お忍び調査(後編)

食事を終え、深夜になるのを待って外出したユウヒさんと私は、街路灯の守備範囲を避けるようにして暗がりから暗がりへ

と移動し、目的地を目指しました。

野良猫である私はともかく、大きな体を屈めて抜き足差し足、電柱などの陰へこまめに身を潜め(電柱などよりだいぶお太

いので全く隠れられてはいませんが)、人目を憚って動くユウヒさんのコソコソ振りはまるっきり不審者です。

極秘なので仕方ありませんが…、それにしても恰好がまるっきりマズいです。

黒ずくめの作務衣はともかくとして、頭にかぶった黒いほっかむりが輪を掛けて不審者振りを演出しています。

その恰好は泥棒を思わせますが…、いやいや、今時の泥棒はこんな分かり易い恰好などしていませんよね…。

この装備一式は、屋敷の若い方がこのために用意してくれた物らしいです。

ほっかむりの上部に穴があり、きちんと耳を出せるようになってはいるのですが…、この一式を用意したシバユキさんとい

う方…、耳出し穴付きのほっかむりを作るその気遣いを、もう少し別の方向で発揮する事はできなかったのでしょうか?

道の角などでは私が前に立ち、人通りを確認してから進みます。

人と出くわしそうになった時には、民家の塀を乗り越えて庭に無断侵入しつつ身を潜めたユウヒさんとは逆方向に動き、一

声鳴いて注意を逸らします。

私の首輪の鈴は、今はありません。

この首輪は元々普通の鈴付き首輪だったのですが、後に私の素性を知る調停者…タケシさんが加工してくれて、鈴部分は猫

の手でも苦もなく外せるようになっています。よって、隠密行動の際には鈴を外し、物音を立てずに移動できるのです。

慎重に、かなりの時間をかけて辿り着いた廃工場は、曇天の下に溜まった午前一時の闇に、その屍を沈めていました。

「ここがそうか…」

闇に目を懲らしながら呟いたユウヒさんに、私は頷きます。

ええ、あの工場敷地跡です。私自身が遭遇した場所はもう少し離れていますが、エイルさんが交戦したのはあの敷地内の一

角だったそうです。…ただ、当然現場は片付けられておりますから、痕跡が見つかるかどうか…。

「他に手も無し。調べるだけ調べてみよう」

迷う事もなくそう言ったユウヒさんは、もはや不要なのかほっかむりを取り払って懐に収めると、のっしのっしと工場跡地

に向かって歩き出しました。

不意に強くなり始めた海側からの風は、濃い潮の香りと強い湿り気を帯びています。じきに雨が降り出すでしょう。

不快な風を大きな体で受けながら歩みを進めるユウヒさんに、私は潮香に鼻をヒクヒクさせながらついて行きました。



結論から言うと、工場内をひとしきり巡ったものの、やはり逆神の存在を確信するだけの手掛かりを得る事はできませんで

した。

監査官達の調べで判っている、ギルタブルルが何度も叩き付けられたらしい部屋の床と壁を眺めながら、ユウヒさんはその

破壊状況を特に入念に調べておられましたが、「これだけではな…」と、首を左右に振りながら呟くのみでした。

灯りはありませんが、ユウヒさんがかざした手に灯す力場の淡い光が、現場を濃厚な闇から引っ張り出しています。

当時調停者達が発見し回収したアントの死体は、頭部から胴体までが、まるで高熱のスプーンで掬い取られたようにU字型

に消失していたそうです。

その話はユウヒさんもご存じだったらしく、似たような痕跡が周囲に残っていないか、ご自分の目で確認したかったらしい

のです。

アントソルジャーに刻まれていたという奇妙な消失痕…。そんな物を生じさせるものが、ユウヒさんが使われる神代の技に

もあるのですか?

あの夜コートの巨熊と遭遇した地点まで移動しながら尋ねると、ユウヒさんは顎の下を撫でながら「ふむ…」と唸りました。

「結論から言えば我等の技の型には無い。おそらくは、極々狭い範囲へ圧縮した高密度の力場を用いて焼き切るような物であ

ろうと、原理に察しはつくものの…」

一度言葉を切ったユウヒさんは、少し顔を顰めました。

「古くは鳴神家の始祖より初代神代に伝授された我等が技は、その後現在に至るまで、遺物の破壊を追求して磨かれ、独自の

変化を遂げて来た。されど、話に聞く蟻の亡骸の状態から察するに、その技は恐らく我等の物とは違う目的に添うよう磨かれ

た物であろうな」

違う目的…ですか?いえ、そもそもレリックの破壊を目的に磨かれる技という物と、現実にそれが存在しているという事が

まず驚きなのですが…。

「遺物の破壊という神代の役割についてはひとまず置いておくとして、俺が個人的に感じた印象を述べるのであれば…、蟻を

屠ったその技は、確実なる殺傷を追求し、研磨された物であろう」

…確実な…殺傷…?

寒気を覚え、ゾクリと背中の毛を逆立てた私の鼻に、ポツリと、雨粒が当たりました。

「降って来たか…」

ええ、急ぎましょう。そこの木立を抜ければすぐです。

「これは幸い。幾分とはいえ木々の懐であれば雨粒も和らごう」

空を見上げ、額に雨粒を受けたユウヒさんは、先導して小走りに駆け出した私の後を、大股について来ました。



私がコートの巨熊達と遭遇した場所にも、当然ながら何の痕跡も残っていませんでした。

夜更けの雨はいよいよ本格的になり、木の葉を叩く雨音が一層高まって来ます。

ユウヒさん。このすぐ近くに、ギルタブルルとマスターが潜伏していた地下道に通じる入り口の一つがあります。コートの

巨漢が中に入ったかどうかは判りませんし、降りてからも目的地まではかなり歩く事になりますが…、雨宿りがてら調べられ

ますか?

