逃亡者(後編)

紫野朝香は、幼い頃から活発で、運動神経の良い子供であった。

駆け比べすれば学校の誰よりも速く、ボールを投げれば近所のどの男の子よりも遠く放れる。

幼い頃から人形遊びやままごとよりも、男の子と一緒に外を駆け回る事を好み、実際、女友達よりも男友達の方が多かった。

学生時代は部活を点々と変えた。

何か一種目にのめり込む事は無く、その時その時に興味を持った、違った部活に所属した。

そんな、移り気とも言える彼女が、しかし幼い頃から変わらず持ち続けた物がある。

それは、自分が将来なりたい物の、明確なヴィジョンであった。

小さな頃から男の子同様に特撮ヒーローに夢中になったシノは、可憐な恋愛が描かれた少女漫画雑誌よりも、派手なアクショ

ンでヒーローが活躍する少年誌を愛読した。

正義の味方。

それが、シノが幼い頃から憧れ、なりたかった物である。

しかし彼女は、両親の反対を押し切って家を飛び出し、調停者としての道を歩み始めたものの、程なく挫折を味わった。

学生時代は運動神経の良さもスタミナも突出していた彼女ではあったが、調停者を目指す者の多くは、彼女とは比較になら

ない身体能力や技能を有していたのである。

それは、若さという彼女最大の武器であり弱点を加味してもなお、埋め切れぬ物であった。

新人としてもせいぜい下の上。それが、調停者の基準で見たシノのレベルである。

人間である上に女性の身では、半数以上が獣人で、しかも大半が男というこの世界で成り上がるのは厳しい。

噂に名高いセレスティアルゲイザーなど、高名な女性調停者も居るには居るものの、それは限られた例外で、上位調停者に

名を連ねる程になった女性を歴代全て挙げて行っても、片手の指だけで数えるに足る。

そもそもその神崎の令嬢とて、獣人であり能力者、おまけに神将家の出というサラブレットであり、シノとは出自からして

大きく異なる。

何とかなるだろうと考えていた楽天的なシノは、自信を打ち砕かれて無力さを噛み締めた。

それでも諦めず、調停者としてやって行く意志が変わらなかったのは、一重に彼女の「正義の味方」への憧れが強い物だっ

たからこそである。

だがしかし、無力さを実感してもなお挫けなかった彼女の心は、今では揺らいでいた。

どちらが善でどちらが悪か?

世論に照らし合わせるならば、守護者たる監査官や調停者、特自が善。侵略者たる黄昏は当然悪。

だが、監査官や調停者、特自は、シノの思い描く「正義の味方」に近い存在なのかと問われれば、以前のように迷わず首肯

する事はできない。

指令役でもある監査官に切り捨てられ、あろう事か敵に助けられた彼女には、以前のような明確で単純で幼稚な善悪の判断

を下す事ができなくなっていた。

何を信じれば良いのかが、今ではもう判らない。

仮設ベースで自分を気遣ってくれた、あの太った若い監査官も、あの状況ならば自分を切り捨てたのだろうか?

仲間のために声を荒らげ、涙無き慟哭に震えたあの雄々しい白熊も、あの状況ならば自分を切り捨てたのだろうか?

繰り返す自問で疑心暗鬼となったシノにとっては、もはや敵も味方も以前考えていたような二色刷りの分かり易い存在では

なくなった。

単純な二元論では済まされない、主観と立場でいくらでも変化する「正義」という名の曖昧な旗。

シノはようやくその真の姿に気付き始め、同時にそれを素直に受け入れる事ができずに苦悩している。

その混沌とし、判断に迷う敵と味方。しかし、その善悪割り切りの範疇から外れたところに、彼女のおかしな守護者が立っ

ている。

調停者という立場から法的に考えれば、当然悪人である。

だが普通に人柄を見れば、正直でお人好しな善人である。

善でもあり、悪でもある。シノにとってはそんな曖昧な存在であるが、恩人である事には変わりない。

彼女にとって、今ではマーナだけが信じるに足る唯一の人物であった。



「ぐっ…!」

「あっ!ごめん痛む?」

「いや…、問題ない…!ほんの少ししみただけだ。少しだけな」

背に軟膏を擦り込まれるのは、手当てのため仕方ないとはいえ、当然痛みを伴う。

躊躇い、気遣うシノに、マーナは歯を食い縛り、苦痛に耐えながら答えた。

酷い傷ではあったが、今ではだいぶ癒え、体はほぼ本調子に戻っている。

この本人では手入れのし難い位置の深傷を、あの夜以来ずっと処置し続けているのは、罪悪感すら抱いているシノであった。

自分達が壊滅したあの時点で既に撤収命令が出されていたらしい事は、マーナは後に匿ってくれた組織からラグナロクの動

きを聞き、察している。

(拙者らに撤退の伝達がなかったのは、首都側が流したジャマーのせいなのやもしれぬ…)

