帝居襲撃事件後日談(前編)

硬質の足音が薄暗い通路に反響する。

やや湿った空気が流れるそこは、床も壁も天井も、全てが剥き出しのコンクリート。

足元を照らすのは、ぽつりぽつりと間隔を置いてぶら下がる、古びた裸電球の弱々しい灯りのみ。

時刻は午前六時を少し回り、一月後半の空もこの時間には明るくなっているのだが、地下深くに造られたこの通路の中では、

冷たい朝の空気も、清々しい朝の光も、当然感じる事はできない。

無言のまま通路を歩む人影は三つ。

先頭を歩むのは、パリッとしたスーツを纏う、頭部前側が禿げ上がった初老の人間男性であった。

やがて、初老の男性は通路の突き当たりで足を止める。

「この部屋をお使い下さい」

長い地下通路の突き当たりと、そのすぐ両側には、一つずつ鉄製の扉がある。

その向かって右側にある扉を指し示し、初老の男性は背後を見遣った。

「手間をかけます…」

男性について来た二人の内、低い渋みのある声で応じた一方は、獣人であった。

身に纏うジャケットもズボンも、光沢のない、黒い艶消しラバーのような素材で、薄暗い通路の闇に半ば溶け込んでいる。

その顔には、黒と白の二色が物々しい隈取りを浮き上がらせていた。

その獣人はシベリアンハスキーである。

身長は180近くあり、筋肉で盛り上がった肩は幅が広く、まくり上げたジャケットの袖から覗く腕も、もっこりと膨れて

逞しい。

初老の男性がドアを引き開けると、ハスキーは傍らに立つ者に視線を向けた。

残る一名は、若い人間女性である。

二十歳になったかならないかという年頃で、顎がつんと尖った細面。

体は細く、要所プロテクターを縫い込んだアサルトジャケットとズボンのセットで、その華奢な身体を覆っている。

華奢と言っても、なよやかさなどは微塵も感じられない、鞭を思わせるしなやかな細さ…、鍛えられて引き締まった体つき

である。

だが、この女性の姿の中で最も目を引くのはその容姿ではなく、体の前で揃えた両腕にかかった鈍く光る拘束具、板状の手

錠であった。

「入れ」

ハスキーに軽く背を押される形で促され、女性は黙ったまま部屋の中へ入る。

「では、有り難く使わせて頂きます」

ハスキーに会釈された初老の男性は、「どうかご遠慮なく…」と応じると、声を潜めて尋ねた。

「して、本隊との連絡は…?」

「それが未だに…。お恥ずかしながら、恐らく拙者は、撤退に失敗した最後の一人でしょう」

自嘲気味に口元を歪めたハスキーに、初老の男性は首を左右に振った。

「どうか望みはお捨てになりませんように…。今はまだ警戒も厳しく、首都からの脱出も困難ですが、身を潜め、緊張が緩む

のを待てば、必ずや突破口も見えて来ましょう」

「…ですな…。しかし堪え性のない拙者には、雌伏の時とは実に堪えるものです…」

「それでも短気は起こされませんよう…、時が熟すまでは」

「肝に銘じておきます」

丁寧に諭す初老の男性に、ハスキーは深々と頭を下げる。

「無様にも退き遅れた拙者などの世話まで、こうも丁寧にして頂き…、なんとお礼を申し上げれば良いか…。聞けば今回の作

戦、急な事だったにも関わらず、貴組織におかれては抜かりない下準備に加え、惜しみなくご協力頂けたと…。殉死した我が

上官に代わり、不肖このマーナ、謹んで感謝の言葉を…」

「いやいや!どうかお気になさらず。こちらも十分な見返りを約束されての働きです」

深々と、腰を折って最敬礼したマーナに、初老の男性は慌てて顔を上げさせた。

