帝居襲撃事件後日談(中編)

「たまにはバカンス目的で、のんびり来られりゃあ良いんだがな」

駅の改札を目指して歩きながら、白虎は傍らの巨熊にそう話しかけた。

「仕方無い。…と言うのもいささか心無い言い様だが、首都へはまず、務めに関わる事でしか参らぬからな。…まぁ新年の茶

会は除いてだが…」

「…その茶会も、今年は無かったがな…」

「それもまた仕方無い…。あのような騒ぎがあってはそれ所では…。先帝の崩御に新帝の即位…、茶会などしている暇など…」

皆まで言わずに口を閉じ、物憂げに小さく鼻息を漏らしたユウヒはぼそぼそと呟く。

「…来年からは上座におわす帝も変わり、神将家の席も十一か…。何事も無ければ、今年の茶会にはシバユキを伴って参ろう

と思っておったのだが…」

「元服も済んだからな。…と言っても、茶会が中止にならんでも、あの怪我じゃあ無理だったろう。先に帰して正解だった」

ダウドはひとつ肩を竦め、僅かに口の端を吊り上げる。

「よくもまぁあの体で最後まで気張ったもんだよ。末恐ろしいガキだ。…どうでも良いが、アイツ俺には全く可愛げがない。

嫌われてるのかねえ?」

「…さて…?」

首を傾げるユウヒの表情は、冗談めかして言ったダウドにつられ、心持ち弛んでいた。

言葉を交わす大柄な白虎と赤銅色の巨熊は、周囲の視線を引き付ける。

獣人差別が根強いこの首都においても、精悍さが漲る屈強な体躯の虎と、どこもかしこもぶ厚く太い小山のような巨熊は、

見る者に忌避よりも感嘆を抱かせる。

二人は前後をブルーティッシュの構成員に固められており、向かう先では人並みが慌てて左右に割れ、道を作っていた。

リーダーのダウドにとっては盟友で、サブリーダーのネネに取っては兄貴分でもあるユウヒは、ブルーティッシュにとって

最上級の賓客である。

本人は遠慮したが、せめて駅構内までの見送りと護衛程度はと、こうして大所帯での移動になっている。

もっとも、護衛されているユウヒは、恐らくこの国で一番護衛が不必要な人物である。

何せこの場に居る誰よりも、他でも無いブルーティッシュのリーダーその人よりも腕が立つのだから。

「…ふむ…。あるいは、俺が河祖下におる間は、概ね平和だという事になるやもしれぬぞ?」

真面目な顔で妙な事を言い出したユウヒに、ダウドは苦笑を浮かべつつ応じる。

「そいつはまた穿った意見だ。思えば確かに、あんたが奥羽を離れるのは何かあった時ばかりだな。勅命の合間を見て、たま

には普通に旅行でもしてみろ」

ダウドは一度言葉を切ると、口の端を吊り上げてニヤリと笑い、声を潜めて囁いた。

「…想い人と一泊旅行にでもな…」

表情を硬くしたユウヒは、聞こえなかったふりをして返事をしなかった。

(天下一の武人も、不慣れな色恋沙汰となれば形無しか…)

