Cry for Daybreak(後編)

懐かしい夢から醒めた後、しばらくぼうっと天井を見上げていたボクは、涙が乾いてから壁の時計を確認した。

午後十時…。決行予定時刻まで、あと五時間…。

狭いベッドを軋ませて起き上がり、眉間を押さえながら軽く頭を振る。

不思議…。何年分もの事を、一時に見た気分…。

人生最後の走馬燈って、案外こういう感じに時間の感覚を無視した物になるのかもしれない。

少し早いけれど、そろそろ身支度を整える事にして、ボクはベッドから腰を上げた。



ユニットバスとトイレと洗面台が一緒になってる別室に移って、トレーナーとアンダーウェアを脱いだボクは、自分の体を

見下ろす。

お腹の傷は完全に塞がってる。上辺だけは。

傷痕を覆い隠して新しく生えてきた毛は、他と比べてそこだけ少し短くて、ちょっと不恰好だけれど…。

完全回復にはほど遠い。歩いたり、少し身を捻ったりした拍子に、時々背中側に抜けて行くような鈍痛が走る。

激しく動けばさすがに脂汗が滲むけれど、我慢できない程じゃない。動き自体に支障は出さずに済む。

ズボンとスパッツを脱いで裸になったボクは、壁にかけられた半端な大きさの鏡に映った自分の姿を眺めた。

ボクは体が大きい上に金毛で目立つから、外出する際には衣服から出る部分…、手首から先と首から上は、艶のある黒に染

めてある。

服を着てれば黒熊に見えてるはずだけど、手と顔だけ黒い裸の金熊は、なんともシュール…。

…もちろん衣類だって最近は変装用。

好みは度外視してダークブルーや黒で統一して、サングラスなんかかけたりしてカモフラージュしてる。

…睡眠と食事の量が減っていくらか細くなったはずなんだけど…、それでも鏡に映る熊は不格好に太ってた。

高い位置にあるボクの視点からだと、半端な大きさの鏡には、ぽこんと突き出たお腹が映り込んでる。

お臍の辺りを中心に鏡の全面を占める大きなお腹を眺めて苦笑しつつ、蓄えられた皮下脂肪を軽く掴む。

横にも縦にも出てる、みっともないお腹…。

張りが無くて、重みで下方向にばかり出てる乳房…。

胴はぶ厚いし肩幅もあるし腰もどっしり太い。首なんか毛と筋肉と脂肪でラインが見えない。

腕も手足も丸太みたいに太い。指なんてもう女のそれじゃない太さ。

よくもまぁ、こんな見てくれのボクを好きだって言ってくれたもんだねぇ、タケシも…。

苦笑いを浮かべたまま、ボクはシャワーを手に取った。

二月上旬。季節はまだ冬だけれど、治りきってない傷が訴える鈍痛に反応して背中や胸元に汗をかいちゃうから、洗い流さ

ないと汗ばんで気持ち悪い…。

持参したボディーシャンプーを泡立てて塗りつけ、入念に擦って丁寧に流しながら、筋肉の上に脂肪が分厚く堆積した体を

揉むようにして洗う。

黒く染めた毛も、一度すっかり洗い流す。

本番だからね。今夜は手と顔だけじゃなく、全部染めて出かけよう…。

ぽっこりしたお腹の表面を、円を描くようにしてそっとさすって、所々押してみる。

…大丈夫、ちょっと触れたぐらいじゃ痛みは無い。十分動ける。

段がついてる下腹部に手をあてがって押し、ゆさゆさ揺れるお腹を見下ろしながら、どの程度で痛みを感じるのか度合いを

チェック。

…ちょっとひとには見せられないなぁ…、この無様な揺れっぷりは…。

とりあえず、完治には程遠いけれど、気掛かりだったダメージが予想以上に抜けている事を確認し、ひとまず満足したボク

は床に跪く。

目を閉じながら顔を上向きにして、壁にかけたシャワーヘッドから降り注ぐお湯を、耳を後ろに倒しつつ顔面に浴びる。

お湯が入らないように鼻から少しずつ息を出しながら、顔を叩く水滴の感触をじっくり味わう。

やがて、息を吐き終えて顔を下に向け、狭い床に四つん這いになったボクは、今度は後頭部やうなじ、背中をシャワーに叩

かせる。

湯を吸って寝た被毛越しに響く、心地良いシャワーの感触に身を委ね、ボクは目を閉じたまま思い出す。

実家の露天風呂や事務所の広い湯船での、ゆったりとした入浴を…。

どっちにも二度と入れない事を改めて考えたら、じわっと寂しさが込み上げた。

…この期に及んで、何に寂しさを覚えてるんだろうねぇボクは…。

思わず苦笑いしたボクは、立ち上がってお湯を止めた。

全身の被毛に染み込んだ湯が、足へと伝い下りて床に流れてく。

気持ちの切り替えは、まぁまぁ上手く行ったらしい。

迷いや雑念を汗と一緒にお湯で洗い流したボクは、両手でぐいっと顔を拭った。



警備の目を掻い潜って高級ホテルの敷地内に侵入したボクは、三階の窓の脇にへばりついてる。

幸いにも天気予報は的中して、今夜は星はおろか僅かな月明かりも見えない曇天。

…なんだけど…、どう考えても真正面じゃ無理…。

数字では知っていたけれど、実際に見てみると敷地内の警備員多過ぎだよ…。

その中には、どうやら調停者らしい、揃いの制服じゃないバラバラな格好の人達の姿も見えた。

ただでさえ捜索中なんだから、同業者と顔をあわせるのはまずいなんてもんじゃない…。

暗闇では目立つ金色の毛を黒く染め、壁の凹凸に指先と爪先でしがみ付くボクの姿は、たぶん真下から見てもちょっと気付

けないと思う。

毛も衣類も黒。全身黒ずくめのボクは、真っ黒な空とホテルの焦げ茶色の壁に溶け込んでるはず。

右腰には一振りの太刀、北天不動…。

使う事はまずないだろうけど、心の拠り所として、こうして身に帯びて来た。

ボクが得意としてるのは徒手空拳だけど、刀も使えない訳じゃない。