自分達が追い込まれるに至った状況について、人の良いマーナはそう考えている。

事前に言い渡されていた自分達小隊の回線設定だけが他と異なっており、そもそも撤退命令が受信できないようにされてい

たとは夢にも思わず、自分達が組織内上位に居る何者かによって抹殺されようとしていた事までは考えが至らない。

切り捨てられたのはシノだけでなく、マーナ達も一緒であった。

それどころか、この憐れな若い女が仲間から切り捨てられた事すらも、自分達が仲間によって抹殺を謀られた結果だとは、

手持ちの情報が少ないマーナに推測できるはずもない。

その事を知らないままに、マーナはシノを守る。

撤収命令を受け損ね、死の際に瀕した自分を、敵でありながら救ってくれた女…。シノはマーナにとって命の恩人であった。

切り捨てられた本人である彼女が無事である事が知られたなら、立場が悪くなる者は黙っている訳がない。

特に、命令に従ったあの黒い狼や特自の隊員達はともかく、実際に命令を下した監査官は、任務遂行上の判断とはいえ止む

を得なかったとは言い難く、糾弾される事は間違いない。

シノが生きていると知られれば、恐らく消しにかかるだろう。マーナはそう推測している。

事実、マーナとシノは知らない事ではあるが、ラグナロクの命を受けていたあの監査官は、後ろめたさから神経過敏になっ

ている。

立場を少しでも悪くする要因…シノが無事だと知れば、決して見逃しはしない。

敗残兵たるマーナに従い、人質という体を装わされつつ、同業者の目が届かぬよう匿われている逃亡者…。

それが、現在のシノが置かれている、複雑な立場であった。

マーナが恩義を感じている以上に、シノにとってもマーナは恩人である。

改まって礼を言う度に「おあいこでしょ」と、照れ隠しのつっけんどんな態度でつっぱねているが、礼を言われる度に罪悪

感を覚えている。

シノにしてみれば、マーナは二度も命を救ってくれた恩人であるだけでなく、自分のせいで失策を犯し、仲間を喪って追い

詰められているのである。

捕虜という体を為して、実際には保護送致を受けていた彼女の傍らに居たせいで、スカウトであるマーナはその役目を果た

せなかった。

失策を犯したのは確かに彼ら小隊であったかもしれないが、原因その物は自分であるという負い目がある。

しかし彼女は、この程度で受けた恩と借りを返せるとは思っていない。

進んで「人質」という形でマーナに従い、いざという時は、今度こそ己が命を以て交渉材料となる覚悟を決めている。

(マーナは絶対にウンって言わないだろうけど…、今度はあたしが、命に替えてもマーナを助けてやるんだ…!)

