黄金色の稲妻(前編)
東護町にいくつか存在する調停事務所の一つ、カルマトライブ調停事務所。
たった二人しか存在しないチームメンバーの居宅をも兼ねる、その事務所の応接室で、
「ありがとうございます!んふふぅ〜!助かるぅ〜!」
昔懐かしい黒電話の受話器を手にした金色の熊は、嬉しそうな笑みを浮かべ、見えない通話相手に頭を下げた。
「誰からだ?」
受話器を置いた金色の熊に、所長席についている精悍な顔立ちの美青年が、新聞の地方記事を斜め読みしながら声をかけた。
「お客さんを不安にさせないよう、張れる所では見栄を張るのも大事」
そんなユウトの意見によって、招き入れられた客の目がまず向かう所長席と、もてなすための応接セットだけは、殺風景な
応接室内では浮いて見えるほど立派な物になっている。
ソファーは黒い革張りのどっしりした物で、ローテーブルも重量感のあるクラシックスタイル。
所長席も黒と灰色の落ち着いた色調で外張りが施された木目のデスクと、革張りの肘掛け椅子の組み合わせである。
サブリーダー兼事務員兼雑用係用…、つまり自分用のデスクを機能性と価格を重視してスチールデスクで済ませている辺り
からは、倹約に努めているユウトの心情が窺い知れる。
「ブルーティッシュのヤマガタさんから!仕事回して貰っちゃった!首都で警護してた相手がこっちに来るから、引継ぎして
欲しいって!勝手に受けちゃったけど、良いよね?」
「構わない。どうせ暇だ」
応じたタケシに、ユウトはやや興奮気味に歩み寄った。
「護衛対象誰だと思う!?大財閥の御曹司だよ?御曹司っ!」
「大財閥?」
新聞から顔を上げた青年に、ユウトは笑みを浮かべ、鼻息も荒くガッツポーズを取って見せる。
「うん!天下の五代財閥、鼓谷の三男だって!これでここしばらくの赤字も補填できるし、今月は阿武隈工務店にも遅れずに
ローン払えそう!」
「ほぉ…」
意気込むユウトとは対照的に、タケシは特に関心も示さず、新聞に目を戻す。
「けど、何でこんな片田舎にわざわざ来るんだろう?しかも滞在だなんて…」
「鼓谷は政府公認でレリックの研究をおこなっている。確か相楽堂とは業務提携しているはずだ」
「はぁ〜、なるほどねぇ…。っと、ヤマガタさん、護衛対象のスケジュール表をメールで送ってくれるって言ってたっけ…。
ちょっとパソコン見て来るね」
いそいそとドアに向かったユウトが応接室を出ると、タケシはふと思い出した。
かつてカズキから聞いた、五代財閥の一角に数えられる榊原財閥総帥の私宅が、この町にあるという話を。
「…榊原との商談という可能性もあるか…」
ぽつりと呟いた青年は、新聞に視線を落としながらも、遠くを見るような目つきになった。
「鼓谷と榊原の間で何らかの商談が行われると想定した場合に生じる問題点…、起こり得るトラブル…、必要な警備規模は…。
そして、妨害を働く意味のある、得をする存在は…」
青年は一人、ぶつぶつと小声で呟き続ける。
「榊原は秘匿技術に携わっていない…。そちら方面での接触ではないと仮定、総帥の三男という立場の存在が赴く事から接触
内容の重要度を推測し、地元の調停者に護衛を依頼するという、私兵を持つ財閥としては少々妙な今回の行動を鑑みれば…」
自分の手元にある情報のみを材料に、財閥の御曹司が東護を訪れる意味と、それを妨害する事で得をする可能性がある存在
について考察した青年は、
「…少ない情報から推察するに、外部からの攻撃はまず無いな」
ポツリと呟いたタケシは、新聞を捲ってテレビ欄を眺め始めた。
「危険は無い?」
「危険が無いとは言わない。外部からの襲撃を受ける可能性は低いという推測を述べただけだ」
