逃亡者(中編)
「確かなのだろうな?」
「「居る」事はほぼ間違いねぇ。問題は本当にエインフェリアかどうかって事だ」
モニターの前で椅子を回転させ、横手のダウドと向き合う恰好になったユミルは、白虎の返答を聞くなり黙り込んだ。
ダウドの傍らに立つエイルもまた、無表情のままずっと口を挟まず、二人のやりとりに耳を傾けている。
そして、しばし間を開けた後に開いた口から漏れたのは、懐疑的な問い掛けであった。
「先の奇襲作戦で再生戦士達が投入された事は間違いあるまい。だが、はたしてラグナロクが稼働中の再生戦士を放置する物
か…?」
「そこだ。先の事件から継続中のキツい防衛線のおかげで回収ができねぇでいたのか…、それともラグナロク側も残留兵に気
付いてねぇのか…、とにかく、ラグナロク側も「迷子」と連絡が取れねぇ状況になってるって線はねぇか?と、考えてみた」
「状況から言って有り得ない事では無いな…。ところで、その敗残兵が首都に存在する原因…先の事件について、お前はどう
見ている?」
問い掛けたユミルにしかしダウドは応じず、逆に顎をしゃくり、意見を聞かせるよう促した。
「奇襲作戦ではあっただろうが、それで帝をどうこうしようとは、他はともかくスルトは思っていなかっただろう。運が良け
れば…という程度の期待はあったかもしれんが、この国の防御における帝の重要性には、奇襲の時点ではまだ気付いていなかっ
たはずだ。…今ではどうだか判らんがな」
「気付かれただろうよ…」
苦虫を噛み潰したような顔になりつつ、ダウドは吐き捨てる。
「その点についての対処は、首都の護りを仕事にしているお前の役目だ。私にはどうでも良いがね。…話を戻すが、本腰を入
れていなかったと考える根拠はスルトの行動だ。直々に出て来ていながら、お前との喧嘩と事態の後始末だけで帰るという行
動も、帝殺害が本命ではなかったからだと考えれば納得が行く」
「帝居付近まで行ったものの、運悪く出くわしたユウヒにビビッたって線もある」
「本気でそう思えるなら、即座に引退し、阿呆でない後任にリーダーの座を譲るべきだ」
「冗談だよ。アイツがそんなタマじゃねぇ事は、誰よりも俺が知ってるさ。…昔のアイツならいざ知らずな…」
ダウドは口をへの字にひん曲げ、不快そうに鼻を鳴らした。
「その程度で怯むならラグナロクを率いる事もできんし、俺だってここまで苦労してねぇ。…でだ、スルトが本気でドンパチ
しなかったって事は、結果と態度を見りゃあ何となく判る。だが、少なくねぇ犠牲を出しながらも、万全と言えん状況で奇襲
を仕掛けて来た理由は何か…?あれじゃ戦力の無駄遣い…。アイツらしくねぇお粗末な布陣だった」
「そう。お粗末だった。それは恐らく、本来は別の目的のために首都に配していた戦力を使い、急遽近隣国に出していた兵を
寄せ集めた即席奇襲軍だったからと見て良い」
「別の目的ねぇ…」
「規模からして、ブルーティッシュや他の調停者チームを首都に釘付けにし得る最低限の兵力に、幾ばくかの精鋭部隊をつぎ
込んだだけのようにも見えるであります」
腕組みをして唸ったダウドの横で、それまでずっと無言だったレッサーパンダは、唐突に口を開くなり意見を述べた。
「恐らくは別の場所で事を起こす際に、首都で陽動としての騒ぎを起こさせるための伏兵として、先に配されていたと推測で
きるであります」
これを聞いたダウドは「ほう…」と、感心したように声を漏らす。
「穿った意見だ」
「一体誰の弟子だと思っている?」
素直に褒めるダウドと、やや遠回しに自慢するユミル。