シノはマーナの背に軟膏を塗りながら、これまでにも胸の内で何度も繰り返して来た決意を新たにする。

敵同士として出会った二人は、首都を震撼させた事件とその後の潜伏期間を通し、強い信頼で結びついていた。



ビルの切れ目から射し込んだ、沈む寸前にまで傾いた陽を体に浴び、ゴーグルの中で目を細めたダウドは路肩へハーレーを

寄せる。

ブルーティッシュ本部前の主要道。その歩道には、巨体に似合わぬ軽快なスキップを披露している白い熊の姿があった。

寄って低くなったバイクのエンジン音に気付き、やけに小さく見える黒いランドセルを背負った白い熊が振り返る。

「よう。おかえり」

「ただいまっス!」

停車したダウドが片手を上げると、まだ小学五年生ながらも160センチを越えている北極熊は、顔を輝かせて返事をした。

純白の長い被毛に覆われてムクムクと肥えた、縦にも横にも大きい大人顔負けの体格だが、マズルの突き出方が浅くておで

こが広い、幼い顔立ちをしている。

瞳は赤く、この国では異質な色ではあるが、不思議と奇妙さや違和感はない。

薄赤い目は無邪気さを帯びて宝石のようにキラキラと輝いており、体の白さに映えて美しい。

北極熊は少し窮屈そうな野球のユニフォームを身につけ、ウィンドブレーカーを羽織っていた。

「勝ったのか?」

「うっス!オレの逆転ツーランで!」

機嫌が良さそうだったので半ば答えは解っていたものの、一応訊ねたダウドに、白熊少年はガッツポーズをしながら誇らし

げに答えた。

所属しているリトルリーグの練習試合で活躍し、嬉しくてスキップを踏んでいたらしい白熊に、バイクを降りたダウドは破

顔しながら顎をしゃくる。

「乗れアル。…と言っても、もうそこだがな」

予備のハーフメットを放り投げながら言った白虎に、

「やたっ!ありがとっス!」

アルと呼ばれた少年は、胸の前でメットをキャッチしつつ嬉しそうに笑って見せる。

すぐそこの本部へ帰るまでの短い距離でも、バイク好きな少年には嬉しいらしい。

少年が後部座席にのしっと跨り、ダウドの背にピタリとくっついて腰に腕を回すと、勤勉で力持ちなハーレーは、重い乗客

が増えた事にも文句を言わずに走り出す。

低く轟くエンジン音と震動を肌で感じ、嬉しそうに顔を綻ばせている少年は、本部の正門前を通り過ぎた事に気付いて首を

捻る。

が、ダウドがわざわざ遠回りし、裏門まで距離を伸ばして乗せてくれるつもりだと気付くと、嬉しそうに「でへへぇ〜!」

と声を漏らし、実の兄や父のように慕っている大男の背に、より強くしがみついた。

ぐるりと本部を回り込んだバイクは、程なく裏門から敷地に入り、ビル内の地下駐車場へとたどり着く。

出動、あるいは帰還したばかりで駐車場に居合わせた調停者達は、

「おかえりなさいリーダー」

「お疲れさんです」

「おかえりアル坊」

「試合どうだった?」

リーダーとマスコットが揃って帰って来た事に気付き、歩み寄って口々に声をかける。

アルと共に挨拶を返したダウドは、

「検問や海パトの警戒網に目立った変化やアクシデントはあったか?」

と、メンバー達に状況を確認しつつ、アルを連れて歩き出す。

「相変わらず問題無いようです。先にも話が上がっておりましたが、数日中に警備体制も平常に近いレベルまで戻されましょ

うな」

灰色の毛に白い物が混じり始めている、壮年に差し掛かった猿がそう説明すると、ダウドは考え込むように目を細め、足を

止めて呟く。

「…規模縮小がかかって仕方ない頃合いだが…、個人的には歓迎できんタイミングだな…」

先の事件以来設けられていた、首都の出入りを監視する検問等が縮小されれば、潜伏しているはずの敗残兵の脱出が容易に

なる。

敗残兵はエインフェリアである可能性が高い。

彼らの中には上位調停者に匹敵する力を有する者もおり、実力の伴わない者が下手に手を出せば、間違いなく返り討ちにさ

