Cry for Daybreak(中編)

フードの下で微かに光っている目をボクから逸らし、ユミルは机の上のモニターを指し示した。

「ホテルの見取り図、それと警備計画の調べはついた」

線が組み合わされ、モニター内で立体的に表示されている図面を見つめ、ボクは頷く。

監査室長。ラグナロクと通じている彼は、ここからあまり離れていない街で行われる式典に参列する。

前夜に現地入りする室長の宿泊先は、名前も知られた高級ホテルだ。

高級とは言ってもあくまで民間のホテルに過ぎない。行き届いてはいるけれど、セキュリティーは所詮一般レベル。

首都の彼の自宅に比べれば、セキュリティーはやや薄い。…やや、だけど…。

それでも、こっちなら間違ってもブルーティッシュが駆けつける事は無い。その分遥かにマシだ。

ボクの目的は、この国の内部に食い込んだ、ラグナロクのパイプを断つ事。

ユミルに調べて貰った一つ目は、誰がラグナロクと通じているかという事だった。

…こっちは、最悪の予想が的中していた。まさかと思いつつも調査を依頼した監査室長が、本当にラグナロクと通じていた

なんてね…。

そして、調べて貰った二つ目は、監査室長の行動予定について。

何故そんな事を調べたのかと言うと…。

監査室長がラグナロクと通じていたと判明すれば、この国の調停機関は根本から揺らぐ。

疑心暗鬼に駆られた人々によって、調停機関そのものが弾劾されかねない。

調停者が警察機構の下請けもこなしているこの国では、国の規模に対して警察関係者は少ない。

もしも抗議活動や規模縮小等によって、調停者が満足に活動できなくなったら、人手不足で治安維持すらままならなくなっ

てしまうだろう。

…だからこそ、この件は表沙汰にできないんだ…。

監査室長は悪であってはならない。正義の象徴である調停監査室の長は、心ない暗殺者の手にかかって殉職する。

曇り無い正義の象徴のまま、汚れる事なく…。

真実がどうあれ、見た目はそうでなくてはいけない。

非業の死を遂げた前任者に代わって新たな室長となる者は、教訓を活かしてさらに強固な警護を受ける。

警護…、つまり監視も増えれば、ラグナロクもおいそれとは接触できない。

調停機関を解き放つ。その為なら、ボクは鬼にも悪魔にもなってやる…!

マーシャルローによる緊急保護を受けられず、多くの調停者が殉職した東護の一件が、二度と繰り返されないように…!