「うむ。…申し訳ない。降り出す前に済ませられればと思うておったのだが…、思いの外手間取ってしまった。マユミさんま

で濡らす羽目に…」

その辺りはお気になさらず。私は野良猫ですから、雨に濡れるのは日常茶飯事です。

再び案内を始めながら軽く応じた私は、時間がかかるのも無理がない事だと、改めて感じます。

調べている最中、ユウヒさんはとても真剣で、僅かな痕跡であろうと見逃すまいと、非常に注意深く観察しておられました。

その真剣さの中に、間違いであって欲しいと、逆神ではないと確信できる手掛かりが欲しいと、そんな望みが込められてい

たような気がするのは、私の思い過ごしではなかったはずです。

未だに逆神という存在がどれほどの物か実感できない私ですが、ユウヒさんの様子から薄々その強大さを感じ取っています。

…神将の天敵…。実体は見えず、しかしそれ故に薄ら寒い物を漂わせる逆神という言葉…。

私が遭遇したあの巨熊は、果たして本当に逆神だったのでしょうか?そして、彼と一緒に居た三毛猫…。彼は一体?

あの二人は、何らかの組織、あるいはそれらに類するような物に所属しているのでしょうか?



マスターが潜伏し、アントソルジャーやギルタブルルが管理されていた地下倉庫は、既に保管カプセルも撤去されてがらん

としています。

ここも当然ながら入念に清掃され、当時の痕跡は残っていませんが…。

広い空間のほぼ中央に立ったユウヒさんは、室内を見回して呟きました。

「黄昏は、このような場所をいくつも確保し、昨年末の事に当たった訳か…」

ええ。それでも、これまでに見つかったのは恐らく七割前後と言われています。

「ここ東護は、近い三陸のいくつかの土地同様、旧海軍の基地と工場があったと聞いておる。空襲と後の占領によって所在資

料等が失われた防空壕や地下兵器工場など、いくつもあろう…。さすがに首都の地下ほどでは無かろうが、この街の良くはな

い状況にも頷ける」

少し雨に濡れた額を毛繕いしていた私は、その発言内容に少し引っかかる物を感じ、前脚を止めてユウヒさんの顔を見上げ

ます。

私の問い掛ける視線に気付いたユウヒさんは、顎を引いて「あれから少し調べたのだ」と呟きました。

「鳴神家が守護する置縄でも、十数年程前までは、無数の組織がひしめく治安の悪い状況が続いておった。戦後の混乱がいつ

までも燻っていた結果だが、その歓迎できぬ状況が長く続いた事には三つの明白な理由がある」

三つの理由?それは、この街にも共通する事なのですか?

唐突に変わったようにも思える話の裏にユウヒさんの意図を読み取り、私は訊ねました。

「然り。一つは、海と面しておるという地理的な状況。危険生物や遺物の密輸に便利な海路が確保されておる。二つめは、把

握し切れておらぬ数多くの地下設備の存在。こちらも保管や隠匿に便利だ。新たに掘るのは目立つ上に手間…、しかし既存の

防空壕跡などを利用できれば…」

そうですね。後者についてはバベル戦役下の首都でも、把握し切れていなかった旧下水道が利用されていたという前例があ

ります。

「その通りだ。流石マユミさんは頭の回転が早い。俺の下手な説明でも余す事無く伝えられるというのは、すこぶる気持ちの

良い物だ」

そ、そんな事は…。それで、理由の三つめは何なのでしょう?

褒められた照れ隠しに私が先を促すと、ユウヒさんは顎を引いて頷き、より声を低くしておっしゃられました。

「三つめは御柱の存在だ」

バベル?…ああ、初耳ですが、置縄にもバベルがあったのですね?

「うむ、破壊されて既に無いが、かつては在った。…ある種の危険生物は、御柱に引き寄せられる。鵺のような古き者共にそ

のような性質がある事については、以前お話したが…」

ええ、覚えております。レリックと同源とされる、今の技術で生み出されたモノではない危険生物は、バベルや帝に引き寄

せられる。…というお話ですね?

ユウヒさんは一度言葉を切ると、私の目を見て少しだけ表情を緩ませました。

「先の事件の折にマユミさんが突き止めた事だが、より正確には、御柱のみならず強力なレリックの反応自体に引き付けられ

る…。その後の調べで判ったが、どうやらこれは間違い無いらしい」

やはりそうでしたか…。

「そして、その調査に際して判った事だが…、実は、現在の技術で生み出された者共の中にも御柱の影響を受けて凶暴性が増

す者があるそうだ。首都での事件統計から判明した事らしいが、我等神将が守護する御柱封印地においては、他の地区より危

険生物が活発に活動し易く、力を増す傾向がある」

バベルが眠る地では、危険生物が強力になる…、と?

