ホワイトアウト(中編)

時計を内蔵した首輪が微かに震動し、私は個人的な定時に目を覚ました。

寝袋から静かに這い出し、新入りに貸したベッドを見る。

青みがかったグレーのアメリカンショートヘアーは、まだぐっすりと眠っていた。

長袖の、体にフィットした濃紺の肌着と、ゆったりとしたズボンを身に着け、口を大きく開けて頬によだれを垂らしている。

…それにしても寝相が悪い。

シーツは殆ど剥がされ、毛布はどうやら蹴りやられたらしく、くしゃくしゃになって足元に丸まっている。

枕を探せば、ベッドから落ちて床に転がっていた。

垂れた唾液が浸透したらしく、枕元には大きな染みがある。

私の寝具なのだが、実に遠慮無く使ってくれている。ここまでされるとむしろ清々しい。

さて、まだ時間は早く、少年をわざわざ起こす必要は無い。混み合う前に朝食を持って来るとしよう。

私は熟睡している少年を起こさないよう、静かに部屋を出て食堂へ向かった。



まだ朝も早い事もあり、食堂に来ている者は殆ど居なかった。

バターロールとハム、ゆで卵、ツナサラダ、ビニールパックのジャムとマーガリンを必要な分だけトレイに上げた私は、少

し考える。

細身とはいえ年頃の少年なのだから、これだけでは足りないかもしれない。

結局そう思い直して、トレイの上にまた少し追加した。

それからコーヒーを貸し出し用ポットに注ぎ入れ、マグカップを二つ取る。

あの少年、砂糖とミルクは入れるのだろうか?念の為に持って行こう。

とりあえずこれで十分だと判断し、滞りなく食事を確保した私は食堂の出口へと歩き出す。

そして、いくらも歩かない内に馴染みの顔を認めて足を止めた。

「おはようございます中尉。今日も早いですね?」

食堂の入り口を潜ったポメラニアンは私に気付くと、指を揃えた手を額に当てるだけの略式敬礼をする。

「おはよう、スコル」

彼は第三小隊所属の通信兵、スコル・ガルム。階級は軍曹。

私と同じくガルムシリーズの成功例なのだが、基づくコンセプトが大きく異なるため、付加されている機能も完全に別物と

なっている。

縫いぐるみのような外見のスコルは、片方の口元を吊り上げてシニカルな笑みを浮かべた。

「どうしたんです?今日はまた一段と大盛りじゃあないですか?いくら普段からこまめに蓄積しておく必要があるからって、

あんまり食べると体が雪の中に埋没してしまいますよ?ただでさえデブいんですから」

スコルはグレイブ隊の全隊行動時にはオペレーターを担当している。

通信の傍受から暗号の解読までこなす有能なオペレーターなのだが、口が減らないのが玉に瑕だ。

皮肉屋スコルはその口が災いしてこの隊へ飛ばされた。

というのが、皆の間では通説となっている。…実際の所は恐らく違うのだが。

もっとも、この皮肉や嫌味を散りばめた軽口は、彼にしてみれば親しみの表現でもある。

事実、ゲルヒルデ隊長に対しても面と向かって小馬鹿にしたような皮肉を言うのだから。…まぁ、さすがに下手な事は言わ

ないが。

「そうなる前に、目鼻が贅肉に埋没する可能性も否定できないがな」

私が応じると、スコルは「ヒヒヒッ!」と面白がっているように笑った。

「それと、これは私の分だけではない。二人分だ」

誤解されたままでも別に構わなかったのだが、一応そう告げると、彼は訝しげに眉根を寄せた。

昨夜到着した新入りが迷子になっていたので私の部屋に寝かせた。…という一連の経緯を、彼にも簡単に説明しておく事に

しよう。

「…あ〜…、使えるんでしょうか?あの新人…」

「さてな」

すっかり呆れている様子のスコルへ、私は正直にそう答えた。

我々は嫌われ者だ。部隊に来るのは問題のある者か、あるいは役立たず。

でなければ任務で死んでも構わない者や、死んで欲しいと願われている者だ。