れる。

さらに彼らは、ラグナロクの高い技術力を欲する者達にとっては、垂涎の研究対象でもある。

公表してしまったが最後、良からぬ考えを抱く者が下手なちょっかいをかける可能性も否めない。

相手を組織よりも個人のレベルで評価するダウドは、監査官達すらも完全には信用していない。

人は人、悪人も善人も居て当然と割り切っており、信用できるかどうかは自分で見て考える。

その結果、残念ながらこの首都には、権力欲に取り憑かれた監査官が多いと判断せざるを得ない。

そのように二つの危険性を鑑み、潜伏者の存在をなるべくおおやけにせず、秘密裏に処理したいと考えているダウドにとっ

ては、事情を説明して警戒網の維持を訴えるというのは、出来うる限り避けたい手段であった。

一刻も早く見つけ出し、始末を付ける。それも、できれば自分自身の手で。

そんな事を考えながら深刻な顔をしているダウドを、傍らの少年熊が不思議そうな顔をして見上げている。

普段は堂々として、ちょっとやそっとの事では微塵も揺るがず、多少の困難も豪快に笑い飛ばす白虎が見せた表情は、少年

にとって非常に珍しいものであった。

その視線に気付いたダウドは、「行くぞ」と、少年の背をポンと叩いて促す。

「悩み事っス?」

「まあな」

「オレでも相談に乗れるっス?」

「三十過ぎたら急に頭の毛が薄くなって来た悩みでもか?」

「薄くなったんスか?」

少し驚いたように聞き返したアルに、ダウドがからからと笑いながら「冗談だ」と応じた。

「ま、自己満足に関する下らん悩みだ。相談は…、本当に必要になる時まで取っておこう」

並んで歩く白虎に、わしわしっと乱暴に頭を撫でられたアルは、顔を顰めて見せながらも口元は嬉しそうにやや綻んでいた。

「今夜はネネの帰りが遅い。俺も野暮用が二、三あるからあまり一緒に居てやれんが、飯と風呂ぐらいは一緒に済ます程度の

余裕は作れそうだ」

「もう子供じゃないんスから、一人で平気っスよぅ…」

「まだガキだ。そんなセリフが出て来る内はな。いつまでも子供で居る事はできんから、ガキの内にガキらしい甘え方を存分

にしておけ」

本心では気遣いが嬉しいながらも、ない交ぜになった遠慮と反発が浮かぶ顔で応じたアルを、ダウドはからかうような口調

で諭す。

不機嫌そうに頬を膨らませて見せながらも、一緒に夕食を摂って貰える事が嬉しいのだろうアルは、短い尻尾を小刻みにフ

ルフル動かしている。

その横で、ダウドは再び、しかし先程とは違う物思いに耽りながら正面を向いた。

日を追う毎に大きく、重くなってゆく北極熊の子。

まだ幼いアルの顔には、しかし友の面影が日に日に濃く重ねられるようになってゆく。

かつて政府連合を相手取り、世界の敵対者として名を知られた白き災厄…。

その一粒種が存在している事は、政府連合は勿論ラグナロクも知らず、恐らくは世界最高の情報屋であろうユミルですら掴

んでいない。

アルの出生に関する秘密を知る者は、今ではもうダウドとネネしか残っていないはずである。

(だが…、いつまで知られずに済む?)

ダウドは自問する。あまりにも父親に似過ぎている熊の子と共に歩みながら。

(いつまで…、あいつとアルの関係に気付かれずに済む…?日毎に似て行くコイツの素性が明るみになる日が来るとして…、

俺はその時も、こいつの傍に居てやる事ができるのか?こいつの横に立っていられるのか?)

アルの成長を喜ばしく思いながらも、ダウドは暗鬱な気分になる。

いつか自分かネネが父親の事を伝えた時、アルはどんな思いでそれを受け止めるのか?そもそも、果たして受け止める事が

できるのだろうか?

(ふん…!ラグナロクやらエインフェリアやら、昔を思い出すような騒ぎが続いてセンチになってるってのか?えぇダウドよ?

らしくねぇぞまったく…)