「そう受け取って頂いて間違いあるまい。…御柱出現後に改めて精査した結果判った事ゆえ、少々手遅れの感も否めぬが…、

この東護でも改めて調べてみればその傾向は顕著だそうな」

言葉を切ったユウヒさんは、僅かに目を細めました。…態度には出されませんが、きっと悔しいのでしょう…。見た目の上

では冷静なまま、巨熊は静かに先を続けます。

「…この東護に御柱が存在していた事は、帝も、各神将家も押さえてはおらなんだ。存在が疑われ始めたのは昨年。ただし、

政府が極秘に調査を始め、我等の耳に入ったのは…」

一瞬、私は突風に叩かれたような錯覚を覚えました。

ほんの一瞬だけ、堪えきれずにユウヒさんが漏らした怒気に触れ、白い被毛がブワッと逆立ちます。

「…済まぬ…。耳に入ったのは、実際に御柱が出現した後の事であった」

見た目の上では全く普段通りだったユウヒさんは、気を取り直したように少しだけ声を大きくします。

…お怒りもごもっともです。もしも先に情報が入っていれば、ユウヒさんは正当な理由を手にして御庭番を引き連れ、バベ

ル出現に備えて東護に駐屯、あるいは御庭番を派遣しておく事もできたのです。

もしもそうなっていれば、東護は、調停者達は、ここまでの被害を受けずに済んだでしょうに…。

ですが、昨年末の事件でユウヒさんが動けたのは、実際にバベルが出現してからでした。

駆け付けたその時にはバベルは消失し、ブルーティッシュは残党狩りを終え、ユウトさんは昏睡状態、タケシさんは行方不

明という有様…。

初動が遅れたのは誰が見てもユウヒさんのせいではないのに、それでもご自分を責めずにはいられないのでしょう…。

欲深い人間や功を焦る人間は何処にでも居ます。バベルの調査を極秘で行い、名声を得たいと望んだ愚かな一握りの官僚が、

今回の悲劇をより酷い物にした事は疑いようもありません。

もしもタネジマさんが…、あるいは彼からバベル存在の疑いを聞かされたユウトさんとタケシさんが…、その情報が神将や

帝に届いていなかった事に気付けていたならば…。いえ、今更こんな事を言っても仕方ありませんね…。

「時にマユミさん。この地の御柱について調べていた機関が入っていたびるぢんぐだが、事が起こる数ヶ月前に、黄昏の手の

者らしき一団の襲撃を受けたのはご存じかな?」

ええ。ユウトさんが重傷を負ったあの件ですね?

「うむ。…我等神将は勿論、帝やその取り巻きも察せられなかった極秘調査…。黄昏は何故それを知り得たのか…。如何にし

てその情報を手にしたのであろうか…」

…内通者がこちら側に居た…とも考えられます。

私の意見に、ユウヒさんは無表情で頷きました。

「疑い出してはきりがないが…、その研究の事実上の総責任者となっておった政府高官を一人、突き止める事ができた。もし

やと思い、話を聞こうと考えたのだが…」

ユウヒさんは一度言葉を切り、小さくため息をつきました。

「二週間ほど前の事だ。神崎家が面会を打診した翌日、返答が来る前に、その政府高官は自動車事故で亡くなった」

それはタイミングが悪い。…いいえ、タイミングが良過ぎますね…。

私もニュースで見ました。たぶん、高速道路の事故で亡くなったというあの政治家でしょう。

「証言を恐れた何者かによる口封じの可能性も高い。どちらにせよ疑惑は晴れず、灰色のままとなった」

それにしても、官公関係者の不審死が随分と続いていますね?三月頃から急に増加したような…。

「ダウド殿の話では、どうやらいくつかの事件には同一の組織が関与しておるらしい。確か…、あ〜…、そう「みょるにる」

と言っておったか?政府高官を少なくとも三名殺害しておるそうだ」

過激な世直し集団…でしょうか?国の未来を憂い、腐った官僚を誅殺すべし!…と?

「気持ちは判らぬでもない。…と、俺の立場で口にするのはいささかまずかろうな」

冗談めかした私に、ユウヒさんは微苦笑を返します。

「それともう一つ。この地について改めて調べ、初めて知った事がある。この町の名だが…」

口調を改めた巨熊は、屈み込み床を太い指でなぞりました。コンクリートの上を這った指先の動きは、東と護の二文字を象っ

ています。

「合併に次ぐ合併、時の移ろいと共に市町村が名を変えるのはままある事だが、この土地にも忘れられし古き名があった」

そう呟きながら指を動かしたユウヒさんは、先程「東」と記した位置に、違う文字を描きます。

…これは…「塔」…?

「さよう。いつの年代かはっきりせぬ、少なくとも神将発足前の古い古い地図での話となるが…、今東護町がある位置の一角

には、塔護村(とうごむら)と記されておった。丁度、御柱が現れた海岸沿いの区域に…」

息を飲んだ私の顔に理解の色を認めたのか、ユウヒさんは重々しく頷きました。

「あるいは、遥か昔、この地では御柱が封印されぬまま姿を晒しておったのやもしれぬ。そして、この地に住まう者がその守

護を担っておったのやもしれぬ…。…こんな話はご存じかな?」

ユウヒさんは言葉を切り、私の瞳を覗き込みました。

「この地では、能力者の出生率が僅かながら余所より高いらしい。それは、当時の御柱の守護者…あるいは監視者達の血が受

け継がれているからだと考えるのは、流石に早計であろうか?」

問われた私は、ユウヒさんの推測を否定する事ができませんでした。

ギリギリさかのぼれるご先祖様からずっと、現在に至るまで代々が魔弾の使い手であるらしいナガセさん…。

アルと友人になった炎使い、あのキツネの子…。

そして、レリックとの接触で重力制御能力を発現させたアケミちゃん…。

他にも数人調停者に心当たりがありますが、いずれの方も、父や祖父どころではない古い代から地元民だったはず…。

「まぁ、調べたとは申せど結局はこの程度。今後役立つ有力な情報は殆ど得られなんだが、一つ賢くなれた気はする。さて、

後々落ち着いてから話そうとも思っておったのだが、御柱の話も出たついでだ、せっかくなのでもう一つここでお伝えしてお

くとしよう」

バベルの話のついで?いったいどんなお話でしょうか?

