、ギルタブルルの後方と右手側の二面に、コンクリートの高い
壁が聳えている。
サソリと対峙した白熊は自分の身に生じた変化に驚きつつも、頭ではなく本能によって、今の自分に何が可能となっている
のか把握しつつあった。
両者の距離は30メートル程。ギルタブルルがゆらりと前に動いたその瞬間、アルの左腕が動いた。
下から上に振り上げた左手が、矢のように手槍を放つ。
素早く上体を傾かせたギルタブルルの右側頭部を掠め、ブリューナクは後方の壁に突き刺さった。
武器を手放したアルめがけ、ギルタブルルが走る。
迎え撃つように前に駆け出したアルは、赤く輝くその瞳で、壁に突き立ったブリューナクを見据えた。
「来るっス!ブリューナク!」
アルの声が響き渡ると、槍はひとりでに壁からボコっと抜け、宙に浮かんだままクルリと旋廻し、飛翔した。
真っ直ぐに呼び主のもとへ戻ろうとする槍は、背後からギルタブルルを強襲する。
危険を察したか、背を丸めるようにしたサソリの背甲を穂先で抉り、ガキンッと音高く上へ弾け跳んだブリューナクは、宙
でその軌道を変えるとアルめがけて降下し始める。
上に腕を伸ばし、飛んで来たブリューナクの柄を掴んだアルは、その穂先をちらりと見遣った。
(判るっス!使い方が、やり方が判るっス!ブリューナク…、オレに応えてくれてる!)
通常のレリックですらも扱える物が限られ、調整しておかなければまともに使用できないほど適性の低い自分が、解析が終
わったばかりで未調整のレリックを起動させた。
アルは戸惑いと驚き、そしてそれ以上に強い高揚感を覚えつつ、グッと身を屈め、極端な前傾姿勢で駆け出した。
蒸気をたなびかせて駆けつつ、己の手に舞い戻ったブリューナクをぶんっと振るい、大きく右に引いて構えた姿勢でギルタ
ブルルへ迫る。
後方からの攻撃元を確認するため、首を捻って足を緩めたギルタブルルは、再び視線を前に戻したその時、予想以上に速く
目前に迫っていたアルの姿を捉えた。
上半身裸の白い巨躯が闇に残像を刻み、赤い瞳が光跡を引く。
危機を察知したギルタブルルが、足の爪をコンクリートに食い込ませて急制動をかけた直後、
「くびちょんぱぁっ!」
右から左へ大きく薙いだブリューナクの穂先が、サソリの喉元を浅く抉った。
その時、倉庫を回り込んで現れたずんぐりとした二つの人影が、その戦いの様子を目にして動きを止めた。
(これは一体…?アルビオンさん…?)
表向きは素直にアルの提案に従ったものの、その実エイルは大人しく撤退するつもりなど全く無かった。
アルの面倒を見る事は、同僚のアンドウのみならず、友人の兄からも頼まれている。
そんなエイルは今、ノゾムに肩を貸して貰いながら大きく目を見開いていた。
体中から蒸気を上げ、瞳を赤く輝かせている、様変わりしたアルの姿を見つめて。
異質な物を感じ取る事に長けたエイルの超感覚が、アルが何らかの能力を発動している事を捉えていた。
調停者に義務づけられている定期検診を含め、これまでに何度も検査を受けているはずだが、アルに能力を宿している兆し
があったとは聞いていない。
その事もまた疑問ではあったが、その発動しているらしき能力の作用が、この手の事に詳しいエイルにも良く判らない。
リミッターカットの継続発動による、ギルタブルルを圧倒する身体能力の発揮。
そして、適性が極端に低いにもかかわらず成し遂げている、未調整レリックの制御。
さらには、ギルタブルルの行動を先読みしているかのような、驚異的な反応速度。
ポカンと口を開けて呆然としているノゾムと、鋭い目で観察するエイルの視線を受けながら、戦闘に集中するあまりそれに
気付いていないアルが、ギルタブルルの右腕を半ばから斬り飛ばした。
(一種の身体強化…でありましょうか?)
