灰鉄の猫と赤銅の熊
指定されていた列車の個室に入ったユウヒは、スライドしたドアの手前で立ち止まり、目を大きくした。
ダウドがユウヒの為に手配させていた席は個室だったのだが、そこには既に先客が居たのである。
「…何故此処に?いつの間に?」
驚きの視線を注がれているのは、艶やかなグレーの、美しい毛並みと顔立ち、完璧なプロポーションを持つ若い女性…、猫
獣人であった。
「前の駅から乗っておりました。降りる駅を間違えないように、案内役として同行します」
ブルーティッシュのサブリーダーであり、神将家の一角たる神崎家の長女でもあるネネは、足を組んで長椅子に腰掛けたま
ま微笑む。
「首都の街中ではいささか迷い気味だが、流石に降りる駅は間違わぬよ」
大きな体を屈めて入り口を潜り、微苦笑を浮かべて応じたユウヒは、ネネと向き合う形で腰を降ろし、長椅子を軋ませる。
それなりのスペースが確保された個室は、しかし身の丈2メートル半を越える恰幅の良い巨熊が入ると、一気に狭くなった
ように感じられた。
堂々たる巨躯を和装に包んだユウヒと向き合うネネは、ダークグレーのタイトなスーツに、冬用のブーツとハーフコートと
いう格好である。
彼女が日中にブルーティッシュの制服や戦闘服、神崎の紋が入った着物以外を着るのは、帝居襲撃事件以来であった。
「家の方はもう良いのかな?」
「ええ」
「ぶるうてぃっしゅの方は?」
「今日一日休みを取りました」
先の事件より今日まで同じ首都に居ながら、ネネもダウド同様、ユウヒとゆっくり話をする機会が無かった。
彼女はブルーティッシュサブリーダーであると同時に、神崎家の次期当主候補者でもある。
先の事件後しばらくして、高齢の現当主…つまりネネの祖母は、無理がたたって床に伏せってしまった。
そのため当主の代理役を務めねばならなかった彼女の多忙さは、この件に関わった機関の全人員中、間違いなくトップクラ
スであった。
ブルーティッシュ側ではネネを敗残兵探索から外すという痛手を被ってまで実家に帰していたが、それでも疲労はかなりの
物で、目は少々落ちくぼみ、瞼がかかって半眼になっている。
それほどまでに、神将家筆頭たる神崎の当主代行としての事後処理は重責であった。
挨拶がてら近況を訊ねるユウヒに明確な受け答えをしつつ、ネネは先に用意していた車内販売の茶を、近しい親類のように
慕っている巨熊へ勧めた。
「…して、どのような件かな?」
茶を一口啜ったユウヒがそう訊ねると、ネネは少しだけ目を大きくした。
「迷子にならぬよう送りに来てくれたというのは、さすがに建前であろう。何か用件があったのでは無いかな?」
「予想以上に簡単に見抜かれてしまいましたね」
微苦笑したネネは、考えても見ればユウヒの前では隠し事などそうそうできないのだと、改めて実感した。
思念波を感知するネネのような能力などを持っていないにも関わらず、この巨熊は相手の精神の揺れをある程度読み取る。
本人曰く「なんとなく」というレベルではあるが、その洞察力は人類相手のみならず、明確な言語形態すら持たぬ動物に対
してすらある程度有効となっている。
これは、神代に伝わる戦心得を肝に銘じ、能力にも匹敵するレベルにまで鍛え上げた、ユウヒの強みの一つであった。
一対一での戦闘において、相手の意図を洞察する力は、極めて強力なアドバンテージとなる。
何をして欲しくないか、そして何をして欲しいか、相手からこれらを読み取る事が出来れば、負ける事はそうそう無い。
この、相手の意図を読み、呼吸レベルで把握する洞察力こそが、ダウド曰く「究極のタイマンスキル」…認識の間隙を突く
絶技、無拍子の発現を可能としている主たる要素でもある。
「気ばかり若いですが、お祖母様ももうお歳…、体が無理を聞きません」
このネネの言葉に、先の事件で自らも実感していたユウヒは、顎を引いて同意を示した。
超広域探査能力は、神崎家当主の老いた体にはかなりの負担となった。
その後帝家を巡る様々な決め事に立ち合い続けた事もあって、今は床に伏せってしまっている。