「朗報…と言っても良かろうな。これはまだ本決まりではないらしいのだが…、ぶるぅてぃっしゅが、調停者不足が懸念され

ている地へ駐屯支援部隊の派遣を予定している」

…はぁ。それは…。…え?

首を傾げた私の顔に驚きの表情が浮かぶのを、ユウヒさんは面白がっているように目を細めながら見つめます。

「今後正式に支援部隊派遣体制を築くかどうかは未定だそうだが、早ければ夏、遅くとも秋頃を目処に、試験的な駐屯支援部

隊派遣を行うそうだ」

私は驚きを隠せませんでした。

フリーの調停者がやって来るのとは話が違います。都に登録されているチームが、いわゆる長期出向で部隊を派遣する?前

代未聞です!

そして何よりも私を驚かせているのは、ユウヒさんが今、私にこの話をしているという事実…!

ブルーティッシュが試験的な駐屯支援部隊派遣を行う…、その予定地はつまり…。

「さよう。候補地はここ東護町。十名からなるその試験的な部隊は、独立捜索遊撃部隊と名付けられるそうだ」

独立捜索…遊撃部隊…。いかにも彼が好みそうな、無骨なネーミングですね…。

年末の一件で仕方なく顔を見せるはめになったあの時の、白い虎の懐かしい、変わらない顔を思い浮かべ、私は口の端を緩

めました。

「十名という規模は決して大きいとは言えぬものの、選りすぐった精鋭を派遣してくれるそうだ。さすがにダウド殿本人やネ

ネ嬢は動けぬが、ぶるぅてぃっしゅの精鋭十名、これほど心強い援軍はそうあるまい」

腰を上げつつそうおっしゃられ、私に微笑みかけたユウヒさんは、「さて行こうか」と、奥の扉へ視線を向けました。



元アジトを抜けて通路を行く私達は、同時に足を止めました。

「…マユミさんも気付かれたか?」

振り向き、耳を立てているユウヒさんは、押し殺した声で尋ねて来ます。

はい。後方からの微かな足音…、これは二人分でしょうか?

「同意見だ。調停者の見回りであろうか?」

ほぼ間違いなくそうでしょうね。どうしましょう?顔を合わせるのがまずいのなら…。

「うむ。無断で縄張りに踏み入った身としては、挨拶もせず退散するのははなはだ不調法で気が咎めるが…、ここはこっそり

と逃げさせて頂こう。お務めご苦労様と、胸の内で声をかけつつ」

そうですね。ご苦労さまです調停者の方々。

口の端をちょっと上げて笑いあった私達は、足音から離れるようにしてその場から去ります。

…が…。実はここから先の通路は私もさほど詳しくありません。

アル達もギルタブルル追跡の際に苦労したという小迷宮は、非常に入り組んでいます。

そんな通路を、後ろから微かに響く足音を避けるように移動したものですから、私達の前には、のっぺりとした行き止まり

の壁が現れたりもする訳で…。

「…いささかまずいかな?」

…そのようですね…。

後ろからの足音から遠ざかるようにして、いくつかの角を曲がった後、私が選んだ通路は行き止まりになっていました。

「これは不思議な。風の流れはあったのだが…」

ええ。空気が動いていたのは恐らくあれのせいでしょう。…済みません…。

私が目で促すと、追うように視線を動かしたユウヒさんは、横手の壁にポッカリと口を開けている穴を確認して頷きました。

それは配水管を思わせる丸い穴です。実際には別の用途に用いられていたのでしょう、排水用にしては位置が不自然ですね。

あそこから空気が出入りするせいで、私もユウヒさんも出口方向と勘違いしてしまったのです。

「いやいやお気に召されるなマユミさん。これは仕方がない。何より俺も勘違いしておった。早々に引き返して…」

案内ミスで落ち込む私を慰めてくれたユウヒさんは、「ぬ?」と唸って後ろを振り返ります。

…足音から計れるペースが速くなっている?しかも、足音が先程より聞き取り辛く…。

「気付かれた…か?」

そのようですね。速まった歩調と忍ばされた足音は、追跡行動に移った何よりの証拠です。

済みません。案内を買って出ておきながら、とんだ失態です…。

「そう気になさるな。それに、任せきりであった俺も文句が言えた物ではない」

大きな熊はその体同様の器量を示して私を責めず、耳をピクピクと小刻みに動かします。おそらくは反響して来る微かな音

から、足音の正確な位置を探っておられるのでしょう。

ユウヒさんの五感の鋭さは、強化されている私のそれをも遥かに超えています。程なく下された結論は…。

「我等が通った最後の分岐付近をうろついておるようだ。引き返そう物なら鉢合わせは免れぬな…」

そうなると、こちらに来ない事を祈るか、あるいは…。

「無論、祈るだけでは心許ない。いま少し積極的な手を選ぶとしよう」

そう言ったユウヒさんはぐっと腰を落とし、肘を曲げて両腕を脇腹にピタッとつけました。その軽く握られた拳が、うっす

らと燐光を纏い始めます。…まさか…?

