FakeDestruction(前編)

喧噪が遠く聞こえる、すえた匂いが漂う薄暗い路地。

街灯はあるものの、ことごとく割れており、光源となる灯りは、かなり離れた位置にあるビルの非常口の光のみ。

その暗がりの中、薄汚れた雑居ビルの裏手で、微かに光が漏れ出るドアの脇に身を寄せた大柄な影は、

『カウント始めるぞ。タイミング外すなよ?』

イヤホンから流れ出た男の声を耳にし、すぅっと目を細めた。

空気が蒸される梅雨明けの深夜。

大きな影は暑さ対策の軽装で、濃紺の薄いシャツに、同色のカーゴパンツといういでたちである。

暑いのが苦手なため、極力薄着にしているが、靴だけはそうは行かない。

丈夫でない靴では、仕事中に一晩で履き潰してしまう事もある。

そんな理由で愛用している、厚底の、足首をがっちりホールドする耐久性抜群のコンバットブーツは、こんな夜にはとにか

く中が蒸れた。

『5、4、3…』

始まったカウントを耳にしつつ、白い被毛に覆われた手が、ギリッと得物を握り締める。

『2、1…』

壁から背を離した巨躯が、ドアに向き直りつつ素早く身を屈める。

『Go!』

号令と同時に、大きな足がドアの取っ手付近を蹴る。

ノブが鍵ごと破壊され、蝶番が弾け飛び、内側に吹き飛ぶドア。

ぽっかりと口を開けた入り口から路地に落ちる四角い灯りの中に、純白の被毛が照らし出される。

軽く2メートルを超える、極めて大柄な巨躯。

発達した筋肉で、長くふさふさした被毛が押し上げられた太い四肢。

筋肉が盛り上がる分厚い胸と、西瓜でも丸呑みにしたかのように丸くせり出た腹。

太り気味ながらも、逞しい体をした若い白熊は、薄赤い瞳で灯りの中を見据える。

悲鳴と怒号が響き渡る室内に、調停者、アルビオン・オールグッドは愛用の大戦斧を片手に、躊躇無く飛び込んだ。

アルが突入した建物内の一室は、ソファーとテーブルがいくつか並べられた、待合室のような場所である。

右手側は警備員室にでもなっているのか、ドアの横に小さな窓とカウンターがあり、その前に観葉植物の鉢がいくつも並ん

でいる。

元は白かったであろう壁も、リノリウムの床も、灰色に汚れて全体的にすすけた雰囲気のその部屋には、五人の男達が待ち

構えていた。

濃灰色のスーツに色とりどりのワイシャツとネクタイ。

屈強な体付きと人相の悪さ、そして身に纏う雰囲気から、白熊は彼らが堅気の人間では無いと確認する。

「ブルーティッシュっス!抵抗せず、武装を解除して…、って!」

降伏勧告を無視して一斉に発砲され、アルは顔を顰めながら横っ飛びに身を投げた。

その巨体に見合わぬ俊敏さで跳躍し、体を叩き付けるようにして横手のドアを破り、隣室に転がり込んだ白熊は、

「一応警告はしたっスからね?…途中までだったっスけど…」

釈然としない様子で呟きながら、素早く身を起こす。

体当たりで壊れ、開いたままとなったドアの向こうから、続けざまに室内に銃弾が撃ち込まれるが、アルは素早くドア脇の

壁際に移動して、射線から退いている。

自分以外に誰も居ない警備員室で、アルは目を細め、眉根を寄せた。

姿が見えないにも関わらず、男達は装弾数が決して多くは無い拳銃での銃撃を、いっこうに止めようとはしなかった。

(奇襲で恐慌状態になってるんスかね?でなきゃ銃撃戦慣れしてない?どっちにしろ、経験は浅いみたいっスね…)

