ホワイトアウト(前編)

羽毛のような、しかし硬い大礫と呼べる雪が吹きすさぶ中、私は降り積もった雪の中に身を埋め、仲間によって追い立てら

れた標的が近付いてくるのを待ち構えていた。

外気温はマイナス25℃。しかし、局地戦用に特化した調整を施された私の体には、この程度の気温は何でもない。

半ば埋まるようにして新雪の中を移動する人影は、私の存在には全く気付かぬまま、その距離を次第に詰めて来る。

追い散らされ、分散して逃走している襲撃対象の一部が。

私が待ち伏せていたルートに現れた人影は、全部で三つ。

真夜中とはいえ微かな月明かりを照り返す雪の中、私の瞳ははっきりと標的の姿を捉えられる。

前を行く一人はライフルを携え、続く男が大きな包みを抱き、最後尾の男が対凍結用処理を施した布巻のショットガンを担

いでいる。

真ん中の男が抱いているあの中身こそが、ジュラルミンケースに収められた例の品に違いないだろう。

雪と同色のアサルトジャケットに身を包んだ白い体を僅かに浮かせ、標的を見定めた私は、両手に握った得物の感触を確か

めつつ、身を縮めて突撃体勢に移った。

意図的に抑えていた体温を即座に上昇させると、血流が勢いを増し、筋肉が活性化する。

相手との間合いが自分の襲撃適正距離である30メートルを切った瞬間、私は突進を開始した。

吹きすさぶ風の中、風下からの接近の音は向かい風に紛れ、さらには私の能力によりかき消える。

接近を警告する音が無かったため、先頭の男は、雪を巻き上げて駆ける私に気付くのが遅れた。

「待ち伏…!」

男が警告を発し終える前に、距離を詰め終えた私は体ごと右腕を振るい、握り締めた武器を先頭の男に叩き付けた。

直後、過不足無い手応えが私の腕に伝わる。

即頭部を痛打された男は、警告を叫び終える事もなく雪の中に横倒しになった。

「ひっ!」

悲鳴を上げた真ん中の男へ、私は一撃目の回転の勢いを殺さず、左手に握った武器を裏拳の要領で叩き付けた。

顔面に飛び込んだ一撃は、男の鼻を叩き潰し、声も上げさせずに昏倒させる。

二本のトンファーバトンを用いる近接格闘。それが私の戦闘スタイルだ。

最後尾に居た男は、背負ったショットガンを構えようとしていた。

身を反転させて跳ぶ時間を考えれば一発撃たせてやる事にはなるが、この程度は飛び込む前に想定している。

私は男と自分の間に降り積もっている、北原の乾いた雪に意識を向ける。

適当な距離を見繕い、意識を集中させた次の瞬間、私と男の間でぶわっと雪が舞った。

突如舞い上がった雪で視界を遮られる射手。

発砲された散弾は、身を伏せた私の背を掠める事すらなく、横殴りの雪の中へ消える。

ポンプアクション式のショットガンが次弾を咥え込むより速く、私は舞い散る雪を突き抜けて、男の目前に達していた。

男の瞳が私の白い顔を映しながら、恐怖の光を帯びた。

残念ながら、止めてやる訳には行かない。

私は加減をしつつも、男の鳩尾にトンファーの頭…短い方の先端を叩き込んだ。

一声呻くなり顔から雪に突っ込んだ倒れた男を、ブーツで覆われた私の足がひっくり返し、仰向けにする。

三人とも気絶していることを確認した私は、二人目の男の傍で雪に半分埋まっている荷物に歩み寄り、二本のトンファーを

両腰のホルスターに収めた。

そして荷を雪上に出してフェイクではない事を確認し、周囲を見回して雪面を確認する。

首尾良く手頃な隆起を見つけた私は、簡単な雪壕を拵えて三人を収める。

そして、荷物に付けられていた発信器…、デコイ二つと本命二つ全てを、彼らの衣類の中へ押し込んだ。

これで、凍死しない内に逃げ散った仲間に保護して貰えるだろう。

いずれの国にも属さない一種の魔境であるこの北原には、駆除が追いつかず少なからぬ危険生物もうろついている。

だが、この荒れ具合では皆大人しくしているはずだ。彼らが食われる可能性は低いだろう。

私は荷物をロープで自分の背に括り付け、移動を開始する。