くっくっと小さく笑ったダウドは、ポケットで携帯が震動すると、眉をぴくりと動かした。

取り出した携帯の表示を目にし、本部からの着信である事を確認すると、「悪い、電話だ」とユウヒに一言断り、ダウドは

通話を始めた。

「…俺だ。どうした?まだ見送りが済んで…」

何を聞かされたのか、ダウドは不意に目つきを鋭くすると、「何だと?」と相手に問い返す。

唐突に足を止めたダウドを、数歩進んだユウヒが振り返り、周囲のメンバーもリーダーに視線を向ける。

警戒が強まり、周囲の空気がピンと張り詰めた。

年末の事件以来、先帝の大法要と、新帝の即位の儀が立て続けに行われ、日々は慌しく過ぎ去った。

赤い虎によって焦土と化した帝居周辺の一部区画を除けば復興作業は順調に進み、表向きは首都の回復は順調に進んでいる。

だが、神将家が一つ潰え、大打撃を被った先の事件以降、ダウドやユウヒは勿論、ブルーティッシュのメンバー達も気を緩

められる日は無かった。

それ故に、ダウドの態度一つで神経を張り詰めるのも無理の無い事であった。

しばしぼそぼそと、声を潜めてやり取りしていたダウドは、おもむろに通話を切ると、ユウヒに向き直った。

「済まん、急用が入った。すぐ行かなきゃならん」

「…厄介事か?」

静かに訊ねたユウヒに、ダウドは軽く肩を竦めて見せた。

「さて、どうだろうな…。まぁ、手に余るような事じゃあない。ちょっとした確認を求められただけだ」

そう応じた白虎の口調は軽く、いかにも大した事ではないというように、面倒臭がっているような微苦笑すら浮かべていた。

その表情を見て、ユウヒも、周囲のメンバー達も緊張を緩めた。

「それじゃあ、またな」

「うむ。その内にいずれ…」

盟友と短く挨拶を交わすと、ダウドは他のメンバーに指示を出してユウヒの見送りを任せ、単身踵を返す。

皆に背を向け、足早に床を踏み締めて去る白虎の顔からは、余裕の表情が消えている。

その金色の目は、深く思いを巡らせてでもいるかのように、僅かに細められていた。



「ふぁっ!?」

声を漏らしつつ勢い良く身を起こし、毛布をはね除けた女性は、荒い息を吐きながら、素早く周囲を見回した。

「…どうした?」

入り口傍の壁に寄せたパイプ椅子に座り、目を閉じて腕を組んでいたハスキーは、片目を開けて声を発する。

ベッドの上で上体を起こしていた女性は、自分がおかれている状況を確認すると、小さく息を吐き出した。

「…いや…、ちょっと夢を見ただけ…」

上着であるアサルトジャケットを脱いだだけの恰好のシノは、軽く身震いして毛布を引っ張り上げる。

「寒いのか?」

問うマーナに、「平気…」と短く応じ、シノは再びベッドに横たわる。

しばし片目を開けていたマーナは、シノに起き出す様子が無いと判断すると、通信機が内蔵されたゴツイ腕時計を確認し、

再び目を閉じた。

(襲撃より、もうじき一ヶ月…。連絡は一向に取れん…。司令部はもう、兵の回収を中止したのやもしれん…)

胸の内で呟きつつ、この数週間そうして来たように、マーナは受け入れがたい事実を何とか飲み下そうと努力する。

(皆…逝ってしまった…。拙者が…、この地に留まる最後の敗残兵か…)

命令系統が異なる別の隊が指揮していた先の襲撃作戦において、たまたま近くで任務に当たっていたマーナ達の小隊は、要

請を受けて駆り出された。

そして彼らは、その襲撃の指揮を執っていた司令部が撤退を決定した際、撤収の報が届かぬまま戦い続け、引き上げ部隊に

拾って貰う事ができなかった。

元々消耗戦力として扱われていた自分達は、見捨てられたのだ。

その事をほぼ確信しながらも、マーナはまだ、今は北原に駐屯しているはずの原隊への帰還を、諦める事ができずに居た。

隊長や他小隊の仲間達はきっと、強制参加させられたきり連絡のつかない自分達の事を心配している。

そう思うと、なんとしてでも帰り着き、皆の最期を伝えなければならないと、使命感が込み上げて来る。

(皆…、立派に戦ったと伝えなくては…。それこそが、一人だけおめおめと生き長らえてしまった拙者の務め…)

