次代を担う者達へ(後編)

榊原邸敷地内、屋敷裏手のこぢんまりとした駐車場では、タケシとドッカーがジープの脇で待機していた。

「榊原の旦那の顔、本当に見とかんでも良かったんかの?」

ロングサイズのタバコを咥えた白い熊が、のんびりとした口調で傍らのタケシに尋ねる。

興味があるなら榊原財閥総帥との面談に同席しても構わない。

キヌタとシオンはそう言ったのだが、タケシはこれを辞退していた。

「商談内容について知る必要は無い。むしろ彼ら本来の立場からすれば、部外者である俺に商談の中身を知られて有利になる

ような事は無い」

「不利になる内容だったら、そもそも誘っとらんでよ?」

淡々と述べたタケシに応じると、器用に煙を輪っかにして吐き出したドッカーは、目尻に皺を作って柔和な笑みを浮かべる。

この青年なりに自分の立場をわきまえ、気を利かせたのだろうと考えると、以前に比べて格段に人間味が増してきたものだ

と実感できた。

やがて、屋敷を回り込んで裏庭に至る、正面玄関から続く石畳が敷かれた歩道を、面会を終えたキヌタとシオンが並んで歩

いて来ると、二人は雑談を中断した。

「商談は、上手く行ったんかのぉ?」

タバコを携帯灰皿に押し込みながらドッカーが問うと、キヌタは首を横に振る。

「実は…、ぼくにとってはともかく、あちらにとっては商談と呼べるほど重要な物じゃなかったんですよ。こっちの顔を覚え

て貰うのと、手持ちの古美術品にレリックが含まれていないか、サービスで調査するのが目的だったので」

そう応じたキヌタは、「でも…」と小さく付け足し、顔を弛ませる。

「仕入れた骨董品等のチェックに、ツヅミヤ製の探知機を使って頂ける事になったので、上手く行ったといえば、そうなのか

もしれません」

「そうか。そりゃあ良かったのぉ」

若いキヌタは、ドッカーから見れば子供も同然の歳である。

大物相手にどうやらきちんと勤めを果たしたらしい狸を、白い熊は柔らかな笑みで労った。

「榊原のトップ…、どんな男なのか…」

相手の立場をおもんばかり、一度申し出を断りはしたものの、それでもやはり少し興味はあったのか、タケシが誰に尋ねる

でもなく呟くと、

「えぇと…、そうですね…」

キヌタは視線を上方へ泳がせつつ、眼鏡をかけた穏やかで知的な顔立ちの商談相手を思い出し、微笑みを浮かべて応じた。

「とても感じが良い方でしたよ?礼儀正しくて、優しそうで…。紳士的です」

その隣で、シオンは微妙な表情を浮かべつつ首を捻り、口を開いた。

「何てぇ言やぁ良いのか…、こう、キヌタ坊ちゃんと似た感じの匂いがしやしたね…。やけに腰が低くて、気さくでやす…。

五代財閥の中で一番若ぇ総帥でやすが、いやぁ、ある意味変わりもんでさぁ」

