逃亡者(前編)

旅行客の人気スポットでもある首都名物のタワーは、平日とはいえ当然混んでいた。

その展望フロアの床を、エレベーターから悠然と歩み出た大柄な虎が踏み締める。

ネイビーブルーのジャケットとジーンズというラフないでたちで、前を開けたジャケットの胸元では、発達した筋肉で分厚

くなった胸が、薄手のトレーナーを左右へ引き伸ばしていた。

金色の眼でフロアを見回すその男は、白い地に黒いストライプというカラーパターンの、珍しい白虎である。

この時代、戦後に広まった差別が根強いせいで、首都ではただでさえ獣人が少ない。

事実、展望フロアを見回しても、獣人の姿は男の他には無かった。

現在の首都において、獣人が忌避の目に晒されるのは当然なのだが、しかし周囲の人々から男に向けられる目は、判りやす

い単純な嫌悪を宿している訳ではなく、より複雑な要素を孕んでいた。

言うなれば、それは興味である。

大柄な虎の鍛え抜かれた見事な体躯と、その身に纏う独特の雰囲気が、人間達の目から悪感情をぬぐい去る。

周囲の人間達が嫌悪感も忘れて一種の感動すら覚えるのは、この大男の姿に機能美を見出さずにはいられないからであった。

筋骨隆々たる白い体躯は力強く重々しいが、しかし鈍重さなどは感じられない。

さらにその身のこなしや足運びは、しっかりしていながらも洗練されており、大型の肉食獣などが歩く際の、脱力していて

もなお感じられる力強さと迫力を有している。

多くの虎がそうであるように、この大男も顔は厳つい。

白い地毛にくっきり黒い縞模様が走る頭部の形状もさる事ながら、その金色の瞳が宿す強烈な意志の光が、さらに迫力を加

えている。

しかし、厳ついながらもその顔は魅力的であった。

色男とはとても呼べない、むしろ強面であるにもかかわらず、ふと、笑ったところを一度見てみたくなる、どんな笑みを浮

かべるのか知りたくなる、そういった奇妙な魅力を備えた顔である。

もっとも、当の本人はそんな周囲の視線も全く気にする事もなく、ずんずん進んでフロアの窓側近くを回り始めた。

その、何かを探すように辺りを眺め回していた金色の目は、フロアを半分回った所で目当ての後ろ姿を認め、すぅっと細め

られる。

「よう」

歩み寄りながら気安く声をかけたダウドを、双眼鏡を覗いていた人間の女性が振り返った。

白いハーフコートに白いマフラー、身に付ける物も白を基調にしている女性は、二十歳になったかどうかという年頃で、陶

磁器を思わせる色白の肌をしていた。

極めて線の細いしなやかな肢体。細い眉に整った目鼻立ち。

猫を思わせるアーモンド型の目はややつり目気味だが、気が強いというよりも、落ち着き払った理知的な印象を見る者に与

える。

女性は儚げな雰囲気を纏っており、その容易く手折られてしまいそうな危うさが、その魅力をかえって引き立てていた。

どことなしに薄幸の陰を感じさせる女性は、男ならずとも見とれてしまうような、柔らかく、薄く、そして静かな微笑を浮

かべ、白虎に向かって口を開く。

「ダウドさん…。こんにちは」

長い髪をさらりと揺らして会釈した女性に寄るなり、ダウドは口元に太い笑みを浮かべた。

「偶然…ではありませんね。何かご用なのでしょう?」

「相変わらず察しが良いな。話が早くて助かる」

女性は窓の外に目をやりつつ、ダウドもまた同方向へ視線を向けつつ、互いにそれとなく周囲を観察し、聞き耳を立ててい

る者が居ないか注意を払った。

「ところで、何故私がここに居ると?」

「今日は確か、講義が午後だけの日だったからな。この時間は大学へ行く前にここに寄るだろうと思った」

「まあ。私のスケジュールを知ってらしたのですか?」

