得難き平穏

それは、ユウトもタケシも、変わらぬ日々がまだまだ続くと思っていた頃の、特別な事は何もない、ありふれたある一日…。



金色の熊に抱かれた小さな女の子は、縫いぐるみの熊を片手でしっかりと抱きつつ、カレンダーの両端を掴んで引っ張った。

ビリビリと音を立てて剥がされた11月のカレンダーの下から、新たな月のカレンダーが現れる。

「じゅ〜に!」

剥がしたカレンダーをばさばさと煽って風を起こし、上機嫌ではしゃぐ女の子を左手一本に抱え直した金色の熊は、

「うん。もう12月になっちゃったねぇ。これからどんどん寒くなるよぉ?」

そう話しかけながら、カレンダー上部に少し破れ残っている紙片を太い指で摘み、丁寧に取り除く。

鮮やかな金の被毛が印象的な熊は、軽く2メートルを超える巨躯を有しており、腕も足も丸太のように太い。

首も胴も腰もどっしり太く、特に突き出た腹は樽でも丸呑みにしたようにボリュームがある。

しかし金熊の声は体の大きさに反して高く澄み、口調は穏やかで、幼女に向けられている晴れ渡った空を思わせる青い瞳は、

深い慈愛に満ちていた。

日付は今日より12月。東護の風はだいぶ冷たくなっており、本格的な冬は目前に迫っていた。

女の子はカレンダーをバサバサ動かしながら、二人居る保護者の一方である大熊の顔を見上げる。

「ユウト、ごはん?タケシおこす?」

ユウトは紙くずをエプロンのポケットに入れると、女の子の顔を見下ろし、栗色の髪を優しくすいてやりながら頷いた。

「うん。ご飯なんだけど…、タケシはいいよ。お出かけ中だから」

「おでかけ?」

「うん。お仕事でおでかけ」

そう応じるユウトはアリスの顔から壁時計へと視線を移す。

この調停事務所のリーダーである青年は、今朝三時ごろに入った呼び出しで出撃中であり、四時間近く経った今になっても

も連絡が無い。

「遅いなぁタケシ…」

呟いたユウトは再びアリスの顔を見下ろすと、ソファーに歩み寄りながら話しかけた。

「先にご飯にしようね?今日はスクランブルエッグ!」

「たまごさん?」

「うん。たまごさん!」

「やったー!」

カレンダーを放り出して手足をバタバタさせ、体全体で喜びを表現するアリス。

その笑顔を間近で見つめながら、ユウトは顔を綻ばせた。

とある事件で保護した、当時言葉も知らなかった幼女は、驚くべき順応力で簡単な会話ならばこなす程になった。

しかし、その身元については依然として判明していない。

商品として売却されそうになっていた事以外の情報は皆無で、国籍も年齢も良く判らない。

身元を突き止めようにも手掛かりが全くない状況であり、警察の調査も殆ど進展が見られなかった。

おそらく六歳程度。幼稚園児の年頃ではないかとユウトは見当をつけている。