マラミュートは広い肩を竦めて見せると、タケシを見遣る。

「フワの兄さんは、ウチ以外の財閥と関わった経験はおありでやすか?」

タケシは「いや」と短く応じ、僅かに間を開けてから付け足した。

「例え以前会っていたとしても、覚えていない」

青年の奇妙な返答で、胡乱げな表情を浮かべるシオンとキヌタ。

「俺には、ここ数年分しか記憶が無い」

タケシがそう告げると、困惑した表情で顔を見合わせた狸とマラミュートに、ドッカーが話しかける。

「タケシは記憶喪失じゃけぇの。名前以外は何も思い出せん状態で、この街の海辺に流れ着いとったんじゃ」

「流れ着いた?」

シオンは声を上げ、キヌタは目をまん丸にして青年を見遣る。

「気がついたら、岸辺のテトラポットに引っかかっていた。その後…まぁ、色々あって監査官に保護された。今に至っても相

変わらず、以前の自分が何者だったのかは判らないままだ」

面倒なのか、それとも話す必要は無いと感じたのか、その夜出くわした密売組織との交戦の事は省いて説明したタケシに、

キヌタは同情するような目を向けた。

「それじゃあ、色々大変だったでしょうに…」

「かもしれない。が、自覚は無い。昔を知らない俺には現在しか無い。おそらくはそのせいで、「こういう物だろう」という

意識しか無かった」

「手ぶらは強いのぉ…。比較するもんが無いおかげで、困難を困難とも思わんらしいんじゃ」

淡々と応じたタケシの後を、ドッカーがウンウンと頷きながら引き取った。

「用事が済んだのならば、そろそろ戻ろう」

雑談は終わりだとばかりにタケシが促すと、シオンは腕時計を確認して頷く。

「でやすね。少々予定よりちと早ぇもんの…、坊ちゃんも疲れてらっしゃる事でございやしょうし、とっとと引き上げやすか」

シオンはキヌタをジープの後部座席に乗せると、自分も反対側に回って乗り込む。

その様子を眺めながら、白い熊はぼそりと呟いた。

「…もう、あれから三年と少し経つのぉ…。相変わらず何も思い出せんままじゃが…」

「ああ。だが…」

頷いたタケシは、一度言葉を切ると、微かな笑みを浮かべて続ける。

「…最近は、時折こうも思う。このまま記憶が戻らなくとも、問題は無いのかもしれないと…」

青年の顔を眺めながら、ドッカーは目を丸くし、次いでニンマリと笑みを浮べた。

タケシは随分と変わった。白い熊はそう感じている。

ユウトとチームを組んだ前後の時期から、タケシは以前と比べれば感情の変化を見せるようになって来ていた。

相変わらず表情に乏しく、感情が判り易く表に出る事は殆ど無いが、それでも三年前、カズキに保護された直後と比べれば、

格段に人間味が増している。

(お嬢ちゃんとチーム組んだのは、正解じゃったでよぉタケシ)