「とにかく、私もエイルと同意見だ。その陽動用に準備を進めていた、少なからぬ努力の末に首都近辺に潜伏させておいた戦
力を、今回スルトが完全消費をも覚悟の上で動かしたのは何故か?…答えは簡単。それらの戦力を失ってもなお優先すべき事
があったからだ」
「…ただしその優先すべき事ってのは、帝居奇襲そのものじゃあない」
ダウドの呟きに頷き、ユミルは続ける。
「北街道での騒ぎに関与した上で、首都での奇襲作戦…。目的は明らかだ」
目深に被ったフードの下から、窺うような光を灯す瞳がダウドを見つめる。
「スルト自身が失うことを避けたい何者かの安全確保と…、神将…、いや、逆神の確保だ」
「「何者か」って方は見当もつかねぇが…、後者はねぇ。最後の逆神は北で討たれた」
即座に応じたダウドに、ユミルは肩を竦める。
「違うな。最後の逆神はこの首都で討たれた。神代勇羆によって」
(本当に討たれたもんかどうか…、本人の弁からすると怪しいがな…)
胸の内で呟いたダウドは、ここまで事情が知られている以上、この件についてユミル相手にのらりくらりと言い逃れるのは
不可能だと悟り、しらを切る事を諦めた。
「奇襲その物が目的じゃあなく、突っ込んで行った狼一匹が目的…。そう言いてぇようだな?」
ダウドの言葉に、ユミルは小さく頷いた。
「…恐らくは、生死を問わずあの銀狼を回収する事…。それこそが真の狙いだった」
「ちっとも嬉しくねぇが…、実は俺も同じ事を考えた…」
「死体が見つからなかったと聞いた際に、連中の目的は達されたのだろうと確信した」
「…ユウヒはスルトの炎で焼かれたと思ってるらしいが…」
「回収した後に炎を放ったのだろう」
さらりとそう断じたユミルは、ダウドの表情を窺いながら続けた。
「反逆の神将、大神司狼(おおがみしろう)…。生き永らえたにせよ一度死んだにせよ、本人か、あるいはソレを元に生み出
された何かが、いずれは黄昏としてお前や神将…、そして調停者の前に立つ事になるのだろう」
無言のダウドとしばし見つめ合った後、ユミルはフードの下で瞼を閉じ、軽くかぶりを振った。
「が、それもどうでも良い事だ」
神将達の事情を知ろうと、それでどうこうしようと思うでもなく、事件の裏側の事情を知ろうと、だからどうだと言う事で
もない。
傍観者たる自分の立場を暗に示したユミルに、ダウドは苦笑いを向けた。
「ここまで神将の事情が割れちまってるとはねぇ…。昔からそうだったが、お前相手に隠し事はできねぇな」
「私が望むのはお前からもラグナロクからも干渉されず、穏やかに過ごす事…。脅威を排除する為だ、不本意だが今回は協力
しよう」
「助かる」
「ただし高いぞ」
「まけろ」
「びた一文まけん」
「いけず」
とりつくしまもない物言いで値下げ交渉を断固拒否されてしまい、顔を顰めたダウドは、
「今回は俺の個人依頼だ。財布に直接ダメージが入るんだよ…」
と、耳を倒しつつ眉尻を下げて八の字にし、何とも情けない表情を浮かべる。
そこには最強の調停者と呼ばれる剛胆な戦士としての威厳は無く、昔馴染みにやりこめられたやるせなさが漂っていた。
が、すぐさま気を取り直すと、傍らのエイルに視線を向ける。
「ところでエイル。どうだ?調停者やる気になったか?」
ぷっくりしたレッサーパンダは、無表情な顔をダウドに向け、「考えてはみたのでありますが…」と、目を細めて熟考しな
がら口を開いた。
ユミルは早くもモニターに向き直って作業に取りかかり、ダウドもまた良い返事は期待しないまま、辛いコーヒーという謎
のホットドリンクを、顔を顰めつつ啜る。
「次の認定試験を受けてみようと思うであります」