女性の問いに、ダウドはやや得意げに「まあな」と頷いた。

何故、そしてどうやって、自分のスケジュールを調べたのかという事が気になったのだが、

「こう見えても、女性のスケジュールには気を配るたちでな。いい女の予定には特に」

ダウドがどこかずれた返答を発すると、小さく、上品にくすりと笑う。

「それにしても、毎週毎週良くもまぁ飽きずにタワーに来るもんだ…。金持ちと煙は本当に高い所が好きだな」

「まあ、嫌な言い方をなさいますのね?」

片眉を少し上げて見せた女性は、しかし怒っている訳では無いらしく、唇の端を笑みの形に緩めている。

「がっはっはっ!済まん。悪気は無かったんだがな」

声を上げて笑ったダウドは、本題に入る前にそれとなく周囲を見回す。

そして、小声での会話を捉えられるような距離にひとが居ない事を確認すると、いかにも楽しい会話をしているというよう

に笑みを浮かべたまま、声を潜めた。

「先の帝居襲撃…、黒武士は関わっていない。…そうだな?」

確認しているとも、念を押しているとも取れるダウドの言葉に、女性もまた顔色一つ変えないまま応じる。

「さあ…、一体何のお話でしょう?」

「「ここだけの話」だ。マユミ」

白虎のその言葉で、彼が調停者としての尋問を行っているのではなく、ダウド・グラハルト個人として自分に確認している

と察し、

「ええ、関わってはおりません」

と、黒伏真由美(くろぶしまゆみ)は小声で返した。

彼女の祖父は五大財閥の一角たる黒伏の総帥にして、首都圏最大の組織、黒武士会の頭でもある。

調停者であるダウドと、非合法に秘匿事項に関わっている黒武士会は、立場上敵同士ではあるのだが、両者の間には、単純

に敵対関係とは言えない奇妙な関係が築かれている。

それは、黒武士会が不要な乱れを嫌う組織であり、首都圏での他組織に対して睨みを利かせる事で大規模犯罪を抑止してい

る事と、清濁併せ呑む気質のダウドが、首都の平穏を保つという点から、黒武士会を完全な敵対勢力とは見なしていない事に

よって生まれ、維持されている関係であった。

互いの目的の為に利用し合い、決して手を結んでいる訳では無いが、どこかで互いを認め合っている…。そんな、なんとも

奇妙な結び付きである。

「黒武士会は、…少なくとも私やお爺様は、首都に無用な混乱がもたらされる事を望んでいません。黄昏と手を組む事など、

これまでもこれからも決して有り得ませんし、帝に刃を向けるなどもってのほかです」

「それを聞いて安心した。…実は気になる事があってな、確認したかった…」

相変わらず、楽しい会話に興じているかのように、顔に作り物の笑みをへばりつかせたまま、ダウドはマユミに極秘の情報

を話して聞かせた。

「…黄昏の敗残兵…ですか?勿論その件についても黒武士会は協力しておりません。私も今初めて耳にしましたし、その先日

までかくまっていたという小規模組織も、我々と関わりが殆ど無い所ですから…」

「黒武士会が内情を把握してるそこらの組織に、最近になって妙な動きは無いか?」

「あら?それを見張るのが調停者のお仕事では?」

マユミがからかうような口調で意地悪く言うと、白虎は作り物ではない苦笑を浮かべて耳を寝せた。

それほど余裕が無い状況にあるダウドが、それでも交渉用の表情を完全にコントロールできない程に、マユミの軽いからか

いが混じった笑みは魅力的で、意地悪さよりも親しみと品の良いじゃれ付きが滲んでいる。

これではいかんと表情を引き締めたダウドは、切羽詰った状況なのだという事を告げ、先を続ける。

「個人的な理由で、できれば部下どもとぶつけたくない。…勘だが、下手をすると上位調停者でも厳しいような相手かもしれ