胸の内で呟いたドッカーが運転席に乗り込み、タケシもまた助手席につく。

四人を乗せたジープは、あまり広くない駐車場内でゆっくりと向きを変えると、裏門目指して進み始めた。



「戻ったぞ」

「おかえり〜」

事務所側から上がって来たタケシが、リビングのドアを開けて顔を出すと、キンジと並んでソファーにかけていたユウトは、

顔を綻ばせて腰を浮かせた。

「ただいま戻りました」

「お待たせでやす」

次いで部屋に入ったキヌタとシオンが口を開くと、キンジは顎を引いて頷き、口を開く。

「首尾は?」

「上々、かな?」

キヌタがそう応じると、ゴールデンレトリーバーはアラスカンマラミュートへ確認するような視線を向ける。

「間違いなく好印象を与えてるぜぃ。坊ちゃんはきっちりお務めを果たされた。誰かさんと違ってよ」

シオンが意地悪くニヤリと笑い、キンジは露骨に顔を顰める。

「惜しかったねぇ…。ついさっきまでゲンゴロウさんが来てたんだけど…」

「頭領が?」

手を差し伸べてタケシから上着を受け取ると、ユウトは耳を倒して笑い、他の三人に聞こえないよう、声を潜めて囁く。

「…何かに使って無くなる前に、貰った前金で遅れ気味のローン分を支払っちゃおうと思ってね。連絡とったら、仕事の合間

をぬってわざわざ来てくれたんだ」

いやに手回しが良いユウトの支払い行為に、タケシはやや残念そうな顔をした。

「刀は買わないよ?今はそんな余裕無いからね?」

「…判っている…」

即座に釘を刺され、短く応じるタケシ。

この事務所においてリーダーは確かにタケシなのだが、会計を受け持ち、財布を握っているのはユウトである。

折れれば別だが、許可なく刀を購入する事は許されない。

タケシにとって日本刀の蒐集は最大の趣味なのだが、ユウトにしてみればローンの支払いが滞る内は控えて貰いたい、とに

かく金のかかる娯楽である。

「ところで、ドッカーさんは?」

同行していたはずの白い熊の姿が見えないため、気になって訊ねたユウトにシオンが応じる。

「送迎だけお願いしてやしたからね、用事もあるってんで、事務所であっしらを降ろして帰りやしたぜぃ」

「ありゃ残念。寄っていくとばかり思ってたから、はらこ飯たくさん作ったのに…」

「はらこ飯?」

不思議そうに首を傾げたキヌタに、ユウトが好意で作ってくれたのだと、キンジが説明した。

「今日の夕飯は、宿泊先提供のせめてものお礼に、こちらでご馳走しようと思っていたんですが…」

「気にしない気にしない。報酬相場以上に貰っちゃってるんだから、これぐらいはやらないとね。はらこ飯、好きなんでしょ

う?」

手をパタパタと振りながらニンマリ笑ったユウトに、

「はい。大好きです!」

もっさり太い尻尾を大きく揺らしたキヌタは、満面の笑みで頷いた。

その様子を見ていたシオンは、キンジを手招きしつつ「ちょいと外しやすぜぃ」と、三人に断りを入れる。

シオンはリビングから廊下へと移ると、松葉杖をつきながらキンジが出てくるのを待ち、話を聞かれないようドアを閉めた。

「昨夜解放した連中が仕掛けて来る様子はねぇ。坊ちゃんのあの対処で、毒気抜かれちまったみてぇだなぁ」

シオンが肩を竦めると、キンジはくっくっと小さく笑う。

「無理ねーよ。伝言は預けたものの、事実上の無条件解放だ。襲われた本人があんな事言うなんて、一体誰が考えるってんだ

よ?なぁ」

愉快そうに言うキンジの目には、面と向かっては「対処が甘い」とキヌタをたしなめていた割に、誇らしげな光すらちらつ

いている。

「けど、今回の件で坊ちゃんへの敵視と介入は、間違いなくこれまでより強くなるぜぃ?キツくなるのはこれからだぜ?キン

ジよ」

すぅっと目を細くしたシオンが表情を窺うと、キンジは不敵な面構えになり、「ふん!」と鼻を鳴らした。

「何をいまさら…、覚悟の上だぜ御頭。おれぁむしろ開戦ののろしを今か今かと待ってたぐれーだってーの」

皆が口を揃えて言うように、キヌタは相当な平和主義者で、変わり者と言っても良い。

甘い甘いと事あるごとに釘を刺してはいるが、しかしキンジも心の根っこでは、キヌタのそんな性質を気に入っている。

願わくは、キヌタが跡目争いとは無関係に、穏やかに過ごしてゆければ良いと、キンジは思っていた。

