氷雪の墓標(前編)

かれこれ四時間ばかり執務室のデスクについている私は、片付けた書類を脇のボックスに重ねて収めた。

曲りなりにも下士官である以上デスクワークも当然存在する。任務報告の纏めや部下の戦果についての報告書と、その中身

は多種多様。
よって、嫌われ者部隊の小隊長とはいえ、間借りしているこのベースでも専用の執務室は用意して貰えた。

これらの書類整理は、内容的には副官に丸投げする事もできるのだが、私はそうしていない。隊を纏める者の義務でもある

からだ。

現在のグレイブ隊を纏めるゲルヒルデ隊長と、私を含む三名の小隊長は、皆自分で書類を纏める。

その点に関しては、優遇されている真っ当な部隊の指揮官達よりよほど真面目と言えよう。

私に与えられた執務室はこぢんまりとした小さな部屋だが、湯沸かし器と流しに加え、ソファーとローテーブルもある。

デスクを含めていずれも良品ではないものの、贅沢は言えない。部屋を用意されただけでも有り難いと思わなければ。

任務の報告について纏め終え、副官から上がってきた資料に目を通した私は、戦果報告纏めに取りかかる前に小休止を入れ

る事にした。

書類を少し遠ざけ、デスクの引き出しから書類を取り出す。

十数枚が一綴りになっているそれは、新入りの少年の資料…身体データから服務履歴までが記された経歴書のコピーだ。

彼が我が隊に左せ…編入されてから三週間が経つ。繰り返し何度も見たので、中身は完全に頭に入ってしまった。

一枚目には緊張気味の硬い表情を浮かべたアメリカンショートヘアの顔写真と基本スペックが載っている。硬いと言うより、

強張った表情と表現した方がより正確かもしれない。どうやら写真を撮られるのはあまり好きではないようだ。私と同じで。

二枚目からはこれまでに携わった主な作戦と戦果のデータ…いわゆる戦歴だ。そして最後の一枚には定期的に行われる身体、

心理検査による留意事項が記されている。

抱いた際のあの軽さも納得できる。身長156センチ、体重45キロ。分類状は高機動型合成獣人となっている。…が、明

らかに仕上がりが良くない。特化機能であるはずのスタミナ、スピードが、どちらも平均値以下…というより一般人以下だ。

複数回の検査の結果を見比べても、少年のレリック適性、思念波、その他諸々の数値は殆ど変化せず、常人と変わらないレ

ベルだ。…考えて見れば、あれはあれで普通ではないのかもしれない。まさかここまで無害な者が産まれるとは…、担当した

開発者もさぞ驚いた事だろう。

この資料の情報に加えて、十数回行動を共にしてみた経験のある私には、彼がこれまで事務を主として従事させられていた

理由が良く判る。メンタル面の事もあるだろうが、戦力として期待できないと判断されて下げられたのだろう。

ここで鍛えてやらなければなるまい。でなければあっという間に死んでしまう。

彼には目下…と言うより、私がデスクワークに勤しんでいる今この時も、我ら小隊の訓練メニューに服して貰っているが…、

この三週間弱での成果の方は、実はあまり芳しくない。

気長に待ってやりたいのは山々だが、一日も早く、少しでも鍛えてやらねば、あの少年の生存率は下がる一方だ。

資料に目を通しながら、私は一点に目を止める。

一応は調整最終段階までに開発処置を受けているようだが、能力は宿さなかった。…と、資料にはある。検査を受けている

のだからそうなのだろうとは思うのだが…、私は、あの少年について一つ、気になる事がある。

私が実際に体験したはずのあの現象は、私の気のせい…状況認識不十分による物だったのだろうか?

だが…、スコルのスライドリードのように、未使用時は検知器に引っかからない、ステルスタイプの能力も存在する。

その手の能力は発動中にしか検知されない。ものによっては、発動中ですら検知、認識が困難…あるいは不可能な場合もあ

るのだ。

検査結果は絶対ではない。もしかしたら…、というのは、私の考え過ぎだろうか?