「本人はまだまだ当主の座を降りないと言っていますが、それもあと何年保つかは怪しく…」
「いよいよ、当主引継ぎが迫って来たか…」
頷いたネネは、その目をひたりとユウヒの瞳に据える。
「そこでお願いしたい事が」
「ふむ?」
声を潜めたネネにつられるようにして、僅かに声のトーンを落としたユウヒは、
「次期当主に、ユウヒさんからネムを推薦して頂きたいのです」
この言葉を聞いて目を丸くし、口をあんぐりと開けた。
次期当主に己以外の者を推薦して欲しい…。つまりネネは今、次期当主になる気が無いと、ユウヒに宣言したのである。
「何を言うかと思えば…!出来る訳が無い!そもそもそれでは、ダウド殿が神崎家と交わした約束を違える事となろう!」
「約束を破る事にはなりません。あの人がプロジェクトヴィジランテへの協力の代償としてお祖母様に誓わされたのは、「私
の夫になる事」であって、「当主の婿になる事」ではありませんから」
「それは…!ネネ嬢が次期当主に他ならぬと目しておられるからこそ、そのような言い様をなされたのであって…!」
流石のユウヒも、突拍子もない話をされて面食らっていた。
ネネ達の父母は、かつての裏帝及び逆神との戦いにより若くして逝去している。
その為、ネネ達姉妹のいずれかが、祖母から次期当主の座を受け継ぐ事となる。
しかしネネの妹、猫夢(ねむ)は生来目が見えず、体も弱く、姉のように普通の学校に通って世間を楽しむという青春時代
を送る事すら叶わなかった。
その病弱さから、ネネのように武技を身に付ける事もできず、ただ屋敷の奥で多くの者達に心配され、世話をやかれ、外の
風にも当てられぬよういささか神経質な程大事にされている。
気温が下がれば過剰な程に暖にあたらせ、風が強くなれば屋敷の最奥に押し込められ、使用人の誰かが風邪を引いたとなれ
ば近付く者への検査が徹底される程である。
かつて、ユウヒが若くネムが幼かった頃、外に出たいとせがまれてこっそり連れ出した際には、すぐさまバレて屋敷中が大
騒ぎになった。
ネムが居なくなっている事に気付いた神崎家当主が、その探査能力によって二人を捕捉、ユウヒの父である当時の神代家当
主、神代熊鬼(くましろゆうき)が直々に出向き、都内の動物園から強制的に連れ戻されている。
なお、その後ネムは熱を出し、ユウヒは父と母のみならず、ネネ達の祖母にまでこってり絞られた。
ユウヒはその時の事を思い起こし、若かりし頃の軽率な行為を恥じながら、到底戦になど出向けないであろうネムの体の弱
さを、その細さを、そして何より荒事に向かないその気質を、細々と思い浮かべては頭の中で並べる。
周囲からの評価では、ネムの当主としての資質は、姉であるネネに大きく劣る。
一見たおやかでありながらも芯が強く、しっかり者で社交的な姉とは性格が大きく異なり、ネムは引っ込み思案で内気、お
まけにかなり臆病である。
そんな娘に神将家筆頭たる神崎の当主がきちんと務まるのかと問われれば、これにはユウヒも簡単には頷けない。
そもそもネネの祖母である現当主は、ダウドを神崎家へ婿入りさせて、次の当主となるネネの夫兼守護者とする心積もりで
ある。
それを重々承知していながら、「当主の婿になる事など約束はしていない」などと言葉遊びのような主張までして、自分に
代わり病弱な妹を推そうとするネネの考えは、付き合いの長いユウヒにも図りかねた。
その探るような視線を受け、ネネは微苦笑する。
「何も自由欲しさにネムを人身御供にしようとは思っていません。考えに考えた結果です」
ネネはそう前置きすると、改めて自分の考えをユウヒに説明し始めた。
「あの人はああですから、神将家の一員など務まりません。…それに、上手く風を屋敷に閉じ込められた所で、閉ざして止まっ
てしまっては、それはもう風ではありませんから…」
最初は微妙な表情だったユウヒも、ネネの話を聞いてゆく内に、否定的だった態度と疑惑の表情を少しずつ緩めてゆく。
