てっぺんの眺め(後編)
夜空に浮かぶ半月が穏やかな光を投げ落とす。
月光に照らされる庭園を前に、濡れ縁に腰を据えた二人の男が酒を酌み交わしていた。
なみなみと酒が注がれた直径15センチ程の朱塗りの杯を片手に、澄んだ空気の中にぽっかり浮かぶ月を見上げるダウド。
並んで座るユウヒは、素焼きの大きな湯飲みに注いだ酒をグイッと煽って一息に飲み下し、ふぅっと、酒気混じりの息を夜
気に放した。
風に揺すられた草木が漏らす葉擦れの音と、時折響く寝ぼけた鳥の声だけが聞こえる静かな縁側で、二人は特に言葉を交わ
す事も無く、酒を飲んでいる。
そんな二人に、つまみである魚介類の刺身を乗せた皿を手にしたチナツが、横手から静かに歩み寄った。
「悪いなぁ奥方。坊主はどうした?」
「ぐっすりと眠っています。どうにも、お客様がいらっしゃって興奮したようで、疲れてしまったようです」
濡れ縁をそっと歩んで傍に寄り、一礼して屈みつつ二人の前に皿を下ろしたチナツは柔らかく微笑む。
「毎夜静かに眠ってくれれば、助かるのだがな…」
微苦笑した亭主に「まったくです」と微笑むと、チナツは静かに立ち上がった。
「人払いは済ませました。ごゆるりと…」
「チナツ。後は俺が自分でやろう。早めに休んでおきなさい」
「はい」
夫の言葉に頷き、改めて二人に一礼して背を向け、歩き去ろうとするチナツ。
その尻に、すぅっと手を伸ばしかけたダウドは、巨大な手で後頭部をがっしりと鷲掴みにされ、動きを止めた。
「…ダウド殿、悪い酒よな…」
「じょ、冗談だ冗談…!」
とてもとても低い声で呟かれたユウヒの言葉に、伸ばしかけた手を宙でプラプラさせながら、引き攣った笑みを浮かべるダ
ウド。
白虎が「女性への挨拶」と称している尻タッチの被害を免れ、何も気付かなかったチナツが姿を消すと、ユウヒはようやく
ダウドの頭を放した。
心底残念そうに熊代家当主の妻を見送ったダウドは、手酌で酒を注いでいる素知らぬ顔のユウヒに視線を向けると、小さく
咳払いする。
「…また、痩せたんじゃないか?」
「…うむ…」
小声で囁いたダウドに、ユウヒは微かに顔を曇らせて頷く。
「アレは元より丈夫な方では無かったが、出産は堪えたらしい…。産後一月程床から離れられなんだ…。体調はだいぶ良くなっ
たのだが、あの通り甲斐甲斐しく働き過ぎるきらいがある。休めと告げてもなかなか、な…」
「そうか…。まぁ、母子共に大事無く、何よりだった」
頷いたユウヒの横顔を眺めながら、白虎は思い出したように口を開いた。
「そうだ。例のエイルが遭遇したって言うデカい熊だが…、その後も心当たりは思い浮かばんか?」
「いや、生憎と全く…。俺と良く似た熊か…。他人のそら似ではなかろうか?」
「2メートル半ありそうな赤銅色の熊で、エナジーコートの使い手…。本当に他人か?」
「と言われてもな、他の神将家同様、現在神代にも分家は存在せず、俺にはユウト以外に兄弟もおらぬ。…親父殿もさすがに
他に子は拵えておらぬだろうよ…」
困ったように頭を掻くユウヒに「ふむ…」と頷くと、ダウドは声を潜めて呟いた。
「…サカガミ…」
小さな囁きを耳にした途端、ユウヒは耳をピクリと動かし、驚いた様子でダウドを見遣る。
「ネネが言っていた。…まぁ、言った後に「まさか」と、苦笑いしていたがな…」
「…無いな。全ての逆神は裏帝と共に潰えた。俺がまだ分別も持たぬ餓鬼だった頃の事だ。生き残りは無い。…それに、生き
延びていたとすれば、今の今まで動きが無かった事が解せぬ」
「だな。だがまぁただ者でない事は確かだ。あのエイルが手も足も出せずにやりこめられるような相手…。何処の組織の者か
手掛かりも無いし見当もついていないが、下手な噛み付かれ方はしたくない所だな」
ダウドは一度言葉を切ると、「話は変わるが…」と、懐に手を突っ込む。
