Evolution of White disaster (Finale)

エイルは、拳銃を構えたまま動けなかった。

黒いインバネスコートに身を包む、赤銅色の巨熊を前にしたまま。

ギルタブルルの死骸を地面に放り出した巨熊は、胸の前に上げた左手をゴキリと鳴らす。

身構えたままのエイルは、その直後に突風に叩かれた。

目前に聳えるは、黒を纏う赤銅色の巨躯。

頬をなぶる風に被毛を揺らめかせながら、エイルはゆっくりと視線を上げた。

一瞬たりとも気を抜いてはいない。にもかかわらず、ここまでの接近に一切の反応を示す事ができなかった。

黒いバイザー越しに投げかけられる、浮かぶ感情も定かではない静かな眼光。

死を覚悟した次の瞬間、エイルは違和感に気付いた。

両手が、いやに軽い。

そう感じた直後、巨熊は左右に両手を上げ、手にしていた何かを地面に落とした。

地面に転がったそれは、反応すらできなかったエイルから奪われ、握り潰されていびつな金属のオブジェと化した、拳銃と

アーミーナイフであった。

巨熊はしばしエイルの顔を見下ろしていたが、不意に右足を引くと、その場でくるりと踵を返す。

一瞬で武装解除させられたエイルは、巨熊の背を見つめながら、微かに眉根を寄せた。

実力差は判っている。例え体力が万全の状態だったとしても、ここまで距離を詰められれば、まともに戦うどころか、逃げ

る事もできはしないと、エイルは実感している。

自分を殺す事は容易いはずなのに、何故背を向けるのか?

真意を測りかねたエイルは、立ち去ろうとする巨熊の広い背に問う。

「見逃す…、という事でありますか?」

少しだけ首を捻り横顔を見せた巨熊は、エイルを一瞥しただけで再び前を向き、完全に背を向けたまま悠々と歩き出す。

無言ではあったが、エイルはその一瞥を肯定と受け取った。

途中でギルタブルルを担ぎ直し、一部始終を見守っていた三毛猫の元へと足を運んだ巨熊は、

「…ほな帰りましょか」

安堵したように発された三毛猫の言葉に頷き、並んで歩き出す。

エイルが視線を注ぐ中、二人の姿は闇に溶けて消えた。



廃工場からかなり離れた位置、警察の封鎖が及ぶ区域外の、雑木林に囲まれた空き地で、

「…ところで、何ですのん?ギルタブルルに刺さっとるソレ?」

保冷車の荷台へギルタブルルを放り込んだ赤銅色の巨熊に、三毛猫がそう訊ねていた。ギルタブルルの胸を貫く手槍に、訝

しげな視線を向けながら。

「レリックみたいやけど…、何やええもんでっか?」

頷いた巨熊が荷台のハッチを閉めると、三毛猫はフンフン頷きながらコートを脱ぎ、「お〜さぶっ…!」と呻きつつ体を抱

え込むようにして背を丸め、腕を組んで身震いする。

コートの下には緑色の作業服…、カモフラージュの為の宅配業者の制服が着込んであった。

巨熊はその格好のまま助手席へ、三毛猫はフード付きのコートを丸めながら運転席へと、それぞれ向かう。

「危ないトコやったけど、オカダはんの始末も済みましたし、ウチの内情をバラされる心配はとりあえずありまへん。分解寸

前やて知られてもうたら、他の組織どころか、調停者連中まで押しかけて来るはずやしなぁ…。お嬢はんが実権握るまで、何

とかごまかしてかんと…」

運転席に乗り込みシートベルトを締めた三毛猫は、ブツブツと呟きつつ助手席側を見遣った。

巨熊は何故かドアを半分開けたまま乗り込まず、トラック横手の枯れ草の茂みへと視線を向けている。

「ランゾウはん?どないしはりました?」

三毛猫の問いには応じず、巨熊は茂みをじっと見つめている。正確には茂みの中、闇の中にポツンと佇む真っ白な猫を。

鈴つきの赤い首輪をはめている白猫は、枯れた草の中から巨熊を見つめ返していた。

(何者でしょう?ユウヒさんに似ている…)

マユミの赤い瞳を黒いバイザー越しに見つめていた巨熊は、やがて視線を逸らし、助手席のドアを大きく開ける。

乗り込むその直前に、巨熊は一度だけ振り返った。

バイザー越しのその視線を受け、マユミは総毛立った。

気付いている。

巨熊の視線に込められた、そんな意思を察して。

だが、巨熊は一瞥をくれたきり、マユミには何もせず、何も言わず、窮屈そうに身を縮めて助手席に体を押し込んでドアを

閉めた。

「出してもええんでっか?」

巨熊は相変わらず黙り込んだまま、三毛猫の問いに顎を引いて頷く。

車を出し、無事に任務を終えた安堵と、これからの事に頭を悩ませる三毛猫の横で、巨熊は思い出していた。

一度は追い込まれながらも、最後にはギルタブルルを圧倒するだけの力を示した、あの若い白熊の事を。

だがそれも短い間の事で、車が走り出すと同時に巨熊は別のものを思い浮かべる。

その頭には、自分達の帰りを待っているはずの、ショートカットの若い女の顔が浮かんでいた。

大手配送業者の保冷貨物に擬装された車に乗り込み、任務を達した二人は、夜闇に紛れて東護を離れる。

それを見送るマユミの胸中では、見逃されたという安堵と、あの巨熊が何者なのかという疑問が、織り交ぜられて渦巻いて

いた。



「申し訳ないであります」

巨熊と三毛猫が去って間もなく、仲間を引き連れて駆け付けたトウヤは、敷地内で彼女が見聞きした一部始終の出来事と、

取り逃がしたという報告をエイルから聞かされても、彼女を責めはしなかった。

「いや、貴女が無事で居てくれてよかった…」

ほっとしながら応じたトウヤは、目を細めて呟いた。

「ギルタブルルを素手で殺す熊…。そしてあの三毛猫…。一体何者だろう…?」

ギルタブルルが破壊された事は確かだが、その死骸は持ち去られている。

自分達の手でケリをつけたとは思えず、事件が終息したという実感は乏しい。

トウヤの指示で肩を貸した調停者達に支えられ、一足早く敷地外へ向かいながら、エイルは大事な事を思い出した。

(…ブリューナク…。持って行かれてしまったであります…)