「かくなる上は、蒼火天槌(そうかてんつい)で天井に風穴を開け、脱出す…」

言葉を切ったユウヒさんは、私が止める前に思い出したらしく、「…隠密行動であったな…」と困ったように呟きつつ発生

させたばかりの力場を消しました。

やはり壁や天井を破壊して道を作り、非常識かつ極めて強引なルートで脱出するおつもりだったようです。…この辺りは兄

妹そろって似たような思考パターンですね…。

「かくなる上は…」

ユウヒさんは首を巡らせ、先程私と見た横穴を眺めます。

「少々窮屈だが、あそこから進むとしよう」

私は穴の傍により、風を確認しました。行く手からやって来る風には、今夜の外気同様の潮香が含まれています。かなり先

でこちらと同じような通路に繋がっているようです。が…。

私は首を捻って、後ろから歩み寄ったユウヒさんを見上げます。

「む?」

私の心配そうな顔に気付いたのか、ユウヒさんはその視線を追って、自分のお腹を見下ろしました。

…いや…、失礼とは思うのですが、ここを通れるのか心配になって…。大丈夫でしょうか?

「心配ご無用。そこを通れぬ程には肥えてはおらぬよ」

そ、そうですよね?失礼しました…。

気を悪くした様子も無く苦笑いしたユウヒさんに、私は決まり悪くなりながら頷きました。そしてひらっと穴の中に飛び入

り、先の様子を窺いながら少し進んで入り口を振り返ります。

ユウヒさんは床に四つん這いになり、体を斜めに捻って頭を突っ込んでいました。どうやら肩幅があり過ぎて真っ直ぐには

入れないようです。

前に向き直った私は、向こう側の通路に気配が無い事を確認しつつ数歩進み…、

ギュムッ。

「…ぬ…?」

…ぎゅむ?

妙な音とユウヒさんの訝しげな声を耳にした私は、足を止めつつ首を巡らせました。

円筒形の空間へ、左側を前に出す形で斜めに肩を入れ、窮屈そうに上体をねじ込んだユウヒさんは、ぐいっ、ぐいっと体を

捻るようにして身を揺すり…、ややあって、私の方をチラッと見た後、顔を俯けました。

「……………」

どうかなさいましたか?と、嫌な予感を覚えつつも尋ねると…、

「…その…、腹が…つっかえて…、詰まってしまった…」

顔を伏せて耳を倒して恥ずかしげに、ユウヒさんが呟きました。

いやん可愛いっ!じゃなくてまずいっ!だから先にお尋ねしたのです!大丈夫でしょうか?と!

「め、面目ない…!目測では間違いなくいけると踏んだのだが…」

踏まないでください!私から見てもちょっと怪しそうでしたよ!?

「むぅ…。ひょっとすると某、また少し肥えたのやも…、お恥ずかしい…」

ユウヒさんは顔を伏せたまま首を縮め、倒した耳をパタタッと小さく動かします。

あぁん可愛いっ!じゃなくて恥ずかしがるのは後にしてください!バックですバック!後退して下さい!一度出て別のルー

トを探しま…。

私はビクッと身を固くし、顔を上げたユウヒさんも首周りの毛をブワッと逆立てました。

間違いなく先程よりも大きくなっている、地下通路に反響する硬質な足音を確かに聞いて…。

ユウヒさんの胴体がコンクリート管にみっちり詰まってしまっているので、その音はくぐもって微かにしか聞こえて来ませ

んが…、確かに、着実に、こちらへと近付いています…!かなりの速さで駆けて来るという事は、足音のペースから察せられ

ました。

ゆ、ユウヒさん!何とか前に出られませんか!?このままだと…!

「そ、それが…、恥ずかしながら出るに出られぬ有様で…!」

管に詰まったお腹がきついのでしょうか?ユウヒさんはちょっと苦しそうに喘ぎます。

「ぬう!望まずとも腹は出るというのに、前へは望んでも出られぬとはこれいかに?」

自虐ジョークは良いですから!何とかしなくては!やはり一度出ましょう!ね?通路に出て別の経路で逃げましょう!

