Cry for Daybreak(前編)


あなたには、大切な人が居ますか?

傍に居てくれれば笑顔になれる。

一緒に居るだけで幸せな気分になれる。

手を取り合えばどんな辛い事でも乗り越えられる。

そんな人が居ますか?

もしも居るなら、決して手放さないで。

もしもまだ居ないなら、見つけられる事を願います。

ボクには、居ました。

自分の全てをあげても良い。そう思えた人が…。








すらりと背の高い細身の青年が、ボクの前に立っていた。手を伸ばせば触れられる程、すぐ近くに…。

「タケシ…」

呼びかけると、青年の整った顔が微笑を浮かべる。

答えは返って来ない。けれど、一歩踏み出した彼は手を伸ばして、ボクの頬に静かに触れて来た。

ボクよりも低い位置にある彼の顔を見下ろしながら、ボクは頬に添えられた手にそっと自分の手を重ねる。

軽く触れられているだけじゃ足りなくて、もっとくっついていたくて、ボクは足を踏み出して彼に抱きつく。

抱き締める。と言った方が良いかもしれない。

彼は長身だけど、女だてらに大柄なボクと比べれば背が低くて、体型だって、太ってるボクとは正反対でスリム。

細く締まった無駄の無い体を、肩に両腕を回す形で軽く抱き締める…。

彼の腕がボクの太い胴にそっと回って抱き締め返し、手の平が優しく背中を撫でてくれる…。

「…タケシ…!」

目を閉じて、呻くように名を呼ぶけれど、彼はやっぱり答えない。

それでもいい。タケシを少しでも感じていられれば、それだけでいい…。

少し震えながら、被さるように、包み込むように抱き締めるボクの背を、彼の手が優しく、何度も撫でてくれる。

幼い頃、両親や兄さんに頭を撫でて貰った時とは違う。

庇護の対象としてじゃなく、対等の立場の愛しい存在として接してくれる温かさ…。

ボクはこんなだから、求める事を分不相応だと諦めて、恋愛には目を背けて、母さんの仇討ちという悲願だけを見据えてる

ふりをして、自分を誤魔化してずっと過ごして来た。

…けれどあの日…、ついに我慢できなくなった…。

我慢できなくなる日が来るなんて事、我慢できなくなる相手が現れるなんて事、考えた事も無かったのに…。

幼い頃から兄さんを見て育って来たボクは、異性を意識する時はどうしても奥羽の闘神を比較対象に持ち出す癖がある。

だから、誰かが恋愛対象っていうステージに乗る事さえ、まず無いと思ってた。

兄さん程頼れる、全部預けられるひとなんて、居ないと思ってたから。

けれど彼は…、気付けばボクの心に深く食い込んでた…。

そっけなくて、常識知らずで、変わり者で、ズレてて、時々ちょっと優しい彼に…。

ボクは何故だか兄さんに対してそうするように、外見は全然違う彼に、いつしか全幅の信頼を寄せるようになっていた…。

腕が良いっていう事もある。顔が良いのも、人間にしては背が高いのも、たぶん要因の一部だとは思う。

けれどボクはきっと、彼の危うさに最も惹き付けられたんだ…。

危ういほど正直で、コミカルな程ピュア。時に冷酷に見えるほど合理的なのは、生き抜くための純粋さの顕れ。

まるで、彼が愛用する武器のように、彼自身も鋭くて美しかった。

ただひたすらに斬る事を追求して造られ、無駄を極力省いた合理性の塊。それなのにひとを惹き付ける、危うい美しさを纏

う日本刀…。

タケシはそう、まるで刀のようなひとだった。

鞘に収まった静かで落ち着いた雰囲気と、抜き放った後の鋭くて冷徹な雰囲気…。

完成されたアンバランスさ。

おかしな表現だけど、彼を見ているとそんな事を思わされた。

彼に魅せられたボクは、せめて彼の鞘として寄り添おうと思っていたのに…。

…空っぽの鞘に、なっちゃった…。