逸りそうになる心を鎮めるマーナは、しかしその焦慮を、表面上には僅かにも漏れ出させはしなかった。

ベッドの上で寝返りを打ったシノは薄目をあけ、ちらりとドア側へ視線を向け、椅子に座るハスキーの姿を見遣る。

あまりにも動かないので、胸と肩が呼吸で軽く上下していなければ彫像のようにも見え、あまりにも静か過ぎるせいで、目

を離せば居るのか居ないのかも解らなくなってしまう。

先程目覚めてからというもの、疲れているはずなのに微睡みは一向にやって来ない。

見たばかりの夢で、彼女は悪夢にも等しい、昨年末のとある一夜の事を、まざまざと思い出させられてしまっていた。

シノは眠るのを諦めながらも目を閉じ、マーナと出会った夜の事を思い返し始める。

ドアの脇で椅子に座り、身じろぎすらしていないマーナもまた、奇しくもこの時丁度、シノと同じくその夜の事を思い出し

ていた…。



それは、一ヶ月以上前。

来たるクリスマスに備えて街中は飾り付けられ、賑やかになっている十二月半ばの事であった。

その晩、調停者になってまだ日も浅く、仕事に不慣れで疲労を溜め込んでいた彼女は、早めに就寝していた。

だが、携帯が受信したエマージェンシーコールに応じて跳ね起き、身支度を調えてマンションを飛び出した。

いずれ何処か居場所を見つけたいと思いながらも、まだ決めかねてチームには所属しておらず、もっぱら監査官からの紹介

と依頼で動いて来た彼女は、その日初めて他の調停者達との合同作戦に加えられた。

冷え切った十二月の夜気に身を引き締められつつ、指示された場所へ赴くなり、集められた調停者達は次々とやって来る装

甲車両に乗せられ、何処かへ運ばれてゆく。

順番を待っている間に組み分けされ、総勢十名のチームに加えられたシノは、そこで帝居防衛という任務内容を聞かされた。

帝居とその周辺区画が所属不明の集団に襲撃を受けている。

しかも、賊の数名は帝居の敷地内へ侵入してしまったらしい。

シノが加えられた隊の任務は、帝居付近の激戦区へ赴き、既に敵と交戦している味方に加勢する事。

偶然にも近場に居たおかげでいち早く騒ぎに気付いたというその大型調停者チームは、エマージェンシーコール発令前から

現場で奮闘しているらしく、負傷者が続出し、殉職者も出ているという。

初の大仕事に動揺しながらも、シノは自分がその任務に関われる事で誇らしい気分になった。

例え人数合わせで、猫の手も借りたい状況だから送り込まれるにせよ、新人のシノでも名前を知っている程の調停者チーム

の加勢ができるという事と、帝居防衛任務という重要な役目を振られた事は、彼女を興奮させた。

だが、いざ現場に到着すると、そんな思いは微塵に散ってしまった…。



「マーナ!十時の方向、宝石店二階窓に三!」

「承知しました!」

響き渡る銃声に負けじとばかりに髭面の壮年が声を張り上げると、シベリアンハスキーはその屈強な体躯を隠れ場所から踊

り出させた。

方向が示された瞬間に敵影を認めたマーナは、驚異的な跳躍力を見せて冷え切った空気を押し退け、ジュエリーショップ入

り口に張り出した、3メートルは高さがある雨よけに飛び乗り、そのまま窓に飛び込む。

進軍するラグナロク部隊に奇襲すべく、宝石店裏口から侵入して狙撃ポジションを押さえようとした調停者三名は、窓を突

き破って侵入して来た大柄なシベリアンハスキーに驚く。

だが、その直後に何を思ったのか、一斉に右手側の壁を見遣った。

従業員の休憩室らしき部屋のその壁には、窓もなく、何も飾られていないにもかかわらずである。

何かを感じ、ついそっちを見てしまった…。そんな様子で首を曲げていた三人は、ハッと我に返って正面を向いた。

しかしその時には既に、マーナは素早く三名に接近している。

真冬の深夜、それも避難が済んだ区画の、灯りも付いていない一室で、内包された成分のおかげで薄緑に反射するハスキー

の目は、相手の姿を克明に捉えていた。

「お務めご苦労っ!悪く思うな!御免!」

三名の調停者は、敵であるシベリアンハスキーに労われ、詫びられながら、それぞれボディ、フック、アッパーカットを流

れるような動作で連続して見舞われ、昏倒する。

銃で武装した調停者三名を、素手のマーナは一瞬で制圧してのけた。おまけに手心まで加え、一人も殺していない。

「脅威の排除、滞りなく完了しました!」