『なにぃっ!?』
同時に声を上げたダウドとユミルは、相変わらず無表情なまま、己の行く末に関わる重大な事をさらりと言ってのけたレッ
サーパンダを、弾かれたように見遣った。
ダウドは飲み残しの辛いコーヒーをカップの縁から僅かに零し、ユミルに至っては常の彼には無い程の勢いで振り向いたせ
いで、フードが僅かに上がって濡れた黒い鼻と白いマズルが灯りの下に出ている。
「駄目でありますか?」
「馬鹿を言うな!駄目に決まっているだろう!」
「いやいやいや駄目なもんか!大歓迎だぜ!」
「黙れダウド!だからお前が来るのは嫌だったのだ!面白くない事ばかり起こる!」
「まぁまぁ、エイルだってもう独り立ちしても良い頃合いだろう?ここは本人の意志を尊重しようや、なぁ?」
「やかましい!…エイル、後でじっくり話し合おう。そこの白黒阿呆の言う事にはこれ以上耳を貸すな」
「白黒はお前もいっしょじゃねぇか!」
合成音声のような平坦な声にもはっきりと判るだけの不機嫌さを滲み出させたユミルは、ダウドの怒声を無視してモニター
に向き直りつつ、ぼそりと呟いた。
「…ふっかけてやるから覚悟しておけ、ダウド…」
床にあぐらをかいてジャケットを脱ぎ捨て、ピッタリと肌に密着する防刃防弾耐電機能を有するアンダーウェアを脱ぎ、逞
しい上半身をあらわにしたシベリアンハスキーは、そのフサフサとした毛足の長い被毛に覆われた体から、包帯を解き始めた。
程なく現れた背中に深傷の痕跡を認め、ベッドに座っていたシノは痛ましげに顔を曇らせる。
今では傷痕はほぼ塞がり、背の中央の完治していない皮膚から血や体液が滲む程度になったが、それでも十分に酷い眺めで
あった。
マーナの背、肩胛骨の下辺付近から尻尾の付け根の上部までは、楕円形に被毛が無くなっていた。
白い皮膚が周囲から領土を広げてゆき、中央に直径十センチ程の傷を残すのみとなったその痕跡は、かつては凄まじい様相
となっていた火傷である。
毛が焼けるだけに留まらず、皮膚と脂肪が完全に炭化して砕け落ち、炎に炙られた筋肉組織が露出し、じくじくと体液を滲
ませる酷い火傷…。
さらにはそこへ食い込み、あるいは突き刺さった、無数の金属や石片による刺傷裂傷…。
それは、シノと出会ったあの夜、死んでもおかしくない…と言うよりも、生きている方が不思議な状況に追い込まれた際に
負った深傷である。
事実、同じ目にあった仲間達は皆が戦死したのだが、マーナはその場から退却しておおせた。のみならず、シノを連れ出し
ていた上に、超人的な回復力を見せて今日まで生き延びている。
皮膚が治った部位には早くも毛が密生し始め、徐々に傷痕を覆ってゆこうとしていたが、その傷が小さくなっても、いずれ
完全に消えても、自分は決してこの男が負った傷の事を忘れないだろうと、シノは思う。
「どんな具合だ?」
シノの視線に気付いていたのだろうマーナは、軟膏が詰まった小さなビンの蓋を捻りつつ、首を巡らせて訊ねた。
「うん。だいぶ小さくなったっぽい」
腰を浮かせてマーナに歩み寄ったシノは、「貸して」と催促し、蓋があいた小瓶を受け取ると、ひんやりした軟膏を指先に
掬い取った。
「…っつ…!」
シノの指で傷口に薬を塗り込まれ、鋭い痛みを覚えたマーナが小さく呻く。
その背後で、傷を負っている本人よりも辛そうな顔で、シノは歯を食い縛りながら薬を塗り続けた。
自分のせいでマーナがこの傷を負った夜の事を、思い出しながら…。
歩調を乱さず、油断無い視線を周囲に配りながら、ラグナロクの小隊が行く。
その最後尾には、マーナに付き添われる形で連行されているシノの姿。