「…それに、ラグナロクに協力を要請されたとなれば、弱小の我等にも箔がつきますゆえ」

笑みを浮かべて応じた初老の男性に、マーナは感極まったように硬く目を閉じ、再び礼をした。



一方その頃、三人が居た地下通路の遥か上に当たる地上部分、高級ホテル内のスタッフルームでは、漂うタバコの煙の中で、

四人の男がポーカーに興じていた。

「兄貴ぃ、何者なんです?親分が連れて来たあの獣人…」

参加者の内の一人、二十歳前に見える、四人の中で最も若い男がそう訪ねると、向かい側に座っている、サングラスで双眸

を隠した三十代半ばに見える男が、手札に視線を落としたまま、表情一つ変えずに応じる。

「年末の帝居襲撃事件。あれの犯人の一人だ」

淡々と口にされたその言葉に、他の三人は硬直した。

「そ、それってマズくねぇすか?」

「今、調停者どもが血眼んなって、まだ捕まえられてねぇヤツら探してるって…」

口々に言う男達に、サングラスの男は顎を引いて頷く。

「だが、デカい組織のモンだ。粗末には扱えん。…例え無様な敗残兵だとしてもな」

淡々とした声音に侮蔑の響きを僅かに滲ませ、サングラスの男は口元を歪ませた。

「その組織に引き渡す際には謝礼も手に入るだろうし、今後の付き合いも上手く行くというメリットが見込める。世話をして

やる価値は十分にある」

「け、けど…、もしも匿ってるのがバレたら…?ここに踏み込んで来られたら…?」

「そうなる前に、危険だと感じたら素知らぬ顔で調停者どもの眼前に放り出すさ」

サングラスの男が含み笑いを漏らしながら「そう心配するな」と付け加えると、他の男達の間の緊張が少しだけ和らいだ。

「…ところで兄貴?一緒に連れられて来た若い女…、ありゃ何です?手械はめられてましたが…」

「調停者だとさ。万が一に備えての人質らしい」

サングラスの男が事も無く言うと、他の三人が顔色を変える。

「調停者…?そりゃあ…も、もっとやべぇんじゃ…?」

「目隠しをして連れて来られている。ここが何処なのかまでは判っていない」

「そ、それにしたってですぜ?調停者はいくらなんでも…」

「あの獣人、女に顔を見せている」

怯えたような声を漏らした男に、サングラスの男はニヤリと笑って見せた。

「この意味は判るな?」

返答に詰まった三人に、サングラスの男は笑みを消しながら続けた。

「生かして放してやるつもりは無いんだろうよ」



あてがわれた部屋の中を見回し、ベッドと簡易テーブル、折り畳み式の椅子が数脚ある事を確認すると、ハスキーはひとま

ず満足したように頷いた。

通路と同じくコンクリートが剥き出しの部屋は、入り口の他にも一つドアがある。

先に案会いしてくれた初老の男性から説明を受けていたマーナは、そこがシャワールームであると見当をつけた。

「ベッドを使え」

マーナが告げると、部屋の中央に立ち尽くしていた若い女性は、「ふん!」と鼻を鳴らす。

「言われなくとも使うよ。こちとら大事な人質様なんだからね」

偉そうに胸すら張って言った女性に、マーナは苦笑を返した。

「怒っているのかシノ?彼らの手前、人質らしく扱った事を」

「別に?人質なのは事実だからね」

つんと顔を逸らしてそっぽを向いている女性を眺めながら、マーナは壁際に立てかけてあったパイプ椅子を取り、ドアの脇

におろして腰掛けた。

そして懐に手を突っ込むと、小さな鍵を取り出して放り投げる。

シノは手枷をはめられているにも関わらず器用に鍵をキャッチすると、それを口に咥えてこれまた器用に解錠し、両手を自