んからな。なるべくなら俺個人で何とかしたいと思っているんだが…」

「相変わらず仲間想いなのですね?ダウドさんのそういう所、私もお爺様も嫌いではありませんよ?」

こちらも作り物では無い微笑みを浮かべたマユミに、

「置けマユミ!俺ぁただつまんねぇ事で手駒を減らしたくねぇだけだ!」

どうやら照れているらしく、白虎は落ち着かない様子で尻尾を左右に揺らしつつ、わざとぞんざいな口調で応じた。

その様子が可笑しかったのか、マユミは口元に手を当てて上品に笑う。

が、ダウドの話から重要性は悟ったので、すぐさま笑みを押し殺して真面目な顔になると、口調をやや改めた。

「事情は概ね判りました。お急ぎでしょうから、さっそく調べさせます」

「いいや、それには及ばん。確認はできた」

ダウドの答えを聞くと、マユミは意外そうに眉根を寄せた。

「お前の耳に入っていない以上、関わりは全く無いんだろう。別のツテで調べてみるさ」

そう告げた白虎は、不意に残念そうな顔になる。

「時間があれば茶にでも誘う所なんだが…、悪いが急ぎでな、またの機会にする」

レディを茶に誘う、あるいは口説くのは男としての礼儀と言って憚らないダウドだが、今回ばかりはのんびりしている余裕

も無い。

涙を飲むような気分で「邪魔したな…」と告げると、踵を返してマユミに背を向けた。

「あ、ダウドさん」

その広く逞しい背に声をかけたマユミは、振り返った白虎の視線を受けると、喉元まで上がっていた言葉を飲み込んだ。

極めて微妙な関係にある、しかし互いに敵視はしていない、奇妙な間柄の相手。

もしかしたら、立場上はいずれ敵対する時が来るかもしれない相手。

それでもダウドは、マユミにとってはまだ敵ではなく、少し変わってはいるが友人と呼んでも良い間柄の相手であった。

そんな彼に伝えておきたい事があったのだが、マユミはこの場でそれを告げる事ができなかった。

これから仕事なのであろう白虎に、余計な煩い事を吹き込みたくなかったのである。

マユミは気を取り直すと、笑みを浮かべ、別の事を口にする。

「カンザキ様とお二人揃って、特解上位調停者に推薦されたそうですね?少し早いですが、おめでとうございます」

ダウドが先の事件での功績により、勲章授与と昇級の推薦を受けた事を、黒武士の情報網で捉えているマユミは、祝いの言

葉を告げた。

「首都の守護神、英雄ダウド・グラハルト…。功績からすれば当然の昇級ですが、祖父は「遅過ぎるほどだ」と言っておりま

した」

「…英雄…か…」

微笑むマユミをじっと見つめたダウドは、目を細め、しかし微笑するとも苦笑するともつかない、曖昧な表情を浮かべて口

を開く。

「英雄ってのは、つまり人身御供だ…」

言葉を切った白虎は一体何を思うのか、懐かしむような、それでいて寂しがってるような、常のこの男には似つかわしくな

い郷愁の色を瞳に映す。

「英雄なんざ…、作っちゃいけねぇんだよ…」

金色の瞳を持つ北極熊の、気楽そうな笑顔が脳裏を過ぎると、ダウドは軽くかぶりを振った。まるで、回顧の念を振り払う

かのように。

「まさか…、お断りなさるおつもりなのですか?」

あまり嬉しそうでも無いダウドの様子を見て取り、マユミは意外そうに訊ねる。だが、ダウドはこれに首を横に振る事で応

えた。

「いいや、受けるさ。俺もネネもこの昇級を目指して来たんだからな。…真に目指す物は、まだまだ先だが…」

白虎はそう言ってニヤリと笑う。

しかしその笑みは、昇級をめでたい物と取っている満足気な笑みではなく、明らかな困難と試練として見据える、強敵を前

にした笑みであった。

(英雄、か…。ネネまで巻き添えにしたのは計算外だったが…、俺もなってやろうじゃねぇか、生贄によ…)

