帝居襲撃事件後日談(後編)

突起がついた金属バットを思わせる棍棒が、唸りを上げて大気を粉砕し、シベリアンハスキーに迫る。

マーナはこの側頭部を狙った横薙ぎの一撃を、素早く、極端に低く腰を落とす事で避けた。

重量のある金属塊を右腕一本でフルスイングし、豪快に空ぶったドッカーの目は、グローブから発生させる力場を強めつつ、

屈み込む恰好で避けたマーナの姿を、しっかりと捉えていた。

縮めた身を伸ばしつつ放たれたマーナの左フックが、棍棒を振り抜き、やや横向きの格好になったドッカーの後頭部を狙う。

しかしこれに対して中年の熊は身を捻り、「ふん!」と荒い鼻息を漏らしつつ、頭突きをくれてやる恰好で迎撃した。

「なんと!?」

この防御方法はさすがに予想外だったらしいマーナは、力場を纏った拳を正面から打ち返すその石頭についてもそうだが、

その咄嗟の機転に驚嘆している。

シオンとバスクを数秒で返り討ちにしたマーナが、ドッカーを相手にした今回は、少々手こずっていた。

(この中年、一体どれほど場数を踏んでいるのだ?)

反撃に振るわれた、戻って来る鉄棍の薙ぎ払いを横へ跳ぶ格好でかわしたマーナは、着地と同時にバネ仕掛けのように再強

襲を仕掛けつつ、胸の内でそう呟いていた。

両者は既に五分以上もの間、息もつかせぬ攻防を繰り広げている。

鍛えられて無駄のない、若々しいマーナの体と違い、中年の域を半ばまで踏破したドッカーは、既にたるみ始めて腹の出た

体型。純粋なスタミナもスピードもマーナに軍配が上がる。

しかし、少々息切れはしているものの、中年の熊はまだまだ動きに衰えを見せない。

そのタネは、戦いという肉体労働に慣れ、体の芯に染み付いたドッカーの呼吸や動きにあった。

ドッカーは要所要所でのみ力を込め、それとは逆に、フォローモーション時には極端に脱力するなどして、限りあるスタミ

ナを有効活用しているのである。

さらに白い熊の戦技は、決まった形のない自己流で荒削りなものだが、これが一つ一つ理にかなっている。

潜り抜けた戦闘の数による経験と、要領の良さというアドバンテージ。

ベテランのドッカーは、同僚のシオンやバスクがまだほんの子供だった頃には、一人前の調停者として武器を握り、危険生

物との潰し合いに明け暮れていた。

現在でこそ、気に入った若者の副官という形でチームのサブリーダーに収まり、実質的な柱として皆を取り纏めているが、

若い頃は単独行動を好む気質が強く、海外を渡り歩いて武者修行に明け暮れ、大規模な作戦にも何度となく参加している。

大手柄を立てた事もなく、目立った戦果こそ上げていないものの、その累計戦闘数は、ラグナロク内でも兵器扱いされてい

るマーナのそれをも軽く凌駕している。

身体能力と単純な技能では上を行かれているが、しかしドッカーは経験でその戦力差を埋め、勝負を五分の物にしてのけた。



鳴り響く爆発音と、流れ弾が度々装甲車を掠めてゆく音に萎縮し切ったシノは、初めて目にする戦場で、衝撃を受けて立ち

竦んでいた。

焦げた臭い。血の鉄臭さと生臭さ。

四方八方から聞こえる怒声に悲鳴、銃撃音と爆発音。

そこかしこに倒れて動かない者がおり、生きているのか死んでいるのか、見晴らしの良い場所では、敵も味方も動けぬ者は

区別無く放置されている。

資格取得後の研修で、実際に殉職した調停者の遺体検分にも立ち合わされもして、ある程度の慣れはあると思っていたのだ

が、現実は違っていた。

本物の戦場の真っ直中で死体や負傷者を目にしたシノは、装甲車がその車体を利用して作ったバリケードの影で、車両から

降りて周囲を確認した後からずっと、得物であるロングダガーの鞘に手を置いたまま、カタカタと震えて立ち竦んでいる。

非常事態故に配給された小型機関銃は、銃火器取扱資格を取得していない彼女にとって、最初に触れる銃器となった。

しかし、いずれは戦果を上げて資格を取ると意気込んでいたにも関わらず、戦場の空気に呑まれてしまったシノには感動は

無く、むしろその機関銃は、重くて冷たくて不吉な物としか感じられなかった。

「うぶっ!」

凄惨な現場を目の当たりにしたショックと極度の緊張と恐怖により、不意に吐き気が込み上げ、シノは口元を押さえた。

が、堪えきれずに体をくの字に折り、装甲車の脇に嘔吐する。

「邪魔だ!動けないなら退いてろ!」