「…ネムは確かに体も弱く、前線に立つなど無理です。しかし、本来神崎は探査と警戒を担う神将…、そして、能力その物な
ら私よりもネムの方が優れています。それに、他にもあの娘には適任と思える部分があって…」
ネネは様々な点を上げて、ネムの資質は決して当主に不足してはいない旨、骨を惜しまず丁寧に説明した。
その内容はユウヒにも特段反論すべき点のない物ではあったが、しかし巨熊はすぐさま賛同の意を示したりはせず、ネネの
言葉に注意深く耳を傾け続けている。
「プロジェクトヴィジランテの進行に伴って、神崎家の武力が要求されるケースも減少して行く以上、ダウドは今まで通りの
ポジションこそが適任であり、神崎家に組み込まれるべきではないと考えました」
「つまり、ネネ嬢が当主となる事でダウド殿の婿入りが決定してしまえば、かえって力が削がれてしまう…。ダウド殿の力を
減じぬ為にも、ネネ嬢が当主になる訳にはゆかぬ、と…、そういう事か…」
我が意を得たりと大きく頷いたネネを前に、ユウヒは軽く目を閉じ、何事か深く考え始めた。
黙考するユウヒと、それを邪魔せず黙っているネネの間に、長い沈黙が落ちる。
しばしあって、目を開けたユウヒは手にしていた紙コップを口元に運び、だいぶ冷めてきた茶をぐっと含んで飲み下した。
空の紙コップを握った手が脚の上に下りると、列車の振動音のみが支配していたその部屋に、低く威厳のある声が割り込む。
「あい判った」
黙り込んでからかなりの時間を経てユウヒがそう声に出すと、ネネは表情を輝かせた。
が、巨熊は「引き受けるとは言っておらぬぞ?」と、すぐさま釘を刺しにゆく。
「今の話、ネネ嬢一人の考えであろう。まだダウド殿にも、ネム嬢本人にも話しておらぬな?」
「はい。まずはユウヒさんを味方に抱き込む所から始めようと考えましたので…」
悪びれもせず正直に言ったネネに、ユウヒが軽い苦笑を向ける。
「俺の条件は、ダウド殿とネム嬢にも話を通し、二人の承諾を得る事だ。二人が首を縦に振るならば考えても良いが、当人達
が知らぬ今の状況では土台にも至っておらず、話にならぬ。それに…」
ユウヒは一度言葉を切ると、軽く顔を顰めた。
「我家はかつて逆神を出した家柄…、神崎家の跡継ぎ問題に口を出せば、帝の側近衆があまり快く思うまい。俺が疎まれるの
はともかく、言を受けて当主となったネム嬢、ひいては神崎家までが嫌われては、務めにも支障が生じるやも知れぬ」
巨熊はそこで軽く首を振り、困った物だと言いたげに太い首を竦め、苦笑いした。
「なにせ山奥に引っ込んでろくに顔も合わせぬ神代と違い、神崎家と側近の御歴々は隣人のような物…。嫌いなら嫌いで結構、
と開き直る訳にもゆかぬでな。この辺りの事も慎重に考えねばならぬだろう」
「判りました。二人にも近い内にこの考えを伝えて、相談しておきます」
応じたネネは神妙な顔つきだったが、元々すぐさま引き受けて貰えるとも思っていなかったので、落胆はしていない。
実際に動き出す前にユウヒに告げておき、意見を聞いておきたかっただけなので、今日の所は目的を果たしている。
ユウヒに完全に反対されるようなら考えを改めなければならないとも思っていたが、少なくとも頭から否定はされず、それ
なりに前向きに考えてくれる様子である。
この時点で、実はまだ考えが揺れていたネネは、ネムを当主に据える事を決意した。
「ところで…、シバユキ君の経過はどうですか?」
ネネが話を切り換え、ユウヒの従者の事を話題に出すと、巨熊は目を僅かに細めて耳を後ろへ倒し、気遣わしげな表情を浮
かべる。
「おかげですこぶる良いようだ。回復が順調なのは、ぶるうてぃっしゅの皆様方の応急処置が良かったせいであろうな」
「いいえ、あの子が若いからでしょう」
僅かに頬を緩ませたネネは、しかしユウヒの目に暗い光が宿った事に気付き、表情を消す。
彼女と向き合う赤銅色の巨体から、じわりと滲み出て、部屋の空気を変質させてゆく物がある。
それは、焼け付くような怒気と、濃密な殺気であった。