気絶したままだったので置いて行かれようとしたシノだったが、目覚めてしまったために捕虜となっている。
板型の手枷で両腕を体の前で固定され、俯いて歩くシノに、
「心配しなくて良い。仮定交戦区域を抜けた所で解放すると小隊長もおっしゃられている。調停者の布陣しているエリア近く
で自由にしよう」
と、マーナは辺りをはばかるような小声で告げた。
それに対してシノは、ちらりと横へ向けた疑わしげな目でマーナの横顔を捉えつつ口を開く。
「…信じろっての…?」
「信じて貰えなくて結構」
そう応じたのはマーナではなく、二人よりも前方を行く小隊長の中年である。
シノが視線を向けても小隊長は足も止めず、背を向けたまま先を続けた。
「だが、お荷物を引き摺って撤退できる程、我々に科せられた任務は余裕のある物ではない。何処ででも放り出して身軽にな
りたいと思っているのは事実だ」
「殺せばいいじゃない!」
「脅威にもなり得ない小娘を殺せと?弾が勿体無いな」
極めてつっけんどんで取り付くしまもない言いぐさではあったが、この言わば護送に近いシノの扱いは、彼が言い出した事
である。
小隊長も相当甘い。
隊員達は皆そう思ったが、誰一人として否定的な感情は抱いていない。
強面の兵隊やら化け物のようなハンターやらを相手にならば、いくらでも勇敢に振る舞うグレイブ隊のメンバー達であった
が、相手が尻に卵の欠片が付いているようなひよっこ…おまけに若い女となれば、殺してしまうのも躊躇われる。
シノに危害を加えず解放してやるという点では、全員の意見が一致していた。
「そこ、まだ燻ってるぞ?」
「ガラス散ってるから気を付けろよ姉ちゃん」
兵士達は時折シノを振り返り、口々に一言二言話しかける。
多くは気遣うような言葉であり、シノが同行している事を面白がっているような様子もあった。
その、敵とはいえ気の良い兵士達が、建前上は自分を捕虜にしているものの、その実護送に近い事をしてくれているのだと、
落ち着きを取り戻しつつあるシノは、やがて気が付いた。
空飛ぶソバージュ女という謎の存在によって運ばれ、途中で放り出されたシノは、位置関係を正確には認識できていない。
元々来ない区域なので土地勘もないのである。
だが、おそらくここが調停者達の防衛ラインからかなり離れた、混戦区域の中である事は察しが付いている。
そんな中を一人でうろうろして、先に調停者や特自と出会えたならしめたものだが、敵対する部隊と遭遇したら目も当てら
れない。
今、彼らによって捕らえられているこの状況ならば、敵と出会っても襲われずに済む。
もしも味方と出くわせば、それはそれで望んだ通り、その場で放り出されれば味方に救助して貰える。
この混戦区域において、現在のシノの状況は極めて奇妙ながらも、実に安全な物となっていた。
(変なの…。こいつら本当に非合法組織の手先?危険なテロリスト?それにしちゃ何だか…)
シノは考える。この兵士達は何処かおかしい、と。
小隊長とハスキーを除いた兵士達は、皆どこか似た顔をしている。
双子のような似方ではないが、兄弟や親戚なのだと言われても疑わないほど、背格好も顔立ちも、どこかしら似通っていた。
他にもおかしいと彼女が感じているのは、彼らがまるっきり悪党には見えず、彼女が知る調停者達とあまり変わらない事で
あった。
この兵士達は本当に危険な悪人達なのだろうか?そう、シノは悩み始めた。
帝居の襲撃は現実の物であり、彼らが調停者と敵対している事もまた、疑いようのない事実であったが、首都をあの惨憺た
る戦場に変えたのが彼らであるという考えは、どうにもピンと来なかった。
