お忍び調査(前編)

「はいマユちゃん。おまちどぉさまです!」

艶やかで美しい、肩の高さまで伸びた黒髪をポニーテールに纏めた女子高生は、屈み込んで私の前にお皿を置きました。

私はニャアと鳴いてアケミちゃんにお礼を良い、夕食に取りかかります。

今日の夕食はキャットフードです。盛んにCMで流れているヒット商品で、猫の味覚ではそれなりに美味に感じられます。

散歩兼見回り中に塀の上から民家の営みをちょくちょく覗く私は、住所不定無職かつ猫の身…有り体に言うと野良猫の身で

ありながら、報道やテレビ番組にそこそこ詳しかったりします。

駅付近のゴミ箱を漁れば捨てられている新聞も読めますし、一般情報の収集手段には不自由していません。

まぁ、調停者の話をこっそり立ち聞きさせて頂いたり、タネジマさんが居る交番へ夕食をねだりにゆきつつ緊急呼び出しの

有無を確認したりと、無害そうな猫の姿を武器に堂々と非合法な真似もしておりますが…。

…野良猫暮らしも板に付いて来たものですねぇ…と、我ながら感心してしまいます…。

カルマトライブ調停事務所の居住フロア、そのリビングは、主達が帰って来なくなって六ヶ月半が過ぎた今も、全く汚れて

いません。

それは、アケミちゃんが週に三日以上の頻度でやって来て、丹念に掃除してくれるおかげです。

彼女はいつも学校帰りに寄るので、時間はほぼ決まっています。

その時間に合わせて事務所を訪問する私は、その都度彼女から栄養のある食事を頂いているのです。

…もっとも、初めの頃はそれなりに大変でした…。

向上心のあるアケミちゃんは、料理の腕を磨いている真っ最中。私にもお手製の食事を用意しようとしたのです。

お皿に背中を向けて座るという、態度で示す辞退を続けている内に、諦めてキャットフードに切り換えてくれましたが…、

「動物も食べないなんて…」と、へこんでいました。

無茶言わないで下さい。「動物だって大切な命」です。

成績は極めて良く、スポーツも得意で、性格も全く難が無く、おまけに国内屈指の大財閥の娘であるアケミちゃんは、神が

バランスを考慮したのか悪魔が難癖付けたのか、奇跡のような料理の腕を持っています。…悪い意味で。

先日、上から見れば完璧な目玉焼きを作った際には、ようやく人並みに達したかと、私も我が事のように喜んだものでした

が…、裏面が不毛の荒野でした。というか焦土でした。真っ黒な。

表面部分の見た目は完璧でありながら、その内部90パーセントは消し炭という、もはや通常のガスコンロとフライパンだ

けでどうやれば作れるのか判らないほど凄まじい目玉焼きは、皿に移す際に表層部を残してバサッと崩れ落ち、キッチンの床

を物凄い状況にしてしまいました。

まさに、目玉焼きの皮を被った悪魔でした。

咄嗟に飛び退いた物の、完全には避けられなかった私は灰色になり、アケミちゃんも悲鳴を上げていました。

いささか度を超して焦げ臭いとは思っていましたが、もしももう少し強度があったなら、アケミちゃんは初の成功に大喜び

しながらあの皆既日食サイドアップを食し、悶絶していたはずです。…くわばらくわばら…。

自分の腕を重々承知しているアケミちゃんは、しかしその凄まじい自らの料理を試食し続けているせいか、最近、明らかに

味覚がおかしくなって来ています。

料理は上達していないのに不味いながらも食べられるようになったという事実が、彼女の舌がいけない方向へ進化してしまっ

たという事を裏付けています。