若い男性調停者の怒鳴り声が、屈み込んで胃の内容物を吐き出しているシノの背に、容赦なくぶつけられた。

誰にも余裕が無く、誰にも許容が無い。

戦場とは本来そういった物で、罵声を投げかけた調停者もまた必死なのだが、何かをする前から精神的なダメージで打ちの

めされているシノには、無力感を増大させるだけの一言になった。

慌ただしく駆け回る幾人もの足音を聞きながら、シノは胃液で酸っぱくなった口を半開きにし、涙で潤んだ目で自分が汚し

た地面を見つめる。

その弱々しい背を目にし、駆け寄った者があった。

「おい!」

突然かけられた声に身を震わせたシノは、ビクビクしながら背後を振り返った。

声を掛けてきたのは、服装からして調停者ではなかった。

この現場では、チームのユニフォームか、でなければ着慣れた独自の装備で身を固めている調停者達の中に混じる数名だけ

が、その服装をしている。

それは、警官の服装である。

警官の恰好をしたその男がどんな立場なのか、シノは勿論理解していた。

警察機構の中で、普段は一般の警官として業務に当たっている、調停者の監査役…、監査官であると。

男はまだ若かった。恐らく二十代前半から半ば程だと、シノは立ち上がりながら推測する。

その、体格が良い…というよりも太っている、制服がきつそうな不恰好な監査官の姿を、シノは気を付けの姿勢のまま観察

した。

制服のあちこちに土や煤がついて、まだらに汚れている。

顎が丸く頬が張った赤ら顔も黒ずんでおり、目の周りには手で擦ったのか、黒い丸が濃く残っていた。

(何だか狸みたい…)

場違いにもそんな事を一瞬思い浮かべたシノは、しかしこれから自分が叱責されるのだろうと考え、身を固くした。

「…新人か?」

嘔吐している様を目にし、また、向き合う事で彼女の未熟な雰囲気を感じ取ったのか、監査官は胡乱げに問う。

「は、はい!今年の秋に調停者になった、紫野朝香(しのあさか)と言います!」

姿勢を正して敬礼したシノを前に、太った警官の顔がみるみる赤くなった。

「今年の秋…?」

低い、少し震えた声で呟いた警官を見て、シノは身震いした。

怒らせてしまった。そう感じた彼女の前で、

「くそっ!新人はバックアップに徹底させろってお達しがあったばかりなのに…!搬送係め、いくら余裕が無くてもチェック

がずさん過ぎだ…!よりによって数ヶ月しか実務経験がない娘を…!」

太った警官は声を押し殺しながらも、苛立たしげに吐き捨てた。

シノが叱責を受けるものと思って硬くなっていると、警官は大きく息を吐いて広い肩を落とし、一転して済まなそうな表情

を浮かべて彼女の顔を眺めた。

「済まん…。君がここに配備されたのは、おそらく手違いだ…」

「え?」

自分が戦場に居る事も一時忘れて、きょとんとした表情を浮かべたシノに、太った警官はため息混じりに続けた。

「今回、この場での迎撃任務には、二年以上経験がある者しか配備しないはずだった。僕のような監査官が送り出し場所に居

たろう?その段階でチェックする事になっていたのに…、君は運が悪かった…。いや、運が悪いで済まされる話じゃない、本

当に済まない…!」

いかにも自分の失敗であるかのように、太った警官は深々と頭を下げた。

怒られると思っていたのに謝られたシノは、目を丸くし、口をパクパクさせている。

「君は戦闘に加わるな。このベースを離れずに、負傷者の救護に努めてくれ」

監査官は、救護車となっている特別頑丈な特殊車両と、スペースが足りずに車両の陰にまで寝せられている負傷者達を指し

示すと、シノが手にしていた銃を引ったくるようにして取り上げた。

「いいか?絶対に前に出ちゃあ駄目だぞ?救護車には僕の方から話をつけておくから…。もしも誰かに何か言われたり、戦闘

に加わるよう強制されたら、監査官のタネジマから救護専念の指示を受けていると言ってくれ」

タネジマと名乗った若くて太っている警官は、「さあ行って!」とシノを促すと、彼女から取り上げた小型機関銃をベルト

で肩にかけ、無線に向かって指示を出しながら歩き去って行った。

その、不格好と言えるはずの、太っているせいで制服の生地が張った背中は、シノの目には、高潔で頼もしい武官の背中の

ように見えた。



鉄棍棒が唸りを上げ、これまで数回そうしたように、今度もまた頬を掠めて行き過ぎると、

(えぇい!これではらちがあかん!)

