唐紅のバレンタイン

朝食時で混み合う、ブルーティッシュ本部のレストラン。

やや出遅れた為に眺めの良い窓際の席は取れず、比較的人気の無い中央付近の丸テーブルに陣取った若い白熊は、

「…何スかこれ?」

赤い包装紙に包まれ、ピンクのリボンでデコレーションしてある細長い板状の箱を手に取り、首を捻りながらしげしげと見

つめた。

「バレンタインのチョコであります」

同じテーブルについている、むっくりした小太りのレッサーパンダがメニューを開きながら応じると、アルは「お?」と、

少し驚いたような顔になる。

「そう言えばそうだったスね!たは〜っ!縁が無いからすっかり忘れてたっス!」

嬉しい不意打ちを貰った少年は、向かいに座る若い男が自分と同じ箱を前にしながら渋い顔をしているのを見て取り、「ど

うしたんスか?」と訊ねた。

問われたアンドウは箱をじっと見つめた後、オーダーが決まって係員を呼んでいるエイルへ視線を向ける。

「…エイル、これ何処で買ったんだ?」

「自作であります」

レッサーパンダの淡白な返答を聞いた途端、嬉しそうに顔を綻ばせていたアルがへにょっとしおれた。

「…辛いんスかね…、やっぱ…」

「ビター&スパイシーな、パンチの効いた味に仕上がったであります」

「…パンチ効かせんなよ…、バレンタインチョコに…」

先程の喜びはもはや完全に消え失せ、意気消沈しているアルと、呆れ顔で箱を手に取りクルクル回すアンドウは、一体どう

処分しようかと、チョコの処遇について考え始める。

躊躇いなくゴミ箱行きを選ぶアンドウとは違い、アルはそこまでドライになり切れない。

幼い頃は女性メンバーから大量に義理チョコを貰っていたアルだが、現在ではネネの「太るから各々自粛して下さい」指令

のおかげで、ブルーティッシュ内で貰えるチョコはほぼ無くなっている。

サブリーダーの声がけをあまり気にしないエイルと、せめて自分ぐらいはとプレゼントしてくれるネネの分を除けば、期待

できるチョコは皆無であった。

(…我慢して食べるっス…)