帰還ルートを辿られないよう遠回りに引き上げつつ、グレイブ隊第一小隊の特徴でもある共通装備、黒い首輪に触れ、内蔵

された通信機を起動した。

「…ハティより本部、荷の確保は完了、これより帰還する。オーバー」

『こちらスコル。了解です中尉。現在追い立て部隊は撤収行動中。…たぶん戻りはこっちのが早いでしょう。道中の無事を祈

ります。オーバー』

通信を終えた私は、見渡す限りの夜の雪原の中を、追っ手に注意しながら駆け続けた。



私の名はハティ・ガルム。

もっとも、ガルムというセカンドネームは、名というには少々微妙な物なのだが。

私達ガルムシリーズは、これまでに製造された十体全員がこのセカンドネームを持つ。

そしてその内、成功例とされる者だけがファーストネームを与えられる。

私の全身は、現在の任務地である北原での活動に最適な色で覆われている。

白く長い被毛は、筋組織の上に蓄積された分厚い脂肪同様、耐寒性に優れると同時に、雪の中ではカモフラージュになる。

グレートピレニーズの獣人、それが私の姿だ。

そんな私は、ある非合法組織の部隊に在籍している。

階級は中尉。一応小隊の長を務めてはいるが、出発はともかく、現場で作戦行動に入れば、副官に指揮を任せてスタンドプ

レーに移るのが常だ。

指揮を執るのが面倒臭いという訳では決してない。

単に私が単独行動を取った方が、効率が良いというだけの事だ。…本当だ。

それ故私は、指揮官ではあるが遊撃を主な役割としている。

私が所属する隊は、長柄の刀をエンブレムとし、グレイブ隊と呼ばれている。

三つの小隊から成る我々グレイブ隊は、敵対組織への攻撃や、荷物の奪取、奇襲と工作が主な任務で、ここしばらくはこの

北原で主に運搬中のレリックに対する収奪作戦をおこなっている。

何でもする…と言えば聞こえが良いが、実際には「何でも押し付けられる」部隊だ。

実は我がグレイブ隊、何かと問題がある者が厄介払いとして送られる部隊として有名で、本来の意味である長柄刀ではなく、

墓場の意味のグレイブとして捉えている者も多い。

かく言う私も、不興を被った覚えも無いのに何故か左遷され、流れ着いた先がこの部隊だ。

…まぁ…、本当の所は心当たりがあるのだが、口にすれば私と同様の理由で送られてきた二人にも混乱を招きかねないので、

知らない事にしておく方が良い…。

…ところで、現在私はベースへと帰還しながらこんな事を考えている訳だが、別に何らかの事情により自分を見失って現状

確認をおこなっているわけではない。

今日は私の小隊に欠員補充として編入される、新たなメンバーが到着する事になっている。

よって、自己紹介を迫られた場合に話すべき内容をまとめているのだ。



「おかえりハティ。相変わらず早いね。本隊も一時間ほど前に着いたばかりだ」

見張りに認識票代わりである首輪を見せてゲートを潜り、地下に埋もれるように作られたベース入り口に入った私は、一人

の女性に迎えられた。

組織幹部クラスのみが身に付けられる、胸に金糸の縫い取りがある制服を纏い、腕組みをしている赤い髪の女性…。

この女性は私の上官であり、部隊長のゲルヒルデ大佐。

数少ない女性の高位将校の一人であり、数々の功績を打ち立てた優れた古株工作員でもある。

が、どうやら中枢の不興を被るような何かをしでかしたらしく、出世コースからは大きく外れ、このグレイブ隊を預けられ

ている。

本人は「信頼されてるから問題児を預けられてるんだよ」と、涼しい顔でのたまっているが、誰が見ても明らかに窓際族的

扱いである。

…なお、外見上は二十代前半に見えるが、決して彼女に実年齢を訊ねてはいけない。

もしも不用意に訊ねれば、あまり愉快ではない事になると保証しよう。

私がジュラルミンケースを突き出すと、隊長はそれを受け取りながら口を開いた。

「他のは先に休ませた。お前も今日は休め。それと、新入りが到着してるから顔見せてやりな。律儀にも、着任日の内に顔を