もっとも、シノが初めて接触した大組織の先兵、このラグナロクのグレイブ隊は、極めて特殊なメンバー揃いである。
彼らが極めて特異なのであり、他の部隊も全て彼らのように振る舞う訳ではない事を、シノは何となくだが理解している。
だが逆に、彼女が信じる側にもまた、例外はある。
自分が帰ろうとしている勢力も、決して完全なる善ではないという事までは、この時までのシノは知らなかった。
「もうじき予定ポイントだ。通信は?」
「ありません」
小隊長と通信兵のやりとりを聞きながら、マーナは微かに眉根を寄せた。
撤退する部隊の援護が、今回グレイブ隊に与えられた主たる任務である。
成し遂げる為にはあまりにも彼らは小勢で、誰が見てもかなり過酷な任務ではあった。
だが、グレイブ隊は既に任務の半ばを達成している。
小隊規模でありながら混戦区域を無傷で突破し、補給物資も一切損なわずに、目標地点近くまで進行してのけた。
かつて中枢直属のエージェント候補となったマーナの力もあるとはいえ、この戦果は、普段から危険な任務についている彼
らの地力の高さ故の結果でもあった。
しかし、部隊を支える目であり鼻であり牙でもあるマーナは、今この時、捕虜であるシノを護るべく部隊の後方に位置して
いる。
この常の状態であればありえないポジションの乱れが、彼らの運命を決めた。
「妙だ…」
マーナの呟きを耳にしたシノは、彼の顔を横目でちらっと見遣った。
シベリアンハスキーは鼻をひくつかせ、焦げ臭い香りが混じる戦場の空気を吟味している。
何が妙なのか?そう訊かれたとしても、マーナ自身そこは上手く説明できない。
幾度も死線を潜り抜けた一流の戦士であるが故の勘が、生き物たる戦場の気紛れを感知したと言えるが、それを理論立てた
言葉で語る術はないのである。
この時、この小隊の不幸は、シノというお荷物を預かったせいで、マーナが後方へ下がっていた事に端を発した。
それは、普段のようにマーナが前方を警戒し、一定距離ごとにスカウトを行っていれば、回避できたはずの事態であった。
マーナが異常を察したその時には、先頭を進んでいた兵士二名は、既に致命的な一線を越えていた。
「げくっ?」
妙な声が上がったのは、右側の兵士からだった。
「どうした?」
すぐ後ろの兵士は声をかけ、そして気付く。
同僚の後頭部、ヘルメットの真後ろに、銀色の鋭い棘が生えている事に。
その兵士が棒のように前へ倒れた次の瞬間、同じように、しかしこちらは喉から銀色の棘を生やしたせいで声を上げられな
かった隣の兵士が、仰向けにどうと倒れた。
ほぼ無音で射出され、飛来した鋭いニードルは、続けざまに後方の二名をも犠牲者に加える。
「敵襲!」
「散開回避!」
気付いた隊員の警告に続き、間髪いれずに発せられた小隊長の短い号令によって、一旦物陰に潜んで体勢を整えようとした
兵士達数名は、しかしそこに仕込まれていた遠隔操作の爆薬によって、ほぼ同時に爆発四散する。
その有様を目の当たりにし、爆風に肌を叩かれ、暑い炎に顔を照らされながら、
「いかん!トラップだ!脇道に入らず後退せよ!」
小隊長は焦慮の滲む強ばった顔で、号令を訂正する。
この襲撃は明らかに準備されていた物…、つまり待ち伏せであると察して。
(この混戦の最中、前線へ向かう我ら小隊の存在を察知していた?しかも進軍ルートが看破されていた?いや、そうそう有り
得ん、偶然なのか?偶然にしてはあまりにも…)
準備が出来すぎている。
そう思考が紡がれた瞬間、小隊長はある推測に至り、愕然とした。
(我等の行動が漏洩していた!?)