マーナは緊張で輝きを強めている瞳に、決意の色を浮かべた。

(出し惜しみしていては、比喩ではなく夜が明けてしまう!ここは…)

横薙ぎにした棍棒に続いて、体を旋回させつつ左の裏拳を繰り出すドッカー。

並の人間であればその重量だけで吹き飛ばす、棍棒も必要なさそうな太い腕を、マーナははっしと両手で捕まえた。

ズザッと靴底が音を立てて滑ったものの、何とか踏み堪えたマーナに、左腕を取られたままのドッカーが、身の捻りを戻し

つつ棍棒を振るう。

「リミッター…、カット!」

声と同時に、マーナの体が急激に加速した。

振り向くようにして高速で身を捻ったマーナに、左腕を掴まれたままのドッカーが、巻き込まれる形で体勢を崩す。

その直後、マーナよりかなりボリュームがあるドッカーの体は、簡単に放り投げられて宙を舞っていた。

それは、振り向く勢いに相手を巻き込む、強引にして不格好な背負い投げである。

しかもマーナは、タイミングを合わせるでも、相手の力を利用するのでもなく、単純に膂力のみで投げ飛ばしている。

勢い良く投げ飛ばされたドッカーの体は、夜気を割いて道路を斜めに横切り、コンビニの店先にあるゴミ箱に激突した。

鉄製のゴミ箱に頭から叩き付けられ、これを粉砕して地面に転がる白い熊。

瞬間的に全身のリミッターをカットし、驚異的な身体能力を発揮したマーナは、投げたその瞬間に勝負はついたと確信して

いた。

だがしかし、ドッカーはすぐさま上体を起こし、首をぶるぶると振って立ち上がる。

「お前さんやるのぉ…。先にあの二人とやりおうとるっちゅうに、三番手のワシがこの有様とは…」

口調に感嘆すら滲ませたドッカーをまん丸にした瞳に映し、マーナは「おお…!」と驚きの声を漏らした。

「何と頑丈な…!まるで何事も無かったかの如く…」

「あんな真似しておきながら「何事も無かった」とか言うかのぉ?ま、丈夫さだけが取り柄じゃけぇ…」

応じたドッカーは口の中を切っていたらしく、顔を顰めながら血の混じった唾を地面に吐く。

熊族特有の頑強さは確かにあるが、しかしそれだけでダメージが軽減された訳ではない。

激突の際に首を護り、しかも衝撃を逃すように頭を僅かに傾けた事で、脳震盪も起こさず、首を痛める事もなく立ち上がる

事ができている。

だが、驚嘆するマーナを前にしながら、ドッカーは悟っていた。

ここまでは騙し騙しやって来て、なんとか凌いで来られたものの、おそらく自分の予定通りには事が運ばないという事が。

(こいつは参った、予定が狂ったのぉ…。この男、わしよりだいぶ強いでなぁ…。おまけにどうも闘志が湧かんでよ…。この

男、確かに犯罪組織のモンじゃが、たぶん悪党じゃあなか…)

そんな事を考えながらも、ドッカーが実際に口にしたのは、素直な感嘆の言葉であった。

「たまげたでよ。これほどの豪の者が一兵士とは、黄昏とやらも侮れんのぉ。今まで半分は噂だけの存在じゃと思うとったが」

「拙者も驚いた。失礼ながらアンジ、貴方はそれほど若くもないが、前の二人を合わせたよりも強い。…否、拙者がこれまで

に手合わせして来た敵の中でも、一、二を争う戦上手だ。一体どれだけの戦いを潜り抜け、磨き上げて来たのだ?」

「褒められる程大層なもんじゃなかとよ。わしゃたまたま死なんかっただけじゃけぇのぉ」

謙遜しつつも、さてここからどうしたものか?と考えを巡らせるドッカーに、マーナは身構えもせずに言葉をかけ続けた。

「そんな貴方がサブリーダーならば、リーダーはいかほどの強者なのだろうな?」

これにドッカーは、「ああ…」と声を漏らすと、次いで含み笑いし始めた。

「リーダーはワシよりずっと強か。戦闘パラノイア寸前のヤバいヤツっちゅう、人格的な欠点はあるがのぉ」

ハスキーは興味深そうに「ほう!」と声を上げ、次いで大きく頷いた。

「さて、貴方自身と貴方の話に興味は尽きぬが…。勝手ながら拙者、そろそろ行かせて貰う」

「行って貰っちゃあ困るんじゃて」

ドッカーがずいっと一歩踏み出すと、マーナはすぅっと目を細めた。

「いや、名残惜しいが是非とも行かせて貰わねば」

その声が耳に届くか届かぬかの内に、ドッカーは異変を察した。

(後ろに誰か…、伏兵じゃと!?)