見せたいと言ってね、お前の帰りを待っていた。第五会議室だ」

私は黙って頷き、彼女の脇を通り抜ける。

「…また、殺さなかったのかい?」

歩き去ろうとした私の背に、彼女はそんな言葉を投げつけてきた。…相変わらず鋭い。

足を止めた私が頷くと、隊長は大仰にため息をつく。

「お前な…、そんな事を続けてると長生きできんぞ?」

私は再び頷き、彼女をその場に残して歩みを再開する。

長生きしたいと思った事は、これまでに一度も無い。

いつ死んでも構わないと思っている…と言うより、そもそも私は惰性で生きているようなものだ。

死ぬまでの間、与えられた任務をこなし続ける。

他に存在意義を持たない私には、ただそれだけしかする事が無いのだ。

不必要な殺生をしないようにしているのは、明確な生きる理由を持たない私が他の命を断つ事が、仕組みとして不条理に思

えているからに過ぎない。

もっとも、「生きたい」と思う他者の心の有り様に、僅かな興味を抱いているから…というのもあるかもしれないが。

「あぁー、そうだ」

思い出したように隊長が口を開き、私はまた足を止めた。

「お前、新入りにきちんと話しかけるんだぞ?黙ってると相手が不必要にビビる」

私は三度頷いて了承した旨を伝え、歩き出した。

「だから喋れっての…」

隊長の呆れたような呟きが聞こえた。

喋るとも、必要に迫られれば。



私が会議室に入ると、一人だけポツンと長机についていた男が立ち上がり、敬礼した。

「初めまして!今日からお世話になるコードM10です!」

「ハティ・ガルムだ。階級は中尉。本日付けで我が小隊が君を預かる事になった」

私は奇妙な名乗り方をした新入りの男を見つめる。

…いや、男と言うよりも、額が広くあどけない顔立ちをしたその新入りは、少年と言った方が良いだろう。

背はどちらかというと、平均よりはやや低い方だろうか?触れれば折れそうな細身の体は、青みがかったグレーの被毛に覆

われている。

瞳は夜空のような蒼紫。顔にはまだ幼さが残っていた。

アメリカンショートヘアー。組織内では時折見る毛色と顔の獣人だ。おそらくは彼らと同じタイプの兵士だろう。…この少

年に限っては体付きが極めて貧弱だが。

向き合ってみれば緊張と未熟さがありありと見て取れる。おそらくそう経験を積んではいないのだろう。

グレイブ隊には問題児が送られて来る。

任務が過酷な為に欠員は生じ易いが、常に「待機人員」が居るともっぱらの噂だ。

これには私も同意できる。ある意味では人気の部隊と言えよう。

そんな待機人員の中にこの少年も入っており、順番待ちとなっていたのだろうが…、まだ新兵とも呼べるこの少年は、一体

どんな不興を被って飛ばされて来たのだろうか?

どうでも良い事なのだが、我ながら珍しい事に少しだけ気になった。

少年は組織で広く扱われている量産タイプの防弾防刃ジャケットを着ており、首には早くも我が第一小隊の特徴、黒い首輪

型の通信機をはめている。

私の物と比べてかなり小ぶりで薄く、どちらかといえばチョーカーと呼んだ方がしっくりくるかもしれない。

例によってスコルが用意したのだろうが…、新型なのだろうか?私の物より見栄えはかなり良い。在庫があるなら交換して

貰おうか。

私が観察している間にも、緊張しているらしい少年は口を開かなかった。

一応脳内で予行練習していたのだが、この様子では面倒臭い自己紹介を迫られる事はなさそうだ。

とりあえずこれで顔見せは済んだ。私は踵を返し、出口に向か…、

「あ、あれ?あのぉ…」

少年がおずおずと声を漏らしたので、私は首を巡らせる。

「あ、あの…、中尉…?ぼく、何か気に障る事を言ってしまいましたか?」

少年は困ったような、そして怯えたような顔で私を見つめていた。

少し考えてみたが、気に障る事など全くされていない。

「別に何も」

「そ、そう…ですか?」

少年は何やら納得していない様子だ。何か私の態度に感じるものでもあったのだろうか?