浴衣の懐から引き抜かれた手には、半透明のプラスチックケースに納められた小型の記録媒体。
白虎が指で摘んでいるそれは、携帯などで使用する小型メモリーカードであった。
「プロジェクト・ヴィジランテの進捗状況資料だ。シバユキに見せて貰ってくれ」
ダウドが自分の眼前に伸ばした手の先、人差し指と親指で摘まれたカードを瞳に映したユウヒは、一つ頷くと、その大きな
手を白虎の手の下で広げる。
手の平にポトリと落とされたカードをしげしげと見つめているユウヒを横目で見遣り、ぐいっと酒を煽ると、ダウドは再び
口を開く。
「黒須に続いて、鼓谷の協力も何とか得られそうだ。以前あそこの三男坊の警護を受けた事があったんだが、坊ちゃんとSP
の口添えがあったらしい。あの狸親父も態度をいくらか軟化させた」
背が低く丸々肥えた人の良さそうなタヌキの若者と、不敵な面構えが印象的なゴールデンレトリーバーの青年を思い出しつ
つ、ダウドは箸を手に取りホタテの刺身を遠慮なくごそっと摘む。
「…これで、五大財閥中の二つか」
「今じゃ四大財閥だ。…跡目も居なくなって、黒伏が無くなったからな…」
微かに寂しげな響きすら伴ったダウドの言葉に、うっかり「黒伏の跡取りはまだ存命している」と応じかけたユウヒは、開
いた口を慌ててパクンと閉じた。
黒伏の正式な後継者であるマユミが「存在」している事は極秘である。
ユウヒが東護に滞在している間に親交を深めた白猫の正体は、盟友のダウドにすら明かせない。
ダウドと以前から面識がある事は聞かされているが、決して伝えないようにと釘を刺されている。
(事情を知る不破殿が見つかれば…、マユミさんの事についても色々と相談できるのだが…)
ユウヒがそんな事を考えているとはつゆ知らず、ダウドは先を続けた。
「残る烏丸と榊原の方はこれからの交渉だが…、榊原はおそらく上手く行くだろう」
白虎は酒器を目の前に翳し、表情を消して口を開いた。
「全くの偶然…、完全な計算外だったが…、アルがあそこのご令嬢と仲良くなったのは好都合だ。交渉を運ぶ材料として上手
く利用できる」
それを聞いたユウヒは、しばし黙した後にぼそりと呟く。
「無粋な事よ…」
「まぁ、あんたは反対すると思ったさ。ネネもそうだしな…」
「そっと見守ってやる訳にはゆかぬのか?」
「何も無ければな…。だが、榊原の協力は喉から手が出るほど欲しい。利用できる物は何だって利用するさ。交渉を有利に運
べるカードがあるなら、使わん手は無い…」
言葉を切ったダウドは、ふっと、口元に微かな笑みを浮かべる。
「そうコワい顔をするなよ…」
微かながら厳しい光を灯した瞳を自分に向けているユウヒに、ダウドは続ける。
「あいつは俺にとっても息子みたいなもんだ。幸せを願わん訳がない。こっちの計画と調停業務に関係ない所じゃあ、あいつ
のやりたいように、思いっきりやらせてやるさ…」
「…貴兄の言葉だ、信じるとしよう」
ダウドの返答にひとまずは納得したのか、ユウヒは眼に浮かぶ厳しい光を消して頷く。
メモリーカードを慎重な手付きで懐に収める巨熊を横目で見ながら、白虎は表情を和らげて微苦笑した。
「それはそうと、そろそろパソコンの一つも覚えたらどうだ?せめて携帯ぐらいは持ってくれ」
「ぱそこんの方は俺に使いこなせるとは思えぬが…、携帯か…」
付近に電波塔がない河祖下は、全域で携帯が通じない。
が、村民の中には、山を降りれば使えるように携帯を所持する者も増えている。
しかし、機械に疎いユウヒは、携帯にも苦手意識があった。
「シバユキは携帯を持っていたな?」
「うむ」
「教わっとけよ。下に降りた時、連絡が取り合えれば便利だろう?」
「便利かもしれぬとは思うが、用いる頻度から考えれば如何なものであろうか?あいつは俺の傍を離れようとせぬからな…」
ユウヒは困ったように呟き、ダウドは苦笑いする。