意識はすぐさま拾ったばかりのシノに向いたが、しかし細工をする暇は無かったはずだと、スパイ疑惑は打ち消された。
スパイだったとして、そもそも戦局を左右するような重要な場面でなく、支援目的の小隊に工作者を潜り込ませる意図が解
らない。
さらに言うなら、普通ならば非合法組織相手に、捕虜にされる事を前提にした作戦など立てはしない。
全員が身を屈め、普段は小さな円盤型に収縮されている携帯式の対弾シールドを用いて攻撃を防ぎつつ後退してゆく中、今
や先頭となった最後尾でシノを小脇にひょいと抱えたマーナは、開いた左手のグローブから赤い力場を固形化させた楕円形の
シールドを出現させ、飛来するニードルや弾丸から身を守っている。
退路を確保すべく、鋭い眼光で今来たばかりの道を睨んだマーナは、爆発音と同時に足を止めた。
左右のビルが根本を爆破され、道を塞ぐように倒壊する。
先に通る際に確認したが、外側から見える範囲には何も無かった。つまり、事前に建物内側に仕込まれていた事になる。
迂回路は封じられ、退路は断たれた。
何処までも周到な待ち伏せに、進退窮まった小隊長は歯噛みした。
まるっきり行動が読まれているかのような、ここまで完成度が高い待ち伏せに嵌るのは、場数を踏んできた彼にとっても初
めての経験であった。
(そう…。まるで我々の規模も、進路も、武装も、全て知った上で準備されたような…、ほぼ完璧な待ち伏せだ…!)
ついに動きを封じられた部隊は、グラスシールドを構えながら前方より接近して来る相手の姿を認めた。
盾を構えた前衛がずらりと横に並び、その後ろに重火器を手にした後衛が並ぶ。
特自の陸戦部隊。そう見て取った小隊長は、統一された武装に身を包む兵士達の後方に、いささか装いの異なる二人が控え
ている事に気付く。
奥には一人だけ制服姿の、警官にも見える痩身の中年が立っており、その横には若い獣人が立っている。
獣人の方は身長180センチ程のスラリとした狼で、影のように黒い被毛と、戦場には不似合いな、どこか投げやりな雰囲
気を纏っていた。
監査官と調停者。二人の姿からそう察した小隊長は、弾かれたように後方を振り返った。
その視線の先で、マーナもまた自らが抱えているシノの顔を見下ろす。
(いかん!このままでは彼らの仲間であるこの娘まで巻き添えにする!)
マーナの思考はそこに飛び、怯えて固まっている少女から小隊長へと視線を戻した。
指導者が自分に向けているその視線に込められた意図に気付き、マーナはシノを抱えたまま隊の前方へと慎重に移動した。
「一時停戦を要求する!当小隊は現在、調停者を一名捕虜としている!」
小隊長の声が響き、特自隊員達の進軍が止まる。
僅かな動揺が見てとれ、急場しのぎが上手く行きそうだと期待した隊長は、マーナに抱えられているシノに、「利用して済
まんな」と、小声で詫びた。
この言葉に、恐怖で震えていたシノはきょとんとした。
敵だから何をされても文句は言えない。殺されても仕方ない。
それなのにこの小隊長は、人質に取った程度の事で、どうして自分に詫びるのだろう?
理解できずに戸惑ったシノは、次いで自分を責めた。
(謝らなきゃいけないのはあたしだ…。役に立てなかった上に敵に人質にされて…、ここでも味方の足を引っ張ってる…)
暗鬱とした表情で項垂れたシノを睨みながら、特自部隊の後方に立つ監査官は、苛立ちに顔を歪めながら吐き捨てた。
「…撃て!」
その場に居合わせた隊員達は一様に自分の耳を疑い、動揺が広がる。
中には振り返って疑問の視線をなげかける者も居たが、監査官は繰り返した。
「聞こえなかったのか?構わん!撃て!」
「し、しかし監査官殿…」
監査官が部隊を預けられた際に、現場指揮官として任命された二尉は、しかし抗議しようとしたその声を詰まらせた。
その声は、二つの部隊を隔てる決して狭くは無い空間を通過し、優れた聴覚を有するマーナの耳に届いた。
「…何だと…!?」
「何と言っているか聞こえるか?」