とりあえず続く言葉を待ってみたが、少年はちらちらと上目遣いに私を窺うばかりで、声は出てこない。

私は仕方なく少年に向き直り、手近な椅子に腰掛け、腕と足を組んだ。

「え?あ、あの…」

「何だ?」

「やっぱり…、ぼく、何かまずい事言いましたか…?」

立ったまま、何故かおどおどしながら少年は言う。何故そう思うのだろうか?

「別に何も言われてはいない」

「そ、それじゃあ…、何で中尉の気分を害してしまったんでしょう?」

む?気分を害している?私がか?

「気分を害してはいない」

「そう…なんですか…?」

そうか、私が無口なせいで勘違いされてしまったのか。態度も少々そっけなかったかも知れない。

良く言われる事なのだが、こればかりはなかなか治らないものだ。ここは何か話をするべきだろう。

「前は何処に居たのだ?」

私の問いに、少年は一瞬きょとんとした後、

「は、はい!イエメン近辺で情報処理を主任務とする部隊に配属されていました!」

と、何故か嬉しそうに応じた。

わざわざ訊ねなくとも、事前に届いていた報告書を読めば経歴は判るのだが、生憎私は緊急の任務によって先程までベース

を離れていたため、この少年が何処から回って来たのか全く知らない。

が、私が彼に振る事ができた話題はそれだけで、部屋には先程同様の沈黙が落ちる。

…困った。元々私はあまり他者に話かけない。必要な事以外は。

必要な事は話すし、相手側から話しかけられれば応対もするのだが、一般的な話題を出しての会話となると、決して話し上

手とは言えない。

こんな時は、どういう事を話せば良いのだろうか?