しかし、ツヅミヤの中で巻き起こりつつある強大な流れとうねりは、どうやら彼を放っておいてはくれないらしく、このま

まではキヌタが平和にのんびりやって行く事ができそうにない。

約束通り、高校を卒業し、変わらぬ意志を持ったままキヌタの元へ舞い戻ったキンジは、しかし傍らに立って降りかかる火

の粉を払ってやっているだけでは、きりがないらしい事を察してしまった。

「…おれは、キヌタを総帥にする」

キンジはシオンの目を真っ直ぐ見つめながら、そう呟く。

「坊ちゃんご自身が、そいつを望んでらっしゃらねぇぜ」

さらりと打ち明けられて、戸惑いつつも反論したシオンに、キンジは口の端を上げ、苛立っているように獰猛な表情を浮か

べて見せた。

「キヌタが何て言おうが、とにかくおれの手で総帥の座につける!そして…」

キンジはそこで悪戯っぽい光を目に宿し、

「総帥権限で、キヌタにちょっかい出さねーヤツに次期総帥の座を押し付けて…、引退だ」

部下の思惑を聞いたシオンは、目を丸くする。

「そっからは貯金で悠々自適の快適生活。これがおれの人生設計」

「無茶苦茶のデタラメだ…。てめぇも相当変わりモンだぜ、キンジよぅ…」

「自覚はしてるさ。キヌタと違ってな」

「そもそも人生設計って、坊ちゃんの人生じゃねぇか?」

「おれぁ構わねーよ。なんせ一心同体だからな」

「おめぇが構う構わねぇの問題じゃあねぇだろうがよ。坊ちゃんの問題だぜ…」

きっぱり言い切るキンジに、シオンは深々とため息をついて見せた。

「口にするだけなら誰だってできる。容易い事だぜぃ。だが、そいつがどれだけ困難か、てめぇ本当に判ってやがるんだろう

なぁ?えぇ?キンジよぅ」

そう言ったシオンの呆れ顔を真っ直ぐに見つめ、キンジは笑いを収めて真顔になる。

「御頭…、あんたはキヌタの味方だよな?」

ゴールデンレトリーバーの口調は、訊ねるというよりも念を押すような響きを伴ったものであった。

「あんたはキヌタを守ってくれるよな?見捨てたりはしねーよな?間違ってもクソ兄貴どものどっちかにつくなんて事はねー

よな?」

「勘違いするんじゃあねぇぜ?キンジ」

シオンは半眼になり、部下の目を真っ直ぐに見つめて答える。

「あっしらは鼓谷のSPだぜ?キヌタ坊ちゃんの味方で、兄君様方の敵ってぇポジションじゃあねぇぞ。確かにてめぇはキヌ

タ坊ちゃんの秘書兼務で専属に当てちゃあいるが、立場は弁えやがれよ?」

「けど、今回はこうして協力…」

キンジの言葉を遮り、かぶりを振ったマラミュートが続ける。

「今回は誘拐ってぇ直接的な脅威から守る為に、あっしも確かに一枚噛んだ。坊ちゃんを守るのは仕事の内だからよ。だがな、

跡目争いそのものについちゃあ鼓谷家の問題だ。特定の誰かに肩入れするつもりはねぇぜ?」

きっぱりと言い切ったシオンは、キンジの目を真っ直ぐに見つめ返す。

「てめぇがそうであるように、あっしはあっしで大恩ある「ツヅミヤ財閥」に尽くす身だ。いわば鼓谷家全員の味方で、決し

て誰かの敵にゃあ回らねぇ。…まぁ、現総帥の命令なら別だがな」

一度言葉を切ると、マラミュートはキンジの目に、じっと、射るように鋭い視線を注いだ。

「手は貸せねぇ。あっしも、他の連中もだ。あてになんぞしねぇで、てめぇの力であがきやがれ。何処までやれるか見届けて

やらぁ」

キヌタを総帥にする為の助力はしない。協力を拒まれたキンジは、しかしそれでふてくされるでもなく、挑むような目で上

司を見返した。

「…上等だ。おれとキヌタで何処までやれるか、目ぇかっ開いてしっかり見てろ」

キンジは不意に不敵な笑みを浮かべると、悪戯小僧のように目を輝かせた。

「中立は中立。あんたを利用できねぇ訳じゃねぇ。何でも利用して、上手く立ち回って見せるさ…」

肩を竦めたシオンは、胸中で呟く。

(こいつの抜け目無さと容赦の無さで…、坊ちゃんのファジーネーブルを有効利用できりゃあ…、あるいはそうさなぁ、いず

れ兄君達以上の立場にまでのし上がるのも、不可能じゃあねぇかもしれねぇなぁ…)

「…何が可笑しいんだ?」

キンジの訝しげな声を聞き、我知らず含み笑いを漏らしていたシオンは、「いいや、何でもねぇ」と、首を左右に振った。

(この兄弟同士の喰らい合いで最も有利なのは…、案外、この猛犬に肩入れされてるキヌタ坊ちゃんかもしれねぇや…)