愕然とした表情で呻いたマーナの横で、小隊長が尋ねる。
「「構わぬから撃て」…と…!」
それを聞いたシノは、意味を理解できずにきょとんとし、小隊長は弾かれたように敵部隊を見遣る。
「…甘かったか…!」
小隊長が睨み据えた先で、緊張と焦慮が見て取れる監査官は、明らかに異常な発汗によって、その細面をテカらせている。
「ラグナロクのとある小隊を待ち伏せし、これを殲滅せよ」
協力者である彼は、そう、当のラグナロク幹部から指令を受けていた。
外部協力者に過ぎない彼は、ラグナロク内の事情までは知らず、また、訊ねたとしても教えて貰えると思えなかったため、
仔細は問わずに引き受けた。
だが、「失敗したなら関係はそれまで」という、脅迫めいた一言によって、この任務が失敗できない物である事だけは悟っ
ている。
まさか調停者が人質にされるとは思ってもみなかったが、その程度で失敗する訳には行かないのである。
ラグナロクに始末されるのか…、それとも関係を暴露されて粛正されるのか…、どちらにせよ、しくじったならば愉快では
ない未来が待っている。
自分の命令に従わない特自に業を煮やした監査官は、傍らの狼を睨んだ。
「カレハラ!お前がやれ!」
「良いんですか?」
気が進まないといった様子を隠そうともせず、黒い狼は自分と同じ高さにある監査官の目を見遣る。
「二度言わせるな!早くせんか!」
ヒステリックに喚く監査官の横で、カレハラと呼ばれた黒い狼は肩を竦めた。
(まぁ、こっちもリーダー殺られてるし、同業者の一人ぐらい見殺しにしてでもブチ殺してやりたいほど恨みも憎しみもある
けどな…。守護者が聞いて呆れる、腐ってるねぇどうにも…)
「…ま、腐ってるのは俺もだけどな」
自嘲混じりの表情で呟いたカレハラは、手近な距離にいた特自の隊員の手から、発射準備が終わっていたスティンガーを奪
い取った。
そして、喚く隊員を無視し、肩に担ぎ上げて構えると、覗いたサイト越しに見えた、ハスキーに抱えられている若い女に語
りかける。
「「悪く思うな」とは言わん。恨んでくれて良いぜ?お嬢ちゃん…」
哀れみを込め、口元を僅かにゆがめたカレハラの指は、しかし次の瞬間、あっけなく、躊躇いもなく、レバーを引き絞って
いた。
驚愕に見開かれたマーナの目に映るスティンガーミサイルが、急激に拡大した。
「散…!」
小隊長の声は、爆発音に飲まれて消えた。
そこへ、カレハラの一発が引き金となり、数名がトリガーを絞った。
発砲の連鎖は瞬く間に広がり、声を張り上げる二尉の制止も効果を現さない。
人質に取られた若い女性が爆炎の中に消える様は、隊員達の正常な判断を奪う程に衝撃的な物であった。
シノの意識はそこで途切れ、凄惨な光景は見ずに済んだ。
一度途切れた彼女の意識が繋がるのは、暗い屋内の景色である。
「気が…ついたか…」
薄く目を開けたシノが、爆風と衝撃でやられた耳で聞いたのは、遠くから響くような掠れ声であった。
周囲を覆う暗い闇の中、仰向けになっているらしい自分のすぐ横で、犬系獣人特有の目が僅かに緑の火を灯していた。
「…何が…」
「良い…、今は何も…考えるな…」
街灯の灯りが遠い、窓が破れた暗い室内では、シノの目はマーナの姿をはっきりと見る事ができなかった。
だが、その息には苦しげな喘ぎが混じって、声は明らかに震えており、周囲にはタンパク質が焦げた異臭と、金属的な匂い
が漂っている。
ぼんやりとした頭で、シノは思い出す。
子供の頃に遊んでいた公園の、ブランコを囲む手すり。その錆びた部分が、雨上がりには同じような匂いを発していた事を。
(錆じゃない…これ…、血の匂い…)
小雪がちらちらと舞い降りる窓の外から、雲の途切れ目に差し掛かった月が光を投げ入れる。
その光が互いの姿を照らし、状況を見て取ったシノは息を飲んだ。
シノの横で俯せに倒れているマーナ。その背が、凄惨なまでの火傷を負っていた。
背中だけではない。一体どれだけの炎で炙られたのか、腕の後面や尻尾、足の後ろ側など、背面ほぼ全てが深い火傷を負っ