自嘲するように口元を歪ませたダウドに、口数が少ない事を気にしたアルが話しかける。

「悩み事っス?」

「まあな」

「オレでも相談に乗れるっス?」

「三十過ぎたら急に…」

「毛が薄くなった冗談はさっき聞いたっス」

ダウドはアルの頭をポンと叩き、「やっぱりな、言ったような気がした」と破顔して見せた。



「どうしたのだ?シノ」

ノックに続いて部屋に入ったマーナは、建前上の人質であるシノに、そう声をかけた。

ベッドに腰掛けたまま、浮かない顔でぼんやりと天井を見上げていたシノは、小さくかぶりを振る。

「何でもない。ちょっと考え事」

「外が恋しいか?…まぁ、移動の時を覗けば事件後ずっと隠りきりだったからな…。そうだ、支配人に頼んで屋上にでも上が

らせて貰い、少し外気にでも当たってみるか?」

「違うってば、本当に何でもないの!不用意に外に出るのはまずいってば!」

気遣いから、己の立場もわきまえない提案をしたマーナを、シノは慌てて制止した。

「それより、何の相談だったの?」

「うむ…」

マーナは頷いたきりしばし黙り込むと、シノの顔をじっと見つめ、やがて小声で語り始めた。

自分達が直前まで匿われていた組織が、ブルーティッシュに制圧された事や、そのブルーティッシュが半日ほど前から何か

を探るような動きを見せ、多くのメンバーを首都の広範囲に渡って派遣しているらしい事を。

「つまり連中は、拙者…残党がまだ潜伏しているのやもしれぬと疑い出したらしい」

「…ヤバくない?」

「明らかにヤバヤバであろうな」

好んでシノの言葉を真似たがるマーナが、しかし軽い響きの言葉とは裏腹に重々しく頷くと、シノは探索対象である本人以

上に焦りをあらわにする。

「逃げよう!場所を変えよう!相手は関東圏最大最強のブルーティッシュだ!ここにもすぐ来るって!」

「いや、すぐにどうこうという恐れは、実はそれほど無い。先に匿って貰った組織の頭領は、我等の移動先であるここの事は

知らぬ。万が一捕らえられた際に口を割らぬようにと、最初から聞かない事にしてくれていたからな。直接ここを知られる事

は無い」

一度言葉を切ったマーナが軽く目を閉じて胸に手を当て「ご厚情、痛み入る…」と呟き、またもやシノは軽い混乱を覚える。

それほど深い付き合いでもないはずのマーナに対する、心砕きと配慮と仁義。

犯罪組織の方が、監査官などよりよほど人情味があるではないか?