独善的な考えだって事は、十分判ってる。

けれどラグナロクは、…特に高官は、自白するぐらいなら自決する。

だから証言は得られない。つまり、排除する他に手立ては無いんだ。

…もっとも、彼が利用されているのか、それとも進んでラグナロクに荷担しているのかは判らないし、監査室長自身に何か

が仕掛けられている可能性もある。

潜り込んでいた内通者を幸運にも見破って捕らえ、自白させようとした途端に、体内に仕込まれていた毒入りカプセルで…、

なんて例も米国の大きなチームであったぐらいだ。

つまり、事実を証言させるなんて事は、できないしさせられない。

ボクが認識票を捨てたのは、二度と日の当たる場所に戻るつもりがない、決意の表明でもある。

身内から犯罪者を出す事になって、兄さんには申し訳ないけれど…、これはどうしても譲れない…。

モニターを凝視するボクに、ユミルが横から話しかけてきた。

「警備は極めて厳重だ。銀幕の中のアクションヒーローでもまず不可能だろう」

ユミルの妙な例えに緊張を少し緩められたボクは、笑いを堪えて訊ねる。

「サイボーグ警官も?」

「ああ」

「あの不死身の警部さんも?」

「ああ」

「筋肉ムキムキのロボット兵士も?」

「ああ」

「合気道の達人も?」

「あいつならやれるかもしれない」

「んははははっ!」

冗談とも本気ともつかない口調で応じたユミルに、ボクは今度こそ声を出して笑った。

「何か面白かったのか?」

「キミの最大の欠点は、自分のジョークセンスを自覚していない事だと思うよ?」

首を傾げているユミルは、顔こそ見えないけれど本当に不思議そうにしていた。

…タケシとも…、たまにこういうズレた会話を楽しんだっけ…。

「図面をちょうだい。あと、警備の配置図とタイムスケジュール」

気が急いて要求したボクに、ユミルは小さなメモリーカードを乗せた。

すぐにでも携帯に挿して使えるように、あらかじめコピーしてくれてたのか…。至れり尽くせりだなぁ…。

「ありがとう」

お礼を言って、これも彼に用意して貰った、電波発信の探知が不可能になっているステルス携帯を取り出す。

これまでは何も入っていなかったスロットにチップをはめ込み、携帯をポケットに押し込んだボクは、

「サービスだ。決行時にはホテルのセキュリティーを乗っ取って、ごまかしてやる」

ユミルがさらりと口にした言葉で、目をまん丸にした。

「人の目は欺けないが、機械は比較的素直に言う事を聞く。警備員はどうしようもないから、自力で頑張ってくれ」

「…どうして、そこまで…?」

ユミルはあくまで情報屋だ。ハッカーとしての腕前は確かに優れているし、そういった事もお手の物だろう。

けれど、これは覗き見るだけじゃない。直接干渉だ。

裏の情報屋である彼が、そんな危険を冒す真似を、どうして…?

戸惑いながら訊ねると、ユミルは天を仰ぐようにして顔を少し上に向ける。

目深に被ってるフードの中に灯りが入って、鼻先が少しだけ見えた。

…湿って光る黒い鼻…。ユミル…獣人だったんだ?