結局消費処分する事に決めたアルは「せめてあまり辛くありませんように」と、もしかしたら居るかもしれないバレンタイ

ンの妖精に、真剣に祈らずにはいられなかった。

そんな三人のテーブル付近を通りかかった白い虎が、周囲のメンバーからの挨拶に応じつつ、アル達にも声をかける。

「丁度良かったでありますリーダー。バレンタインプレゼントであります」

早速チョコを手渡したエイルに、ダウドは苦笑いを向けた。

「がっはっはっ!毎年済まんなエイル!…もしかしてまた辛いのか?」

「ビター&スパイシーであります」

エイルが答えるなり、ダウドは早速包装を解いて茶色い箱を開け、板チョコを取り出してしげしげと眺める。

「…見た目は普通っスね…?」

「…だな…。唐紅とか、どギツい色を想像してたんだけどな…」

そう、ぼそぼそと囁き交わしたアルとアンドウは、『あ!』と、大声を上げた。

ダウドが躊躇いも無く、板チョコをぱきっと囓る光景を目の当たりにして。

コリッ、コリッとチョコを噛み砕いた白虎は、アルとアンドウが固唾を飲んで見守る中、軽く顔を顰めた。

「エイル…。こいつはちょっと辛味が強過ぎるな?来年はもう少し抑えてくれると、貰う方としちゃあ嬉しい。チョコの味が

負けてるぞ?」

「なるほど…。ご意見感謝であります。参考にして次回に活かすであります」

即座に食べて忌憚のない感想を述べたダウドの様子を眺めたアルとアンドウは、顔を見合わせて囁き交わした。

「…あのリアクション見るに…、思った程辛く無いんスかね?」

「…いや、判るもんか…。体同様、舌も胃袋も鋼鉄みたいなモンだろうからなリーダーは…。何にしても、食わないでおくに

越した事はねーよ。…ったく…、朝っぱらからアヤがついちまったっつーの…」

「酷い言い方っスねぇ…。バチが当たるっスよ?バレンタインの妖精さんの」

「は?何の妖精?」

「バレンタインのっス。黒革のライダースーツ着て赤く染めたカスタムネイキッドに跨って業務用生クリームとチョコの袋を

荷台に載せてバレンタインの夜空を駆け回るんスよ」

「…何その新手の危険生物?」

この時のアンドウは、まだ予感すら覚えてはいなかった。

彼自身が言ったようにアヤがついたのか、それともアルが言ったようにバレンタインの妖精のバチが当たったのかは定かで

は無いが、アクシデント続きの一日になるという予感は…。

とにかく、アンドウにとっては厄日となるバレンタインは、こうして、いつもと変わらぬ賑やかな朝から始まった。



その日の夕刻。

「学校では貰えなかったでありますか?」

学校から帰った学生服姿のアルと並び、受付のある大ロビーから居住区画へと伸びる廊下を歩きながら、調査任務から戻っ

て顔を合わせたエイルが、淡々とした口調で訊ねる。

「貰えるわけないっスよ。彼女どころか友達も居ないっスから」

当然だと言わんばかりに即答したアルは、脇のドアから出てきた若い男の姿をみとめ、片手を上げた。

「ただいまっス、アンドウさん」

「…おー…」

疲れ切ったような顔で張りのない返事をしたアンドウに、エイルが首を傾げてみせる。

「どうかしたのでありますか?」

「タレコミを元に出向いて空振ったり、駆除命令が出た危険生物が悪い方にランク違いだったり、銃がジャムったりと、まぁ

とにかく色々大変だったんだよ、今まで…」

ため息をついたアンドウに、「アレ、食ったっス?」と、制作者当人の前なので主語をぼかしたアルが小声で訊ねる。

「廃棄済み」

アンドウが短く応じると、白熊は納得顔になって腕組みし、ウンウンと頷いた。

「きっとバレンタインの妖精がバチを当てたんス」

「だから何なんだっつーのその新種?ランクは第何種相当?」

げんなりした顔を見せたアンドウは、ふと思い出したように聞き返した。

「お前は?」

「朝飯の後にすぐ食ったっス」

「平気か?」

「その後何食っても味判んないっス」

「…お前、時々変なトコで男前なのな…」

ぼそぼそと囁き交わす二人は、何かに気付いたように振り返ったエイルが、

「あれは…、どうしたのでありましょうか?」

と、注意深く耳を立てながら受付カウンターの方を気にし始めると、つられて視線を動かした。

「お客さんっス?」

「何やらもめているようであります」

アルが首を傾げ、エイルが目を細くする。

その横で胡乱げな顔つきになったアンドウは、「ん?」と声を漏らし、受付カウンターで声をあげている客の姿をまじまじ

と見つめた。

太い胴に太い手足、纏うジャケットは古い時代の猟師を連想させるモサモサとした毛皮製という、ずんぐりむっくりしたそ

の客は、焦茶色の猪獣人である。

でっぷりした太り肉の体をしてはいるが、ジャケットのボタンが左右に引っ張られて飛びそうになっている程の豊満すぎる

そのバストが、その猪が女性である事を主張していた。

背には竹刀袋にも似た長い布袋が斜めに吊されており、右肩から胸元を通ってベルトが袈裟にかかっていた。

その脇の足下には分厚い布製の茶色い大包み。

担ぐための物なのか、1メートル半程の太い金属製の棒へ結び口がくくりつけられている。

ロビーで異彩を放つ、180センチ近い身の丈の、女性としてはかなり大柄な猪は、カウンターの受付嬢相手に、身振り手

振りを交えて何かを必死に説明している。

「…んだがら、こごさ居る事んなってんだっぺは!「たごさぐ」っての、呼んでみでけれ?」

カウンターで大声を上げているその猪に心当たりがあったのか、アンドウの、常ならばやる気無さそうに半眼になっている

目が、クワッと見開かれた。

「ち…チエ…!?」

低く掠れた、呻くようなおののくようなその声に反応したのか、カウンター前で困惑混じりの大声を張り上げていた猪は、

耳をピクッと動かすなり、素早く首を巡らせた。

その直後、

「たごさぐぅ〜!会いに来たっぺよぉ〜!」

ずんぐり太っている猪娘は、大声でがなりながら破顔し、大きく手を振った。

『たござぐ?』

揃って呟き、首を捻ったアルとエイルは、自分達の間で頭を抱えて蹲っている同僚を見下ろす。

安藤田護作(あんどうたごさく)。それが、特解中位調停者アンドウが仲間にも必死に伏せていた、コンプレックスでもあ

る本名であった。



「へぇ〜、アンドウさんの幼馴染みなんスかぁ」

沼田場千恵子(ぬたばちえこ)と名乗った猪娘から名刺を貰い、アルは興味深そうに客の顔を眺めた。

あの後、ロビーからズドドドドッと駆けて来たアンドウと親しい間柄であるらしい猪が、一方的に再会を喜んでいる様子を

間近で無表情にしばし眺めたエイルは、「立ち話もなんでありますからして」と珍しく気を利かせて、レストランへと誘った

のである。

アンドウにしてみれば、この珍しいエイルの気の利かせ具合もまた、厄日のアクシデントの一つであったのだが…。

夕食にもまだ早いレストランの窓際を、混み合う前に確保して陣取ったアルとエイルは、アンドウと客が向き合う形になる

ようにして座らせ、猪と自己紹介し合った。

アルとエイルがアンドウの田舎から出てきたという猪から渡された名刺には、「稲実町調停者組合・牡丹組」と記してある。

「同業者さんでありましたか」

「アンドウさんの実家って、稲実町ってトコにあるんスね?」

好奇心剥き出しのアルと、顔つきは常の通り無表情ながらも、どうやら興味を持ったらしいエイルは、揃ってアンドウを見