パソコンに届いていた資料を手にして、ついでにコーヒーを淹れて戻って来たユウトに、タケシはそう告げた。
「鼓谷の三男という微妙な立場の護衛対象だが、恐らくは次代を担う息子の一人として、顔見せを兼ねての形ばかりの商談と
訪問をおこなっているといった所だろう。真に重要な商談であれば総帥か、あるいは重要なポストに就いている人物が直々に
足を運ぶか、三男に同伴して来るはずだ」
机の上に置かれたコーヒーに、バニラ風味プロテインをゴバゴバ投入しながら、タケシは続ける。
「次期総帥となる可能性が高い長男ならば、殺害する事で得がある組織や団体はいくらでもある。だが、今回の護衛対象はそ
の心配もあまりない。勿論ゼロではないが」
「ふんふん…」
ユウトはタケシのデスクの前に立ったまま、机の上にトレイを置き、自分のコーヒーにドバドバとミルクを混ぜ始める。
「鼓谷は私設部隊を擁している。それを裂かず、訪問先の地元調停者に護衛を依頼している事から、鼓谷側も危険性は低いと
見ている事が推測できる」
「なるほど…。結構気楽にこなせそうだね?首都でも特に問題は無かったみたいだし…」
「首都で何事も無かったのは、ブルーティッシュに恐れを為したとも考えられるが」
「それもそうか…。天下のダウド・グラハルト率いるブルーティッシュがついていたんじゃあ、何処も尻込みするよねぇ。…
まぁ、油断するつもりはないし、真面目に当たろう」
ユウトは表情を引き締めて頷く。
熱いコーヒーがなみなみ注がれた特大マグカップに、角砂糖をがっぱんがっぱん放り込みながら。
「あ、来た来た。あのリムジンだね」
眺めの良い川沿いのホテルの正門前で、ユウトは目の上にひさしを作った。
川に沿って走る狭い一車線道路を、黒光りする高級車が走って来る。
タケシは無言で踵を返し、ロータリーへと足を向け、ユウトもそれに倣って足を進める。
二人がロータリーに着くとほぼ同時に追いつき、速度を落とすリムジンの運転席には、小柄なレッサーパンダの姿。
「送り役、やっぱりエイルだったんだ」
ユウトは笑みを浮かべて呟く。
ブルーティッシュ所有と思われるリムジンには、多数の火器が搭載されている。
車体の至る所に仕込まれた数々の武器は、歩く火器管制装置であり、銃火器のスペシャリストであるエイルの支配下にあれ
ば、その性能を十二分に発揮できる。
一人で一部隊。一見鈍そうに見える太めのレッサーパンダは、その身に秘めた制圧能力と拠点防衛能力の高さから、同僚達
から度々そう称されている。
リムジンが停車すると、重量感のある助手席のドアが開いた。
まずリムジンを降りたのは、長身のゴールデンレトリーバーであった。
ユウトの被毛よりもやや黄味の濃い、鮮やかな黄金色の体を黒服で覆った若い犬獣人は、二人をちらりと一瞥しつつ、後部
座席のドアに手を掛ける。
開けられたドアから降りて来た男は、ゴールデンレトリーバーとは対照的に小柄で、身長に比してやけにボリュームがある、
真ん丸い体つきの狸獣人である。
身長はおそらく160まで無い。ずんぐりとした体を覆う被毛は暗灰色で、目の周りには狸らしい黒い縁取り。
頬はぷっくりと膨れており、顎にもたっぷりと肉がついている。首に至っては最早無いように見える。
身に纏ったダブルのスーツはやや濃い茶色で、派手さは無く品が良い。
が、そのスーツが何とも不似合いに感じられるのは、極端な丸顔がかなり童顔だからかもしれない。
若い狸は、女性でありながら極めて大柄なユウトの姿を目にし、その巨躯に驚いたように目を丸くしたが、それも一瞬の事
で、童顔に柔和そうな笑みを浮かべて二人にテポテポと歩み寄った。
「カルマトライブ調停事務所の方ですね?」