早めに料理の腕を上げないとさらに進化…つまり悪化する一方でしょう。腕も味覚も。

かくいう私は、当然ですが彼女に料理指導などをする事はできません。

表向きはただの白猫ですから。

料理などは学校の実習で学んだ程度で、好きでも得意でもありませんが、それでもアケミちゃんよりはマシです。あんな目

玉焼きはどうやっても作れませんし。

さて、一応この辺りで近況報告でも…。

梅雨も目前となったこの季節、アケミちゃんの高校生として最後の一年は、表向きは順調に送れているようです。

同時に、出席日数ギリギリで留年を免れたアルも、どうにか三年生となっている訳ですが…、あの子は最後の一年となるか

激しく微妙です。今年こそダブりそうで。

今年は前にも増して仕事にかこつけてサボりがちらしいので、出席日数が足らなくならなければ良いのですが…。

しかし、二人がこの春に高校三年生のスタートを晴れやかに迎えられたかというと、そうでもありません。

特にアケミちゃんは…。

能力者であるアケミちゃんは、これまでカルマトライブの二人に監視役をして貰っていました。

そのおかげで気は楽だったでしょうが、今は面識の無い不特定の調停者達が代わる代わる監視しているので、以前ほど心の

自由はありません。

二人が居なくなった事は、こんな所にも影響を与えているのです…。

気丈に明るく振る舞っているアケミちゃんですが、猫の私の前では、時々心細さを吐露します。

そんな時、慰めの言葉をかけられない私は、彼女に寄り添って手首に頭を擦りつけるしかありません。

そんな時は、白猫である自分の身が恨めしく思えたりもします…。

「マユちゃん、そろそろ帰りますよ?」

しばしあって、部屋の掃除を終えたアケミちゃんは、帰り支度を整えて私にそう声をかけました。

後ろについてドアを潜り、彼女が施錠したのを確かめてから階段を降り、事務所前でお座りした私に、

「おやすみなさいマユちゃん。次は週明けに来ますからね?」

私が言葉を理解しているとは思っていないでしょうが、それでもアケミちゃんは人間の友達に語りかけるように、私に別れ

を告げます。

斜陽に照らされた歩道に行儀良く座り、ナァオと短く鳴いて応じた私は、微笑みつつ手を振ってから歩き出した彼女が角を

曲がるまで見送り、事務所を見上げました。

夜には雨になるようです。海側から押し寄せた雲に覆われかけている空は、朱色と灰色が領域を争うようにして混じってい

ます。

灯りの消えた事務所の窓は、そんな空と比べても寒々しく暗く、見ているといたたまれない気持ちになります。

以前は夜中まで、時には明け方まで、灯りがついたままだったリビングの窓…。

タケシさん…、ユウトちゃん…、何処でどうしているのですか?…皆、寂しがっていますよ…。

…!?

歩道にお座りして赤い瞳で事務所を見上げていた私は、弾かれたように腰を上げ、即座に動ける体勢に移ります。

何か…大きな何かが動く気配…!

事務所脇の、路地とも呼べない1メートル程度の隙間に、何かが潜んでいる!

いつから!?私が気付けないなんて…!

危機感よりも驚愕で身構えた私の鼻が、向きが変わった風に乗る匂いを嗅ぎつけました。

…この匂い…。まさか?いえ、そんなはずは…。

戸惑う私の視線の先、事務所の脇から、ぬぅっと、夕焼け空にも負けない鮮やかな赤銅色の顔が現れました。

「…久しいな、マユミさん」

地面から2メートル半はある高い位置で私を見下ろすその顔が、声を潜めて話しかけて来ました。

…ユウヒさん!?