「しかしまあ…、忠臣だな」
「俺には過ぎた忠義だ。…まぁ、携帯の事はおいおい考えねばならなかった。河祖上辺りにも、通信用の鉄塔が建つ計画があ
るらしいのでな」
「そうか。良い機会じゃあないか、是非とも持て。…あんたには言わなかったかもしれんが、東護滞在中は不便を感じていた
らしいぞ?アルのヤツ」
ダウドの言葉に丸い耳をピクンと立てたユウヒは、次いで済まなそうに耳を寝せる。
「…さようであったか…。ならば遠慮せずに一言告げて貰えれば…」
「告げれば携帯持ったのかい?」
「少なくとも前向きに善処した。あちらであればマユ…、あ!いや…!く、詳しい友人に、使い方を教えて貰えたのでな…!
は、はっはっはっ!」
うっかり秘密を口走りそうになり、動揺して無意味に笑って見せながら誤魔化すユウヒ。
幸いにも、ユウヒの言う友人があちらの調停者か監査官だろうと解釈したダウドは、それほど感心を示さず、突っ込んで尋
ねるような事は無かった。
揃って杯を煽り、酒気混じりの息を吐き出した二人は、しばしの間、思い思いに箸を伸ばしてつまみを口に運びつつ、互い
の近況を語り、酒を注ぎあう。
「…あいつに、オーバードライブを仕込もうと思っている…」
やがて、唐突にぽつりと呟いたダウドの言葉に、ユウヒは微かに目を細めた。
「…彼はまだ成長期も終えておらぬ。何故に今…?」
訝しげな、そして反対するような響きがユウヒの声に混じる。
オーバードライブ。この国では神卸しと呼ばれているその技術は、生物としての身体性能限界を遙かに超えた力を手にでき
る、秘技中の秘技である。
身体能力の強化、感覚機能の鋭敏化など、強化や持続時間のバランスが異なる様々なタイプが存在しており、中にはユウヒ
のように能力までが増幅され、周囲一帯を焦土に変えかねない程の力を得る者もある。
禁圧解除を超える様々な強化を得られるそれは、神将家の者や、極々一部の調停者やハンターが会得しているのみであり、
神将家の当主達を除けば、使用できる獣人は国内でも五人まで居ないとされている。
それをアルに仕込むと言うダウドに対し、ユウヒが懸念を示した理由はいくつかある。
習得の困難さはもちろん、制御の難しさ、そして使用そのものにも大きな危険が伴うのが、この秘技の特徴であった。
「…貴兄の体は特別だ。使用の負荷にも十分に耐え得る…。だが、彼にはどうだ?俺も含め、他の神将ですらも神卸しの使用
は躊躇う」
「あんたは完全に使いこなしているだろうが?滅多に使わないのは、使う必要がそうそう無いのと、辺り一帯を更地に変えち
まわない為だろう?」
そう言って杯を傾けたダウドの横顔を、ユウヒは硬い表情で見つめた。
「当家や鳴神家などは、操光術によって肉体の強度を補い、負荷に耐える事ができる。だが他の神将はそうはゆかぬ。ネネ嬢
を間近で見ているダウド殿なら…」
「ああ、知ってるさ…」
苦笑したダウドの目を見つめたまま、ユウヒは何かに気付いたように、微かに目を大きくした。
「…アル君の体は、神卸しにも耐え得るだけの強度を備えている。と…?」
「いや、体の強度自体は常識の範疇だ。使い過ぎれば当然ぶっ壊れるだろう。だが、多少壊れても問題ない…、覚醒したあい
つの力はそういうもんでな」
「肉体強化のような能力であろうか?」
「どちらかと言えば性質変化…だな。発動中に限っての事だが、レリック適性が跳ね上がり、調整前のレリックすら無条件に
隷属させるオマケ付きだ。まぁ、使用者が限定されるタイプのレリックについてはこの限りじゃあ無いが…」
「つまり、貴兄の「だいんすれえぶ」などは使えぬと?」
「そういう事だ」
ユウヒは目を閉じてしばし黙り込んだ後、小さく頷いた。
「…士、別れて三日なれば、まさに刮目して相待すべし…。まさしくよな…」