どこかの上官が、死んで貰った方が好都合な部下を送って寄越すのは良くある事。

隊の名である長柄刀が、墓場に言い換えられる所以だな。

例の少年については、素行に問題があるようには思えない。

と言うよりも、やけにオドオドしているあの様子からは、誰かや何かに反抗する様子など想像もつかない。

上官の不興を買うような性格ではなさそうだが…。いや、逆に気弱な性格や言動は癪に障るという人物も居るのだから、大

人しいからといって無条件に不興を被らない訳でもないか。

…まあ、実際に彼がここへ来た今になって、同じくここに居る私があれこれ詮索しても仕方のない事なのだが。

「それで?その新入りは中尉に飯運ばせておきながら、自分は部屋でくつろいでるってわけですか?」

「いや、おそらく今もまだ眠っているだろう。起こさないように出てきた」

私の返答に、スコルはぽかんと口を開け、それから「ヒヒッ!」と小さく笑う。

「あぁいや済みません。中尉、いつからそんなに甲斐甲斐しいひとになったんです?」

「甲斐甲斐しい?」

言われている意味が分からず問い返すと、スコルは体を折って笑い始めた。

「ウヒヒヒヒッ!無愛想が毛皮と脂肪を着て出来上がったような中尉にそこまで気を遣わせるなんて…!あの新入り、もしか

すると相当な大物になるかもしれませんねぇ?」

私自身には、自分の食事を取りに来たついでに少年の分も持って帰るだけの意識しか無いのだが…。これは気を遣っている

という事になるのか?

疑問には感じたが、真面目に考察するのも面倒臭い上に馬鹿馬鹿しい事柄だ。コーヒーがぬるくなる前に戻るとしよう。

「ではな、スコル」

脇を通り過ぎようとした私に、スコルは思い出したようにポンと手を打ちながら言った。

「あぁそうそう!じきに連絡入ると思いますが、8時から全体ブリーフィングだそうですよ?」

「昨夜は聞かされなかった。随分と急な事だな?」

疑問に思いながら足を止めた私に、スコルは「まったくです」と肩を竦めて見せる。

「今朝方、隊長あてに緊急通信が入ったんですが、その関係かもしれません」

「それを受信していたから今朝は早かったのか」

「そういう事です。今朝五時までのシフトだったもんで、終わり際に長々と通信されるからもぉ眠くて眠くて…」

思い出したように伸びをしたスコルは、私が「大変だな」と呟くと「大変です」と真面目腐った顔で頷く。

極秘内容の通信となれば、傍受や盗聴に気を配らなければならない。

通信中は勿論、通信後も様々な探知を行う必要がある。

深夜でも日中でも常に待機し、備えておく…。通信兵とは字面から受ける印象以上に過酷なポジションなのだ。

「あ〜あ〜、来て早々、無愛想で有名な中尉に優しくして貰える新人みたいに、オレも誰かに優し〜く可愛がって貰えません

かねぇ?」

「デカルド中尉に可愛がって貰えばいい」

彼の上官の名を挙げると、何故かスコルは露骨に顔を顰めた。

「…小隊長の「可愛がる」は…、別の意味に取れそうなんですがね…」

「厳しい訓練を課せられるのは、それだけ大事にされている証拠だ」

私がゲルヒルデ隊長の受け売りを口にすると、スコルは「そうですかね果たして…?」と懐疑的な表情を浮かべた。

「あ〜あ…、中尉の奇行が原因で雪でも降るんじゃないですかね?今日」

私の奇行?何の事だろうか?

疑問には思ったが、このままではいつまでも立ち話に付き合わされる。今度こそ切り上げよう。

「間違いなく降るだろうな。いつも通りに今日も北原は吹雪くだろう」

そう言い残して歩き去る私の耳は、いつまでも含み笑いを漏らしているスコルの声を聞き取っていた。

私が新入りに食事を運んでやる事は、それほど可笑しい事なのだろうか?