しばらく抱き締めあった後、ボクらは少しだけ身を離す。

そして、恥じらいながら少し背を屈めたボクの首に彼の右手がまわり、左手が頬に添えられる。

導くように優しくボクの首を引き寄せて、はにかんだような笑みを浮べた彼は、そっと顔を寄せてきた。

唇が触れる寸前、ためらうように彼が一度動きを止めた後、静かに押し付けられて口と口が密着する。

「んんっ…!」

唇を重ねられたまま目を閉じて、ボクは喉の奥からくぐもった声を漏らした。

目の奥が熱くなって、閉じた瞼の下から、止め処なく涙が溢れて来る…。

この感触が、温もりがあれば、どんな事にも耐えられる…。

…ああ…。もしもまた二人で抱き締めあえたなら、どんなに…。



薄く開けた目に飛び込んできたのは、滲んだ景色。

コンクリートがむき出しの狭い部屋、灰色の天井をしばらく眺めた後、ボクは腕を上げて目の周りをグイッと拭う。

眠っている間に零れた涙は、目の周りを濡らして、顔の脇を伝い落ちていた。

小さく鼻を啜り上げて、震える息を吐き出す。

…また、同じ夢…。

何度も同じ夢を見るようになったせいで、今じゃ見ている最中に夢だって気付くようになった。

熟睡した気になっても、うつらうつらしてても、繰り返し繰り返しこの夢を見る。

これ以外の夢を見たり、夢を見ない日は無い。だから、ベッドに入る度に強い期待が胸を満たす。

…そして、目が覚めればいつも今と同じ状態だ…。

しばらく顔の上に乗せていた腕を退かすと、押さえつけられていたせいで眼圧が上がっていて、視界に星がちらついた。

ベッドマットを重ねて作った寝床の上で身を起こし、ボクは壁にかけられた小さな置時計で時間を確認する。

午前九時少し前…。夜の間は一睡も出来なかったけれど、朝方から二時間ぐらいは眠っていたらしい。

病院で目覚めて以来、ボクは長時間眠る事がなくなった。

ベッドに入ってもせいぜい一、二時間程度で目が覚める。

一日の睡眠時間は合計でも三時間ぐらい。それでも睡眠への欲求はあまり無いし、寝付くまで少しかかる。

食欲も以前と比べるとぜんぜん無い。

体をあまり動かしていない事もあってか、一日に二食、普通のひとと同じくらい食べただけで足りてる。

おかげで体は少し細くなったかもしれない。

だるさが抜けない体を引き摺るようにして、ボクは独房を思わせる殺風景で小さな部屋を出た。



狭い通路を抜けて辿り着いた部屋は、とにかく雑然としていた。

中央に四つ纏めて置かれたスチールデスクの上には、ごちゃごちゃと大量のパソコンとモニター類がひしめき合ってる。

パソコンの一つの前では、小柄な男がこっちに背を向けて、キーボードを叩いていた。

「少しは休んだのか?」

手を休めず、ボクを見もしないで発された男の声は、機械を通して合成されたような感じがする独特な物だった。

案外本当に機械を通して声を変えているのかもしれないけれど…。

「おかげさまで」

応じたボクは、手近なベンチに腰掛ける。

今、一応「彼」と言ったけれど、実際の性別は判らない。

体のラインが見えないブカブカの服を着ているし、目深にフードを被ってて顔は見えないし、声もこんなだし…。

以前、彼に連れられて初めてここに来た時、性別について訊ねた事があったけど…。

「その情報は…、そうだな、七万でどうだ?」

…なんて言われたから確認はやめた。…気にはなるけど…。

そんな彼だか彼女だか知れないこのひとの名はユミル。情報屋だ。

ボクは訳あって彼のテリトリー…、東護の地下深くにある隠れ家に身を寄せている。

あの日…、病室で目覚めて、タケシが居なくなってしまった事を思い出して、泣きながら途方に暮れたボクは、胸が潰れて