そんなシノの胸中までは流石に察する事もできず、マーナは先を続けた。

「だが吉報もある。しばし前から話が出ていた事らしいが、警戒網が数日中にも規模縮小されるらしい」

この報せには、シノも表情を僅かに明るくした。

「それじゃあ、いよいよ脱出が…!」

「さしあたっての問題は、警戒が緩むのが先か、疑惑を深めたブルーティッシュが拙者の居所を突き止めるのが先かという事

よ…。下手に動いて見つかるのもつまらぬし、潜伏するに適当な場所の候補も、拙者の頭にはもう無い。かといってここに居

れば安全という保証も当然無いのだが…。まぁ、当面は慎重に判断しつつ行動決定するしかあるまいな」

「うー!ジレンマ!逃げたいのに動けないなんて!」

「まったくだ」

シノが頭を抱え、マーナがしみじみ頷いたその時、廊下に足音が響いた。

複数の慌ただしい足音を感知したマーナの耳は、それとほぼ同時に捉えた、何事かを激しく言い争うような声に神経を注い

でいる。

「…何?」

耳をそばだてずとも聞こえる荒々しい足音と言い争いに気付き、シノは警戒の色を濃くした。

立場上表向きは丸腰という事になっているシノだが、実際にはマーナによって護身用にとスタンガンをあてがわれ、隠し持っ

ている。

その隠し場所であるジャケットにちらりと視線を向けたシノは、しかしマーナが軽く首を横に振ったので、ベッドの上で自

分の両腕に手枷を填め、これまで通り捕虜のふりを決め込む事にした。

程なくドアが開くと、スーツ姿の男達…表向きはホテルの従業員である組織の構成員達が五名、どやどやと部屋に入り込む。

無遠慮に踏み込んで来た男達の後ろから、初老の男性…組織の頭が慌てて顔を出した。

「お前達!客人の部屋だぞ!慎まんか!」

ボスの怒声を浴びた男達は、しかしひるみもせずにマーナを睨み付けている。

殺気立ったその気配を感じながらも、しかし涼風を浴びた程度にも揺らぎを見せないマーナは、すぐさま状況を悟った。

先程初老のボスと二人で相談した内容を、構成員の誰かが聞いていた。

そして、マーナを庇ってブルーティッシュの捜索先となる事を恐れ、危機排除の行動に出たのだ、と。

「おい、大人しくし…」

「大人しくして、縛られるかどうかして、路上など目立つ所に転がされ、調停者に見つかれ…、と?」

言葉を遮ったマーナがすらすらとそう言うと、男達は虚を突かれて鼻白んだが、意図が読まれていた以上隠す事を止め、手

に手に隠し持っていた刃物を握る。

大振りな、殺傷と解体を目的としたハンティングナイフを前にしてもなお、マーナには緊張が無い。

その瞳には、殺気立つ男達の背後で部下達に押さえられ、目下の不義を罵るボスに対する、詫びの色が浮いていた。

「もめ事の種となった事…、真に申し訳なく思う…」

静かに口を開いたマーナの背後では、ベッドの上のシノがジャケットと自分の距離を測り、手枷を填めたこの状態でどれだ

け動けるか考えている。

マーナから与えられていたのは一般に流通している、昏倒させるまで行かない衝撃を与える程度のスタンガンである。

本当の護身用なので、刃物を手にした男達を相手にするには甚だ心許ないが、今シノが持っている牙はそれしかない。

義理堅いマーナが無抵抗に連中に従うつもりなら、自分が戦って切り抜ける…。

勝つのは無理でも、せめてマーナを逃がしてやる…。

例え力及ばずとも、マーナの為に身を危険に晒す覚悟は、とうにできていた。

だが、この場において自分が蛮勇を振るう機会が無い事を、シノは間もなく知る事になる。

「…だが、拙者もおめおめと捕らえられる訳には行かぬ…」

勇むシノの気配の変化を感じ取りながらも、ハスキーはほとんど感情を窺わせない、静かな声で呟く。

「出て行けと申されるなら黙って去るが、捕らえて引き渡そうというおつもりであれば…」

マーナが淡々と続けた言葉が、一度途切れた。

そしてその一拍の間に、劇的な変化が訪れる。

「…はなはだ不本意だが、抵抗させて頂く…」

目つきを鋭くし、声を低くしたマーナの全身から発散される、気迫と闘志。

一流中の一流たる戦士、マーナが解放したその気配に当てられ、男達はさながら、外敵に襲われた兎の子のように小さくな

り、萎縮した。

それは、寒風にさらされた者が身を縮め、硬くなる様子にも似ている。

気迫が物理的な力をもって働きかけてくるような、その濃厚で激しい、肌を刺すような感覚に、気の弱い男などはガタガタ

と震え始めている。

暴力を生業とする者だからこそ、はっきりと判った。

目の前のシベリアンハスキーが、自分達とは明らかに次元が違う存在であるという事を。

噂に聞く黄昏の兵士とはいっても、所詮は敗残兵…。つい今し方までの男達には、マーナを立場から軽く見た、そんな侮り

があった。

だが今では、男達は理解している。

例え手負いでも、子兎に狩られる狼など居ないという、歴然たるその事実を。

男達から暴力的な雰囲気が消え、攻撃性が怯えに変わった事を見て取ると、マーナは発散させていた濃密な覇気を収める。

「…匿って頂いた上、組織内に不協和音をもたらす原因になるのはしのびない…。頭領、何のお礼もお応えもできず申し訳な

いが、拙者はこれにて失礼させて頂く」

深々と、偽らざる礼と詫びを込めて頭を下げたマーナを前に、初老のボスは顔を真っ赤にしながら項垂れた。

「お恥ずかしい…!弱小組織と大組織…、規模の差のみならず、構成員の品格すらここまで違うとは…!この不義を何とお詫

びすべきか…!」

「お気になさらず…。これまでの、拙者には過ぎた手厚い保護に、感謝しております」

応じたマーナは首を巡らせ、シノを振り返って頷きかけた。

もはやここに潜伏している事はできない。マーナは危険を冒す事も承知の上で、一時の隠れ家に別れを告げる事を決めた。



「「販売」ではなく「流し」が私共の本業でして、解析が済んでいない品が大半ですが…」

初老の紳士は、マーナ達が居た場所とはまた違う地下室で、金属製の箱を開きながら呟いた。

ひんやりとした空気がこもるその部屋で、マーナが僅かに見せた「その気」によってすっかり牙を抜かれた男達は、ボスが

指示した通り、黙々と箱を運び込んでは、マーナの前に置いてゆく。

大小様々ないくつもの箱には、多様なレリックが収められていた。

その数は数十点にも及び、マーナは感心し、シノは青くなった。

マーナの方は、監視と取り締まりの厳しいこの国の首都において、希少なレリックがここまで集められている事に感心して

いる。

一方シノは、一時にこれだけのレリックを目にする事が初めてであったため、「全部売ったら何億円になるんだろう…?」

と、庶民的な感覚によって、高額品を前にした恐怖を覚えている。

必要な物を持っていって欲しい。

約束を果たせなかったせめてもの詫びにと、初老の紳士はマーナにそう提案した。

自身は使い慣れた得物を所持しているため、一度は遠慮したマーナであったが、しつこい程繰り返された末に、紳士の顔を

立てる為にもと申し出を受けている。

とは言っても、特に欲しいと思う品がある訳でもない。

適当に見繕い、あまり希少でもなさそうな品を貰って済ませようと考えていたマーナは、あてがわれた品の中から無難そう

な物を選定し始める。

が、レリックを見定めていたその視線は、自分の傍らで相変わらず人質のふりをしているシノの横顔へと、不意にちらりと

向けられた。

口は開かないまま視線を送っていたシノは、気付いたマーナに目で訴える。

シノが目で示す先には、細長い小箱に収められた、両刃のナイフがあった。

暖かみのある薄茶色の刃には、びっしりと模様のように文字が彫り込んである。

(明らかに金属ではない…。恐らくは、何かの骨か角を削り出した物か?)