由にする。

「奥のドアが先に聞いたシャワールームだろう。体を流してゆっくりするといい」

マーナがそう告げると、枷をはめられていた手を交互にさすっていたシノは、上着をベッドの上に放り出し、さっさとドア

に向かった。

そして、一旦シャワールームへ姿を消した後、思い出したようにドアを開いて顔を覗かせると、

「…覗くんじゃないよ?」

マーナを一睨みし、そう告げてから再び顔を引っ込めた。

「覗きなどという破廉恥な真似をするものか…」

ハスキーは顔を顰めながら、心外だとばかりに呟いた。

人質と捕縛者にしては妙なこの二人のやりとりは、しかし誰にも見られる事は無かった。



その数時間後、同じ首都にありながらかなり離れた重要地区に踏ん反り返っている、周囲の高層建造物と比べても一際巨大

なビルでは、

「もう準備が出来たのか?」

居住区画の一室で、かなり大柄な虎獣人が、少々意外に思っているかのように針金のようなヒゲをピンと立て、口を開いて

いた。

その虎獣人は屈強な体付きをしており、身の丈は2メートル近い。

厳つい顔に、鋭く輝く金色の瞳が目立つ、勇壮な偉丈夫である。

黒いタンクトップとクリーム色のカーゴパンツを纏っているが、その体は衣類とは対照的に白く、縞模様の黒がくっきりと

浮かび、目に映える。

筋骨隆々たる鍛え上げられた体は、被毛越しにも筋肉のラインがはっきりと判る。

見る者を威圧する迫力と猛々しさを持ちながら、その一挙手一投足には力が篭っておらず、余裕が感じられる。

しかし、白虎の緩慢にも見えるその動作の本質には、見る者が見れば気付く事ができる。

動きのことごとくが、意図的に脱力されているという事に。

白虎の名はダウド・グラハルト。

この巨大ビルを本部としている大型調停者チーム、ブルーティッシュのリーダーを務めている。

「うむ。今済んだ所だ」

白虎と向き合って低く短く応じた男は、屈強な体躯の虎を軽く上回る程に大きかった。

紺の着物に雪駄。和装に身を包むその巨漢は、赤銅色の巨熊である。

首と、襟元から覗く胸の上部が雪のような白で、そのほかの部位は鮮やかな赤を孕み、光の加減によっては夕陽を思わせる

朱に輝く。

身長250センチを越える、飛び抜けて大柄な巨漢であった。

背が高いだけでなく、その体はとんでもなく幅と厚みがある。

常人のウェスト程も太い腕、それよりさらに太い脚。手もかなり分厚く、そこに備わる指はバナナの房を思わせる。

首はまるで無きが如く太く、盛り上がる広い肩から一繋がりとなって頭を支えている。

分厚い胸の下には突き出た腹。そのさらに下の腰も、重機の駆動部を思わせるどっかとした太さ。

どこもかしこも太く分厚いその巨躯は、言ってしまえば肥満体ではあるものの、小山を思わせるそのボリュームが見る者を

感嘆させずにはおかない。

こちらの巨熊は、名を神代勇羆という。

神将家の一角、神代の十八代目当主で、帝直轄領の一つ、奥羽領の守護頭を務めている。

二人が居るのは、ホテルのロイヤルスイートもかくやという、豪勢な洋室であった。

足下には踝まで埋まる毛足の長い柔らかな絨毯が敷かれており、派手さは無い落ち着いた調度類も、見る者が見れば高級品

だと一目で判る品が、華美になり過ぎず、節度を持って散らしてある。

「世話になったな、ダウド殿」

赤銅色の巨熊が深々と頭を下げると、白虎は厳つい顔に苦笑を浮かべた。

「よせやい改まって。河祖下に行った時は、毎回こっちが最上級の待遇を受けているんだからな。部屋をあてがった程度で丁