少し鼻にかかった高めの声を発した狸に、ユウトは腰を折って丁寧にお辞儀する。
「はい。サブリーダーの神代熊斗です。こっちがリーダーの…」
「不破武士です」
ユウトが視線を向けると、タケシも軽く会釈した。
「初めまして、鼓谷絹太(つづみやきぬた)です。お手数をおかけしますが、滞在中、よろしくお願いします」
キヌタと名乗った若い狸が、丸い体を折って深々と頭を下げると、それに倣って斜め後ろに立ったゴールデンレトリーバー
も顎を引いて会釈する。
タケシと同じく、相手の体の大半を視界に収めたままの、隙を生まない軽い会釈であった。
黒いスーツを完璧に着こなす、フサフサした黄金色の被毛が美しい犬獣人は、180センチ程の長身。
鍛えられた筋肉を纏う引き締まった体付きで、顔立ちも整ったなかなかの美丈夫であった。
おそらく二十歳前。自分より少し下であろうと、ユウトは二人の年齢を見積もる。
「羽取金示(はとりきんじ)、SPだ」
キヌタに促されてそう名乗ったゴールデンレトリーバーは「ふぅん…」と声を漏らしながら腕組みし、まずタケシを眺める。
引き締まった細身の長身。目は切れ長で顔立ちは端正だが、ハンサムと呼ぶには躊躇われる鋭さと精悍さがある。
袴を思わせる太いカーゴパンツと、体にフィットするタートルネックの長袖は、どちらも夜空を思わせる暗い濃紺。
力みは見られず、恐らくはこれで自然体なのだろうと察せられたが、凛と空気が張った隙の無い佇まいをしている。
丸腰に見えるこの青年が相当な使い手である事は、ゴールデンレトリーバーには察せられた。
無遠慮な視線でタケシを観察したキンジは、とりあえず納得したように小さく頷く。
キンジが青年に視線を向けていたのは短い時間だったが、次いで視線を向けたユウトの方は、爪先から頭の天辺まで、舐め
るようにじっくり観察した。
身に着けているのは、足首までホールドするごついシューズに、ややくすんだ白のカーゴパンツ。
水色の半袖ティーシャツはメッシュで、その上に羽織ったカーゴパンツと同色のベストは、一応防弾防刃機能を備えている
ようだが、丈が短くカバーする面積が狭い。
冗談のように大きな足はしっかりと地面を踏み締め、丸太のような脚が巨体を支えている。
腰はどっしりと太く安定感がある。その上では酒樽でも丸呑みにしたような腹が突き出し、さらにその上には分厚い胸が乗っ
ている。
女性のウエスト程も径がある、付け根から手首まで一貫して太い両腕は、丸く盛り上がった肩からぶら下がり、マフラーで
も巻いているように白いボリュームのある被毛に覆われた太い首が、金熊の頭部を支えている。
相手の姿を観察したキンジは、金熊の顔を見上げて軽く肩を竦めた。
「なんだかなぁ…。馬力はありそうだが、そんな体でまともに動けんのかい?でっけぇ姉ちゃん」
「し、失礼だよハトリ!」
「んはは〜!はっきり言うねぇ」
遠慮の無い物言いをするキンジを慌てたように口を開いたキヌタが窘めると、そこへユウトが苦笑いしながら声を重ねた。
四人が挨拶を済ませると、運転席から降りたレッサーパンダが車を回り込む。
そして、ペコリとお辞儀すると、キヌタに向かって口を開いた。
「自分が警護につくのはここまでであります。こちらのお二人は、ブルーティッシュの幹部を凌ぐ腕利きの調停者であります
ので、少人数とはいえ、警護は万全と言えるでありましょう」
無表情でそう述べるエイルに、キヌタは穏和な表情で応じ、深々と頭を下げた。
「それは頼もしいです。お世話になりましたエイル女史。皆さんにもどうぞ宜しくお伝え下さい」
(…大金持ちの坊ちゃんなのに、威張ったトコがないなぁ…。腰は低いし礼儀正しい)
名家、神代の出でありながらそれを全く笠に着ない自分も同類なのだが、その事について無自覚なユウトは、意外に思いな