驚きのあまりウニャア!と声を上げてしまった私は、予想もしていなかった不意打ちの再会に、すっかり混乱していました。



「驚かせてしまって申し訳ない。今回は極秘の来町故、ああして事務所から出てくるのを待たせて貰っていたのだ」

事務所の裏、建物と建物の間の狭苦しいスペースにミッチリと収まった…というかムッチリはまっている巨熊は、再会の挨

拶を交わした後、事情を説明し始めました。

事務所に入れば良いのにと思ったら、そうも行かない理由がおありだそうで…。

何でも、今この町に居る事は、なるべく知られたくないそうなのです。

というのも、調べている事すら知られる訳には行かない極秘の調べ物があるからだそうでして…。

アケミちゃんにも事務所を綺麗にしてくれているお礼を言いたいのだそうですが、彼女と接触するのもまずいそうです。何

せ彼女には調停者の監視が付いていますから。

事務所の中に入らないのも、監視装置に開閉の痕跡を残さない為だそうです。

「調停者の皆様方と顔をあわせる訳には行かず、義姉夫妻の家にも挨拶に寄る訳には行かぬのでな…」

そう呟いた小山のような巨熊は、幅のありすぎる身体が完全に壁と壁に挟まれており、酷く窮屈そうです。

屈んだユウヒさんの両腕と肩、太腿と腰の両側、横へも大きくせり出た脇腹や大きなお尻は、側面の壁に接していない部分

などありません。

大きく出たお腹は屈んで曲げた太腿に押されてぐっとへこんでおり、やや苦しそうです。

…この窮屈な状態で行き止まりの壁っぽくなりながら私に事情を説明しなければならなかったのは、お忍びだったからなの

ですね…。

しかしその窮屈そうな状態でも、ユウヒさんは私にビーフジャーキーのスティックを寄越し、ご自分はチョコレートでコー

ティングされた細いスティック菓子を食べておられます。

…なにもこんな所で物を食べなくとも…。相変わらず健啖家でらっしゃいます。

それにしても…、市街地での隠密行動にこれほど向かないひとはそうそう居ないでしょうね。

鮮やかな赤銅色の被毛に覆われた、極めて恰幅が良い、身の丈2メートル半を越える飛び抜けた巨体…。

威風堂々たる大きな大きな熊の獣人は、歩き回っているだけでどうしようもなく人目を引きますから。

目立たないようにというせめてもの配慮からでしょうか?今日は微かに青みを帯びた黒い作務衣に身を包んでおられますが、

その程度で目立たなくなる事などできないでしょうに。

ここへ来るまでも、一体どれだけ人目を引いたか…。隠密行動できているのか極めて疑わしいと思っていると、ユウヒさん

は私の疑問を察して口を開きました。

「ここまでは問題無い。山間部から時にビルの屋上などを通り、時に民家の庭に身を潜めつつ、三時間がかりでやって来たの

でな」

犬などには吠えられませんでしたか?

「そこは抜かりない。庭の警護に励む忠犬達には、その都度怪しい者では無い旨真摯に説明しつつ庭先を失礼して来た故、こ

れといった騒ぎも無かった」

…前々から思ってはいましたが、つくづく常識で計れない方です…。

ところで、極秘なのに私には接触しても良いのですか?

「此度の調べ物について、貴女に話を聞きたいというのもあったのでな」

私に訊きたい事…ですか?

人間のように首を傾げた私に、ユウヒさんは重々しく頷きました。

「その事については、場所を変えてじっくり話したいのだが…、身元を確認されぬ宿泊所などに心当たりは無いだろうか?」

…宿泊施設に泊まる気なんですか!?隠密行動なのに!?