気を取り直したように笑みを収めると、シオンはキンジの顔を真っ直ぐに見つめた。

「さて、今夜からの警護予定だ。坊ちゃんに外出の予定はねぇから脚ぶっ壊したおめぇでも目ぇ離さねぇでいられるだろう。

いつも通りに傍を離れるな。…と言っても、事務所のお二人もおられる事だ、不自由はしねぇだろう」

「了解だ」

真面目な顔で頷いたゴールデンレトリーバーは、続くマラミュートの言葉で表情を曇らせた。

「今朝坊ちゃんから聞かされたと思うが…、坊ちゃんの一存で予定は切り上げになった。明日の昼には東護を発って、北へ戻

るぜぃ。空港まではドッカーの旦那が車を手配して下さるそうだし、フワさんとクマシロさんも空港までガードしてくれる」

顔を少し俯けて、「…ああ…」と応じたキンジは、悔しげに舌打ちした。

「情けねぇ…!キヌタはあれこれ理由を言ってたが、本当はおれの怪我が原因なんだろ…?」

脚が折れたら這ってでも。腕が折れたら食らい付いてでも。決してキヌタの傍を離れず付き従う心積もりでいたキンジは、

プライドが傷付いたらしく、込み上げる悔しさを隠そうともしない。

「慰める訳じゃあねぇが、それだけじゃねぇ。坊ちゃんはもう期待以上の成果をお上げになったんでぇ。行脚の目的はしっか

り果たされた。…一点を除いて、だがな」

シオンは言葉を切り、キンジは口の端を少しだけ曲げて不機嫌そうになる。

「烏丸財閥か…。面会ドタキャンとは…、三男だから舐められてんのか、それともツヅミヤ自体が舐められてんのか…」

「幸いどっちでもねぇ。坊ちゃんには先にお伝えしたが、あの翌日、烏丸総帥からウチの総帥に詫びの電話が入ってる。…噂

じゃあお体の加減がすぐれないそうだぜぃ。結構なお年だからなぁ…」

シオンは考え込むように目を細め、顎に手を当てる。

五代財閥の一角、烏丸の総帥が体調を崩しているらしい事は、密かに噂になっている。

もしも跡目が決まらないまま亡くなるような事になれば、現在は水面下で進行しているらしい跡目争いが、歯止めを失って

激化するのは間違いない。

そして、場合によっては、事は烏丸内部だけの問題では済まなくなる。

烏丸が分裂するような事にでもなれば、そこへつけ込もうとする者も現れるだろう。

勢力図が大きく変わる可能性がある以上、鼓谷財閥総帥の懐刀であるシオンとしては、烏丸の動向は興味深いどころか、立

場上決して無視できない。

(総帥の片腕だった一人息子は奥方共々かなり前に亡くなった…。継承順位から言やぁ次は孫だが…、確か二十代半ばの娘さ

んってぇ話だな…。どんなお嬢さんかは知らねぇが、いささか荷が重かろう。となると…)

「御頭?」

黙考していたシオンは、キンジの胡乱げな声を耳にして思考を中断した。

「まぁ…、元々、烏丸への接触は余裕があったらのつもりだった。が、あそこは今、跡目争いでゴタゴタしてるらしいからな。

あっし個人としちゃあ、下手に接触しちまうより、中止で良かったとも思ってるぜぃ」

「事情を考慮すりゃ、その点についてはおれも同感かもな…。次期総帥が誰になるか確定してねー状況で、今の総帥と懇意に

なるのは得とは限んねー。跡目争いがあるって以上、内部じゃ派閥ができてんだろ?現総帥と反目し合ってるヤツがトップに

なる事だってあり得るからな…」

シオンは少しだけ目を大きくし、まだ成人すらしていない若い部下を見つめた。

キヌタを総帥にするとたった今決意を打ち明けられたばかりだったが、まさかキンジが烏丸の内情を知っているとは思って

もみなかったのである。

情報は力。そう教えたのは他ならぬシオン自身だったが、どこからこんな情報を入手したのかと、少々驚いていた。

抜け目が無いこのゴールデンレトリーバーは、キヌタも影響を被りそうな、そしてキヌタを押し上げるのに使えそうな情報

を、総帥御付きになって商談に同行した同僚や、鼓谷お抱えの情報屋を介してかき集めている。

キンジからすれば、キヌタを総帥にするというさし当たっての目的は、決して夢物語ではない。手が届く目標としてしっか

り見据えられ、着々と下準備が進められている。

(例えば、だ…。烏丸の次期総帥に、今の内から手ぇ貸してやってれば…、いや、むしろおれ達が力を貸して総帥の座につけ

てやれば…、強力な味方を手に入れられる…)

口元を微かに歪ませ、悪戯っ子のような笑みを浮かべて打算を巡らせるキンジ。

気に入った人物への、執着とすら呼べる程の肩入れと、嫌いな人物への徹底した容赦の無さには、このゴールデンレトリー

バーの二面性がよく現れている。

気を許した相手に見せる開けっぴろげな人懐っこさ。

利用できる物は何でも利用する冷徹なまでのしたたかさ。

危険でありながら、そこがまた魅力的な部下を見つめつつ、シオンは苦笑いして肩を竦めた。

(やれやれ…。きれ者過ぎて、若いくせにちっとも可愛くねぇなぁ…)