エイルはこれまでにアルの身に起こった奇妙な現象について思い起こし、仮説を立てた。
一度目は、年末の戦闘において生死の境を彷徨う程の重傷を負った際。
昏睡から醒め、意識を取り戻した際、アルの身体からは腹部を貫通していた深い傷痕が消えていた。
二度目は、ギルタブルルの尾に刺された際。
傷も残さずピンピンしており、毒の影響は無かった。さらには、毒物が分解された形跡まで確認されている。
(あの白い蒸気は、全身の細胞が活性化した事によって体温が著しく上昇しているせいでありますかね…?リミッターカット
の長時間持続は、負荷で自壊してゆく筋肉や関節を即座に修復する事で可能にしている…?超高速修復能力の獲得と、レリッ
ク適性が上昇する身体強化型能力…。それが、アルビオンさんが獲得した能力でありましょうか?)
エイルは仮説を検証すべく、アルの動きを入念に観察し始めた。
闇に白い影と白い蒸気を残し、ギルタブルルに猛撃を加える白熊の姿は、エイルにある物を連想させた。
エイルが思い浮かべたそれは、進路の一切を飲み込んで蹂躙し、通った後を白ただ一色に染め上げる大雪崩であった。
ギルタブルルが背から肩の上を通して前に出し、鋭く突き込む尾を、眼前で風車のように回転させた槍で弾き返すアル。
続け様に繰り出されるそれらを残らず弾き、あるいは避けながら、白熊は大きく踏み込んだ。
槍を旋廻させながらそこへ巻き込むように突っ込むアルから、ギルタブルルはバネ仕掛けのような素早いバックステップで
間合いを取る。
白熊は槍の回転をゆるめつつも、さらに前へ出る。
そして、反撃すべく左のハサミを掲げたギルタブルルめがけ、素早く、流れるような動作で構え直した槍を、斜め下から素
早く振り上げる。
振り下ろされるハサミを跳ね上げて素早く引き戻し、槍の下に手を入れて支えるような姿勢で穂先の狙いを定めると、アル
は電光の如くそれを突き出す。
首を振って避けようとしたギルタブルルの肩を、ブリューナクの穂先が火花を散らして掠めた。
避けた姿勢から、尾で一撃すべく身を捻り、反撃に転じようとしたギルタブルルの体が、勢い良く真後ろへふっ飛ぶ。
槍を突き出した体勢から、引き戻しつつ半身になり、踏み込みと同時に繰り出した体重の乗った肘が、ギルタブルルの胸の
中央を捉えていた。
体からあふれ出しているような蒸気をたなびかせ、ギルタブルルを圧倒してみせるアルの姿を見つめながら、ノゾムは胸を
高鳴らせる。
(すごい…!肉弾戦であのギルタブルルを手玉に取ってる…!まるで、上位調停者みたい…!)
「ぼ、ぼくらも加勢を…!」
「いいえ、やめておくべきであります」
声を漏らしたノゾムに、肩を借りているエイルは首を横に振った。
そして、ノゾムに礼を言いつつ彼の肩から腕を外し、よろめきつつも身を離して壁に手をつく。
「あの戦速に割って入るのは困難であります。下手をすればアルビオンさんの邪魔になるかもしれないでありますから」
「う…?そ、そう…かも…」
言われてみればもっともで、闇に白い残像を、赤い目の軌跡を残して動き回るアルに援護を行うのは相当難しい。
腰に吊るしたホルスターから45口径のオートマチックを引き抜き、スライドを後退させて射撃準備を整え、レッサーパン
ダはギルタブルルを圧倒しているアルに視線を向ける。
「ですが、あれだけの動きを見せて反動が無いとも考え難いのであります。アルビオンさんの動きが鈍る様子が見えたら…、
その時は割って入るでありますよ」
「は、はい…」
(しかし、肉体の高速修復、及びあれだけの運動量を支えるエネルギーを、一体どうやって確保しているのでありましょう?)