「俺の図体では、街中で野宿しよう物なら目立って仕方がない。廃屋という手も考えたが…、調停者の巡回に引っかからない

ようにするには、宿泊施設の方が都合が良いのでな。受付手続きで姿を見られる事になろうが、上手い誤魔化しの方法につい

ては策がある」

自信ありげにそうおっしゃったユウヒさんは、野球のグローブを思わせる大きな手に乗せた、スティック菓子の箱を見つめ

ます。

…何故でしょうか?菓子箱を見つめるユウヒさんの様子を眺めていたら、私はちょっと嫌な予感を覚えました。



ユウヒさんは大きなスポーツバッグを肩に吊るし、脇に抱える恰好で、人通りの無い路地を行きます。

私が知る、身分証明書等が必要無いホテルへ通じる道です。

部屋はかなり狭いと念を押しましたが、ユウヒさんは雨露に濡れず話が出来るだけで良いとおっしゃいました。

それはどうやら、自分のためというより私に配慮しての事らしいです。

分厚い雲に占領された空は、いよいよ泣き出しそうです。

雨に濡れながら長話に付き合わせるのは心苦しいというユウヒさんの気遣いが、有り難く、くすぐったく感じられます。

目指すホテルにはペット同伴云々の注意書きは出ていないのですが、堂々と入るのは躊躇われるので、私はバッグの中に隠

れています。

着替えや携帯食料などが詰め込まれたバッグの中には、ユウヒさんの匂いがこもっていました。

洗ってもなお落ちない、繊維に染み込んで残る微かな体臭…。

ちょっと顔を火照らせつつ息を殺す私は、路地の突き当たりで足を止めたユウヒさんの「ここかね?」という声に、尻尾で

バックの内側を叩いて応じました。

ユウヒさんはバッグのジッパーを完全には締めず、私が進行方向を覗き見る事ができるよう少し開けてくれているのでバッ

グに潜みながらも前の様子を確認できます。

ユウヒさんが見上げるそれは、薄汚れたビルとビルに挟まれた、隣のビルとの隙間がない、同程度に薄汚れたビルでした。

六階建てなのにやけに細くてノッポなこのビルは、1フロア2ルームのホテルになっています。

正面からの見た目は、本棚に収まった事典とでも言えば良いでしょうか?左右から挟まれる事で支えられている板…。見て

いるとそんなイメージが沸いてきました。

ユウヒさんがのっしのっしと近付き、ドアの前で足を止めると、モーター音とガタガタと揺れる音、そしてレールと擦れる

音を盛大に鳴らして、自動ドアが歓迎してくれます。

受付でもありオーナーのお住まいでもあるビルの一階。そこのカウンターでは、総白髪の老婆がスポーツ新聞を読んでいま

した。

自動ドアがうるさいので客の来訪を知らせるチャイムなどは要らないのでしょう、ピンポンともビーッとも鳴りません。

面倒臭そうに新聞から目を上げ、入ってきた客に視線を向けた老婆は、驚いたように目を大きくしました。

それはそうでしょう。ユウヒさんほど大きなひとと出会う事はまずありませんから。

ユウヒさんがのっしのっしとカウンターに歩み寄ると、老婆は驚きの表情を消して疑わしげな顔つきになります。

「宿泊させて頂きたいのだが、部屋に空きはありますかな?」

ユウヒさんの身長だと、肩から吊ったバッグもかなり高い位置にあります。私はバッグの中に居ながら、老婆の鼻から上を

見ることができました。

老婆はジロジロと無遠慮な視線でユウヒさんを眺め回しますが、その目には感嘆の色が浮かんでいます。

ただただ大きい。それだけの事でもひとは感動できるものです。

ましてやユウヒさんは、かなり肥っておられるとはいえ、堂々としており威厳に満ちた佇まいの偉丈夫です。

その姿を目にした多くのひとは、どっしりと佇む山を見たような感動を覚えずにはいられません。

しばらく眺めてある程度満足したのか、老婆はぶっきらぼうな口調で掠れた声を発しました。

「一泊五万だよ。前金でね」

「承知した」

訳ありの客を無条件に泊めるこのホテルは、当然金額もぼったくりです。

しかし、前もって私から聞いて知っていたユウヒさんは、驚くでもなく頷きました。

…もっとも、事前に知らないまま突然この金額を告げられても、この大きな熊は全く驚かなかったかもしれませんが…。

ユウヒさんは懐から取り出した蝦蟇口から、二つ折りになった一万円札の束を抜き出し、カウンターに置きました。

それを取った老婆が数える様をこっそり覗いていると…、あれ?十枚ありますよユウヒさん?二泊予定ですか?

「名前書いて」

金額を確認した老婆がカウンターに宿泊者名簿を広げます。…宿泊者名簿と言っても、大学ノートですが…。

ジッパーの隙間から覗き見たところ、記してある名前は大半がアルファベットで、日本人の名前は殆どありません。…もっ

とも、全部偽名でしょうけれど…。

宿泊者名簿といっても、どの客が何号室に居るとオーナーが把握する為だけの物です。

身分証明の確認もありませんし、身元を調べようとも思わないようですから。

カウンターに転がされた安物のボールペンを摘むと、ユウヒさんは空欄に偽名を書き込み始めました。

「ぽっきぃ…くましろ…、と」

ユウヒさぁああああああああああああああああああああああああああああああんっ!?