寧に礼なんぞ言われたら恥かしくなるぜ」

ダウドは革張りのソファーに歩み寄って腰を降ろすと、部屋の中央で立ったままのユウヒを手招きした。

「車を回すつもりだったが、生憎まだ準備が整っていないんでね。少し話でもして時間を潰そう。…帝居襲撃事件からこっち、

お互い忙しくてろくに話もできなかったからな…」

頷いたユウヒは、ダウドと向き合う形でローテーブルを挟み、その重い体をソファーに預ける。

「…で、慕い人とやらには、相変わらず手が出せていないのか?」

「何を言うかと思えば、いきなりそこか…」

単刀直入に、触れられたく無い所へ遠慮無く切り込まれ、ユウヒは鼻白んだ。

「その様子じゃあ、まだ何も言えていないのか…」

ソファーの背もたれにかけた尻尾の先を揺らしつつ、呆れた様子で呟くダウドと、視線を横へ逸らすユウヒ。

「先の秋に一度…、一緒に山菜を摘んだ…」

ユウヒがもじもじと巨体を揺すり、小さく身じろぎすると、頑丈な作りのソファーも堪らずに悲鳴を上げた。

ダウドは興味深そうに目を大きくし、「ほう?」と声を漏らす。

「それはあんたから誘ったのか?それともあっちから誘われて摘みに行ったのか?」

「…いや…、山道で偶然会い、山菜詰みを手伝っただけで…」

「…つまりアクションを起こした訳じゃあないのか…」

ユウヒがそっぽを向いたまま、言い辛そうにごもごもと呟くと、ダウドは眉根を寄せる。

「ま、山菜でも何でも一緒に摘むと申し出る辺り、奥手なあんたにしちゃ頑張った方か…。で、その調子で告白できるんだろ

うな?」

「…いつかは…、必ずや…」

「「いつか」ってのは一体いつだ?」

意地悪く口元を歪めながら即座に聞き返したダウドの前で、ユウヒは首を縮め、巨体を小さくしながらぼそぼそと呟く。

「…覚悟が…決まった時だ…」

白虎は「やれやれ…」と広い肩を竦め、ますます意地の悪い笑みを深める。

「あんまり待たせてやるなよ?女ってのは俺達と違って、歳を気にするもんだぜ。それに…、あんた程の男が惚れる女なら、

いつまでも周りのヤツが放ってはおかんだろう?」

ユウヒがギクッとしたように身を震わせ、次いで完全に硬直すると、これ以上からかうのも可哀相だと思ったのか、ダウド

は意図的に話題を変えた。

「まぁそれはそれとして…、あんたの戦いっぷりを見たのは久々だったな」

内心ではまだかなり動揺しているユウヒだったが、話題が逸れた事で多少ほっとしつつ、ダウドに頷き返した。

「お互いついに三十路も超えたが、どうやらまだまだ現役で行けそうだな」

「俺はともかくとして、貴兄には年齢など関係なかろう」

応じたユウヒは、軽く顔を顰めて見せながら続けた。

「…いい加減夜遊びも程々にされよ、今更ネネ嬢以外の女性と誓いを立てるつもりもあるまい?」

「お。そう反撃に出たか…」

ダウドは苦笑いすると、しかし反論せずにさらりと流し、再び話題を変える。

「歳の話といえば、今度の帝は若いな。…いや、幼いと言うべきか…」

「あんな事故など起こらず、健在であられたならば、帝の父君がお継ぎになられるはずであったのだが…」

「事故…ねぇ…」

内心では怪しみつつもダウドはそれ以上続けず、口調を神妙な物に改めた。

「先帝が崩御なさった以上仕方がないとはいえ、護国の要が、まだ五つの女の子とはな…」

ダウドの呟きに、巨熊は顔を俯き加減にしながら応じる。

「かよわき御身に被さるには、この上無き重責だと判っている。しかし真に心苦しく酷ながら、他の何者にも「お役目」は務

