黄金色の稲妻(中編)

これが成人であればまた違うのだろうが、未成年の二人はホテルに戻るのも早かった。

午後八時にはホテルの部屋に入り、九時には入浴を済ませている。

「護衛する側としては、夜に出歩かれないのは都合が良い」

二人が宿泊している部屋の前、廊下に立った長身で美形の青年は、ドアを眺めながら口を開いた。

「それは確かにそうなんだけど…。こんなに早く部屋に引っ込んで、暇じゃないのかなぁ?」

首を傾げながら青年に応じたのは、金色の被毛が鮮やかな大熊。

キヌタとキンジが宿泊する左右の部屋をそれぞれ取ったユウトとタケシは、護衛対象の部屋の前で、簡単な打ち合わせをお

こなっていた。

「三時間程度の交代で見張ろうか。ハトリ君が同室だから大丈夫だとは思うけど、念のために廊下で張った方が良いよね?」

「了承した。零時までは俺が立つ。ユウトが先に休め」

「良いの?」

「夜更かしは美容の天敵と聞いた」

(…どのみち零時から起きるんじゃあ、夜更かしに変わりないんだけど…)

そうは思ったものの、相棒の気遣いが嬉しかったユウトは、口元を綻ばせて眼を細めた。

「んふふ〜!ありがと!じゃあお願いするね?」

ユウトが早速部屋に引っ込むと、タケシは廊下の角にあるソファーにかけ、L字型の通路を見渡せる位置から見張りを始め

た。

青年が目を光らせる中、特に何事もなく時計は進み、日付が変わる。

約束の時間より30分遅れてユウトを起こしたタケシは、

「コンビニで夜食でも買って来よう」

と、ユウトが仰天するような気配りを見せた。

「どうしたの!?変な事言い出して…!?もしかして寝ぼけてる?熱でもある!?まさか、ボクに隠れて何か変な物でも食べ

たんじゃ…!?」

「起きているし平熱だ。胃腸も問題ない」

馬鹿にしていると取られても仕方ないセリフだが、ユウトは本気でタケシを心配している。良くも悪くも。

「お前が夕食で摂取したエネルギー量は、俺の見積もりで普段の食事の七割程だった。いざという時にエナジーコートが使え

ないのでは困る」

仕事上での戦力見積もりから来た配慮であると察し、納得はしたものの若干残念な気分になるユウト。なかなか複雑である。

「じゃあタラコスパとおにぎり。おにぎりはツナマヨか鮭ね?お腹が膨れて眠くなっても困るけど…、できれば四つぐらい欲

しい。タラコがなかったらミートソースが良いなぁ。もしもパスタ無かったらカップ麺でも良いから、適当に見てくれる?」

「了承した」

廊下を歩き去っていく青年を見送り、ユウトは彼が座っていたソファーに腰を沈め、欠伸を噛み殺した。

廊下の角から周囲を見渡し、眉間を揉んで眠気を追い払っていたユウトは、ドアの一つが開いた事で、素早く立ち上がる。

護衛対象が宿泊している部屋から出てきたのは、この時間になっても黒服を着込んでいるゴールデンレトリーバーであった。

「異常無し。休んでくれてて良いよ」

ドアの前に立って左右を見回したキンジに歩み寄りつつ、ユウトはそう声をかける。

「ツヅミヤさんは?」

「ぐっすりだ」

ユウトの問いに短く応じたキンジは、腕時計に視線を落とし、それから口元を少しだけ歪めた。

その様子を見た金熊は、訝しげに首を捻る。

(なんだろ?まるで、待ち合わせている相手が遅くてそわそわしたり、いらいらしてるような…、そんな雰囲気が…)