突如背後に発生した気配。ドッカーが耳を動かし、一瞬気を削がれた隙に、マーナは素早く動いていた。

刹那の間、衝動的に視線を巡らせたドッカーが、自制して顔を正面に戻したその時には、ハスキーは「さらば!」と言い残

しつつ、建物の隙間、路地とも呼べない空間に飛び込んでゆくところであった。

その鮮やかな逃走に「ぬぅ!」呻いたドッカーは、伏兵に注意し、素早く振り向き改めて背後を見遣る。

が、そこには誰もおらず、確かに感じたはずの気配も消えている。

「…誰もおらん…?」

胡乱げに眉根を寄せたドッカーは周囲を見回し、「何かの能力じゃろうか…?」と、ぼそぼそと小声で呟く。

そして、とりあえず攻撃を受ける危険は無いと判断し、倒れ伏している同僚達の無事を確認すると、顔を歪ませて深い苦笑

いを浮かべ、ガリガリと頭を掻いた。

「完敗じゃ…。このざまじゃと、ハイメに何を言われるか判ったもんじゃないのぉ…。っと…」

車両に搭載された通信機が呼び出しを告げ、足早に車へ戻ったドッカーは、痛む首後ろをさすりながら、運転席に身を乗り

入れ、通信機のマイクを手に取った。

「わしじゃ」

『サブリーダーか。シオンとバスクもそっちに居るか?』

やや低いもののまだ若い声が通信機から零れる。

「任務中にコウが連絡取って来るとは珍しいのぉ。ひょっとして悪い報せじゃあなかと?」

からからと笑い、冗談めかして訊ねたドッカーに、しかしコウと呼ばれている通信相手は返事をしなかった。

「ん?どうしたんじゃ?まさか本当に悪い報せかの?誰か重傷なんか?」

ドッカーが再び問うと、沈黙していた通信機から、低い声がゆっくりと流れ出た。

『…落ち着いて聞いてくれ。いいか?これは冗談じゃない』

そう切り出した相手から、続けてその情報を伝えられたドッカーは、

「…な…?」

掠れた声を漏らし、呆然とした表情でマイクを取り落とした。



救護役として慌ただしく動き回っていたシノは、ひっきりなしに運び込まれていた負傷者が急に少なくなった事で、ようや

く一息入れる事ができた。

全滅したチーム、十数名が運び込まれ、しばらくの間凄まじい状況になっていたのである。

もっとも、元々衛生兵としての訓練を受けていた訳でもない彼女は、湯を運んだり、不器用に包帯を巻いたりといった、補

助の補助しかできていない。

車両の脇に屈み、乱れた髪も直さぬまま、ぼうっとした顔で周囲を見回したシノは、先に運び込まれた負傷者の一人に視線

を止めた。

担架を利用した簡易寝台に寝かされている、既にこの場でやれるだけの手当ては受けたのだろうその負傷者は、狐の獣人で

ある。

先ほど運び込まれた者は全て、絶望的な傷を負っている。その狐もまた、息があるのが不思議なほどの重傷であった。

シノは自分と同じ位の歳、恐らくは二十歳前後だろうと考えている。

中性的な整った顔立ちをした若い男性だが、端正な顔は、その左半分、頭部から頬にかけてが、中から滲んだ血で大部分が

赤く染まった包帯で覆われていた。

上着を脱がされており、剥き出しになった胸や腹にも包帯が巻き付けられ、その上から毛布がかけられている。

だが、毛布の盛り上がり方から、彼の左腕が付け根から無くなっている事が、離れているシノにもはっきりと解った。

彼を含め、先程纏めて搬入された負傷者の一団は、同じチームであったらしい。

運び込まれた時には既にかなり失血しており、もはや手の施しようが無かった。

重傷を負っている彼は、表情もなく両目を閉じており、微かに上下する胸を除けば、死んでいるようにも見えた。

しばらくその狐を見つめていたシノは、不意に彼が身を震わせたので、驚いて立ち上がる。

か細い呻き声が薄く開いた狐の口から漏れ、シノは慌てて駆け寄った。

「い、痛みますか?それなら鎮痛剤をお願いして来ますけど…」

屈み込んで声を掛けたシノの顔を、狐は薄く目を開けて見つめた。

「…いや…いい…。痛いって事は…、まだ…生きてるんだな…、おれ…」

ぼうっと遠くを見ているような、焦点のあっていない目を真っ直ぐ夜空に向けながら、狐は微苦笑を浮かべた。

「…でも…、そろそろ…限界…だな…。悔いはない…。思う存分…戦えた…。望んでいた…通り…、強い相手に…負けて死ね

た…」

「縁起でもない事言っちゃダメです!」

「優しいな…あんた…」

狐は弱々しく口の端を上げて笑ったが、不意に哀しげな表情を浮かべた。

「悔いはない…。ただ…、一つだけ…、心残りが…」

「ハイメぇっ!!!」

突如響いた大声に、シノはビクリと身を震わせ、狐は微苦笑を顔に刻んでゆるやかにため息をつく。

「ああ…、どうやら…、その心残りも…、無くなったらしい…」

シノが首を縮めつつ、弾かれたように首を回すと、バリケードの外から飛び込んできた中年の白い熊が、二人の元へと駆け