運転席でハンドルを握った三毛猫は、保冷車を高速に乗り入れさせながら口を開いた。

「ギルタブルルの生け捕り失敗は残念やったけど、お嬢はんが探してはったモンが見っかったのは僥倖でんな!きっと喜ばれ

まっせぇ!」

顔を綻ばせる三毛猫の隣で、助手席の巨熊はおもむろに口を開いた。

「モチャ」

「はいな?」

視線を横に向けた三毛猫に、巨熊は短く一言だけ告げる。

「腹減った」

それが、ランゾウが本日の日没後にまともに喋った初めての言葉であった。

視線を前に戻しつつ、モチャは苦笑いする。

「んじゃ、ある程度離れたらサービスエリアで何か食いましょか」

寡黙な巨熊はやはり無言で相棒に頷くと、小さく息を吐き出しながら、突き出た腹をコート越しに、切なそうにさすった。



「あひっ!あひひひひぃ!ちょ、くすぐったいっス!」

「そ、そんな事言ったって…。じゃあこれならどう?」

「あ、あふっ…、そ、ソコは…、ちょっとキツ…!」

意外にも元気そうな声を耳にして、ほっとしながらアルとノゾムが居るらしい洗車場を覗き込んだトウヤは、バッと身を引

いて建物の陰に隠れた。

「どうかしたんで?」

「い、いやいや何でもない!何でもないんだ!」

後続の調停者達に、引き攣った笑みを向け、

「元気そうだ!歩いてあっち側に向かってる!心配要らないからこっち側を回って帰ろう!な!?」

トウヤは両手を広げて皆を通さないようにしつつ、ぐいぐいと強引に引き返させた。

洗車場の真ん中では、仰向けに寝転がった上半身裸の白熊に、狐が覆い被さっていた。

「あ、あふん…!ちょ、ちょっとキツいっス!痛っ!痛たたたたっ!」

「でも、引っ張っておかないとまた攣っちゃうよ?」

太い脚を抱え込むようにしてぐいぐいと引っ張り、背中から尻にかけて攣っている筋肉をほぐしているノゾムと、おかしな

声を上げているアルを目にし、トウヤは妙な早とちりをしてしまった。

その誤解は、翌朝、全身筋肉痛になったアルからリミッターカットの反動で大変だったとの事情を聞くまで続く…。



「監査官になるって道もある」

患者衣姿の太った警官にそう言われ、太った狐はベッドの上で思案するような顔つきになった。

激戦から一夜が明けた、午前十一時。

ノゾムは昨夜、病院を抜け出して勝手に行動した事について、カズキとトウヤからそれぞれたっぷりと小言を貰った。

しかし、非常に助かったとのエイルの弁護もあり、それほど目くじらを立てられる事は無かった。

叱られはした物の、ノゾムは嬉しかった。

済まないと思いながらも、カズキやトウヤ、他の調停者仲間達が、お荷物に過ぎなかったはずの自分を、本気で案じてくれ

ていたのが伝わって来て。

今更ながらに狐は気付いた。

自分は確かに足手纏いで、お荷物である。だがそれでも、仲間達に邪険に扱われた事は一度もない。

自分は幸せ者だとつくづく思う。

皆の暖かな思いを感じられるからこそ、ノゾムは、もう少し踏ん張ってみようと思えた。

「裏方ではあるが、監査官も調停者と同じだ。調停者認定を受けている者の審査は緩いものになるし、筆記が重視されるから、

試験に限ればお前向きだろう。目を痛めた事だし、現場から一歩引いたポジションに就くのも…」

一度言葉を切り、「どうだ?」と訊ねたカズキに、ノゾムはペコリと頭を下げた。

「…せっかくですけれど…、ぼく、もうちょっと調停者を続けてみたいと思うんです…」

口調は相変わらず控えめだったが、ノゾムの声に今までよりも張りがある事に気付き、カズキは少しばかり不思議そうに目

を細めた。

ノゾムは今回の件で学んだ事、感じた事、そしてこれからしたいと思う事を、カズキに訴えた。

上手く纏められず、時に言葉を選び、時に話が堂々巡りして長い物になったが、カズキは遮る事なくノゾムに全て語らせた。

「お願いします…!ぼくから、認識票を取り上げないでください…!」

頭を下げるノゾムを見つめながら、カズキは黙考した。

ノゾムの担当監査官であるカズキには、場合によっては彼の調停者認定を取り消す権限がある。

怪我の功名で能力が引き出され、暗夜戦に適応するという機能の特化を見せたものの、その目は色を判別できず、さらには

強い光に弱くなっている。

視覚に重大なダメージを受けたという理由がある今、ノゾムの認識票を返上させる事は難しくない。

そして、その方がノゾムの身も安全である事は、誰が考えても明らかであった。

だが、ノゾム本人がそれを嫌だと言う。

ただ引退するのが嫌ならば、繋がりのある仕事として監査官を目指しても良いと提案してみたのだが、これも断られた。

調停者として目覚しい成果を上げたとは言えないが、やむを得ぬ理由とカズキの口添えが得られる今、調停者を辞めても、

能力者としての監視を受けない権限が与えられる。

自由を手に入れるという意味では、ノゾムは既に目的を果たしていた。

それでもノゾムは、今は調停者を続けたいと強く願っている。

自由への逃げ道として調停者を選んだはずのノゾムが…。

『ああいう坊主こそ、後々どエラい野郎になるもんじゃ。臆病なんは欠点じゃあなか。その方が生き残りやすいでよ。向こう

見ずこそ早死にしやすいでなぁ。がはははは!まぁ、ノゾムについちゃあいずれグッと伸びる。保証してもよかとよ?』

旧知の、殉職した調停者が言っていた事を思い出し、カズキは少しばかり寂しげな微笑を浮かべる。

(ドッカーが言っていた通り…、本当に化けたなぁ…)