遣る。

調停者として認識票を受けて間もなく、前歴も功績も問わずにダウドによってチームに引き入れられたという変わり種のア

ンドウは、自分の事をあまり話さない。

ネネが居ない際の教育係として面倒を見て貰い、兄貴分として慕っているアルですら、彼の通っていた大学を知っている程

度で、それ以前の事は何も知らなかったのである。

故郷から家族構成から学生時代の生活やら、あらゆる情報が伏せられていたアンドウだったが、しかし突如やって来た幼馴

染みの出現により、ベールが剥がされようとしている。

「………」

この席で、当のアンドウだけが無言であった。

猪と顔を合わせてからというもの、「よう…」とそっけない挨拶を交わしたきり、ほぼだんまりとなっている。

「たごさぐぅ、なじょすた?俺ど久方ぶりに会って緊張すてんのすかや?」

太くて丈夫そうな牙を備えた、一見すれば男にも見えかねない厳つい顔の猪は、人の良さそうな笑みを浮かべて幼馴染みに

語りかけた。

「そう久し振りでもねーっつーの…。年明けに一回帰ったっつーの…」

ぼそぼそと応じるアンドウは、チエコと目を合わせようとしない。

頼むから早く帰ってくれ。

彼が発散するそんなオーラに、しかし他の三名は全く気付く様子がない。

相手が獣人であれば人懐っこさを発揮するアルは、同業者であるチエコと意気投合し、エイルもまた過不足無い程度に会話

に加わっている。

「けど、今日は何だって遠い所からわざわざ会いに来たんスか?何か用事あったっス?」

「レリックば買い付けさ来たんだっぺは。今俺ほさ町の辺りで面倒事なってんだげど、役に立つレリックねぇべすかやって、

組合長が言い出してよ。俺が買い出し役ば仰せつかったんだぁ」

応じたチエコは、次いで少し恥ずかしげに耳を伏せた。

「俺ほさ郡部でばよ、田舎だがら売ってる店まんず少ねくて…、店さ並ぶのも二級品、三級品ばっかだぁ。買い出しすんなら

他のでげぇ町さ行っても良がったげど、新幹線乗んだら関東まで一発だし、せっかぐだがら首都のごぅぢゃすな店で探して見

だら良いすぺって、近所でも切れ者って評判の副組合長がら言わいでよ、一日掛げで出で来て首都巡りすてだんだっぺは」

組合員の素性やら評判やら近所のでき事やらまで含め、仔細過ぎてむしろ判り辛くなる程の詳しい説明を終えた大猪娘は、

照れ笑いを浮かべながら頭を掻くと、「まぁ、用事は他にもあったげど…」と呟く。

「…町の面倒事って、何だ?」

黙り込んでいたアンドウだったが、故郷の事となって気になったのか、言葉を切って何故かモジモジし始めた幼馴染みに尋

ねる。

「サルだ。爪長ぇやづら。隣の郡部ど垣根んなってる山さ巣くってよ、六匹程度だっぺは。二町向ごうの港がらへって来たも

んだって副組合長は睨んでるっぺよ」

「オンコットか…。経路については妥当な推測だ。あいつらは大陸製だし、漁船にカモフラージュした小規模密輸船は、前か

ら何回も検挙されてるからな…。で、対策としては何を買ったんだ?」

アンドウが顔つきを改めると、チエコは嬉しそうに眼を細め、耳をプルプルッとせわしなく震わせた。

「態度はそっけねぐすてでも、本当は町の事ば気にすてけでんだなぁ、たごさぐぅ…」

「やかましいっつーの!…で、何を買った?」

「アレだアレ、音波誘導式幻惑機っつぅんだっぺが?んっとな…、んだんだ、サウンドメイズシステム十四型って、最新の疑

似レリッ…」

「返品して来い」

説明を遮り、渋面を作ったアンドウが即座に告げた。

戸惑っているのはチエコだけでなく、アルも何故だろう?と言わんばかりに首を傾げている。

その白熊の問うような視線を受け、レッサーパンダが口を開く。

「それは藁葺工業製の音波式誘導装置の最新モデルでありまして、広範囲に設置して一箇所に誘い込む為の機材であります。

効き目は確かでありますが、オンコットには効果が無いと思われるであります」

「何でっス?」

「なしてだっぺは?」

揃って訊ねたアルとチエコに、エイルは説明を続けた。

「元来オンコットはテリトリーを築くタイプの危険生物でありますからして、誘い込む必要がそもそも無いのであります」

これを聞いたチエコは「はぁ!?」と声を上げ、目を丸くする。

「だ、だども店員のあんちゃんこが、こいづで良がすって…!」

「チエ。お前欲しいレリックの事、店員に何て説明した?」

「さ、サルっこの動ぎ止めれるやづって…!すばしこぐってかなわねんだって…!」

チエコは自分の言葉を遮って訊ねた幼馴染みへ、慌てた様子で伝える。

「それでだよ…。猿って一括りにしたら、オンコット以外にいくらでも居るっつーの。…ってかお前さ、店員の商品説明聞い

て疑問に思わなかったのかよ?」

「いやぁ…、俺あだま悪ぃがら聞いでもさっぱわがんねくて…。てへっ!」

「照れるな!恥じろ!」

太い首の後ろをワシワシと掻きながらぺろっと舌を出して見せたチエコに、アンドウは声を荒らげた。が、疲れたようにた

め息をつくと、

「買う側にも知識は必要なんだっつーの。説明が不足した以上チエが悪ぃ。事情話して返して来い」

と、面倒臭そうに手で払うような仕草をする。

「えぇ…?俺「これで勝づるっ!」っつって店のあんちゃんこさガッツポーズして来たがら、今更返しに行ぐのはちっと…」

「知るかっつーの…」

そっけなく応じてコップを手に取り、水を啜ろうとしたアンドウは、

「ちょっと待て…。お前買ったレリックってまさか…?」

チエコが脇に置いている、分厚い布包みに視線を向けながら呟いた。

「んだ。こん中だっぺ。あ、見るすかや?」

「何でお前そんな置き引きに遭いそうな持ち運び方してんだっつーの!?」

思わず腰を浮かせて身を乗り出したアンドウは、きょとんとしているチエコに顰め面で説教した。

「お前な…、管理下にあるレリックを平時に無くしたら、立派な遺失罪になるんだぞ?管理責任問われんの。判る?」

「そったらごと、さすがに俺でも知ってるっぺはぁ」

「知っててその扱いかよ…」

目眩でも感じたように額に手を当てて呻いたアンドウは、

「まぁ、見た目からして安っぽそうな…、しかもこんな大荷物の置き引きを試みる剛胆なヤツは居ねぇだろうけど…」

と、自分を納得させにかかる。

「判らないでありますよ?剛胆な一流の戦士が置き引きして行くかもしれないであります」

本人にその気は無いのだろうが、形としては横合いからちゃちゃを入れたエイルに、アンドウは手でしっしっと追い払うよ

うな身振りを見せた。

「一流の戦士はそもそも置き引きなんてセコい真似しねーっつーの」

「もしかしたら止むにやまれず借りると称してバイクを無断借用し、結果的にそのまま破壊してしまう一流の戦士が居るかも

しれないであります」

「…何それ…?」

首を傾げたアンドウは、しかしこのままエイルのペースに付き合っていては混乱するだけだと思い直し、かぶりを振ってチ

エコに顔を向けた。

「ってな訳で、返して代わりの物を買って来い。判ったな?」

「えぇ〜?」

困り顔だった猪娘は、今度は気まずそうな顔になる。

「…ったく…。返し辛いなら付き合ってやる。ついでに適当なの見繕ってやるから…」

面倒臭そうにアンドウが言うと、チエコは寝せていた耳をプルプルと震わせつつ、口元…というより、猪特有の大きな鼻を