細められたマーナの目が、小さな武器を入念に観察する。

刃渡り15センチ程度の、シンプルな構造の両刃ナイフである。

柄には何か動物の革が巻かれており、握った際にフィットするよう、指が収まる凹凸がついていた。

鍔は両側の刃の方向へ、指止め程度の小振りな物が形成されている。

それをしばし見つめたマーナは、シノが自分の武器としてそれを求めている事を察しながら、しかし所望を申し出る事を迷っ

た。

マーナにはレリックに関する知識があまりない。

そのナイフがどのような物なのかという事も、本当は良く判らないのだが、彼はこのちっぽけな武器から、どうにも嫌な感

覚を受けていた。

一流の戦士としての感性と、野生の勘…。幾度も彼を危機から救って来たそれらが、「十分に警戒せよ」と彼に訴えている。

しばし迷ったマーナは、結局他にはシノが扱えそうな手頃な武器も無い事から、しぶしぶ彼女の要求を飲んだ。

「このナイフは?」

マーナの問いに頷いた初老の紳士は、レリックに詳しい部下を呼び、説明させる。

「材質は不明ですが…、恐らく、現存していない何かの骨で作られた品かと…。硬度は極めて高く、刃を噛ませあえば特殊セ

ラミック刀が簡単に刃こぼれします。何らかの特殊機能の有無については、現時点ではまだ…」

名称も機能も材質も不明。文献にもこのナイフに関わるらしい類の記述が無い旨聞かされたマーナの警戒心は、再び疼く。

しかしシノには、彼が警戒している事にも気付いた様子はない。

自分が扱えそうな手頃な武器で、しかも見た目が貧乏くさいので値が張らない物だろう…程度の選定基準で欲しがっている。

(シノは…、いや、他の誰もがコレに警戒を抱いていないのか…?)

自分が神経質なだけなのだろうか?

そう考えたマーナは、結局そのナイフを譲って貰う事にした。



「お前…、腹大丈夫か…?」

げんなりした顔で呟くダウドの前には、大皿に山と盛られたヤキソバをペロリと平らげたあげく、お代わりしたメロンソー

ダを、盛大に音を立てて啜っている熊の子の姿。

「八分目っス」

口を休め、ソーダに浮かぶ半球状のソフトをスプーンでつつきながら応じたアルは、西瓜でも丸呑みにしたような丸い腹を

満足げにポンポンと叩いて見せた。

ブルーティッシュ本部の食堂ともなっているレストランは、夕食時という事もあり、食事を摂りに来たメンバー達で混雑し

ている。

(エナジーコート系の能力者じゃあるまいし…。余分に食ったら食っただけ肉になっちまうぞ?)

そんな事を考えたダウドは、不意に眉根を寄せ、難しい顔つきになってアルを見つめた。

「おいアル。お前最近体の調子が悪いとか…、熱っぽいとか…、そんな事は無いな?」

「へ?フツーっスけど?」

「そうか…」

きょとんとしながら答えたアルの前で、ダウドは安堵でもしたように、心なしか口元を緩める。

(入念な検査を繰り返してはいるが…、どうやら本当に能力は引き継いでいないらしいな。まぁ、例は少ないが成人した後で

も覚醒するケースはある。気を付けておいてやるに越した事は無いか…)

「食い終わったら部屋に戻って宿題片付けろよ?でないと俺がネネに「居ない内に甘やかした」って怒られるからな」

「しゅ…宿題は…、今日は無いっスよぅ…?」

「…嘘だろ?」

「ほ、ホントっスよぅ…?」

「なら何で目を逸らす?」

「うっ…!」

嘘をあっさり見破られたアルが呻くと、ダウドは面白がっているような微苦笑を浮かべる。

「やっとけ。居ない時にこそ頑張ってるって見せてやれば、ネネも機嫌を良くしてご褒美をくれるかもしれんぞ?」

「ご褒美…。ホントっスか?」

ぐっと身を乗り出して来る、何故かやけに食い付きが良いアルの反応を、ダウドは若干訝しむ。

「参考までに訊くが、例えばどんなご褒美が欲しいんだ?」

「え?い、いや…、別に欲しい物とかは無いんスけどね…」

口ごもったアルは、胸の内で呟いた。

(五年生にもなって動物園連れてって欲しいとか言ったら…、きっと笑われちゃうっス…)