アルが使用している能力の原理は、その手の事に詳しいエイルでも察せられなかった。
二人の視線には全く気付かぬまま、ギルタブルルのみに集中しているアルは、
(しぶといっスね…。この状態、たぶんもうそんなに保たないんスけど…)
変化を起こした自分の体が、近く活動限界を迎えるであろう事を、本能的に察していた。
素早く繰り出した三段突きは、身を斜めに構えたギルタブルルの左肩を三度掠めるのみに留まった。
ギルタブルルの強固な外骨格は、ブリューナクの鋭い穂先をもってしても易々とは貫けない。芯で捉えなければ曲面装甲に
弾かれてしまう。
右腕を失ったギルタブルルだが、痛みで動きを鈍らせる事無く反撃に移る。
槍を突き出し踏み込んだ直後の姿勢のアルめがけ、伸ばした左腕を斜め下から振り上げた。
弧を描いたハサミは、アルの顎を両断する軌道であった。
が、白熊は踏み込んだ左足をグッと踏ん張り、仰け反るようにしてその軌道から身をかわす。
そしてそのまま真後ろに倒れ込みつつ、左足を跳ね上げた。
腕を蹴り上げて隙を作り、後転の格好で地面を転げて身を起こしたアルは、飛び下がって間合いを外すギルタブルルを睨み
据え、中腰の姿勢で大きく腕を引いた。
メキッと音を立てて筋肉が膨張し、一層強く蒸気を吹き上げた左腕には、逆手に握られたブリューナク。
直後、激しく蒸気を発散させる左腕から、手槍が投擲された。
闇を切り裂く流星の如く、一直線に宙を走るブリューナク。
ギルタブルルの反応は素早く、畳んだ左腕をその軌道上である胸の前に縮め、ガード姿勢を取る。
「頑張るっス!ブリューナク!」
励ますようなアルの声に応じるように、手槍が宙で加速した。
レリックウェポン、ブリューナク。
その真価は投擲後に手元に戻るという事にはない。それは機能の一端に過ぎず、真価は使用者の意志に応えて自在に動くと
いう事にある。
アルの意志に応え、ブリューナクは加速しつつその角度を微妙に調節し、その穂先をギルタブルルの畳まれた腕、畳まれた
合わせ目に向けていた。
ブリューナクの穂先は甲殻と擦れて火花を散らしながら、こじ開けるようにして畳んだ腕の隙間に食い込み、抜けた先端が
サソリの強固な胸甲に浅く突き刺さる。
勢いに押されて後退しつつも、何とかブリューナクを止めたギルタブルルは、胸に食い込む手槍から視線を外し、素手になっ
た相手を見遣る。
銃を抜くと予想していたギルタブルルはしかし、すぐ手前まで迫っている、全身から白煙を吹き上げ、雪崩の如く迫り来る
白い巨躯を目にしていた。
投擲直後、崩れた体勢を立て直したアルは、すぐさまブリューナクの後を追っていた。
加速をつけて接近し、地面を蹴り、低く長い跳躍をしつつ身を捻る白熊は、
「くしざしぃっ!」
ギルタブルルに突き刺さったままの手槍の柄尻に、加速と全体重をかけた跳び蹴りを叩き込んだ。
一点突破。槍の穂先ただ一点に集約される力。
アルの体重と加速を受け、ブリューナクの穂先はギルタブルルの胸甲を易々と貫いた。
ギルタブルルの背甲を突き破ってブリューナクの穂先が飛び出し、腕には手槍の柄が石突き部まで押し込まれ、同時にアル
の靴底が当たる。
串刺しになったまま、突進の勢いが乗った白熊に蹴り飛ばされ、ギルタブルルは洗車場の端まで飛び、壁に叩き付けられた。