しばし迷った後、私は少年に尋ねた。

「先程、コードM10と名乗ったが、開発コードではない呼称は?」

「あ、いえ…、その…」

少年はしばしうつむいた後、ぽつりと言った。

「個別名称は貰えませんでした。…ぼく、失敗作なので…」

その答えで、私は理解した。

元々シリーズとしてのセカンドネームを与えられる事が決まっていた上、幸いにも成功例であった私は、調整を施したドク

ターに名をつけて貰えた。

だが、この少年を調整した技術者は、彼に名を与えなかったのだ。

失敗が腹立たしくて名をつけなかったのか、それとも、失敗作にいちいち名を与えるのが手間だったのかは判らないが。

「名乗る名は、何か考えていないのか?」

「は、はい…、特には…」

私は顎を撫でながら考える。コードM10と呼ぶのは少々語呂が悪いし面倒臭い。

全体活動で総合オペレーターを担当するスコルが、「呼びにくい!」と怒るのは目に見えている。以前他にもそう怒鳴られ

た者が居たので、これは保証できる。

「ゲルヒルデ隊長は、お前を何と呼んでいた?」

「は、はぁ…、「新入り」と…」

実に彼女らしい。

「名乗る名前を早急に考えておけ。作戦中に開発コードで呼ぶのは面倒だと、口うるさいオペレーターがゴネそうだ」

「…はい…」

少年は項垂れた。そして、私もついに出すべき話題が見当たらなくなった。

「では、私はゆくぞ」

「は、はい!わざわざ挨拶に来て頂き、ありがとうございました!」

直立不動で敬礼した少年を残し、私は会議室を後にした。

色々と考えさせられる新入りだが、書類の確認も含めて考察は明日にする。

今日はもう遅い。シャワーを浴びて休むとしよう。



先に帰還していた隊員達が隊長から休息指示を出されていた事もあり、覗いてみたシャワールームには誰も居なかった。

ただでさえ隊の三分の一…小隊一つがマカオへ派遣されている今、用もないのに深夜まで起きており、あまつさえ入浴まで

している者が居るはずもないか。

脱いだ衣類を畳んで棚に収め、シャワールームに足を踏み入れた私の姿を、壁の鏡が映す。

正面に立った成人男性の全身が映るサイズの鏡なのだが、少し離れていてもなお、私の全身像は鏡に収まらない。

身長212センチ、体重197キロ。体重については季節と気候による変動が大きいが、データ上はこの数字になっている。

太く頑強な骨格の上には発達した筋肉。その上には分厚い皮下脂肪。そのまた上には毛足の長い白毛。

胸は厚く、腰は太く、胴回りはそれらよりさらにボリュームがあり…、端的に言えば肥満体だ。

触れればたっぷり内蔵された脂肪のせいで柔らかだが、自然界の生物とは組成が異なる筋肉と相まって、この体は衝撃に極

めて強い。

特に冷気にも強いが、被毛が外気と肌の間に適温の膜を生み出すという機能を有しているため、日中の砂漠でも支障なく行

動できる。

いかなる局地、悪条件下でも活動し、任務を遂行する…。

おおよそそんなコンセプトに基づいて生み出されたのが、二体目のガルムシリーズ…つまり私だ。

最も手前側のブースに入った私は、コックを捻り、熱いシャワーを頭から浴びた。

長い被毛は最初こそ湯を弾いたが、程なく水が染み込み、地肌まで濡れる。

立ったまま湯を浴び、暖かい湯が体の表面を流れるに任せ、私は目を閉じて心地良いその感触を味わう。

私は自分の肉体を反射レベルで制御する機能を持っているため、任務中などは自分で調節し、汗をかかないようにする事も

できる。

この北原のような寒冷地などでは、呼気が白い蒸気となる事を防ぐため、肺を冷却し、さらに体温を落として、数時間潜伏

する事もある。

ただし、こういった制御には限界がある。

そもそも発汗も、寒い場所で体が震える反応すらも、肉体が必要に迫られておこなっている。

私はそれをある程度コントロールできるが、その状態でいつまでも操作を続けていれば体にガタが来る。

永い目で視れば、出来る限り好き勝手にさせてやった方が、機能維持が上手く行く。

体というものは、意図せずともある程度機能を最善に保つよう努力してくれている。

普通の生物がどう捉えているのかは判らないが、生き物の体というのは、いわば実に良く出来たオートマチック機能の集合

体なのだ。

私はその場で床に腰を下ろし、あぐらをかいて項垂れる恰好で、背や頭、首後ろに湯を浴びつつ、出来うる限り脱力した。

一切の制御をおこなっていない体は、温まって緊張がほぐれ、筋肉に至るまで弛緩する。

自分の体が湯の温度と水滴が当たる感触を喜んでいるような錯覚に陥り、私はしばらくそのまま動かないでいた。

生きる事にあまり執着できない私だが、こうしていると時折考える。

この説明し難い感覚こそが、「生きていると実感する」というあれなのだろうか?と…。



シャワーを浴び、自室に戻ろうとしていた私は、居住スペースの通路で例の少年を発見した。

長い廊下でリネン室を覗き込んだりボイラー室を覗き込んだりしながら、扉を閉める都度肩を落とし、ため息をついている。

右手には何故か大きな鞄を持っているが…。

「何をしている?」

私が声をかけると、挙動不審な少年は弾かれたように顔を上げ、尻尾をピンと立てて毛を逆立てた。

どうやら驚かせてしまったらしい。

「あ…!ちゅ、中尉…!」

「既に殆どの者は就寝中だ。ベース内の設備確認は明日の日中にでもして、今日は部屋に戻れ」

「は、はい…。済みません…」