しまいそうな悲しみの中、自分がするべき事に気が付いた。

病室には兄さんの匂いが残ってた。

止められるのは目に見えていたから、会うのを避けて逃げるように窓から抜け出した。

病院を後にしたボクは、弱った体を引き摺って事務所に戻り、必要最低限の物だけ持ち出してユミルの元へ向かった。

タケシがつないでくれた道を、最後の一歩までしっかり踏み締める為に…。



「フワの事は残念だったな」

五日前、ボクを迎え入れたユミルは、アームチェアに腰を下ろしながら、タケシの事に触れた。

ボクは病院を抜け出した後、一度事務所に戻って、患者衣から普段着に着替え、必要な物だけを手にしてすぐに出た。

連絡も無しにユミルを訪ねたボクは、勧められるまま大きなベンチに腰を下ろす。

「ラグナロクの事について調べるよう依頼を受けていたが…、肝心の作戦決行日時を掴む前に事態が動いてしまった。…屈辱

だな」

情報屋としての矜恃が傷ついたのか、抑揚のない合成音のようなユミルの声には、それでも悔しさが滲んでいるようにボク

には感じられた。

「フワからは調査報酬は全て前金として受け取っていた。が、依頼された内の半分程度の情報しか渡せていない。前金の半分

はお前に返そう。渡した情報が半端だった以上、全て受け取る訳には行かないからな」

「義理堅い…っていうより商売下手だね?労力に見合った対価としてそのまま受け取るつもりは無かったの?そもそも、前金

で受け取ってた事を言わなきゃ、ボクから二重取りできたのに…」

「フェアではないからな。商売においては信用第一をモットーにしている」

ボクの指摘に肩を竦める事で応じたユミルは、

「それで、病院を抜け出してここへ来たのは何故だ?」

と、さりげない調子で驚くべき事を口にした。

「…ど、どうして…?」

どうしてボクが病院を抜け出した事を知っているの?ほんの数時間前の事なのに…。

ボクがそんな問い掛けを言葉にする前に、ユミルは机の上のモニターの一つを、手袋をはめた親指で指し示した。

「警察の情報はなかなか面白いからな、趣味で覗き見させて貰っている。…昨日など巡査部長がパトカーで息子を塾まで迎え

に行ってな、なかなか微笑ましい」

細かな文字が凄いスピードで上から下へと表示されていくモニターを見遣り、ボクは顔を顰めた。

野球中継の速報板みたいに警察の動きが高速ログ化されて、動きが筒抜けになってる。

こういう常識はずれな技術を見せられると、ユミルを野放しにしてるのはつくづく危険に思えて来るね…。

「つい先程、お前が病院から姿を消したという情報が入った。じきに本格的な捜索が始まるだろう。何せ今回の事件に最も深

く関わった者の一人であり…、おまけに、バベルに侵入し、生きて戻ってきた重要な情報源だ」

フードの下から興味深そうな視線を投げてくるユミルに、ボクは首を横に振る。

「期待に添えなくて悪いけど、情報を期待しても無駄だよ?結局の所、ボクにはバベルが何なのか判らない…。タケシは理解

した様子だったけれど…」

ボクは言葉を切り、タケシとの別れ際、朦朧としながら聞いた言葉を思い出す。

確か…、「世界を好きなように造り変えられる」彼はそう言っていた。そして…。

「バベルは…、ラグナロクにも、政府にも、何処の国にも渡す訳にはいかないって…。タケシはそう言っていた…。だから、

だから…、「誰の手も届かない所へ持って行く」って…!」

不意に視界が滲んで、両目から涙が溢れ出した。

タケシは…、ボクらを護るために、バベルをこの世界から切り離して、何処かへ飛ばしたんだ…!

恐らく…、彼にディストーションで抉られた物体が行き着く「あっち側」へ、自分もろとも…!