一方その頃、三階建てビルを借りて経営している、自らの事務所に戻ったドッカーは、

「リーダー、あの子もう来てますよ?」

事務室兼応接室ドアを潜るなり、若い人間男性のメンバーにそう声をかけられ、目を丸くした。

「七時頃に来ると聞いとったんじゃがのぉ…」

「暇らしいですからね。菓子と茶をあてがって会議室で待たせてますから、早く行ってあげて下さい」

プードルの中年女性がクスクスと笑い、ドッカーは頭を掻きながら頷く。

「ほんじゃ、戻ったばっかで済まんが、少し外すけぇ頼むでよ。…あ。ヤマギシ君、飯は食って来たんかのぉ?」

「たぶんまだですね」

「んじゃあ、ワタちゃん、済まんけんどカツ丼特盛り三つ取ってくれんかのぉ?大至急じゃ。昼飯が早かったけぇ、もう腹が

減ってかなわんでよぉ…」

「はいはい、早速注文しておきます」

「あ。俺も今夜カツ丼にしとく。一緒に頼んで」

「じゃあ私天丼で」

事務室内が夕食の注文でにわかに騒がしくなると、ドッカーは待ち人に会うべく事務室の奥、主に会議などに利用している

小部屋に向かった。



「…とまぁそういう訳でな、重要なんは基礎体力と実技の方じゃ。どっちも筆記より重要視されるでなぁ」

ドッカーは手元の紙に図を書いて説明しつつ、「体力」と「実技」と記した部分を丸で囲む。

「体力と実技…ですか…」

長机を挟んで向き合った若い獣人は、ドッカーの手元を覗き込みつつ、熱心にメモを取っている。

その少年は、狐の獣人であった。

が、彼と出会った者の多くは、まるで示し合わせでもしたかのように、一様に首を傾げる。

というのも、彼が狐にしてはやや珍しい体型だからである。

首が見えないほど顎下に肉がついた丸顔。ぷっくりと丸く膨れた頬。指まで丸々とした手足。

耳や尾、そして模様、先細りのマズルなどには特徴が散見されるものの、一見すると本当に狐かどうか迷う程に丸々肥えた

少年は、調停者を目指して勉強中の身である。

中学卒業後に挑んだ春の認定試験にあえなく落ちてしまった少年は、情報不足のまま挑んだ前回の失敗を踏まえ、秋の認定

試験に備えてこの事務所のドアを叩いた。

面識の無い調停者達に教えを乞う…。内向的な彼にとっては、それすらも勇気を振り絞っての行動である。

そして、少年にとっては幸運にも、初回訪問で丁度居合わせたリーダー…、ベテランであるドッカーは、もじもじおどおど

と事情を話す狐の子の希望を、数日がかりの問答の末に受け入れた。

少年は15歳。同じ年の少年達は高校に通っている年頃である。

最初こそ、他の事をした方が良いとやんわり諭していたドッカーであったが、少年の家庭環境、そして能力者であるという

事を知るに至り、しぶしぶながらも協力を引き受けたのである。

そして今では週に二度から三度、少年は事務所へ教えを乞いに来ている。

根が真面目なこの少年、なかなかに熱心だと事務所のメンバー達からも姿勢を評価されていた。

だが、少年に告げてはいないものの、来たる秋の試験を突破するのは厳しいと、ドッカーは見積もっている。

(早くて一年…。諦めずに頑張れば、来年の秋には何とか…、といったところかのぉ…。能力が手持ちの札にあるけぇ、制御

訓練に時間を割いてみるのも良いかもしれんが…)