小さくため息をついた後、カズキは口を開いた。

「判った。おまえ自身がそう言うなら、もう無理に勧めはしない。頑張れる限りは続けてみろ」

「は…、はいっ!有り難う御座います!」

ガバッと勢い良く頭を下げたノゾムは、頭の傷が痛んで「きゅぅっ!」と妙な声を上げる。

「ははは!まずは傷を治す事だな。眩しいのが苦手になった事についても対策を練らなきゃいかんし、しばらくは大人しく養

生しろ」

「養生しなきゃいけないのは、カズキさんもっスよね?退院予定が決まったって言っても、本調子じゃないんスから」

笑い声を耳にし、話が終わったらしい事を察してドアを開けたアルは、全く大人しく養生しないカズキに意地の悪い笑みを

向けた。

「そう言うアルビオンさんも、ちっとも大人しくしてくれないでありますが?」

同行して来たレッサーパンダは、先に入った白熊の後ろでドアを閉めつつチクリと一撃を加える。

全身の筋肉がパンパンに張れ上がり、歩くだけでピキピキ痛むアルだったが、どうしてもノゾムの見舞いに来ると言って聞

かなかったのである。

「う…、お、大人しくするっスよ…。けど、明日には帰るんスから…」

ごもごもと応じたアルは、立ち上がったカズキに視線を向ける。

「あれ?行っちゃうんスか?」

「ああ、定時検査があるんでな。…悪い数字が出れば、明日の退院予定取り消されるかもって話…。検査ついでに判ったんだ

が、脂肪肝だってよ…これからは食生活にも注意だと…」

「油物と塩分を控える事をお勧めするでありますよ、タネジマ監査官」

「そりゃどうも…」

自分を完全に棚にあげた忌憚のないエイルの意見を耳にして、居心地悪そうにカズキが出て行くと、

「では、自分も用事があるので外すであります。夕方には事務所に戻れるでありましょう。ノゾムさん、お大事に」

「あ、はい。有り難う御座います」

入って来てすぐだというのにレッサーパンダはさっさと出て行き、アルとノゾムは閉じられたドアを眺める。

しばらくそのままで居た後、突っ立っているアルにノゾムがおずおずと声をかけた。

「…えと…。座ったら?」

「あ、うん…。そうっスね…」

背もたれのない椅子を二つ寄せ、軋ませながら座ったアルは、少し俯きながら口を開いた。

「オレ…、明日帰る事になったっス…」

先程アルがごもごもと口にしていた際に気付いていたノゾムは、「そうなんだ…」と、寂しげに顔を伏せながら、小さな声

で応じた。

しばらくの間、気詰まりな沈黙が落ちた。

短い間の交流ではあったが、二人は互いの間に通じた友情を、確かに感じている。

互いに未だ17歳の調停者という希有な存在である共感。似た好みを持つ親近感。

友人の少なかった二人にとっては、ほんの短い交流の時間ですら、実に楽しいものであった。

「…オレ、気付いて無かっただけで、能力者だったみたいっスね…」

気詰まりな沈黙を破ったのは、アルの方であった。

「うん…。アレ、すごかった…!アル君の体がまるで、雪崩みたいに見えて…」

口元を綻ばせてノゾムが言うと、俯いたアルは照れ臭そうに、「えへへ…!」と声を漏らす。

「細かい検査はまだっスし、詳しい事も判ってないっスけど、身体機能変化とか、強化とか、そっちの方らしいっス」

ポリポリと頬を掻いたアルは、上目遣いにノゾムを見た。

「オレ達…、同じに…なったっスね」

「…うん…。そう…だね…」

見つめ合う二人は、やがてどちらからともなく笑みを浮かべた。

「へへ…。えへへへへっ…!」

「ふふふっ…!」

二人揃って肩を震わせて小さく笑い声を零した後、アルは本題を切り出す事にした。

「あの…、ノゾム君?」

「うん?」

「その…。こっちに来る気…、無いっスか?」

大きな体を小さく縮め、もじもじしながら言った白熊に、狐は「こっち?」と聞き返す。

「うス。所属してたチームももう無いんスし…。首都に…、ブルーティッシュに来ないっスか?」

予想外の提案を受けて目を丸くしたノゾムに、アルは身を乗り出して続ける。

「一人でなんて、色々大変っスよね?オレと一緒にブルーティッシュで調停しないっスか?今ウチ人手不足で、リーダー達も

新しいメンバー探してるっスから!」

「で、でも…、ぼくなんかじゃ務まらないよ…」

国内最大の調停者チーム、ブルーティッシュ。

腕利きの調停者が集うそこへ自分が加わるのは明らかに場違いな気がして、ノゾムは首をプルプルと横に振る。

「そんな事無いっスよ!」

「だ、だってぼく、調停歴も浅いし…、実績もないし…」

「そんなのこれからっスよ!オレ、リーダーに頼んでみるっスから!相談してみたらエイルさんも頷いてくれたっス!ね?ど

うっスか!?」

期待を込めて熱心に勧めて来るアルの顔を見つめ、心が揺れたノゾムだったが、

「…ごめん…。行けないよ…」

目を伏せて、申し訳なさそうにアルに頭を下げた。

「…へ…?行けないって…、何でっス?」

きっと申し出を受けて貰えると思っていたアルは、困惑しながら、下げられたノゾムの頭を見つめた。

「そこまで言ってくれるのは、もちろん有り難いんだけど…」

ノゾムは顔を上げ、済まなそうに耳を倒しながらアルの目を見つめた。