この幼い女の子を保護しているために事務所を空にはできず、ユウトとタケシは交代で仕事に当たっていた。

二人で当たる事ができればもっと楽に対処できるのだろうが、担当している監査官も二人の事情を汲み、どちらか一方ずつ

にしか召集をかけないでくれている。

もっとも、ユウトはその事について不満は感じていない。

アリスを保護すると決めた際に一時は休業すら考えた彼女にとって、今の生活は望んでいた以上の、満足のいくものである。

アリスの身元が全く判らず、保護が長期化の様相を呈して来た今では、以前にも増してその気持ちは強くなっていた。

「ちょっと待っててね〜」

アリスをソファーに座らせたユウトは、リビングと一続きになっているキッチンへと足を向けた。

そして、カウンターの向こうから厚切りの食パンを二枚収めたトースターを取ってくると、幼女の目の前のテーブルに置き、

コンセントをつないでスイッチを入れる。

このトースターはユウトが首都で独り暮らししていた頃から愛用しているもので、焼き方と高さの調節機能がついており、

食パンだけでなくドーナツやマフィンまで焼けるようにできている。

アリスはソファーから下りると、テーブルに肘をついて両手で頬を支え、稼動し始めたトースターをじっと見つめる。

アリスは何故か、パンがトースターからポコンと飛び出す様子が好きで、スイッチを入れるとその瞬間を見逃すまいとして

かじりつきになる。

おかげで、トースターが働いている間はじゃれ付かれる事も無いので、食事がパンの時は調理が手早く済む。

急に静かに、そして大人しくなったアリスの真剣な顔を見下ろして微笑すると、ユウトは腕まくりしながらキッチンへ戻っ

て行った。



しばし後、ポコッとパンを吐き出したトースターの前で、アリスは手を叩いて喜んだ。

「ユウトー!でたー!」

「はいは〜い。今行くよ」

かき混ぜて焼き上げた卵が入ったフライパンを火から離し、皿を手にカウンターを回り込んだユウトは、テーブルの上に皿

を置いてパンを移し、バターのパックをアリスの目の前に翳す。

「アリス、バター塗ってみる?」

ユウトが笑みを浮かべて問いかけると、顔を輝かせたアリスは、

「バター!バターやる!やるぅーっ!」

金熊の手からバターのパックを受け取り、大はしゃぎでヘラを握り、表面はカリカリ、中はフワッと焼きあがったパンにバ

ターを塗りつけ始めた。

「バター塗るの好きだねぇアリスは」

丁寧に、入念に、バターを薄く延ばして重ね塗りして行くアリスの様子をほのぼのとした気分で見つめながら、ユウトは新

しいパンをトースターに入れた。

「チョコレートが良い?ピーナッツ?それともジャムにする?」

キッチンに引き返しながらユウトが尋ねると、笑みを浮かべて顔を上げたアリスは、「全部ー!」と、元気良く答える。

(そんなに食べれないくせに…)