ユウトはキンジの様子から、そんな印象を受けていた。

どうかしたのか?と問い掛けようとしたユウトは、しかし寸前で口を閉じ、僅かに腰を落として両肘を軽く曲げる。

不快な、しかし味わい慣れた不穏な空気を敏感に察知し、ユウトの首周りを覆う豊かな被毛がぶわっと逆立ったその瞬間、

周囲のドアが一斉に開いた。

黒い布で頭部と口周りを覆い隠し、目だけを覗かせた黒装束の男達が、周囲の客室のドアから、ぬるりと、流れるタールを

思わせる滑らかな動きで、音もなく廊下に滑り出る。

忍者を連想させるいでたちの男達は、手に手に警棒のような物を握っていた。

廊下の両側から挟まれる格好になったユウトは、軽く顔を顰め、小さく鼻を鳴らす。

この階に宿泊している客の事はタケシが調べていたが、いささか油断があった事は否めない。

空き部屋が殆どで、怪しい宿泊客は居なかったのだが、どうやらその空き部屋に侵入し、身を潜めていたらしい。

タケシが夜食を買いに行くなどと気を回したのも珍しい偶然ならば、ホテルを離れたのも偶然。

起きていたキンジがこのタイミングで廊下に出たのも偶然。

そして、密かに機会を窺っていた襲撃者達がこのタイミングで行動を起こしたのもまた、偶然であった。

重なり合った偶然の中、ユウトとキンジは素早く目配せし合った。

「任せて」

大熊の言葉に、キンジは声では応じず目礼だけで応じてドアに飛び込み、ユウトはその前に立ちはだかる。

「珍しくタケシの推測が外れたね…。けど、高額の報酬貰っちゃってるし、きっちり仕事しますとも…!」

通路の幅は約七メートル。十分な広さがある事に感謝しつつ、金色の熊は踏ん張った足に力を込めた。



「ん〜…?キンちゃあん…、どうしたのぉ…?」

ベッドの上で身を起こしたキヌタは、音高くドアを閉めて飛び込んできたキンジを見遣り、寝ぼけた顔で目を擦る。

寝相が悪いらしく、蹴りやられたらしい掛け布団は足下で重なっており、ガウンは胸元が大きくはだけ、弛んだ胸と突き出

た腹が覗いている。

「客だ」

短く応じたキンジは、ベッドに歩み寄るなり、ぼーっとしているキヌタの胸元を直してやりつつ、ベッドの下に手を入れた。

そして、隠していた鞄から掴み出した金属の塊を、キヌタの手を引っ張って握らせた。

ずしりとしたそれの重みを手に感じ、キヌタの目がぱっと大きくなり、顔がみるみる強ばる。

「…き、来たの?」

「ああ。十六だ」

「じゅうろく…、そんな…!?予想よりずっと多い…!」

三点バースト機能が搭載された自動拳銃をキヌタに握らせたキンジは、シャワールームの扉に向かって顎をしゃくった。

「念のためだ。そいつ持って隠れてな」

「ま、待ってキンちゃん!ごめん!ぼくが浅はかだった…!そんなに多く送られてくるなんて思ってなかったから…!」

「問題ねぇ。ってかもうどの道やるしかねーし、後悔したっておせーしな」