「今は、東護も調停者不足で大変だし…、こんなぼくでも出来る事があるって判った…。ぼくなんかじゃ、居なくなってしまっ

たひと達の代わりは務まらないだろうけど…、それでも、ぼく…、この街を放っては行けない…」

アルの誘いは嬉しかった。同じ街で、一緒のチームで過ごせるならば、さぞ楽しい毎日となるだろう。

だが、そんな魅力的な誘いを、ノゾムは断腸の思いで断った。

少ないものの、優しくしてくれた友人が居る。

捨てられたも同然とはいえ、親兄弟が居る。

そして、自分の為に体を張ってくれた仲間達が眠っている。

そんな街を放って行く事は、今のノゾムにはできなかった。

ノゾムの言葉で現在の東護の状況を思い出したアルは、決まり悪そうに俯いて頭を掻いた。

「ご、ごめんっス…。オレ、名案だと思って浮かれちゃって…。気の利かない事言ってたっスね…」

恥じ入ってすっかり小さくなってしまったアルに、ノゾムは首を横に振った。

「ごめんね?気を遣ってくれたのに…。本当はね?ぼく、凄く嬉しいよ。誰かにこんな風に誘って貰えるなんて、これまで思っ

てもみなかったもん…」

微笑んだノゾムは腕を伸ばし、アルの手を取って顔を上げさせた。

「アル君。ぼく、この街で頑張る。頑張って、頑張って、そしてこの街が落ち着いて、ぼく自身がちゃんとした調停者になれ

たら…、アル君がリーダーさんに勧めても恥ずかしくないような、そんな調停者になれたら…、その時は…」

ノゾムの言葉を聞いているアルの顔が少しずつ変化し、やがて笑みが浮かんだ。

「…うス!お互い頑張るっス!頑張って頑張って、立派な調停者になるっス!そうしたら、きっと…!」

いつ命を落とすかもしれないこの仕事において、未来の約束はあまりに頼りなく、次に会える時までお互いが無事で居られ

る保証すら無い。

それでも若き調停者達は、笑みを浮かべながら頷きあう。

いつか立派な調停者となり、轡を並べる自分達の姿を夢想し、しっかりと手を握りあって。

「ぼく、自分の力で、ブルーティッシュに入れて貰えるような、立派な調停者を目指してみる!どれぐらいかかるか判らない

けれど、タカマツさんや、リーダー達に恥じないような…、お陰さまでここまでになれましたって、胸を張って言えるような

調停者になる!」

「うス!離れてたって応援してるし、勿論オレも負けないぐらい頑張るっス!だからきっと…、きっといつか、一緒に調停す

るっスよ!」



アルとノゾムが約束を交わしている病室の、すぐ外の廊下では、

「…少しばかり、軽く見ていたかもな…」

エイルと並んで壁に寄りかかったカズキが、嬉しそうな微笑を浮べて呟いていた。

少し顔を上げたエイルは、横に立つ太った警官をやや見上げる形で見遣りながら尋ねる。

「軽く、でありますか?」

「ああ。あんな良い条件の話を断るとは、思ってもみなかった…」

顔を顰めるようにして苦笑し、カズキは先を続ける。

「アルがあんな誘いをするとも思ってはいなかったが、それを断るとも思っていなかった…。…おまけに…、この街を放って

行けない…だなんてな…」

少し震えた声を途切れさせ、カズキは天井を見上げる。

そうしなければ、嬉し涙が頬を伝い落ちて行きそうだった。

自由になるための逃げ道として調停者を選んだノゾム。

彼に対して便宜を図るつもりで引退を促したカズキだったが、自分のその気遣いが無用であった事を恥じると同時に、嬉し

くて嬉しくて仕方が無かった。

年末の事件では、多くの調停者が居なくなった。

一時期は弟のように面倒を見てやり、寝食を共にしていた、少々世間知らずながらも優秀な調停者も、その事件で消息不明

となっている。

その相棒となった金色の熊もまた、昏睡状態で入院していた病院から忽然と姿を消し、行方が知れない。

そして今年に入ってからも分類不明の強力な危険生物の手にかかって数名、さらに今回の事件でも古株の調停者が殉職した。

年末の事件を皮切りに失ってゆくばかりだった。

だが今、若き調停者が決意を新たに、自分の意思で歩み始めている…。

しっかりとした自分の意思を持って、この街を守ろうとしている…。

「大人なのかもな、もう…」

「男の子は、大人にはならないでありますよ」

エイルの言葉に、視線を落とすカズキ。

「「男の子」はただ、「男」になるだけであります。ノゾムさんはまだ少々頼りないところもあるでありますが、いずれ立派

に男立ちするでありましょう」

「…それは、君の男性観なのか?」

「我らがサブリーダーの男性論であります」

少しばかり意外そうに尋ねたカズキは、エイルの返答を聞いて「なるほど」と唸る。

「なお、「いつまで経ってもガキの場合もある。特に脳の構造が性質の悪いエロガキのままの場合が」とも言っていたであり

ます。我らがリーダーも少々その気配があるとか…」

「…英雄、ダウド・グラハルトをそこまでこき下ろせるのは、世界広しといえどもあの女傑ぐらいだろうな…」

言葉を交わした事は殆どないものの、凛々しく美しい灰色の猫の立ち振る舞いや言動を思い起こしたカズキは、一度言葉を

切ってちらりとエイルを見遣る。

(…あるいは、この子もこの口調で彼を弄ったりしているんだろうか?真意がつかみ難いが、物言いが嫌にストレートな事だ

しなぁ…)