体も大きく顔も厳ついが、平素のユウヒは、風のない晴れ渡った日の奥羽の山々のように、威厳を持ちながらも穏やかで静
かである。
だが今のユウヒからは、噴火を間近に控えた火山のように、脆い薄皮一枚の下にとてつもなく危険な物を潜ませている印象
を受ける。
そんな巨熊を前にして身を硬くしているネネの脳裏に、若い柴犬の姿が浮かんだ。
ネネが知る限り、これまでにシバユキが、崇拝に近い念を寄せているユウヒの命に背いたのは、たった一回だけである。
首都の街並みを銀の烈風が駆け抜け、空が深紅の炎に焼かれたあの日、シバユキは主の言いつけに背いて持ち場を離れ、単
身ヘルを探しに出た。
それから数時間後、ブルーティッシュのメンバーが発見した時には、立つ事はおろか身を起こす事も叶わない有様であった。
その時路面には、恐らくはヘルが去った方向へ這い進んだのだろう痕跡が、痕跡が残る戦いの場から何百メートルも離れた
シバユキの所まで続いていた。
ヘルに返り討ちにされたシバユキが無事に戻って来られたのは、奇跡に近い幸運である。
ヘルが何故シバユキにとどめを刺さずに去ったのかは、ユウヒ達にもはっきりとは判っていないが、恐らくあの魔女の興味
を引く何かが別にあったのだろうと予想している。
それは、直後にヘルが防衛任務についていた調停者のベースに現れ、死体を一人分持ち去って行った事からも、ほぼ間違い
無いと考えられた。
そしてその後ユウヒは、帝居周辺でヘルと遭遇したのだが…。
「…絶好の機会を得ながら取り逃した…。邪魔さえ入らねばこのような事には…。ダウド殿から聞かされておった通り、あの
赤虎、常軌を逸しておる…。正直あれほどとは思わなんだ…」
それまでもダウドから話を聞いてはいたが、初めて実際にまみえたラグナロクの頭…。
一筋縄では行かない強敵の事を口にしながらも、ユウヒの意識は灰色の髪の女の事に向けられている。
その事が、向き合う灰色の猫にははっきりと判っていた。
「シバユキには悪いが仕留めに行った…。にもかかわらず為す事はついに叶わず…、口惜しい物よ…」
声とも喉の震えともつかない程に低く抑えられた、聞き取り辛い呟きを漏らすユウヒ。
その様子を見つめるネネの目には、理解の光が浮かんでいた。
あの若い柴犬獣人がヘルに固執する理由は、良く判る。
だが、ユウヒとあの女の間にも、シバユキと同等以上の因縁がある事もまた、彼女は重々承知していた。
「…済まぬ。過ぎた事を悔やんでも仕方がないな…」
ネネの表情が硬くなっている事に気付いたユウヒは、咳払いし、目の奥に湛えた暗い光を消す。
部屋に立ち込め始めていた殺気がふっと消え、ネネはようやく、無意識に硬くしていた体から力を抜いた。
そして居住まいを正すと、「一つ、よろしいですか?」と、意図的に話題を切り替え、先の事件絡みで知りたかった事を訊
ねる。
「スルトの事、どう見ました?」
「手強い男だな」
そっけないとすら言えるユウヒの短い返答は、しかしネネには非常に雄弁な物として捉えられた。
その言葉に、賞賛するような響きすら滲んでいたからである。
世辞ではなく、心底手強いと感じている証拠であった。
「どのくらい手強いですか?」
「相当な物よな。一体どれほどか…、底を測りかねておる」
「ダウドよりも?」
ネネのその問いかけに、ユウヒは眉をピクリと動かした。
「気遣いなどは無しに、率直な感想を聞かせて下さい」
ユウヒは少しの間躊躇していたが、ネネに真っ直ぐ見つめられ、重々しく口を開く。
「これは…、ダウド殿にも告げなかった事。くれぐれも内密に願いたい」
ユウヒの改まった顔つきを見たネネは、神妙に頷いた。
「ダウド殿と本気で手合わせしてからしばらく経つが、俺個人の印象としては…、あの男、ダウド殿よりも…」
言葉尻で声を一層低くし、皆まで言わなかったユウヒに、灰色の猫は「やはりそうですか…」と、目を伏せながら応じた。
「やはり…、とは?」
「あのひと自身が言っていた事です。「俺はこれまでスルトに勝った事が無い」と…」