備えたマズルを両手で覆った。

「たごさぐ…!俺さ付き合ってくれんだ…!?」

「仕方ねーからな…」

ぶっきらぼうに吐き捨て、コップを口元に運んだアンドウは、

「やっぱす俺のごど愛すてけでんだな…!?」

とのチエコの発言を受け、顔を横に向けつつブパッ!と水を吹き出した。

「ぎゃースっ!?」

「げほっ!がほっ!ち、チエっ…!お前何言って…!うげほっ!べほっ!」

横っ面に水を吹きかけられて悲鳴を上げるアルと、言葉を紡ごうにも噎せ返ってままならないアンドウの前で、「愛してく

れている…、でありますか?」と、エイルが猪に確認を取る。

「たごさぐなぁ…、俺んどご嫁コさ貰ってけるってゆったんだっぺよぉ…」

太い猪首を縮め、もじもじしながら恥じらう様子を見せたチエコは、その爆弾発言でアンドウをたじろがせ、アルとエイル

の耳をピンと立てさせた。

「アンドウさんから告白したんスか!?」

「隅に置けないであります」

口々に言った同僚に、アンドウは「違ぁあああああああああうっ!」と、叫ぶような声を発して弁解を始める。

「そりゃ幼稚園かそこらのガキの頃の話だっ!マジ他愛のねーガキなら二回や三回ぐれー誰でもするような約束だっつーの!」

「子供の頃の約束でも、約束は約束じゃないっスか?三つ子の魂皿までっス」

「妙な具合に二つ混じってるっつーの…。どっち?どっちだ?三つ子の方なら例えがおかしーし、毒か?毒の方か?毒だと諦

めて食えってか!?」

「まあまあ、落ち着くでありますよタゴサクさん」

「下の名前で呼ぶなぁあああああっ!」

騒ぎをよそに、しばし恥じらうように俯いてモジモジしていた猪は、しかしやおらキッと視線を上げ、向かいに座ったアン

ドウを強い視線でたじろがせる。

「んだども、たごさぐだらなぁ、ビッグになってやるっつって、こっつの大学さ進んだっきり、ろぐにけって来ねぐなったん

だっぺ」

「ビッグになるとか、無茶苦茶曖昧っス」

「アメリカンドリームに惹かれたのでありますね」

同僚達の視線を受けて、アンドウは居心地悪そうにそっぽを向く。

「ほうさぐ君がロックにかぶれでメタルだのヘビィだの金物っぽい名前の音楽に傾倒すてんのも、たごさぐの影響だすぺ!?」

「豊作のロック好きは元々だっつーの…。おれかんけーねーっつーの…」

弟の事まで引き合いに出されたアンドウは、ますます居心地悪そうになり、首を縮めてしまう。

「そいづぁ確かにビッグにはなったすぺ。天下のブルーティッシュさ入ってんだし。んだげっとな、都会の水のが合うんだが

何だが、田舎ほったらがすにすて、盆と正月すかけぇって来ねぇんだっぺは」

「盆と正月帰れば十分だろ!?」

盛大にため息を付くチエコに大声を上げて抗議したアンドウは、しかしハッと何かに気付いたように口をつぐむと、おもむ

ろに席を立つ。

このまま一緒に居ては余計な事まで喋られる。そう気付いたアンドウは、テーブルを回り込んでチエコを促した。

「ったく…。とっとと返しに行くぞ」

「うんっ!」

深く頷いた猪娘は、嬉しそうな笑みを浮かべながら腰を浮かせた。

「んで…、エイルさん、アル坊、お邪魔さん!」

深々とお辞儀し、別れの挨拶をして去って行く猪と、一人でさっさとレストランを出て行くアンドウを見送り、

「謎が多いアンドウさんには、婚約者が居たのでありますか」

自身もまた謎だらけなエイルは、ぽつりと、興味深そうな光を目の奥に湛えながら呟いた。

「良いひとそうでありますね」

「チエコさんは良い人っス。初対面のオレの事も可愛いって言ってくれたっスし…」

言葉を切った白熊は、俯き加減になると、耳を伏せて白い巨体をもじもじと揺する。

「アル坊なんて呼ばれたの…、初めてっス…」

アルビオン・オールグッド、十六歳。

子供扱いは嫌だと言いながらも、可愛がられればそれはそれで嬉しいという微妙なお年頃であった。



タクシーの後部座席で、窮屈そうな姿勢でドア際に寄ったアンドウは、小さくため息をついた。

ニコニコしているチエコがやたらと接近しようとする為、間に鞄を置いてギリギリまで離れているのである。

後部座席のほぼ真ん中を占拠した猪娘は、夜を昼に変えてしまう都会の光が気に入ったのか、目を大きく開きながら子供の

ようにはしゃぎ、あれこれとアンドウに話しかけてはうんざり、または辟易されている。

もっとも、かなりご機嫌なチエコは、アンドウの普段に輪をかけたローテンションも、全く意に介していないのだが。

しばし一方的に話していたチエコの言葉が途切れ、景色に見入ったタイミングで、アンドウは口を開いた。

「…上手く行ってんのかよ?そっち…」

「ん〜?」

「組合だよ。50近いロートルばっかじゃん。まともに動き回れんのお前ぐれーだろ?」

「春に若ぇ子が二人入るっぺよ。沢村さん家のトミゾウな、春の試験受けるっつってだ」

「…あいつ三回落ちてんじゃん…」

呆れ混じりの、しかし故郷と幼馴染みを案ずる会話を不器用に持ち出したアンドウは、年老いた両親の顔を思い出した。



アンドウの両親は、彼の故郷で農業を営んでいる。

土も痩せており、実りも良くない。おまけに風水害に頻繁に悩まされる悪地で。

その田畑を護る、跡継ぎとしての願いを込めて付けられた名も、名付けられた当人にとってはコンプレックス以外の何物で

もないのだが。

政策によって収穫量を制限され、ただでさえ裕福でなかったアンドウの家は、次第に困窮の度合いを深めてゆく。

それでも「ご先祖様から受け継いだ田畑だから」と儲からない農業に固執する両親に、彼は「このままではいけない」と、

何度も意見した。

ビッグになる。

そんな言葉を口にし、漠然とした夢を抱えて都会へと飛び出したように見せながら、その実アンドウは、最初から調停者と

なる為に首都へやって来た。

目指す事にしたそもそものきっかけは、故郷で調停者をしていた猪獣人…、チエコの父の存在である。

名誉の負傷で左足を膝の上から失い、今でこそ隠居の身となっているが、こっそり耳打ちで教えられた彼の武勇伝や、現実

的な金銭の話に、アンドウは心惹かれた。

純粋な憧れと魅力的な収入。それらは一流にならなければ望むべくもなく、大半の調停者は決して裕福ではないと知っても

なお、中学を出る頃には、アンドウの進路選択は調停者一本に絞られていた。

親には当然反対されたので表向きは諦めた風を装ってはいたが、チエコの父に手土産の酒をせっせと貢ぎつつ、アンドウは

調停者としての知識を貪欲に吸収した。

狭い田舎町である。

娘の幼馴染みでもあるアンドウは、チエコの父にとって自分の自慢話を熱心に聞いてくれる、可愛い子供であった。

気に入られていたアンドウは、高校に通うようになった頃には既に、格闘技に始まり、武器を用いての白兵戦、果ては射撃

に至るまでの訓練をチエコの父から受けていた。

その甲斐あって、首都に出て名門大学を卒業したアンドウは、その春に受けた試験で見事合格し、念願の認識票を手にする

事ができた。

生粋の人間であり、獣人と比べて身体的ポテンシャルでは大きく水を空けられるアンドウが、一流と呼べるブルーティッシュ

に所属していられるのも、一重にチエコの父の指導の賜である。

ダウド・グラハルトと偶然出会い、そして才能を見出されてブルーティッシュに加えられた事は、果たして運が良かったの

か、それとも悪かったのか…、それは今でも判らない。