込んで来た。

慌てて退いたシノの前で、つい先程、本隊壊滅の報を生き残りから聞かされたドッカーは、地面に跪き、自分達のリーダー

である狐に顔を寄せる。

「来てくれたな…、ドッカー…」

キツネ色の毛を余す所無く血で染めた負傷者は、弱々しい、しかし嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ハイメ…。お前程の者が、どうしてじゃ…!」

瀕死の狐の一方だけになってしまった手を取り、ドッカーはその体を改めて見る。

下唇を噛み、怒ったような顔をしているドッカーの目に、血で赤く染まった包帯と毛布が映り込んだ。

この状況では満足な手当てもできないが、防衛ラインを維持するだけで精一杯で、負傷者を後方へ下げる余裕すら無いのか?

それとも指令を下している上の者達は、送り込むだけ送り込む捨て駒のつもりで調停者を扱っているのか?

その答えが後者であった事をドッカー達、生き残った調停者達が知るのは、年が変わってからの事である。

「ブルトガングが…折られた…。はは…。レリックを…破壊するなんてな…。そのまま左腕も持ってかれちまったよ…。あん

なの初めてだ…。居るんだなぁ…、あんな…、バケモンみたいに強いヤツ…。すっかり…、満足…、しちまった…」

「お前は…!あの時、約束したじゃろう…!死なんと約束したじゃろう…!わしより早く死なんと…!じゃからわしは引き受

けたんじゃろうが…!?」

自身もボロボロの衣類を纏い、白い体を所々朱に染めている中年の熊が、悲痛な声を漏らす。

自分より早く死なない事。

それが、ドッカーがハイメからチーム結成の誘いを受けた際に告げた、ただ一つの条件であった。

その約束を交わして以来、腕は立つが人を纏めるのが苦手で、血気盛んで無鉄砲で、しかし魅力的なこの若い狐を、ドッカ

ーは公私に渡り、副官として支えて来た。

だが、他の約束は度々破った狐がこれまで守ってきた一番大切な約束も、今、破れようとしている。

ハイメは微苦笑を浮かべ、震える手をドッカーの頬へと伸ばした。

「ゴメンな…。また…、約束破る…」

「言うな!許さん!先に逝く事なんか許さん!他は良い…!他は良いけんど、この約束だけは守らんと承知せん!」

怒鳴るドッカーに、ハイメは笑いかけた。

その手が白い熊の頬を離れ、傍らに置いてあった得物に伸びる。

鞘に収まった剣と見えたそれは、狐の手が動いて抜けると、半ばから断ち折れているのが明らかになった。

「ブルトガング…、持ってけ…」

朦朧とした視線を自分に向ける狐の、震えながら持ち上がった手を、掴まれている折れた剣ごと握り、ドッカーはブルブル

と激しくかぶりを振る。

「駄目じゃ…!ハイメ…!大学卒業したら、一緒に暮らすんじゃろう!?」

「はは…、その約束も…、破っちまう…、なぁ…」

「破るなハイメ!二つとも守らんといかん!」

「いつも…悪い…けど…、後の…事…、任せ…」

「ハイメ!駄目じゃ!」

狐の声は、吐息に紛れてかき消えそうな程に弱々しい物になっており、ドッカーに場所を譲る形で一歩引いたシノの耳には、

もはや内容までは聞き取れない。

「ドッカー…、最期に…、また…、顔…見れて…」

「…ハイメっ…!」

震える声で名を呼んだドッカーに、ハイメは微笑みかけた。

もはや苦痛も無く、満たされた、透明なその笑みに見入るドッカーに、

「…愛……て……る…」

何度となく囁いた言葉を伝えたハイメの、その震える手が、カクンと力を失った。

微笑みを浮かべ、半眼にした目を彼岸の彼方に向け、穏やかな表情で事切れたハイメを、

「………」

唇を噛み、声も涙も漏らさぬように堪えたドッカーは、グッと抱き起こし、きつく、きつく抱き締めた。

声も出せず、言葉もかけられず、ただただ立ち尽くしているシノの前で、やがてドッカーはハイメの遺体を横たえ、すっく

と身を起こした。

その手には、大振りな鉈のようになった折れた剣が、しっかりと握られていた。

横たわる仲間へ黙祷を捧げるその広い背中を、目を潤ませて見つめていたシノは、振り返ったドッカーと視線が合い、そっ

と目を逸らす。

「お嬢ちゃん、相棒が世話になったのぉ。悪いけんど、もうちっとここに寝かしてやっとってくれんか…」

「は、はい…」

涙も見せず、凛と背筋を伸ばした調停者の姿を前に、シノは疑問を感じていた。

見えざる脅威から人々を守る調停者。

その調停者を守ってくれるのは、一体誰なのだろう?と…。

ドッカーが脇を歩いて抜けると、シノはハイメの遺体の傍らに跪いた。

そして、うっすらと笑みを浮かべている狐の、半眼になっていた目に静かに指を添え、瞼を閉じさせてやる。

(仕事なんだ…。これが、調停者っていう仕事なんだ…。でも…)