「肉体の性質変化と、適性の上昇によるレリックジャック…。発動には条件付きの能力だが、アレの使用とあわせればオーバ
ードライブにも耐えられると踏んだ。ま、暴走防止のメンタルトレーニングはまた別問題だが」
ユウヒは納得したように頷くと、一升瓶を手に取り、空になっていたダウドの杯へなみなみと酒を注ぐ。
杯を取り上げ、中でたゆたう酒に輝く半月を映しながら、ダウドはニヤリと笑った。
「あいつは、能力発動中はリミッターカットを維持できる。二、三分にも及ぶ間な」
ユウヒはしばし黙った後、興味深そうに目を細めながら、手元の碗を見つめて呟く。
「なるほど…。禁圧解除にそこまで耐え得るならば、確かに見込みはあるか…」
「どんなタイプのオーバードライブになるかはまだ判らんが、そこがまた少々楽しみだ。…それで、折り入って一つ頼みたい
んだが…」
ダウドは一旦言葉を切ると、杯を煽って一気に空にし、「ぷはぁ〜っ」と息を吐いてから再び口を開いた。
「明日、俺と立ち会って貰いたい」
それを聞いたユウヒの眉が、ピクリと動いた。
「今回の来訪、最後の用事がそいつだ…。俺がオーバードライブしても問題無い相手は、ネネの知り合いを含めても、他に思
い浮かばなかった」
ダウドは顔を横に向け、自分を見つめているユウヒの瞳を真っ直ぐに見返す。
「頼む…。こいつはあんたにしか頼めん」
赤銅色の巨熊は、しばし黙り込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「アル君に貴兄の力を見せ、神卸し開眼の足がかりに…。そういう事か…」
「もう一つ。当代最強の神将…、奥羽の闘神の力をちょこっと見せてやりたいっていうのもあるがな」
「よしてくれぬか…。それは俺には過ぎた評価だ。尻がむず痒くなる…」
「がははは!謙遜するな。あんたがそう自分を下げたら、俺が威張れなくなるだろう?」
眉尻を下げ、困ったような顔で頬を掻いたユウヒに、ダウドは声を上げて笑った。
「確かに…、他家の当主もダウド殿が相手となれば流石にちときつかろう。俺が適任か…」
ユウヒは「ふぅっ」とため息をつくと、自分を納得させるようにそう呟き、大きく頷いた。
「他でも無い貴兄の頼みだ。不肖、神代勇羆、謹んでお相手仕る」
「…その返事…、「本気でやる」って言ってるように聞こえるんだが…、俺の気のせいか?」
巨熊は珍しくきょとんとした顔になり、丸くした目でダウドの顔を眺め、少し間をおいてからぽつりと漏らす。
「…本気はまずいと?」
本心からそう尋ねたユウヒに、ダウドは顔を顰めて応じる。
「あのなぁ…、俺は明日中に帰らないとヤバいんだ。最悪でもバイクだけは運転できる程度の怪我に留めたいんだよ…!やっ
ても七分だ七分!」
「…心得た」
頷いたユウヒの声と表情が、いささか拍子抜けした調子を帯びていたため、ある事に気付いたダウドは微苦笑を浮べた。
(…手合わせ相手に不自由してるのは、ユウヒも同じか…。けどまぁ河祖下で長期療養する訳には行かんからなぁ…。今回は
適度に留めて貰おう…)
「…ぐぅ…!降参っス…」
二人が縁側で酒を酌み交わしているその頃、与えられた客室で、アルは眉間に深く皺を刻み、唸り声を上げていた。
アルの前には、既に勝負が決まった将棋盤。
その向こうには、平均より少し小柄な柴犬の青年が正座している。
「シバユキさん強過ぎっスよぉ…」
「恐れ入ります」
恭しく頭を下げてから微笑んだシバユキに、アルは苦笑いする。
(結構得意なんスけどねぇ、こういうの…。てんで敵わないっス…)
一見あっさりとアルを下したシバユキは、空になったアルのグラスに麦茶を注いでやりながら感心している。
(ろくに経験が無いとおっしゃる割に、なかなかのお手並み…。戦況の正確な把握と臨機応変な動きは、集団戦闘に慣れてい
る性質から来るものでしょうか…?)