ボクは両手で顔を覆って俯き、声を押し殺して啜り泣いた。

体の真ん中にポッカリと風穴があいたような、耐え難い喪失感があった。

胸がシクシクと痛んで、背中が寒くて、ボクは体を丸めて震えていた…。

「先の質問を繰り返すが、何故ここへ来た?」

ユミルの言葉で、ボクは顔を上げる。

いたわるそぶりもない平坦な声が、嫌が応にもボクを現実と向き合わせてくれた。

「調べて欲しい事が…あるんだ…」

腕で涙を拭い、ボクはユミルを真っ直ぐに見つめて、依頼したい内容を伝えた。

「…興味深いな…」

ボクの話を聞き終えたユミルは、腕を組んでそう呟いていた。

「引き受けた。調査料は…、そうだな、フワから受け取った前金の残りと相殺という事でどうだ?」

それは有り難い申し出だった。計算外だったけど、寂しい懐を痛めないで済む。

もちろん即座に頷いたら、ユミルはさらに続けた。

「それと、その計画を実行するには、監視があるのはまずい。捜索は何としてもかわさなければならないな」

「そうだね。もとより、姿をくらますために病院を抜け出したんだ。逃亡生活は覚悟の上だよ」

「しかし病み上がりのお前には厳しいだろう。そこで相談だが…、お前の依頼をこなしても、受け取っていた前金の残りを清

算するにはまだ足りない。良ければ身を潜める場所も提供するが、どうだ?」

ボクは少し迷った。情報屋であるユミルが、ボクの情報を誰かに売らないとも限らない。手放しに信用してしまうのは躊躇

われたから。

正直なところ願っても無い申し出だったけど、受けるべきか断わるべきか迷っていると、

「口止め料も込みで、前金の相殺にさせて貰う」

ユミルはボクの考えを見透かしたようにそう言った。

結局、彼のプロ意識を信用する事にして、ボクはユミルの隠れ家に匿って貰う事にした…。

それからこの五日の間に、事件後はずっと眠り続けていたボクは、それまでの経過についてユミルから教えて貰った。

人的被害が一般人には殆ど及んでいなかった事に、まず安堵した。

重体になっていたらしいアル君が無事に意識を取り戻した事を知って、ホッと胸を撫で下ろした。

そして、ヤマガタさんが殉職した事を知って涙を流した…。

遺体は、ブルーティッシュが押さえている墓地へ葬られたらしい。

捜索対象になっている今のボクには、墓参りする事すら難しかったから、首都の方を向いて祈りを捧げた…。

間接的に入ってくる情報を聞き齧りながら地下深くで過ごしたボクは、五日の間にある程度は動けるようになっていた。



「コーヒー」

この五日間の事を振り返っていたボクの耳に、キーボードを叩く音に混じって、ユミルがポツリと発した声が耳に届いた。

「ポットに入っている。欲しいなら自分でついで飲むといい」

「ありがと。頂くね」

腰を浮かせて散らかった机に歩み寄ったボクは、赤い電子ポットから自分の分とユミルの分を紙コップに注ぐ。

ユミルが好む砂糖とクリームの分量は覚えた。

どうやら甘党らしく、砂糖はガッポリ、ミルクはドッサリが彼の好み。

…まぁ、ボクの方がどっちの量も多いから、ひとの事言えないけどね…。

コーヒーを注いだ紙コップを、作業の邪魔にならないよう少し離して横に置くと、ユミルは「どうも」と、画面から目を離

さないまま言った。

「どういたしまして」

応じてベンチに戻ろうとしたボクは、

「今朝、調べが付いた」

ユミルの短い言葉で、弾かれたように振り返った。

振り向いた勢いで、手にした紙コップからコーヒーが零れて、床にパタタッと落ちる。

「どうだったの!?」

勢い込んで訊ねたボクに、キーボードを叩く手を止めて、身を乗り出しつつ画面に見入ったユミルは、

「黒だ。お前の推測は当たっていた。調停監査室長はラグナロクと繋がっている」