剣術、槍術、弓術、棍術に薙刀…。

広く技を知れば自ずと百戦危うからず。四の五の言わずに先ず学べ。

…とは兄さんの言葉だけど、小さい頃から様々な武器の扱い方を学ばされて来たから、剣術も少々なら…。

侵入を阻む第一の関門は、あらゆる窓に取り付けられた赤外線センサー。けれど、今その機能は麻痺してる。

行動開始直前に交わしたユミルとの電話で、警備システムを掌握した報告を受けてたボクは、宿泊客の居ない部屋を選んで

窓に手をかけた。

「雷鋭爪(らいえいそう)…」

長く鋭い爪を象って五指の先に発生させた、高密度かつ高熱の力場で、ガラスを丸く切り抜く。

角度をつけ、切り口の内側と外側に僅かながら差を出したおかげで、丸く切ったガラスはコロンとこちらに転げ落ちた。

落として気付かれたら厄介だ。ガラスを落とさないように口に咥え、穴に手を突っ込んだボクは、跳ね上げるタイプの窓の

下にあるロックを外して、ゆっくりと引っ張って開ける。

転落防止のためか、この窓の可動域は狭い。ギリギリまで開いてもボクの腕が何とか通る程度。

ゆっくり力をかけて窓のストッパーをねじまげ、強引に全開にする。

…それでも狭いなぁ…。ユミルが調べてくれた数字上では、ボクの体も通るはずだけど…。

…心配だったから事前に巻尺で胴回り測ってみたのはナイショ…。

ボクは体を斜めにして強引に肩を入れ、壁に手を付いて抜け…。

…うっ…!?そ、そんなっ!?お腹つっかかった!?

ボクはかなり焦りながら、まずは北天不動を鞘ごと引っこ抜いて少し隙間を確保し、ジタバタもがいてなんとか窓を通り抜

ける。

窓枠にさんざん擦れた脇腹が痛い…!

幸い、ユミルが調べてくれた通り、宿泊客が入ってない部屋だったから良かったものの…、もしもあんな情けない姿を誰か

に見られてたらと思うとっ…!

…いや、個人的に恥かしい思いをするどころの騒ぎじゃない。フロントに通報されて即座に御用だ。

窓枠にお腹がつっかかって身動き取れない状況で捕まったりなんてしたら、末代までの恥っ!

いまいちしまらないけど、とりあえずホテル内部への潜入に成功したボクは、ストッパーが壊れた窓を鍵で止める形で閉め

て、絨毯が敷かれた無人の部屋を横切る。

このフロアは一般客用だ。標的が宿泊してるのは最上階…、一階分を丸々使った超最高級ビップルーム。

廊下に通じるドアへと向かったボクは、廊下を行き交うひとの気配が無い事を確認しつつ、携帯を取り出した。

「…たった今ホテル内に入った」

『そうか、まずは第一関門突破だな。が、油断はするなよ?』

ユミルへ電話越しに状況を伝え、目標達成までの予定時間を改めて伝える。

ここまでの所要時間は、最初に想定していたよりだいぶ早い。ユミルがセキュリティを無力化してくれたおかげだ。ホント

助かってる…。

『では、幸運を祈る』

「有り難う。頑張るよ」

襲撃の実行は自分ひとりの力でやるつもりだったのに、ユミルが協力してくれていると思うだけで随分心強い。

セキュリティの無効化だけじゃない。誰かが協力してくれてる、自分一人じゃない、そう感じる事で安心できる。

…一人じゃない…か…。

…ボクは…、いつからこんなに弱くなったんだろう…?

調停者に成り立てだった頃…、母さんの仇討ちという悲願達成を最優先にしていた頃は、何だって自分一人でやり遂げられ

ると思っていたのに…。

口元を歪めて自嘲しながら、ドアノブに手をかける。

耳をそばだて、防音の利いた部屋の中から廊下の気配を伺ったボクは、鍵を外してドアを押し開けた。



「けくっ?」

背後から忍び寄って首筋に手刀を打ち込むと、護衛らしい黒服の男性は小さく声を漏らし、へたり込むように崩れ落ちた。

床に倒れる前にすばやく両脇に手を入れ、後ろから支えたボクは、心の中でSPに謝る。

ごめんなさい…。なるべく手荒な事はしたくないけど、今姿を見られるのはまずいんです…。

調べて貰った通り、標的が宿泊してるフロアは警護が非常に厳重だった。

エレベーター前で三人。通路で四人気絶させてここまで進んで来た。…いや、この人で八人目だったね…。

彼らは皆、何も知らない。調停監査室長という要職に着く重要人物を、体を張って護るべく配置された守護者達だ。

…複雑…。

正義の為…。正しい事を行う者を護るために体を張っているのに…、護るべき相手は、実は…。

気絶したSPを通路の角に引っ張り込み、壁に寄りかからせて座らせたボクは、正面に屈んだまま、その顔を覗き込む。

たぶん役目に就く前に処理したんだろう、髭の剃り跡も青くなり始めてる人間男性は、三十台半ばぐらいに見える。結婚し

てても不思議じゃない年齢だ。

…正しい事をする偉い人を護っている…。

もしも子供が居れば、自分の仕事の事をそんな風に伝えているんだろうか?

そんな事を考えたら、体がカーッと熱くなった。

黒く染めた全身の毛が逆立って、息が荒くなる。

…判ってる。SPが身辺警護してるのは善人ばかりじゃない…。

口では国民の為とかのたまいながらも利権しか求めてない悪徳政治家や、大企業と癒着してる知事…。

決して善人ではないと知りながらも警護する、あるいは、しなければならないSPも居る。

…けれど、このフロアに滞在してる警護対象は、そんなのとは段違いだ…!

一般には秘匿事項案件に携わり、一般人を護る砦である調停者。それを管理するこの国の正義の要…。

でも実際には、その要が世界最悪の組織と内通してる…!