がらキヌタを眺める。
(ヤなボンボンじゃなさそうで良かった)
護衛対象である以上、相手の性格に関わらず勤めは果たすつもりだったが、好感が持てるかどうかは士気にも影響する。
適度に私情を挟む分には、仕事の効率も良い意味で変わって来る物である。
「それではお二人とも、後は宜しくお願いするであります」
キヌタとの挨拶を終えたエイルがペコリとお辞儀すると、ユウトは驚いたように目を丸くした。
「え?すぐ帰っちゃうの?」
見れば、いつのまにやら離れていたレトリーバーの手によって、荷物類は全てトランクから降ろされており、リムジンはい
つでも出発できるようになっていた。
「夕刻から次の仕事が入っているでありますから、すぐに戻らなければいけないのでありますよ」
「そうなんだぁ?残念…」
「ええ、残念であります」
少し寂しげに眉尻を下げ、耳を伏せたユウトに、エイルもまた彼女にしては珍しく、耳を倒して応じる。
「暇が出来たら、首都へ遊びに来るでありますよ。自分は入館を見届けてから去るでありますからして、お構いなくチェック
インをどうぞであります」
「うん、ありがとうエイル。今度はゆっくり来られるといいねぇ」
「で、あります」
敬礼するエイルに、肩の高さに上げた手を軽く振る事で応じると、ユウトは護衛対象に視線を戻した。
「それじゃあ行きましょうかお二人さん。…タケシ?」
ユウトに目配せされると、小さく頷いたタケシは、ホテル入り口へと真っ直ぐ向かう。
荷物持ちは手伝わないのか?とでも言いたげに、ゴールデンレトリーバーは顔を顰めたが、
「荷物はボクが運びますね」
と、大きなスーツケースを二つ、軽々と小脇に挟んだユウトが声をかけると、納得したように「ふぅん…」と、小さく鼻を
鳴らす。
手ぶらの一名が先を行き、経路の安全確認と確保を行う。
後続は護衛対象から離れず、また、何かあった際には逃げられる身軽さを確保する為に本人には何も持たせず、荷物を引き
受けながら傍に控える。
二人だけという数の少なさをフォローする役割分担がきちんと為されている事を、キンジはそれとなく観察していた。
チェックインしたホテルの部屋は、それほど高級な物ではなかった。むしろ安部屋と言っても差支えが無い。
地上五階にあって川を見下ろす事ができ、対岸を望む景色はなかなかの物である。
が、寝室の他にバストイレのみ別室というその部屋は、やけに小ぢんまりしており、調度品も少ない。
荷物を運び込んだユウトは、ベッドが二つ並ぶ部屋を見回し、どうやらキヌタはSPも自分と同じ部屋に泊めるつもりでい
るらしい事を察する。
(まぁ、離れずに護衛して貰えるから、勿論その方が安全性は高いし、こっちとしても大歓迎なんだけど…。警戒が徹底して
るなぁ…)
そう内心で感心しているユウトをよそに、
「この後はすぐ、商談の為に相楽堂を訪問…、でしたか?」
タケシはキヌタに今後の予定を確認する。
「はい。早速ですが、宜しくお願いします」
むっちりした太腿に手を当て、ペコリとお辞儀したキヌタを見ながら、ユウトは微苦笑する。
(ホント、えらぶったところが全然無いなぁこの御曹司…)
護衛兼案内役となった二人が、キヌタとキンジを伴って相楽堂へ到着すると、前もって連絡を受けていた若旦那が、店先に
出て一行を迎える。
「…相楽堂は、鼓谷とは結構付き合いがあるんですか…?」
「…当店でも鼓谷さんのトコの技術は色々と活用させて頂いておりますので…。ほら、お二人のジャケットとベストの裏地も、
鼓谷由来の異種特性糸を使っているんですよ?」
小声で訊ねたユウトに、若旦那は口元に手を当ててこそっと応じる。