微苦笑を浮べつつ「はいはい」と応じたユウトは、チョコとピーナッツ、加えてブルーベリーにイチゴのジャムが入った小

瓶を冷蔵庫から出し、リビングへと運んだ。

それほど食べられないアリスの何種類も食べたいというわがままを、ユウトはいつも黙認する。

そして、幼女が食べ切れなかった分は自分が引き受ける。

甘やかしていると言えばそうなのだが、これはユウトなりに考えての行動であった。

辛い日々を送って来たはずのこの幼女に、ありったけの愛情と慈しみを注いでやりたい。

アリスには今、何よりも他者からの情が必要なのだと考えての甘やかしである。

再びキッチンに戻った大熊は、レタスを敷いた上にスクランブルエッグを盛り、空いた手にケチャップを持ってリビングへ

と運ぶ。

そして、バターを塗り終えたアリスの横に座ると、揃って「いただきます」と声を上げる。

まだ二枚しか焼けていないが、残りは食べながら焼き上がりを待つ。

「アリス、ちょっとこっち向いて…、ホラついてる」

小さな口を大きくあけてパンにかぶりついたアリスの口周りには、タップリ塗りつけたチョコレートで左右に茶色い線がつ

いていた。

太い指で拭ってやり、それをペロッと舐めたユウトに笑みを向け、アリスは「あ〜ん!」と、チョコ塗れのパンを突き出す。

ことさらに大きく口を開け、幼女が差し出すパンをパクリと咥えたユウトは、笑みの形に目を細くした。

本当の親か、あるいは引き取り手が見つかるまでの擬似家族であると重々承知しているのだが、ユウトはアリスが愛おしく

て仕方無い。

そして時折こうも考える。

家族が見つかってアリスが普通の生活に戻るその時、自分はきちんと笑顔で見送れるのだろうか?と…。

やがて来るはずの別れの時を思えば今からでも辛くなる。必要以上に情を移さない方が良いのだろうとは思うが、ユウトに

はそれができない。

家族として親身になって過ごした結果、互いに別れが辛くなるとしても、アリスを精一杯愛してやろう。

そう、ユウトは心に決めていた。



食事を終えて片付けにとりかかったユウトは、食器を丁寧に洗いながら丸い耳をピクリと動かした。

それからややあってリビングのドアが開くと、洗剤の泡に塗れた手を水で流しながら声を上げる。

「おかえり〜!お疲れさん」

「ただいま」

短く返事が上がると、次いでアリスのはしゃぎ声がリビングに響いた。

「おかえりタケシー!」

ドアを開けてリビングに入った青年は、整った顔立ちをしていた。

が、切れ長の鋭過ぎる目と、精悍ながらも表情に乏しい顔つきが、ハンサムと呼ぶのを躊躇わせる。

無駄肉のついていない細く引き締まった体付きをしており、すらりと背が高い。

「ただいま」

帰宅の挨拶を幼女にも改めて繰り返す青年の声を聞きながら、ユウトはタオルで手を拭い、カウンターを回り込む。

「遅かったね?何かあっ…」

そして、アリスとタケシの姿を見るなり硬直し、絶句した。

汚れた衣類が入っているのだろうスポーツバッグを左手に持ったタケシは、空いている手にアリスをぶら下げていた。

アリスが穿いている子供用ジーンズの後ろをしっかり掴み、抱くのではなく、文字通りぶら下げている。

 まるでゴミ袋でも持つように。

細身の体つきにもかかわらず、タケシの筋力は一般的な人間のそれを大きく上回り、獣人の一流アスリート顔負けの膂力を

発揮する。

軽々と吊されたアリスは、キャッキャッとはしゃいで声を上げていた。

そしてタケシは手荷物でも渡そうとするように、どうやら喜んでいるらしいアリスを、ずいっとユウトに向かって突き出す。

「事後処理に少し時間を取られた。回収対象物が多かったので、他の調停者と共に輸送車への搬入を手伝ってき…」

「何つぅ抱ぎがだしてんだぁっ!このほでなすっ!!!」

(意訳・何という抱き方をしているのですか。このバカチン)

タケシの言葉の後半をかき消して、リビングに大熊の怒声が響き渡った。

ユウトは怒りもあらわにドドドッとタケシに駆け寄り、その手から引ったくるようにしてアリスを抱き上げる。

「…ユウト?」

僅かに眉根を寄せて訝しげな顔をしたタケシに向かって、鼻面に皺を寄せたユウトがずいっと身を乗り出した。

「アリスは物でねぇど!?ほいな持ぢがだしてわがんねっ!!!」

(意訳・アリスは物ではありませんよ?そんな持ち方をしてはいけません)

大切にしているアリスをぞんざいに扱われ、身を乗り出しつつ郷訛り全開でまくし立てるユウトの剣幕たるや、さながら我

が子を守るべく闘争本能をむき出しにした母熊の如し。

さしものタケシも気圧されたのか、軽く仰け反ってじりっと後退する。

丁寧とは言えない、むしろ乱暴な持ち方ではあったが、実のところ、タケシ本人には全く悪意が無かった。

まとわりつくアリスが足にぶつかって怪我などしないようにと配慮して捕まえ、片手が塞がっていたのでぶら下げるように

して掴み上げていただけなのである。

がしかし、その扱いは一歩間違えば他者からは虐待しているようにも見られかねない。

そしてタケシが深く考えずに取った効率重視の行動は、ユウトの逆鱗に触れていた。

かなり近い位置まで凄まじい形相の顔を寄せて来たユウトに至近距離から睨まれ、唾を飛ばされながらしばし説教されたタ

ケシは、

「悪気は無かったのだが…」

「こいなごど悪気あってやらいだら堪ったもんでねぇ!!!」

(意訳・こんな事を悪気があってやられては堪った物ではありません)