勿論、調停者が全て善人だなんて、ボクは思ってない。

お金の為に調停者をやってるひと。特例司法取引で調停者になった罪人。単に刺激を求めて調停者になる者…。

母さんを殺され、その復讐の力を付ける為に調停者としての活動を始めたボクに言えた義理は無いけど、決して善人だけが

調停者になってる訳じゃない。

…それでも、調停者は、調停機関は、監査室は、一般人を護る砦なんだ…!…それなのに…!

鳩尾の奥から込み上げる、熱くてドロリとした憎悪と憤怒…。

吐き出したい欲求に抗い、なんとか飲み下して、ボクは静かに立ち上がった…。



曲がり角からそっと小さな鏡を出し、映る景色を確認する。

長い真っ直ぐな通路の中央近辺に、壁を背にしてSPが二人立ってる。ドアの両脇を固めるようにして。

…標的は…あそこか…。

鏡をポケットに戻したボクは、静かに、ゆっくりと深呼吸した。

襲撃の成否は正確さと迅速さで決まる。

交代のSPが来れば侵入がバレるし、そうでなくとも定時連絡が途絶えれば待機している人員も動く。

モタモタしている時間はない、ここは強行突破!

角から飛び出したボクは、極端な前傾姿勢になって、絨毯が敷かれた通路を疾走した。

正面の壁を向いてたSPの片方が、視界の隅にボクの姿を捉えたのか、素早く首を巡らせた。

…禁圧…、解除っ!

リミッターを外された両脚が、ボクの体をグンと加速させる。

「何者…ぐっ!」

接近するボクにすぐさま気付いたSPは、懐に呑んだ銃を抜く前に顎先を拳で掠められ、首を傾げるようにして斜めにしな

がら呻き声を漏らす。

脳を揺らされ、懐に手を突っ込んだまま白目を剥いて、糸が切れた人形のようにその場で崩れ落ちたSPの後ろで、もう一

人がオートマチックの拳銃を引き抜いた。

出力制限を外したボクの体は、鈍重そうな太めの外見からは想像もできない加速力と機動力を発揮する。

二人目が銃を抜いた反応の良さは賞賛すべきものだったけれど、加速が十分に乗ったボクの体は、銃が構えられる前に彼の

横手に到達していた。

横を抜けながら拳銃上部のスライドに右手を被せるようにして掴み、後端までスライドさせる。

足を踏ん張って急制動をかけたボクは、引き金が動かないようにスライドを掴んだままSPのバックを取り、後ろから抱き

締める形で捕まえた。

左の脇の下から通した左手を口に当てて、大声を出せないようにしっかり押さえる。

銃口には小型のサプレッサーが付いてたけど、例え小さくても発砲音が響くのは非常にまずい。

襲撃に気付かれて標的に逃げられたら元も子もないから、一発だって撃たせる訳には行かないんだ。

くぐもった声を漏らしながらもがくSPの耳元で「ごめんなさい…」と小さく詫びて、首をコキンッと、手加減して捻る。

急に脱力したSPを床に横たわらせて、手を合わせて謝る。

…数日は首が痛むと思うけど、勘弁して下さい…。

素早く通路の両側を見回し、耳を澄まして増援が来ない事を確認したボクは、金で縁取りされた艶やかな黒いドアに向き直

り、そのノブへ手を伸ばした。



ドアを開けるなり部屋に飛び込んで身構えたボクは、豪華な客室の状況を瞬時に確認した後、正面のテーブルセットについ

ている男に視線を固定した。

髪をオールバックに整えた壮年は、アームチェアにかけてハードカバーの本を開いていた。

この時間に起きているという不自然さもさる事ながら、部屋に入って来たボクが視界に入っているにもかかわらず、目を向

けようともしないその態度に違和感を覚える。…けど、まずは最優先で状況確認。

男までの距離は10メートル程。他には誰も居ない。

男の向こうでは、左の壁に頭をつけて、大きなベッドがデンと据えてある。

広い部屋の右奥側にはクローゼットの扉。正面にはカーテンが引かれた大きな窓。

毛足の長い赤い絨毯はフカフカで、足音を完全に吸収してる。

ボクに視線を向けるどころか、椅子に座ったまま顔も上げず、本のページを捲ってるこの壮年男性こそが、監査室長、荒田

警示郎(あらたけいじろう)…。

慌てた様子も無く、依然として本を読んでいる男に、ボクは構えを解きながら声を掛けた。

「断ち切りに来た」

「何をかね?」

相変わらず本から顔を上げないまま聞き返した男に、ボクは平坦な口調で告げる。

「調停機関へのラグナロクの干渉と…、貴方の未来を」

本にしおりを挟み、男は顔を上げた。

まるでボクが来るのを予期していたように落ち着き払ってる。

しかも、ボクが捜索対象になってる事を知らないはずが無いのに、驚いたそぶりも見せず、ラグナロクとの繋がりに対して

も否定しない。

こっちへ真っ直ぐ向けられたその目に、面白がっているような微かな光を認めた瞬間、ボクは確信した。

この男は、ラグナロクに脅されて協力させられている訳じゃない。

こいつは…、こいつは…!ラグナロクの側に立っている!

「…上位調停者、神代熊斗…。アークエネミーと呼ばれていたな」

男はゆっくりと立ち上がり、本をテーブルに置いた。

「一つ訂正だ、ボクはもう調停者じゃない」

ボクが男に向かって歩き出し、その距離を半分ほどに詰めたその時、部屋の空気が揺らいだ。

背後でドアが閉じ、部屋に入ってきた黒毛の牛が、振り向いたボクの顔を無表情のまま見つめる。

次いで部屋の右奥、ウォークインクローゼットの扉が開き、白い狼が姿を現す。

…動き出すまで気配が全く感じられなかった…。二人とも相当な使い手だ。

「願ってもいなかった幸運だよ」

男はそう呟き、ボクの目を見ながら微笑する。

「捜索に引っかかり、君が知り得た情報が明るみに出る事を懸念していたが、わざわざここに来てくれた。誰にも知られず殺

されるために、わざわざ」

白い狼が男の傍らに移動し、黒い牛が一歩踏み出す。

それぞれの手には湾曲した剣、シミターが握られてる。

「病院に居る内に口封じできれば良かったのだが、何せ奥羽の闘神が傍に居たので手出しができなくてね」

なるほど…。ボクが得たバベルやラグナロクの情報が広まる事を警戒していたのか…。

それで、人知れず始末できるこの状況を歓迎してる…、そういう訳だね。

実際にはボクが事件中に得た情報なんて、大した物じゃないんだけど…。

「聞いておきたいんだけれど、貴方はいつからラグナロクに?」

男は可笑しそうに口元を綻ばせた。

「生まれた時からラグナロクさ」

男の手が上がり、顔を下から上に撫でる。

手が撫で過ぎていった後には、人間の顔が消え、獣の顔が現れている。…リス…?