まらぬ…」

瞳を苦悩に染め、自分に言い聞かせるようにしてユウヒが呟くと、ダウドは金色の瞳に興味と憧憬の光を宿す。



帝。

神将達が忠誠を誓う存在。

バベルをいくつも擁するこの国において、安全弁であり、最終封印の役を担っている。

元は、バベルこと御柱を完全に支配する力を宿していた帝家であったが、しかし今では封じる力のみ持ち合わせており、解

放は行えない。

三百年ほど昔、とある代に男子の双子が生まれた際、解放と封印の力がそれぞれに分かれて発現したのがその原因である。

その双子は後に、先帝が後継者を指名しないまま崩御した事で、各々帝を名乗り、正当性を巡って争った。

御柱を利用し、国の発展に利用すべきと主張する弟。

御柱を危険な物とみなし、封じたままにする事を主張する兄。

この際、神将十二家は正当な帝と見なした兄側についたものの、対立する弟の側にも、神将の血縁にあたる分家筋などの一

部が味方した。

神代家に至っては、当時の当主が弟帝の元につき、一つ違いの弟が当主代理となって兄帝の元につき、皮肉にも主君たる兄

弟帝の元で臣下たる兄弟が対立する形となった。

その後、十数年に及ぶ暗闘の末、敗れたのは弟帝の側であった。

だが、その一人娘は生き残った臣下の手によって匿われ、何処かへ落ち延びる。

そうして敗れた側…、正当な帝と見なされなかった弟の血筋は裏帝(りてい)と、帝に反旗を翻した神将家の類縁達は逆神

(さかがみ)と、それぞれ呼ばれる事となった。

このような経緯により、神代をはじめとする身内から逆神を出した数家は、責任を取る形で自ら神将としての地位を辞した。

各々八百年の歴史を持つ神将の直系において、神代家がユウヒで十八代目と、他の家より非常に代が若いのは、この、歴代

の家長が当主を名乗れなかった三百年という期間が存在する為である。

その後も落ち延びた裏帝と逆神達は己の正当性を主張し、帝を護る神将家と暗闘を繰り広げて来た。

永きその戦いの中で最も激しかったのは、歴代の神代と、彼らと対を成す逆神の一角との戦いである。

神代とその逆神…、同じ祖を持つ者同士の力は拮抗していた。

その逆神は、元はと言えば当主となった者の正当な血筋を引いており、分家筋が逆神となった他の家とは事情が異なる。

因縁深きその天敵の存在により、神代家では、弱い者が早死にする世代が続いた。

弱者が淘汰され、強者だけが生き存えるその過程で、神代は全ての分家を失い、今日では本家のみが残る。

現在の神代家が、他の神将と比較しても抜きん出た武力を持つに至ったのは、その天敵との闘争と、それによって付き纏っ

た淘汰の結果である。

そして、神代以外の家でも、異なる理由から新たな分家は作らなくなった。

再び逆神を出さぬようにと、各家共に、力ある者を野に放つ事を忌むようになったからである。

それまでに存在した分家は、全てそれぞれの本家に迎え入れる形で併呑された。

さらに、血を絶やさぬ為の本筋一名を除いて、子を作る事は決して許されなかった。

例外として、力を持たずに生まれた者については、神将家との関係を一切断ち、放逐にも似た形で独立を許した事もあるが、

多くの者が能力者として生まれる為、その例も極めて少なかった。

その徹底した「血の収束」により、今日では、神将の力を持つ分家は全て絶えている。

だが、神将達が自らを厳しい掟で律し、全てを賭けて臨まねばならなかったその永い闘争にも、ようやく終止符が打たれる