ジッパーの隙間から見える宿泊名簿には、ひらがなで記された「ぽっきぃくましろ」の文字。ボールペンでも達筆です。

思わず「ウニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」と声を上げてしまった私を…つまり

私が潜むスポーツバッグを、老婆は疑わしげな視線で見つめて来ました。

「失礼。腹の虫が…」

ユウヒさんは取り乱した様子も無く、いつも通りの落ち着いた声でそんな事を言います。

…私は腹の虫ですか…。

「…体の割にずいぶん可愛い腹の音だね…」

少し間を開けて老婆が発したのは、とても疑わしげな声です。

が、彼女はそれ以上詮索しませんでした。

老婆がテーブルの上に鍵を置いたカチャンという音を聞き、身を強ばらせていた私は心底ほっとしていました…。



何なんですかあの偽名は!?

部屋に入ってバッグから出されるなり尋ねた私に、ユウヒさんは心底不思議そうに首を傾げて見せました。

「偽名という事で異国人らしい名前を考えてみたのだが…、もしや、何処かまずかっただろうか?」

異国人だったらひらがななんかで名前を書いたりしません!

っていうか作務衣を着て流暢に日本語を話すなんて何処の国の人です!?

一応名字と名前がひっくり返してあるっぽいですけれど、それにしたって半分本名じゃないですか!

それ以前に何でそう不思議そうな顔で「何処かまずかったか?」などと訊けるんですか!?何処かどころじゃなく何処もか

しこもまずいですよ!

…などなど、つっこみどころは満載でしたが、私はもう何だか疲れてしまって、それらの事に言及する元気がなくなってし

まいました…。

先程、お菓子の箱を見つめるユウヒさんを目にして覚えた嫌な予感は、この件についてだったようです…。まさかお菓子を

元に偽名を考えるなんて…。

…やや天然の気があるとは思っていましたけれど…、まさかここまでとは…。

先にユウヒさんが自信ありげに身元を誤魔化せるとおっしゃっていたのは、この「異国人だと信じて疑われないであろう非

常に良くできた偽名」を思いついていたからだそうです…。

「「くおぉたぁ」か「はぁふ」にはありそうな名前とは思わぬかね?ぶらぢる系の日系人という事ならば如何かな?」

ノーコメントです。…まったく…。

高いお金を払ってあてがわれた部屋は、畳に換算して五畳半といったところでしょうか。

入り口付近に僅かに床があるだけで、奥側の壁までの大半をベッドが占拠しています。

ベッド自体は相当大きいのですが、並外れて大きなユウヒさんの場合は、足を伸ばして寝る事はできそうにありません。

ベッド脇の狭い床に正座したユウヒさんは、早速バッグを開けてモソモソと中をまさぐり、茶色い紙包みをいくつか取り出

しました。

包装されていたのは、七輪と小振りな鍋、そしてお椀やお玉などでした。

「早速で済まぬが話をしたい。保存食で恐縮だが、食事しながらでも…」

てきぱきと七輪をセットしつつ、ユウヒさんはそうおっしゃいました。



ホテル内の自販機で買ったペットボトル入りの名水を火に掛け、持参した小さな丸い壷に入っていたニンニク入りの味噌を

溶き、捏ねた米を固めて乾かしたチクワのような保存食…つまりキリタンポと燻製肉、こおり豆腐をくべて、火の通り具合を

確認しながら、

「…という訳で、俺が今この町に居る事は、屋敷の者しか知らぬ」

細い床スペースに私と向きあって座ったユウヒさんは、神妙な顔つきでそうおっしゃいました。

「俺がこの件について調べておるという事自体、公には出来ぬ理由があってな…」

公にできない…?それは、その事について調べるのは、神将としての立場上まずいという事なのですか?

「いかにも。いや、慧眼恐れ入る」

ユウヒさんは顎を引いて頷きました。

そこまで慎重に、しかも極秘に調べたいというその事は…、一体どのような事なのでしょう?

「うむ。単刀直入にお尋ねするが…、マユミさんは、逆神という言葉をご存じかな?」

ユウヒさんは少し声を潜め、一段と低くしてそうおっしゃいます。

…サカガミ…?いいえ、存じませんが…。それは何でしょう?

「いや、ご存じ無ければそれで良い。…端的に言うならば、そう…、神将と祖を同じくする、神将の天敵…となろうか…」

神将の…天敵ですって?それも、同じ祖を持つ!?

「かつては存在しておったのだよ。そんな輩も」

少なからず驚いている私に、ユウヒさんは重々しく頷きながらそう付け加えました。

「だが彼らは既に滅ぼされており、現在は一人たりとも残ってはおらぬ。…そのはずだった」

はずだった…とは?