弁解しようとしたものの、一喝されて黙り込む。

普段は穏やかで滅多に怒らないユウトだが、もしも怒ればとても怖い。

抱かれたアリスもユウトの怒り具合に驚いて、先程からワンワン泣いている。

やがて、長々と続けた説教をようやく終えると、ユウトはヒックヒックとぐずっているアリスを抱いたまま、不機嫌そうな

顔でタケシの顔を見下ろし、フシューッと荒い鼻息を漏らす。

「…悪かった…」

さすがに堪えたのか、小声で謝った青年の顔には、やや落ち込んでいるらしい表情と、おそらくは任務による物だけではな

い疲労が色濃く浮かんでいる。

大きくため息を吐き出したユウトは、ぐずっているアリスを軽く揺すってやりながら、タケシをじろりと見遣った。

「まったく…。もうちょっと大事に扱ってあげてよね?あの持ち方は愛が感じられないよ愛が…」

もうさほど怒ってはいないのか、ユウトの声音には怒りは含まれておらず、代わりに呆れているような響きが伴われていた。

「お〜よしよし…。ごめんねぇアリス、急に大声上げちゃって…。ビックリしたねぇ…、ゴメンねぇ…、アリスに怒ったんじゃ

ないんだからね?ほ〜らニッコリしてみよ〜、はいニッコリ〜、ボクもニッコリ〜。ほぉ〜ら、もう怒ってないよ〜」

おどけた調子で話しかけてアリスを宥め、あやしているユウトを眺め、

「…愛…」

タケシはぼそりと、そんな言葉を呟いた。

「お米炊いてないんだ。朝ごはんトーストで良い?」

今しがた急速沸騰したのがウソのように、極々短時間で普段の穏やかさを取り戻したユウトが尋ねると、タケシは俯き加減

だった顔を上げて頷いた。

「タケシもパンで良いって。タマゴ焼くから、割るの手伝ってくれるかなぁ?」

ようやく泣き止んだアリスを高い高いしてやりながら、ユウトは微笑みかける。

「たまごさん?」

「うん。タマゴさん!アリスが手伝ってくれると、凄く助かって嬉しいんだけどなぁ」

「てつだう!たまごさんてつだう!」

目の周りを涙で濡らしたまま笑みを浮べ、アリスは喜んでコクコク頷いた。

そんな二人の様子を眺めながら、

「…愛…」

タケシは再び、先ほどと同じ言葉をボソリと呟いていた。



タケシに食事をあてがい、せっかくだからついでにと、一緒に二度目の朝食を取りながら、ユウトは口を開いた。

「タケシ、前はカズキさんの部屋に居候してたんだよね?」

「そうだ」

タケシはパンにレタスやハムを乗せ、挟みつつ応じる。

あぐらをかいた自分の足の上でゴロゴロと転げ、じゃれついて来るアリスを見下ろしながら、ユウトは前々から何度か頭を

掠めていた疑問を口にした。

「カズキさんって料理とかしてなかったの?」

「していた。…と、思っていた」

妙な答えを返した青年は、ユウトの胡乱げな視線を受けて先を続ける。

「ユウトが料理をしている様子を見るまで、俺は、俺やカズキさんがやっていたアレも料理に入るものだと思っていた」

「やっていたアレ…?何?」

「湯を沸かしてカップ麺に注ぐ行為だ」

「…まぁ、料理してる訳じゃあ…ないかなぁ確かに…」

とりあえず、カズキが料理などをしていなかった事を察したユウトは、次いでもう一つの疑問を口にした。

「もしかして、カズキさんもコーヒーや紅茶や緑茶にプロテインを混ぜるひと?」

「いや、カズキさんはプロテインが口に合わないそうだ」

タケシの返答を聞いたユウトは、丸い耳をピンと立て、不思議そうな顔をした。

世間知らずのタケシがプロテインなどという一般的でない物を常食しているのは、てっきりカズキの影響か何かだと思って

いたのだが、予想が外れたのである。

「じゃあ、プロテインが好きになったきっかけって…、何?」

「好きな訳ではないし、飲むようになったのも何となくだ。…ただ、口にしているのが普通…、そんな気がするだけで飲み続

けている」

珍しく要領を得ないタケシの返答で、ユウトはハッとした。

(カズキさんの影響じゃない上に、タケシ自身の好みでもない?ひょっとして…、記憶を失う前からプロテインを飲んでいた?

それこそ習慣になるぐらいに…。それで今も…?)