ハイメの顔を見つめながら、シノは考えた。

状況の説明もろくにないまま、後先考えずに送り込まれた調停者達。

一向に来ない援軍と、あの太った若い監査官一人を残して自分勝手に撤退し、いつの間にか姿が見えなくなった監査官達。

もやもやとした物が、彼女の胸中に蟠り始めたその時、屈み込んでいる彼女の頭上で声がした。

「あらあらあら。こんな所に居たのね?」

声に続いてコツリと、赤いハイヒールがシノの視界に踏み込んだ。

顔を上げた彼女の目に、いつからそこに居たのか、見覚えのない女性の姿が映り込む。

ハイメの遺体を挟む形でシノとは反対側に立った女性は、肩の高さまで伸ばした、灰色の、ソバージュがかけられてフワフ

ワした髪を耳から払い、艶然と微笑む。

「探したわよ貴方?」

場違いな程に立派な、仕立ての良い赤いスーツに身を包んだ女性は、深紅のルージュが引かれた唇をキュウっと吊り上げた。

話しかけている相手はシノではない。彼女の目は、横たわるハイメの顔に向けられていた。

「負けちゃったとはいっても、あの銀狼君を相手にそこそこ善戦していた貴方なら、優れた素体になるわ」

返事が出来るはずもない相手に楽しげな口調で話しかける女性の、アーモンド型の目が笑みの形に細められる。

その灰色の瞳を呆然と見上げるシノは、しかし呆けたようなその表情とは裏腹に、恐怖で身動き一つできなくなっていた。

「お嬢ちゃん!そいつから離れぇ!」

怒鳴り声が響いたのは、シノの後方からであった。

再び戦いに赴こうとしていたドッカーは、怖気を感じて振り返ったその直後、全身から脂汗を噴き出させながら無意識に身

構えていた。

経験の浅いシノでも判る異常な気配が、ドッカーに判らないはずもない。

何度も死線を潜り抜けて来た彼の、戦士の本能が全力で告げていた。

その女は敵だ!