かつては英雄ともてはやされ、やがて政府連合軍を相手取り、最終的には白き敵対者と呼ばれるようになった古馴染みの事

を再び思い出しつつ、ダウドはマユミから顔を背けた。

「…じゃあな。またその内に茶に誘う、よろしくな?」

その、どこか寂しげにも見える背に、マユミはおずおずと声をかけた。

「…お気をつけて」

「ありがとうよ」

口の端を軽く緩め、肩越しに手を上げて歩き去るダウド。

白虎の姿が視界から消えると、マユミは視線を窓の外へ、自分が生まれ育った眼下の首都へと向けた。

そしてぼんやりと考える。

あと何度、この景色を見に来る事ができるだろう?

あと何度、ダウドの顔を見る事ができるだろう?

あと何度、自由に出歩く事が叶うのだろう?

マユミは小さくため息をつき、それほど長時間立ち尽くしていた訳でもないのに、既に強ばって疲労を覚えている体に神経

を向ける。

後々、彼女を自力で立つこともできない程に弱らせ、人としての生を奪うことになる病は、静かに、しかし確実に進行して

いた。



ノックも無く開けられたドアの前には、不機嫌そうなスーツ姿の男が立っていた。

「飯だ」

「かたじけない」

横柄な態度で言い放った男から食事が乗ったトレイを受け取ると、マーナは男の視線を確認し、僅かに立ち位置を変える。

ベッドの上、毛布を被っている女性の姿をよく確認しようとした男は、シベリアンハスキーの広い肩に視線を阻まれて小さ

く舌打ちし、マーナを睨み付けるなりノブに手を掛けた。

激しい音を立てて乱暴に閉められたドアに背を向けると、表情一つ変えなかったマーナは、ベッドへと視線を向ける。

「食事が来たぞ。そろそろ起きろ」

その声に応じて身を起こしたシノは、屈強な体躯のシベリアンハスキーに視線を向け、「当たってた…」と呟く。

「何がだ?」

「さっき「誰かが食事を運んで来る」って言ったじゃない?」

マーナは「ああ、その事か」と頷くと、

「そこの通路は長い上に枝道がないおかげで、かなり遠くからでも雑音の混じらない足音が響いて来るのでな。音から歩き方

がはっきり判り、バランスを取っているらしい事が察せられた。両手が体の脇に無い…、前で塞がっている状態では、自然と

歩調も変わる物だからな。それで食事だろうと考えたのだ」

と、すらすらと説明し、シノを感心させた。

「足音から相手の状態をねぇ…。コツとか覚えれば、あたしでもできる?」

駆け出しも良いところである若い戦士の問い掛けに、マーナは微笑を浮かべた。

「さて、どうだろう?人間の聴覚で同じ真似が出来るかどうかは判らない。先にも話したが、拙者は身体能力と感覚を人為的

に強化されているのでな」

トレイをテーブルに置き、残念そうなシノを手招きすると、マーナは真面目な顔で付け加える。

「だが、聴力そのものには人間としての限界があるにせよ、聞き分ける感覚は磨く事ができる。研鑽次第では、聞こえる範囲

内では可能になるかもしれんぞ?」

「努力次第って?あんたいつも二言目には「努力」「鍛錬」「研鑽」だね」

シノの苦笑いに「事実なのだから仕方ない」と応じたマーナは、食事を置いた机にパイプ椅子を寄せ、かけるよう勧めた。

席に着いたシノは、そのすぐ脇で自分のトレイを持って床にあぐらをかき、食事に取りかかろうとしているマーナに視線を

向ける。

「…アスパラ入ってるんだけど…」

「拙者が食おう」

マーナの差し出した皿に苦手なアスパラを移し替えると、シノは食事に取りかかる。

ホテル経営をしている組織だけあって、食事は上等な物であった。

だが、マーナの意識は飯の味よりも、先程の男の態度に向いている。

長である紳士の態度とは違う、あからさまな不快さが感じられた。

それだけで、彼ら部下達はマーナを匿う事を良く思っていない事が察せられる。

(こちらもできれば長く居座りたくはないし、迷惑もかけたくないのだが…)