声を潜め、囁くような声で述べるネネ。ユウヒは「ぬう…」と喉を鳴らし、思慮深げに目を細める。
「先に断わっておくが、これは言い訳でも保身でも無い…。万全とは言えぬ上、全て出し切った訳でも無い。その状況で矛を
交えての事だが…」
ユウヒの慎重な物言いが、自身が言うように、己の格を安く見積もられる事を嫌がっているような、安っぽい保身からの物
でない事を人柄から熟知しているネネは、黙って頷く事で先を促した。
「…あの男、狂熊覚醒まで用いた俺と、全くの互角であった…」
そのユウヒの言葉に、ネネの目が大きく見開かれる。
「相手がネネ嬢なればこそ、自惚れていると言われても文句の言えぬ事をあえて言おう。ダウド殿、そして現在の神将家…、
現当主も確定後継者も含めた全員の中でも、あの男と互角に渡り合えるのは、俺だけであろうな」
断言したユウヒを前に、ネネはおののくようにワナワナと震え出した。
「そ、それは…、雷電様でも…、ですか…!?」
己の家と同じく最古参の神将家前当主の名を出し、身を乗り出して訊ねたネネに、重々しく頷くユウヒ。
「俺が幼少の寝物語に聞かされた全盛期のライデン大翁ならばともかく、還暦も越えた御身…。琉球の荒獅子にも歳相応の衰
えはある。その技は未だいささかも鈍らぬが、お体が無理を聞き届けてはくれまい」
「では神座家は!?コセイさんでも勝てないと!?」
ネネの問いに、ユウヒはまたも頷く。ユウヒはあえて説明をしなかったが、ネネはすぐさま勝てないであろう理由に思い至
り、口を真一文字に引き結んだ。
赤銅色の巨熊が口にしたそれは、ネネの見積りが大きく狂う情報であった。
ダウドが勝てなくとも、最悪の場合、ユウヒならばスルトも止められる。
そうでなくとも、いずれかの戦闘に長けた神将が数名当たれば何とかなる。
ずっとそう思っていたネネは、自分の考えが甘かった事を、この瞬間に悟った。
多少の疲労があったとはいえ、ユウヒと互角の戦闘力。
おまけに、ユウヒに次ぐと目していた神将でも勝ち目は薄い。
いま一人名を挙げた当主候補者も、おそらくは相性が悪い。
「可能性が高いのはダウド殿だが…」
言葉を切った巨熊は、深々とため息をついた。
ユウヒの見立てでは、現時点のダウドの剣を持ってしても、スルトのそれを越えられない。
勝つためには、技も力も今以上に磨き上げる必要がある。
だが、ダウド程の強者になれば、効果の高い実戦形式の鍛錬を行おうにも、それを務めるに足る適当な相手に困る。
しかも、計画の為にも後進の育成には手を抜けない上に、おいそれと首都を離れる訳にも行かず、体力維持等の基礎トレー
ニングと、勘を失わない為に前線に立つ以外、己を鍛える手が無い。
ユウヒはまだ会った事も無いし名も聞かされてはいないが、今は若い獣人を一人、仕事の合間を縫って鍛えているのだと聞
かされている。
自分もまた妹を鍛えた経験があるため、後進の育成がどのような物か身をもって知っているユウヒは、その事もまた、ダウ
ドの自己鍛錬の機会を削っているのは確実だろうと考えていた。
もっとも、その子を鍛えている事はネネには秘密にしているのだからと、かたく口止めされている為、これまで一切他言し
ておらず、ユウヒ自身がその少年の顔を見るのも、数年後に妹が帰郷した折に連れて来てからになる。
「…互いにおいそれと持ち場を離れられぬ身…。歯痒い物よな…」
ダウドとユウヒ。お互いにこれ以上無い鍛錬の相手でありながら、そうそう顔を合わせる機会が無い。
例え務めの無い日でも、容易には持ち場を離れられないのが現状である。
お互い、競い合い鍛え合う事が出来る相手に恵まれていない…。
そんな想いが込められたユウヒの呟きに、ネネはゆっくりと頷いた。
「例えば一本…、首都の御柱辺りが消滅でもしてくれれば、ダウドももう少し身軽に動けるのでしょうけれど…」
重苦しい空気が続いた室内に、冗談めかして言ったネネの、微苦笑混じりの嘆息が響いた。
「無い物ねだり…と言うにはいささか微妙な願いよな…。どうせ願うならば、この際、国内全ての御柱が纏めて折っぺしょれ