当のキヌタはというと、表向きの商売用に店内に陳列されている古物群を、キョロキョロと見回していた。
太い尻尾をゆさゆさと左右へ振り、耳をピクピクさせながら武者鎧などを見つめている様子には、身に纏う上品なダブルの
スーツにそぐわぬ程の子供っぽさと、童顔の丸顔に見合った少年らしさが滲んでいる。
「甲冑に興味が?」
訊ねたタケシを振り返り、キヌタは照れ臭そうに笑う。
「ゲームで影響を受けちゃったのか、戦国物が好きで…。甲冑とか、日本刀とか、好きなんです」
『ほぉ…』
同類の匂いを敏感に嗅ぎ取ったタケシと若旦那は、揃って声を漏らした。
「刀剣類にご興味がおありならば、色々と取りそろえておりま…」
「ツヅミヤさんと商談があるんですよね?わ・か・だ・ん・な」
ユウトが素早く釘を刺すと、少年のように目をキラキラさせていた若旦那は、言葉を切って咳払いし、表情を改めた。
若旦那がキヌタを促して商談の席へ向かおうとすると、タケシはユウトに歩み寄って耳打ちする。
「俺は上で入り口を張る。ユウトは中へ。何かあった場合、お前なら壁を破壊して脱出経路を確保できるだろう」
「うん、引き受けた。まぁ、壁破りは最後の手段だけどね…。若旦那が泣いちゃう」
襲撃を受ける可能性は低いと見積もっている割に、タケシには油断が全く見られない。
「ホント、頼りになるねぇ…」
「ん?」
入り口に視線を向けていたタケシは、相棒の呟きを耳にして振り返る。
ユウトは「いやこっちの話」と応じてニンマリ笑うと、若旦那に案内されて地下へ向かうキヌタとキンジの後に従った。
「企業秘密ってヤツだ。あんたは遠慮してくれや」
若旦那とキヌタが地下の一室に入ると、ゴールデンレトリーバーはそう言ってユウトを押し留め、ドアを閉めてしまった。
「まぁ、依頼内容は護衛だからね、仕事の内容にまで踏み込む権限は無いけど…」
一人通路に残されたユウトは、軽く肩を竦めると、ドアに背を向けて腕を組む。
キヌタは人当たりが良く、腰が低くて礼儀正しい。
ブルーティッシュの紹介という事もあってか、ユウトとタケシの事も信用し、警護を任せてくれている事が察せられた。
だが、キンジの方はそうでもない。
時折値踏みするような視線を、それこそあからさまに向けて来る。
SPという立場上、他所の護衛が付く事自体が面白くないのだろうと、ユウトは推測する。
(まぁ、無理も無いかなぁ…。鼓谷のSPだもん、一流の守護者っていう自負はあるだろうから…)
ドアを護るように立つユウトが、そんな事を考えつつ十分ほど見張りを務めた後、ドアは再び開いた。
思いの外早かったので、眉根を寄せて振り向いたユウトは、
「あんたも入って良いってよ」
と、ゴールデンレトリーバーに顎をしゃくられ、首を傾げた。
「社外秘を含めた商談は終わりだ。後は聞かれても問題ない話だとさ」
入れと言った割には、キンジはさっさと顔を引っ込め、ドアを閉じてしまう。
キヌタはともかく、やはりキンジにはどうにも気に入られていないらしいと実感しながら、ユウトはドアノブを掴んで室内
に足を踏み入れた。
狭い部屋で若旦那とテーブルを挟んで席に着き、首を巡らせて振り向いたキヌタが、人懐っこい笑みを浮かべてユウトを出
迎える。
「お菓子まで出して頂いちゃいました。沢山ありますから、クマシロさんとフワさんもどうかなぁって。せっかくなので、お
話を伺いながら休憩させて頂きませんか?」
ドア脇に控えたキンジは、何か言いたそうに口を開いたが、結局は「呼んで来ます」と言い残して部屋を出て行く。
「お誘い頂いて嬉しいんですけど、タケシは甘い物が苦手なんで…」
ユウトが苦笑いしながらそう言うと、若旦那は「はて?」と不思議そうな声を漏らした。