「どもっス。…敬語、やめて貰えなかったっスねぇ…」
礼を言ってグラスを受け取りつつ、白熊は残念そうに呟く。
一向にかしこまった態度を崩そうとしないシバユキに対し、アルは自分が勝ったらため口で接してくれるようにと持ちかけ
ていた。
自分の方が年下であるにも関わらず、年長者のシバユキから敬語で接されるのは、なかなか慣れない上に落ち着かない。
「申し訳ございません。ですが、自分にとってはこれが身に染みついた自然な態度でございまして…、変えるというのもなか
なか…」
微苦笑で応じたシバユキに、アルは同僚のレッサーパンダの事を思い出す。
(そう言えば、エイルさんも口調の事を訊いたらそんな事言ってたっスねぇ…)
アルはおもむろに腕時計を見遣り、すでにダウドが出て行ってから、二時間以上も経っている事を確認して首を傾げた。
「リーダー遅いっスね…。ユウヒさんと一緒に酒飲んだりするのも久し振りだろうし、話が弾んでるんスかね?」
「ダウド様の来訪は久々ですので、お二人ともお話ししたい事が色々とおありなのかと…」
常であれば、肴を運んだり酒の酌についたりと、主と客人に尽くすシバユキではあったが、今宵はアルの相手をするようユ
ウヒに命じられている。
自分だけでなく全ての使用人に下がっているよう声がかかっている事から、おそらくダウドとユウヒの間で取り交わされた
盟約に関わる話も出ているのだろうと、勘の良い柴犬は察していた。
「夜通し語らうおつもりかもしれませんので、先にお休みになられた方がよろしいかもしれません」
それとなく二人の元へ行かないよう誘導するシバユキに、「そうっスよねぇ…、久々っスから」と頷いたアルは、少し身を
乗り出して尋ねた。
「オレじゃ相手にならないと思うっスけど、暇ならもう一勝負どうっスかね?」
「私で宜しければ、喜んでお相手させて頂きます」
快く勝負を引き受けてくれたシバユキに、アルは笑みを投げかける。
慌ただしい首都の喧噪に馴染んだ白い二人が、それぞれ思い思いに羽を伸ばす奥羽で、都会とは別物の山中の夜は、静かに、
穏やかに、ゆっくりと更けていった。
「何処に行くんスか?こんな朝早くから…」
翌朝、午前六時。朝霧が立ち込める山の中をユウヒの先導で登りながら、アルは隣を歩くダウドに尋ねる。
良い気持ちで眠っていた所を、鼻をつままれ、息苦しくなって目覚めるという嫌がらせのような起こし方をされたアルは、
これから何をするのかまだ聞かされていなかった。
「良い物を見せてやるのさ。世界中の何処を探してもそうはお目にはかかれない、貴重な物だ」
意味ありげにほくそ笑んだダウドに、アルは歩きながら首を傾げ、それから前を進むユウヒの広い背に視線を向ける。
ユウヒが身につけているのは、袖の無い、空手着にも似た、濃紺に染め上げられた道着。
それは、昨年の夏にアルがこの村を訪れた際、ユウトと立ち会ったユウヒが身に着けていた道着と同じものである。
神代の戦装束。ユウヒがそれに袖を通している意味を、この時点ではアルはまだ知らない。昨日の羽織袴とは違い、単に外
出用に動きやすい服装で来たのだろうという程度にしか考えてはいなかった。
それよりもアルが気になっているのは、ダウドが背負っている布包みの方であった。
中に納められているのが一振りの巨大な剣、ダウドの得物の黒剣である事は知っている。
(一体何なんスかね?この辺、野生動物でも出るんスか?鹿とか?)