黒いスーツに身を包んだトウヤは、仲間達と共に事務所に帰り着くと、ため息をつきながらネクタイを外した。

殉職した仲間の葬儀に参列し、別れを済ませて来た一行は、沈んだ表情を隠しきれないでいる。

(皆疲れているし、無理も無いが…)

トウヤはそれとなくメンバー達の顔を伺い、静かに息を吐き出す。

(この沈んだ空気は、そうすぐには軽くならないだろうな…)

ギルタブルルは破壊された。死骸こそ回収できなかったが、所属不明の二人組みに回収される前に、エイルが活動停止を確

認している。

今回の事件の首謀者であるオカダウンジは殺害された。できれば生きたまま捕らえて、取引相手先などの情報を得たかった

が、資料類は所持しておらず、身につけていた携帯からは一切のデータが消されており、これについてはもはやどうしようも

ない。

あと三日ほどで退院して来るノゾムに、今後も調停者を続けさせると決めた事は、カズキからの連絡で知っている。明るい

情報といえばこれだけであった。

(…ああ…。彼も明日には帰るんだったな…)

トウヤはデスクにつきながら、ワイシャツの襟元を緩めた。

考えてみれば、アルは戦力としてだけでなく、ムードメーカーとしても皆を支えてくれていた。

本人にその意識は無かったかもしれないが、あのむっくりした白熊は、苦難に面し、ともすれば沈みがちになる皆にとって、

場を和ませてくれる愛すべき若手であった。

トウヤ個人に至っては、面倒を見るというユウヒとの約束がきっかけとなり、短い間だったがペアを組んで動いてきた。

アルは彼にとっても、親しみやすく手間のかからない、優秀な助っ人であった。

土産に持たせてやる品の事を考えながら、寂しげな表情を浮べてトウヤは呟く。

「…寂しく…なるなぁ…」

大変になるという事よりも、寂しくなるという事を先に意識している事に気付き、トウヤは苦笑しながらかぶりを振った。



あれからずっとノゾムの病室で過ごし、日が暮れてから事務所に戻ったアルは、カレーの香りを嗅ぎ取って鼻を鳴らした。

「…いい匂いっス…。エイルさんが?いやまさか…、あのひとが作ったらまともな匂いがする訳無いっス…」

首を捻りながらかなり失礼な事を呟いたアルは、リビングに入った所で目を丸くした。

「あ。おかえりなさい、アル」

笑みを浮べてキッチン側、カウンターの向こうから顔を覗かせたのは、最愛の恋人である少女。

「ただいまっス!…いい匂いっスね…?」

成績優秀、スポーツ万能、何でもこなす少女の唯一にして最大の欠点が、その殺人的破壊力を有する料理の数々を生産する

調理技術である事を、以前から数度、身を持って痛感しているアルは、やや引き攣った笑みを浮べながら、それとなく探りを

入れた。

「はい!珍しく上手く行きました!何回も失敗して、半日かかっちゃいましたけど…」

なるほど、半日かけて頑張ったおかげでまともな料理ができたのか。などと納得し、安堵するアルの視界に、アケミの横か

らひょこっと顔を出したレッサーパンダが入った。

「力作でありますからして、大いに期待して欲しいであります」

「………」

アルの胸中で、重苦しい不安が首をもたげた。

ひょっとして、決して共同で料理に当たらせてはいけない二人が、今夜は揃ってしまったのではないだろうか?

畏怖に近い感情が、白熊の中で膨れ上がって行く…。

「共同制作のブラックカレーであります」

「色は私がいつも作るのと変わらないですけれど、これはデフォルトで黒いんですからね?失敗じゃないんですよ?」

通常の作り方をしても黒くなっているというのは、焦げなのか?それとも何か混ぜているからなのか?

しかしそんな内心の不安は口に出さず、アルは「へ、へぇ〜…。楽しみっスねぇ…。は…はは…」と、少しばかり硬い笑み

を浮べながら応じた。



程無くテーブルに並べられたのは、真っ黒なカレールーが入った器と、通常色のカレーが入った器、そして市販のナン。

アルとエイルの前には、辛口にしたというブラックカレー。

辛いのは少し苦手という事で、アケミの分だけ市販の品…、お湯に入れて暖めるだけという袋入りカレー、カレーのお姫様

(激甘)である。

実物を前にしたアルは、内心で胸を撫で下ろし、安堵していた。

ジャガイモやニンジン等の具は、刃物の扱いに慣れているエイルが切ったらしく、見栄えは良い。

普通のカレーとは少々異なるが、多数のスパイスが混ぜ合わされた濃厚な香りが食欲をそそる。

見た目からも匂いからも、異常は感じられなかった。

アケミとエイルは今日が初対面になるのだが、気が合うのか、すっかり打ち解けている。

「では、いただくであります」

「頂きます」

「いただきまっス!」

ナンを手に取ったアルは、香りがまともなブラックカレーを塗りつけて、笑顔でかぶりつき…、

(痛っ!?!?!?)