「フワは…、オセロが強かった。あいつとの勝負はなかなか楽しかったな」

…オセロ…?予想もしていない事を言われて虚を突かれ、返答に困っていると、

「あいつの遺したものに、少しは何かしてやろうかとな。…まぁ、一種の気紛れだ」

ユミルはボクに背を向けて、モニターに目を遣りながら呟いた。

…ボクは、今初めて理解した…。

ユミルは、客としてだろうけれど、タケシの事を気に入っていたんだ…。

だから、タケシの相棒だったボクにも、ここまでの協力を…。

「有り難う…。ユミル…」

「仕事だからな」

振り向きもせずにそっけなく応じたユミルの背に、ボクは深々と頭を下げた。

仕事の上でなら信用できる。タケシとの事があった以上、少なくともこの件で彼がボクを欺く事は無い。

今更だけれどボクは、今回に限ってはユミルを全面的に信頼する事に決めた。

「ヤツが現地入りするのは七日後だ。付近で潜伏できる場所を選定し次第、運び屋を呼んでそこまで輸送して貰う。それまで

は引き続き体力の回復に努めておけ」

「判った」

感謝を込めてユミルの背中に大きく頷いたボクは、踵を返して扉に向かい、

「一つ聞いておきたい」

背後からかけられたユミルの声に、立ち止まって首を巡らせた。

「全て投げ捨てて、新たな人生を送ろうとは思わなかったのか?」

「…投げ捨てるには、重過ぎるんだ…。足に落とすのが関の山だよ…」

ユミルの背中へ肩越しに笑みを送り、ボクはドアに手をかけた。

上手く笑えた自信は無い。きっと、泣き笑いの顔になってただろうね…。



決行前日、ボクは東護脱出の際にもお世話になった、あの夫婦運び屋さん達に連れられて、現地へ移動した。

「しかし慌ただしいねぇ?まぁ、何をしようとしてるのかは詮索しないけど…」

カモフラージュの為に、同行者を装ってホテル前まで付き添ってくれた奥さんは、

「思い詰めた顔しちゃって…。何があったか知らないけどさ、捨て鉢になんかなるんじゃないよ?」

別れ際にボクの顔を覗うように見上げてそう言った。

「人生いろいろ山有り谷有り。生きてさえいれば良い事があるとは言わないけど、少なくとも死に方は好きに選べる」

「それはまぁ…、だって死んだらもう選べないじゃないですか?」

「だからさ。満足行く死に方を選べるのは生きてるモンの特権だ。だから、命ってのは大事に使うもんなんだよ」

奥さんの論調は、まるで「死ぬために生きてる」って言わんばかりの奇妙な物だったけど、ちょっとユニークで気に入った。



ユミルが勧めてくれたそのホテルは、寂れた雑居ビルが寄り添って林立する、路地ばかりが入組んだ活気の無い区域にひっ

そりと建っていた。

この辺りはターゲットとなる高級ホテルからそう離れていない位置なんだけど、区画整理が進んでいるあちら側と違って、

無計画に建てられた古い建造物で雑然としてる。

宿泊に際して身分証明書の提示は求められなかった。宿泊名簿に自分で名前を記入するだけ。

ボクはもちろん偽名を書き込んだけど、カウンターに座る咥えタバコの狐のオバサンは、前金で宿泊料を払うように要求し

ただけで鍵を寄越し、最後まで身元の確認をしようとはしなかった。

ユミルの話では、何かに追われているような客から、比較的安全な逃走経路や潜伏場所についての情報を求められた場合、

こういったホテルを紹介する事もあるらしい。

未届け営業とか、何かの密売に使われてたりとか、不法滞在者が経営してるとか…、とにかく、警察なんかと接触したくな

い、おおっぴらな営業ができない所には結構顔が利くそうだ。

…ひょっとして、がさいれ対策の情報でも流して手なずけてるのかなぁ…?

それに、ユミルの活動範囲の広さにも驚きだ…。東護からこんなに離れた場所にまで隠れ家があるんだから…。

それはそうとこのホテル、値段も安いし、身元も詮索されないから助かるんだけれど、部屋はとにかく狭い。

ボクには少し窮屈なサイズのベッドが部屋の半分、奥側を占めて、残る床には薄くてごわごわしたカーペットが敷かれてる。

荷物を収納するスペースはベッドの下のみ。金庫なんかも無い。

窓は頭が何とか出るくらいの小さな物が一つ。

換気扇はどこかガタが来ているらしくて、淀んだ空気を入れ換えようとしてスイッチを入れてみたら、狭い部屋は物凄くう

るさくなって、すぐ消した。

他の家具と言えば、カード式の有料テレビが一つと、壁かけ時計だけ。

ただし、一つだけ嬉しい誤算があった。

部屋には別室がついていて、バス、トイレ、洗面台が備わっている。

最低限の外出に留めたいボクは、今夜はシャワーを諦めてた。けど、これなら部屋を出ずに体を洗える!

カロリークッキーと粉末プロテインを引っ張り出して、荷物をベッドの下に押し込んだボクは、簡単な食事を始めた。

最後に事務所に寄った時に持ち出してきた、タケシの嗜好品…。

最近は空腹をあまり感じなくなって来たけれど、傷の回復と体力維持の為に、規則正しく、時刻毎に食べるようにしてる。

手早く食事を終えたボクは、狭いベッドを軋ませて倒れこみ、枕に顔を埋めた。

…決行は今夜…。成功率はあまり高くない。…けれど、諦めない。

できるか、できないかじゃない、とにかくやるんだ。

これからボクがしようとしているのは、兄さんやダウド…、ネネさんにカズキさん…、他の皆にもとんでもない迷惑をかけ

る行為だ。

けれど信じてる。上手く行けば、この国の防衛機構は一つ上の段階に進む…。

決意を新たにしていると、不意に、別れ際にユミルが口にしていた言葉が思い浮かんだ。

…新たな人生…、か…。

先の事なんて、今日まで漠然としか考えてなかったな…。

もしも全部上手く行って、それでボクも生き延びたら、その後はどうしよう?

成功しても失敗しても確実にお尋ね者。もうこの国には居られなくなるし、一生日陰者だ…。

北原にでも行ってみようか?

人ごみを避けて、静かな所で過ごすのも良いかもしれない。

…そういえば、引退したら河祖下みたいな静かな場所で暮らしてみたいって、タケシが言ってたっけ…。

探してみようかな…、河祖下みたいな、静かに暮らせる所…。

身を捻ってベッドを軋ませながら仰向けになり、首にかけたネックレスをつまんで目の前に翳す。

薄く青味を帯びた小さな真珠がはめ込まれた、貝殻を象った小さなネックレス。

これは、最高の相棒から貰った、最初で最後のクリスマスプレゼント。

…お返しは…、結局できなかった…。

「…ねぇ…?これが済んだら、どうすれば良いと思う?」

ボクには不似合いなほど可愛らしいネックレスに問いかける。

けれど、勿論答えは返って来ない。

彼と言葉を交わす事は…、もう二度とない…。

それでも、もう傍には居ないキミに、ボクはまだ支えられている…。

ネックレスを手の中に包み込み、しっかりと握り締める。

覚悟はとっくに決まってる。

しるべも明かりも無い道だって、キミを想えば迷わない…!