白い熊は狐の子に様々なアドバイスをしながら、そんな風に考える。

少年は頭が良く、物覚えも早いが、いかんせん身体能力の低さが否めない。

春に中学を卒業したばかりのこの少年、運動は昔から苦手だったらしく、腕力や瞬発力は勿論、スタミナにバランス感覚、

反射神経など、あらゆる面で一般人以下であった。

体格的にも恵まれているとは言い難く、身長は並より少し低く、贅肉太りで幅はあるが、骨格から言えば決して頑強とはい

えない。

この少年が合格水準に達するには、まずは人並みの身体能力を身につける事が最優先。

それも、最低限の土台すらできていないため、一朝一夕でどうにかなるレベルではなかった。

「まぁ、お前さんの場合、一般常識テストは問題なかとよ。くどいようじゃけんど、体力をつけるところから始めんとのぉ」

「は、はい…」

ドッカーが顎の下に手を入れ、思案するように目を細めながら言うと、狐の少年は軽く俯き、居心地悪そうに小さくなりな

がら頷いた。

「まぁ、お前さんは能力者じゃけぇ、その点での評価はプラスに働くでな、多少動きが悪くとも、食いついて行けるじゃろ。

…さて、そろそろ飯が来るはずじゃけぇ、ちょっと休憩にするでよ」

白い熊はそう言ってひとまず話を締め括ると、壁の時計を見遣り、「遅いのぉ…」と切なそうに零す。

一方で向かい合う少年は、メモを取り終えると、机の上に投げ出されている、ドッカーの得物に目を遣った。

それが、特殊な届出に基づいて所持と使用が許可される、特殊な武具である事は、以前聞かされて知っている。

調停者を目指しているとはいえまだ秘匿情報に触れられる立場に無い少年は、正式名称までは教えられていなかったが、そ

の鉈はレリックウェポンと呼ばれている、オーバーテクノロジーの産物であった。

貴重なレリックウェポンは非常に高額で取り引きされており、新人調停者には、ステータスシンボルの意味も含め、まずレ

リックの所持を目指す者も多い。

しかし、相性や入手難度の問題もあり、よほど恵まれた環境になければ、実現させるまでにはかなりの労苦を塗り重ねて行

く事になる。

少年の視線が愛用の大鉈に注がれている事に気付くと、ドッカーは片方の眉を上げ、

「興味があるんなら、触ってみても構わんでよ?」

と、軽い口調で言いつつ笑みを浮かべる。

「え?で、でも…」

丸顔に不安と戸惑いの入り交じった表情を浮かべた少年に、ドッカーは鉈を差し出した。

「がっはっはっ!構わんでよ。無断でもなけりゃあ所有者もここで見とる。違法使用にはならんけぇの」

声を上げて笑ったドッカーは、しかし鞘に収まったままの鉈を少年がおずおずと受け取った直後、声をピタリと止めた。

「…え?あれ…?」

革張りのゴツい鞘に収められた、ずっしりと重い鉈を見下ろしたまま、少年は小さく戸惑いの声を漏らす。

少年が受け取った鉈は、その手に収まった直後から、携帯電話等が着信でバイブレートするように、ブゥゥン、ブゥゥン、

と低く鳴き始めていた。

最初は驚いていた狐だが、やがてその震動にも慣れたのか、困惑しているような顔で正面のドッカーを見遣る。

少年は不思議がっていた。極めて気が小さく臆病な自分が、この奇妙な現象に対して全く恐れを感じていない事を。

(ブルトガングが反応しとるじゃと…?この子に興味があるんかのぉ?)

ドッカーは太った狐の困惑しているような顔を見ながら、

「たまげたのぉ…。この気難し屋が機嫌良さそうにしとる…。お前さん、よっぽどコイツと相性が良いんじゃろな」

と、軽い驚きを覚えつつも、微かな笑みを浮かべてそう漏らした。

(あるいは、コイツの次の所有者は、この子になるんじゃろか…)

予感よりは濃く、確信というには希薄。

虫の知らせとでも呼ぶべきであろうか、何故か無視できぬ感覚を抱きつつ、ドッカーは胸の内で呟いた。

ゆく手でいずれ交わる運命は、両者に永遠の別離をもたらす。

ドッカーは、自分の征く末を今はまだ知る由もなく、少年もまた、手にしているこのレリックウェポンをいずれ自分が振る

う事になろうとは、夢にも思っていない。

(わしがしてやれる事なんぞたかが知れとるが…、次代を担うモンに、生き延びるコツぐらいは教えてやらにゃあならんじゃ

ろうなぁ…)

手の中で鳴いている大鉈を、不思議そうな顔をしてじっと見下ろしている少年を、ドッカーは微笑を浮かべたまま見つめて

いた。