「私の名はラタトスク。本物のアラタケイジロウは、五年前に死んでいるよ」

「…シェイプチェンジャー…!?」

一瞬で顔を変えた男を前に、ボクは少なからず驚いていた。

…肉体を変形させ、姿を自在に変える能力者…。

話には聞いていたけれど、実際に見たのは初めてだ…。

「本物の監査室長を殺害して、入れ替わっていた…?五年も前から!?」

「ご名答。彼が独身だったのは幸いだった。身近な者は少ない方が化けやすいのでね」

針のように鋭く尖った前歯と目が異様に大きな、愛らしさの欠片もないリスは、くっくっと噎せるようにして笑う。

「ボクが来るのをどうやって知ったの?」

気になっていた事を訊ねると、リスはかぶりを振った。

「別に知っていた訳ではないんだなぁ。この二人は常に影からガードしている。私はいつでも油断していない。ついでに言う

と、このホテル内に侵入した瞬間から、君はこの二人の感知範囲に踏み込んでいる。ただそれだけの事だ」

…なるほど、護衛の二人は感知能力者…。それも、カバーできる範囲が相当に広いタイプか…。

ボクは男の目を見据えて、念のために最後の確認をする。

「…この二人もラグナロク?」

「そうとも」

「ふ…。ふふっ…!ふふふふっ!」

ボクは顔を俯け、肩を震わせて笑う。

…なぁんだ…。心配してたけど、やっぱり全員ラグナロクかぁ…。

「はははははははは!…あぁ良かったぁ…!…それなら…」

ボクは込み上げる笑いを押し殺し、口の端をキュウッと吊り上げた。

「心置きなく、皆殺しにできる…!」

言い放ったボクの顔を見て、男は少しだけ不思議そうに眉を上げた。

その瞳に映っているのは、禍々しく、獰猛で、醜悪な笑みを浮かべている黒い熊の顔…。

込み上げる殺意と憎悪を歓迎し、両目を爛々と暗く輝かせ、口を三日月の形に開いて笑うボクの顔…。

魔王。

そんな単語が思い浮かんだ。

二年前に与えられたその二つ名は、今のボクにはいかにも似つかわしい。

「こちらも一つ訊いておこうか。私の事に…、つまり、監査室長がラグナロクと繋がっているという事にはいつから気がつい

ていた?そして、どうやって調べた?協力者が居るのかな?」

「ボクを支えているのは今でもタケシだ。全て、クリスマスの事件で気付いた彼のお手柄だよ」

ボクがある意味本当で、ある意味嘘の回答をすると、ラタトスクは満足気に頷いた。

「つまり、君さえ消せば不利な噂は流れず、私は化け直さなくても済む訳か。嬉しいよ。この役は結構気に入っていたんでね」

そう言ってラタトスクは満面の笑みを浮かべる。

ギョロつく目がちっとも笑っていない、満面の笑みを。

「やれ」

ラタトスクが発した短い声と同時に、ボクの背後で気配が動いた。

無言のまま素早く踏み込んだ牛が、右手に握ったシミターを一閃する。

見なくても、手に取るように判った。

負った深手が癒えていないボクの体は、万全には程遠い状態だ。

けれど、弱った体は生き延びる為に、その感覚を鋭敏化させている。

手負いの獣が、その警戒心を一際強くするように…。

眠りが極端に浅く、短くなる程研ぎ澄まされた感覚と警戒心が、狂熊覚醒を完全制御したあの時に得たのと同等の、毛の一

本一本がセンサーになったような危機察知能力をボクに与えていた。

お辞儀するようにして腰を折り、上体を屈める事で薙ぎ払われた刃をかわしたボクは、そのまま時計回りに身を捻り、右脚

を跳ね上げた。

後ろ回し蹴りの要領で前傾姿勢から繰り出した蹴り、その足裏が、弧を描いて横から牛の首に食らいつく。

身を捻る勢いそのままに体重をかけ、回し蹴りに巻き込み、床に踏み倒す。

首を横から踏まれる形で床に叩き付けられた牛は、首を捕らえたボクの足裏にそのまま踏みつけられ、「げうっ!」と、く

ぐもった声を漏らした。

…壊れろ…。

振り向いた格好で仁王立ちになったボクは、牛の首を踏みつけた右足を捻る。

「砕月衝・縊(さいげつしょう・くびり)…!」

ビショビショに濡れた雑巾にくるんだ枯れ枝を捻り折るような、ボギキュッという湿った音が響き、牛はビクンと体を突っ

張らせ、次いで小刻みに痙攣を始める。

首を踏み砕かれて絶命した牛から視線を外し、ボクは首を巡らせて狼を振り返った。

目の前で仲間を殺されても表情一つ変えず、狼はボクに向かって床を蹴り、斬りかかって来ていた。

速い、そして鋭さと重さを兼ねた、理想的な軌道の攻撃…。今くびり殺した牛もそうだったけど、この狼も良い腕をしてる。

…けれど、その程度じゃボクは殺せないよ…。

力場を纏わせた右手を振り向き様に振るってシミターを半ばから断ち割り、左手で狼の顔面を鷲掴みにする。

…もっと…。

力場の爪を発生させた五指を頭部に食い込ませ、しっかり捕まえたまま、狼の頭部を横手の壁に叩き付ける。