金熊の思考は、しかし電話が鳴った事で途切れた。

「はい!カルマトライブ調停事務所です!」

営業スマイルを浮かべ、テーブルの上の子機を取ってはきはきと言葉を紡いだユウトは、

「あ…。いえ、違います…」

間違い電話である事に気付き、耳を伏せてしょぼくれながら受話器をテーブルに置いた。

「個人依頼は、なかなか入らない物だな」

「うん…。まぁ、それだけ平和って事なら良いんだけど、白熊のおじさんのトコなんかにはガンガンドカドカ依頼入ってるら

しいしねぇ…。単にウチの知名度や信用度が低いだけかも…」

ため息混じりに呟いたユウトに、プロテインをこれでもかと溶かし込んでドロドロになったホットミルクを啜ったタケシが、

ポツリと告げる。

「これからだ」

「うん。まだまだ、これからだよね」

微笑を浮かべて頷いたユウトは、顔を下に向けて視線をアリスに向ける。

大熊の丸い腹をポムポムと平手で叩き、構って欲しいとアピールしているアリスに笑いかけるユウトの頭からは、先ほどタ

ケシの過去について巡らせた思考が、中断されたまま消え失せていた。



そして夕刻。タケシが事務所の応接室に現れると、応接用ソファーにかけていたユウトは不思議そうに首を傾げた。

ユウトの足元では、床に座り込んでテーブルに上体を乗り上げたアリスが、真剣な表情で塗り絵に興じている。

昼近くまで書類整理をした後、自室に戻って仮眠を取っていたはずのタケシだが、今はコートを纏って外出の支度を整えて

いた。

「ちゃんと寝た?無理はダメだよ?」

「問題ない。少し出かけて来る。構わないか?」

「は〜い。行ってらっしゃい。買い物?」

「いや、愛を探してくる」

「へぇ…。気を付け…愛っ!?」

いつもの調子で送りだそうとした後、弾かれたように顔を上げたユウトは、ドアの前に立っているタケシをまじまじと見つ

める。

この青年が時折妙な事を口走るのは今に始まった事ではないが、内容がいささかおかしい。

寝ぼけているのか?それとも朝に怒鳴り過ぎたのか?などとにわかに心配になったユウトは、

「図書館や本屋で探せば見つかるかもしれない」

次いで発せられた青年の言葉でカクンと顎を落とす。

「あぁ…、うん…、見つかると良いね…」

「では、行ってくる」

青年は颯爽と身を翻して出てゆき、金色の熊は呆然とドアを眺める。

「愛を下さい…って歌…、あったっけなぁ…」



数十分後、タケシは町立図書館に居た。

バスを待っている間に、愛についての予備知識を得ておこうと、元保護者であるところのカズキに電話をかけてみたのだが、

「…眠いから後でな…」

 と、恐ろしく掠れた声で短く告げられ、通話を切られてしまっている。

カズキはタケシより早くに事件対応を始めた上に、誰よりも遅く引き上げており、先ほどようやく睡眠にありついたばかり

であった。

普通に考えればそっけない対応をするのも無理の無い事ではあったが、実は少し事情が異なる。

タケシの口から愛などという単語が出た事で、電話を取ったカズキは夢を見ているのだと勘違いしてしまい、通話を切って

再びひっくり返ってしまっていた。

そして今、予備知識が得られなかったタケシは、鋭く視線を走らせながら本棚の間を歩き回り、愛という文字が記された本

を片っ端から引き抜いては開き、内容を確認している最中である。

そうして図書館の中を本の種別も考慮せず歩き回っていたタケシは、それでも常の通り周囲に神経を張り巡らせている。