侵入する際に割った窓から顔を出したマーナが告げると、チームを組んでいる仲間達が、呆れ混じりの苦笑を浮かべた。

「相変わらず手早い事だ…。ご苦労!戻ってこい!」

「は!迅速に縛った後に!」

髭面の小隊長に応じつつも、マーナは窓際まで引き摺って行った調停者をテキパキと縛り上げている。

形の上でのポジションは一応スカウトなのだが、ずば抜けた戦闘能力を持つマーナは、この小隊において戦力の要となって

いた。

「つくづく思うんだが…、何でマーナのヤツ、選考から漏れたんだ?」

「選考って…、あぁ、エージェントのか?」

二年程前、ラグナロクの最高機関である中枢直属の特別待遇となる、上級エージェントの選考が行われた。

候補者として目を付けられたマーナだったが、しかし審査の後に、どういう訳かこの部隊に送られたのである。

「妙だよな…。妙と言えば、自分達はともかく、マーナ程の実力者がグレイブ隊に送られて来るのも妙だ」

「それはあれだろう?上官に性格がウケなかったんじゃないか?」

彼らが所属するこのグレイブ隊とは、消耗戦力が集められ、厄介で危険な任務を押し付けられるのが常の不遇な部隊である。

今回はその内の一部、たまたまアジア方面で任務に当たっていた第二小隊のみが作戦に参加しているが、本来三小隊から成

る、長柄の刀をエンブレムにしたこの部隊は、名前の意味は武器としてのグレイブであった。

しかし、問題のある者や、上官の不興を被った者が送られる、いわゆる墓場として扱われる事から、墓部隊と呼んでいる者

が大半である。

その三つある小隊には、マーナと同じ犬獣人が、彼の異動と時を同じくして一名ずつ置かれた。

いずれも腕が立ち、少なからず戦果を上げている、どこか似通った経歴の三名は、それ以外にも、エージェントの選考から

漏れた後にグレイブ隊に送り込まれているという奇妙な共通点を持つ。

審査中に何かやらかしたのではないかとの噂も立ったが、自分の身に降りかかった左遷と呼べる異動の原因について、当人

達ですら心当たりが全く無い。

三人ひっくるめてケルベロスと渾名された妙な異動者の一人であるマーナは、根が真面目なせいもあって、左遷に等しい異

動に落ち込む事もなくグレイブ隊で奮闘しており、今では仲間達からも信頼されている。

そんなマーナが調停者達の緊縛に勤しんでいる間に、他の隊員達が小声で好き勝手な事を言っていると、

「作戦中だぞ、私語厳禁!」

程なく小隊長の叱責が飛び、隊員達は一斉に口をつぐんだ。が、

「雑談に花を咲かせるのは、無事に作戦が終わった後、一杯やりながらにしろ」

彼がニヤリと笑ってそう続けると、多少表情を緩める。

奇妙な事に、マーナと小隊長である壮年を除くと、この十五名から成る部隊の隊員達は、全員が似たような顔をしていた。

兄弟、あるいは双子、そう言っても通るほどに顔立ちが似ており、ぱっと見ただけでは誰が誰だか見分けもつかない。

最初は戸惑ったマーナだったが、今ではすっかり全員の特徴を覚え、名を呼び間違う事も無い。

外見は奇妙なほどに似通っているが、性格や口調、身振りの癖などは十人十色なのである。

調停者達を縛り終え、窓から飛び降りて路面に着地したマーナは、深紅のグローブを填めた右手を、指を揃えて伸ばして額

に当てる。

「緊縛、滞りなく完了致しました!」

敬礼しながらキビキビと報告したマーナに、小隊長は「ご苦労」と告げると、即座に進行方向へ目を遣った。

「…新手か」

呟いた壮年の瞳には、行く手から猛スピードで走りこんで来るジープの姿が映っている。

かなり手前でジープがドリフトし、左の横腹を向ける形で停まると、その運転席からアラスカンマラミュートが素早く飛び

出し、車体を盾にする。

続いてその真後ろのドアが開き、後部座席からもさもさした長い被毛を纏う大柄な牛が降りると、続いて白い熊がのっそり

と現れた。

筋肉質なマラミュートと、ごつい体躯のハイランドキャトルは二十代に見えるが、白い熊は中年と呼べる年齢で、腹が出て

いささか弛んだ体型である。

「準備はええかのぉ?バスク、シオン」

「おう」

「オッケーでさぁ」

白い熊の問いに、牛とマラミュートは口々に応じた。

「先日貰ったばかりの鼓谷の試作品…、まさかいきなり実戦で使うはめになるたぁ思いやせんでしたぜ…」

シオンと呼ばれたマラミュートは、艶のある黒いグローブを填めた両手をワキワキと動かす。