ボクが予想していた…、いや、ほぼ確信していた事を、あっさりと肯定する内容を口にした。

「…そう…」

掠れた声で応じたボクは、自分が今どんな感情を胸に抱いているのか、判らなくなっていた。

感じない…。何も、感じない…。

たぶん、衝撃が大き過ぎて、心が麻痺しちゃってるんだ。

タケシには悪いけど、心のどこかでは、間違いであって欲しいと思っていた…。

けれど当たっていた。

調停者を管理する監査官。そのトップである監査室の長が、ラグナロクと…。

道理で、あれだけの危機的状況にあって、カズキさんや他の監査官が要請したマーシャルローの発令が却下される訳だ…。

 情報屋を使って監査室を探る…。間違いなく反逆罪に問われる行為だけど、認識票を捨てた甲斐はあった…。

「…どうした?クマシロ」

ユミルの声に、俯いていたボクは顔を上げた。

無意識に握り潰した紙コップから零れた熱いコーヒーが床にぶちまけられ、ボクの手を濡らしていた。

熱さは、不思議な事にさほど感じていなかった。心だけじゃない。どうやら体の感覚も麻痺してるらしい。

「何が可笑しい?」

ユミルの訝しげな問いかけで、ボクは初めて気付いた。

巡らせた視線の先、壁に掛った小さな鏡に、笑う熊の顔が映っている。

鏡の中のボクは、奈落の底みたいな暗い目をして、口を三日月の形に歪めて、禍々しく醜悪な笑みを浮かべていた…。



東護の海を見下ろす小高い丘の上、木々に囲まれた静かな墓地で、十字架を象った白くて小さな墓標の前に立ったボクは呟

いた。

「もう…、行くね…?」

薄く霧が漂う冷たい空気に、ボクの小さな声は溶け入って消えた。

誰かに会ったらまずいって、ユミルは反対したけれど…、これは、東護を離れるボクには、どうしてもつけておかなければ

ならないケジメだった。

ボクの右手には、黒塗りの鞘に収められた一振りの太刀。

それは、至高のレアメタル、ラインゴルド製の日本刀。

最愛の人に贈り、彼が居なくなってしまった後に遺された絆の太刀、北天不動…。

ボクは目を閉じて、右肩にそっと左手を置く。

前にここで、タケシが肩に手を置いてくれた時の事を思い出しながら…。

ボクは口を横にかたく引き結んで、込み上げそうになる嗚咽を押さえ込んだボクは、目を開けて墓標を見下ろした。

視界が滲んで、空を見上げる。

涙が、零れてしまわないように…。

涙を、アリスに見せないように…。

「…雨が、降って来ちゃったね…。あの時とおんなじだ…」

雲が全然ない水色の朝の空を見上げながら、ボクはあの時と同じように、ごまかしの言葉を口にする。

…本当に…、あの時とおんなじだ…。

天を見上げたまま指先でそっと目を拭ったボクは、再び墓標を見下ろした。

眠っているのはアリス。けれどボクはこの墓標に、亡骸さえ探す事のできないタケシを重ねて、じっと見つめる。

「…生きるよ…、キミが言った通り…」

掠れた声でそう告げて、ボクは墓標に背を向けた。


―生きろ、ユウト―


タケシの言葉が、耳に甦る。

生きる事。それが、彼の最後の願い…。

「…もう少し…、歩いてみるね…」

泣き顔を見られないように背を向けたまま呟いたボクは、無理矢理笑ってみた。

それでもきっと、みっともなくて酷い顔になってるだろうから、やっぱり振り返る事はできなかった。

まだ重くてだるい体を引き摺るようにして、ボクは振り返らずに墓地を後にした。



人目を忍んでアリスのお墓参りを済ませたボクは、ユミルが手配してくれた運び屋に迎えに来て貰って、復旧作業が続く傷

だらけの東護を後にした。

護るべき街を放ったらかしにして離れる事にはもちろん抵抗があったけど…、どうしてもやり遂げなければいけないんだ…!