そんな警告が、神経を引き絞るような激しい悪寒と共に全身を駆け巡っている。

しかし赤い女は、叫ぶドッカーに視線を向ける事もなく、間近に居るシノすら無視し、ハイメの顔をじっと、うっとりしな

がら見つめていた。

「欲しかったのよねわたしも。一山いくらの凡夫なんかじゃない、と〜っても強い私専属のエージェント。そう、ベヒーモス

のような…」

「お嬢ちゃん!離れぇっ!」

ドッカーの再度の警告にも、シノは魂が抜けてしまったように動かない。

シノが自力で逃げられない事を悟り、腹を決め、危険を覚悟で駆け寄ったドッカーは、しかしシノの背にその手が触れる寸

前、妖艶に微笑む女性が顔を上げた途端に、後ろ向きに吹き飛ばされる。

「っぐぅ…!?防壁か?」

一度背中から地面に倒れ込みつつも、即座に跳ね起きたドッカーに、女性は冷ややかな視線を向けた。

「そこら辺のつまらない男に興味は無いのよ。それに貴方、あまりハンサムでもないしね、悪いけど私の好みじゃな…」

「おおおおおおおおおおっ!」

女性の言葉は、再び駆け込んだドッカーの雄叫びにかき消された。

白い熊の手に握られているのは、折れて短くなった剣。

その、ハイメの愛剣だったブルトガングが、新たな所持者の精神の昂ぶりに反応して激しく震動する。

女性とハイメ、そしてシノの周囲に張り巡らされた不可視の防壁に、高速震動する刃が撃ち込まれ、浅く潜り込んだ。

「…あらあらあら…。偶然?それとも本能的に察したのかしら?見えないはずの流動の境目を…」

ブウゥゥンと、振動音を発しながら、師譲りの強力な防壁に僅かながらも食い込んできた刃を目にした女性は、少しだけ目

を大きくした。

「前言撤回。顔もスタイルも好みじゃあないけれど、力の方はギリギリ合格かしらねぇ?」

この時になって、ようやく周囲の調停者達が異変に気付いた。

声が上がり、続々と集まっては自分を目にするなり凍り付く調停者達が増えてくる様子を眺めつつも、女性は相変わらず艶

然と微笑んでいた。

「あらいけない…。私は今回一応裏方だったのよねぇ…。騒ぎは起こさないように言われていたのに…」

ラグナロク中枢メンバーの一人、術士ヘルは、防壁越しにドッカーに向かって手を差し伸べる。

「ちょっと惜しいけど、今回は諦めるわね」

神代の当主が首都に駆け付けている今回、下手に顔を合わせて刺激してはまずいので目立つ動きは控えるようにと、師から

言い含められていたヘルは、本来であれば殺して連れ帰る事も辞さない彼女にしては珍しく、大人しく撤退する事を選んだ。

「貴方はまた今度、機会があればにしておくわ」

その言葉が終わるが終わらないかの内に、ドンッという音と烈風が、その場から吹き抜けた。

すり鉢状に抉った地面を足場に、球状の防壁に守られたまま高速で上空へ飛翔したヘルの姿を見上げ、喉も裂けよとドッカ

ーが吠える。

「お嬢ちゃん!ハイメぇっ!」

ヘル、そしてハイメの遺体とシノを内側に守った球状の防壁は、追う手段も持たない調停者達を置き去りに、そのまま飛び

去った。



しばらく飛翔を続けた後、まるでたった今気付いたように、ヘルは唐突にシノへと視線を向けた。

直径3メートル程の防壁内で、逃げ場もなく固まっているシノに、

「連れて来ちゃったけど、貴女は要らないのよねぇ…。ごきげんよう」

ヘルはそう言って微笑みかけつつ、右の手の平を向けた。

直後、軽い衝撃を胸に感じたシノは、防壁の外側に放り出される。

「きゃああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

地上50メートルという高さで防壁の外に出されたシノは、耳元で唸る風に自分が上げている悲鳴すらかき消され、何も聞

こえないまま落下して行った。

空を見上げる形で背中から地上へと落下してゆくシノが、硬く目を閉じたその時、

「御免っ!」

吠えるような声と共に軽い衝撃があり、彼女の体は落下の勢いを弱められた。

ビルとビルの間を反射するように跳ね飛んで駆け上がり、落下してきたシノを空中で抱き止めるという荒技を披露したのは、

「少々揺れるが、我慢して貰うぞ!」

先程ドッカーとの戦闘を中断し、仲間の後を追ったラグナロク兵、マーナであった。

リミッターをカットし、超人的な動きでシノを拾ったマーナは、彼女を小脇に挟む形に抱き直しつつ落下し、その途中でビ

ルの壁面へ、赤いグローブが形成した刀状の力場を突き立てる。

落下の勢いを殺しつつビルの壁を伝い落ち、完全に衝撃を殺して地面に立ったマーナは、腕の中でガタガタと震えているシ

ノを見遣る。

怯え切った若い女の目を、痛ましげに、そして興味深そうに見つめるマーナ。

「いかに冬とはいえ、雪や霰に留まらず、まさか女子まで降って来ようとは…。流石は拙者が憧れた神秘とアニメとサムライ

の国ジパング!「親方!空から女の子が!」とはまさにこれか!」

シチュエーションそのものにやや興奮しているらしいハスキーは、後方から響いた「何があったのだマーナ?」という声に

首を巡らせた。

「親方!空から女の…ではなかった。小隊長!空から若い女性が降って参りました!」

声を張り上げて答えたマーナの腕で、緊張の糸が切れたシノは、意識を失ってガックリと脱力した。

急にぐにゃりと折れたシノの体を、両腕で支える形に抱き直しつつ、

「そなたはもしや、滅んだ古代文明の王族の生き残りではあるまいな?」

返事を期待せず問い掛けたマーナの声は、冗談交じりではあったものの、若干の期待を孕んでいるようにも感じられた。

これが、ラグナロク兵マーナと、新人調停者シノの、奇妙な関係の始まりであった。



「埃っぽい上に狭いな…」

電話を受け、駅から現場へやって来たダウドは、部屋を見回すなり呟いた。

その、換気扇が回り続けている狭い部屋を、ブルーティッシュのメンバー達が調べ回っている。

元々は倉庫だったらしく、品物が雑多に置かれているその部屋の壁際には、簡易寝台が一つ置かれていた。

そこは、首都の端、川縁に建つ倉庫と事務所が兼ねられた、とある運送会社所有とされる建造物の一室である。

だがしかし、表向きはまともな運送会社を装っていたそこは、危険生物やレリックを違法取引し、運搬する裏業者であった。

監査官達も密かに監視しつつ、探りを入れていたが、この度違法取引の証拠が入手できた為、ブルーティッシュが制圧に入った。

ユウヒの見送りがあったダウドは、小規模である事が明らかだったので、作戦指揮は幹部の一名に任せていたのだが、ここで思わぬ情報が入手された事で飛んで来たのである。

「ほう…。襲撃犯らしいヤツをな…」

白虎が金色の瞳で周囲を見回しながら呟くと、状況を報告していた中年男性が頷く。

「匿っていたのは二日前まで、ガタイが良いシベリアンハスキーで、人質と思われる若い女を連れていたそうです。本当かどうかは判りませんが、本人はラグナロクだと…その、うっかり漏らしたような感じで言っていたそうで…。本当であれば、撤収に失敗した残党と思われます。人質を伴って移動したらしいですが、ここから後の潜伏先は不明です」