いかなる場合も意識がある限りは油断しない、油断できない。それはタケシの身体に染み付いた習性であった。

彼自身が覚えていない過去において、本能のレベルで叩き込まれた常時の臨戦意識。

完全に無防備な状態になるのは、能力行使の副作用で深い睡眠状態に陥った時のみ。

平穏な日常においても、意識の最奥では常に周囲を警戒しており、比較的緩和されるのは、ユウトやアリスと共に過ごして

いる間だけ。

それでも常人が屋外の風の音に意識を凝らす程度には警戒を保ってしまう。

そんな彼だからこそ、自分に向けられている視線を感じ取っていた。

自分を視ている者が居る。

すれ違う女性が、青年が自覚していないその恵まれた容姿に対して瞬間的に向けるような注意とは違う。

ちらりと注意を向けるような物ではなく、自分を追っている目がある。

臨戦態勢とは行かないまでも気の張り方を変え、手にしていた本を棚に戻すと、青年はその場でくるりと振り返った。

180度体の向きを変え、意識の出所に視線を向けたタケシは、コツコツと床を鳴らしながら、ひたと見据えた相手に歩み

寄る。

自分の方へ真っ直ぐ歩いて来る長身の青年を見て、閲覧用の机について本を広げていたその人物は、少し驚いたように目を

大きくした。

自分を見ていた相手と机を挟んで向き合ったタケシは、じっと相手の目を見据えながら口を開いた。

「俺に何か用でも?」

端正な顔立ちの、しかし鋭い目をした青年に真っ直ぐ見つめられ、その少年はたじろいだように耳を伏せる。

「あ…、いえ…。用事があった訳では無いんです」

白い被毛を纏うとても小柄な猫獣人は、椅子から腰を浮かせてペコリと頭を下げた。

「さっきからずっと何か探しているように見えて、ちょっと気になっちゃって…。気に障ったらごめんなさい…」

どうやら少年は敵意や悪意を持って自分を監視していた訳ではないらしい。

そう判断したタケシは警戒を緩めつつ、改めて相手の容姿を確認した。

小柄な少年は線の細い華奢な体付きで、黒い学生服の上にフード付きのジャンバーを羽織っており、分厚いハードカバーの

本を広げていた。

「いや。気になっただけで、気分を害した訳ではない」

タケシがそう応じると、少年はほっとしたように少し表情を和らげ、「どんな本を探しているんですか?」と尋ねる。

「愛について書いてある本に心当たりは無いだろうか?」

「愛?」

きょとんとした相手の顔を見ながら、タケシは幼児に対しての接し方や気の配り方を学びたいのだと要約して説明する。と、

「なら、育児書なんかが良いんじゃないですか?」

少年は不思議そうな顔をしながらそんな事を言った。

「育児書?それには愛があるのか?」

真面目な顔で尋ねる青年の微妙な表現が可笑しかったのか、白猫はクスっと小さく笑う。

「本の中を探さなくても、愛なんて皆が持ってる物だと思います。…先日、友達がこんな事を言っていました」

一度言葉を切った少年は、記憶を手繰るように眼を細め、ふっと微笑を浮かべてから口を開く。

「大切な物ほど、特別な物であってはいけない。ありふれた物であるべきだ。…って」

文章を読み上げるようにそう言った少年を、タケシは訝しげに眼を細めながら見つめる。

「友達が言っていたんです。もっとも、彼はもっと砕けた言い方をしていたんですけど、意味はこんな感じで…」

「ありふれた?」

「ええ。特別じゃなくて、ありふれている。大切な物ほどそうじゃなきゃいけないって…、そう言っていました」

タケシは聞いた内容を反芻し、短い間黙考していたが、やがて首を捻った。