静かにドアを開けて部屋に入った私は、まずベッドに視線を向けた。

少年はまだ眠っていた。先程よりも寝具の乱れが進行している。

つくづく凄い寝相だ。起きている状態で意図的に乱してもこうは行くまい。

まだ朝の6時半…。ブリーフィングまで時間はある。

移動で疲れているのだろうし、まだ寝かせておいて、先に食事を摂る事にしよう。

少年を起こさぬよう黙々と食事を摂りながら、私は改めてベッドの上に視線を向ける。

細身の体は、おそらく元々肉のつきにくい体質なのだろうが、申し訳程度の筋肉のラインしか見て取れない。

青みがかったグレーの体は、極めて毛並みが良い。

日光で褪せた様子も無いので、事務系統の仕事のみ担当させられて来たのだろうと、容易に窺える。

それが、突如として前衛の実行部隊である我が小隊へ補充か…。

考えれば考えるほど、異動させた者の思惑があからさまに感じられる。

寝顔は子供のそれのようにあどけなく、まだ幼さが抜けきっていない顔は、目を閉じているとさらに幼く見える。

そんな事を考えていると、少年は毛布を床に蹴り落とした。

重ね重ね言うが実に寝相が悪い。清々しい程に。

食事も終わったので、私は大きな音を立てないようにしながら装備のチェックを始める。

私がこの北原で使用している装備は、寒冷地対応の白色迷彩ジャケット、ブーツやグローブなどの衣服類を除けば、二本の

トンファーと、それを収めるホルスター付きのベルトだけだ。

火器の類は極力使わない。極寒のこの地ではいつトラブルを起こすか判らない上、発砲音という名の衝撃を撒き散らす構造

上、場合によっては雪崩を誘発する事も有り得るので、頼らないようにしている。

それは他の隊員も同じ事で、肉弾戦にも対応できるよう、全員が銃火器以外にも武器を携帯する。

武装の他にも、我等第一小隊特有の装備が一つある。

私は首に手を伸ばし、特殊ラバーでコーティングされた首輪にそっと触れた。

通信機と発信機、時計などの機能を内蔵したこの首輪は、第一小隊のシンボルでもある。

グレイブ隊は、最初はこの第一小隊程の規模だったと聞いているが、その頃から主戦力となる分隊には特別製の首輪が与え

られていたらしい。いわば切り込み役の証だ。

新入りであるアメリカンショートヘアーの首に巻かれた通信機は、従来の物より遥かにコンパクトなチョーカータイプとなっ

ているが…、こんな新型が開発されているとは知らなかった。私も希望してみようか。

様々な機能を内蔵した愛用のトンファーをメンテナンスし終え、顔を上げて壁掛け時計を見ると、時刻は七時を回ったとこ

ろだった。

…さすがにそろそろ起こさなければならない…。

立ち上がり、まだ眠っている少年の肩に触れ、軽く揺する。

「おい。そろそろ起きろ」

揺すられた少年は鼻の奥で小さく唸り、薄く目を開け、私を見て、

「ひっ!?」

声を上げて飛び起きると、壁にドンと打ち付けるように背を預けた。

耳を倒して後方に引き、怯えた表情を浮かべ、目を見開いて私を凝視する少年…。

体が小刻みに震えている。一体どうしたと言うのだろう?

「嫌な夢でも見たのか?」

私が声をかけると、少年はハッとしたように目を見開き、それから部屋の中を見回した。

「あ…、いえ…。その…、す、済みません…」

決まり悪そうに頭を掻いた少年は、ベッドから降りようとして、そのまま前につんのめった。

反射的に伸ばして受け止めた私の手に、頼りなく感じられる程に軽い少年の体重がかかる。

「あっ!」

少年は慌てた様子で…というよりも殆ど反射的な動きで私の手から逃れ、ベッドに尻餅をついた。

少年の表情は硬い。どうかしたのだろうか?