最近はあまり睡眠への欲求が無くなってたのに、しばらくベッドに横になって、明日の事を考えていたら、睡魔が瞼に触れ

て行った。

決戦を前にしている事が体にも判ってるのかな?休息が必要だっていう事が…。

欲求に身を任せて眠りに落ちたボクは、久し振りに、繰り返し見るようになったいつもの夢とは違う夢を見た。



「大きくなったわね?ユウト」

額にかかる美しいブロンドの髪をしなやかな指で除けて、蒼い瞳がボクを見る。

フレイア母さん…。ボクの本当のお母さんで、そうとは知らずに慕い続けた女性…。

畳敷きの和室…、河祖下の実家の一室だ。

「一年見ないうちに…、ってアレ…?本当に…、かなり大きくなってるかなこれは…?まだ四つよね?」

ボクを膝の上に抱き上げた母さんは、重さに軽く顔を顰めた。

「だははははっ!好き嫌いしねぇで、何でもたんまり食うでな、縦にも横にもおがるおがる…!」

赤味が強い茶色の毛と甚平を纏う、左目を眼帯で覆った大柄な熊が、巨体を揺すって豪快に笑う。

父さん…。ボクと兄さんの父親で、神代家の十七代目当主。

逆神を出して以来数百年、神将家から除外されていたウチが復権したのは、父さんが若い頃に立てたいくつもの武勲のおか

げだって聞いてる。

ボクが物心付く前に兄さんとの修練の最中に左目を喪ったけれど、父さんは死ぬまで現役を貫いた。

「それにしたって…、ちょっと育ち過ぎなんじゃ…、横に…」

ボクの頭を優しくすきながら、フレイア母さんは歯を剥いて苦笑いした。

美人だけど、母さんはいつも歯を剥いてニカって笑ってた。

思えば、兄さんや父さんもああいう笑い方をしてたっけ…。

「フレイアさんからも言って下さいな…。ユウキ様もユウヒも甘やかすだけ甘やかして、欲しいってねだられるといくらでも

食べさせるんですよ?」

恰幅のいい熊獣人の中年女性が、切った西瓜を載せたお盆を手にして部屋に入って来る。

トナミ母さん。ボクを育ててくれた母親で、フレイア母さんの子であるボクを、実子の兄さんと分け隔てなく育ててくれた。

産みの母親じゃないって知った今でも、ボクにとっては大事な母さん…。

「そう言ってやるな。あいつも歳の離れた妹がめんこくて仕方ねぇんだからなぁ」

「あんたにも言ってるんですよっ!甘いものばっかり食べさせて!」

笑いながら言った父さんを、母さんはジト目で睨みながら嗜める。

この頃にはもう平均よりだいぶ大きくて太ってたボクを抱いたフレイア母さんは、カラカラと可笑しそうに笑いながらその

様子を眺めてた。

…そうだ…。この頃はまだ父さんが当主で、家族みんなが元気だった…。

今じゃもう、三人とも他界してしまったけれど…。



「ユウトちゃん…。もう泣かないで、ね?」

頭を包帯でグルグル巻きにされた細身の熊が、布団に寝かされたままボクに微笑みかけた。

チナツ義姉さん…。兄さんの奥さんで、ボクに料理や裁縫を教えてくれたお姉さん。

六つの時だった。梅雨の終わり際、空模様が怪しいから水辺には近付くなって兄さんに言われていたのに、暑さに耐え兼ね

て沢遊びしていたボクは、突然の通り雨に叩かれた。

あっという間に増水した沢の中瀬に取り残されたボクが鉄砲水で流された時、たまたま沢辺に来ていた義姉さんは、濁流に

飛び込んでボクを助けてくれた。

…そして、濁流に揉まれながらもボクを庇って、岩や流木に何度もぶつかって大怪我をしてしまったんだ…。

申し訳なくて泣きじゃくるボクの頭を、義姉さんは布団から出した手で、そっと優しく撫でてくれた。

そういえば、ボクはあれ以来、川も海も怖くなったんだっけ…。