「ま、待ってキンちゃん!無謀だった!やっぱり今回は逃げよう!?フワさんとクマシロさんにも言って…んむっ!?」

自分の鼻をぐいっと押して来た人差し指に視線を向け、キヌタはビックリした顔で寄り目になる。

「仕事中だぜ。今は「ハトリ」…だろ?毎回言ってるが、その辺はプライベートとキッチリ分けろ。示しが付かねーからな」

キンジはキヌタにそう言い含めると、鼻に突きつけた指を離して踵を返す。

「…キンちゃんだって、言葉遣いが戻ってるじゃない…」

「悪いがこいつは勘弁だな。血が滾るとどうも、よ…」

キヌタに背を向けたまま応じたキンジは、不敵な笑みを浮かべつつ、懐に手を突っ込んで黒いグローブを取り出す。

「たかだか十六人…。おれ一人でも釣りが出らぁ。あのでっけぇ姉ちゃん、体型見るにかなり鈍重そうだしな、おれが頑張っ

てやんねーと」

バイク乗りが填めるような、分厚くゴツいグローブを両手に装着したゴールデンレトリーバーの顔に、獰猛さを湛えた表情

が浮かぶ。

「さぁてと…、一暴れ行くか…」



金色の豪腕が唸りを上げ、黒布に覆われた男の顔面を鷲掴みにした。

男の手に握られている表面からスパークを散らすロッドは、反射的に突き出されたものの、身を捌きつつ腕を伸ばしたユウ

トの体には触れもせず、簡単に捕らえられていた。

「ぃよいしょおぉぉぉぉぉおっ!」

声を上げつつ伸びた腕を取り、顔面と手首の二点で捕まえたユウトは、そのまま男の体を強引に引き付けて振り、後方から

詰め寄ろうとしていた男達目がけて放り投げる。

仲間を投げ込まれ、ぶつかり、何人かが将棋倒しに倒れ伏す。

が、常識離れした膂力を見せつけつつも、ユウトは追撃に向かわない。否、向かえない。

敵は二方向から攻めて来るが、護りの手は自分一人。防衛の為にはドアの前に留まる必要があり、うかつに動けない状態で

ある。

身を隠すべき場所もない位置で足をとめ、二方向から向かって来る十六名を迎え撃つ…。

本来であれば圧倒的に不利な状況なのだが、ユウトにしてみれば、遥か格下の相手をあしらうだけの戦いであった。

(銃でも持ち出されたらこうは行かないんだけど…、隠密行動最優先?スタンガンやロッドしか持ち合わせてないみたいだ…。

刃物すら抜いてないけど、これってひょっとして…)

前後の敵を牽制し、腰を落として四股でも踏むようにズシンと震脚しつつ、ユウトは頭を巡らせた。

(目的は、御曹司の拉致…かな?)

金熊はそう仮定し、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

(身代金か、それとも交渉材料か、はたまた脅しか…。何が目的かは判らないけれど、ツヅミヤさんを傷つける事は避けたい

らしいね。危害を加えないように扱いたいっていう行動方針はまぁ良いとして…)