脅しのつもりなのか、それとも焦っているのか、どちらにせよ男達の中に警戒すべき使い手は居ない様子。

そう分析すると、アルは壁から身を離して向き直った。

そして手にした斧を大きく後ろに引くと、体を大きく捻り、片足を上げ、

「ふんっ!」

アルは大きく踏み出しながら、野球のスイングにも似たモーションで大戦斧を振るった。

禁圧解除で身体能力を瞬間的に跳ね上げ、一本足打法の要領で、加速と体重を十分に乗せた斧が、警備員室の壁を文字通り

爆砕する。

警備員室と待合室を隔てていた壁は、大小多様なコンクリート片となって吹き飛び、横殴りの豪雨の如く男達を打ち据えた。

悲鳴と騒々しい激突音が収まると、もうもうと粉塵が立ち込める中、壁に空いた大穴から、アルはのっそりと歩み出る。

「…死んじゃいないっスね…?」

壁の残骸がばらまかれた床に倒れ伏し、呻き声を上げる男達を眺め回すと、アルは彼らの手から拳銃を奪い、手早く縛り上

げる。

「さてと、あとはあっち側っスけど…」

素早く作業を終えて顔を上げたアルは、視線の先、待合室の奥のドアの下、その僅かな隙間に視線を止める。

「…ん…?何スかねこれ…?」

ややくすんだ、白い煙が隙間から漏れているのに気付き、アルは眉根を寄せながらドアに歩み寄る。

そして、鋭敏なその鼻で匂いを捉え、

「うっ…!?」

涙目になって口元と鼻を覆う。

後退したアルの前で、ドアがゆっくりと、向こう側から開いた。

「ぶあっ!?げほっ!げほがほっ!」

たちどころに白い煙がドアの向こうから溢れ、アルは刺激臭に噎せ返りながら後退した。

噎せ返る白熊の前に、煙の中から小柄でずんぐりしたシルエットが歩み出る。

しゅこー、しゅこー、と呼吸音を漏らしながら現れた、ブルーティッシュのジャケットを纏った影は、顔全体を覆う、昆虫

を思わせるガスマスクを着用していた。

「ちょ!?何を使ったんスか!?」

抗議するようなアルの問い掛けに、ガスマスクはくぐもった声で応じる。

「新開発の催涙ガス(オニオンテイスト)であります。持続性が低く、瞬間的に効果を発揮する優れものであります」

その説明に応えるように、白い煙は急速に色を薄れさせ、アルの目も涙を止める。

「…使うんだったら事前に説明して欲しいっスよ、エイルさん…」

涙目で睨むアルの前で、エイルと呼ばれた同僚は、てきぱきとガスマスクを外した。

マスクの下から現れたのは、栗色の毛に覆われた、愛くるしい丸顔。

一見子供のようにも見える顔に、小太りな、丸みを帯びた体付きをしている。

小柄なレッサーパンダの獣人は、自分よりもかなり大きいアルの顔を見上げ、表情を全く浮かべずに口を開いた。

「本来、使用予定は無かったであります。が、警告に従わず、激しい抵抗があったため、遺憾ながら使用するに至ったもので

あります。やむを得なかったのであります」

「ガスマスクまで用意してたのにっスか?」

「備えあれば憂い無し。であります」

真面目な口調で応じるエイルに、アルは軽くため息をつく。

「備えついでに、「使うかも」って一言事前報告よろしくっス…」

「了解であります」

疲れたように言ったアルに、エイルはビシッと敬礼して応じた。



抵抗を排除しつつ地下へと侵入したアルとエイルは、おそらく中枢部と思われる部屋で、揃って目を丸くした。

「もぬけの殻っス?」

「妙でありますね…」

豪華な調度品が揃えられた立派な造りのその部屋は、今回の制圧対象であるこの小規模組織のボスの部屋。の、はずだった。

「護衛も居たし、間違い無いと思うんスけど…」

アルは縛り上げて廊下に転がした四人の護衛を見遣った。

エイルお手製の手投げ催涙ガス弾(ガーリックテイスト)の直撃によって異臭を放っている男達は、強烈な臭気で息も絶え

絶えになっている。

「直前に脱出したのでありましょうか?」

「あのアンドウさんの監視を抜けてっスか?それは無いと思うっスけど…」

『ああ。外には出てないぞ。脱出経路は今も全部封鎖中だ』

イヤホンから流れ出た声に、アルは襟元の通信機に指を当て、マイクを通して応じる。

「じゃあ、しらみ潰しに行くっス。制圧はそろそろ終わるっスから、後続突入させてもオッケーっスよ」

『了解』

通信を終えたアルはエイルに向き直ると、小さく頷く。

「って訳っス。逃げられる心配は無いから、オレ達で残りの制圧、行っとくっスよ」

「了解であります」

びしっと敬礼で応じたエイルを伴って廊下に戻ると、アルは部屋という部屋の全てを、片っ端から捜索し始めた。



「どっせぇえいっ!」

頑丈な鉄扉をヤクザキックの一発で破壊し、アルは室内に飛び込む。

衝撃で吹き飛び、内側にかけられていたかんぬきがガラガラと床を滑っていった先では、

「ビンゴのようであります」

「みたいっスね」

三人の護衛に護られた不健康そうな顔色をした細身の中年が、カタカタと震えながら二人を見つめていた。

「ブルーティッシュっス!無駄な抵抗は止めて武装を解除して、大人しく従って欲しいっス」

斧を横にぶんっと振るい、威嚇するように唇を捲り上げ、牙を覗かせた若き白熊に、護衛と小組織のボスである中年がたじ

ろぐ。

「そ、そんな…!神代はブルーティッシュに話を付けてくれると…」

ボスの言葉の中に含まれた名に、アルとエイルは一瞬硬直する。