私のその問い掛けに、ユウヒさんは即答しませんでした。

お玉で具を掬ってお椀に取り分ける大きな熊の顔は、深く考え込んでいるようにも迷っているようにも見えて、しばらく間

があいてもなお、私は先を促す事ができませんでした。

私とユウヒさんの間でクツクツと鍋が音を立て、強い味噌の香りをうるさい換気扇に向けて吐き出しています。

「…マユミさん。妙な伺い方をするが…」

しばしあって、お椀を私の前と自分の前に置いてから口を開いたユウヒさんは、なおも迷ったように一度口を閉ざし、一拍

開けてからおっしゃいました。

「俺と良く似た熊を、見た事はあるだろうか?」

……………。

ユウヒさんに似た…熊…?

同じ祖…。

神将の…天敵…。

私の脳裏に、ユウヒさんが東護を去ったすぐ後、二月のある夜の光景が浮かび上がりました。

インバネスコートを纏う、とんでもなく大きな熊…。

バイザーで双眸を覆い隠した赤銅色の熊の姿がはっきりと思い出され、私はしばし身じろぎもせず考え込みます。

…似ていた。確かにユウヒさんと良く似ていました。

着けていたバイザーのせいで顔立ちははっきり判りませんが、広い額、がっしりした顎、太いマズル、ふっくらした頬の張

り具合…、見えていた部分だけでも顔立ちから骨格から…、かなり近い…ような…?

さらにはあの巨体。コートを纏ってもなおフォルムを隠しきれない、極めて恰幅が良い体付き…。かなり肥っていながらそ

の頑健さがはっきりと判るあの体格も、ユウヒさんと良く似て…。

何より、月明かりの下で見たあの鮮やかな赤銅色の被毛は、夜闇の中で見るユウヒさんと全く同じ色…。

そして何よりもユウヒさんと近く感じられたのは、去り際にある素振りを見せられた時でした。

彼は、見抜いていました。

彼が私を振り返った最後の一瞥…、バイザー越しではあったものの、あの眼差しには「気付いている」という意味が込めら

れていると感じました。

彼は間違いなく、私が普通の猫ではないと看破していたはずです。

状況などから推理して正体に辿り着いたタケシさんを除けば、私の正体を見破ったのはユウヒさんだけでした。

ところがあの巨熊は、ユウヒさんと全く同じに、初見で見破ったのです。

「…貴女も…見たのだな?」

あの夜の光景に思いを馳せ、返事をしていなかった私に、ユウヒさんは静かにそう確認して来ました。

…はい。良く似た、極めて大柄な…。そう、ユウヒさんと体格から体の色まで良く似た熊を、一度だけ見た事があります。

「マユミさん。それはいつ…」

…ちょっと待って下さいユウヒさん。…「貴女も」…?先程、貴女「も」とおっしゃいましたか?