ドシャッと壁の下に転がったギルタブルルに、四つん這いで着地しつつ勢いを殺して止まったアルが視線を向ける。
突進の際には強まっていた全身から立ち昇る蒸気は、アルの動きが止まった途端に勢いを弱め、ゆらゆらと揺れながらその
身を薄く包んでいる。
「や…やった…。やった…!勝った!アル君凄い!一対一でアイツに勝っちゃった!」
アルが身を起こした途端、固唾を飲んで見守っていたノゾムが声を上げた。
ギルタブルルにのみ神経を集中していたアルは、声に驚いて首を巡らせ、戦闘を見守っていた二人の存在にようやく気付く。
「な、何してるんスか二人とも!?引き上げたんじゃ…、エイルさん!?」
アルが驚きの表情を一転させ、責めるような顔と口調になると、太った狐の横に立つレッサーパンダは、無言かつ無表情の
まま、ついっと横を向いた。
「ちょ!?何で目を逸らしてんスか!?こっち見るっス!どういう事っスか!」
ドスドスと足取りも荒く二人に歩み寄ろうとしたアルは、数歩進んだ所で足を止め、弾かれたように振り向いた。
赤い瞳が見据えた先の壁際で、破損した壁のかけらをパラパラと落としながら、サソリが立ち上がっていた。
「う…、うそ…!?」
目を丸くしたノゾムの横で、エイルも眉をピクリと動かした。
アルの一撃はギルタブルルの活動中枢を破壊している。間もなく停止するはずであったが、動ける以上は油断できない。
ぎぎ、ぎぎぎぎ…、と軋み音のような声を漏らしながら、串刺しになったままのギルタブルルはゆっくりと身を屈め、突如
跳躍した。
高く跳んだギルタブルルは、洗車場の壁の上に着地すると、三人に視線を向ける事もなく身を翻し、傍の建物の屋上目がけ
て跳び上がる。
アルを殺す事は不可能と判断したギルタブルルは、迷わず逃走を開始した。
反射的に発砲したエイルと、射程ギリギリで発火能力を行使したノゾムだったが、銃弾は惜しくも逸れ、炎の華は僅かに届
かず、サソリは屋上へと到達した。
「本当にしぶといっスね!」
ぐっと身を屈めて駆け出す寸前の体勢になった途端、アルの体に変化が起こった。
足からカクンと力が抜け、「う?」と呻きながらその場で片膝を着く白熊。
瞳の赤々とした輝きが不意に弱まり、すぅっと燐光が失せて普段通りの薄赤い目に戻る。
同時に、全身から立ち昇って身を覆っていた蒸気が勢いを弱め、やがて完全に途絶えた。
「あ、あれ?なんか急に力が抜け…」
目を丸くして足を見下ろしながら呟いたアルは、言葉を途中で切り、顔を引き攣らせた。
「いっぎゃぁあああああああああああああああスっ!ああああああ足っ!あししししし!足攣ったぁああああああああっス!
あぎゃー!手もぉおおおおおおおおおっ!?せなっ、背中いてぇえええええええええええええええっス!」
突如全身の筋肉が痙攣を始め、至る所で激痛が走り、アルは悲鳴を上げて地面を転げ回る。
「あ、アル君!?アル君、大丈夫!?」
駆け寄って屈み込み、オロオロと声をかけるノゾムの前で、アルは背を反らせて身を捩った。
「し、っしし尻までっ!?尻まで攣ってるっス!腿の裏いでース!あぎゃーっ!」
のたうち回るアルの状態を冷静に分析し、ようするにかなりキツい反動が出ただけだと判断したエイルは、