「…神代が…何でありますか?」

エイルの問いに、ボスは「しまった」というように両手で口元を覆った。

「詳しく事情を聞かせて貰うっスよ?嫌とは、言わせないっス…!」

鋭い眼光を放つ薄赤い瞳に見据えられ、ボスと護衛は観念したように、手にしていた、あるいは懐に呑んでいた銃器類を床

に投げた。



「…で、クマシロユウトと名乗った熊に、レリックの密売に目を瞑るようブルーティッシュに話をつけてやると持ちかけられ、

大枚支払った。と…」

捕らえたボスから聞き出した情報をアルから聞かされると、ブルーティッシュのリーダーである白虎は、執務室の椅子にふ

んぞり返ったまま、「フン!」と、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

その傍らに立った、美しい灰色の毛並みの猫獣人は、物憂げに目を細めている。

「確かか?」

「エイルさんが尋問したっスから。あの凶悪な尋問ガスで」

「何味だ?」

「ワサビらしいっス…」

「…確かだな…」

端から聞けば奇妙なやり取りを交わした後、アルとダウドは揃って頬を引き攣らせた。

エイルが開発する非殺傷型無力化ガスの凶悪な威力を、二人は嫌と言うほど熟知している。

「それはともかく…、これで何件目だ?」

「今月だけで5件目よ。首都で起こったのは、発生以来初ね」

ダウドの問いに、ネネはため息混じりに応じた。

「偽ユウトに偽タケシ…。偽カルマトライブを騙った詐欺も、ついに首都進出ね…」

東護町でのバベル出現後、二人の上位調停者が消息を絶っている。

二人は首都でのマーシャルローで大きな戦果を上げ、その名こそかなり知られている調停者達だが、顔はあまり知られてい

ない。

二人とも、ほとんど無名の状態から、たったの数年で一気にのし上がった調停者達であり、チームが小規模である事と、地

方の町に事務所を構えている事も重なったのが、知名度の割に顔が知られていない主な原因である。

その名を悪用した詐欺事件が発生したのは、二人が消息を絶ったしばらく後の三月末、本州南端近くにある小さな港町での

事であった。

それを皮切りに、全国でその模倣犯が現れた。

何件かの犯人は捕縛されたものの、詐欺そのものは全く減る気配を見せず、各地の監査官は頭を悩ませている。

「被害者が非合法組織のみ…、とは言え、見返りにレリックを受領してるケースもあるから見過ごせん。それに、調停者詐称

はそれだけで立派な犯罪だしな」

「小規模組織ばかりターゲットにしている辺りも悪質よ…。そこそこの規模の組織なら各地で警戒もされているから、接触が

あればすぐに判るのに…」

「小規模組織だからこそ、名前だけで萎縮しちまうって事もあるだろうな。被害は広まってるが、おおっぴらに「偽調停者に

注意」なんて警告はできん。本物の調停者まで疑われて、警告が聞き入れられなくなる怖れもあるからな。ましてや事件を公

表なんてできるはずもない。そこがまた問題だ…」

「被害に遭うのは犯罪者だからということもあるんでしょうね。監査官達も頭を悩ませてはいるようだけれど、政府が本腰を

入れる様子はないわ」

ダウドとネネが顔を顰めて言葉を交わす前で、

「名前を騙るヤツらも小物だから、小規模組織しか相手にできないんスよ…!」

アルは険しい顔で、鼻息も荒くそう言い放った。

そしておもむろに踵を返し、二人に背を向ける。

「もう少し詳しい話が聞けてるかもしれないから、もう一回、尋問経過見てくるっス」

アルが不機嫌さを隠そうともせず、足取りも荒く部屋を出て行くと、ネネはちらりとダウドの横顔を見た。

「…アルはあの二人に惚れ込んでいたからな…。兄貴と姉貴のように思っているんだろう…。…本来は、あいつにこそ言うべ

きなんだろうが…」

苦虫を噛み潰したような顔で呟いたダウドに、ネネは小さく頷く。

二人とも行方不明。表向きはそうなっている。

だが、あの事件の際に、一人は発見されたものの、もう一人はついにバベルから出てこなかった。

見逃した訳ではない。バベル消滅直後から数日間に渡り、何度も捜索を試みたにも関わらず、ネネの精密な探査能力を持っ

てしても、その調停者の特異な反応を捉える事は、ついにできなかったのである。

「彼」はバベルと共に消滅した。

そう理解したにもかかわらず、ダウドとネネはその事を誰にも話していない。

口にしてしまえば、本当にあの青年とは二度と会えないのではないか…。二人の胸中にはそんな思いがあった。

そんな事情もあり、二人ともアルには真実を告げられずに居る。

全ての事柄を知っているはずのもう一名は、二十日間に渡る昏睡状態を経た後、誰と話をする事も無く、入院していた病院

から忽然と姿を消し、その後の消息は掴めていない。

東護のバベルを巡る事件は、確かに終結した。

にも関わらず、半年以上が経過した今もなお、事件の全貌は謎に包まれている。

あの日、塔の中で何が起こったのかを二人は知らない。

皮肉な事に、知らない事が、今は僅かな期待となってもいた。

「あの二人の名が騙られる事は、あいつには我慢ならんのだろう…」

呟いたダウドの手元をちらりと見て、ネネは胸中で呟く。

(我慢ならないのは、アルだけじゃ無いと思うけれど…)