「あっ!す、すす済みませんっ…!つい…」

私は項垂れた少年を見ながら、その口から出た一言に疑問を覚えた。

つい?つい、どうしたというのだ?

…いや、疑問はとりあえず棚上げにしよう。時間も押している。

「8時から全体ブリーフィングが始まる。飯を食って支度しろ」

私は少年に告げ、彼がのろのろと食事にとりかかった事を確認し、装備を身に帯び始めた。

…と言っても、時間を指定してブリーフィングされる以上、緊急出撃という事は無いのだが。

指揮官の身なりと姿勢は兵に影響を与える。

だからこそ隊を預かる者は、出来うる限り身なりを整えておく事が望ましい。

例え、厄介者を集めた小隊の指揮官だとしてもだ。

しばしあって、随分と食事を残した少年は、「あ」と声を上げた。

「もしかして…、あの…、この食事って、少尉が運んで来てくれたんですか…?」

私が頷くと、少年は恐縮したように小さくなり、ごもごもと「ありがとう」やら「ごちそうさま」やら礼を口にし始めた。

寝起きとはいえ、食事を終えてからその事について考察する辺り、頭の回転はあまり良くなさそうだ。

私は考える。

この少年は、隊に長く居座らないタイプかもしれない、と。



「…情報は以上だ」

ゲルヒルデ隊長の話が終わると、スコルが露骨に舌打ちをした。

「相変わらず無茶言って寄越しますねぇ?」

「常の事だよ」

隊長は「フン」と不機嫌そうに鼻を鳴らす。

機嫌が悪くなるのは当然だ。通達された任務は、あまりにも「丸投げ」だったのだから。

今日から明日にかけ、我々の守備範囲を、南岸で発掘されたレリックを輸送する米国のハンター部隊が通過する。らしい。

装備の状況は不明だが、規模は中隊クラスである。らしい。

なお、連中は徒歩と見られる。らしい。

奪取すべきレリックの特徴は不明。

調査部門のストライキを疑うべき情報量の無さと不正確さだと、スコルが嘆く。

「この雪ん中、位置情報も定かじゃない相手を捜索して奪取?おまけに中隊規模?ウチら程度の人数で分散して探したら、そ

れこそ撃破して下さいって言ってるようなもんじゃないですかぁ…」

スコルは額に手を当てて天井を仰ぐが、彼が所属する第三小隊の指揮官、デカルド中尉が静かに口を開き、彼を窘める。

「調査担当の怠慢を責める口が何を言う?我々を通常の部隊と同じ物差しではかり、不可能と詐称するのもまた怠慢と呼べる

ぞスコル軍曹」

彼は希少種である竜人だ。

が、その体がエメラルドグリーンで、角が極端に短くて丸い…ようするに目立たない事から、蜥蜴と勘違いされやすいのが

密かな悩みであるらしい。

以前は米国の陸軍に所属していた生粋の軍人なのだが、自ら望んでラグナロクに参加したという変り種。冷静で理知的な上、

理論に腕前が伴う優秀な指揮官だ。

真面目で堅物。…だと思うのだが、以前一度その事を口にしたら「貴官にだけは言われたくない」と、心外そうに顔を顰め

られた。

彼がこのグレイブ隊に居る事もまた、私にとっては不思議な事の一つだ。

噂では銃殺刑ものの重大な命令違反を犯したからだと聞いた事があるのだが…、真面目な彼が命令違反などと、信じ難いし

実感も沸かない。

私の低くて太いだけの声とは違う、耳に心地良い深みのある低音で、デカルド中尉は淀みなく続ける。

「他の部隊はともかく、我々ならば十分に達成可能な任務だ。断固実行あるのみ。…ハティ中尉、貴官の意見は?」

話を振られた私に、周囲の視線が集まる。

「是非もない、やるだけの事だ」

意図を短く告げると、デカルド中尉とゲルヒルデ隊長が頷いた。

「…第二小隊もアホハスキーも居ないってのに…」

スコルは面倒臭い仕事を前に、力無く嘆息する。