「難しいな…」

「ですね」

少年は小さく頷いて微笑むと、時計に目を遣って「あ」と声を漏らした。

「閉館まであまり時間も無いですし、育児書のコーナーに行ってみましょうか?良ければ案内しますよ?」

じっと見て不快にさせてしまったお詫びの意味も込めて少年が申し出ると、タケシは渡りに船とばかりに即座に頷いた。

過去を失って生きる青年と、過去を抱え込んで生きて来た少年。

まるで正反対の二人は、互いの事情を知らぬまま袖を触れ合わせた。



タケシが白い猫少年の勧めで育児書を手に取っている頃、カルマトライブ調停事務所では、

「どこまで探しに行ったんだろ…」

愛を探しに行ったまま一向に帰って来ないタケシの事を思い浮かべたユウトが、窓の外を眺めながら呟いていた。

リビングの窓から見える景色は、冬場の早い日没で既に真っ暗になっている。

「見つからないのかな?…って言うより、そもそもどういう物を想像しているのか不明だけど…」

ユウトはブツブツ呟きながらカウンターを回り込み、冷蔵庫の扉を開けると、大きな手でキャベツを一たま掴み出した。

そのまま廊下に出て奥の部屋へ向かい、開けっ放しにしていたドアを潜る。

「お待たせ〜。ご飯の時間だよ〜」

ユウトが声をかけると、大きなガラスケースにくっついて中を凝視していたアリスは、首を巡らせて顔を輝かせた。

「やるー!アリス、ごはんやるー!」

笑みを浮かべて「はいはい」と応じたユウトは、ガラスケースの前まで来ると、毟ったキャベツを幼女に手渡した。

二人が居るその部屋の真ん中にはスチールデスクが置かれ、四方の壁にはダイヤ形の葉を持つ高さ1メートル程の植物が植

えられた鉢がずらりと並んでいる。

デスクの上に置かれている、常に温度と湿度が一定に保たれているガラスケース内では、長さ20センチ、太さ4センチ程

の薄茶色の巨大芋虫が数匹、巡らされた木の枝や敷き詰められた葉の上をのろのろと徘徊していた。

そこは、ユウトが内職に利用している部屋である。

ガラスケースで飼育されている芋虫は危険生物だが、危険度は極めて低く、皮膚をかぶれさせる液を分泌する程度の攻撃性

すら持たない。

芋虫ではあるが、蛹にも蝶にもならない。成虫になってもこの姿のままという生物で、あちこち飛び回る事もない。

ただし、吐き出す糸は極めて腐食に強いという特異な性質を持っており、自然界に放すとあちこちに風化しない糸がばらま

かれてしまう為、程度は低いものの危険生物指定を受けている。

そんな生物を飼育するメリットは、吐き出すその糸にあった。

特殊な薬品でなければ分解できない程腐食に強い糸は、危険生物と対峙する調停者達が身に付ける特殊防護服等の材料とし

て重宝されている。

ハンター養成校に居た頃に、深く考えずに危険生物の育成資格を取得していたユウトは、卒業から数年経った今になって、

予想外にこの資格が役立つ事に気付いた。

ユウトはこの芋虫を卵の状態から育て、成虫目前の現段階まで飼育しているが、上手く成虫になれば相楽堂のような調停者

御用達の店で高く引き取って貰える。

実はこの芋虫の他にも特殊な植物を栽培したりもしているのだが、事務所の運営が決して順調ではない今、資格を活かした

内職は貴重な収入源であった。

極めて大柄で太っており、いかにも不器用で鈍重そうに見える金色の熊は、しかしマメで手間を惜しまない性格と器用さに

よって、比較的難易度の高いこれらの内職を完璧にこなしている。

アリスをスチールデスクの上に持ち上げたユウトは、ガラスケースの蓋を外して中を覗き込む。