「面白くねーなぁ…」

心の内を読んだような声が脇から聞こえ、ユウトは視線だけ横に向ける。

ドアを押し開けて出てきたハトリは、グローブを填めた手をわきわきと動かしてから、ギギュッと音を立てさせて、拳をき

つく握り込む。

「地元や首都じゃあ事を起こす度胸もねーのに、最低限の護衛で出向いた先には、これ幸いと食らい付く。コソコソしやがっ

てよ…。堂々とやる度胸もねーんなら、ハナっから黙ってりゃ良いのにな…」

ゴールデンレトリーバーはユウトの脇に並ぶと、彼女とは逆方向を向いた。そして、

「ま、願ったり叶ったりだ。おめぇらの雇い主が「どっちなのか」、ゲロって貰うぜ?」

口の両端を不意に吊り上げ、端正な顔に獰猛な笑いを張り付かせると、黒い革靴で床を蹴り、素早く前へ出た。

その一歩は、跳ぶ気配を察したユウトが、思わず振り向いてしまう程の物であった。

四足歩行の獣が獲物に飛びかかるような、極端な前傾姿勢になっての、たったの一歩。

その静止状態からの一足飛びで6メートルの間合いを半分消し、二歩目でさらに加速したキンジは、拳を固めながら男の一

人に肉薄する。

反射的にロッドを繰り出した男は、しかしその時点で致命的な失策を犯していた。

キンジの動きは、ひとの平均的な駆動力を遙かに上回っており、しかもその機動力は完全に制御されている。

この戦速を持つ相手へ、正面から向き合った状態で反撃を試みるには、男の戦闘技術も反応速度も、最低限必要とされるラ

インには達していない。

キンジは軽くステップを踏んで上体を反らし、胸元を掠らせる程度の最小限の動きで電磁ロッドを避ける。

そのままロッドを振り抜いて伸び切った相手の右腕を取り、体を入れ替えつつ、捕らえた腕を背中に回して捻り上げる。

キンジの鮮やかな金色の被毛が、その流麗かつ迅速な動きに合わせて揺れる。

肩と肘、手首を同時に極めたキンジは、相手のふくらはぎを踏みつけるようにして靴底で蹴った。

「ぎゃああああああっ!?」

足首が可動域を超え、負荷で関節が軋み、堪らず片膝をついた男が絶叫を上げる。

体を崩されたその時には、肩関節が外され、ロッドを取り上げられていた。

男の悲鳴は長くは続かなかった。肩を押さえて前屈みになった男の後頭部に、キンジの組んだ両手が振り下ろされ、昏倒さ

せる。

男が反撃に出てから昏倒するまで、三秒と経ってはいなかった。

清流の優雅さと、稲妻の暴力性が同居する、激しくも正確な動き。

このゴールデンレトリーバーの外見と内面を象徴するような戦闘スタイルを目にしたユウトは、口をすぼめて感嘆したよう

に口笛を鳴らす。

「システマ?」

訊ねたユウトに視線を向け、キンジは眉を片方だけ上げる。

「へぇ、判んのかい?」

応じたキンジが跳ね上げた右足が、横手から特殊警棒を腰溜めにして突きかかって来た男の顎を、金属のプレートが埋まっ

たブーツの固い爪先で粉砕する。

「徒手空拳にはそこそこ詳しいから。けれど、キミのはちょっと違う…、足のスタンスや踏み込み、捌きや打撃手法は空手に

近いかも」

そう感想を述べるユウトの右手は、電磁ロッドを振り下ろした相手の手首を捉え、踏み込んできた勢いそのままに斜め下へ

誘導、足を引っ掛けて一回転させ、背中から床に叩きつけている。

「まーな、ガキの頃から空手やってたから。そこに御頭…、まぁ鼓谷の私兵のリーダーな。そのひと仕込みのシステマを加え

てる。いわゆるミックスビルドだ」

「へぇ。その腕じゃあ、空手の大会なんか総なめだったんじゃない?」

「だめだめ。一般人相手に本気になるなって、御頭に言われててよ。高校まで空手部に居たけど、稽古も試合も程よく手抜き

しっぱなしで、つまんねーから幽霊部員。あんまり目立つ訳にも行かねーから、大会だって適当なところでわざと負けるよう

にしてよ」

二人は会話をしながらも息を全く乱さず、襲い来る男達を蹴散らしてゆく。素早く、危険で、力強い。その様子はまるで、

黄金色の稲妻が通路を跳ね回っているかのようであった。

程無く襲撃者達は、この二人が規格外の怪物である事を認めた。