何度となく自問した事を、とりあえずは頭の隅に押しやった私は、改めて新入りの名前欄にあるコードを見つめながらメモ

帳を引き寄せる。

そして、無地の紙片に短くペンを走らせ、三文字を書き記した。

記した文字は、「M10」の三つ。

固有名を与えられていない新入りの少年。彼につけられているコードがこの三文字なのだ。

行動を共にすると実感できるが、名前のない彼を呼ぶのは、実際のところなかなかに不便だ。我が小隊の者などは「おい」

や「新入り」と声をかけて用を足しているが、…もしや、不便に感じているのは私だけなのか?

本人にも名前を決めろとは言ってあるのだが、良い名前が思い浮かばないらしく、配属から二週間経った今でも名無しのま

まだ。

さらには、自分で決める事は諦めたのか、「中尉が決めてくれませんか!?」などと期待に満ちた顔で丸投げして寄越した。

自立心が欠如しているのか、それとも、名前を持った事がないのでどうでもいいのか、こんな事を他人に委ねようとする気

持ちは実に理解し難い。

正直なところ面倒臭いとは思ったのだが、私はいつものようにはっきりとは断れなかった。何故なのかは自分でも不明だが。

考え続ける私の手は、紙片にM10の三文字を延々と、細かく、いくつも書いてゆく。

それを眺めながら何か思い浮かばないかと思案に暮れていた私は、やがてペンを手放して眉間を太い指で揉み始めた。

…見つめ過ぎたせいで、M10がゲシュタルト崩壊した…。

字面すら疑わしく感じられ始めた三文字から注意と視線を外した私は、眉間を揉みながらノックの音を聞く。

「どうぞ」

短く応じた私は、ドアが開く音に続き「失礼します」という聞き慣れた声を耳にした。

書類封筒を手にした第三小隊のポメラニアンは、略式の敬礼をしてから私に歩み寄る。

「デカルド小隊長からです。目下中断中の探索任務の一覧だそうですが、優先順位に変更をかけたので、中尉の意見を聞きた

いと…」

頷いた私が封筒を受け取ると、スコルは机のメモに視線を向け、首を傾げた。

「何ですかこれ?エム…、アイ…、オー…?何かの略ですか?」

MIO?…ああ、なるほど…。ペンで書いただけでは1とIも、0とOも、区別が付き辛い。

読み間違えたスコルに、「いや、それは…」と応じかけた私は、何か引っかかる物を感じ、言葉を切って黙り込む。

「中尉?どうしました?」

「………」

「中尉?中尉ってば?」

「……………」

「ハティ中尉?…太っちょ中尉?…メタボ中尉?…デブ中尉?…縫いぐるみ中尉?」

「君に縫いぐるみと言われたくはない」

「あ。反応するところはソコなんですね?」

駄目だ。口数が多いスコルの前では、落ち着いて考える事もできない。

「用事は以上か?」

「正規の用事はそうです。が、話したい事がいくつか…」

なるほど、雑談したいのか。

「楽にして良い。私も休憩中で、ここには私と君しか居ない」

私が顎をしゃくってデスクの端を示すと、スコルは机の縁に尻を乗せ、フサフサの巻き尾をパタタッと振る。

中尉と軍曹、階級こそ違う私達だが、我々ガルムシリーズは同じ生産ラインで造られた者同士だ。見方によっては兄弟とも

言える。たまにはこうして愚痴や軽口に付き合ってやるのも、多少の縁を持つ先達としての努めだろう。

もっとも、後期型であるスコルやマーナ達は、初期型の私やウルとは製造年が離れている。その間に求められるコンセプト

が変わった事もあり、仕様はかなり異なっているのだが。

「中尉から預かったあのチップ、壊れてるかも知れません。読み取れない…って言うか各種信号にも反応しません。ちょっと

時間かかりそうなんですけど?」

「急ぎでもない。手が空いた時に解析を進めてくれれば良い」

応じた私に、スコルは「りょ〜かい」と軽い返事を寄越す。

私の部屋にあったあのチップ、てっきり少年の所有物だと思っていたのだが、心当たりが無いそうだ。

状況から見て少年が持って来た…あるいは気付かずに持ち込んでいた品だというのは間違い無いのだが、返すにも中身が読

み取れず、何処の物なのかが判らない。

ゲルヒルデ隊長にも報告はしたが、「任せる」の一言で済まされてしまった。

そこでスコルに解析を頼んでいたのだが、完全に壊れているようなら廃棄だな。

チップの件の報告が済むと、スコルは話題を変える。

「さっき入った定期報告で聞きました。クソハスキー、また手柄立てたそうですよ」