るこっても願っとぐが」
どうやら心底本気の願いであるらしく、口の端を僅かに上げて目を細めているユウヒの言葉には、微妙に郷訛りが出ていた。
「ついでにラグナロクの自然消滅と、スルトが脳溢血か何かでポックリ逝ってくれる事も願っておきましょう。…今夜辺り流
れ星に」
肩を竦めて天を仰いだネネが、何かを思い出したように小さくクスリと笑う。
「あ、そうそう…。ユウトは、夏になる前に帰って来るのでしたね?」
「うむ。卒業後、フレイア殿の組に同行させて貰い、現地で実際の職務を体験してからという事になるが、ようやくの帰郷だ」
やっと重苦しい雰囲気が消え、話題は国外に留学しているユウヒの妹の事に及んだ。
「いつまで北原におるつもりかと、そろそろ手紙でも出そうかと考え始めておったが…、本当にようやくの帰国よな」
「あらユウヒさん?ユウトは随分早いんですよ?飛び級を繰り返したから、これだけで済んだんです」
「入学案内の写真を見るに、はいからな校舎であった。寮も然り。あのような学び舎で過ごし、弛んでおらねば良いが…」
世界基準のハンター養成校へ留学した妹の事を、態度こそ厳しいユウヒは非常に大事にしている。
そもそもユウトが幼い頃は、際限無く甘やかす事しきり、目の中に入れても痛くない程の可愛がりようで、このままではユ
ウトが我侭な甘えん坊に育つのではないかと、周囲に心配される程だったのである。
それが今のような接し方へと変わったのは、両親のあまりにも早い他界が原因であった。
それ以降、兄としてだけでなく親代わりとしても接する必要ができたため、甘やかすばかりでは駄目だと己を律し、例え自
分が居なくなっても生き延びられるよう、厳しく鍛え始めたのである。
それでも、妹を可愛いと思う心は昔と変わっていない。
ユウヒ自身が当主としての自覚を持ち、すっかり大人になった今では、照れ臭さもあり表立って態度に出す事は無くなった
が、妹が帰って来るのを楽しみに待ち侘びている。
言葉と態度こそ相変わらず厳しいものの、それでもやや落ち着き無く尻の位置を変え、短い尻尾を動かしている事を悟られ
まいとしているユウヒを、
(体面もあるでしょうけれど、異国で一人頑張って来たんだもの…、二人きりの時には、優しい言葉の一つもかけてあげれば
良いのに)
その本音から不器用さまですっかりお見通しのネネは、微笑みながら眺めていた。
騒がしい街角の路肩に寄せられた大型バイクに、逞しい体付きの虎獣人が跨っていた。
ハーレーに跨り、獣人仕様の耳出しハーフメットを被ったその虎は、大柄な体格以外にも体色で周囲の目を引く、珍しい白
虎である。
携帯を手にし、ネネの番号を表示させた画面を見つめていたダウドは、しばし思案にくれていたが、
(そもそもすぐに来られる訳じゃ無し、久々に体を休めている所を邪魔する事も無いな…。やっぱり止めておくか)
結局はそう結論づけて通話を諦め、携帯を懐に戻す。
(ネネの帰りを待って調査に取りかかっても良いが、手をこまねいている間に逃亡されたんじゃあ目も当てられん。エインフェ
リアかも知れん以上、長い事野放しにもできん。…そもそもネネは年末からこっち働き過ぎだ。今回の件はあいつを当てにせ
ず進めるとするか)
がさつでずぼらなダウドでも、この程度の気遣いはできる。
ネネの背負った重責を承知しているからこそ、ブルーティッシュの作戦からは遠ざけ、実家に帰していたのは、他ならぬダ
ウドが口にした配慮であった。
(となれば、だ…。他の方向から調べるしか無いが…)
目の上にずらしていたゴーグルを引き下ろしたダウドは、
「まさか今回の件…、黒武士は噛んじゃいないだろうな?」
と呟くなり、目を細めて考え込む。
(爺さんに直接訊いても良いが、今の状況じゃあ周りがピリピリしているだろう…。ひょっとしたら、アイツが今日もタワー
に居るかもしれんな?行くだけ行ってみるか…)
何か手土産でも買って行こうかと考えながら、ダウドは自分でも気付かぬまま、口元を軽く綻ばせていた。