白虎の右手は、巨剣を自在に操るその強靱な握力で、椅子の肘掛けを握り込んでいた。

強化プラスチックの肘掛けに、深い亀裂が生じる程に強く。

参謀を始めとする優秀なメンバー達を東護の事件で喪ったブルーティッシュは、受けたダメージがまだ抜けきっていない。

指揮系統に少なくない空席が生じ、一度に派遣できる部隊数が減少しているため、首都全域をカバーするのが少々難しくなっ

てもいる。

その為、現場主義のダウドも本部に釘付けになり、不慣れな新米隊長達に指示を飛ばす日々を送っている。

自ら赴き、この手で偽物を締め上げてやりたい。

そう強く思いながらも、この状態では首都を空ける事は出来ず、ダウドは地方で起きる事件の情報を聞く度に歯噛みしていた。

「ネネ…」

名を呼ばれ、視線を向けたネネの目を見据え、金色の瞳にギラついた光を宿したダウドは、静かに口を開く。

「首都で事を起こした偽物を必ずふん捕まえるぞ。ブルーティッシュのメンツにかけてだ」

「ええ。全メンバーに通達するわ。偽カルマトライブを必ず捕らえろと。…優先指令で良いのね?」

「いや、優先じゃない…」

獰猛な光を両目に湛え、白虎は低い声で唸るように呟いた。

「…最優先指令だ…!」



この日の深夜0時。ブルーティッシュの全メンバーは、それぞれの携帯端末に緊急通達を受け取った。

その通達の文面には、

大恩ある我等が盟友の名を騙る、悪質にして身の程知らずな詐欺師が、首都にも姿を現した。

我等には、これを断固として捕縛し、盟友の名を騙り、その名誉を著しく傷つけた罪を償わせる義務がある。

よって、最優先指令として偽カルマトライブの捕縛を各人へ通達する。

非番の者、休暇中の者も、調停必要状況の発生を除き、いかなる事態にも優先してこの指令を遂行せよ。

できれば生存したままの捕縛が望ましいが、叶わぬ場合は殺傷判断も止む無しとする。

なお、最悪死体で回収する事になったとしても、この件については、一切の責任をリーダーが負う事とする。

繰り返す。これは最優先指令である。

…追伸・リーダーは激怒している。

…と、いささか殺気だった文言が連ねられていた。



メンバーの食堂にもなっている、ブルーティッシュ本部内のレストラン。

その席の一つに腰を据え、苛立たしげにガツガツとシーフードドリアを掻き込むアルの前で、携帯に表示させた通達の文面

を眺めながら、同僚の若い男が呆れたように呟いた。

「しっかし偽物も偽物だな、ブルーティッシュのお膝元でやるとは…。それとも、あそこのチームとウチに親交があった事、

知らなかったのかねぇ?」

二十代後半に見える、顎が尖った細面のその男は、肩にかかりそうな程に髪を伸ばしていた。

「ひゅほふぇはほぉは、ほほふぇはほぉは…」

口いっぱいにドリアを押し込んだアルが何か言ったが、もちろん判るはずもなく、男は胡乱げに首を傾げる。

「あん?何よ?」

聞き返されたアルは、口いっぱいに頬張っていたドリアを、噛むのもそこそこにゴクリと丸呑みすると、

「首都でやろうが、何処でやろうが、絶対に見過ごせないっス!」

と、鼻息も荒く声を上げた。

そして、大ジョッキを乱暴に掴んで煽り、バナナジュースをガブガブと一気に飲み干すと、ダンッとテーブルに叩き付ける。

「あんな事されたら、お二人の評判ガタ落ちっス!」

「落ち着けよ。酔っぱらいかっつーの…」

「こんな事になってるってのに、アンドウさんは何で落ち着いてられるんスか!?」

アンドウと呼ばれた同僚は、軽く肩を竦めた。

「ここで騒いだって仕方ねーからだよ。お前も落ち着け」

「落ち着いてなんかいられないっスよ!」

声を荒げるアルに、アンドウはシニカルな笑みを浮かべて見せた。

「良いから落ち着いて考えてみろ。この首都で噂の詐欺事件が起きた。で、これまでと何が違う?」

「これまでとって…、オレ達の身近でも出たって、それだけじゃないっスか?」

不満げに、しかしそう答えを返したアルに、アンドウは頷いて見せる。

「そう。これまではよそで起こってた。だからウチも出しゃばる訳にはいかなかった。…が、今回は管轄区域内だから気兼ね

なく対処できる」

「そうっスけど…。あ!」

何かに思い至ったらしく、急に声を上げたアルに、アンドウはニヤッと人の悪そうな笑みを浮かべて見せた。

「詐欺師が首都で事件を起こしてくれたおかげで、今回はおおっぴらに動ける訳だ。頻発する詐欺の一件に対して、ブルーテ

ィッシュが総力であたる…。そうなったら、同じ事をやってたヤツら、あるいは真似しようなんて思ってたヤツらは、どんな

気分になる?」

「…それは…、ビビるんじゃないっスかね?」

「そこだ。この一件が見せしめになって、模倣犯は出なくなるんじゃねーの?好きこのんでブルーティッシュに喧嘩を売ろう

なんて酔狂なヤツ、そうそう居ねーさ」

「なるほどっス…!」

すっきりした表情を浮かべ、感心して頷いたアルに、アンドウはコーヒーを啜ってから呟いた。

「昨晩の内に、首都の出入りに対する監視網は完成した。あとはどうとっ捕まえて、どうとっちめるかだ。まぁ、本気になっ

たブルーティッシュを相手に、首都内で潜伏を続けるのは不可能だけどな」

「そうっスね…。うん。今回の事件を片付ければ、模倣犯も出なくなるはずっス!」

アルは何度も頷きながらそう言うと、

「あ、ヤキソバ特盛りと、メロンクリームソーダ大ジョッキで欲しいっス〜!」

空になった皿を翳しながら大声で叫んだ。

「…ちょ…。…おま…。そのドリア四皿目だったろ…?」

呆れたように呟いたアンドウに、アルはニーッと笑みを浮かべて見せる。

「忙しくなるんスから、しっかり食っとくっス!」

「…ま、太んのはおれじゃねーから良いけど…。お前、去年やっと彼女ができたんだろ?少しは体型にも気を付けた方が良い

んじゃねーの?」

「…ギク…」

アルは一瞬硬直した後、

「…でも今は食っとくっス」

結局、目の前に運ばれて来たヤキソバの誘惑に負けた。

アンドウはヤキソバに取り掛かったアルを、しばらくの間呆れた様子で眺めていたが、結局それ以上言葉を重ねるのは止め、

レストラン内に視線を巡らせる。

そして、丁度レストランに入って来た同僚の姿を認め、片手を上げた。

「よう、エイル」

コロコロとした体型のレッサーパンダは、二人に気付いてテーブルに歩み寄り、ビシッと敬礼する。

「おはようさん」

「おはようであります。アンドウさん」

「もふぁほーっふ。ふぇいふふぁん」

またしても口いっぱいに頬張りながら、ぐもぐもと声をかけたアルに、

「おはようであります。アルビオンさん」

エイルは挨拶を返して椅子を引く。

「ふぃふぉーふぁうぉふはえふぁまっふ」