慕ってはいるのに甘える事が下手な白熊は、いつもこのように、妙な所で遠慮してしまうのであった。

そんなアルの微笑ましくもどこか寂しい葛藤には気付かず、ダウドは震動した携帯を手に取る。

目を遣った小窓には、携帯に登録されている架空の人物名が表示されており、白虎は即座にかけてきた相手の正体を悟った。

「俺だ」

『調べがついた』

「折り返す」

ユミルに短く告げたダウドは、携帯を仕舞い込んで席を立った。

「悪いなアル、急用だ」

「うス。行ってらっしゃいっス!」

仕事の詳細な内容までは知らされていなくとも、調停者という物がどんな職なのか認識しているアルは、物分かり良く頷く。

が、僅かながら寂しさが滲んだその表情を見て取ったダウドは、一度は立ち去りかけたものの、思い直して足を止め、アル

の傍らに戻った。

「ネネのご褒美に関しちゃ保証はできんが…、次の練習試合でも勝てたら、俺がプラモでも買ってやる」

「え?ホントっス!?」

「おう!約束だ。だが、前提条件として今日の宿題を片付けておく事。…良いか?」

「うっス!」

俄然やる気を出したアルの頭をポンと叩いたダウドは、「よろしい!」と声をかけて踵を返す。

機嫌良さそうな笑みを浮かべているアルに背を向けたその瞬間には、屈強な白虎からは良き兄代わり、良き父代わりとして

の表情は消えている。

その顔には、戦に向かう戦士の、鋭く厳しい表情が浮かんでいた。



雑踏の中を、シノは懐かしさすら感じながら歩いていた。

あてがわれたコートをそれぞれ着込み、マーナとシノはこそこそと隠れるでもなく、並んで堂々と歩道をゆく。

駅と大型デパートの間にかかるその歩道は人通りが多く、二人の姿は混雑した人の波に紛れていた。

獣人であるマーナが時折忌避の視線を向けられはするものの、その他には、特に危機の兆候にあたるような気配は無い。

「堂々としたもんよねぇ…」

流石にもう必要ないので手枷を外しているシノは、久し振りに満喫する外の気配を味わいつつ、剛胆なのか鈍感なのか良く

判らないハスキーへ苦笑いして見せた。

「木を隠すなら森の中…と言ったか?人口密度の高いこの街なら、人混みに紛れるのも一つの手だと考えた」

「なるほどねぇ…。立場が変わると確かにそうだ」

本来であれば追い、暴く側の立場にあったシノは、マーナの意見で納得する。

確かに人混みの中から探す方が手間であり、同時に秘密裏に事を進めたい調停者にとっては、人の多い場所では仕掛け辛い。

顔や姿…、容姿が完全にバレているならば論外だが、マーナを容姿などの特徴で追っている訳ではないブルーティッシュか

らすれば、この逃亡方法は対処し難い類の物である。

「もしかして…、こうしてればカップルとかに見えてたりして…?」

その呟きを耳にしたマーナは、眉を僅かに上げながらシノを見遣る。

「じょ、冗談よ冗談っ!あははははっ!」

慌てたように乾いた笑い声を上げたシノの横で、マーナは口元を軽く綻ばせつつ前を向く。

「面白い冗談だな」

「そ、そーでしょ?」

誤魔化せた安堵と軽い落胆を覚えつつ、少し沈んだシノは、

「冗談にしても、なかなか悪くない」

そう続いたマーナの言葉で、ほんのり頬を染めた。

「ほ…、包囲抜けたらさ、まずは何処に行く?あたしの故郷は港町だし、そんなに遠いわけでも無いし、こっそり船を拝借す

るならうってつけだと思うんだけど…。辺りの土地勘もあるしさ」

「ふむ…」

顎に手を当てたマーナは、「良い案かもしれん」と小さく頷く。

「決まり?」

「少し考える時間は欲しいが、そちらの線で動いても良いな。なるべく詳しく地理情報が欲しい」

「そこは任せて!」

力強く頷いたシノは、マーナと二人で懐かしい故郷へ至るその情景を思い浮かべる。

結局それが現実の物にならない事を、未だ知らずに…。