保冷車の荷台に積まれた二重底になっている大きな箱の中で、ボクは横向きに膝を抱えて寝た窮屈な姿勢のまま、じっと到

着を待った。

運び屋は、二十代半ば…たぶんボクより少し年上の華奢な人間女性と、筋骨逞しいシベリアンハスキーの二人組み。

女性の方は、さばさばした口調で快活に話す陽気な人で、30かそこらに見えるハスキーは、口数はあまり多くないけれど、

落ち着いた感じの礼儀正しいひとだった。

二人の名前は知らない。聞いちゃいけないんだ。…もっとも、聞いても答えてはくれないだろうけれど…。

それでも呼び方には困らなかった。最初に「夫婦運び屋」って名乗ってくれたからね。

だからボクは、ハスキーさんを「旦那さん」、女の人を「奥さん」って呼んだ。

「あと一時間弱の辛抱だよ。体、痛くないかい?立派な体してるもんねぇ、一番大きなコンテナ用意したけど、窮屈で大変だ

ろう?」

途中一度挟んだ休憩で箱から出して貰ったボクの背中や肩を、荷台に入って来た奥さんは、さすったり軽く叩いたり、揉ん

だりしてほぐしてくれた。

いつも同じ方法で運搬して客の扱いに慣れてるのか、ボクの体の凝りは、奥さんの簡単なマッサージでかなり楽になった。

その間、旦那さんはタバコを咥えて、林道に停めた保冷車の周りをゆっくり歩いていた。

何気ないそぶりだからパッと見ただけじゃ判らないけど、周囲を警戒してるんだ。

ああしていると、長時間の運転で固くなった体を歩く事で伸ばして、リフレッシュしてるようにしか見えない。

…プロなんだなぁ…。今は注意して見ているからだけど、ボクがもし追う側だったら、運び屋だなんて気付かないかも…。

…これも一種の職業病かな?認識票は捨てたのに、ついつい考察しちゃう…。

「あんたさ、変ってるねホント」

床に座って足を伸ばしてるボクの肩を揉んでくれながら、奥さんはそんな事を言い出した。

「あたしらが運ぶ相手はね、殆どが逃亡者さ。ビクビクしてるヤツや、オドオドしてるヤツが大概。けど、あんたはちょっと

毛色が違うね。まるで怯えてない」

奥さんは興味深そうに言いながら、ボクの首の後ろを親指でクックッと押して、手馴れた感じで指圧してくれる。

「上手く言えないけどねぇ、寂しそうで哀しそうだ。迷子みたいだよ」

「迷子…ですか…?」

訊ねたボクに、奥さんは小さく笑って応じた。

「ま、気にしなさんな。無理に家に帰そうなんて思いやしないよ。お望みの場所まで安全確実に運ぶのがあたしらの仕事だか

らね。…っと、もっとしっくり来るのは「家出人」って表現だったかな?帰りたくない…。帰れない…。どっちなのか、それ

とも両方なのかは判らないし、訊きもしないけどね」

…言えてる…。

苦笑いしたボクの両肩を、奥さんはポンと、手を乗せるようにして叩いた。

「さ、そろそろ休憩は終わり!もう一辛抱しとくれよ?」

肩を叩いた奥さんの手に励まされたような気がして、ボクは大きく頷いた。



「早かったな?」

本棚に四方が囲まれた地下の小部屋。

いくつのも机の上にパソコンやモニター、コード類がゴタゴタと上げられたその部屋で、扉を潜ったボクを見上げて、小柄

な男はそう言った。

あらかじめ聞いていた隠れ家の一つに到着したばかりのボクは、目をまん丸にして、かなりビックリしながら、先回りして

いたユミルに尋ねる。

「どうやってこんなに早く?朝はまだ東護に居たでしょ!?なんでキミ運び屋より早く着いてるの!?」

「その情報は別料金になるが?それと、少し高いぞ?」

…こんな事でも料金請求?

「…ちょっと気になっただけで、別に買ってまで欲しくないよ…」

半ば呆れて、半ば感心してボクは肩を竦めた。

「要望の件についての調べは、まだ殆ど進んでいない。済むまでは体を休めて回復に努める事だ」

そっけなくてぶっきらぼうだけど、ユミルは結構優しい。

「判った。そうさせて貰うよ」

少しだけ口元を綻ばせながら頷いたボクに、ユミルは部屋の奥にあるドアを指し示した。

「寝室は用意してある。荷物を置いて休んでおけ。他の部屋には勝手に入るなよ?…とは言っても、鍵をかけてあるがな」

「ありがと。ところで部屋の位置は?」

「寝室のドアには「熊小屋」と記したプレートをかけておいた。奥まで歩けば見つかる」

…前言撤回。やっぱり優しくない。…何なの?この無神経さと無遠慮さは…。



判り易いけれどちょっとひっかかる物があるプレートがかけられたドアを潜り、部屋に入ったボクは、荷物を足元に降ろし

て、後ろ手に締めたドアに寄りかかりながらため息をついた。

この隠れ家は本州北端の県、とある街の地下深くにある。

日本海に面したこの街は、あまり賑やかな方じゃないけれど、外出は避けるに越した事は無い。

あてがわれた部屋は、東護にあるユミルの隠れ家で借りてた一室と良く似ていた。

天井も床も壁もコンクリートが剥き出しで、部屋の隅にはベッドマットが三枚、二重に重ねられて寝床が作られてる。

体の大きなボクは、普通のベッドじゃ窮屈だ。

パイプベッドなんかはあるらしいけど、それじゃ潰しちゃうかもしれないから、こうするのが一番良い。

部屋は殺風景で寒々しいけど、幸いにも一定の温度に保たれてるから、ベッドマットと掛け布団だけで足りる。…元々ボク

は寒さに強いしね。

ボストンバッグと刀を部屋の隅に移動させて、ベッドマットに腰を下ろしたボクは、前の部屋と同じ位置に壁時計がある事

に何故かちょっと感心した。

もしかしたら、通路にあった別のドアを開けても、みんなこんな間取りになっているのかもしれない。



ボクはそれからも数日、地下に潜んで大人しく傷を癒しながら、ユミルに頼んだ調べものが終わるのを待った。

地下で日々を送るのは、なかなか大変だった。

シャワーはあるし食事にも不自由しない。暮らす上では全く問題無いんだけど…。

それなのに、陽の光を浴びられない、見る事ができないっていうだけで、閉塞感は随分違う…。

ユミルはタケシが言った通り、最高峰の情報屋だった。

ボクが依頼した事は全て、一週間と経たず、完璧に調べ上がった。