「…そいつ、きちんと動くんだろうなシオン?」

白い熊にバスクと呼ばれていたハイランドキャトルは、その手に握った、U字型の頭を持つサスマタで肩をとんとんと叩き

つつ、長い前髪の下の目を疑わしげに細める。

「試した限りは、大丈夫でやしたぜぃ」

応じたシオンはグローブを填めた手で拳を握り、ごつんと打ち合わせた。

「そんじゃあ、さっさと取りかかるとよ」

白い熊が、腰に吊していた突起のついた金属バットのような形状の鉄棍棒を掴みながら声をかけると、頷いた二人はゆっく

りと車の前後へ回り、突撃準備に移った。

一方、道の左右に分かれ、それぞれ建物の陰に身を潜めて相手の出方を待ちに入った第二小隊側では、

「小隊長…」

マーナが小声で囁き、壁際に張り付いた壮年の小隊長は視線だけ彼に向ける。

「僭越ながらご意見を述べさせて頂きたく…」

「構わん。遠慮無く言え」

「恐縮です…。では、予定ルートを外れ、隣の第三戦区経由での迂回を提案させて頂きます。拙者の見立てでは、あの三名は

いずれも一流…。ここまでに遭遇した調停者達とは明らかにレベルが違うと思われます」

「ほう…。三人だけでもか?…とはいえ、お前の見立てならば間違いはあるまい…」

小隊長が神妙な面持ちで呟くと、マーナは「そこで…」と作戦を提案する。

「拙者が連中を引き受けますので、隣接区へ移動後、再度進行を…。拙者一人であれば、機動力を活かして多少の遅れは挽回

し、合流できますので」

少しの間考え込んだ小隊長は、結局マーナの提案を取り上げる事にした。

「判った、お前に任せよう。だが無理に仕留める必要は無い。難しいようならば退いて構わん。我らの任務は殲滅進撃ではな

い。孤立している帝居襲撃部隊の援護だ。判っているな?」

「は!」

小隊長は決断を下すと、マーナに命を下した。

「マーナ軍曹、敵部隊の足止めを命じる。ただし、制圧が困難と思われる場合には任意での離脱を許可する。後、迅速に部隊

へ合流。これが不可能と判断される場合は最寄りの部隊に合流。そちらの部隊長の命に従い、任務を遂行せよ。本部隊の迂回

予定ルートは…」

壮年の小隊長から今後の予定経路を伝えられると、マーナはビシッと敬礼した。

「は!お任せあれ!」

隊員の手によって発煙筒が通りに投げ込まれ、瞬時に立ちこめた煙幕を掻き乱しながらマーナが通りに飛び出すと、即座に

指令が伝達された部隊は速やかに、そして隠密に散開し、その場を離れた。

一時的に散って行動し、再集合するのはこの場から500メートル程離れた地点。そこから迂回ルートを進む事になる。

最低でも、彼らが集合して進行を再開するまでの数分を稼ぐ事が、マーナが果たさねばならない役目である。

晴れてゆく煙の中、通りの中央に仁王立ちになり、警戒していた三名の調停者の視線に身を晒したマーナは、

(銃器は所持しているだろうが…、二名が近接戦闘武器を携帯中、一名は素手か…。捕縛するつもりだったのだろうが、これ

は好都合。拙者の得意な戦闘ができそうだ)

盾にしていた車両の陰から現れた、白い熊とハイランドキャトルの得物が棍棒とサスマタである事と、アラスカンマラミュ

ートが素手である事を素早く確認する。

(…だが、こちらの大半の兵が銃器で武装している事は重々承知しているはず…。にもかかわらず近接戦の支度が整えられて

いるのは、銃撃がさほど脅威ではない証拠と取れる…)

マーナが三人を見つめて分析していると、その内の一人、シオンが胡乱げに顔を顰めた。

「…連中の気配が失せて行きやすぜぃ?どうやら散ったようでさぁ」

「ふんふん…。迂回にかかったんじゃろうな」

焦るでもなくあっさりと応じた白い中年熊に、横手のもさもさした牛が訊ねる。

「どうする?ドッカー。追うか?」

「追っかけるのは難しいのぉ…。それと、とりあえず銃撃を受ける心配は無さそうじゃけぇ、もう解除してもよかとよ」

マーナに視線を据えたままドッカーが言うと、バスクは顎を引いて頷く。

その直後に目前で生じた現象に、マーナはすぅっと眼を細めた。

発煙筒が上げた煙が三人の周囲で乱れ、四方へ風が散る様子に注意を払って。

(大気干渉型の能力者…。あの牛か?煙の動きが三人を覆ってドーム状になっていたが…。なるほど、程度は判らんが、どう

やら防壁を形成できるらしい…)