「そうか。第二小隊の任務は、どうやら順調なようだな」

「バカハスキーが居ますから。野郎はバカですが腕は立ちます。…あ〜あ…、階級上行かれたらつつき辛くなるなぁ…」

「例え階級が上でも遠慮しないだろう。君は」

嘆息したスコルは、私がそう言ってやったら「そんな事ありませんって」と、ニヤリと笑った。

「そうだ。何か熱い物でも淹れましょうか?」

「君に一服して行く程度の余裕があるのなら」

「大丈夫です。ついさっき勤務交代したところですから。なお、デカルド小隊長は「ハティ中尉の邪魔をしない程度なら雑談

しても良い」と言ってました」

…彼は厳しいようで時々やけに寛容だ。そのせいで今現在私は新入りの名前の模索と言う任務外デスクワークを中断させら

れている訳だが。

「そのデカルド中尉は今何を?休憩中か?」

「ええ。たぶんまた自室で油絵描いてますよ」

…もしや、邪魔になるのでポメラニアンを私の所へ寄越したのか?いや、流石にこれは考え過ぎだろうか…。

「コーヒー頂きますね。中尉は何にします?」

デスクの端から降りつつ尋ねて来たスコルに、「レモンティーを」と応じた私は、

「そもそもねぇ、マーナの野郎頭悪いってか、正確に言うと愚直過ぎるんですよねぇ…」

…とそんな調子で、部屋の隅にある簡易キッチンに向かって作業に取りかかりつつも、まったく口を閉じない彼の愚痴に付

き合う。

「…でね…、…なもんで…、…ああだから…、あのアホハスキーのヤツ、その内図に乗って大失敗でもやらかすんじゃないか

と心配になるんですよ」

マーナは確かに単純ではあるが、調子に乗るタイプではない。身体能力、戦闘技能、能力の性質、どれを取っても一流だ。

一言苦言を呈するなら、メンタル面の改善が必要か。もう少し落ち着きが出れば、そして、私の悪癖を真似しなくなれば、

優れた戦士として大成できるだろう。

今はまだ私の方が上だと見られているが、いずれ評価はひっくり返る。彼にはあの能力がある。一対一の勝負では、私では

その内勝てなくなるはずだ。

…とは思うが、説明するのも面倒臭いし、彼を誉めるとスコルがへそを曲げるので、私は沈黙を守る。

「中尉はいつだってマーナの肩を持つ。おれとマーナが喧嘩したら、絶対アイツの味方に付くでしょう?」

少し不満げに言ったスコルの背に、私は資料を眺めながら言った。

「どちらの味方にもならんよ。仲直りさせるだけだ」

私の返答は何処か面白かったのか、スコルは「ぷっ!」と、小さく吹き出していた。



簡易応接セットに移動し、蜂蜜がたっぷり溶かし込まれたレモンティーを啜りながら、私は彼の長話に付き合った。

とは言っても、元々あまり喋るのが得意でない私だ。時折相槌を打つ程度で、後は彼が喋るに任せている。

…もう40分近く経つ。デカルド中尉に許されているとはいえ、そろそろ帰るように言うべきか。

私がそう考え始めた頃、ドアがココンッと軽快にノックされた。

「どうぞ」

私が応じると同時に勢い良く開いたドアの向こうには、小柄なアメリカンショートヘア…件の新入りが、書類を挟んだボー

ドを抱いて立っていた。

どうやら今日の訓練が終わったらしい。…が、さんざんしごかれて来たはずの少年は、息を弾ませながらも笑顔を見せ「失

礼しますっ!」と、お辞儀した。それから、

「…あ、軍曹…。お疲れ様です…」

私と向きあって座るスコルに気付き、再びお辞儀する。ドアの前に立てば視界に入るだろうに、気付くのが遅い。

そして彼は、ドアの所に突っ立ったまま、戸惑っているように私を見つめる。

彼は最近、いつもこんな具合だ。

ちょくちょく執務室に顔を出し、私と二人の時はそれなりによく喋るので、そこそこグレイブ隊にも慣れたのかと思いきや、

他の隊員達とはあまり話をせず、来た当初のおどおどとした態度のまま接している。

トラウマがそうさせるのか、ある程度気を許したらしい私以外に対する時は、相変わらずビクビクと顔色を伺っているのだ。

その様子を見て取ったスコルは、「それじゃあそろそろ…」と、自発的に腰を上げた。

少しつついただけで泣きそうになる少年は、皮肉屋の彼にとってもからかいの対象にならないらしい。

チラチラと顔を窺いながら道を空けた少年の横を抜けながら、スコルは思い出したように「ああ」と声を漏らして足を止め、

私を振り返る。

「ベースの連中、先日の晴れ間に溶けて崩れた氷山から、何か見つけたらしいですよ?住居跡っぽいって話です」

…ふむ、住居跡?