「いいえ。アルビオンさんこそ、お疲れ様でありました」

二人のやり取りに、アンドウは顔を顰める。

「…何で解んの?こいつの言ってる事…」

「…?解らないでありますか?」

意外そうに目を丸くし、聞き返したエイルに、アンドウは肩を竦めた。

「全然さっぱり全く…」

「最初は「おはようっス。エイルさん」。二回目は「昨日はお疲れ様っス」。でありました」

エイルの律儀な説明を聞き、アンドウはぼそっと呟く。

「…和訳サンキュー。…何で解んだっつーの…」

席に着いたエイルはウェイターに片手を上げると、

「照り焼きチキンピザとコーンポタージュスープ、ツナサラダをお願いするであります」

と、朝食をオーダーする。

「…お前ら…、何で毎朝毎朝そんなカロリー高いのばっか食ってんの…?」

「朝食だからこそであります」

「一日のスタートに、しっかりエネルギー補給っス」

二人の即答にため息を漏らし、アンドウは諦めたような表情を浮かべて話題を変える。

「それはそうと、エイルも昨夜は遅かったんだな?大変だったな」

「は。今朝方までかかりましたが、色々と聞き出せたので、成果はあったと言えるでありましょう」

アルとアンドウは意外そうに顔を見合わせる。

尋問は、二人が思っていたよりも長く続いていたらしい。

頬が膨れるほどに詰め込んでいたヤキソバを、ゴックンと音を立てて飲み込み、アルは声を潜めてエイルに尋ねる。

「…あの後も何か、新しい情報が聞けたんスか?ってか、あの人、失神してたっスよね?」

昨夜おこなわれた、エイルお手製臭気ガスでの尋問にはアルも立ち会っている。

ボスが失神したため、昨夜は中断されたはずだったのだが…。

「調合途中の新作ガス(マスタードテイスト)を嗅がせてみたら、元気に目覚めたであります」

『…鬼…!』

しれっと無表情に応じたエイルの前で、顔を引き攣らせたアンドウとアルの声が見事にハモる。

「続けて聞き出せた話から、クマシロユウトと名乗った熊獣人から最初の接触を受けた場所と、会談に利用された場所が判明

したであります」

エイルが淡々と口にした情報に、アンドウとアルは目を丸くした。

「大収穫じゃねーの!…ん?って事は…」

「は。今朝方、神崎サブリーダーが直々に現場調査に向かったであります。もはや袋のネズミと言えるでありま…、どうした

でありますか?」

急にガツガツとヤキソバを掻き込み始めたアルに、エイルは首を傾げる。

あっというまに皿を空にし、ソーダを一気飲みして「げふっ!」とげっぷを洩らすと、アルは勢い良く立ち上がった。

「オレ、ちょっと行ってくるっス!」

アンドウは立ち上がったアルの顔を見上げ、

「行ってくるってお前、ガッコは?」

「サボるっス」

「ちょ?ダメだろそれ?」

「勉強より大事なものもあるっス!んじゃ!」

すちゃっと手を上げたアルは、踵を返して出口へ向き直った。

「おぉ〜い、ちょっと待て…って…聞かねーよな…」

ドスドスと駆け足でレストランから出て行ったアルを見送ると、アンドウはため息混じりに呟く。

その隣で、エイルは何故かうんうんと頷いていた。

「勉強より大事なものもある…。名言でありますね」

「お前、それカンザキさんの前でも言える?」

「前言撤回であります」

アンドウの問い掛けに、エイルはあっさりと感想を翻す。

「ところで…、どう思う?あいつ、変わったと思わねー?」

エイルは相変わらず表情が無いものの、小首を傾げ、考え込んでいるような様子で応じた。

「変わった…でありますか?…確かに、能力の獲得といい、鍛錬と実戦による戦闘能力向上といい、大きく成長しているとは

思うでありますが…」

「それもあるが、内面の方だよ…。ちょっと前までの、張り詰めてるような感じっつーか…、無理してる様子っつーか…、あ

れが無くなった」

「振る舞いは、以前と変わっていないように思えるでありますが…」

「まぁなぁ。理想前面押し出しの青くせートコなんかは変わってねーけど、なんつーのか…、背伸びを止めたような感じがし

ねー?」

東護での事件後、首都に戻って以来、アルは人員不足に悩むブルーティッシュ内で、率先して任務に当たっている。

以前、ある調停者に助言を貰ったアルは、遙か高みの先達を見上げ、無力な自分を卑下し、不相応に背伸びしようとする事

を止めた。

目の前の事を片付けながら、一歩一歩をしっかり踏み締め、昇ってゆく事の大事さを学んだ。

その変化はささやかなものだったが、同時に決定的なものでもあった。

自然体で居られるという強み。

今の自分の力量を把握し、状況に当たれるようになったアルは、持ち味でもあった柔軟な状況対応力を、実戦でも十二分に

活かす事ができるようになっていた。

「ところで…、聞いてるか?派遣用の部隊を新しく作るって話」

「は。独立捜索遊撃部隊の事でありますね?」

聞き返したエイルに、アンドウは感心したように少し目を大きくする。

「さすが、医務室を根城にしてると噂話には敏感だな。やっぱり情報交換会とかしてんのかね?」

「噂に聞く程度で、内容については、自分を含めて誰も、詳しくは知らないであります」

アンドウは「ふぅん…」と頷くと、周囲をちらっと見回してから、小さな声で話し始めた。

「その精鋭部隊に、アルを抜擢しようって話が出てる」

「それはめでたいであります。人選は、もう始まっていたのでありますね?」

「まぁな。あいつの他に可能性が高いのはバスク辺りか…。まだ本決まりじゃねーから、よそにも本人達にも内緒な?」

「は」

生真面目に敬礼して応じたエイルを前に、アンドウはカップを弄びながら、微かな笑みを浮かべて呟く。

「ヤマガタ先生の期待通り、あいつは立派な調停者になれそうだ…」



寂れた通りにあるバーの中、ボックス席の傍らに立ち、ブルーティッシュのサブリーダー、神崎猫音は目を細める。

「…そうとは思っていたけれど、やっぱり偽物だったわね…」

小組織のボスがクマシロユウトを名乗る熊獣人と接触したと証言したそのバーは、平日の午前中のため、もちろん営業時間

外である。

現場調査に赴いたブルーティッシュ数人と店のオーナー以外には、人は居ない。

事情を知らず、急な連絡を受けておどおどと対応するオーナーから、ネネは件の偽調停者の特徴を聞き出した。

金色の被毛。大柄で屈強な体。蒼い瞳。多くの特徴は一致していたが、本物とは異なる決定的な一点があった。

「本人が聞いたら、どれほど怒るかしら…」

ふっと笑みを浮かべると、ネネは他のメンバーに現場に残された痕跡の調査継続を命じた。

そして、バーの出入り口に歩み寄ると、そのドアを勢い良く外側に押し開ける。

ゴスッ!