しかし、そう認めた時には、既に何もかもが手遅れであった。

十六人の内十三人が地に伏し、一人はレトリーバーに右腕を取られて地面に引き摺り倒され、腕を捻りあげるようにして背

に回され、肩を極められている。

「暴れんなよ?あとあんまり騒がねー方がいいぜ?こう見えておれぁドSでな、下手に動いたり騒いだりすると…、興奮と嬉

しさでこのままボキンとやっちまうぜ?」

獰猛な笑みを浮かべつつ、優しいとすら言える声音で恫喝するキンジの眼光を受け、組み敷かれた男は顔を蒼白にする。

何かがおかしかった。

確かに獣人は人間と比べて身体能力に恵まれており、単純に筋力だけ比較しても上回る。

しかし、このゴールデンレトリーバーの腕力は、その体格に比してあまりにも高過ぎる。

若いゴールデンレトリーバーに押さえつけられた男は、得体の知れない存在を見るような怯えを、その瞳に浮かべていた。

一方、残る二人の襲撃者は、ゆっくりと、そして無造作な足取りで歩み寄る金色の熊の巨体から目が離せない。

「警告するよ?速やかに武装解除して投降して下さい。大人しくしてくれるなら手荒な真似はしません。けど、まだやるって

いうなら…」

胸の前に上げた両手を組み、パキポキッと指を鳴らしたユウトは、ニッコリと笑う。

「力ずくで大人しくさせなきゃいけなくなるから、そのつもりで」

笑顔の降伏勧告を受け入れた男達は、大人しく武器を捨てた。



男達を壁際に整列させて縛り上げ終え、パンパンと手を叩いて埃を払っているユウトに、「やるもんだ…」と、感心したそ

ぶりで呟きながら、キンジが歩み寄った。

「見直したぜ、でっけぇ姉ちゃん。あんた相当なもんだなぁ」

そう声をかけたゴールデンレトリーバーの目には、先程までユウトに向けていた、軽んじるような光はない。

それどころか、笑みさえ浮かべているキンジの口調には、楽しげな調子すらあった。

「昼間に言ったシツレーな言葉は全部取り消すぜ。頼りになる護衛が来てくれて助かった」

「それはどうも。ボクもたまげたよ」

ユウトは口元を綻ばせつつも、興味深そうにキンジの目を覗き込む。

「キミ、禁圧解除が出来るんだね?」

「お?判んのかい?」

キンジは少し驚いたように眉を上げると、ユウトの顔を覗う。

金熊が「ボクもできるから」と応じると、

「なるほどな。けど、おれの場合はちょいと事情が違う」

キンジはそう言って、人差し指で自分のこめかみをトントンと叩いた。

「おれぁ生まれつきココがイカレてんだ。御頭の話じゃあ、リミッターが六割も働いてねーらしい。つまり、禁圧を解除して

んじゃなくて、かかってる禁圧自体が最初から弱ぇんだなこれが」

先天的に禁圧が半解除されている。キンジからそう説明されたユウトは、納得して大きく頷く。

「日常生活も大変だったんじゃない?そういう体質だと…」

「まーな。興奮するとついつい加減忘れちまうし。けどまぁ役には立ててたぜ?…200キロはある後輩を無理矢理押さえ付

けたりとかよ…」

キンジは意味不明な発言をしてニヤリと笑い、ユウトは首を傾げる。

「まぁ、それはそれとして…。悪かったな…」

「んはは!気にしてないよ」

キンジは少しばかり顔を曇らせ、笑みを浮かべているユウトの顔を見つめる。

「いや、今の「悪かった」は、おれがあんたに言っちまった事にじゃなくてだな…、この依頼の…」

キンジは言葉を切り、ユウトと同時に首を巡らせる。どこかでガラスが割れる音が耳に届いて。

顔色を無くしながら部屋の前へ駆け戻ったキンジは、ドアを勢い良く開ける。

「キヌタぁっ!」

室内に飛び込むなり大声で叫んだキンジの目に、黒ずくめの男三人の姿が、そして、その内の一人に後ろから羽交い締めに

されているキヌタの姿が映った。

口元に布を当てられ、フガフガと呻き声を漏らしながら暴れているキヌタの足下には、先程キンジが握らせた自動拳銃が転

がっている。

「何で使わねーんだよ…、このバカ…!」

床に落ちている拳銃に安全装置がかけられたままである事に気付き、キンジは鼻面に深い皺を刻みつつ、苦々しげに吐き捨

てた。