だが、期待していた何倍もの仕送りが可能となり、もしも自分が死んだとしても家族が一生働かずに暮らせるだけの保証が

ブルーティッシュから下りる今の境遇に、アンドウは満足していた。

地元で調停者をするとばかり思っていた師…、チエコの父は当然残念がっているが、第一線で活躍するアンドウを誇らしく

思う気持ちもあるらしく、不肖の弟子の奮闘を素直に応援してくれている。

それでも拭いきれない、師の期待を裏切ったという負い目と、両親の反対を押し切って調停者になった引け目は、アンドウ

の口を重くさせ、仲間にも自分の生い立ちを語らない原因となっていた。

ある程度稼いだら、調停者を止めて故郷へ帰るのも良いかもしれない。

時にそう思わないでもないが、田畑を相手に額に汗する自分の姿は、どうにもリアリティが無かった。



回想とも呼べない、漠然とした思考の奔流に身を委ねていたアンドウは、懐をくすぐる震動によって現実に引き戻された。

ポケットに手を突っ込み、素早く携帯を抜き出したアンドウの目が、小ウィンドウに表示された文字列を捉えて細くなる。

『緊急連絡。添付位置情報付近のメンバーは、内容を確認の上ただちに急行されたし』

短い文面と添付された位置情報、そして事件の状況を確認したアンドウは、

「…悪ぃチエ。返品、付き合えなくなっ…わぁ!?」

脇から思い切り顔を近付け、画面を覗き込んでいる幼馴染みに気付いて声を上げた。

実質盗み見なのだが、その堂々たる覗き込み様は、もはや盗み見るなどという生易しい表現には到底収まらない。

「わーっ!近い近い近いっ!何してくれてんのお前っ!?」

二種類の抗議を込めて叫ぶアンドウから、眼を鋭く細めた顔を離すと、チエコは運転手に声をかけた。

「運ちゃんっ!行き先変更!双六会館ってトコまで大至急頼むっぺや!」

我に返ったアンドウは、前を見据えて鼻息を荒くしているチエコの横顔を見つめる。

「お前…」

「付き合うがら、ちゃちゃっと済ませっぺはぁ」

当然だろう?と言わんばかりの態度で協力を申し出た幼馴染みの横で、アンドウは面白くもなさそうな仏頂面になったが、

「…無茶すんなよ…」

結局、拒んでも無理矢理手伝うのだろうと、説得を諦めた。



双六会館と看板が掲げられているビル前へ、アンドウとチエコを乗せたタクシーが乗り付ける。

歩道には、既に野次馬がひしめいていた。

ピンと張られた立入禁止のテープ際に寄り、今にも将棋倒しになりそうなほど興奮している。

それを抑え、必死に声を上げる警官達の声と、見物人の声が高さを競う。

時に悲鳴が、時に罵声が上がる群衆の中を、鼻息も荒く、やや乱暴に野次馬を押し退けて進むのは、大柄な猪娘。

その後ろで、チエコの背を追い、切り拓かれた道を歩みつつ、アンドウは建物を見上げた。

窓の中で炎が踊り、暗いガラスが内から赤に黒にと色彩を変え、群衆の興奮と恐怖を煽る。

先行するチエコに続いてテープを潜ったアンドウは、現場を整理している警官の中から監査官を探し出し、認識票を示した。

「間もなく後続の連中も来るでしょうが、その都度入れてやって下さい。こっちは先に二人で状況を開始…」

チエコに目を向けようとしたアンドウは、ずんぐりむっくりした幼馴染みの姿が無い事に気付き、言葉を切って慌てて周囲

を見回した。

その瞳が捉えたのは、レリック入りの大包みを残し、くくりつけてあった金属棒と、本部へ来るときに背負っていた竹刀袋

をそれぞれ両手に持ち、薄い煙が狂った空調に乗って吹き出ているビルの正面口へ突入してゆく猪娘の後ろ姿であった。

「あの猪めっ!」

悪態にならない悪態をつき、舌打ちしたアンドウは、黒い煙の向こうに蟠る、さらに黒い闇の中へと消えた幼馴染みを追う。

入り口めがけて駆けてゆくアンドウは、監査官にチエコの荷物の管理を頼みつつ、

「置き引きに遭うどころか…自分で置き去りにしてんじゃねーの…、あの馬鹿…」

と、呆れと疲れの入り交じったぼやきを口にした。

だが、即座に表情を引き締めると、入り口脇で一度立ち止まり、待ち伏せに注意を払いつつ、緊急時仕様にシステムを切り

換えて直通端末と化した携帯を取り出す。

「アンドウより本部へ。双六会館に到着。これより、通報のあった危険生物の捕縛、場合により抹殺を遂行します」



チェストホルダーに収めていたグロックを片手に、アンドウは煙たい廊下を慎重に、素早く進んでゆく。

ここまで危険生物とは遭遇していないが、逃げ遅れた一般人とは二度接触した。

合計五名となったそれらの要救助者を安全に逃がしつつ、駆除すべき相手の姿を求めて進むアンドウは、彼にしては珍しく

苛立ちをあらわにし、口の端をひん曲げている。

救助した一般人を逃がすと一口に言っても、一人ではそう簡単な仕事ではなかった。

ダウンしていたセキュリティを復旧させ、エレベーターを使えるようにし、入り口ホールまで誘導するという手間を、単独

でこなさなければならなかったのである。

しかも、セキュリティの復旧には期待した程の効果は無かった。

監視カメラで建物内の状況が判るかもしれないと考えていたのだが、どうやら大事な場所…すなわち危機発生現場付近は殆

どのカメラが故障してしまっているらしく、情報が殆ど得られない。

先に切り込んで行った幼馴染みは、携帯の電源を切っているのか、表に残した荷物に入れたままにしているのか、連絡がつ

かず位置も状況も判らない。

「田舎チームならではの自由かつ臨機応変な行動ってか…?ったく…、一人で突っ走るのはガキの頃から変わってねーのな…」

ぼやいたアンドウは曲がり角に屈んで、右足の爪先を少しだけ通路に出す。

そのブーツの先から音も無く小型の鏡が滑り出て、通路の先の光景をアンドウに見せた。

「…蜥蜴か…」

ぼそりと口の中で呟いたアンドウは、鏡に映るオレンジ色の大蜥蜴を見つめる。

口先から尾の先端までは2メートル程。人間の大人ほども質量がある大きな蜥蜴であった。

首下から後ろ足の付け根までの胴が、筒でも飲み込んでいるかのように異様に太くなっている。

第二種危険生物、サラマンダー。近年になって国内でも発見されるようになった種である。

殺傷能力は高いものの、その能力の性質故に隠密性に欠け、飼育と維持にも手がかかるという点から、あまり人気が無い生

物兵器ではあるが。

人気というのも妙な話だが、犯罪組織にも懐事情という物はある。

安価で手のかからない品の方が売れ筋なのは市場と同じで、その点サラマンダーは不人気商品であった。

火炎放射器官を内蔵しているが故に体は大型化し、しかもセールスポイントである火炎放射は連発できない。

が、好事家という物が存在するのもまた表の市場と同じで、オオトカゲという独特の見た目が好まれてか、この国へ密輸入

されるサラマンダーは少数ながら存在する。

しかし、それが複数となると話は単純ではない。

ここまでにアンドウが確認したのは、たった今目にした一匹だけだが、火災規模から見て五匹以上居なければおかしい。

この規模となると、大手ブローカーがまとめて持ち込んだと考えるのが妥当である。

(マーシャルローからだいぶ経って治安も良くなって来たってのに…。まだ無茶やる組織が居るのかよ?ったく!…にしても、

まじーなこの状況…。早めにカタを付けねーと、放水が始まんねー事を野次馬共が訝り始めちまう…)