口の中に刺すような痛みを感じ、ナンを口から離した。

(い、いでぇえええええええええーっス!?辛いとかもうそういうレベルじゃないっス!痛いっスよ痛い!なんスかコレ!?)

硬直しているアルに、モソモソと真っ黒いナンを咀嚼しているエイルと、甘口カレーをつけて上品に食べているアケミが視

線を向ける。

「どうかしたでありますか?」

「もしかして…、失敗しちゃっていましたか?」

「え?い、いや、そんな事ないっスよ!?美味いっス!」

唇や舌にビリビリとした痛みを感じながらも、アルは引き攣った笑みを浮かべて応じる。

表情一つ変えずに同じ物を食べているエイルをチラリと盗み見た白熊は、

(何で平気で食べられるんスか?コレを…)

戦慄すら覚えつつ、心の中で呟いた。

「あ。そういえば、ちょっと訊きたいんスけど…」

しばしナンの何もついていない部位を齧っていたアルは、思い出したように口を開いた。

「ニー…、何だったっスかね…?ニーベル?ニューベルグ?なんかこう、そういう言葉聞いた事ないっス?」

アケミとエイルは手を止めて、アルの顔に視線を向ける。

「ニーベルングの指環でしょうか?それとも、ニュルンベルクのマイスタージンガー?」

アケミが尋ね返すと、アルは首を傾げて「う〜ん…」と唸る。

「う〜ん…、響きは似てるような気もするっス…。何スかねそれ?」

「どちらもヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーの楽劇です。えぇと…」

アケミは携帯を取り出すと、ボタンを操作して記録してある曲を選択した。

賑やかな曲がリビングに流れ始めると、アルは「ん?」と耳をピクピクさせる。

「これ、たぶん聴いた事あるっス」

「ニュルンベルクのマイスタージンガー…、でありますね」

説明したエイルに頷いたアケミは、ひとしきり曲を流した後に、ボタンを操作して曲を変える。

今度は打って変わって勇ましい曲が流れ出すと、アルは再び耳を動かし、口元をほころばせた。

「これも聴いた事あるっス!」

「ニーベルングの指環、第一夜三幕の冒頭で演奏される、ヴァルキューレの騎行です。どちらも有名な曲ですから、色々な所

で演奏されたり、映画などの
BGMにも使われていますけど…、これらの事じゃないんですか?」

「…どうなんスかね?歌と何か関係があるのかもちょっと判らないんス…。名前だけうろ覚えで…」

「似た響きであれば、ニーベルンゲンの歌という叙事詩もあるであります」

ピクリと耳を動かしたアルには気付かず、エイルはナンに痛い味がするカレーを塗りつけながら続ける。

「ニーベルンゲンはニーベルングの属格形でありまして、和訳として「の」が入っている事に違和感を覚えるのであります。

正しくはニーベルングの歌と訳すべきかと個人的には思えるのであります」

エイルの話が脱線しかけ、頭がこんがらがりそうになったアルは、眉根を寄せながら尋ねた。

「で、それ、内容とかどういうんスか?」

「復讐劇でありますね。実に悲劇的な」

短く応じたエイルの後を、アケミが引き取る。

「マイスタージンガーは違いますが、他の二つは題材が少しだけ似ています。ニーベルングの指環は、ニーベルンゲンの歌を

参考に作られたとも聞きますし…。こちらもまぁ…、悲劇ですね…」

「ニーベルング…、ニーベルンゲン…。何なんスかね?ソレ?」

「諸説あるのでありますが、ニブルの者…、つまり「霧の如き者」と、自分は解釈しているであります。本部図書室にも資料

はそろっているでありますから、調べてみると良いでありますよ。娯楽としても非常に楽しめるであります」

「かいつまんで教えてくれないっスか?ほら、さっきのヴァルキューレなんとかの歌の方だけでも…」

申し訳無さそうに尋ねたアルに、アケミは「それじゃあ、つまらなくならないように少しだけ…」と前置きし、各部のさわ

りだけ簡単に解説した。

しばし黙ってそれを聞いたアルは、

「また…、ジークフリートっスか…」

その奇妙な符合に気付き、神妙な顔で小さく呟いた。



一方その頃。国内最大の半島に存在する、人口密度が高い賑やかな都市。

その街の片隅に広大な敷地を有する、瀟洒な造りの巨大な洋館の一室では、

「…っとまぁ、こんな訳ですわ」

三毛猫が主へと、事の顛末を話して聞かせていた。

毛足の長い絨毯が敷かれた広間の中央、革張りのソファーに腰を下ろした三毛猫の視線の先には、窓から夜の庭を見下ろす

女性の後ろ姿があった。

その横には、黒いズボンはそのままに、上には作務衣を着込んだ赤銅色の巨熊の姿。

窓を挟んだ部屋の奥側、両の壁際には鳥かごがつってあり、それぞれ一羽ずつカラスが入っている。

「ミノリはんの命令やったさかい、お嬢はんの許可無く動いたんやけど、全部ワイの独断ですわ。ランゾウはんは、最初は反

対してはったんやけど…、結局ワイに付き合ってくれはって…」

「ミノリ兄様は、わたしの耳には入れないようにと、釘を刺したのね?」

自分の言葉を遮って発された女性の声に、モチャは「…ま、おおまかにはそんな感じでして…」と、耳を伏せながら頷いた。

「離反者の始末をつけると言ったら、わたしが反対すると思ったのね…。抜き差しならない状況になっている事ぐらい、わた

しにも判っている…。とうに覚悟は済ませたというのに…、まだ子供扱いなのかしら…」