私がニーニー鳴きながら訴えると、ユウヒさんはモゾモゾと体を捻り、何とか後退しようとします。

しかし、お腹はかなりきつくはまってしまっているらしく、痛そうに苦しそうに顔を顰めながらもがいても、遅々として下

がりません。

もどかしくなった私が、非力ながらもユウヒさんの腕に取り付き、肩と首を擦りつけるようにして押しますが、詰まってい

なくとも動かせる訳のない巨体は、当然ビクともしませんでした。

そして足音は、私達が先に居た通路に入ったらしい辺りで、ピタッと止まりました。

「……………」

……………。

私とユウヒさんは無言のまま至近距離で顔を見合わせます。

もう何と表現して良いのか判らないぐらい絶望的な表情のユウヒさんの瞳に、気の毒そうな顔をして硬直している猫が映っ

ていました。

進退窮まるとはまさにこれです。

ユウヒさんの極めて豊かなお腹と太い腰周りは、隙間が見えないほどみっちりと管にはまっており、進むのは不可能。

さらに通路に立った何者かには、横手の壁面に体の半分をねじ込んだユウヒさんの姿が既に見られている訳で…。

やがて、手詰まりどころか体ごと詰まっているユウヒさんの向こう側で、

「…な…、何でしょう…?このでっかいお尻…」

少し息が弾んだ若い声が、戸惑っているように発せられました。少年…でしょうか?キーが高めの声です。

「…なん…だろうね…」

次いで発せられた声は成人男性の物です。こちらも明らかに戸惑っています。

それはそうでしょう。壁から突き出た巨大なお尻…。現場を見て事情を悟るどころか、混乱する事必至の混沌とした謎の状

況ですから。

考え込んでいるのでしょうか、しばらく沈黙が続きました。

その間にもユウヒさんは、苦しいのか恥ずかしいのか困っているのかその全部なのか、ダラダラと脂汗をかいて顎の先から

ポタポタと滴らせています。…お気の毒に…。

「…えぇと…、試しにちょっと…焼いてみますか…?軽く…」

ド迫力のお徳用サイズヒップを前に軽く混乱しているのか、戸惑い声が酷い事を言っています。

「いや…、流石にそれはちょっと待ってくれ…。ソーセージとか野菜じゃないんだから、まず炙るという発想は如何な物だろ

うか?それに…」

若い声が困惑しているようにポツリとこぼし、成人男性の声も困ったような響きで応じます。

「もしかするとこの尻…、知っているひとの尻かもしれないから…」

脂汗をダラダラと滴らせていたユウヒさんは、ここで何かを決意したように口を真一文字に引き結びました。

窮屈そうにモソモソと懐に手を突っ込み、例のほっかむりを取り出して素早く装着したユウヒさんは、振り返る事はできな

いものの、少し首を捻ってぎりぎりの範囲で向こう側に視線を向けて…。

「ま、待たれよ!某(それがし)、ぽっきぃくましろと申す者…、誓って怪しい者ではない!」

ぽっきぃさぁああああああああああああああああああああああああああああああんっ!