「ノゾムさん。アルビオンさんをお願いするであります」
「え?お、お願いって…」
訝しげな声を上げて振り返ったノゾムに、エイルが小さく頷く。
「お陰様で少しなら動けるようになったでありますから、自分が追跡するであります」
そうのたまったエイルのふくらはぎは、未だパンパンに張っており、気を抜けば攣ってしまいそうに痙攣していた。
だが、苦痛に耐える事には慣れている。回復していない事をノゾムには全く悟らせない。
「わ、判りました。けど…、あ、アル君は?大丈夫なんですか?」
「自分が見た所、反動が来ただけで危険は無いようでありますから、とりあえず傍についていて頂ければ結構であります」
戸惑うノゾムにそう告げるなり、エイルは駆け出した。
右手に拳銃を、左手にアーミーナイフを握り締めて。
ブリューナクが胴に突き刺さり、串刺しの状態になったまま、ギルタブルルはよろめきながらも建物の屋根を飛び移り、ア
ルから距離を取ろうとした。
やがて、十分に距離を取ったと考えたギルタブルルは、追って来る何者かの気配を感じて振り返る。
倉庫を迂回するように走り出て、自分を見上げたずんぐりとした人影は、先程も交戦した、相手にし辛いレッサーパンダで
あった。
効率的により多くの対象を殺せと命じられているギルタブルルからすれば、優先的に相手をすべき対象ではない。
だが、ギルタブルルは己に残された活動時間を鑑みて、他の対象を探している時間は無いと判断し、エイルと対峙する事を
選んだ。
もうじき活動が停止する事も、自らの肉体が激しく損傷している事も、ギルタブルルにとってはただの「状況」でしかない。
己の生に終わりが来る事にも、一切の感慨を抱いてはいない。
悲しいまでに純粋な、戦闘の為にのみ造られた彼は、しかしそんな己を悲しいとも思わない。
アントソルジャー等が持つ本能に近い恐怖や怒りすら、完全なる兵器を目指して製造された彼には与えられていなかった。
もうじき機能停止するはずの生物兵器を見上げ、エイルは拳銃を握り締めた右手をすぅっと上げた。
倒せずとも、時間稼ぎさえできれば良い。
トリガーハッピーの仕込みをする余裕も無かったが、今のギルタブルル相手にならば、万全でない自分でも足止めが可能で
あると考えている。
止まる前に殺せるか、止まるまで生きていられるか、そんな戦いが今にも始められようとしていたその時、エイルが目を見
開き、ギルタブルルが素早く振り向いた。
横手の一際高い建物の上から、まるで夜空の一部を切り取ったように、黒い、闇の塊のような大きな何かが、風を押し退け
て跳んでいた。
ギルタブルルの横手、5メートル程離れた位置に足音も無く着地した巨熊は、バイザーで覆い隠した双眸に、回収対象とな
る二つの存在を映す。
すなわち、裏切り者によって持ち出された兵器、ギルタブルルと、主が求めるレリックの一つ、ブリューナクを。
しかし回収対象の一方、白熊によって徹底的な破壊をもたらされたギルタブルルは、間もなく機能を停止する。
生きたまま連れ帰るのはもはや不可能と判断した巨熊は、胸の前にゆっくりと左手を上げ、ゴキリ…と、音を立てて指を蠢
かせた。
(…何者でありますか?調停者…、ではなさそうでありますね?)