鹿は勿論熊も出るのだが、それに尻込みするアルでもない。
野生の鹿を生で見られるかもしれない。もしかしたら可愛い子供連れと遭遇できるかも?などと呑気な考えすら持っている。
「さて、着いたぞ」
足を止めたユウヒのすぐ後ろに追いつき、ダウドとアルはその前方に視線を向ける。
直径30メートル近くもの面積で円形に木々が切れ、背の低い草が茂ったそこへ、ユウヒはゆっくりと歩を進めた。
丸い、平らなその土地の中央へと進み、巨熊は二人を振り返る。
「何を…」
何をするのか?そう問い掛けようとしたアルは、自分の前に水平に伸ばされ、前に出ぬよう押し留める白虎の腕に視線を向
ける。
「お前は、ここから先には一歩も入るな」
意味が判らず問い返そうとしたアルの前で、ダウドは背負っていた包みを下ろし、ベルトを外して布を解く。
布の下から現れた、長く、分厚く、巨大な剣が、影が凝縮したようなその黒い刀身に朝の木漏れ日を吸い込んだ。
レリックウェポン、ダインスレイヴ。
ダウドの愛剣であり、現存が確認されているレリックの中でも最高位に位置する戦闘用レリックである。
刃は潰れたようになって鋭さは無く、平時に触れても指を切る事もないそれは、しかしダウドの意思に応じて不可視の刃を
形成し、広範囲に烈風と衝撃を撒き散らす。
天災にも等しいその機能以外にも、特筆すべきはその強度である。盾代わりに使われてメタルジャケットを弾き返しても、
傷一つ付きはしない。
剣自体の重量とダウドの筋力を乗せた斬撃は、コンクリートも装甲車もバターのように両断するが、それでもなお欠ける事
も歪む事もない。
「リーダー?何を…」
戸惑ったように問い掛けるアルに、黒い巨剣を担いだダウドは、口の端を軽く上げた。
「見せてやる。てっぺんってのが、どんな物なのかをな…」
村から離れた山奥の、雑草だらけの闘技場で、白虎は赤銅色の巨熊に向かってゆっくりと足を進める。
五メートルほどの間合いを保持して足を止めたダウドと、悠然と佇んでそれを迎えたユウヒが視線を交わす。
「では…」
「ああ。おっ始めるとしようか」
左腕を袖から抜き、胸元から出して片肌脱ぐユウヒと、ダインスレイヴを右手一本で肩に担ぎ、足を前後に大きく広げ、半
身になって姿勢を低くするダウド。
腰を落として少し背を丸め、両脚を踏ん張り前傾姿勢を取ったユウヒは、両の拳を胸の前でガツンと打ち合わせる。
「狂熊…覚醒…!」
一方でダウドは両目を覆うようにして、広げた左手を顔に当てる。
「オーバードライブ…」
そして、まるでゴーグルか仮面でも剥ぎ取るような動作で、左手を勢い良く外側へ振って顔から放し、低く呟いた。
「タービュランス…!」
その直後、場の空気が一変した。
円形の広場から少しでも遠ざかろうと、木々から鳥達が慌てて飛び立ち、獣達が走り、跳び、逃げ出す。
立ち尽くしたまま、ピクリとも動けなくなったアルの全身から脂汗が滲み出る。
一歩も動くことができず、呼吸すらもままならないプレッシャーの中、アルは目を大きく見開き、その薄赤い瞳に二人の姿
を焼き付けた。
「祝いに来たってのに…、むしろ色々世話をかけたな」
神代の屋敷の一同が見送りに立った中、エンジンをかけたバイクに跨り、ダウドは皆の顔を見回した。