時が来た。

十数年前、ついに裏帝の隠れ里が突き止められ、急襲した神将達の手により里は壊滅し、逆神一派と裏帝の血は絶えたとさ

れている。

これにより神代家と他の数家は神将に正式復帰を果たし、全ての神将家は分家を出す事も許されるようになった。



「バベルを封じる血、か…」

「さよう。帝がおわす…、ただそれだけの事で、無数の御柱を懐に抱くこの国は、今の平静を保っていられる。もしも古来そ

うであったままに、御柱が封じられず、放置されておったならば…」

「今この国は、この形では存在せんだろうな。そしてこの国に限らず、バベル…引いては遺物全般が、一般的な物として兵器

利用されていただろう」

白虎は口元を歪め、皮肉な笑みを浮かべつつ、静かに呟いた。

「この国で暮らす者の内何人が、自分達が帝一人のおかげで今の世を謳歌していられるのだと知っている事か…」

御柱の封印としての帝の役割を知っているのは、極々一部の者だけに限られる。

封印たる帝を護る為には、その力を知られていない方が都合が良い。

知られてしまえば、バベル欲しさから、神将家を敵に回してでも帝をどうこうしようという者が現れかねない。

その事について改めてユウヒが口にすると、ダウドは表情を消し、低く囁いた。

「だが、今回の件から見て、ヤツらにも帝の力は知られたと考えて良いだろう…」

「うむ…。先の帝居襲撃部隊…、急ごしらえだったとの見方もできるが、「用意されていた」という一点だけに着目するなら

ば、楽観的な考えは捨てねばなるまい…」

「厄介だな、よりによってラグナロクに知られるとは…。くそっ!」

厳しい表情を浮かべるユウヒの前で、ダウドは苦々しげに吐き捨てる。

「ネネ嬢の話では、神崎家がこれまで以上に警戒を強めてくれるそうだが…」

「ああ。それに、今回活躍したおかげで、ウチの発言力もさらに高まった。活動の幅は広がる。…だが…」

ユウヒに頷いたダウドは、少しばかり辛そうに目を伏せた。

「…いくつか他のチームが壊滅したのは辛いな…。俺の知り合いだったチームリーダーも逝った…。サブリーダーは事務所を

畳んで、生き残りを何人か連れて田舎へ移るそうだ…。辛いんだろうな、この街に残るのは…」

何事にも怯まない、剛胆なこの白虎にしては珍しい悲嘆の色が、金の瞳に色濃く浮かぶ。

「あるいは、プロジェクトヴィジランテに協力して貰えるかもしれないと目星を付けていた矢先だった…。…逝くのが早過ぎ

た…、まだ二十歳の…」

ダウドは唐突に言葉を切った。ユウヒが少し項垂れ、沈痛な表情を浮かべている事に気付いて。

「…あんたのせいじゃない…」

呟いたダウドに、ユウヒは首を左右に振った。

「いや…。俺が先に叩けておれば、帝居が狙われる事も無かったはず…。責は確かにある…」

多くの調停者が犠牲になり、帝居周辺が甚大な被害を被った、先の襲撃事件。

全体像が掴めた今になると、自分ならば未然に防ぐ事もできたはずだと、ユウヒには思えている。

白虎は物憂げに目を細め、ユウヒに語りかける。

「最後の逆神、か…。それでもあんたのせいじゃないさ。一体誰が予想できた?神将家に入り込んでいたなど…」

「その点については、俺が事前にどうこうできたとは思っておらぬ。そこまで自惚れてはおらぬよ。…悔いておるのは、シロ

ウの事だ…」

ユウヒは脚の上に乗せていた手を拳にし、きつく握り込む。

「甘いのだ、俺は…!甘く、手ぬるい…!首都を後にするという今に及んで…、帝に仇為したにも関わらず諦めがつかぬ…!