ダウドは驚いた様子もなく頷き、「ま、ラグナロクってのは間違いないらしいな…」と低い声で呟いた。

訝しげに「は?」と問い返した部下に、ダウドは「いやこっちの話だ」と首を左右に振って見せ、別の事を問う。

「で、人質にされている女の方はどうだ?」

「そちらは身元が特定できました」

「お?早いな…」

即座に返ってきた答えに、白虎は感心したように表情を緩めた。

「捕らえた数名の内、ハスキーと女を実際に見たヤツらに、先の襲撃戦から行方不明になっている調停者達の顔写真を見せて照合しました」

「それはまた手早いな。良いぞ良いぞ」

顔は怖いが女性に優しいダウドは、部下の手際に気を良くした。

「当日夜、防衛に当たっていた調停者、紫野朝香、19歳で間違い無さそうです」

「…ん?紫野?19歳?」

ダウドは何か引っかかったらしく、少しの間考え込むと、やおら「ああ」と声を漏らした。

(資格を取ったばかりの娘だな。俺とネネが審査員になった試験で…、去年の秋ごろだったか?少々やせぎすだが魅力的な娘

だった。…小振りな尻なんかがこう…、あれはあれでアリだな…)

一人納得してうんうん頷いた後、白虎はしみじみと呟く。

「そうか、あの日配備に…。捕らえられたとはいえ、あの戦闘を生き延びたとはなぁ…。運が良いのか悪いのか…」

先の襲撃事件では、ラグナロク側も精鋭部隊を送り込んでいた。

ベテランや腕利きの調停者達ですら大打撃を受け、多くの犠牲者が出たあの市街戦で、さして取り柄もない新人が生き延び

られたのは僥倖と言えた。

「それで、移動先については目下尋問中ですが…、判明し次第調査と監視に1チーム送り込む形でよろしいでしょうか?」

指示を仰ぐ部下の声を受け、ダウドは僅かに顔を引き締めた。

「そうだな。ただし、見つけたとしても、絶対に俺かネネ抜きでは仕掛けるなと厳命しておけ。標的一人だけで、邪魔が入ら

ない状況だったとしてもだ」

「は?はぁ…。解りました。…相手に心当たりでも?」

慎重な指示を耳にして怪訝そうな顔になった部下に、ダウドは「無い」と即答する。

「勘みたいなもんだが、そいつ…、かなりやるはずだ…」

完全に納得してはいなかったが、中年の部下はダウドに意見しようとはしなかった。

一見、大雑把にも見える偏った采配をする事も多い白虎だが、その指示が仲間を敗戦に導いた事は、これまでに一度も無い。

無謀で危険にも思えた指示でも、それに従って切り抜けた後に思い返してみれば、犠牲と被害を最小限に食い止める好結果

を生んでいた事に気付ける。

個人戦において無類の強さを発揮するこの天性の喧嘩上手は、「戦場も状況も結局は生き物」という観念を持つ。

そして、敵と味方の群れを巨大な生物と見なして指揮を取る。

独自の認識によって拡大解釈された「喧嘩」においても、ダウドは優れた指揮官ぶりを発揮している。

だからこそブルーティッシュのメンバー達は、リーダーの判断を全面的に信頼していた。

常時はちゃらんぽらんで書類を放置して気ままに現場に出て歩き会議をすっぽかすなど好き勝手に振る舞っていても…、で

ある。

そんな一見無責任で気ままに見えるリーダーは、今日に限っては珍しく神妙な顔つきをしており、首周りの毛を微かに逆立

て、縞々の長い尻尾を振り子のように揺らしている。

(襲撃事件から一ヶ月だ。一ヶ月もの間、俺達に気付かれず、単独でこの首都に潜伏を続けられるようなヤツ…。間違いなく

ヌルい相手じゃあない。おまけにこの感じ…)

ダウドは微かに鼻を鳴らし、金色の目を細めつつ、厄介事に出くわしたと言わんばかりに顔を顰めた。

(エインフェリア…かもしれん…。まぁ、俺の勘違いって可能性もあるが…)