突如現れた巨大な熊を見上げながら、エイルは目を細くする。
赤銅色の被毛に、2メートル半はあろうかという巨躯。そして、纏ったインバネスコートの上からでも判る、どっしりとボ
リューム感があるその体型。
(…似ているであります…)
友人の兄に良く似ている。エイルはそう感じていた。
双眸こそ黒いバイザーに覆われて見えないものの、顔立ちがやや異なっている事は判った。
それでも似過ぎている。赤の他人にしてはあまりにも。
だが、似ているはずの二者が纏う雰囲気は、明らかに異なる。
インバネスコートにズボン、黒い手袋にブーツなど、洋装に身を包んでいる事もまた大きな違いであった。
そして何より大きく異なっているのは、その気配である。
確実にそこに居る、完全に視界に捉えているにも関わらず、見上げる巨熊は不自然な程に気配が薄い。
鋭敏な感覚の持ち主であるエイルでさえそう感じている以上、他者であれば真後ろに歩み寄られても気付けない事は想像に
難くない。泰然と構え、静かで穏やかに振る舞ってもなお、聳える山のような存在感を持つあの神将とは、その点が何より大
きく異なっている。
山は山でも、風のない闇にひっそりと沈む、夜の山のような男であった。
正体も所属も不明の巨熊は、警戒しつつ観察するエイルの視線を意にも介さず、ギルタブルルに向かってゆっくりと踏み出
した。
サソリが身を屈め、対処すべく構えたその瞬間、熊の巨体は闇と同化して消え、瞬時に目前に達していた。
パッパッと、光が瞬いたように見えた。
ただそれだけで、ギルタブルルも、エイルも、一切の反応を示す事もできない刹那の間に、巨熊は右手を脇腹につけ、横向
きになった格好で左腕を突き出している。
「断息(だんそく)…」
人差し指から小指まで、四本の指を揃えて突き出されたその手が、ギルタブルルの顎下から胸元、ブリューナクが突き刺さっ
たそのすぐ上までの範囲に、手首まで埋没していた。
まるで紙でも破るように、抜き手で易々と甲殻を貫き、首の後ろから指を突き出させた巨熊は、ゆっくりと手を引き抜いた。
ギルタブルルの首から胸にかけて、巨熊が触れた部位が消失し、まるで抉られたかのようにぽっかりと穴が空いている。
その凄惨なはずの傷はしかし、接触の瞬間、ほんの一瞬だけ発生していた高熱で灼かれ、体液の一滴すらも流れ出ておらず、
どこか現実味がない。
ゆっくりと前に倒れかかったギルタブルルの体を、巨熊が腕を下に入れる形で支える。
身構えたその瞬間を最後に、ギルタブルルは自分に何が起こったのかも認識できぬまま葬られていた。
見上げたまま身動き一つできずに、エイルは考える。
巨熊が何らかの能力を使用した事は判る。だが、短い発光を残す瞬間的な発動のみで加速、姿勢制御、破壊を行ったそれが
エナジーコートであるらしい事を理解するまでは、少々かかった。
全く底が見えない。
ダウド・グラハルト。神代勇羆。彼ら同様、自分に推し量れない程の力量を持つ存在…。
一体何者なのか?そう誰何の声を上げようと口を開きかけたエイルは、
「あ〜っ!?殺してもうたんでっかランゾウはん!?」
突如少し離れた位置で上がった声に、耳を動かしつつ振り返った。
エイルの横手、広場の方から来たらしい三毛猫は、エイルには目もくれず小走りに建物に寄り、仕留めたギルタブルルを支
えている相棒を見上げた。
「そいつ高級品やてさっき釘刺したのにぃっ!」
泣きそうな顔で抗議した三毛猫は、そこでやっとエイルに気付くと、眼を細めて彼女のなりを観察し、ジャケットの胸元に
刺繍されている、小さなアルファベットの列を捉えて目を丸くした。
「…ヤバっ!なんでこんなトコにブルーティッシュがおるのん!?」
エイルの反応は早かった。
右手を真っ直ぐに伸ばし、三毛猫の胸に銃口をピタリと据えている。
三毛猫が発した言葉から、彼女は察していた。相手が、自分達と出会って「ヤバい」と感じる立場の者なのだと。
「手を上げて跪くであります。抵抗はせず、身元を明らかにして…」
投降を呼びかけたエイルは、その途中で言葉を切る。
巨熊が、ブリューナクによって串刺しになっているギルタブルルを右肩に担ぎ上げつつ、射線に割って入るように屋根から
飛び降りた。
着地の瞬間を狙って警告も無く発砲したエイルは、しかし立て続けに四度トリガーを引いた後、動きを止めた。
素早く動いた巨熊の左手が開かれると、小さな塊が地面に落ちる。
それは、掴み取られ、握り潰され、融解して一塊になった四発の銃弾であった。
銃口の向きから射線を割り出し、力場で覆った手で弾丸を掴み止める…。
以前友人が見せた常識外れの離れ技を、弾丸を溶かすという現象まで加えてやってのけた巨熊を前に、エイルは確信した。
自分ではこの男に勝てない。そしておそらく、逃げる事も不可能だと。