普段散々にこき下ろしている割に、マーナが居なければ居ないで、どうやら調子が出ないらしい。



細かな打ち合わせは、その後部屋を移して行われた。

ゲルヒルデ隊長と小隊長二名、そしてそれぞれの副官のみが集って意見が交換され、作戦は固められた。

それなりに時間を有した打ち合わせを終え、会議室を出た私は、

「総員、捜索強襲用装備で第四ハッチへ集合せよ。出発予定時刻は9:00。如何なる理由でも遅延は認めない、刻限厳守の

事。オーバー」

首輪形の通信機を用いて、各隊員に号令を下した。



横殴りの雪の中、私はひとり雪原を行く。

分厚い防寒具やゴーグルに頼る必要がない私は、剥き出しの頭部を覆う被毛と垂れ耳が強風になぶられるに任せ、じっと前

方に目を懲らしていた。

スコル達が割り出したレリックの搬送ルート範囲。その中を単独で探索しているのだが、一向に生物の影は見えない。

東西に広く探索する必要があるため、西を担当する我々第一小隊は三手に分かれた。

敵は中隊クラス。総員揃ったグレイブ隊と同等の規模と言える。

それを広い範囲で探索する為とはいえ、ただでさえ数で劣る方が隊を分割するのは、各個撃破を望んでいるとしか思えない

下策だ。

普通ならば。

我等グレイブ隊ならば、相手が大国の正規軍の中隊であろうと、分隊規模で足止めが可能だ。

その間に合流して小隊規模での反撃に移れば、制圧は難しくない。…これは自慢でも過信でもない。ただの事実だ。

現在、分けた隊はさらに北側と南側を西に向かって索敵している。

その中央を、私は一人で行く。

二手に分けたどちらの隊が対象を発見しても、いち早く駆け付けられるルートを。

当然、単独で索敵している私が遭遇する可能性も均等にあるのだが、この場合は南北から同時に隊員達が駆け付ける為、最

も早く隊を整える事ができる。

普段以上に激しく舞い踊り、悪意すら持っているかのように体を叩く雪。しかしそれも私の歩みを遅らせるには至らない。

どのような悪環境の中でも確実に任務を遂行する戦力…。私はそんな存在として生み出されたのだから。

それにしても、今日の吹雪き具合はなかなかに派手だ。普段の三割増し程に。

今朝耳にしたスコルの軽口が、黙々と単独で雪中行軍する私の耳に、不意に蘇る。

…この荒れ具合が私のせいだという事は、有り得るだろうか?奇行とやらのせいだという事は?

とりとめもなくそんな事を考えていた私は、首輪に触れて唇を動かさず「声」を出す。

『こちらハティ。どうした?』

隊員からの通信を受けた私の喉、その声帯の動きを感知し、首輪は向こうへと私の問いを飛ばす。

外気ではなく、首輪と接触している首から肉体を通して鼓膜に声が届き、内容を聞いた私は眉根を寄せた。

『予定通りに作戦行動を継続せよ。私が何とかする』

応じた直後、私は体温を調節しつつ北に向き直り、即座に疾走を始める。

あの新入りが、行軍中に行方不明になったそうだ。

配備直後の一度目の出動で早くも遭難とは…、なかなか出来ない事を簡単にやってくれる。スコルの言うとおり、いずれは

大物になれるかもしれない。

この吹雪の中、生きていればの話だが。



急ぎの為、詳しい事情は聞かなかったものの、あの新入りは「気が付いたら居なくなっていた」そうだ。

分隊で対応し切れずに私へ連絡が来ている以上当然なのだが、本人へ呼びかけの通信をおこなっても、応答は一向に無い。

それでも、あちらの分隊が定期的に人数確認していたおかげで、少年が隊とはぐれたおおまかな範囲は判る。

首輪を操作し、外に聞こえない音声ガイドで座標を確認しつつ駆け回る事三時間。

日没間際の暗い白の中で、私は行く手に小さな雪の盛り上がりを見つけ、速度を緩めた。

…手遅れだったか?