…もっと…、壊させろ…。

「落熊撃・潰(らくゆうげき・つぶし)…!」

後頭部から叩き付け、完全に壁中へ埋没させた狼の頭部を、五指の爪を弾けさせて粉々に爆砕する。

ビクンとエビ反りになって一度大きく跳ね上がった狼の右脚が、ボクの股を下から軽く蹴る。

急激な動きで、治りきっていないお腹の傷痕がトクトクと痛んだ。…けれど、動きに支障が出る程でもない。

開放された殺意が、溜め続けた憎悪が、湧き上がる破壊衝動が、他の感覚を塗り潰してる。

…心地良い…。

他に何も考えなくて良い事が、心地良くて仕方無い…。

ボクの口元は自然に歪み、勝手に笑みが浮かぶ。

どろりとした脳漿と鮮血に染まった左手を壁から引き抜いたボクは、一度腕を振るってまとわりついた物を絨毯に振り落と

しながら、ラタトスクに視線を向けた。

ギョロッとした目をさらに大きくして、彼はボクを見つめている。感心と驚嘆の入り混じった顔で。

「これほどとは思わなかった…。エインフェリア二名が秒殺とはね…。素体にしたら、どれほどの戦士が造れるか…」

感心してるような口調で呟きながら、ラタトスクはテーブルの上に置いてあったハードカバーの本の背表紙を、トンと、右

手の人差し指で軽く弾いた。

直後、プシュッという音と共に、濃い灰色の気体が本の側面から噴き出した。

瞬く間に宙に散った気体は、ラタトスクの姿を隠しつつ部屋に充満し始める。

咄嗟に目を細めて口元を覆ったボクは、その気体が催涙ガスでも毒ガスでもないと即座に察した。

…煙幕…。ただの目くらましだ。ちょっと鼻につく匂いだけど、毒性は無い。

ラタトスクがマスクなんかを着用せず、呼吸を止める為に事前に大きく息を吸う様子も見せなかった事からそう分析したけ

れど、どうやら当たってるようだ。

煙が立ち込める部屋の中、ラタトスクはその場から一歩も動いていないし、マスク等を着用する気配も無い。

目くらましを仕掛けて来ながら、逃げようとするそぶりも見せない事が解せない。

…いや…、煙の向こうで衣擦れの音がした…。ポケットに手を突っ込んでいるような…。

目くらましから不意打ち?それにしたって動作が遅い。

…ひょっとしたら、ラタトスクは潜入工作員ではあっても、戦闘経験も能力もあまり無いのかもしれない。

この部屋の空気浄化性能は高いらしく、濃い煙幕は急速に薄くなって行く。

ラタトスクのシルエットが薄っすらと見えたその瞬間、ボクは疑念を振り払い、衝動に身を任せた。

壊す…!この手で壊してやる…!

ボクは絨毯を蹴り、煙を押し退けてラタトスクとの距離を詰める。

間合いはたったの三歩で、攻撃可能な距離まで詰まった。

四歩目を踏み込むと同時に一撃叩き込むべく、力場を纏わせた左手を大きく引いた姿勢で、最後の一歩を踏み出す。

後方に引いた手は空気を掴み取るような形にして、五指を広げてる。

後は真横に振り抜いて、ラタトスクの頭部を粉砕するだけ…。

空気もろとも煙を引き裂き、ボクはラタトスクのシルエットめがけて左腕を振るった。

煙が薄くなり、相手の顔が確認でき…、

「ユウト」

その聞き馴染んだ声を耳にし、その会いたかった顔を視界に捉えた瞬間、ボクは目を見開き、喉の奥から呻くような声を漏

らしつつ、寸前で左腕を止めた。

瞬時に燐光が消えたボクの左手が、破壊する対象の寸前で静止し、震える。

艶やかな光沢のある黒い髪…。

整った顔立ちに精悍さを際立たせる切れ長の目…。

ボクの顔を映す深い黒の瞳…。

「ユウト」

彼はまたボクの名を呼んだ。整った顔に、有るか無しかの微笑を浮かべて…。

「タ…ケ…」

無意識の内に左手を引いて下ろし、ボクが震える唇から漏らしかけた掠れ声は、直後響いたプシュッという音で途切れた。

「…あ…」

お腹を棒で突かれたような衝撃に、ボクは少しよろめく。

痛い…?熱い…?

ゆっくり上げてお腹に当てた左手が、温かいものに触れた。

のろのろと視線を下に向け、広げた手を見る。

手の平は、赤く染まっていた。

染まって…何で?

血だ。ボクの血で染まってる…。

鳩尾のやや右下で、ジャケットに穴が開いて…。

「やっぱり、この顔は殴れないようだな?クマシロユウト」

タケシが、銃口から煙を上げる拳銃を握ったまま、微笑を絶やさず口を開いた。

ボクは混乱していた。

頭ではすぐに解った。これはタケシじゃない、ラタトスクだって。

けれど、身と心はそうじゃなかった。

タケシに撃たれた…。タケシの姿をして、タケシの声で話す者に撃たれた…。

その事はかなりの衝撃で、ボクを半ば放心させていた。

呆けていたボクを現実に引き戻したのは、全身に走った震えと、急激に乱れた鼓動だった。

…打ち込まれたのは…ただの銃弾じゃない…!これは…、毒…!?