マーナは黙々と食事をしながら、今後の事について考えを巡らせる。

恐らくラグナロクは、まだ首都に潜伏している兵士が居るとは考えていない。

この警備が厳重な首都において、一ヶ月も隠れ潜んでいられるとは予想もできないだろうと、マーナは推測している。

こうして逃れ続けられている自分は運が良かったとも思えるが、そもそも取り残されてこの状況にある事を考えれば、すこ

ぶる運が悪いとも思えた。

首都を脱出する。そのためにも、調停者や警察機構、特自の警戒が緩んで隙ができるのを待っているのだが、警戒は一向に

軽くならず、陸路も海路も空路も、出入りには厳重なチェック体勢が敷かれていた。

この状況であるから最初に期待を寄せていた船での密航もままならず、海路を諦めて先にかくまって貰っていた組織から、

現在身を寄せているこちらへと移ったのだが…。

(現状はあまり良くない。こんな時、スコルならば上手い突破手段も考えつくのだろうか?)

ままならない状況と、今後の事について考えを巡らせながら、マーナは皮肉げな笑みを絶やさないポメラニアンの顔を思い

浮かべる。

そんなマーナを横目でちらりと見遣りながら、シノもまた、食事を進めつつ思いを巡らせる。

今では自分の守護者となっている、このシベリアンハスキー。

彼をこの境遇に追い込んだ原因の一つは、間違いなく自分であるという事を、シノは心苦しく思っている。

立場上は敵同士だが、今のシノにはマーナに対する敵意は少しも無い。

事件後、一ヶ月近く潜伏していた間に、犯罪組織の尖兵とは思えない程実直で、どこか抜けていて憎めない彼に、強い信頼

を抱くようにすらなっている。

敵でありながら信頼できる相手。シノにとって、マーナとはそんな相手である。

また、ラグナロクの精鋭であるマーナは、腕も一流には遥か及ばず経験も浅い駆け出し調停者であるシノを、元々敵視して

いない。

戦士としての格が違い過ぎる故に、敵視どころか真っ当な相手と見なせないでいる上に、その境遇に同情すらしている。

首都が炎の洗礼を受けたあの日、出会った二人に起きたのは…。



「こ…、これは…!?」

空から落ちてきた若い女性を受け止めたマーナは、気絶している彼女を部隊の皆と一緒に囲んだその状況で、驚愕の声を漏

らした。

彼女の細い首にかけられていたのは、鈍い光沢を持つ認識票。

それが、この女性が何者であるのかをはっきりと伝えていた。

この国のハンター…、調停者。すなわち現在彼らと交戦中の相手である。

(首にかけられていたのが、例の空飛ぶ石であれば何も問題は無かったというのに…!)