「うむ。話が前後してしまうが…、二月の事だ。ぶるぅてぃっしゅのエイル嬢が遭遇し、矛を交えたらしい。…結果的には手

もなく武装解除させられたそうだが…。その事をダウド殿から窺ったのでな。…最初はそう気にしてもおらなんだが、あの御

仁にしては珍しく何度も確認して来る物で、いよいよ気になってな…」

それを聞いた私は、そっくりな熊を見たのは同時期、エイルさんがこちらに滞在していた間だという事をユウヒさんに説明

します。

私とユウヒさんは手持ちの情報交換し、私とエイルさんが赤銅色の熊と出会ったのは同日…、ギルタブルル討伐作戦が決着

を見た夜の事だという結論に至りました。

「…そうか…。それほどそっくりであったか…」

ユウヒさんはお椀を口元に寄せ、箸を突っ込んで掻き回しながら呟くと、ハフハフ言いながらキリタンポを咥えます。

入念に冷ましつつ食べ時を窺う私は、思い出しながら深く頷きます。

気配はまるで違いました。その…、上手く説明できないのですが、ユウヒさんとはまるで違っていて…。

私はあの感覚を思い出します。

ユウヒさんやダウドさんのような武人の気配とは著しく異なる、あの巨漢の極めて希薄な気配…。あれは、私が良く知って

いる人種に似ています。

暗殺者。

手練れであればあるほど殺気を、気配を上手く消す術に長けるあの人種と、とてもよく似た気配を持っていました。

その事を説明すると、ユウヒさんは口の中の物を飲み下してから、「むぅ…」と唸りました。

「つまりそれは…、歩法、呼吸、そして身ごなしが、俺とは大きく異なると?」

詳しくは判りません。私にはユウヒさん達のような武人の領域での判断はできませんし、まして彼の戦闘行為を目撃した訳

でもないので…。

「そうか…。いや結構、十分参考にできた。…しかし、にわかにきな臭くなって来おった…」

ユウヒさんはお椀にお代わりをよそいつつ、思慮に暮れるように眼を細めます。

雰囲気や気配が違う。そんな私の説明が参考になった?一体どういう事なのでしょう?

あの…、お伺いしたいのですが、ユウヒさんが今回の調べ物を極秘でおこなっているのは…。

「うむ。…逆神は滅んだ。先帝がそう宣言なされた事もあって、今その事について俺が調べるというこの行為には、己が身一

つでは片付かぬ少々複雑な意味がどうしても絡んで来てしまう」

そう切り出したユウヒさんが語ってくれた内容によれば、逆神が潜んでいた隠れ里を全神将が一斉に急襲したのは、二十年

以上も前の事だそうです。

その頃ユウヒさんは元服も済んでおらず、学生の身分だったそうですが、当時の神代…つまりユウヒさんのお父上がこの作

戦に参加したとか…。

その戦の決着をもって、数百年に渡る暗闘と因縁に終止符が打たれました。

この大戦の決着を皮切りに、神将達はそれまで己に架していたいくつもの戒めを解きました。

具体的には、逆神に引き込まれる怖れが無くなった事から、正当後継者以外にも婚姻が許され、分家する事が可能になった

そうなのです。

…ところがです…。もしも今になって、実は逆神が滅んでいなかったなどという事になったら…?

生き残りが居るかもしれないと、根拠も無く下手に騒ぎ立ててはいけない。…逆神の存在とは、それほどのタブーなのだそ

うです。

ましてや現当主の一人であるユウヒさんが直々に調べている事が公に知れ渡れば、噂がたつのは目に見えています。だから

こその極秘調査なのだとか…。

ここで少し気になった私は、ユウヒさんにお尋ねしてみました。

私にはそこまでおおっぴらに打ち明けてしまって良いのですか?と。

「こう見えても、ひとを見る目はあるつもりなのでな」

口元を軽く綻ばせ、柔和な笑みを浮かべたユウヒさんの返事は、少し遠回しで、とても嬉しい物でした…。

ついついその優しげな笑みに引き込まれ、胸を高鳴らせた私は、我に返って目を逸らしました。

…いけない…。このひとには奥様もいらっしゃる上に、生まれたばかりのお子様まで…。

気分が浮つきそうになる自分を戒め、私は努めて理性的な思考を心掛けながらここまでの話の流れを整理し、ユウヒさんに

お訊ねしました。

つまりユウヒさんは、私達が見たその熊が、逆神の生き残りかもしれないと疑っておられるのですね?

ユウヒさんは口元にお椀を運ぶ手を止め、軽く目を閉じます。

「能力、容姿、それに毛色…。ここまで似通っておる上に、マユミさんの正体を見破るとなれば…。いよいよ俺も、怪しいと

考えざるを得ぬ」

大きな熊は目を瞑ったままニンニク味噌の汁をずずっと啜ると、こんな事を言いました。

「我等神代が始祖は、鳥と歌い草木と語らう事ができたと言い伝えられている。そして、獣の囁きを聞く俺の洞察は、この被

毛と同じく始祖の血が濃く出た為の物と思うておる」

ゆっくり開けられたユウヒさんの目は、厳しい光を湛えていました。

「…他の情報だけならばここまで疑いはせぬが、マユミさんの正体に気付いたという話は無視できぬ。…いよいよもって疑わ

しい。その男…、かつて神代と袂を分かちし逆神…その末裔(すえ)やもしれぬ…」