ている。
中でも背中は特に酷く、組織が炭化してはげ落ち、焼かれた筋肉が露出した有様であった。
「な、ななな…!」
手械が嵌ったままの腕を使って、弾かれるように身を起こしたシノの口から、おののきの声が漏れた。
そんな彼女の反応を目にし、マーナは僅かに口元を緩める。
スティンガーが炸裂する直前、マーナはシノの体を正面から抱き締める形で抱え込み、両手のグローブから彼女の体を覆う
形で力場を発生させていた。
それだけではカバーできる面積は不十分だったものの、力場と己の体を盾にする事で、シノを炎の舌から庇ったのである。
あるいは彼一人であれば、もう少しダメージを軽減させる事もできたかもしれない。
だが、極限の状態において、マーナは少女を見捨てるどころか、反射的にシノの安全を最優先とする行動を取ってしまった。
結果としてシノは、自分を抱え込んだマーナの体越しに突き抜けて来た爆発の衝撃で脳震盪を起こしただけで、ほぼ無傷で
あった。
理屈も方法も判らないが、このハスキーが自分を守って重傷を負った事を悟ったシノは、恐る恐る口を開く。
「ど、どうして…あたしを…?」
「さて…。訊かれても…拙者自身、良く判らん…」
ショック死して然り。生きているのがおかしい程の深傷だが、しかしマーナは震える腕を使って身を起こす。
苦痛の唸りが食い縛った歯の隙間から漏れ、焼かれた痕からじくじくと体液が滲み出る。
「だ、だめっ!動いちゃ駄目よ!」
シノは制止しようとしたが、その傷だらけの体に触れて苦痛を与える事を躊躇し、上げた両手を宙に彷徨わせた。
「行かねば…!皆が逝った今…、任務を…遂行できるのは…、拙者のみ…!」
満身創痍の状態にあって、なおも彼を突き動かすのは、自分達のサポートを待っているであろう友軍への義。
そして、荒れ狂う爆炎の中、瓦礫に埋もれて両脚と右腕を失い、頭部の半分を炭化させながらも、マーナだけでも生き延び
るよう、事切れる寸前に最後の命令を下した小隊長の声。
使命感から立ち上がろうとするマーナは、しかし気付いていない。
彼らが赴く予定だったポイントに帰還して来る部隊は一つも無く、彼が迎えに行こうとしている友軍など元々存在しないと
いう事にも、今回与えられた任務自体が、どさくさに紛れて自分達を抹殺すべく仕組まれた物であったという事にも…。
激痛によって体が言う事を聞かない。
焦りから己の無力さを胸中で罵り、何とか立ち上がったマーナは、しかし真っ直ぐ立つ事すら叶わずにふらつき、すぐさま
跪く。
次々に銃弾やらニードルやらが打ち込まれて来る炎と煙の中、それを目眩ましにして、跳躍、手近なビルの二階に見えた割
れた窓へ侵入し、気絶しているシノを抱いて包囲から脱出したハスキーは、自身と彼女を安全と思える程距離を稼いで運び、
重傷の体でまんまと逃げおおせた。
恐るべき体力と精神力の賜だが、それも無尽蔵とは言えない。
もはやマーナの体は生存機能の維持がかろうじて保っているという、精神論ではなく物理的に、無理が利かない状態に陥っ
ていた。
跪いたまま意識が遠のき、マーナは横向きにドサリと倒れ、意識を失う。
「ほほほほらぁああああっ!じっとしてないと死んじゃうわよあんたぁっ!」
パニック寸前で泣き出しそうになっているシノは、目の前に大怪我を負っているマーナが居るせいで、自分が見捨てられた
事など思考の外にある。
満身創痍のマーナをどうこうしようという考えは、シノの頭には微塵も浮かばなかった。
ただ、自分を守ってくれたこの男に死なれたくないという思いだけが、彼女の胸を満たしている。
シノはベースで手伝いをしていた時に預けられていた、簡易救急キットの事を思い出し、ポケットをまさぐる。
死なせない。死なせたくない。
「まだお礼も言ってないのに、死んだりなんかしないでよぉおおおおっ…!」
シノは泣き言を漏らしながら、か細く弱々しく震える手で、傷口保護用の発泡スプレーを取り出した。