そう思いながらも、私はこんもりとした雪の傍らに白い噴煙を巻き上げながら滑り込む。

雪を掬うようにして両手を突っ込み、埋まっていた物を引っ張り出せば、現れたのは、雪まみれの小柄な猫。

意識はない。息もしていないが、凍ってはいない。

私は少年を仰向けに寝せると、分厚い防寒着に覆われたその胸に、広げた右手を当てた。

手を当てた胸の奥に存在する少年の心臓。それが伝える弱々しい鼓動の感触…。心停止直前だな。

その惰性で動いているだけの微弱な拍動から正確な位置を把握した私は、慎重に出力を調整し、意識を集中させる。

直後、少年の体が小刻みに震動し始め、その周囲で、砕けて小粒になった乾いた雪が舞い上がる。

本来の使い方では無いが、私は能力の応用によって、心肺停止状態に陥った者を蘇生させる事ができる。

これまでの経験上、蘇生成功率は電気ショックよりも遥かに高い。

ただし、あくまでもショック療法である事に変わりはなく、傷を癒す希少能力者のそれには遠く及ばない。

刺激を与えて無理矢理再活性化させるだけで、決して損傷を修復できる訳ではないのだ。

私が蘇生作業に入ってほどなく、少年は「かふっ…」と、弱々しく咳をした。

鼻孔に入り込んでいた雪の小さな塊が飛び、口元から漏れた唾液が即座に雪を纏って白く凍る。

蘇生は成功した。が、低体温による生命の危機は、依然として少年の首に手を掛けたままだ。

すかさずひっくり返して小脇に抱えた私は、合流するにも距離がある事を鑑み、適当な場所を見繕ってビバークする事に決

めた。



『…無事とは言い難いが保護した。容態確認はこれからだが、少々厳しいかもしれん』

通信機で救助成功の報を副官に告げた私は、脱いだ上着にくるんだ少年を見遣る。

狭いスペースで俯せになっている私の横では、弱々しい呼吸を繰り返す少年が仰向けに横たわっている。

少年の首に巻かれたチョーカー型の通信装置は、やはり壊れていた。

おそらくは、小型化の代償として耐久性が犠牲になってしまったのだろう。

良かれと思ってあてがわれた新型通信機だったのだろうが、ついていない。

もっとも、グレイブ隊に来た時点で十分ついていないのだが。

少年の容態は、控え目に言えばあまり良くない。正直に言うとかなり悪い。

うずたかく積もった雪に穴を掘って雪壕を拵え、中に寝かせたものの、風と雪を避けていくらか温度が上がったとはいえ、

元々極端に肉付きの無い細身が災いしてか、失われた体温が戻らない。

簡易雪壕は高さ1メートル弱の横穴型で、私と少年がギリギリ収まる程度のスペースしかない。温度を上げやすいよう出来

る限り狭く作ったせいだ。

このまま死なれるといささか困る。

私はまだ、彼に訊いていないのだ。

線の細い少年の体温の低下を抑えるには、脱いだ上着を着せてやるだけでは足りないようだ。

そもそも私の上着は、動きやすさを重視し、防寒性能を大幅に削ってある。

寒さに強い私の装備は、こんなケースではあまり役立てられない特別製だ。

私は上半身に纏う物を肌着まで全て脱ぎ、意識のない少年に被せる。

私自身は被毛を寒気にさらす半裸となるが、雪壕内では苦にならない。

襟元から指を入れて首に触れ、少年の体温を確かめるが、芳しくない。

これでも足りないのか…。では、上にいくら着せた所でどうしようもない。

ある手段を思い浮かべ、しばし効率を計算した私は、その手段を選択すべきだという結論に至り、早速実行に移す。

少年に被せた私の衣類を取り除き、仰向けになった私は、自分の上に少年を俯せに寝せた。

その上に私の衣類を改めて被せる。

要するに、私と衣類で少年をサンドイッチにする恰好だ。

軽い少年の体は、脂肪が分厚くついた私の腹や胸に僅かに沈む。密着した方が効率が良いので好都合だ。

衣類を被せた上からしっかりと両腕で抱き締め、体温を上げる。

私と少年の接触面は瞬く間に温度を上げ、少年の上にかけた私の衣類が、逃げてゆく熱を足止めする。

万が一敵に感知されては困るので抑えていたが、この状況では仕方あるまい。ついでに…。

私は少年の上に被せたジャケットをまさぐり、中に収めておいたレリック、ライトクリスタルを取り出して、天井付近に漂

わせて弱めの光を放たせる。

クリスタル自体は全く熱を発しないが、狭い雪壕内で反射する光は、微弱ながら熱を与えてくれる。

狭い雪壕は、クリスタルの無機質な光で一気に明るくなった。

機能に支障が出ない程度で体温を上昇させ、それを維持したまま待つ事数時間。

日付も変わり、夜明けがじりじりと近付いた頃。私の上で俯せになっている少年は、ようやく微かな呻き声を漏らした。

胸に埋めさせていた顔が僅かに上がり、薄く開いた目が私を映す。

ぼんやりとした焦点の合わない目は、しかし徐々に焦点をあわせ、やがて…、

「ひっ…!ひぃいいいいいっ…!」

少年は、か細くて高い悲鳴を上げた。

「落ち着け。私が判るか?」

弱々しくもがく少年をしっかり押さえて問いながら、私は違和感を覚えた。

錯乱している。

恐慌状態特有の脈の乱れと、過呼吸に近い程浅い息が荒れているのが感知できた。

ガタガタと震える全身のきめ細かな毛を逆立て、ろくに動かない体で必死にもがき、逃れようとしている。

怯える?何に?

逃げる?何から?