救助活動に時を割いたせいで、だいぶ時間をロスしている。

胸の内でぼやきつつ、アンドウはジャケットのボタンを引き千切り、通路の方へと放った。

小さなプラスチック製のボタンがリノリウムの床に落ち、控え目な自己主張をすると、サラマンダーはその鮮やかなオレン

ジの目を音の発信源へ向けた。

爪先から出した鏡に映るサラマンダーの顔が正面を向いたそのタイミングで、アンドウは通路の角から覗かせた銃のトリガー

を狙いも定めずに引いた。

サウンドサプレッサーによって抑えられた、プシッという発砲音と共に射出された弾丸は、正面に顔を向けたサラマンダー

の顎の下、柔らかな首の皮膚に着弾する。

衝撃と痛みで「カッ!」と喉を鳴らし、身を捻らせたサラマンダーは、しかしその一瞬後、立てた首をふらりと揺らし、手

足をだらしなく床に投げ出して、べったりとはいつくばる。

鏡で確認した先の通路に居た相手、その着弾が有効となるポイントめがけて、間接的に狙いを付けて麻酔弾を打ち込んだア

ンドウは、声に出さずに五つ数えてから通路へ踏み出した。

そして、眠っているオオトカゲの手足を緊縛テープでグルグル巻きにし、噛む以外にも脅威となる、火炎放射を行える口を

しっかりと閉じさせた上で厳重に固定する。

「いっちょ上がり。さて…」

屈み込んで作業をしていたアンドウは、縛ったサラマンダーを転がして通路の脇に寄せ、身を起こす。

そして、進むべき通路の先へその視線を向けた直後、「あちゃ…」と、面倒臭がっているような声を漏らした。

曲がり角から現れたサラマンダーが、アンドウをじっと見つめていた。

距離は10メートル程、折り悪く、銃は作業の為にホルスターに収めてある。

下手に動くのはまずいと考えたアンドウは、刺激しないよう極力身動きせずに、周囲を観察する。

(引き返して角に飛び込むのは…、リスクでけーな。その前に「吐かれる」可能性がある。となると…)

アンドウは僅かに足の位置を変え、左足を覆うブーツの先をサラマンダーに向けた。

トン、と、軽く浮かせたつま先を床に当てると、ブーツの先端から鏡が飛び出す。

その僅かな動きにサラマンダーが興味を引かれた次の瞬間、アンドウは電光石火の抜き撃ちを披露した。

プシュシュッと二度続いた発砲音と同時にサラマンダーがのたうち、次いで「シャッ!」と怒りの声を上げ、まだ間合いが

あるアンドウめがけて口を大きく開ける。

が、その喉の奥で何かが明るく瞬いた次の瞬間、サラマンダーはまたしても脱力して床にへばった。

(出撃装備じゃねーからしんどいな…。護身用の麻酔弾も残り四発か…)