薬でも染み込ませてあったのか、苦しげにもがいていたキヌタは、徐々に動きを鈍らせ、半眼になる。

「…キヌタを放しやがれっ…!」

ドスの利いた低い声を発したキンジだったが、キヌタが捕らえられている以上下手に動けない。

キンジの背後に立つユウトは、肩の高さで拳を大きく引き、雷音破の体勢に入っているが、キヌタが盾にされている為、光

弾を放てずに歯噛みする。

兄の物と違い、ユウトは射出後の操作ができる域に達していない。

その上、微細な加減が利かず、熱はともかく衝撃は着弾点から四方に伝播する。

撃ってしまえば確実にキヌタを巻き込む。

拉致されるより多少の怪我の方がマシだという事は判るが、自らの手でキヌタを傷つけるという行為その物に、ユウトは強

い抵抗を感じている。

為す術無いキンジと、甘さ故に詰められないユウト。

動けない二人を警戒しつつ、三人の男は破った窓からホテルの外壁へ、そこに垂らされた脱出用のワイヤーへと取り付く。

下手に手を出してキヌタを落とされてはかなわない。

黙って見送るしか無かったキンジは、男達が窓枠の下へと消えてすぐに窓に取り付き、下を覗く。

昇降装置を使っているのだろう、男達の体は一定の速度で、ホテルの敷地外にある神社の境内、その雑木林へ斜めに張られ

た3本のワイヤーを滑走してゆく。

ワイヤーを外してしまえば落下は免れないが、人質が居る以上その手は使えない。

手出しできない状況が続き、喉の奥で唸りながら凄まじい形相を浮かべたハトリの背後で、ユウトは携帯を手に取った。

コールする事1.5回。いつもながら素早く呼び出しに応じたタケシは、

『ユウト。タラコスパゲッティは無かっ…』

「ツヅミヤさんがさらわれた!相手は確認できただけで三人!ホテルから神社側に張ったワイヤーを伝って逃走!」

『了解。直ちに阻止へ向かう』

ユウトの状況説明を受けると、慌てた様子もなく短く応じ、通話を切る。

「タケシが直接阻止に向かう。ボクらも急ごう!」

「あ、ああっ…!ならワイヤーを伝って…」

応じたキンジは窓枠に足をかけたが、苛立たしげにかぶりを振る。

「…いやダメか!こいつで追っても固定具外されんのがオチだな…」

憤怒の形相を浮かべながらも、キンジの頭は冴えており、判断力はいささかも損なわれていない。

「廊下の突き当たりに非常階段がある。あそこから行くのが比較的近道だろうね」

踵を返してドアに向かったユウトは、廊下に出るなり屈伸するように身を屈めた。

左右から同時に振るわれた警棒をかわしたユウトは、左右へと腕を広げて襲撃者の鳩尾に手の平を叩き込む。

打開で反撃して二人同時に弾き飛ばし、昏倒させたユウトは、緊縛が解かれた十六名と、新たに姿を見せた四名を加えた、

総勢二十名の黒ずくめ達を見回す。

ユウトに続いて廊下に出たキンジは、苛立ちを隠そうともせずに舌打ちし、鼻面に深い皺を刻んだ。

「ボクが道を開くよ」

ユウトが囁くと、キンジは戸惑うような視線を大熊に向ける。

「良い?選択の余地は無い。ここはボクが引き受ける。突破口を作るから振り返らずに駆け抜けて」

言い終えるが早いか、ユウトは通路の左右に展開する男達の一方、非常階段側へと走り込んだ。

「禁圧解除っ!」

前傾姿勢になった金色の両脚が、その巨躯の重量を物ともせず、爆発的な加速を見せる。

先程のキンジ以上、反応すらさせずに先頭の男との間合いを詰めたユウトは、その胸に並べた手の平を押し当てる。

「熊咆撃(ゆうほうげき)!」

加速をつけ、体重を乗せた双掌の一撃。

相手の体を破壊し過ぎないよう、ギリギリの加減で繰り出されてはいたが、ユウトの分厚く広い両手は、それでも男の肋骨

を数本へし折りつつ、くの字にして弾き飛ばす。

床を踏み締めて急停止をかけたユウトの前から弾かれた男の体は、吹き飛んだ方向に居た数名を巻き込み、薙ぎ倒した。

「行って!」

「恩に着るぜ!」

ユウトが短く叫ぶと、その背後へ僅かに遅れて駆け込んでいたキンジが声を上げた。

膝裏を伸ばして伸脚するような姿勢で身を低くしている大熊の肩を、跳躍したゴールデンレトリーバーの靴裏が蹴る。