「フワさん、甘菓子も食べますよねえ?」
「え?作ってもほとんど手を付けませんよ?」
意見が食い違ったユウトと若旦那は、揃って首を傾げた。
二人の主張が食い違うのも当然である。
タケシは、普通の菓子ならば食べる。ただ、耳の裏が傷みを覚え、甘いを通り越して苦味すら感じるユウトの手作り菓子を
敬遠し、手をつけないだけであった。
この事を、この日よりしばらく経ってから知った際、ユウトはかなりヘコんだのだが、それはまた別の話。
テーブルに歩み寄って横手に回ったユウトは、白餡のモナカを手に取りながらキヌタに訊ねてみた。
「ハトリ君、ボクらの事あまり良く思っていないみたいですけど…、ボクらみたいな部外者を護衛に雇って良かったんでしょ
うか?」
訊ねるユウトの口調には、非難めいた響きは混じっていない。SPであるキンジの矜持が傷付いているのではないかとの気
遣いから出た言葉である。
「一応は、納得して貰っているので…」
缶に収まった水ようかんの蓋を開けながら応じたキヌタは、耳を伏せつつ口の中で小さく呟く。
「…ごめんなさい、クマシロさん…。フワさんも…」
罪悪感から出た、声にならないその言葉は、若旦那の耳も、ユウトの鋭い聴覚も、拾う事はできなかった。
相楽堂での商談が終わった後のスケジュールは、ほぼ観光となっていた。
漁港や海鮮市場を見物しつつ、少し早めの夕食を近くの定食屋で取る。
「意外に庶民的だな」
とは、キヌタの好みについて分析したタケシの弁である。
食事の内容もさることながら、泊まるホテルといい、借りた部屋のグレードといい、大金持ちが選ぶ物としては意外な程に
つつましい。
これにはユウトも同意見で、キンジが精算の為に傍を離れた隙に、こっそりキヌタに尋ねてみると、
「変でしょうか?ぼく、あまり高い料理を食べても美味しさが判りませんし…、豪華さを楽しめるような性格でもなくて…。
それと、貧乏性っていうのか…、出費が大きくなるのは好きじゃなくて…」
と、困ったような表情と言葉が返ってきた。
「いや、良いことだと思いますよ」
「けれど、ハトリが言うには「金は天下の回り物。金持ちこそ金を使って、周囲を潤わせるべきだ」という事らしくて…」
「言われて見ると一理あるかも…」
「ホテルなんかも、安い部屋を選ぶとあまりいい顔をしてくれません」
キンジの事を話す狸の顔が、何故か少し楽しげな物だったため、ユウトは首を傾げて疑問を口にする。
「もしかして…、ハトリ君はSPっていうだけじゃなく、ツヅミヤさんと個人的な友人関係にあるんじゃないですか?」
まん丸な狸は目もまん丸にし、ユウトの顔を見つめる。
「どうしてそう思うんですか?」
「口ぶりから、どうにも親しい友人のことを話しているような…、そんな印象を受けて…」
金色の熊の青い瞳を見上げつつ、キヌタは微笑んだ。
そして、レジで精算している長身のゴールデンレトリーバーに視線を向ける。
「…ケイジブレイカー…」
「ん?」
呟いたキヌタの横顔を見ながら、ユウトは首を傾げる。
「キンちゃ…、ハトリは、ぼくの恩人で、大切な親友です…。彼が傍に居てくれるから、ぼくは鼓谷でいる事ができる…」
穏やかで、それでいて強い意志の光を目に宿すキヌタの横顔を目にしたユウトは、その眼差しが誰かの物に似ているような
気がして、微かに眉根を寄せる。
ユウトは気付けなかったが、それは、ブルーティッシュのサブリーダー神崎猫音(かんざきねね)が、戦場に立つ時に見せ
る眼差しにも似ていた。
何があろうと、傍らに立つ者と添い遂げる。そんな覚悟を決めた眼差し。
いずれ自分も、その殉教者の眼差しを持つ者の一人になる事を、しかしこの時のユウトは知る由もなかった。