それはそれで大問題であろう事を考えつつ、マーナは嘆息した。

「…こんな若いおなごが調停者とは…」

「確かに珍しいが、無いとは言い切れん」

小隊長はそう呟くと、無意識に銃に触れていた事に気付き、微苦笑しながら手を離す。

「何がどうなって空から落ちてきたのかは判らないが、気を失っているのは幸いだ」

呟いた小隊長に視線を向けたマーナは、「始末しろ」という言葉を聞き、表情を僅かに硬くする。が、

「…とは言わん。都合良く気絶してくれているのだ、排除するまでもなかろう。このまま放って行く」

との言葉が続き、ほっと息を吐き出した。

マーナは殺しを嫌う。

これは彼本来の性格も反映しているスタイルではあるが、かつて過酷な任務を共にし、今では同僚となっている男の影響も

強く受けて確立された物であった。

同じセカンドネームを与えられているそのグレートピレニーズは、マーナが実際に出会った中でも屈指の戦上手であり、彼

が自分以上であると確信する戦士である。

その男の不殺という信条をマーナが実践するのは、無意識に抱いている密かな憧憬の念がそうさせればこそ。

命令であれば従わざるをえないし、状況からやむを得ないなら殺めもするが、必要のない場面では極力殺しを避ける。

相手が優れた戦士であれば、命を賭して戦う事も厭わないし、その結果殺めてしまったとしても仕方がないと思う。

だが、無力な相手を、しかも気絶している若い女を殺すなどという行為は、彼の主義から大きく外れる。

マーナは、良くも悪くも、兵士である以前に戦士であった。

だがそれは、ラグナロク兵としては、致命的な欠陥と言えた。

目標地点まであと僅か、ここで女性に構っている暇は無いとし、小隊長は前進を命じる。

が、その号令に従って立ち去ろうとしたマーナは、銃火を逃れられるよう建物の陰に横たえてやったその女性の呻きを耳に

し、足を止めて振り返る。

薄目を開け、軽く頭を振って上体を起こしたシノと、立ち止まって見下ろすマーナの視線が交錯した。

一瞬の沈黙。一瞬の硬直。

時が止まったかのようなその刹那の間を挟んで、跳ね起きたシノの手が素早く動き、得物であるダガーを抜き放つ。

しかし、彼女が構え終える前に、素早く踏み込んだマーナの手が、そのダガーの刃を、人差し指と中指で挟むようにして捕

らえていた。

そのあまりにも速い動きはシノの目では追い切れず、彼女にはマーナの姿が不意に拡大したように感じられる。

パキィン、と、澄んだ音が響く中、シノは驚愕すらできずに間近に迫ったマーナの顔を見つめていた。

その足下、少し離れた位置に、根本近くで折れたダガーの刃がキンッと音を立てて落ちる。

指二本で超硬質セラミック製のダガーを挟んだマーナは、素早く手首を返し、いとも簡単に捻り折っていた。

グローブが発生させた力場で指が保護されているとはいえ、自身の技量が伴って初めて可能となる芸当であった。

手首の返しで折ってしまう膂力もさる事ながら、シノの手からダガーが飛ばなかったのは、力点の見定めが完璧であった証

拠である。

おまけに全長が短いダガーは、本来は長剣などよりよほど折れ難く、跳ね飛ばさずに折るこの芸当は妙技とも言えた。

ダガーが折れた衝撃に、柄だけになった得物を握る手を痺れさせながら、シノは呆然と、至近距離でマーナの目を見つめて

いる。

簡単に自分を殺せるであろう怪物を前にしながら、不思議と恐怖は無かった。

闘志を秘めても殺意は宿さないシベリアンハスキーの瞳もまた、シノの顔を凝視している。

シノの瞳に浮かぶのは、困惑と感嘆の色。さらには状況を理解していない故の訝しげな光。

その、戦場に身を置く者がするにはあまりにも場違いな目が、マーナの心のひだを軽く引っ掻いた。

(まるで、殺し合いの素人のように無垢な瞳…。確かに調停者ではあろうが、その精神は民間人とまるでかわりない…)