「んがふっ!?」

不意に開けられたドアが鼻面を直撃し、外で聞き耳を立てていた白熊は、鼻を押さえて仰け反る。

「…アル…」

ネネはニッコリと微笑みながらアルを見つめ、

「がっ・こー・は?」

一言一言区切るように、はっきりと口を動かして尋ねた。

「ふ、振り休っス!」

「な・に・の?」

「え?え、えぇと…」

笑顔のネネに、アルは頬が引き攣った笑みを返す。

「そ、そんな事より…!偽物だったんスよね?本物じゃ無かったんスよね?」

表情を引き締めたアルに、ネネも顔つきを改めて頷く。

「ここのバーのオーナーからの証言だけで確定ね。どうやら、偽物さん、本物の事にあまり詳しくないみたいよ」

アルは身を乗り出すようにして、勢い込んでネネに尋ねる。

「足取りとかは掴めたんスか?」

「それはまだよ。現在調査中」

「そうっスか…」

アルは考え込むように腕組みすると、

「偽物は、何が違ってたんス?」

「その「神代熊斗」は、組織のボスと商談をしながらバーボンをパカパカ飲んでいたらしいわ。最後の方は酔いが回っていた

のか、かなり声が大きくなっていたそうよ」

「…酔ってた…?」

「ええ。もしもそれが本物だったら…」

ネネは皆まで言わずに言葉を切り、アルは視線を上に向け、神妙な顔つきでゴクリと唾を飲み込んだ。

「…一番近くに居た人は…ただじゃ済まないっス…」

「そういう事。偽物確定ね…。とりあえずバーや飲み屋関係から洗わなければならないけれど…、絶対に逃がしはしないわ。

本気になったブルーティッシュの追撃を振り切れる者なんて…」

居ない。そう言い切ろうとしたネネは、形の良い眉をひそめると、

「…ダウドぐらいのものよ。遺憾ながら…」

自分の目を盗んでは、デスクワークをほったらかしにして本部を抜け出して酒を飲みに出歩く白虎の事を思い出し、苦々し

い口調で呟いた。

「飲み屋関係となると…、オレじゃ調査や聞き込みはできないっスね…」

アルは頬を掻きながら残念そうに呟く。今年の誕生日が来て18歳、体は大きくとも未成年である。

「そうなるわね。ここは大人しく私達に任せなさい」

「…そうするっス…」

いささか落胆したように頷いたアルは、踵を返し、路肩に停めていたバイクに歩み寄る。

大幅に手が加えられたその大型カスタムバイクは、アルの巨体と比較しても決して見劣りしない。

 15歳の夏に各種国際免許を取得したものの、これまで自分の車両類は持っておらず、新車に乗り換えるという同僚のお古

を良い機会だからと払い下げて貰ったもので、アルの宝物でもある。

調停者としてこつこつと溜めた貯金の大半をつぎ込んで技術部に個人で依頼し、足回り、心臓部を徹底的に弄り回して常識

外れの機動力を実現し、極めて大柄なアルの巨体も苦も無く運べるようにしてある。

がしかし、出力の増加に伴い、乗り手を選ぶモンスターマシンと化しており、常人の手には余る代物であった。

全体が艶やかな漆黒に塗装された、流線型のボディを持つワルキューレカスタムに跨り、極めて頑丈かつ強靱なアルの足が、

軽々とキックスタートさせる。

息を吹き込まれた黒色の戦乙女は、ボディ横の翼を思わせる独特の形状の排気管から、猛々しいエンジン音を路地に轟かせた。

「あ。そうそう、アル?」

「うス?」

バイクに跨りハンドルを握った姿勢で、アルはネネを振り返り、その顔に浮かんでいる笑みを目にして硬直した。

「後で私の部屋に来なさい。…必ずよ」

「…うス…」

学校をサボった事は、やはり誤魔化しきれなかったようである。

微笑みながら告げたネネに、アルは死刑宣告でも受けたような表情で頷いた。



「あうぅ〜…!」

げんなりした顔で呻き声を漏らし、アルは額を押さえたまま居住フロアの廊下を歩く。

学校をサボった罰として、各種書類審査をおこなっているネネの机の前で、アルは基本五科目の問題集に延々と取り組まさ

れた。

ろくに休憩も無く、実に七時間ぶっ通しの苦行からようやく解放されたアルは、

「う〜、頭痛いっス…。なんか詰め込んだ事が耳とか鼻から漏れてきそうっス…」

顔を顰めて呟き、自室のドアに手をかけた。

だらしなく衣類が脱ぎ散らかされたリビングで、上着とズボンを脱いでテーブルの脇に放り出したアルは、トランクスにタ

ンクトップというラフな格好でソファーに倒れ込む。

口を開けてだらしなく背もたれにもたれ掛かり、しばらくぼーっと天井を眺めた後、おっくうそうに立ち上がって冷蔵庫に

向かい、コーラの1.5リットルボトルを取り出してキャップを捻る。

プシッと炭酸が漏れる音を心地良く聞き、アルはボトルを煽ってラッパ飲みしながらソファーへと戻った。

再びソファーに尻を沈め、よく冷えたコーラを喉に流し込むと、ようやくひとごこちついたのか、白熊は満足げに、盛大な

ゲップを吐き出す。

ふと壁掛けの時計を見遣れば、もうじき午後6時、夕食時であった。

先に脱ぎ捨てた上着を拾い上げ、折り畳み式の携帯を手に取り、白く太い指でパカッと画面を開く。

そして通話履歴を眺め、ある事に気付いてハッとした顔になる。

恋人との最後の会話から、一週間以上が経っていた。

「…ごめんっス…。アケミ…」

愛しい恋人に小声で詫び、大きな体を縮め、アルは哀しげに耳を伏せる。

今年の二月初旬に別れたきり、一度も顔をあわせられていない。

首都に戻って以来、人手不足を少しでも補おうと、懸命に任務に打ち込んで来たが、そのせいで以前ほど頻繁に連絡もでき

ていなかった。

メールはちょくちょく送っている物の、電話はなかなかかけられない。

調停者としての仕事もあるため、周囲の目も無く自由になれる時間はほぼ深夜のみ。

普通の高校生である相手の迷惑を考えれば、自分の都合に合わせてかけるのもはばかられた。

寂しい想いをさせてしまっているという罪悪感がある。

親しかった二人が居なくなった事で、強い喪失感を味わっているはずの少女はしかし、言葉を交わす時には寂しそうな素振

りは微塵も見せない。

それが、心配をかけまいという少女の気遣いだという事が、アルには良く判っている。

その気遣いを有り難く思い、そしてそれ以上に申し訳ないと思っている。

「…シャワー浴びて、夕飯食って、気持ち切り替えるっスかね…。電話でくらいは、元気な声聞かせてあげなきゃいけないっ

ス…」

そう呟いて立ち上がると、アルは軽く頭を振り、着替えを手にして浴室に向かった。



立ったままぬるめのシャワーを浴び、太い指で頭を擦る。

頭のてっぺんに注ぐ湯が、太い首を、逞しい肩を伝い、筋肉で盛り上がった分厚い胸を撫でる。

その下で突き出た腹を伝い、丸太のような脚を流れ、湯は浴室の床へ落ちてゆく。

この半年の間にハイペースで鍛え上げ、以前にも増して逞しくなった体は、新雪のように白い被毛に包まれている。

その白さに当てられた無色の湯が、うっすらと光っているような錯覚を覚えるほどに、アルの被毛は美しい純白である。

薄赤い瞳が母に似た事は知っていたが、純白の被毛は父譲りである事を、昨年末に生死の境を彷徨った折に知ることが出来た。

父の名は知らない。どんな男だったのかも判らない。亡き母と親しかった、今の保護者であるダウドとネネも知らないと言う。

だが、それが嘘である事を、アルは悟っている。

言いたくない。あるいは言えない事なのだろうと考えている。

困らせたくはないので、二人にしつこく尋ねたりはしていないが、いつか自分が一人前になれば、二人は父の事を話してく

れるのではないかと、そう思っている。

「目以外はみんな父ちゃん似って…、そんな話っスけど…」

アルはシャワーを止め、視線を下に向ける。

筋肉の上に脂肪が乗り、丸く突き出た腹。

その下に、アルのコンプレックスとなっている箇所があった。

「…これも…父ちゃん譲り…なんスかね…?」

目を細め、深刻な表情で呟いたアルの視線の先には、その立派な体格とは不釣り合いな、控えめな男のシンボル。

小さい。

誰と比較するまでもなく明らかに小さい。

余りまくった皮をすっぽりと被った、極めて引っ込み思案な息子が、アル最大のコンプレックスであった。

「背はちゃんと伸びてるのに…、何でこっちはでかくならないんスか…?」

アルはそれを指先でつまみ、皮の先端を少しだけめくってみる。

サイズと同様に、重度の真性包茎である事もまた、彼の大きな悩みとなっている。

「ちんまい上に包茎だなんて知られたら…アケミにも…幻滅されるっスかね…?」

シャワーで湿ったそれをじっと見つめた後、

「…た…、確か…。めくって慣らしてけば改善できるって…、サツキが言ってたっス…。恐いからって避けてると、いつまで

も治らないとかなんとか…」

股を開き気味にして床に正座し、手を筒にしてそれをしっかり握り、アルは軽く目を閉じて、すーはーと深呼吸する。

そして、くわっと目を開け、

「ふん!」

みりっ

「いぎゃぁぁぁあああああああース!!!」

勢いをつけ、根本目掛けて手を動かしたアルは、予想外の激痛に手を離し、浴室がビリビリ震動する程の悲鳴を上げた。

 (筆者注・万が一アルと同じ悩みをお持ちの方でも、大変危険ですので決して真似しないで下さい)