込み上げる吐き気と、強烈な悪寒。

お腹を押さえ、よろめきながら二歩後退したボクに、タケシの顔をしたソイツが笑いかける。

「驚いたかな?」

顔も、声も、完全にタケシそのものになったラタトスクから、ボクは目を離せなくなった。

プシュシュッと、立て続けに銃声が響いた。

右の肩と肘の上に銃弾が潜り込み、ボクは苦痛に呻きながら、左手でお腹を押さえたまま片膝をつく。

「どうだ?会いたかったんじゃないのかな?」

…やめろ…。

「さすがの君も、相棒には拳を振るえないか」

…喋るな…。

「ベヒーモスの情報は、ラグナロク内でも最重要機密だった。私も詳しくは知らされていなくてね」

…その声で…。

「室長とすり替わって以降、不破武士の情報を得ながらも、まさか彼がそうだとは思ってもいなかったよ」

…見るな…。

「ロキがもっと早くに情報を流してくれれば、捕縛や始末する事も可能だったというのに…。つくづく惜しい」

…その顔で…。

「良かったじゃないか?最期に相棒の顔が見られて」

銃を構えるタケシの顔が、ボクに微笑みかけた。

「…もっとも、客観的に見れば、不破武士は君にとって疫病神のような存在だったな。なにせ、君を死地に向かわせたあげく、

こうしてとどめに利用された」

その瞬間、無意識の内に動いたボクの左手は、腰の北天不動を握っていた。

引き抜かれた金色の刀を、抜いた勢いそのままに、ボクの左手が投擲する。

「…え…?」

ラタトスクの口から、不思議そうな声が漏れた。

次いで、ゴポッと音を立てて、真っ赤な血が溢れ出る。

ラタトスクは目を大きくして、自分の胸を見下ろした。

根本まで突き刺さった北天不動に、ほぼ中央を完全に貫かれた胸を。

「は…、へ…?ごふっ!」

ボク自身半ば無意識の内に繰り出した、あまりにも唐突で、あまりにも速い奇襲。

自分に何が起こったか判らなかったらしいラタトスクは、口元を押さえて喀血する。

ボクは震える足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。

…殺してやる…。

…タケシを貶したな…!?

…ボクの心を汚したな…!?

…ボクにタケシを傷付けさせたな…!?

…殺してやる…。殺してやる…。殺してやるっ!

よろよろとよろめき、正座するようにしてぺたんと床にへたり込んだラタトスクは、咳き込みながらボクを見上げた。

「馬鹿…な…。げぶっ!」

撃たれた右手をだらりと下げたまま、ボクはラタトスクに歩み寄る。

彼の顔に、初めて怯えの色が浮かんだ。

「な、仲間…だろう!?こいつは…、仲…間…!」

「そう。大切な仲間だった…。大切なひとだった…。」

「こ、殺すのか…?げほっ!かつての…、仲間を…!」

「お前は、タケシじゃないから殺せる…。この手で殺してやる…」

ボクの口から出た言葉は、激情に反して静かなものだった。

言い放ったボクを見つめるラタトスクの顔が、苦痛の為だけではなくいびつに歪んだ。

「魔…王…」

眼球が転げ落ちそうな程大きく見開かれた目に、凶々とした眼光を放つ醜悪な熊の笑みが映り込む。

そう…。ボクは魔王だ。今更気付いたの?