任務を終えて平時行動に移っていたアンドウは、武装を整えている訳ではない。

武器は拳銃一丁。しかも装填してある麻酔弾だけが頼みである。

相手の数によっては撤退も視野に入れなければならない。

アンドウがそう思った矢先、通路の先から「うりゃさあああああああああっ!」と、威勢の良い声が響いて来た。

サラマンダーの緊縛処理は後回しにして、銃を構えて即座に駆け出したアンドウは、角を二つ曲がった先で幼馴染みの姿を

認めた。

その大きくなった目に映ったのは、宙を舞う、大人ほどもあるオオトカゲ。

その太い胴を掬い上げるように鋼鉄の棍で打ち、軽々と吹き飛ばしてのけたのは、先程単独で突っ込んで行ったアンドウの

幼馴染みその人である。

左手に棍、右手に太刀を掴んだ猪娘は、大きな鼻穴から排気のような鼻息を荒々しく漏らし、大柄な体躯をぐっと沈めて前

屈みになる。

その横合いで大きく口を開けたサラマンダーの口から、紅蓮の炎が迸った。

窮屈そうに太った体を縮めて炎の下を潜ったチエコは、火炎放射を終えたサラマンダーの頭上すれすれへ、突き出すように

太刀を繰り出す。

その切っ先が頭頂部付近を通過した瞬間、太刀は突きから切り下ろしへと軌道を変えた。

肘を外側へ回し、脇を締めるようにして腕を捻り、関節を固定しつつ引き付け、急激に、そして強引に太刀筋を変化させた

猪娘は、片腕一本の腕力と太刀の重量だけで、サラマンダーの頭頂部から顎下までを綺麗に両断してのける。

次いで、切り下ろした太刀はそのままに、左手の棍を床に突き、それを支えにぐいっと身を捻って腰から下を回転させたチ

エコの太い脚が、煙に汚れた宙を裂き、綺麗に弧を描いた。

「どっこいさぁあああああああああああああっ!」

気合いの声と共に繰り出された後ろ回し蹴り。

後脚で立ち上がりつつ、後ろからのしかかるように接近していたサラマンダーは、その軌道に吸い込まれるような格好で側

頭部を蹴撃され、横回転しながら吹き飛ぶ。

「…やるもんだ…」

三体のサラマンダーを撃退して「フン!」と荒々しい鼻息を漏らしたチエコは、呆気に取られたような顔で呟いたアンドウ

に気付くと、猛々しい表情を途端に緩ませて耳をパタタッと動かした。

「やんだぁ…!今のはしたねぇどご見でだん?たごさぐぅ…」

「安心しろ…。はしたねーのは今に始まった事じゃねーし…」

大柄な体を恥ずかしげにくねらせる幼馴染みの様子を目にすると、アンドウは感嘆の光を目から消し、呆れ顔になった。

が、その直後、太刀と棍を握ったままの拳を両頬に当て、照れ臭そうにモジモジしている猪娘の頭上に異変を見て取り、驚

愕に目を見開く。

「伏せろチエっ!」

警告を発しながら突進し、自分の倍以上ボリュームがある巨躯の猪にタックルしたアンドウは、次いでやって来るはずの苦

痛に備えて歯を食い縛った。

不意を突かれて踏みとどまれず、仰向けに押し倒される途中で、チエコは見た。

おそらくはメンテナンス用に儲けられた、天井裏に通じるパネルを押し開け、逆さまになって顔を覗かせている二匹のサラ

マンダーの、大きく口を開けた姿を。

唐突に発生した灼熱と、目を焼く鮮やかな紅の炎。

反射的に息を止めたまま背中から床に倒れたチエの上で、背を炙られたアンドウが押し殺した苦鳴を漏らす。

「たごさぐぅっ!」

身を挺して炎から庇ってくれたアンドウへ、チエコが悲鳴に近い声で呼びかける。

「うるせー…!耳元で叫ぶなっつーの…!ジャケットは鼓谷製…、超高級防弾防刃耐熱素材だ…!」

苦痛に歯を食い縛るアンドウは、しかし耐熱素材を貫通して背中を熱せられ、肌一面に水ぶくれを生じさせている。

低い位置にあったおかげで直撃こそしなかったとはいえ、太腿とふくらはぎはズボンごと後ろから炙られ、後頭部などは毛

髪がだいぶ焼かれてしまっていた。

小刻みに体を震えさせて苦痛に耐えるアンドウは、押し倒したチエコの上で、場違いにもその柔らかな感触に戸惑っていた。

子供の頃は男友達に混じり、取っ組み合って相撲やプロレスの真似事もしていたが、こうしてチエコに触れるのは何年ぶり

だろう?