スコルが出て行くと、少年はドアを閉めてから私の方を見た。

「あの…、お邪魔でしたか?」

「構わん。スコルも私も休憩中だった」

そう応じると、少年は嬉しそうに顔を綻ばせ、抱えていたボードをデスクに置く。

今日の訓練についての、副官からの報告書だ。

いちいち見なくとも訓練内容に問題が無い事は判るのだが、これも一応私のサインが必要になる書類の一つだ。

「えと…、中尉もすぐ、お仕事再開ですか?」

無言で頷く事で応じた私は、少年の物欲しそうな視線に気付く。

「何か飲みたければ、好きな物を選べばいい」

私が流し台に目を向けると、少年はいそいそとそちらに向かって、ピンと立てた尻尾をフルフルさせながら飲み物を選び始

める。

私はあまり味に頓着しない方で、休憩時にも飲み物を摂ったりはしなかったのだが、ゲルヒルデ隊長が「それではいかん」

と、コーヒーや紅茶などを運び込ませてしまった。

指揮官たる者「紅茶が芳しい香りを上げるカップを片手に窓際に立って物憂げに風景を眺めつつ思索を巡らせる姿が似合う

エレガントさ」が必要。…との良く判らない長い理由で。

三週近くも経ってすっかり勝手を覚えた少年は、ココアを淹れてソファーに座ると、ポケットから小さなビニールパックを

いくつか取り出した。

「食堂で失敬して来ましたっ!」

ニコニコしながら言う少年がテーブルに並べたのは、ドライフルーツやバターピーナッツだ。

これも毎度の事なのだが、その袋を眺めながらつくづく思った。この少年は小心そうに見えて、その実結構大胆だと。

そしていつものように違和感を覚える。この鈍い少年がどうやって毎回気付かれずに、食堂から品をくすねて来るのかと。

黙考する私に、アメリカンショートヘアは「…あの…、中尉…?」と、おずおず声をかけて来た。

「軍曹が言っていたジューキョアトとか何とかって、何の話なんですか?」

「おそらくは、先住民族の住居…、その跡地らしい物が見つかったらしい」

「先住民族?」

意味が通じなかったようで、少年は首を傾げる。おそらく、この手の情報については学習させられなかったのだろう。

私は少年に、遥か昔この魔境たる北原に居たとされる、先住民族について説明を始めた。

彼らは、ひとでありながら土着危険生物の跋扈する凍土に適応した、北原の覇者だった。レリックが埋まるこの凍土で、そ

れらを見つけ出してある程度利用しながら生活していた彼らが、大型海獣はおろか危険生物すら屠って食料にしていた事が、

少ない痕跡からもある程度判っている。

銃火器の類が無い程昔の話だ。史上最強の狩猟民族と言っても差し支えないだろう。

いくつもの部族からなる彼らの事を、現在はその乏しい資料から、イヌイット、エスキモーなどと呼んでいる。…もっとも、

それらの便宜名すらも、彼ら自身が自分達を指した言葉では無いらしいのだが。

今ではもう居なくなってしまった彼らが残した幾つもの痕跡から見るに、彼らは獣人と人間の混合集団だった。それも、比

率が今の世界と全く逆、九割が獣人であったらしい事まで判っている。

昨今の研究で解析され、知られざる彼らの生活史も徐々に明らかになって来たとはいえ、その実態の多くは謎に包まれてい

る。一般的に知られる世界史においては、産業革命時代に初めて近代文明と接した彼らは、北原を捨てて住み良い地方へ移っ