「や、やめ…!うぶっ…!助け…て…!」

深傷のショックでなのか、それとも恐怖でなのか、ガタガタと震え出したラタトスクは、

「わ、悪かっ…た…!お、お願い…!こ、殺さ…ないでっ…!」

涙を流し、喘ぎながら、この期に及んで情けなく命乞いする。

その姿を見た途端、どす黒い感情が喉の奥からせり上がって来た。

「タケシの顔で…、タケシの声で…、そんな真似するな…」

左手をきつく握り締め、ボクは吐き出すようにして声を漏らす。

「タケシを…、侮辱するなぁああああああああああああ!!!」

思い切り振り下ろした左拳は、タケシの顔をしたラタトスクの顔面を捉え、後頭部から床に叩き付ける。

刀で串刺しになったまま、床を転がるように縦に二回転し、ラタトスクは仰向けにひっくり返った。

柔らかな絨毯を荒々しく踏み締めて歩み寄ったボクは、仰向けに倒れ、顔面を両手で押さえて咳き込んでいる彼の腰に馬乗

りになり、切っ先が床に当たってほぼ抜けかかっている北天不動の柄を、しっかりと掴んだ。

そして、刀に体重を掛け、真下へ深く突き込む。

顔がひしゃげ、意識が無くなっていたラタトスクは、瞬時に覚醒した。

「ぎぃっ!?…げぶっ!おっ…、おごはぁあああああああああああああああああああ…!」

刃が体内を通過してゆく激痛で覚醒したラタトスクは、両手が切れるのも構わず刃を握り、悲鳴のような雄叫びのような、

奇妙な声を上げた。

胴を貫く金色の刃は、床に深々と食い込み、彼を昆虫の標本のように床に縫い止める。

逃げる事もできず、息も絶え絶え。放っておいても絶命するラタトスクの体に馬乗りになったまま、

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

ボクは絶叫しながら拳を固め、左手を上げる。

「や、やめっ!ひいぃ…!」

ゴッ

「ぐぱっ!た、たすっ…」

ガッ

「がっ!ゆるし…て…!殺さ…ないで…!」

ガヅッ

「くぼ…!や…」

ゴスッ

「がふ…!」

ゴッ

「ぶ…!」

グシャッ

「…!」

ガンッ

「…」

グチャッ

ゴッ

ドンッ

パヂュッ

ドチャッ

メチャッ

ビシャッ

バチャッ

ベチュッ

ミチャッ

グチャッ

ボクの叫び声に半ばかき消さてれいる、ラタトスクの顔面に拳を叩き付ける打撃音は、やがて湿った音が混じり始め、最終

的には濡れそぼった絨毯を叩く音に変わった。

タケシの顔をしていたモノが完全に潰れて、骨混じりの肉片や脳漿が飛び散る床を、ボクはそれでも叫びながら叩き続けた。

俯くボクの鼻筋を伝って、黒い鼻の先から血溜まりの中へ、透明な雫が落ちて行く。

「あああああああああああっ!あ、あああ…っ!うあああああああああああああっ!!!」

殴るものの無くなった、ビシャビシャに濡れた絨毯へ、ボクは泣き叫びながら力任せに拳を叩きつけた。

力場も纏わせずに殴り続けた拳には、細かく砕けた頭蓋骨の破片が、いくつも食い込んでいた。

撃たれた傷より…、痛めた拳より…、心の方が…痛かった…。



満足に後始末をする余裕は無かった。

けれど、逃走ルートに血痕を残す訳には行かないし、できるだけ始末しておかないと…。

手早く止血して、返り血を持参していた殺菌洗浄スプレーで洗い落としたボクは、とりあえず自分が残した血痕だけ部屋に

あったガスライターで軽く焼き、薬品を振りかけて痕跡を誤魔化した。

ユミルのセキュリティ乗っ取りはまだ続いてる。

警備の目を盗んで二階まで降りたボクは、手頃な部屋の窓から裏庭へと飛び降り、警備の目を盗んでホテルの敷地外へ脱出

した。

重い体を引き摺って、追っ手が居ないか確認しながらホテルから離れる。

もう夜明けが近い。空はだいぶ明るんでる。

弾丸に仕込まれていた毒は、どうやらボクの致死量には至っていなかったらしい。

歩いている内に少しずつ脈拍が落ち着いて、寒気もいくらかマシになって来た。

道を行く車もまばらで、エンジン音は遠く、寂しい程少ない。歩行者の姿に至ってはゼロだ。

十分にホテルから離れ、宿泊してる安ホテルが建つ未開発の区域に戻ったところで、空きビルの裏手に回って人気の無い路

地に入ったボクは、白い砂埃が付着した壁に背を預けて、大きく息をついた。

深く呼吸をした途端に銃創がズキンと痛み、ボクはお腹を抱えて前のめりになる。

…いくら脂肪層が厚いっていっても、神経が通ってない訳じゃない。

幸いにも9パラは脂肪と筋肉が食い止めて内臓に達していないようだけど、戦闘を終えて緊張が解けたせいか、急に痛みを

増して来ていた。

全身から脂汗を滲ませながら、傷に障らないよう浅い呼吸を心がけ、ボクは携帯を取り出した。

『上手く行ったのか?』

コールの一回目で出たユミルに、ボクは「うん…」と短く応じた。

ボクから電話があった。イコール作戦は無事終了。そう判断したユミルが、

『では、奪取していたセキュリティを返しておこう』

と、カタカタとキーボードを叩く気配を電波越しに漏らしながら応じる。

ボクはユミルとおこなった事前の打ち合わせで、事が済んだら連絡を入れる事にしていた。

もしも終了予定時刻までに連絡がなければ失敗したと見なして、話し合って決めた時間でセキュリティの乗っ取りを終了し

て貰う事も含めて。

やがて、操作を終えたらしいユミルの声が、携帯を通してボクの耳に届いた。

『呼吸が荒いな…。負傷しているのか?』

「軽い怪我だよ。…勿論手当ては必要だけどね。これでも一応女なんだから、お腹に十円ハゲとかできたら困るし」

強がって笑った途端に傷が痛み、ボクは「ひゅくっ!?」と息を飲み込む。

『無理はするな。…とにかく、成功して何よりだったな』

ボクは目尻に涙を溜めながら、苦笑いしつつ「どうも」と応じる。

『それでどうだ?部分的にでも復讐を終えた気分は。いくらかでもすっきりしたのか?』

ユミルの問い掛けで、ボクはハッと息を飲んだ。

…復讐…、か…。

そう、目を背けて来たけれど、今なら認められる…。これは、復讐だったんだ…。

調停機関からラグナロクのパイプを切り離す…。

そんな、体の良い大義名分を隠れ蓑に、ボクは個人的な復讐心を満足させていたんだ。

タケシの仇討ちをしようにも、相手が居ない。

仮に無理矢理仇を探せば…、あの日、彼が護った全ての存在こそが、タケシの死因になってしまう。勿論、ボクも含めてだ。

だからボクは、復讐を果たすに適当な相手を求めた。

監査室長がラグナロクと通じていると判った時、ボクは醜悪な笑みを浮かべていた。

…あれは、歓喜の笑みだったんだ…。

復讐する相手が見つかった…。いや、憂さ晴らしに適当な相手が居てくれた…。目的とは別に、そう喜んでいたんだ…。

あの時のボクは、心が麻痺して何も感じなかったんじゃない。自分の感情に気付かないふりをしていただけなんだろう。

察しのいいユミルは、ボクのそんな心情なんてお見通しだったんだ…。

携帯を耳に当てたまま、ボクは自問する。

復讐を果たして、すっきりした?

…いや…、すっきりなんてしてない…。

満足感も、達成感もない…。虚無感だけが胸を満たしてる…。

行為の正当性以前の問題だ。憎悪に駆られて自らの満足のために拳を振るった自分に、嫌悪感を覚えてる…。

タケシを喪って以来覚え続けてる、胸にポッカリ穴が空いたような喪失感は、全く満たされてない…。

…いまさらだね…、本当に…。

「…すっきり…は…、してない…かな…」

絞り出すような声で呟いたボクに、

『まぁ、そういう物かもしれんな』

と、ユミルは深刻な感じが全くしない言葉と、いつもの平坦な口調でさらりと応じた。

そのそっけなさが、今のボクには有り難かった…。

狂熊覚醒が制御できず、暴走を繰り返していた事からも、自分の精神の奥に凶暴で残虐な面がある事は自覚してた。

そして、認めたくなくてずっと目を背けてた。

けれど、こうして自分の心の動きを思い返し、見つめてみると、やっぱりそうなんだなぁって自覚する。

あの部屋に踏み入った時には既に、殺意に、憎悪に、破壊衝動に酔いしれていた…。

タケシの声で一度は制御できた狂熊覚醒だけど、たぶん今のボクじゃ制御できないだろうな…。

…こんなにも激情を堪えられなくなってしまった上に、支えになってくれたタケシが居なくなってしまった今は…。

しばらく黙っていると、ユミルの声が電波越しに鼓膜を揺さぶった。

『これから、どうするつもりだ?』

…これから…、か…。

明るさが急激に増してきた空を仰ぎながら、ボクは考える。

具体的にはまだ決まってないんだよね…。さて、どうしよっか?

まず体を休めて傷を癒やすのは当然として…、

「そうだねぇ…、まずは…」

…あ!あった!優先的にやらなきゃいけない事が!