怪しさ満点のその状況でビックリするほど説得力の無い事をおっしゃる奥羽の闘神の前で、私は思わず鳴き声を上げていま

した…。



ややあって、何とか穴から体を引っこ抜いたユウヒさんは、作務衣から埃を払い落としつつ、

「いや、見苦しい姿をお目に掛けてしまった。お恥ずかしい…」

と、本当に恥ずかしそうに耳を倒して目を伏せながらボソボソと呟きました。

そんなユウヒさんの横にちょこんとお座りした私は、私達と向きあう二人の調停者を見つめます。

聞いた声だと思っていたら…、

「…何をしていらしたんです?奥羽のご当主…」

調停者の片方は若い細面の男性…、ユウヒさんも面識のある魔弾の射手、長瀬冬也(ながせとうや)さんでした。

特徴的な被毛の色と類を見ない巨体…。ほっかむりをしていようと、知り合いと遭遇すれば何の誤魔化しにもなりません。

当然ナガセさんは一目で正体を見破っています。

そう、ほっかむりをかぶった顔ではなく、横穴にはまっている状態のお尻と足を一目見て…。

「否。某はあくまでもぽっきぃくましろ。親父殿がぶらぢる系の日系三世。何処ぞの当主などでは決してござらぬ」

この期に及んでもなお頑なに身元を偽ろうとするぽっきぃさんを、困惑顔で眺めるナガセさん。…それはそうでしょう。困

惑して当然の事態です。

その横に居るのは、ポッテリ丸々と太った背の低い獣人…。こちらに滞在していたアルが仲良くなっていた同世代の若者、

ヤマギシ君です。

彼は新人調停者です。そして、こう見えてもキツネだったはずです。…あまりにも丸々としているので、パッと見キツネと

は認識し辛いのですが…。

「まぁ、その様子からすると事情がおありなんでしょうが…。判りました。誰とも会わなかった事にしましょう」

出来る大人の理解力を示したナガセさんは、混乱してらっしゃるでしょうに、深く詮索しない事にしてくれたようです。

その心遣いに感謝し、深々と頭を下げたユウヒさんに、ナガセさんは続けます。

「誰かの目に止まるのがまずいのであれば、見回りを終えたルートを案内しましょうか?地上まで他の調停者と会わずに済む

でしょう」

「かたじけない」

再び頭を下げたユウヒさんの顔を見上げ、ナガセさんは訝しげに首を捻ります。

「何か調べ物ですか?何かを追っているとか探しているとか、もしもそういうご用事なら、情報提供ぐらいはできると思いま

すが…」

そう言ったナガセさんは、迷っている様子の巨熊に「伊達に毎晩パトロールしていませんからね」と付け加えます。

ユウヒさんは少し考えた後、済まなそうに耳を倒しつつ、会釈するように顎を引いて頷きました。

「ならば…、申し訳ないが、少し前…、ぎるたぶるる討伐の折の話を聞かせて頂きたいのだが」

「ギルタブルル?ええ、お安いご用です。…ヤマギシ君、小休止を入れよう」

そうナガセさんに声をかけられたポッテリキツネさんは、ほっとしたように肩の力を抜くと、私の方を向いて少し首を傾げ、

「…あれ?何処かで見たかな…?」と、不思議そうに呟きます。

「あ。もしかしてキミ…、カルマトライブ事務所の子?…そうだ、前にお邪魔した時も事務所の中に居た子だよね?」

思い出したらしい彼は、屈み込んでこちらへ手を差し伸べると、「チッチッチッチッ…」と口を鳴らして私を呼びます。

…まぁ、普通の猫のふりをする以上、お呼ばれには応じておいた方が良いでしょう…。

私は真ん丸く太ったキツネ少年に歩み寄り、頭や喉を撫でるに任せます。私に向けられて細められている穏やかで優しげな

その目は、しかし少し前に色覚を失ってしまい、世界をモノトーンでしか見る事ができません。それでも、私やアルなど白単

色の体は、以前と変わらず見えているはずです。

私がヤマギシ君に撫でられているその間にも、ユウヒさんはナガセさんにいくつか質問しています。その都度簡潔で分かり

易い答えを返したナガセさんは、

「エイル女史が遭遇した相手とは会っていませんが、ソイツと組んで動いていたらしい三毛猫とは会いましたよ」

と、当時の状況を思い出しながら言いました。そして、ちらっと私とキツネ君の方へ視線を向けます。

「丁度ああいう太り具合の、背が低くてとことん丸い男の三毛猫でした」

うっわ〜…。物凄く分かり易い説明ですね…。

話の内容までは聞こえていなかったらしいヤマギシ君は、しかし二人の視線には気付いてあちらを見ます。

誤魔化すように微笑したナガセさんにへラッと愛想笑いを返して首を傾げるものの、説明がないまま大人の話が再開される

と、ヤマギシ君は再び私を撫で始めました。…まぁ、今のは聞こえなかった方が良かったでしょう…。

「ギルタブルルのマスターは、オブシダンクロウの構成員だったらしいのですが、事件後、この街に来る前の行動までさかの

ぼって洗ってみると、どうやら離反していたようにも思えるんですよね…。あまりにも行動の独自色が強いというか…、何か

から逃げ回っていたようにも見られるというか…」

「その、逃げねばならなかった相手が、熊と三毛猫ではないかと?」

「あくまでも推測です。が、可能性はゼロじゃあない。熊と三毛猫…、あるいはソイツらのバックについている組織から、オ

カダウンジは逃げていた。そして、この東護でゴタついている間に捕捉される羽目になった…。熊と三毛猫は、元オブシダン

クロウのメンバーに手を出す事すら恐れない組織の一員なのか、あるいは…」

「あるいは、おぶしだんとやら自体から、離反者たるその男にかかった追っ手が熊と三毛猫なのか…」

ユウヒさんが言葉を引き取ると、ナガセさんは「有り得ない話とは、言い切れませんね…」と、神妙な顔で頷きました。

「実体は不明、しかしかなり古い歴史を持つ、国内でも最古の組織の一つと言われています。巧妙に何度も名を変えているせ

いで、起源や前身まで辿るのは容易ではありませんが…」

「ふむ…。覚悟はしておったが、骨の折れる調べ物になりそうだ…」

あちらで真面目な話をしている間にも、ポッテリしたキツネ君は「よしよしよし…良いこ良いこ…」とニコニコしながら、

関節が何処にあるか判らないほど丸く太く肥った指で、私の顎下をさすっています。

当然、私は撫でられながらもずっとユウヒさんとナガセさんの会話に耳をそばだてていましたが…。

…の、喉がゴロゴロ鳴っているこれは仕方ないのです!意識は人間だった当時のままとはいえ、器である猫の体は勝手に反

応してしまうのです!

それにつけても…、一見不器用そうな脂肪膨れの指をしているにもかかわらず、この繊細な動きは一体…!?

ヤマギシ君、調停者としての資質は未知数ですが、猫を喜ばせる才能は間違いなく所持…ゴロゴロゴロ…。た、ただ者では

ありま…ゴロゴロゴロ…。

「ヤマギシ君、休憩終了だ。そろそろ行こう」

先導するつもりらしいナガセさんが、引き返す恰好で首を巡らせると、ヤマギシ君は「あ、はい!」と返事をしつつ、ムッ

チリした手で私を持ち上げつつ身を起こします。

そして、テポテポとユウヒさんに歩み寄って、自分よりも遥かに高い位置にあるその顔を見上げました。

「あの…可愛い猫ちゃんですね。お名前は…何て言うんでしょう?」

ヤマギシ君がおずおずと尋ねると、ユウヒさんは少し困ったような顔をしました。

「マユミさんと言う名だ」

猫をさん付けで紹介される相手が確実に覚えるであろう違和感に気付いて下さいユウヒさん。

「それと、勘違いせぬよう念のために断っておくが、某の飼い猫という訳ではないのだよ少年」

「え?飼い猫じゃないって…」

「親しい友人だ」

首を傾げたヤマギシ君に、ユウヒさんは真顔できっぱりとそんな事を言いました。

…嬉しいですけれど、猫を友人と言い切られる相手が確実に覚えるであろう違和感に気付いて下さいユウヒさん。

「友達の家の猫ちゃん…なんですか?」

「いや、彼女は特定の家を持たぬ自由の身なのだ。自立したしっかり者の女性だよ」

…ユウヒさん…。いえ、もう良いです…。何だか突っ込むのも疲れて来ました…。

「…えっと…。…キミ、野良なんだ…?」

ユウヒさんの説明を聞き、やや間を置いてから簡潔な答えに辿り着いたヤマギシ君は、両手でそっと抱えた私に視線を戻し

ます。

「彼女は行動範囲が広い。もしも君の住まい近くで見かけたなら、茶でも出してやっては貰えまいか?」

…ユウヒさん…。人間扱いは嬉しいのですが、扱いが妙だと思ったヤマギシ君がきょとんとしていますよ?

「えっと…ミルクでも?」

「うむ。みるくも宜しかろう。いやむしろその方が喜ばれるか。俺も気の利かぬ事よな」

ユウヒさんがニカッと、丈夫そうな歯を見せて破顔すると、ヤマギシ君もつられてニッコリと笑いました。

…確かアルが言っていましたが、ヤマギシ君は賃貸マンション…ベアパレスに部屋を借りて独り暮らしだとか…?

今度近くに行った時にでも、顔を出してみましょうか…。



二人の案内を得て無事に地上へ戻ったユウヒさんと私は、ホテルまでの道をシトシトと小雨に降られながら、コソコソと戻

りました。

「いや、久々に肝を冷やした」

ウンウンと頷きながらそんな事をおっしゃるユウヒさんの横で、私も顎を引いて同意を示します。

…結局こうなるのでしたら、初めからナガセさんかタネジマさんに極秘で協力要請しても良かったかもしれませんね?