左の頬と、右目の上がぼっこり腫れ上がり、メットで隠れた頭頂部には大きなコブが出来ているという凄まじい顔。
だがしかし、そのぼこぼこの顔には満足げな笑みが浮かんでいた。
「ご足労をかけた上、これしきのもてなししかできず、申し訳ない…。おまけに顔まで…」
頷くように会釈したユウヒの右手には包帯が巻かれ、鼻の上には四角い大きな絆創膏が貼られている。
「がはははは!お互い様だ、気にしなさんな。それに十分過ぎるもてなしだったぜ?貴重な土産も貰った」
ダウドが視線を動かした先では、同じくバイクに跨ったアルが、神妙な顔で頷いていた。
「…オレ、頑張ってみるっス…」
言葉を切ったアルは、大きく頷き、
「…まだまだかかると思うっスけど…、きっといつか、お二人みたいに…!」
そして、初めて目にする、素晴らしい何かを見た子供のような、輝く笑みを浮かべた。
「ありがとっス!オレ、今朝見せて貰った物、絶対に忘れないっス!」
「おう。忘れるなよ?でないとさんざんボコられた甲斐が無い」
ダウドは腫れた頬を親指で指し示し、ユウヒは恐縮したように巨体を縮める。
「…や…、実に申し訳ない…。貴兄の絶技につられ、つい身が入り過ぎ…」
「がはははは!だからあんたは気にするなって!」
困ったような苦笑いを浮かべると、ダウドは右手を軽く上げて別れの挨拶をする。
「じゃあ、またその内な」
「峠は難儀だろうが、是非、また訪ねて欲しい」
ユウヒは頷き、目を細めて笑みを浮かべ、
「いつでも歓迎致しますよ。お二方」
その隣で、指をしゃぶっているヒジリを抱きかかえ、穏やかな笑みを浮かべながらチナツが頭を下げる。
「それじゃあ、邪魔したな!」
「お邪魔しましたっス!ご馳走様でしたぁっ!」
メットをかぶり、エンジンを噴かしてバイクを発進させ、白い二人は河祖下を後にする。
口々に見送りの言葉をかけ、屋敷の一同は二人の姿が見えなくなるまで、その場に留まって道中の無事を願った。
たまの来客をもてなした神代の面々は、
「皆ご苦労だったな。どうやら客人達にもご満足頂けたようだ。心より礼を言おう」
やがて、そう口を開いた当主の満足げな笑みを目にして、自分達の対応に粗相が無かった事を確認し、恭しく頭を垂れた。
「さて、久方ぶりの大物の来訪、皆肩も凝ったであろう。ゆっくり休んでくれ。チナツもな」
「はい。…ヒジリが大人しくしてくれればですが」
微笑んだ妻に微苦笑を返し、ユウヒは妻が抱くせがれの頭を太い人差し指と中指で優しく撫でる。
指を咥えたままのヒジリは、父親に頭を撫でられると、一度目を細めてからきょとんとした顔になった。
「ふむ…。なかなか笑ってくれぬ物だな…」
「あまり愛想をふり撒かないのは、お父様譲りですものね?ヒジリ」
チナツと笑みをかわしたユウヒは、首を巡らせ、傍らに控えるシバユキに視線を向けた。
「シバユキ。悪いが、手が空いたら一局相手を頼めるか?」
久方ぶりに友人と会い、思い切り体を動かす事ができて、いまだ行方の掴めない妹の事で沈んでいた気分も少しは晴れたの
か、機嫌が良さそうに言った主に、
「かしこまりました。私で良ければいくらでも…」
シバユキは微笑みながら、腰を折って丁寧にお辞儀した。
客を迎え、送り出した神代家は、その平時の穏やかさを取り戻してゆく。