マーナはシノの反応から、彼女が場数を踏んでいない新人である事を見破った。

幾多の戦場を駆け抜け、幾度の夜を乗り越え、死線と血飛沫をかいくぐった者特有の慣れ、そして欠落が、彼女からは殆ど

感じられない。

マーナが感じたそれは、野犬が人の手で育てられた犬と初めて出会った際に覚え、戸惑う、一種の違和感と似ているかもし

れない。

すなわち「同類であるはずなのに全く似ていない」という感覚である。

調停者として戦場に身を置くシノは、マーナから見れば同類…すなわち兵士であり戦士であるはずなのに、あまりにも戦場

に擦れていなかった。

二人はしばし、身動きもせずに見つめ合う。

その硬直を破ったのは、マーナの方であった。

すっと、速くも遅くもない自然な動作で大きく一歩下がり、間合いを僅かに取ってシノの姿を眺める。

シノもまたその視線を真っ向から受けながら、マーナの姿を見つめる。

マーナの背後では異変に気付いた同僚達が銃を構え、その狙いをシノにピタリと合わせていたが、彼女はその様子を視界に

収めながらも、注意はシベリアンハスキーに向いている。

「…なんで…」

何故自分を殺さない?そう問うべく口を開いたシノへ、言葉を遮りマーナが語りかけた。

「交戦しても貴女に勝ち目はなく、事態は決して好転すまい。悪い事は言わん。投降を勧める」



首都の地下深くに、極々限られた者だけがその存在を知るその部屋はある。

パソコンが所狭しと置かれ、配線が縦横に壁や床を走り、白虎がアームチェアにふんぞり返っているそこは、業界最高峰と

される情報屋、ユミルのアジトの一つであった。

すっかり我が物顔でアームチェアを占領しているダウドは、この部屋の主…パソコンのキーをカタカタと叩いているフード

を目深に被った人物に話しかけた。

「客に茶も出さねえのか?」

「何処に客が居る?」

ダウドに応じるユミルの声は、電子機器による合成音のようで、抑揚がない。

が、不思議な物で、平坦なその口調からは、どういう訳か紛れもない嫌悪と苛立ちが感じられた。

対してダウドの方は、平素のものよりだいぶ砕けた、ネネが嫌う、いささかがさつな言葉遣いになっている。

「バイクで来たからな、ノンアルコールにしてくれや」

「帰れ」

「コーヒーねえか?」

「出て行け」

「つれねえなあ…」

「失せろ」

ダウドの口調はかなり砕けた気安い物になっているのだが、応じるユミルはけんもほろろ。

何やら作業中らしいユミルに飲み物を催促し続けるダウドは、部屋奥のドアが開くと、そちらに向けた目をすぐさま笑みの

形に細めた。

ポットとカップを乗せたトレイを手にして部屋に入って来たのは、ずんぐりと背の低い栗色の獣人…レッサーパンダである。

太り気味のころっとした体型で、身に纏っているのは動きやすそうなカーゴパンツと薄手の長袖シャツ、ポケットが沢山つ

いたベスト。

身に付けた衣類はいずれも白黒蒼のタイガーカモで、背筋を伸ばしたその姿は兵士を連想させる。

その、表情に乏しい小太りなレッサーパンダは、足下を這う配線を慣れた仕草で跨ぎ越しながら、ダウドの傍に歩み寄った。

「コーヒーを用意したでありますが、良かったでありますか?グラハルト氏」

「おう。済まんなエイル」

脇のデスクにトレイを置かれると、ダウドは笑みを浮かべて礼を言う。

「エイル。そいつに飲み物などあてがわなくて良い」

平坦だが、しかし何処となく不機嫌さが滲み出ている声で言ったユミルは、飲み物が出た以上、無視しても居座られるだろ

うと判断し、諦めたように「何をしに来た?」と、ダウドに声を掛ける。

「捜しモンを頼みてえ」

「優秀な部下達にやらせれば良いだろう」

「ところが、だ…、そうも行かねえ事情がなぁ…」

一旦言葉を切り、コーヒーカップを手に取ったダウドは、少しばかり声を潜めて続ける。

「他のヤツらにゃあ、なるべく接触させたくねえんだ、こいつが…」

そして、コーヒーを口に含むなり目を真ん丸に見開き、飲み下して舌を出すと、傍らに立ってユミルの方を見ているレッサ

ーパンダに視線を向けた。

「…エイル。このコーヒー辛ぇぞ?」