走り幅跳びの踏み切り板よりよほどしっかりした足場、ユウトの頑強な肩をカタパルトにし、キンジは飛んだ。

崩れた男達の上、天井すれすれを弾丸のように飛び、ゴールデンレトリーバーは見事に床を踏み、着地した。

囲みを突破したキンジは、刹那の間すら静止せず、大跳躍の勢いそのままに廊下を駆け抜ける。

呆気に取られていた男達の内数名が、我に返ってキンジを追おうとしたが、

「ゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオウッ!!!」

金色の大熊が獣そのものの大咆吼を発した事で、身を竦ませて動きを止める。

「悪いけど追わせないよ。その代わりと言っちゃなんだけど、ボクが付き合うから勘弁してよね?」



バーのカウンターに、二人の男が並んで座っていた。

片や水割り、片やビールをグラスで飲んでいる二人は、双方獣人である。

一方は犬獣人、がっしりしたアラスカンマラミュートで、もう一方は樽を思わせる体躯の白い熊であった。

マラミュートの方は三十代前半と思われ、黒いスーツを纏っている。

全身を覆うフサフサした豊かな被毛は、白とメタリックグレーのツートンカラー。

相当鍛え込んであるらしく、肩幅が広く、がっしりした体付きをしている。

顔つきは精悍だが、風貌に反して穏やかで優しげな藍色の目と、絶えず口元を微かに緩ませている人懐っこそうな表情が、

鋭さよりも愛嬌を強く感じさせた。

熊の方は、人間と比較すれば大柄だが、熊族としては平均レベルの体躯。

こちらは焦茶色のトレーナーに、クリーム色の綿パンを身に付けたラフな格好。

身を覆う毛は白いが北極熊ではない。全身が白く、月輪を持たない、ミナシロと呼ばれるツキノワグマである。

彼の場合はアルビノ個体で、両の瞳は赤く、白い体との対比で鮮やかに映える。

年の頃は四十代半ばから後半と思われ、中年太りかビール腹なのか、ぼっこりとまん丸く張って突き出た太鼓腹をしている。

他に客の居ない、中年の域をいささか過ぎた寡黙なマスターが一人で切り盛りするそのバーで、二人は酒を飲み、タバコを

くゆらせながら、飽きることなく三時間以上も語り合っている。

関係を尋ねもしなかった寡黙なマスターは、時折顔を見せる熊の方はともかく、マラミュートの事は知らなかった。

が、会話の内容が昔の話であったり、互いの近況であったりしている事から、二人が古馴染みであり、久々にこうして顔を

合わせたのだという事は察している。

「あ、ちょいと失礼しやすぜぃ…」

マラミュートは会話を途中で打ち切ると、ズボンのポケットから携帯を取り出し、モニターを覗く。

その傍らで縁に泡の残るグラスを傾け、半分ほどになっていたビールを飲み下すと、白い熊は「用事が入ったかのぉ?」と

マラミュートに尋ねる。

「そのようでさぁ。すいやせんが、今夜はこの辺でおいとまさせて貰いやす」

打ち合わせ通りに届いたワン切りの着信履歴を眺めながら、マラミュートは間延びした口調でそう応じ、腰を上げた。

その横で同じく立ち上がった白い熊が、「マスター、お愛想よろしゅう」と、カウンターの向こうへのんびりした低い声を

かける。

「ゆっくりして行ったらいいじゃありやせんか?」

「いやいや、今夜はもう十分飲んだけぇの。それに、一人で飲むのも味けなかとよ」

二人とも、やや訛りが耳に付く言葉遣いだが、どちらもこの辺りの訛りではない。

今はこの街に住んでいる熊も、旅行者であるマラミュートも、地元は遠く離れた土地である。

「せっかく休み取ったんじゃけぇ、今夜はとことん付きおうたるでなぁ。ちと外で待っとるとよ、シオン」

「すいやせんねぇ…。なら明日、飯でも奢らせて頂きやしょう」

人懐っこい笑みを浮かべて頭を下げたマラミュートは、財布を取り出して支払いをしている白い熊を残し、ドアを潜って外

へ出ると、

「坊ちゃんからじゃあなくキンジの野郎からたぁ、穏やかじゃあねぇなぁ…。ヘマぁ踏んでなきゃあいいんだがねぇ…」

と、夜空を見上げた顔をやや厳しいものに変え、誰にともなく呟いた。