静かに呟き、ため息を漏らした女性は、その場で体の向きを変えて向き直った。

「事情は良く解ったわ。ご苦労様モチャ。ランゾウも」

振り返った女は、二十代半ばと思われる年頃で、整った顔立ちをしている。

左目の下に小さな泣き黒子があり、光の加減でうっすらと青みがかるショートカットの髪が印象的な女は、傍らの巨熊の顔

を見上げた。

顎を引いて頷くランゾウは、バイザーを外して素顔を曝している。

労うように微笑んだ女性の顔を映した深い黒の目が、僅かに細められていた。

「さて…。秘宝の一つを手に入れる事ができたのは上々の成果だけれど、ブルーティッシュが所持していたとは予想外だった

わ。ランゾウとモチャの素性が知られていなければ良いのだけれど、もしも勘付かれたら交渉の席を設けなければならないわ

ね…。ただでさえ忙しいのに、これ以上のトラブルは御免被りたいわ」

形の良い眉を顰め、しなやかな細い指を顎に当て、烏丸巴(からすまともえ)は思索を巡らせる。

大きく傾いているオブシダンクロウの安定をはかっている現在、余計なトラブルは極力避けたい。

だが、もしもブルーティッシュと事を構える破目になったならば…。

「ねぇ、ランゾウ…」

呟くように名を呼んだトモエに、ランゾウは静かに視線を向ける。

「避けるつもりではいるけれど、万が一、ブルーティッシュと刃を交える事態に陥ったら…。ランゾウは、デスチェインに勝

てる?」

黙したまま答えない巨熊の顔を見上げ、トモエは微笑んだ。

「…いいえ、忘れて…。避けるべき争いは避ける。ブルーティッシュとやりあうつもりは無いわ」

トモエの顔を見下ろしながら、ランゾウは考える。

噂にしか聞いた事が無い、最強の調停者、ダウド・グラハルト。

面識が無いのでどれほどの男かは判らないが、話を聞く限りは相当なものだろうと思える。

しかし、もしもトモエが「闘え」と言うならば、その時は…。

頭を働かせているらしく、腕を組んで黙り込んでしまったトモエから視線を外し、ランゾウは窓の外、深い夜闇の向こうを

眺めた。

闇は深く、夜明けは遠い。どれだけ歩めば見通しは明るくなるのか、見当もつかない。だが、それでも…。

ランゾウは視線だけ動かし、傍らのトモエを見遣った。

日の当たる場所へ連れてゆく事など、日陰者の自分にできはしない。

トモエもまた、この世界で生きてゆく覚悟を決めている。

夜明けが決して訪れぬなら、せめて自分はこの夜が、崩れて落ちて来ぬように、両の腕(かいな)で支え続ける。

ランゾウは揺るがぬ想いを胸に秘め、しかしいつものようにただ静かに佇んでいる。

まるで、表面は黒い炭の内側が、赤々と燃えているように。

しばし静まり返っていた部屋に、唐突にノックが響いたのは、トモエが黙考し始めてから二分ほど経った頃であった。

「皆様、お茶をお持ち致しました。お嬢様にはアールグレーを、モチャ様にはいつものミルクセーキを、お茶うけには苺のム

ースを用意致しました」

「あぁ〜ん!おおきにサキはんっ!」

トモエの返答を受けてからドアが開き、トレイを手にしたサキが顔を見せると、モチャが表情を弛ませながら猫なで声を上

げた。

艶やかな長い黒髪をポニーテールに纏め、優雅な仕草で給仕に勤しむサキは、しかしその美貌に、モチャがだらしなく弛ん

だ顔で見とれている事には気付いていない。

テーブルにカップを下ろし終えたサキは、窓際のランゾウに微笑を向ける。

「ランゾウ様には、珍しいお酒が入りましたので熱燗でお持ち致しました。それと、鮭トバも」

少しだけ嬉しそうに耳をピクつかせると、巨熊はトモエと共にソファーへ向かった。



列車を待つ駅のホームでは、アケミが、カズキが、そして帰還する仲間を見送る為に集まった調停者達が、アルとエイルに

声をかけていた。

「できれば連休中にでもまた来たいんスけど、ウチも今人手不足で大変なんスよ…。次はいつこっちに来れるか、約束できな

いっス…」

「構いませんよ。お仕事と勉強優先で」

済まなそうに詫びるアルに、アケミは明るい笑みを向けた。

恋人を独り占めできない事は重々承知している。個人的なわがままが許されない事は覚悟の上での付き合いであった。

「こっちからも連絡を入れておくが、グラハルト氏にくれぐれもよろしく伝えてくれ。非常に助かった、必ず恩に報いる。っ

てな」

「うス!オレの方こそ、お世話になったっス!」

まだ顔色がすぐれないものの、今朝ようやく退院して来たカズキに、白熊は大きく頷いた。

「こちらに来る時は前もって連絡をくれ。今度は仕事仲間としてこき使うんじゃなく、友人として歓待したい。もちろん、エ

イル女史も」

微笑を浮かべてそう告げたトウヤは、先程まで一緒に居たはずのレッサーパンダの姿が見えない事に気付き、周囲を見回す。

エイルは少し離れた所で携帯を耳に当て、予定時刻通りの列車で出発する事をブルーティッシュ本部へ連絡していた。

「あぁ、あとこれな?ヤマギシから土産だって」

カズキが差し出したのは、紙袋に収められた大箱…。煎餅の詰め合わせであった。

「気を遣わせちゃったっスね…」

頭を掻きながら受け取ったアルは、ノゾムへの伝言を頼もうとしたが、

「電話かけて直接言ってやれ。院内歩き回る許可貰えたから、ちょくちょく屋上や庭に出るって言ってたぞ?メールでも送っ