「唐辛子を隠し味にしたオリジナルであります」

「隠れてねえぞ隠し味が…」

女性に出された品物をぞんざいには扱いたくないダウドは、やや迷った物の、我慢して辛いコーヒーを片付ける事に決める。

「先を続けろ。いつまでもお前にかまっていられるほど暇ではない」

ユミルに促されたダウドは、辛いコーヒーというビックリドリンクが入ったカップを両手で包みながら、表情を改めた。

「…探している相手だが…、エインフェリアの可能性がある」

ユミルはキーボードを叩き続けていた手をピタリと止めると、初めてダウドに視線を向けた。

「…詳しく聞かせろ、ダウド」

フードの下にこもった闇に紛れて顔は見えないものの、そこから自分に向けられる強い視線を感じながら、ダウドは顎を引

いて頷き、事情を話し始めた。



「まだお仲間とかと連絡つかないの?」

ベッドに腰掛けたシノが声をかけると、机につき、小型通信機を弄っていたマーナは、無言で首を横に振った。

「壊れてしまった可能性も否定できない…。となると、やはり自力での脱出しかないな」

通信機は時折電波を拾うのだが、ラグナロクからの暗号通信は一切入って来ない。

加えて排除、制圧を主な任務とするマーナは、元よりあまり精密機器に詳しくないため、もしも壊れていたとすればお手上

げであった。

匿って貰っている組織に修理を頼む事も考えないではなかったが、ラグナロクの機材を気軽に他者へ預ける訳には行かない。

万が一構造解析されて、複製でもされてしまっては大問題なのである。

諦めたマーナは、通信機を机に置いたまま立ち上がり、大きく伸びをする。

今の彼には自分の身以外にも心配事があった。

それは、自分が脱出に成功した後の、シノの身の振り方である。

表向きは人質の調停者としているが、実際のところ、人質としての効力はほぼ無いと、マーナは悟っている。

(もはやシノは、調停者として復帰はできまい…)

あちら側にはシノを始末したい者が居る。生きていて貰っては困る者が居る。

脱出の際に首都に置き去りにして調停者側に引き渡されれば、あの夜、あちら側にとって非常に都合の悪い光景を目にして

しまったシノは、間違いなく消されてしまう。

かといって、本隊まで連れて行く事はできない。

調停者であった者をラグナロクが迎え入れる訳がない。尋問の末に殺されてしまうのは目に見えている。

(海外の何処か…、比較的安全な場所まで連れて行き、そこで別れるのが最も良い手か…。拙者の頭にはこれ以上良い案は浮

かばんな…)

苦悩を無表情の仮面に押し隠し、腕組みをして通信機を見下ろすマーナは、しかし気付いていない。

それが、守るべき者を持ってしまったが故の苦悩である事には。

そんな彼の想いにはまるで気付かぬように、シノは気楽な口調で話しかけた。

「手が空いたんなら、また話聞かせてよ」

「話?…また拙者の部隊の事か?」

「うん。誰の話でも良いわよ?太っちょハティでも、皮肉屋スコルでも、…美人の女隊長さんの話もまた聞きたい」

シノは笑みを浮かべて頷き、「よくもまぁ拙者の話で飽きない物だな…」と、マーナは呆れ混じりの苦笑を浮かべる。

マーナは戦場や作戦の話はあえて避け、待機中の他愛ないやりとりや、ベースでの生活の事など、機密に関わらない程度の

事をシノに話して聞かせている。

マーナがポツポツと語ってくれる彼の同僚や上官達の話は、この潜伏生活の間、シノにとっては数少ない娯楽となっていた。

話を聞いている間は、自分の境遇を一時でも忘れる事ができたのである。

シノもまた、マーナに悟られないように振る舞ってはいたが、自分が八方塞がりの状況にある事は肌身に染みて解っている。

マーナを無事に逃がす。その為だけに彼女は彼の傍に居る。

いざという時には身を挺して盾にもなろう。彼を仲間の所へ帰してやろう。

二度も拾って貰った命だからこそ、マーナの為なら投げ出すことも厭わない。

シノは密かに、そう決意している。

想いのすれ違いこそあれど、立場上敵として巡り会った二人は、互いの事を気遣っていた。

その行く手に、苦難と悲運が待ち受けている事を、薄々感じながら…。