予想外の柔らかな胸や腹、肩口の感触と、突如湧いた郷愁の念を噛み締め、強引に飲み下したアンドウは、両肩をがっしり

と掴まれて顔を上げる。

「たごさぐ…。ちょっと休んででけれ…」

気遣うようにゆっくりと、力が過剰にこもって震える腕でアンドウを横へ押し退けたチエコは、のっそりと、その寸胴を起

こした。

その口元が微かに動き、ブツブツと何事かを囁く。

「おめら…。俺の旦那さ…焦げ目付けだな…?」

パネルを外した四角く狭い穴を強引に壊して広げ、二匹のサラマンダーがドサドサッと、鈍重な動きで床に降り立つ。

首を上げたオオトカゲ達の真正面で仁王立ちになり、猪娘は俯き加減で呟いた。

「よぐもたごさぐんどご…、焼いでけだな…?」

頭部と猪首に一繋がりとなっているような分厚い肩が小刻みに震え、首周りの毛がぶわっと逆立つ。

「…おめら…!泣いで謝ったって許してやんねーがんなっ!?」

キッと顔を上げ、サラマンダー達を睨み付けながら怒号を発したチエコの腕が、素早く胸の前に寄った。

そして、左手に握った棍の先端と、右手に握った太刀の尻を、ガキンと突き合わせる。

それまで別々に振るわれていた二つの武器は、連結され、一振りの薙刀となった。

薙刀の中央を掴んでぐるりと回転させた猪娘は、半身に身構えてそれを右脇に抱え込む。

「唐紅にぃ…、しぶき散れっ!」

左足をズンと踏み出し、左腕を突き出して手を開き、太い首を回して大見得を切ったチエコの前で、サラマンダー達は怒気

に気圧されたのか、たじろぐような素振りを見せた。

戦後に調停者制度が設立される遥か以前、京に帝が居を構えていた程の昔から存在し、現在この国では危険生物と呼称され

ている「あやかし」を狩る事を生業としていた者達、「野走り」。

その、調停者の前身とも取れる野走りの末裔の一つが、チエコの一族である。

そんな彼女の家に古くから受け継がれてきたこの薙刀は、鬼の首をはねたとの言い伝えを持つ、由緒正しき武具であった。

常は五尺の柄と、反りの大きい三尺の太刀の形に分割されているが、真の姿はこの連結された状態である。

それだけで鈍器として利用できる太い柄は、断面が正八角形となる八角柱。

握りは滑り止めに薄い革が巻かれているが、石突きまでが八角錐に尖り、飾り気がまるで無い。

一方で刃の方は、連結と同時に変じた独特の色合いもあって、一際目を引いている。

黒鉄色の腹と峰に対し、波形の刃紋が浮くその刃は、鬼の血が染み入って色を変じたと伝承にある通り、血塗れの如き濃い

赤色に染まっていた。

真の姿を取り戻すと同時に、内側から朱がさすようにして赤く変じた刃で空を薙ぎ、大きく踏み出した猪娘が「ぶごぉっ!」

と荒々しく吠える。

その一瞬の後に、射竦められたように動けないサラマンダーの、同じ高さで二つ並んだ首が、間合いの遥か外から伸び寄っ

た紅の烈風に薙ぎ払われた。

柄の端を片手持ちにし、大きく振るわれた薙刀に払われ、ボンッと、音を立てて二つ首が飛び、炎よりもなお暗く、濃く、

赤い液体が噴き上がる。

ただただ単純な大振り、横薙ぎの一太刀。

しかしその渾身の力を込めた一振りは、サラマンダーの首を纏めて飛ばし、軌道上にあった壁を豆腐のように切り裂いた。

猪娘が「フンッ!」と唸ると、壁に刃を食い込ませた薙刀が即座に正面へ戻り、残っていた唐紅の血飛沫を飛ばす。

「たごさぐ。ありがどな?あど…、ごめんな…?すばらぐそごで休んででけれ。…あどは俺がやっからさ…、皆殺しだ…。唐

紅に沈めでやっぺ…!」

猪娘は肩を怒らせつつも、努めて優しい声音でアンドウに告げ、薙刀を担いでのっしのっしと通路の先を目指す。

「おいチエ」

背にかけられた苦しげな声に、足を止めて振り返ったチエコは、

「今連絡が入った。援軍が到着したらしい。もう良いからここに居ろ」

床に跪き、携帯を手にしているアンドウの言葉にも、しかし首を横に振った。

「俺ば庇ったたごさぐが焦がさいだんだど?このまんまだど腹の虫がおさまんねぇすぺ!?」

「焼かれたの焦がされたの、ひとを魚みてーにゆーなっつーの…」

アンドウは顔を顰め、傍の床をペシペシと叩き、「いーからここ来て座んなさいチエ」と、幼馴染みに告げる。

「おれもう今日は働けねーの。ボディーガード必要。判る?」

「…う…?…ん…、んだな…」

続けられた言葉で納得したらしいチエコは、アンドウの傍に寄って床にキチッと正座した。

「頭冷やせっつーの。すぐ熱くなって視野が狭くなんの、お前の悪いトコだ」

「…うん…」

アンドウの言葉から改めて状況を思い知らされ、冷静さを取り戻したのか、チエコは恥じ入ったように首を縮めた。

腕前、特に肉弾戦に限って言えば、下手な上位調停者にも匹敵するだけの物を秘めるチエコだが、いかんせんメンタル面に

乱れが目立つ。

単純一途な性格によるものもあるのだろうが、親しい者が傷付けば過剰なまでに取り乱し、容易く逆上して戦局を見失う。

それゆえにアンドウは、これまで何度か考えないでもなかった、故郷でチエコと同じチームに入るという選択肢を、捨てざ

るをえなかったのである。

チエコが自分に寄せる好意の深さは、それなりに察している。

だからこそ、チエコの目の前で自分が危機にさらされる訳には行かない。

そしてアンドウが懸念していた通り、チエコは先程、自分を見失いかけた。

実力差のある、格下の敵ならば良い。だが、一流を相手にした時、心の揺らぎは命取りになる。

調停者という職業上、危険な目に遭うのは日常茶飯事。

その都度我を忘れては、いずれチエコは命を落とす。

だからこそ、轡を並べて戦う訳には行かない。

それが、一度も口にした事のない、しかしどんな誓いの言葉より強固な、アンドウが己に架した枷であった。

「あんの…。ごめんな?たごさぐぅ…。俺が油断すたせいで、痛ぇ目に遭わして…」

先程の猛々しい姿は何処へやら、しゅんと小さくなった猪娘に、アンドウは「謝る事じゃねーっつーの」と、つまらなそう

に鼻を鳴らして見せた。

「…お前が危なかったら護ってやるの、当然だっつーの…」

小声でぶっきらっぼうに囁かれたその言葉に、チエコはピクリと反応した。

おずおずと上げられたその顔が、次第に明るくなり、やがて…、

「たごさぐぅうううううっ!」

「げぶっ!?」

チエコはその逞しい両腕で、想いを寄せる幼馴染をきつく抱き締めた。

「やっぱすたごさぐも、俺んどご愛すてけでんだな!嬉しいっぺはぁ!たごさぐっ!たごさぐぅううううっ!」

「ち…、チエ…、ちょ…!背なっ…はぁ…あ…ぁ…あ…ぁ…あ…ぁっ…!」

背の傷に障るのは勿論、強烈なベアハッグで肺の中の空気を搾り出されたアンドウは、背骨や胸骨が立てる音に負けそうな

ほど弱々しい声を漏らしながら、

「…ふっ…!」

グリンッと、白目を剥いて気絶した。



「帰った?」

「うむ」

翌日午後、病院のベッドの上に背を丸めて座っているアンドウは、口髭を蓄えた精悍な顔つきの中年から聞かされ、意外そ

うな声を漏らした。

「事情を聞けば、あちらもあちらでオンコット討伐を急がねばならないらしい。急いで帰らねばいけないとの事だったのでな。

本人は随分渋ったが、半ば強引に出発させた」

ブルーティッシュの作戦参謀、幹部の一人であるベテラン調停者のヤマガタは、ベッド脇のパイプ椅子に深く腰を降ろして、

自分を先生と慕う若者に事の顛末を話して聞かせた。

気絶した状態で保護されたアンドウは、そのまま治療のために安定剤を打たれ、つい一時間ほど前まで眠っていたのである。

チエコはその間にネネに諭され、しぶしぶながらも帰らされたそうだが、レリックの返品と再選定については、ブルーティッ

シュの専門家が同行して問題なく済んだらしい。

「勝手に帰しては、まずかったかな?」

「いえ、そんな事は…」

曖昧に応じたアンドウは、複雑な表情を浮かべる。

意識が無い内に終焉を向かえたせいで、事件そのものの解決についても実感が沸かないが、お別れの言葉も無く唐突に「帰っ

た」とだけ教えられたせいか、チエコが帰郷したという実感もまた沸かない。

そっけない態度ばかり取り続けたが、せめて「元気でな」「気をつけて帰れよ」ぐらいは言っておきたかったと、軽く後悔

する。

そんなアンドウの心を知ってか知らずか、ヤマガタは備え付けの棚に手を伸ばし、平たい厚紙の箱を手に取る。

「これを…。彼女が、渡してくれと言っていた」

「おれに?」

ヤマガタから箱を受け取ったアンドウは、首を捻りながら、その真っ黒な紙箱を開けた。

「…うぁ…」

目に飛び込んできた中身を前に、アンドウは軽く仰け反る。

何事か?とその手元に目を遣ったヤマガタは、箱の中身を目にするなり微苦笑した。

箱の中には、大きなハート型のチョコレートが入っていた。

もっとも、何を混ぜてあるのか鮮やかな唐紅で、チョコと認識するまで一拍を要したが…。

「バレンタインのチョコかよ…。飾り気ねー箱だったから、不意打ちだった…ん?」

言葉を切ったアンドウは、赤いチョコに何かが書かれている事に気付き、顔を寄せる。

チョコレートと同じ色なので目立たないが、それはチョコペンで書いたらしいメッセージであった。

『田護作LABU ob千恵子』

ミミズがのた打ち回ったような、見覚えのある独特の悪筆で書かれたメッセージを確認し、アンドウはため息をついた。

「…一体どこからつっこみゃ良いんだっつーの…」

苦手だとか、もはやそういったレベルではない英語をチエコなりに駆使し、不慣れなバレンタインプレゼントをそれなりに

見せようと頑張ったらしいが、その努力を感じたアンドウは、何故かむしろやるせない気持ちになる。

「食べて、メールで礼を伝えたらどうだ?」

ヤマガタは目尻に僅かな皺を刻み、アンドウに助言する。

「面と向かっては言いづらくとも、間接的にならば素直に礼が言える物だ」

「…体験談ですか?」

「残念ながら、実は聞きかじっただけの知識だ」

「なーんだ…」

堅物参謀から浮いた話の一つでも聞けるかもと期待したのか、アンドウはやや気落ちしたような表情を見せる。

が、助言に従う気になったのか、チョコを口元に運んで苦笑いした。

「赤いけど、まさか辛くはねーよな?」

笑い混じりに呟くなり、パキッと一口齧ったアンドウは、

「げぅ!?んがっ!酸っぺ!酸っぱいチョコだと!?何だこれ!?どうなってんだ!?」

予想外の角度からパンチを貰い、ひどくむせ返った。

 その様子を眺めつつ、ヤマガタは思い出す。

かつて自分が所属していたチームの隊長が、バレンタインには舌の付け根が痛くなる程甘い義理チョコを、皆に配っていた

事を。

(…帰ったら、今年の分も食わないといかんな…)

むせているアンドウの脇で、鬼の参謀は口元を微かに綻ばせ、困ったような微苦笑を浮べた。

今年も、母親と良い勝負の激甘お手製チョコを送って寄越した、金色の大熊の得意げな顔を思い浮かべながら。