ておけば、時間とって電話できるだろう?」

太った警官にそう言われ、笑みを浮かべて大きく頷いた。

「…ところで、ジャケットはどうしたんだい?」

尋ねたトウヤに、アルは胸を張って見せた。

「寒く無いから平気っス!」

「いやそうじゃなくて…。忘れ物しても取りに戻って来られないだろう?先に送ったのかい?」

「えへへっ!実は贈って来たっス!」

少しばかり照れ臭そうに、鼻の頭を指先で擦りながら笑うアルと、その横でクスクスと小さく笑っているアケミを、カズキ

やトウヤ、他の調停者達は、不思議そうに首を捻って見つめた。



病院の屋上で、太った狐は手すりの向こうを眺めていた。

駅のある方向を見遣ったまま、患者衣の上に貰い物のジャケットを着込んだノゾムは、そろそろ列車が出る頃だと、ぼんや

り考える。

羽織ったジャケットは丸々太ったノゾムが着ても、なお大きくてブカブカで、ハーフコートのようになっている。

屋上を吹き抜ける二月の風はまだ冷たかったが、防弾防刃機能に加え、断熱効果もある特製ジャケットを着込んでいると、

ポカポカと温かく苦にならない。

短い間だったが、楽しかった。

一緒に来いと誘われた事が、嬉しかった。

「…東護が落ち着いて…、いつか…、ぼくが一人前の調停者になれたら…、その時は…」

呟いたノゾムは目を細め、口元に微かな笑みを浮べた。

そろそろ駅から旅立つ、出会ったばかりの新しい友人に、ノゾムは心の中で別れを告げる。

また会えるその日まで、互いに元気でいられるよう、切に願って。

踵を返し、院内に戻ろうとしたノゾムは、上着のポケットで携帯が震えた事に気付き、足を止めた。

ポケットに突っ込んだ手が取り出した、スライド式の携帯の小窓には、登録したばかりの友人の名が表示されていた。


『カズキさんから煎餅受け取ったっス。ありがとっス!ってか気を遣わせちゃってゴメンっス!(´≧()≦`;)

直接お礼言いたいんスけど、外に出てそうな時間教えてくれるっスか?こっちからかけるっスから、ヨロシクっス!

あ、あと…。

オレの事、君付けじゃなくって良いっスよ?「アル」って、そう呼んで欲しいっス。

ブルーティッシュの仲間とか、仲が良い友達なんかは、皆そう呼んでくれるっスから!

…まぁ…、友達は…あんまり居ないんスけどね…。

そんな訳でっ!これからは呼び捨てでよろしくっス!んじゃ!(´^()^`)ノシ』


文面を読んでクスッと小さく笑ったノゾムは、早速メールを送り返すと、登録したばかりの情報を少しばかり書き換えた。

たった一文字だけ削る、「アル君」から、「アル」への変更を。



三月が訪れても尚、未だ残雪が深い奥羽の山奥。

山に抱かれた河祖下村の、巨大な屋敷のその中では、紺色の着物を纏った赤銅色の巨熊が、腕組みをしたまま広い和室を、

ノシノシノシノシ…と、延々歩きまわっていた。

きちっと正座した小柄な柴犬は、幾度も目の前を行ったり来たりしている主を目で追いながら、

「ユウヒ様…。どうか落ち着いてお待ちを…」

と、もう何度目か判らぬほど繰り返した言葉を口にする。

「…うむ…」

それまでと同じく、唸るような声で短く応じたユウヒは、しかしシバユキの言葉で一度は足を止めるものの、一分と経たず

にまたウロウロと室内を歩き出す。

「…ユウヒ様…」

「…うむ…」

同じようなやりとりを繰り返す二人の他にも、その和室には大勢の獣人達が集っていた。

皆が皆、神代家の使用人であり、その実武芸に秀でた御庭番である。

が、並の調停者を凌駕する手練揃いの御庭番達も、どことなく落ち着かない様子でソワソワしていた。

一同が控えているのは、当主とその伴侶の寝所となっている部屋と、廊下で隔てられた広間である。

寝所には今、ユウヒの妻チナツが、産婆の羊に付き添われて篭っている。

ユウヒは壁にかけられた振り子時計に目を遣り、深刻な顔で呟いた。

「代われるものなら代わってやりたいというに…、このような大事に俺はなんと無力な事か…」

心の中で「いや代わるのは絶対に無理ですから」と呟きつつ、シバユキは口を開いた。

「繰り返しになりますが…、落ち着いてお待ち下さい。我々まで心配になってしまいますゆえ…」

さすがにこれは堪えたか、ユウヒは「む…」と唸ると、座布団にどっかと腰をおろし、

「そうだな…。済まぬ…」

 と、いささか気恥ずかしそうに首の後ろを撫でた。

他の者を動揺させてはならぬと、腕を組んで目を閉じたユウヒは、普段通りの静けさを取り戻した。

主が静かになった事で落ち着きを取り戻したのか、和室に集っていた使用人達も幾分表情を和らげる。

それから程無く、寝所から大きな産声が上がった。

ガバッと身を起こし、ドスドスと室内を横切ったユウヒの行く手で、廊下を挟んだ寝所の襖が開き、産婆の助手である羊の

娘が顔を出す。

「御生まれになりました!大きな赤ちゃん…、ご当主そっくりな男の子ですよ!」

羊の娘の前で足を止めたユウヒは、小さく息を吸い込み、次いでホッと息を吐き出すと、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。

使用人達の祝福の言葉を背に受け、一度振り返って大きく頷いた後に、神代の当主は羊の娘に促されながら寝所へと入って

行った。

妻を労い、産声を上げたばかりの我が子の顔を見るために。