この一件でチナツ義姉さんに深く感謝したのは、ボクだけじゃない。

毎日足を惜しまずお見舞いに通っていた兄さんは、きっと、この頃から義姉さんを意識し始めてたんだと思う…。



「辛くなったら、いつでも帰って来て下さいね?」

薄く霧が漂う早朝。走って来るバスが見えると、少し背の低い柴犬は、荷物を差し出しながらボクの顔を見上げた。

シバユキ…。神代家の使用人にしてボクの幼馴染。

身寄りをなくしてウチに引き取られてからは兄妹のように育った、無二の親友…。

母さんの仇討ちを決意して河祖下を離れるボクを、本当は反対だったろうけど、堪えて見送ってくれた…。

引き止められないよう人目を忍んで、こっそり屋敷を抜け出しての出発…。

見送りは、準備にも協力してくれたシバユキだけだった。

「土地が変われば水も変わります。口にする物には十分気をつけてくださいよ?お嬢さんのお腹が丈夫なのは重々承知してい

ますが、過信は禁物です。良いですね?」

まるで、家を離れる娘を心配しながら見送る母親みたいな事を言うシバユキ。

シバユキは昔からそうだった。他人にはあまり気を許さないし、屋敷に来てからも皆に馴染むのにかなりかかったのに、ボ

クと兄さんにだけは度が過ぎる程に気を遣う。

それでも、他の誰かに対しての物と比べれば、ボクへの態度はいくらか崩してるし、言葉遣いの堅さも和らいでる。

「できるだけお手紙か電話を寄越して下さい。ユウヒ様も、お口には出さなくとも寂しいでしょうから…」

頷いて荷物を受け取ったボクは、頭を下げたシバユキに背を向けてバスに乗り込んだ…。

シバユキは心配そうな顔をしながら、見えなくなるまでずっとバスを見送ってくれていた…。



「初めましてであります。自分はブルーティッシュ所属の限定中位調停者、エイル・ヴェカティーニであります」

背が低いぷっくりしたレッサーパンダが、ピシッと敬礼した。

エイル…。母さんの仇を取る準備として、力とお金を蓄える為に調停者として実戦経験を積む事に決めたボクが、首都に移っ

た時に知り合った友人。

同じ獣人の女性調停者として親近感を覚えたのもあるだろうけど、エイルとは何かと気があって、すぐに親しくなった。

ちょっと変わってるけど、そこがまた魅力的で、太ってるけど可愛らしいエイルが、当時のボクは羨ましくって仕方なかっ

たっけ…。

初めて顔をあわせたのは、ある事件の捜査の時。知り合いを介してだった。

彼女を紹介してくれた、口髭を蓄えた人間の中年男性は、エイルを横目で見遣ってから、ボクに視線を戻した。

「少しズレた所もあるが、腕は確かだ。仲良くしてやってくれないか?」

ヤマガタさん…。ブルーティッシュの幹部で作戦参謀役。ネネさんと二人でダウドの両脇を固める腕利きの調停者。

フレイア母さんが隊長を務めていた北原のハンターチームの副隊長でもあった。

当時まだ母親だとは気付いていなかったフレイア母さんと一緒に、時々河祖下に来ていたから、ボクとは古馴染み。兄さん

の飲み友達でもあった。

お堅い人だったけど、昔からボクには何かと気を遣ってくれていたっけ…。



「首都を出る?」

屈強な体付きの大柄な白虎が、ボクの言葉に顔を顰めた。

ダウド…。国内最大のチーム、ブルーティッシュを纏める、最強の調停者。

兄さんの友人で、時々河祖下にも来ていたから、ボクとも古馴染みだ。

「仕事が無いってなぁ…。だからウチに入れって誘っているだろうが?考え直してウチに来い。仕事もあてがってやるから…」

「ダウド…。ユウトはブルーティッシュに加わる事を望んでいないわ。元々ひと時過ごすだけのつもりで首都に来たんだから」