「まず、君に何かご馳走を作ろうかな…。何か食べたい物ある?」

口元を綻ばせながら言うと、ユミルの平坦な声が怪訝そうに少し揺れた。

『食事…?何だ、唐突に?』

「サービスのお礼。本当に助かったよ…。あそこまでして貰ったら、やっぱりタダじゃ悪いから、せめてものお返しにね…。

何かリクエストある?こう見えてね、料理は結構得意なんだ…」

ユミルは電話の向こうから『それは知っている』と答えた。

「…そんな情報まで仕入れてるの…?」

『フワから聞いていた』

意外に思ったボクにそう応じたユミルは、少し間をあけて、

『ハンバーグが食ってみたい』

と、これまた意外な事を言った。

「へ?…ハンバーグが好きなの?」

『好みのランク分けとしては普通のレベルだ。…が、クマシロが作るハンバーグは絶品だと、以前フワが言っていた』

…タケシが…、そんな事を…?

目の奥が苦しくなって、涙が溢れて来た。

鼻を啜り上げ、携帯を握ったまま腕で目を擦ったボクは、

「…うん!ハンバーグは自信ある…。美味しいの作ってあげる…!」

再び携帯を耳にあて、殊更に声を明るくしてユミルに答えた。

けりがついた事と、とりあえず次にするべき事を思いついた開放感からだろうか?張り詰めていた神経が、気が、久し振り

に弛んだ。

…だから、電話に集中していたボクは、そいつらの接近に気付けなかった…。

アスファルト舗装された道に散る、細かな砂粒や石。

それが擦れる微かな足音に気付いて振り向いたその時には、路地の直線上、12メートルと離れていない位置に、その二人

は立っていた。

「ラタトスクの正体を突き止め、殺す者が現れた事も驚きでしたが…」

慌てて壁から背を離したボクは、携帯を顔から離して二人に向き直り、その片方、声を発した相手の姿を確認して、呼吸を

止めた。

「二重に驚きました。誰がやったのかと思えば…、神代熊斗、貴女でしたか」

十歳前後に見える、灰色の髪をした少年は、ボクを興味深そうに見つめて来た。

…うそ…?まさか…、そんな…!

「…ロ…キ…!?」

ボクの口から漏れた声は、掠れて震えていた。

どういう事!?朦朧とはしていたけど、タケシと最後に言葉を交わしたあの時、バベル最上階にロキの姿は無かったはず…!

だからボクは、ロキはタケシに消し飛ばされたんだと…、タケシが勝ったんだとばかり思っていたのに…!…あの時、ロキ

は退いていただけだったの!?

ロキの斜め後ろに立っているもう一人は、灰色の馬だった。

ネイビーブルーのアサルトジャケットにズボン、黒いコンバットブーツを履いている。

上半身にはアメリカンフットボールの選手が身につけているようなプロテクターを、ジャケットの上から着用していた。

かなり大きい。背はボクより少し低いぐらいで、プロテクターを着用している事もあるだろうけれど、肩幅があって、特に

腿が異様に太い。筋肉の塊のようながっちりした体付きの重種馬だ。

鋼鉄製?艶が消されてくすんだ光を反射するプロテクターは、着用者本人と同じように灰色一色だった。

…相当できる…。

ロキの脇で鋭い眼光を放つ大柄な灰馬は、一見鈍重そうにも見える巨躯から、息が詰まりそうなプレッシャーを発散させて

いる。

無言の威圧をおこなってくる馬が、ボクを見据えながら口を開いた。

「ロキ、ここは私が…。お下がりください」

「どうやらまともに動ける状態にはないようですが…、油断は禁物ですよスレイプニル。彼女が、件の魔王です」

「は…」

灰馬が頷くと、ロキはボクの手にある携帯を見つめ、

「その電話、誰とお話中ですか?貴女に協力している方でしょうか?」

目では笑わず口元だけを微かに綻ばせる。

…まずいっ!

『クマシロ?どうした?』

ユミルの声が漏れ出た携帯を再び顔に寄せ、ボクはロキと灰色の馬を見据えたまま、短く応じた。

「…ごめん…」

『何?』

「ハンバーグ…、作ってあげられそうにないや…」

携帯を握る手に力を込め、ボクはユミルに感謝とお別れの言葉を告げる。

「ありがとう…。元気でね…」

顔から離した携帯を握り潰し、力場を形成して瞬時に爆ぜさせ、粉々に爆砕する。

携帯からユミルの存在まで辿られるのはまずい。…これ以上巻き込む訳には行かないよ…。

相手はロキ…。タケシと二人がかりでも敗北した相手だ。おまけに今回はあっちが二人組み…。

ボクは正面に立つグレーの髪の少年と、灰色の馬獣人を睨み据える。

銃弾から注ぎ込まれた毒は、いまだに体を蝕んでる。

おさまらない動悸が耳元で聞こえ、体には上手く力が入らない。

…あの別れが教えてくれた。キミがどれだけボクを大切に想ってくれていたのかを…。

だからボクは、もう少し前へ進もうと思った。キミが居なくなってしまったこの世界でも…。

託された事が、やらなくちゃいけない事が、まだ残っていたから…。

…でも…。

…ごめんね?どうやらボク、ここまでみたいだ…。

…けどね、やるべき事はちゃんとやったよ?

これでもう、東護の事件みたいな事は繰り返されないはず…。

ボクは口元に笑みを浮かべ、左腕に光を纏わせる。

ロキの前に進み出た灰馬が、少し腰を落として身構え、鋭い眼光でボクを射抜く。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉっ!!!」

声と力を振り絞り、夜明けの空に響く咆哮を上げつつ、ボクは二人に向かって地面を蹴った。

命一つを武に込めて、矢尽き刃の折れるまで。

繋いで貰ったこの道は、威風堂々踏み締める。

不恰好に前のめりになっても、最期の一歩まで!






あなたには、大切な人が居ますか?

傍に居てくれれば笑顔になれる。

一緒に居るだけで幸せな気分になれる。

手を取り合えばどんな辛い事でも乗り越えられる。

そんな人が居ますか?

もしも居るなら、決して手放さないで。

もしもまだ居ないなら、見つけられる事を願います。

ボクには、居ました。

自分の全てをあげても良い。そう思えた人が…。

その人のおかげで、最期の一歩までしっかり踏み出す事ができました。






…タケシ…。ボクね…、精一杯頑張ったよ…。