それは状況を鑑みれば自ずと判る事だった。

少年以外の存在は、この場には私しか居ない。

だが、ベース内ならばともかく、この状況で自由にさせてやる訳には行かない。

私は少年の弱々しい抵抗など意にも介さず、しっかりと腕を締めて動きを奪う。

意識が戻った事は良しとして、錯乱状態で外に飛び出されでもしたら面倒だ。

少年を抱えて動きを封じたまま、私は問う。

「落ち着け。何故私を恐れる?」

思い返せば朝もそうだった。

揺り動かし、起こそうとした私に見せた、目覚めたばかりの少年の反応…。

あれもそう。驚きなどでは決してない、明らかな怯えだった。

今もまた強い怯えに囚われている少年は、ひぃひぃとか細い悲鳴を漏らすばかりで、私の質問に答えない。

大きく見開いた目で私を見つめ、非力な腕を精一杯動かし、束縛から逃れようとしている。

怯える理由には皆目見当も付かないが、何とか落ち着かせなければ…。

まだ聞いていないのだ。

このまま外に出て行って死なれでもしたら、いささか落ち着きが悪い。

とりあえず「落ち着け」と繰り返し言い聞かせる私は、名前が無いのは不便だと心底思いつつ、少年に語りかける。

M10、冷静になれ。ここに敵は居ない。私と君の二人だけだ。私は敵ではなく、無論君も君にとっての敵とはならない。

敵が居るのは外だけだ。その敵たる風雪も、ここには入って来られずにいる。落ち着け
M10、私がついている」

最後の一言に力を込め、私はより強く少年を抱き締めた。

肺の空気が絞り出されるややきつい抱擁で苦痛を覚えたか、少年は喉を鳴らして息を吐き出しつつ、急に大人しくなった。

苦痛は時に、多少なりとも冷静さを取り戻させる薬となる。

頬を叩いてやっても良かったのだが、抱えて押さえ込んでいるこの状態では締めつける方が手っ取り早かったのだ。

「判るかM10?私だ」

腕を少し緩めながら問うと、少年は小さく頷いた。

「ちゅ、中尉…、あの…」

「あまり喋るな。まずそのまま聞け」

状況が判らなければ混乱も静まらない。何か言いかけた少年を制した私は、現在の状態について簡単に説明する。

その間にも少年は私から離れようとしたが、説明しながら腕を締め、逃れようとする動きを阻んだ。

「目下風雪は強まり、君を連れた状態での移動は困難だ。探索は他の者に任せる。我々はこの場でビバークを続け、吹雪が収

まるのを待つ」

意識が無かった少年の低体温を防ぐために密着し、私の体温を上げて対応している旨も含めて状況説明を終え、行動方針を

伝えた私は、「何か質問は?」と訊ねる。

私の上に居る少年は、「いえ…」と呟いて顎を引いた。

諦めたのか納得したのか、もはや逃れようとはしなかった。

「では、私から質問だ」