マーナ達の小隊は銃器がメインの火力となっている。飛び道具を阻害する能力者が相手では分が悪い。

(自画自賛になるが、偶然とはいえ結果的には良い判断だったぞ拙者。ナイスだ拙者。これならばスコルにもバカにされまい)

マーナが少し得意げにそんな事を考えていると、マラミュートが左右に視線を走らせた。

「追いやしょうぜぃ。尻尾にかまけて蜥蜴を逃がす手はありませんや」

この提案に、しかし白い熊は首を左右に振った。

「じゃから、それは難しいと言うとるんじゃがのぉ…」

シオンとバスクの視線を受け、ドッカーはマーナを見つめたまま続ける。

「…そこの男が、黙って行かせてはくれんじゃろ。ありゃ相当なバケモンじゃけぇのぉ」

白い熊が言い終えたその瞬間、傍らのマラミュートは唐突に地面を蹴った。

「…って、あ!こらシオン!」

慌てて発したドッカーの制止はしかし遅く、四つん這いで疾走する犬を思わせる低姿勢で駆けつつ、シオンは両手を体の後

方で左右へ広げた。

「アグニ、サーキットオープン!」

着用者の思念波を感知した特殊グローブは、即座にその力を発揮する。

グローブの周囲で大気が揺らめき、次いで、開かれた手の平から紅色の炎が噴出した。

疾走するシオンの後方へ引いた両手からは、夜目に鮮やかな紅炎が帯となって後方へたなびき、翼のように広がる。

鼓谷財閥製の疑似レリックウェポン、アグニ試作型。

使用者の思念波を熱エネルギーに変換する近接戦闘用兵器で、その構造上着用者に精神的疲労を強いるものの、グローブ型

というコンパクトさと、炎という認識しやすい物による相手への威圧感、そしてその殺傷能力の高さを併せ持つ、トータル性

能が非常に高い武器である。

護身と捕縛ではなく、対象の殺傷と制圧を目的に生み出されたこのグローブは、数名のモニターの協力を得てこの数年後に

は完成し、世に鼓谷の技術力を知らしめる事になる一品である。

もっとも、アグニ自体は製造コストが高い上に、着用者が高い格闘能力を持たなければ宝の持ち腐れとなる為、あまり数は

出回らず、使い手を選ぶ高性能贅沢品となるのだが。

炎の翼を引き摺って高速接近するシオンを、マーナは目を丸くし、口をあんぐりと開けて見つめていた。

(能力者か!?いや、レリックウェポン!?何と!これは格好良い!いかにも強そうではないか!)