あまりの痛さに涙目になり、アルは両手で股間を押さえ、ぺたんと子供のように座り込む。

「お…、おおぉぉぉうっ…!」

僅かに開いた口から漏れるのは、ただただ弱々しい苦鳴。

「い…いだいっスぅ〜っ…!…で、でも…」

アルはおそるおそる手を退けて股間を見下ろし、

「…ちょっとだけど…剥けてるっス…?」

先程よりは少し剥けたソレを、涙が滲んだ目で眺めた。

やがてほっとしたように項垂れてため息をつくと、

「…でも…、さすがにもう一回は…ちょっとキツいっス…。また今度って事で…」

アルは立ち上がり、油汗が吹き出した体を、もう一度シャワーで流し始めた。



アルが浴室で叫び声を上げていたその頃、アンドウはダウドの執務室で、言付かっていた調査資料を提示していた。

机についているダウドの正面に立ち、終始直立不動だったアンドウは、やがて資料についての説明を終えると、軽く頭を下

げる。

「俺からの説明は以上です。…判りづらい所とかあれば、どうぞ」

「いや十分だ。ご苦労だったな」

白虎はそう言って頷くと、目を細めて受け取ったリストを眺めた。

「今後も調査を続けてくれ。くれぐれも、他のメンバーには伏せてな」

「了解しました。…それともう一つ」

アンドウは声を潜めると、

「未確認ですが、またあの組織…、ミョルニルが動いたようです」

ダウドは資料から目を上げると、やや鋭さを帯びた瞳でアンドウを見つめた。

「現地の調停者チームも監査官も、例によって部外秘って事で締め出されてますから、正確な情報はまだです。確実と思われ

るところだけ報告しますと、事件発生は二時間前、一昨日から蒼森を巡視中だった、特自の五十嵐将補が襲撃を受けたようで

す。これまた例によって生き残ったSPが、封鎖前に駆けつけていた現地の調停者に証言したところによると、襲撃者は馬と

熊の二人組みだったとの話ですが…、まず間違いなくスレイプニルと神威徹(かむいとおる)でしょう」

「またウマクマか…。…それにしても、五十嵐…?前にこっちの基地に居たヤツだな?確かマーシャルローん時に反応弾ぶっ

放したあの頃に…」

「はい。…まぁ、あれは現場の三佐が独断でやったという公式発表が出されましたが…」

「誰も信じちゃいないさ。お前と俺も含めてな」

渋面を作って吐き捨てたダウドは、

「で、被害状況は?」

と、アンドウに先を促す。

「五十嵐将補は心肺停止状態で病院に搬送されたとの情報がありますが、確認するまでもなく死んでいるでしょう。頭がトマ

トみたいに潰れていたらしいですから。SP達については、負傷はしてはいるもののいずれも軽傷。いつものように「見逃さ

れた」って感じですね」

「…判った。…カムイってヤツも、金色の熊って話だったな?」

「はい。流行ってますね金熊。つくづく縁があるようで…」

「詳しい情報が入ったら、また聞かせてくれ。今夜のところはネネには俺から話しておく」

「了解です。では、おれはこれで…」

「ああ、ちょっと待て」

一礼し、踵を返して退室しようとしたアンドウは、ダウドに呼び止められて足を止めた。

「お前の目から見て、あいつはどうだ?」

再び向き直ったアンドウは、皮肉屋の彼にしては珍しい、柔らかい微笑を浮かべる。

「リーダー達やヤマガタ先生の期待通り、逞しく育ってますよ」

アルが編入されている強襲チームに、専属オペレーター兼お目付役としてアンドウを配して以来二ヶ月、ダウドとネネは秘

密裏に、彼にアルの行動を監視させていた。

極秘で進めている新造部隊のメンバー候補として相応しいか、客観的に判断させるためにである。

「調査終了期限にはまだ少し早いですが、おれの答えはほぼ決まってます」

そう言ったアンドウに、ダウドは微かな笑みを浮かべて片手を上げると、

「判った。それでも、引き続き監視を頼む」

「了解しました」

アンドウは軽く一礼すると、今度こそ部屋を後にした。

一人、部屋に残ったダウドは、

「ジーク…、ヒルデ…、トシキ…、アルは立派に成長してるぜ…」

目を細め、ほんの微かに寂しげな表情を浮かべながら、静かに呟いた。



アルの寝室は、やはり散らかっている。

リビング同様にそこら中に衣類が脱ぎ散らかされており、ベッドサイドのテーブルには空になったジュースのボトルと菓子

の袋が、いくつも起きっ放しにされている。

汚く散らかったその部屋で、寝室の壁に設置された棚だけは綺麗に整頓されていた。

ガラスの引き戸がついた、ショーケースを思わせる棚の中には、完成、塗装済みのプラモデル群が整然と並べられている。

プラモデルの内訳は主に、世代を超えて愛され続け、いくつもの続編が作られた人気アニメのロボットや戦艦類と、十分の

一サイズのバイク類である。

室内もだらしないが、ベッドに腰掛けているこの部屋の主も負けず劣らずだらしない。

裸にトランクス一枚という格好でベッドに座っている白熊は、携帯を片手に、でれ〜っと顔を緩ませていた。

「へぇ。そんなに面白いなら見てみるっスかね」

恋人から話題のドラマの感想を聞いたアルは、ろくに使っていない、埃で薄汚れたテレビとDVDデッキを見遣る。

『でも、もう今週で四話目が終わりましたよ?』

「う〜ん…。途中から見たら分からないっス?」

『私、録画していましたから、もし見るならDVD送りますよ?』

「ほんとっスか?なら、頼んでも良いっスかね?」

『ええ、もちろん!』

アケミは声を弾ませて返事をする。

住んでいる場所が遠過ぎて、なかなか顔をあわせる事ができないが、アルの声を聞くだけで幸せな気分になれる。

同時に、言葉を交わす度に、会いたいという気持ちが強くなる。

仕事が入れば昼も夜もなく働く事になる。そんな調停者である恋人を気遣い、アケミが自分から電話をかける事はない。

文句の一つも言わずに、少女はアルからの連絡をただひたすらに待つ。

アルがその事を申し訳なく思っている事は、アケミにも良く分かっている。

だからこそ、声を交わす度に彼女は言う。「大丈夫。そんなに寂しくないですから」と、精一杯に強がって。

久しぶりに声を交わす二人の会話は弾み、時間は瞬く間に過ぎて行き、やがて時計は午前零時を告げた。

「…今夜は、もう遅いっスね…」

0が並んだ置き時計のデジタル表示を眺め、アルは少し寂しげに呟いた。

『そうですね。ごめんなさいアル、長電話させてしまって…』

「オレの方こそ長々喋って悪かったっスね?…また、かけるっスから…」

『はい…』

「じゃあ、お休みっス。アケミ」