ほっそりした灰色の猫が、横から助け舟を出してくれた。

ネネさん…。ボクと同じ神将家出身の女性調停者にして、ブルーティッシュのサブリーダー。ダウドと同じく昔からの顔馴

染み。

ボクが首都に居た頃は、まだ神崎家の当主代行だった。

首都で調停者を始めた頃のボクは経験不足の半人前で、二人には色々とお世話になったなぁ…。



「へぇ〜、ユウトちゃんがこっちに来るなんてねぇ…、ビックリだよ。首都暮らしの後にこんな町に来たんじゃ、田舎具合に

ビックリしたんじゃないの?まぁ、河祖下と比べればこっちも大都会になっちゃうけどねぇ」

挨拶に行った家の戸口に立った骨太な熊のおばさんが、ボクをマジマジと見た後、カラカラとほがらかに笑った。

チアキさん…。チナツ義姉さんのお姉さんで、ゲンゴロウさんの奥さん。そして、サツキ君のお母さん。

「お?あれ?…ユウトちゃんか?」

チアキさんの後ろ、廊下の奥から低い声が響くと、濃い茶色の毛に覆われたゴツい中年の熊が姿を現す。

ゲンゴロウさん…。ボクらの事務所を改築してくれた大工さんで、チナツさんの旦那さん。サツキ君のお父さん。

「これからこっちに住んで仕事をするんですって。当面はやって行けるかどうか様子見らしいけど、しばらくは東護で暮らす

そうよ?」

「へぇ〜!そりゃ良いや!住むトコ決まってんのかい?なんならウチの部屋貸そうか?」

「あら、お父さんにしては珍しく名案ね!どうかしらユウトちゃん?遠慮しなくって良いのよ?」

息子さん…つまりサツキ君は中学三年生、進路とか色々と大変だろうと思ったボクは、二人のありがたい申し出を丁重に断

わった。

こっちに移る前に賃貸マンションを探して契約を済ませたから、住むところは大丈夫だって説明したら、二人はちょっと残

念そうな顔をしてた。…それが少し嬉しかったっけ…。

引っ越しの挨拶に来たこの日は、平日の昼間だったから、サツキ君は学校に行ってた。

話にだけ聞いていた彼と初めて顔を会わせたのは、タケシと共同で事務所を立ち上げる事が決まった後だった…。



「神代家の出だったら他にいくらでも仕事があるだろうに…。何でまた調停者なんかに?」

赤ら顔の太った警官は、監査資料にサインしながら、顔も上げずにそんな事を言った。

カズキさん…。タケシの保護者もしていた、ボクらの担当監査官。

「あぁ、答えたくないならいいぞ?ちょっと気になっただけだ。…前例が無いわけじゃないしな。時代は変わるってヤツか…」

言葉に詰まったボクに、カズキさんは軽い調子でそう言った。

カズキさんには本当にお世話になった。

アリスの件や、事務所の件。信頼できるっていう理由で仕事もずいぶん回して貰って、本当に助かった…。

人情味があって、仕事に誇りを持っていて…、カズキさん程信頼できる監査官は、他に居ないと思う…。



「ユウト!カレンダーやる!」

月が変わって、事務所のリビングのカレンダーを捲ろうとしていたボクに、栗色の髪の女の子が駆け寄る。

微笑みかけて抱き上げ、壁にかかったカレンダーの前に持ち上げると、女の子は小さな手でカレンダーの量端を掴み、ビリ

ビリッと破いた。

アリス…!

全てを投げ打ってでも護り通すと心に決めたのに、結局は死なせてしまった愛しい女の子…!

不甲斐ないボクを助けるために、アリスは自分の命を削り切った…。

自分に残された時間は少ないって察していたのに、誰にも言わずに頑張って、最期はボクの為に…!

世の中が不条理だって事は知ってるつもりだった。

理不尽な事で溢れているって、重々承知しているつもりだった。

…それでも…、あんなのって無いよ…!