人相は悪いが、根は実直で馬鹿が付くほど真面目なこの男は、考えがすぐに表情として出てしまう為、時折顔つきがコミカ

ルになる。

だがマーナは即座に右足を引き、左手を顔の高さに上げて前に出し、やや半身になる形で身構え、自分も使ってみたいと一

瞬思った気持ちの揺れを収める。

「展開!」

マーナの声と同時に、両手の赤いグローブが全面から燐光を発した。

ぼんやりとした赤色の燐光は、グローブを填めたマーナの両腕を、肘の辺りまで包んでいる。

思念波を変換してエネルギーフィールドを発生させる機能を持つ赤いグローブ。

薄っすらと纏ったその燐光は、原理こそ違うものの性質はエナジーコートに近い。

炎を噴き上げる両手を、左右から挟み込むように振るうシオン。

迎え撃つマーナの両手は、僅かな時間差で両側から迫る紅蓮の腕を、胸の前から左右へ開く手で払いにゆく。

赤い力場が紅い炎を遠ざけ、また逆に、紅い炎が赤い力場を舐め取る。

混じり合う赤と紅がせめぎ合い、左右で色鮮やかに踊る中、指を噛ませる形で両手を組み合わせた二人は、間近で顔を突き

合わせ、睨み合う。

決して小柄ではないものの、体格でマーナにやや劣るシオンは、組んだ両手を左右へ開く形で相手を引き寄せつつ、その鳩

尾目がけて膝を繰り出した。

いち早くこれを読んだマーナは、両手を組んだ今の状態での回避は難しいと判断し、同じく膝を跳ね上げる。

両手を左右に広げ、肩を突き合わせ、膝を叩き付けあった二人を、組んだ手から発せられる光と炎が両側から赤く照らす。

肉に覆われた骨がぶつかり合う鈍い音が響き渡ったその時には、シオンに遅れて飛び出したバスクが、相手との距離を半分

に縮めていた。

後続の姿を認めたマーナは、膝をかち合わせたその状態で、強引に体を後ろへ倒す。

シオンは、このマーナの行動で裏をかかれた。

急に抵抗が無くなった事で、シオンの体はマーナにのしかかるように前方へ倒れ込む。

その勢いを利用したマーナは、体勢が崩れたシオンを、自らも不安定な姿勢にありながら、変形の巴投げの要領で後方へ投

げ飛ばした。

力比べの押し合いになると踏んでいた所へ肩すかしを食らった恰好になり、力を利用され、おまけに凄まじい脚力で軽々と

投げ飛ばされてしまったシオンは、街灯の鉄柱に背から叩き付けられ、呻き声を上げながら2メートル程下の地面に落下する。

地面に横たわったシオンは、背を反らせる恰好で一度身悶えすると、力尽きたようにぐったりと動かなくなった。

戦闘技術と経験、状況判断力、そして咄嗟の機転…。腕利きと呼べるシオンだが、マーナはそれらの点で彼より一枚ずつ上

手であった。

徒手空拳の達人であるシオンが上を行かれ、一瞬の交錯で投げ飛ばされた様を目の当たりにし、後を追って駆け込んでいた

ハイランドキャトルは、長い前髪に隠れがちな目を鋭く細める。

巴投げ後の倒れ込んだ姿勢から、後転の要領で四つん這いになったマーナの眼前に、鋭く突き込まれたサスマタが迫る。

首を捕らえ、喉を潰さんとするその一撃を、顔の前で縦にした右腕に力場を纏わせて受け止める中腰のマーナ。

今度はマーナが体格で相手に劣る。

しかし干草の山を思わせるもさもさと大きな牛の、体重が十分に乗ったその突きを、ハスキーは腕一本でしっかりと受け止

めていた。

ウェイト差が如実に現れ、アスファルトを踏み締めた足が後方へ滑った物の、ブーツの底から耳障りな音を漏らしつつ踏み

堪えたマーナを前に、バスクの目が驚愕で大きくなる。

右腕をサスマタのU字の中へ入れたまま、マーナは左手を素早く振るった。

赤い光が踊ったその直後、サスマタの金属製の柄が半ばで断ち切られ、両手で柄を握って押し込んでいたバスクの体は、支

えを失う形で前へ泳ぐ。

一瞬で身を捌き、交差する形でバスクの右脇をすり抜けるように動いたマーナは、その鳩尾に、跳ね上げた右膝を深々と埋

めていた。

「ごうっ…!?」

大きく開けた口から舌を突きだし、苦鳴を漏らしたバスクの巨体は、両足が地面から僅かに離れて宙に浮いている。

腰を回転させるようにして膝蹴りを繰り出したマーナは、その姿勢からさらに、反時計回りに身を捻り続けていた。

バスクの足が地面に戻る前に、さらに半回転したマーナの左足が、下から突き上げるようにして回し蹴りを放った。

膝を折って引き付けられた状態から加速を付けて伸ばされ、直線的な軌道で射抜くように放たれたその蹴りは、踵付近の靴

底でバスクの顎を真下から捉える。