たとされているが…。

私は少年に説明しながら思い出す。かつて見た、洞穴の壁に描かれた彼らのアートを。

長い牙を持つ猫科の獣を、素手で地面に押さえ込んでいる、赤銅色で色鮮やかに描かれた熊の姿…。

体長3メートルにもなる剣牙虎族と比べても、ボリュームで負けていない巨大な赤い熊。あの壁画には感銘に近い印象を受

けた。

彼らの神話のような物を描いたというのが周囲の認識だったが、私は直感的にそうではないと思った。

おそらくあれは実際にあったのだ。赤銅色の巨大な熊が、素手で剣牙虎を仕留めるという出来事が。

その英雄的かつ超人的行為に感動した誰かが、その感動を、驚きを、いつまでも残しておきたいと考え、あの日差しを避け

る洞窟の壁に描いたのだと、私は思っている。

かいつまんだ説明を終えた私に、少年は興味を持ったように尋ねて来た。

「そんなひと達の住んでいた跡地が見つかったんですか?」

私が頷くと、「見てみたいなぁ…」「一体どんなだろう?」などと呟き始める。

「行ってみるか?」

「え?」

「調査現場へ」

「行けるんですか?ぼくでも?」

少年は少し驚いているように目を大きくしながら、身を乗り出して来た。

少年個人では当然許可がおりないだろう。この手の調査は本来の北原管轄であるこのベースの部隊の受け持ちだ。しかし…。

「私はこれでも将校だ。視察という名目で調査現場に立ち入れる」

少年は少し考えた後、「連れてってくれるんですか?」と、おずおず尋ねて来た。

「書類の決済を終えてからで良ければだが」

私が応じるなり嬉しそうに耳を倒し、尻尾をピンと立てる少年。

…ふむ、どうやら本当に興味があるようだ。元々は事務屋でレリックの知識もそこそこある。おまけに遺物関連に興味があ

るのなら…。やはり、戦闘任務以外に携われる職務の方が、彼には向いているだろうな。

私は先日ゲルヒルデ隊長に提出した書類の内容を思い出しながら、そんな事を考えた。



横殴りの雪の中を、小柄なアメリカンショートヘアを伴って進む。

分厚い雪雲が日光を遮る北原の空は、今日もいつも通りの鉛色だ。氷の礫と言って良い、硬く鋭く冷たい雪が、容赦なく私

達の体を叩く。

この北原が人間達にとって魔境である理由の一つが、この風雪と気温だ。

我々のような被毛を持たない人間の柔肌には、この環境は極めて過酷。雪が直に皮膚に当たれば食い込んで傷つけ、流れ出

た血はたちまち凍り付く。そうでなくとも薄い皮膚一枚しか纏わない人間の体では、寒さに凍て付き張り裂けてしまうだけで

なく、内部組織まで一気に熱を奪われてしまう。

先住民族達の大半が獣人だったのも、この過酷な環境には人間が適応し辛いからなのだろう。

その環境の中、通常の都市でも普通に着られるだけの厚さしか持たない防寒具とブーツに加え、眼球保護の為のゴーグルの

みで、私は活動している。

我ながら普通の生物とかけ離れた適応力だ。これは手前味噌になるのかもしれないが、ラグナロクの技術力という物は真に

恐ろしい。

秘匿技術に関する国際法等の規制に囚われない非合法の組織故に、ラグナロクのバイオテクノロジーは一般技術の数歩先を

行く。

規制にも倫理にも囚われないその技術開発は、一体どこまで進歩するのだろうか?