「うん。コロコロ太って良い具合に育ってる。順調順調!」

満足げな笑みを浮かべてケースを覗き込んでいる金熊の顎を、幼女が下から栗色の頭でぐぐっと押し退けた。

ガラスケースにとりついたアリスは、千切ったキャベツを一匹の芋虫の前に置く。

のろのろとキャベツに接近した芋虫は、やはりのろのろとキャベツを囓り出し、はしゃいだアリスは再びユウトからキャベ

ツを受け取り、別の芋虫の前に置く。

アリスは、何故か芋虫への給餌作業が気に入っていた。というよりも芋虫自体を可愛がっている節がある。

山奥で様々な生き物と触れ合いながら育ったユウトですら、これは自分同様普通の女の子の反応ではないなと感じている。

なにせ、餌をやってガラス越しに眺めるだけでは飽き足らず、体長20センチの芋虫を手掴みにし、手の平や腕に這わせな

がら話しかける程度のコミュニケーションを取るのだから。

奇妙な事に、芋虫もまたアリスが友好的な接触を試みている事が判るのか、掴まれてももがきもせずに大人しくしている。

もちろん通常であれば、捕まえれば嫌がってウネウネ悶えるのだが。芋虫がアリスに対してのみ見せる、実に奇妙な反応で

あった。

アリスにキャベツを渡しながら、ユウトは幼女とタケシを伴って里帰りした時の事を思い出す。

兄に入浴させて貰ったアリスの、小さな芋虫発言の事を。

「おじちゃんね、ちーさいいもむしたんいたよ?」

兄のコンプレックスについて理解しているユウトは、その日アリスがそう言っただけで何の事か悟った。

混浴がデフォルトの河祖下で生まれ育ちながら、ユウトの兄は異性どころか同性とも一緒に入浴する事を避ける。

それほどに自身のアレにコンプレックスを抱いているというのに、年端も行かぬ幼女に面と向かって言われたとすれば、堪

えない訳がない。

(ヘコんだだろうなぁ…、兄さん…)

などと思いつつも、触れないでおいてやるのが思い遣りだと、ユウトは何も知らない振りをして故郷を後にしていた。



『遅くなる。夕飯は適当に摂る』

図書館で借りただけでなく、育児書を買い漁っているタケシからそんな短い連絡が入ったのは、ユウトが夕食の準備に取り

かかろうとした直後の事であった。

どうやらタケシの言う愛は、なかなか捕まえられず、ルパンのようにひらりひらりと華麗に逃れる手強い相手であるらしい

と察し、

「もう良いから帰っておいでよ…」

ユウトは通話が切れた携帯に向かってそう呟いた。

寒い中を歩き回って帰って来るのだから、とりあえず風呂を湧かしてすぐに入れるようにしておこうと考えたユウトは、ふ

と思い出した。

親類の中学生から聞いていた、彼の後輩の家で銭湯を経営しているという情報を。

とある件での名誉の負傷で入院している若い熊を見舞いに行った際に、機会があったら是非とも訪ねてみて欲しいと銭湯を

紹介された事を思い起こし、ユウトはウンウン頷く。

「何事も経験。銭湯に連れて行ってみるのも、教育には良いかもだよね…。アリス?タケシは遅くなるらしいから、今日はお

出かけして外でご飯食べようか?」

「おでかけー?」

ソファーに寝そべって絵本を眺めていたアリスが顔を上げると、

「うん。外で何かいつもと違うご飯を食べて、それから大きなお風呂に!」

ユウトは愛すべき少女に満面の笑みを向けた。



それは、ユウトも、タケシも、変わらぬ日々がまだまだ続くと思っていた頃の、特別な事は何もない、ありふれた、しかし

大切なある一日の出来事…。