蹴り足が真っ直ぐに天を突く姿勢で止まったマーナから、蹴り上げられたバスクの巨体が宙に浮いたまま離れて行き、仰向

けにどうと倒れる。

仰向けに倒れたまま動かないバスクは、顎を蹴り上げられた直後には完全に意識を失っていた。

蹴り足を地面に戻しつつ、マーナは素早く視線を動かすと、訝しげに眉根を寄せる。

棍棒を手にしている白い熊は、距離をだいぶ詰めてはいたものの、襲いかかって来ない。

短時間だったとはいえ、その気があればマラミュートと牛相手に立ち回っているマーナを攻撃する事もできたはずなのに、

白い熊にはそれを狙っていた様子もなかった。

「…何故、わざわざ待っていたのだ?隙を突こうとは思わなかったのか?」

問い掛けるマーナに、ドッカーはいささか困っているように顔を顰めながら応じる。

「最初はそのつもりじゃったが…、お前さんの戦い振りを見て、気が変わってしもうてのぉ…」

白い熊は目を細くし、マーナの姿を眺め回しながら続ける。

「生き死にがからんどるんじゃったら四の五の言っとれんが、わしは一人を大勢で叩くのはどうにも好きになれんでな」

「ほう…。それはもしや、武士道精神というやつか?」

マーナが共感を覚えたように口を挟み、ドッカーはいかにもやり辛いといった様子で顔を顰める。

「…お前さん、殺しは嫌いなようじゃのぉ?でなけりゃさっき、バスクを蹴飛ばしたりせんで、その左手をひと薙ぎしとった

はずじゃ」

熊中年の視線が注がれるマーナの左手には、赤い剣が握られている。

発生させた力場を剣の形に固着させた、エネルギーの結晶体とも呼ぶべきその剣は、日本刀を思わせる反りがある形状をし

ていた。

そのルビーのように赤い剣が、先程バスクのサスマタを易々と両断した一撃の正体であった。

発生させた力場を武器の形状に変化させる…、これもまた、マーナのグローブが秘めている機能の一つである。

放出し続けられる力場の絶対量は決まっている為、精製可能な武器はある程度の体積に限定されるが、可能な範囲内の体積

であれば、どんな形状にも変える事ができる。

「確信したんは、お前さんがバスクを斬らなんだその瞬間じゃ。腹に膝なんぞ入れんで、その剣を振れば首を落とせたはず…、

けんど、お前さんはそうせんかったのぉ?」

小さく頷いたマーナは、戦闘態勢を維持したまま、それでも少し胸を反らす。

胸を張るマーナの目は、信念の光を強く宿していた。

「何が何でも不殺を通すというつもりも無いが、不必要な殺傷は拙者が望む所ではない。排除するだけで良いのであれば、命

まで取る事は無かろう。そもそも我々に今回与えられているのは、殲滅任務では無い」

「…任務内容、わしに喋ってえぇんかの?少なくともお前さんトコの部隊は殲滅が目的じゃあないっちゅう事が察せられる訳

じゃが…」

ドッカーが小声で訊ねると、マーナはしばし黙り込んだ後、

「この程度はおそらく問題無いが…、できれば聞かなかった事にして貰いたい」

と、真顔で応じる。

「そこ…、故意に偽情報を伝えたようにも取れるよう、もうちょっと捻った事言った方がえぇんじゃなかと…?」

「む…?なるほど…」

少しばかり感心したように呟いたマーナを眺めながら、ドッカーは怪訝そうに眉根を寄せる。

(どうやら芝居じゃあなさそうじゃのぉ…。阿呆…、いや、ここはお人好しと言っておくが…、とにかくこの男、本当に犯罪

組織の構成員なんかの?素直過ぎてちとやばいのぉ…)

ため息をついたドッカーは、肩幅に開いた足をじりっと音を立てて踏み締め、ゆっくりと腰を落とし、鋼鉄の棍棒を握った

右手を後ろに引く形で身構える。

「個人的にやり難いけんど、これも仕事じゃけぇの…。連中を追っかける為にも、ちと手荒な真似ぇさせて貰うけぇ…、勘弁

じゃで?」

「拙者も皆を追わせる訳には行かん。何としてもだ」

応じたマーナは左手を一振りし、剣型力場の固着を解除して腕に纏いつかせ、迎撃態勢を整えた。

「アイゼンシルトがサブリーダー、特解中位調停者、洞河安慈(どうかあんじ)。参るでよぉ!」

名乗りを上げたドッカーに、マーナもまた声高に応じる。

「ラグナロク第六陸戦師団、グレイブ中隊が第二小隊所属、マーナ・ガルム!いざやお相手仕らん!」

「…お前さん…。あぁいや…、そのぉ…。…そう堂々と名乗って良かったんかのぉ…?」

ご丁寧にも詳細な所属込みで名乗り返され、若干困惑しているドッカーに、

「…できれば拙者の名以外は聞かなかった事にして頂きたい!」

マーナは真顔でそう告げ、白い熊のため息をかった。

(…この男…。素直過ぎて色々やばいのぉ…)