私は首を起こし、顔を上げた少年の目を見据える。

「生きたいか?」

私の問いを耳にした少年は、戸惑った顔になり、答えない。

「生き残りたいか?」

繰り返し訊ねると、少年はしばし間を開けてから、弱々しく頷いた。

その、あまりにも小さく弱々しい首肯は、生きようという積極的な気迫が感じられるような返答ではなかった。

それでも私は、彼の意志を確認する事ができた。

「ならば死なせない」

私の宣言を聞き、少年は不思議そうな顔をする。

「生きたいのなら、生きた状態で連れ帰る」

ようやく、少年の「声」を聞く事ができた。

北原は極めて不寛容で、慈悲の顔など簡単には見せてくれない。

そしてその慈悲は、弱き者には決して向けられない。

もっとも、それはこの世界全体にも言える。

不寛容で理不尽で残酷な世界の中で怠惰と快楽、そして退屈という最大の幸福を享受できているのは、限られた僅かな国々

だけに過ぎない。

多くの土地と場合では、弱者は虐げられる境遇にある。

この少年は間違いなく弱者だ。だがそれでも、生きたいという意志を持つなら連れ帰ろう。

北原に見逃して貰えるよう、上官として私がかけあってみよう。

「中尉…、どうして…、助けてくれるんですか…?ぼく、お荷物なのに…、どうして…。任務まで…放り出して…」

「君は私の部下だ」

妙な質問をされ、訝しく感じながらも、私はすぐさま答えた。

ところが、少年は私の返答に納得しなかったのか、「部下だから…?どうして…?」と、質問を重ねた。

「「部下だから」が理由ではダメなのか?それ以外には理由など無いぞ」

死にたいとも生きたいとも思っていない私だからこそ、部下の命ぐらいはできるだけ守ってやるべきだろう。

そこに複雑な理由も事情も無い。説明など求められても困る。

強いて言うなら、敵も殺さないよう努めているのに、仲間を死なせるようでは甚だおかしい。

自身の行動に一貫性を持たせるには、部下も死なせないようにすべきだと思うだけだ。

「それと、勘違いしているようなので言っておくが、任務を放り出してはいない」

私はそう言って、不思議そうな目になった少年を見つめる。

「私は優秀な部下に恵まれている。小隊長一人居なくとも問題なく任務を遂行できる、優秀な部下達にな」

続けた言葉に、少年は少し目を大きくした後、視線を逸らした。

「ぼく…、最初の任務なのに…、迷惑かけて…」

「その事は考えるな。挽回の機会はいくらでもある」

告げた私はふと思い直し、付け加えた

「ただし、別の事なら好きなだけ考えろ。眠らないように」

そのまま「眠ったら死ぬぞ」と言いかけたが、止めておいた。無駄に怖がらせる事もあるまい。

もっとも、彼が眠そうにし始めたら、脅しに言って目を覚まさせるかもしれないが。