シロウの亡骸を見つけ、弔ってやれなんだ事が、心残りで仕方ない…!あの時、あの男さえ現れなければ、遺体を前に恨み言

の一つも言えたと思うと…!」

かたく閉じられたユウヒの瞼に、その時の光景が浮かび上がる。



光の防壁に護られる帝居。

その周囲を荒れ狂う炎。

何かが燃えるのではなく、大気が炎に変じているような…、そんな燃え盛り具合であった。

堀の水は蒸発して枯れ果て、道路のアスファルトが融解し、支柱やガードレールなど鉄製の物は飴のように歪にねじれる。

その、ひとが生身では数秒たりとも生きてゆけない地獄絵図の中、筋骨逞しい、炎の化身の如き赤い虎が、赤い巨剣を右肩

に担ぎ上げた姿勢でユウヒを見つめている。

己がこの惨状を作り出したにもかかわらず、虎の顔で輝く金色の瞳は静かで、冷ややかで、猛るでも激するでもない。

ユウヒは赤銅色に変じた高密度の力場で全身を覆い、酸素の不足と熱から身を守り、表面が溶けた石畳の上に立っている。

しかし向き合う虎は、エナジーコート能力者という訳でもなく、何の防御措置も講じずに佇んでいた。

虎の巨剣が一振りされ、この煉獄が出現した一瞬の後に、二人の周囲では事切れていた調停者や襲撃者達の亡骸が一気に炭

化して灰となり、吹きすさぶ熱風によって跡形もなく舞い散っている。

その凄まじい状況の中で、周囲の熱がいささかもその身に及んでいないのか、それとも真に炎の化身だとでもいうのか、赤

虎が纏うコートも被毛も、炎で焼かれる事がない。

つい先程まで二人が繰り広げていた激闘が刻んだ、地面の抉れ痕などの痕跡は、炎に舐め尽くされて跡形もない。

赤銅色の被毛を炎で赤々と照らされている、高密度の赤い力場を纏ったユウヒの前で、

「…後始末は済んだ…。此度はここまでとしよう…」

そう呟いた赤虎は、悠然と踵を返し、ユウヒに背を向けた。

危機に瀕した帝居を放ってまで自分を追って来る事はない。さらには無防備な背を襲うような男でもない。

武を競った事でユウヒの性質をそのように見抜き、確信しての退散である。

ユウヒが狂熊覚醒まで使用し、なおも仕留められなかったその男は、一瞬で一面を焦土に変えた炎の中へ、溶け込むように

して消えた。

一切の痕跡を、灰燼の中に埋めて。

痕跡を消す事こそが目的であったのだと気付き、してやられたユウヒはギリリと牙を噛み締めた。

ユウヒが探し求めた親しい者の姿は、炎に焼けたか蕩けたか、今日に至るまで見つかっていない。



(例え遺体が見つかっても、しでかした事を考えれば、当然供養は許されないだろうがな…。それよりも俺が気になっている

のは、遺体が見つからないのは焼かれたからじゃなく、持ち去られたからじゃないかという事なんだが…。あの狼がエインフ

ェリアにされたら厄介だぞ…)

ダウドは腕を組んで目を閉じ、胸の内で呟く。

(…生き延びた…、という線は無いか?ユウヒの事だ、知らない相手じゃなかった以上、無意識に手心を加えている可能性も

ある…。息があって、自力で離脱した可能性も…。神将の血というのは常識外れだからな)

しばし考え込んでいたダウドは、しかしその密やかな懸念とは別の事を口にした。

「それで…、どうだった?スルトは…」

目を閉じたまま尋ねたダウドに、ユウヒはかぶりを振りながら応じた。

「手強き男よな。一個人としての武に加え、あの殲滅能力…。脅威と言わざるをえぬ」

「あんたでも難しい相手か?」

「いつでもそうだが、勝てるとは言い切れぬ」

「あんたがそう言っちゃ、俺も絶対勝てるとは言えんだろうが」

ダウドはため息をつき、「やれやれ…」と、シニカルな笑みを浮かべた。

「名残惜しいが、そろそろ時間だな」

「うむ。世話になった」

同時に腰を上げた二人は、ダウドが先導する形でドアに向かった。

再び顔を合わせるその日まで、それぞれの勤めを果たしおおせている事を、無言の内に誓い合いながら。