破り取ったカレンダーをばさばさと扇ぎ、アリスは首を巡らせてボクの顔を見上げる。

調停者は、護るのが仕事だ。

けれどボクは、母さんの仇を討つために調停者になった。

本当の意味では調停者になれていなかったボクに「護る事」を教えてくれたのは、この小さな幼い女の子だった…。

「やったー!たまごさん!」

朝ごはんはオムライスにするって告げたら、タマゴ料理が好きなアリスは顔を輝かせていた。

平和な日々がずっと続くと思っていた、アリスはいずれちゃんとした家族の元で幸せになれると信じていた、あの穏やかで

平穏な秋…。

ああ…!もしもあの頃に戻れたら、どんなに…!

護り切る事ができなくて、ごめんねアリス…。

そして、沢山の愛をありがとう…。



「それじゃあ、アルビオンさんとはまだ会ったばかりなんですか?」

ボクと並んでソファーにかけてる、黒髪が綺麗な美少女が、驚いたように目を少し大きくする。

初めて顔を会わせたのは今年だと説明したら、ますます驚いたように表情を変えた。

アケミちゃん。ウチの事務所に個人依頼に来た大財閥の令嬢。

夏の事件で能力者として目覚めてしまったせいで、生活にはある程度制限がつくようになったけれど、文句の一つも言わな

い強いお嬢さんだ。

…いや、文句を言わないのは他にも理由がある…。

覚醒のきっかけは自分にあるって言って責任を感じてる恋人に、あまり気を遣わせないためだ。本当に、優しい子…。

「オレもビックリしたっス。ユウトさんとアケミさん、仲が良いから…、てっきりずっと前からの知り合いなんだろうなぁ〜っ

て、勝手に思ってたっスよ」

テーブルを挟んで床に座った、大きいけれど顔にはまだあどけなさを残す若い白熊は、ジョッキに入ったコーラをガブガブ

煽る合間にそう言って、顔を綻ばせた。

アル君。ブルーティッシュの調停者。

夏の一時だけだったけれど、弟が出来たようで楽しい日々だった…。

相手の腕や質に対してお目の高いタケシも、アル君の事はずいぶん気に入ってたっけ…。

「いいえ、依頼に来てお世話になったのは今年の事なんです。私の方こそ、てっきり古くからの知り合いだと思い込んでまし

た。アルビオンさんが事務所に滞在しているから…」

かなり危機的な状況で初めて顔を会わせ、危機を乗り越えた二人は、この頃には既に、ちょっと遠慮しながらもお互いに親

しみを感じていたんだと思う。

年が同じ事もあるんだろうけど、ある程度までなら事情を話せる相手っていう事も大きかったんだろうね。

交際する事になった後で本人から聞いた所によれば、アル君の一目惚れだったらしい。

アル君はこの時、ヤマガタさんとの衝突を経て一時的に部隊から外れていた。

そして、こっちで過ごす内に、自分が一般の人間に不信感を抱いていた事に気付いたって言っていた。

たぶん、普通の生活の中で差別を体験したせいだろうけど、同業者の人間にはそんな感情は抱かなかったらしい。

そんな事情もあったから、自分が人間の女の子に一目惚れしちゃうなんて思ってもなかったって、本人も意外そうだった。

アル君がアケミちゃんに惹かれた理由は、何となく理解できる。

美人だって事以前に、アケミちゃんは利発で優しくて、何より芯が強い。

窮地にあっても折れない、しなやかで強い彼女の本質に、アル君は惹かれたんだろう…。



「祭りはどうだった?」

濡れ縁にどっかとあぐらをかいた、赤銅色の被毛に身を包んだ小山のように大きな熊が、玉砂利を踏みながら庭から歩み寄っ

たボクに視線を向ける。

少なくとも興醒めさせる事なく無事に太鼓を叩き終えた事を伝えたら、兄さんは口の端をほんのちょっとだけ上げて「それ

は何より」と呟き、お酒が入った湯飲みを煽る。

兄さん…。神将、神代家十八代目当主にしてボクの腹違いの兄で、血を分けたたった一人の肉親…。

奥羽の闘神、始祖の再来、当代最強の神将とも呼ばれる偉大な兄…。

両親が他界してからは急に厳しくなったけれど…、厳しかったのは、ボクが生き残れるように鍛える為…。