そのまま脇を通り過ぎ、自室に戻ろうとした私は、少年がその場を動いていない事に気付き、足を止めて振り返った。

「どうした?何か気になる事があるのか?」

少年は困ったような、そして何故か恥かしそうな顔で、上目遣いに私を見た。

「その…、部屋が、分からなくて…」

…なるほど。地下に建造されているこのベースは少々入り組んだ造りになっている上、居住区画に割り当てられているフロ

アは、似たような景観の廊下がいくつも連なっている。

ベースに不慣れな少年は部屋の位置が判らず、迷ってしまったのだろう。

「案内する。部屋番号は?」

尋ねた私に、しかし少年は耳をぺたりと倒して項垂れた。

「それが…、分からないんです…」

…分からない?眼を細めた私は、まさかと思いながらも念のために確認した。

「隊長が言い忘れたのか?」

それは無いだろうと思いながらも一応訊ねた私に、少年は首を横に振り、ごもごもと呟く。

「…えぇと、その…、聞いたんですけど…、部屋番号を忘れてしまって…」

……………。

…大丈夫なのか?この新入り…。

元々ここのベースに配属されている連中と、任務中の活動拠点として間借りしているだけの我々は、実は関係が良好とは言

い難い。

同じ組織内でも我々の部隊は蔑みの対象だ。ここの連中も当然ながら我々の事をあまり良くは思っていない。

迷子になってうろうろしている所をベースの見回りなどに見付かったならば、この少年がどんな嫌がらせを受けるか、隊長

や我々がどんな言いがかりをつけられるか、想像に難くない。

…仕方がない…。

「ついて来い」

私はそう少年に告げ、前に立って歩き出した。

少年は気恥ずかしそうに俯きながら、すぐ後ろをトコトコとついて来る。

これは体の自然な反応なのだろうか?私の口からため息が漏れた。



「お邪魔します…」

少年は私に続いてドアを潜ると、殺風景な部屋を見回した。

「ここは…?」

「私の部屋だ」

私の返答に、少年は目を丸くした。どうやら驚いているらしい。

ベッドと、着替えや雑品を入れるクローゼット、内線電話が置かれたスチールデスクに、折りたたみ式のパイプ椅子。私の

部屋に置いてある家具といえばそれだけだ。

我々に割り当てられている5メーター四方の部屋は、壁も床も天井も灰色のコンクリートが剥き出しで、地下のため当然窓

は無い。

エアコンだけが静かに稼働し、部屋の空気を入れ替え続けている。

将校の部屋としては極めて質素だが、こちらは間借りしている身だ。文句が出ようはずもない。

さすがに隊長の部屋にはそれなりの物をあてがって貰ったが、我々小隊長はこれで十分だ。

私に限って言うならば、元々面倒くさがりで部屋に拘るたちでもない。家具が少なければ掃除も楽で都合が良い。

「随分質素なんですね…」

「そこが良い」

意外そうに言った少年に短く応じた私は、ベッドに向かって顎をしゃくった。

「今日はもう遅い。寝ろ」

少年を促し、壁から突き出ているアームに上着をかけ、その隣に吊るしてあった寝袋を手に取る。

「え?寝る?」

「そこのベッドで就寝しろ」

何故かきょとんとしている少年に、私は繰り返す。

「え?え?え?就寝って…、中尉は?」

少年は私とベッドを交互に見ながら、戸惑ったように言った。

「私は寝袋を使う。君はベッドを使え」

「そ、そういう訳には行きません!ぼくが床で…、って、ちゅ、中尉!?」

明日も任務だ。体を休めておかなければならないので、議論している時間が惜しい。

私が返事もせずにさっさと寝袋に潜り込んで横たわると、少年はしばらくおろおろとしていたが、やがて諦めたようにモソ

モソと音を立てて着替え、ベッドに向かった。

「中尉…、済みません、ありがとうございます…」

ベッドとは反対側に首を捻って横になったまま、私は答えない。

「…おやすみなさい…」

そう呟いた少年は、しばらくすると寝息を立て始めた。

少年がたてる規則正しい寝息を耳にしながら、私は考える。

彼は、何をしでかして此処に来たのだろうかと。

我々は使い捨ての部隊…、いわば消費戦力だ。言葉を話す道具としてしか見ていない者も存在する。

だが、他所からの風評と、危険な任務を回される立場さえ除けば、この部隊は皆が強い仲間意識を持っており、上官も理解

がある人物なので比較的過ごし易い。

この部隊に配属された事にも、私に限って言うならば不満は無い。

他の者も殆どが慣れるか諦めるかしており、出て行きたいと騒ぐ者は、今は居ない。

ここに来ていつまでも騒いでいる者は、ほぼ例外無くすぐに除名となるので、いつまでも居はしないのだ。

もっとも、名誉ある戦死を遂げ、死体となって出て行く故の除名だが。

要するに、現状を受け止めきれず、足掻く事以外に神経を向ける者は、長生きできずすぐ欠員を作る事になる。まぁ、これ

は私の乏しい経験則だが。

この少年はどうなのだろうか?

そこそこ長生きするクチか、それとも泣きわめいて早死にするクチか、後者の可能性が高いかもしれないと、私は考える。

部下として彼を預かる身として、この考えは不謹慎なのか?

それとも指揮官として見積もりをするのは当然なのか?

これはなかなかに判断が難しいと、私は他人事のように考え続ける。

明日、手が空いた時にでも、彼の経歴書を再確認しておこう。

私は目を閉じ、暗い室内よりもなお暗い瞼の裏を見つめながら、明日に備えて休息に入った。