アルの「お休み」を聞いたアケミは、僅かな沈黙の後、か細い声で囁いた。

『…あの…アル…』

「何スか?」

『…愛してますよっ…!』

恥ずかしそうに早口で、小声で囁くと、アケミは通話を切った。

アルは通話が切れた電話を耳に押し当てたまま、しばらく硬直し、

「………」

のろのろと携帯を閉じ、ボスッと俯せにベッドに倒れ込む。

そして枕を抱き締めて熱くなった顔を埋め、足をばたばたさせながら、

「…オレも大好きっスよぅ!アケミぃ〜!」

と、くぐもった声を上げた。

トランクスの尻から出ている白くて丸い、短い尻尾が、せわしなく、嬉しそうにピコピコと動いている。

腹の底から込み上げる堪え難い恋しさに、枕を抱き締めたままベッドの上でごろごろと転げ回ったアルは、

「電話終わったか?」

と、いきなり声をかけられ、慌ててガバッと体を起こす。

首を巡らせると、半開きにしていた寝室のドアの向こうから、アンドウがひょこっと顔を出していた。

「あああああアンドウさん!?いつから居たんス!?」

慌てて起き上がり、ベッドの上に座り直したアルに、

「15分くらい前からか?」

アンドウはしれっと応じる。

「何でここに居るんスか!?」

「鍵、空いてたし」

涼しい顔でそう応じると、アンドウは寝室に足を踏み入れた。

「そういう事じゃなくてっスねぇ…!」

抗議するアルの言葉を遮るように、ベッドに歩み寄ったアンドウは、数枚の書類を差し出した。

「これは…?」

「開発中の集積型複合兵装のスペックだ」

書類を受け取って視線を走らせたアルは、その内容を見て顔を顰めた。

「…でたらめな機能がてんこ盛りっスね…」

「小型化したACSSを試験的に搭載した画期的な携行型兵装。…だそうだ。技術部の話じゃあな」

「総重量102.5キロの金属の塊を携行型って言い切る辺りが凄いっス…。誰が使うんスかこんなの…?」

「お前」

短く即答したアンドウに、アルは「へ?」と、やや間の抜けた声で聞き返す。

「お前用に開発されるんだと。拠点防衛及び敵拠点集中破壊用の装備だ」

「聞いてないっスよ!?」

「だろうな。夕方の会議で決まった事らしいし」

「なんでオレなんスか!?」

訝しげに聞き返したアルに、理由を知るアンドウは、とぼけて肩を竦めた。

「さあな」

白熊は顔を顰めて書類から顔を上げ、胡散臭そうにアンドウを見遣った。

「…オレ、何をさせられるんスか?」

「そこまでは知らねっつーの。リーダーに直接訊いてみろよ」

「…そうするっス…」

アルはため息を漏らして頷き、書類を返す。

それを受け取ったアンドウが廊下に出て行った事を確認し、白熊は寝室のドアをそっと閉めた。

そして、ベッドの上に投げ出していた携帯に目を止める。

先程まで言葉を交わしていた、愛しい恋人の声を思い出し、アルはそっと携帯を掴み、画面を開く。

待ち受けには、去年の夏、付き合い始めたばかりの頃に撮影したアケミの画像。

少女は透けそうな程に薄い生地の、淡い黄色のワンピースを身に纏っていた。

恥ずかしそうな微笑を浮かべるその顔をじっと見つめ、

「…今年も…、一緒に海に行けたらどんなにか良いっスかね…」

アルは切なくため息をつき、寂しげな声で呟く。

(…海っスか…。楽しかったっスねぇ、去年の夏休みは…)

アケミの水着姿を思い出し、アルはへら〜っと緩んだ笑みを浮かべる。

特別に運動をしている訳ではないが、ほっそりと締まり、出るところは出た完璧なボディライン。

ふくよかな胸。くびれたウェスト。キュートなヒップラインに、健康的な脚線美。

照りつけるその強烈な日差しの中で、成熟途中の若々しさと美しさで輝いていた恋人の姿を脳裏に蘇らせ、

「…勃っちゃったっス…」

アルは股間が少し盛り上がったトランクスを見下ろし、気まずそうに呟いた。

しばらくじっと股間を見下ろした後、アルはトランクスに手をかけてずりおろし、小さいながらも精一杯に自己主張してい

るソレを握った。

先刻入浴した際に力わざで包茎矯正しようとしたせいで軽い痛みがあったが、本能的な欲求は堪え難いほどになっていた。

「…んっ…!」

ベッドの上にあぐらをかき、皮を被った亀頭を太い指でつまみ、こねくり回し、食い縛った歯の隙間から呻き声を漏らす。

「…んぅっ…!ふぅ…、ふっ…!」

痛みと快感に硬く目を瞑り、歯を食い縛り、ふぅふぅと荒い息をつきながら、アルは仰向けに体を倒した。

勃起してもすっぽり皮を被ったままの竿を、快感を求めて必死になってしごく。

クチュクチュと湿り気のある音と、荒い息遣いが静かな寝室に満ちる。

閉じた瞼の裏に、水着姿の恋人を描き、完全に勃起してもなお手の中にすっぽり納まるソレを、一心不乱に刺激する。

丸みを帯びた腹がピストン運動でたふたふと揺れ、息遣いには徐々に喘ぎ声が混じり始める。

「はっ…ふぅ…、ふっ…、ん…!…あ、アケ…」

絶頂が近付き、喘ぎが大きくなったアルが恋人の名を口にしようとしたその瞬間、前置きもノックもなく、いきなり寝室の

ドアが開けられ、先程去ったはずのアンドウが顔を覗かせた。

「悪い、言い忘…」

「あぁっ!?」

びぴゅっ…

驚愕の表情で首を起こしたアルと、目を丸くしているアンドウの視線の間で、白い液体が跳ねた。

精液で汚した丸い腹を荒い呼吸で上下させながら、泣きそうな顔で自分を見つめるアルに、

「あ…、うん…。…その、…ごめっ…」

アンドウは、気まずそうに視線を泳がせながら謝った。

「…さっき言った新武装の調整…、来週末からの予定だから…」

「…う…ス…」

気まずい空気が漂う中、強ばった顔をしているアルに、アンドウはそっぽを向いたまま、いやに優しい口調で語りかける。

「その…。悪かったな…。…皆やってる事だからさ、あんまし…気にすんな。な?」

そう言い残し、アンドウが部屋を出て行くと、アルはすっかり縮こまった股間のものをずっと摘んだままだった事に気付き、

ゆっくりと手を退けた。

そしてベッドの上でぐったりと脱力すると、腕で目隠しをし、

「…ひっ…、ひっく…、うぐぅうっ…!」

自慰行為、しかも射精の瞬間までを目撃された恥辱とショックで、ポロポロと涙をこぼし始める。

ややあって、ようやく起き上がった白熊は、

「うひぃぃぃいいいいん…!」

ヒックヒックと子供のように目を擦って泣きながら、実に重い、引き擦るような足取りでシャワールームに向かう。

この日を境に、アルはどんなに疲れて帰って来ても、入り口と寝室に鍵をかける事を、決して忘れなくなった…。