兄さんは、本当はいつだってボクの事を考えて、大事にしてくれていた…。

「太鼓の音は、ここにもはっきり聞こえていた」

兄さんと並んで月見酒を楽しんでいたらしいスラリとした青年が、お猪口を片手にボクを見つめる。

タケシ…。

ボクの…、大切なひと…。

最高の相棒であり、捜し求めた母さんの仇…。

復讐する正当な理由がある…。全てを思い出した後、ボクに事実を伝えたタケシはそう言った。

自分を殺せと、ボクに…。

…けれど、復讐なんてできなかった…。

タケシが母さんの命を奪ったのは確かだけれど、タケシはボクを何度も助けてくれた。

昔のタケシがどうだったかなんて判らない。

本人ですら、記憶を取り戻しても当時の自分がどう感じて行動していたか判らないんだから、ボクに判るはずもない。

でも、そんなの判らなくても良かったんだ。

タケシはタケシ。ボクが知っているのは相棒のタケシであって、昔のタケシがどんなだったかなんて問題じゃない。

都合の良い考え方だとは思うけれど、ボクが信頼し、恋をしたのは、東護で出会った後のタケシだ。

ラグナロクでどんな事をやらされていたのかは大まかに聞いたけれど、それは今のタケシがやった事じゃない。

過去は消えない。修正はきかない。でも、清算はできるはずだ。

…そしてタケシは…、ちゃんと清算した…。

ボクを、皆を、街を護る事で…!

「法被姿も、なかなか似合っている」

ボクの姿をまじまじと見つめたタケシは、そんな事を言っていた。

あの興味深そうな表情は、彼にしては珍しかったから、今でもはっきり覚えてる…。

元々お酒が強い事もあるのか、それともペースを守って飲んでいるせいか、タケシはウワバミの兄さんに付き合っても酔い

潰れない。

タケシは兄さんの事を気に入っている。それは兄さんも同じ。

世間擦れしていない、あまり饒舌じゃないところが似ている二人はどうやら気が合うらしくって、顔をあわせれば二人で夜

遅くまでお酒を飲む。

そんな時、ボクは大概邪魔にされて、二人の仲にちょっとヤキモチにも似た気分を味わったっけ…。

タケシが兄さんを気に入ってくれてるのが嬉しいのはもちろん、兄さんがタケシを認めてくれてるのも嬉しい。

兄さんだけじゃない。タケシは品定めが厳しいシバユキの目にも賓客と映っていたらしいし、屋敷の皆にも認められていた。

あの頃はもう、自分の気持ちは自覚していたけれど、まだ黙っていられると思ってた…。

時々胸が苦しかったけれど、それでも言わずに我慢できた…。

傍に居られるだけで幸せで、気持ちを伝えて下手に関係を変えたくなかったから…。

…臆病だったんだね、ボクは…。

今はこうも考える。もしもボクが、勇気を振り絞ってもっと早くに気持ちを伝えていたなら、幸せな時間をもっと長く過ご

せたかもしれないのにって…。

…今更こんな事を考えても、仕方無いんだけどね…。

縁側に腰掛けたボクが、せっかくだから一杯付き合おうかなぁって、一升瓶に手を伸ばしたら、

『飲むな』

二人は真剣な顔で、声を揃えて即座に止めに来た。

「酒など飲まずとも、夏みかんの果汁絞りがあるぞ?」

「そうだ、そちらの方が良いだろう。それを飲ませて貰え」

一升瓶を握って目一杯ボクから遠ざけた兄さんと、徳利を背後に隠したタケシが口々に言い、ボクは頬を膨らませた。

確かにボクはお酒を飲むとすぐ意識飛ばして寝ちゃうけど…、実家に帰った時ぐらい、へべれけになっても良いじゃない。

ねぇ?



薄く目を開けたボクは、しばらくの間、煤けた天井を眺めてぼんやりしながら、夢の内容を反芻した。

その内に天井がじわっと滲んで見えてきて、顔に腕を乗せる。

…はは…!どんな夢を見ても、結局涙か…。

皆と過ごした日々は、ボクの胸にしっかり刻み込まれてる。

皆に心からの「ありがとう」を、そして、どんなに頭を下げても下げ足りない「ごめんなさい」を…。

迷いは無い。

二度とあの日の東護のような事件が起きないように…、ボクは必ずやり遂げて見せる…!