「むう…」

渋い顔で唸るユウヒさんの様子があまりにも可笑しくて、私は小さく笑いました。

不謹慎かもしれませんが、思い返してみれば、なかなかに愉快な体験だったかもしれません。

横穴にギュムッと詰まってしまったユウヒさん…。奥羽の闘神のあんなにもテンパっている様子など、そうそう見られる物

でもないでしょうからね。

「さて、用事も済んだ事だ。明朝まで一休みしたら東護を発つとしよう」

…え?二泊なさるのではなかったのですか?

残念に感じつつも、ホテルの受付で十万円支払っていた事を思い出した私が尋ねると、

「ふむ?あれは二人分の宿泊料というつもりだったのだが?」

ユウヒさんは当然のようにそうおっしゃいました。…律儀ですね…。

「…収穫らしい収穫は無かったが…、実を言うと、少々ほっとした…」

そう呟いたユウヒさんの顔を見上げた私は、巨熊の穏やかな視線を受けながら首を傾げました。

「実を言うと…、「逆神が居た」…そう確信できるような痕跡が無かった事に安堵しておる。見つからぬに越した事は無い」

言い分は判りますが…、それは、私が知る神代勇羆という人物の口から出るには、意外な程に気弱なお言葉でした。

恐れている?…いいえ、それは少し違うような…?今はもう前に視線を戻したユウヒさんの横顔には、微かな安堵と、そし

てこれは…、もしかしたら哀しんでおられるのでしょうか?

少し驚きましたが、その感覚はすぐに確信に変わりました。

…ユウヒさん、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?

「ふむ、何だろう?」

逆神の存在が確認できたとして、その時、ユウヒさんはどうなさいますか?

「是非も無い。帝に仇為す存在は断固滅する。これは神将の務めだ」

ユウヒさんは迷う事無くそう答えました。…が…。

…ユウヒさん。本音は、お聞かせして頂けないのですか?

重ねた私の問いに、ユウヒさんは足を止めました。

傍らで同じく足を止めた私を見下ろし、巨熊はしばし無言のまま佇んでいましたが、

「…敵わぬな、マユミさんには…」

と、諦め混じりの苦笑を浮かべて呟きます。

「その恐れがない事を疑ってはおらぬが…、くれぐれも、他言無用に願う」

軽く目を閉じた巨熊は、そう私に念を押して、静かに話し始めました。

「これは個人的な思いだが、逆神が存在していたとしても、できれば出てきて欲しくは無い。見つかって欲しいとも思わぬ」

…やはり…。

予想通りの答えを聞いて、私は頷きました。

「帝に弓引く事無く、静かに暮らしていてくれるのであれば、俺個人としては討伐までする必要は無いのではなかろうかと考

えておる。神将としてあるまじき考えだが…、もしも、万が一にも逆神の末裔と語り合える機会があれば…」

ユウヒさんは言葉を一度切り、自嘲混じりの苦笑を深くします。

「どうか大人しくしておいてくれと、頭を下げてみる価値はあると思うておる」

私は確信しました。

ユウヒさんがお一人で、直々に調べに来た本当の理由…。それは、もしも逆神と出くわした時、家の方や他の神将が居れば、

対話の機会が失われてしまうからだったのでしょう。

避けられる物ならば争いを避けたい。

大人しくしていてくれるのであれば手を出したくない。

…逆神を探しに来たユウヒさんは、本当はそうお考えになっておられたのです。

「世が世ならば、俺やユウトこそが逆神だったのやもしれぬ。…そうふと考えてしまう俺は、やはり甘いのだろう」

いいえユウヒさん。それは甘いのではなく、お優しいのです。

私の好意的な反論に、「さて、それはどうであろうか…」と頬を緩ませたユウヒさんは、小雨を降らせ続ける空を見上げ、

小さな声で呟きました。

「ユウトが生まれ、ヤクモが居なくなり、両親を失い、シバユキを引き取り、妻を娶り、そして今息子を得て…、俺は、失う

事、失わせる事に臆病になったのであろうな…。今ではもうすっかり腑抜けてしまった…。我等と同じ血を引く逆神にも、我

等と同じく愛する者や信頼できる友が居るとすれば…」

その声は、哀しげで辛そうな響きを込めて、私以外に聞く者のない寂れた路地の宙を舞い、濁った空へと昇ります。

「…叶う事ならば…屠りたくはないものよな…」

途中から独白となったユウヒさんの言葉を聞きながら、私は得体の知れない不安を覚えました。

ユウヒさんがそうお考えになっても、相手はどうなのでしょう?

改めて考えれば、彼らは神将や帝を恨み、憎んでいて当然なのです。

逆神と神将が、決して判り合えない同士だったとしたら?

そして、もしもこれから先、実際に逆神と対峙する時が来たとして、ユウヒさんがその事に気付けなかったとしたら?

相手は神将の天敵…、他の何者かならばいざ知らず、ご自分と互角の敵を前にして気の迷いを抱いてしまったなら…。

「マユミさん。いかがなされた?」

声をかけられ我に返れば、少し進んだ所から訝しげに私を振り返っている、大きな大きな熊の姿。

…いいえ、何でもありません。

首を傾げるユウヒさんに、私はトトッと足早に近付きました。

その頼もしい巨体をちらりと見上げ、横に並んで歩きながら、私は自分の不吉な考えを、心の中で笑い飛ばしました。

考え過ぎですし、要らない心配です。あんなにもお強いユウヒさんが、誰かに遅れを取る事なんてありえませんよね。