今でこそ技術力の壁があるので不可能だが、その内、エインフェリアレベルの兵士が量産される時代が来るのかも知れない。

死体を元に生産されるエインフェリアは、肉体の完成度が高い状態で生み出される。

特に顕著なのは反応だ。素体となった者が培って来た、肉体の記憶とでもいうべき反応…つまりリアクションプログラムを

初期段階で有している事こそが、ラグナロク構成員の大半を占めるコピー兵士を遥かに上回る能力を持つ理由だ。

素体となる者が生前に能力を持っていた場合は、産み出されたエインフェリアもまたその能力を持つ事が多い。

おまけに、強靱な肉体を有していれば、我々ガルムシリーズのように過酷な調整に耐え、新たな能力や人造生物としての機

能を付加された状態で誕生できる場合もある。

優れた者の死体を活用する事で、ゼロから鍛える必要の無い兵士が産み出せる。故に、優れた戦士や能力者の死体は全て、

ラグナロクにとってダイヤの原石のような物だ。

ハンターに軍人、警官。時にはスポーツ選手や武道の達人など、素体候補は様々だ。

…もっとも、エインフェリアの素体となる者は、そういった「まとも」な者のみではない。優れた素養すら持っていれば、

どんな異常者や犯罪者でも構わないのだから。

かく言う私も、別の部隊を率いていた頃に、何度か死体の奪取任務に携わった事がある。

繊細さが著しく欠如しているらしい私は特に何とも思わなかったが、かつての部下達は毎回非常にやり辛そうだった。

できれば断ってくれと部下達から何度か言われもしたが…、私の後任には押しが弱くて優柔不断、かつ上官にはとことん弱

い男が入ったので、もしかしたら今でも時折死体回収をやらされているのかもしれない。

そんな事をつらつらと考えつつ、時折足を緩めて振り返り、少年が遅れていないか確認しながら、私は進む。

最初はモービルを借りるつもりだった。大柄な上に著しく肥満しているため極めて重い私が、少年を後ろに乗せて搭乗して

も問題なく走行できる高出力高機動の最新式を。

だが、せっかくなので雪中行軍演習も兼ねて歩きで連れて行って欲しいと、副官に言われてしまった。

それは当然、私も共に雪中行軍する羽目になるという事なのだが、おそらく重々承知の上でそう提案したのだろう。私の部

下達は優秀だが、時折上官に優しくない。多少の困難や危険は何でもないと思っている節がある。

これは私の指揮、指導方針が間違っているせいなのだろうか?確かに放任の度合いは大きいかもしれないが…。

振り向く事、これで十五度目。少年を見遣った私は、風雪に負けぬよう小柄な体を前のめりにさせて進む彼の歩みが、予想

よりも幾分遅いペースになっている事を確認した。二週間や三週間で改善されるとは思っていない。今はこの程度がせいぜい

だろう。

少しペースを落とした私に、少年は声を張り上げて話しかけてきた。

「ちゅーいー!ちょっと…、ちょっと待って下さーい!」

…風に負けないようになのだろうが、不用心極まりない。

遮蔽物が無いこの辺りでは、声は他の地域よりも良く通る。風に運ばれて数キロ先まで届いてしまう事も有り得るのだ。

私は少し引き返し、少年の前に立った。

「不用意に大声を出すな。この北原では音は減殺され難く、遠くまで届き易い」

「あ…、ご免なさい…」

少年はフードを被った頭をペコリと下げた。

「それで、どうかしたのか?」

「あ、はい。あの…、ま、まだ着きませんか…?」

私は少し考える。私一人ならばあと十分もかからないが、少年のペースでは三倍以上見なければならないだろう。

おおよそ三十分前後だろうと伝えると、体を冷やさない為に足踏みを続けている少年は、「え!?」と声を上げた。

「何か不都合が?」

「あ、いや…、その…………こ…」

少年は足踏みを続け、体を揺すりながら俯き、ぼそぼそと呟いた。が、風に負けて聞こえない。

「そこまで警戒しなくとも良い、この距離で聞こえる程度なら普通に話して構わん」

「い…、いやその…、そうじゃなく…て…!」

少年は足踏みを早めながら、私に何とか聞こえる程度の声で言った。

「…お…、おしっこ…」

……………。

「ベースを出る前に済ませろと言ったはずだが?」

「ご、ごごご免なさい!だってあの時はまだ…つ、つまってなかったから!」

どうやら、体を冷やさない為に動いていた訳ではないらしい。尿意を堪えてもぞもぞしていたようだ。

どうやらこの少年、あれだけの目に遭いながらも、まだ北原を舐めているらしいな。確かにある意味大物ではある。

「くれぐれも失禁だけはするな。たちまち凍結し、最悪の場合は切除するはめになる」

「せ、切っ…!?し、しませんよお漏らしなんてっ!あと三十分我慢します!」

「ふむ。三十分我慢して、どうなるのだ?」

「え?いや…、現場のトイレを借りて…」

……………。

「…無いぞ。そんな物は」

「えぇっ!?」

我々は先住民達の住居跡を学術的に調査している訳ではない。いわばレリック目当ての盗掘だ。いつ何処の国の武装調査隊

と出くわすか判らないこの状況で、腰を据えて調査などする訳がない。よって、トイレなど当然無い。

「その辺りで済ませろ。ただし風下に向かってだ。もしも向かい風で飛沫をかぶろう物なら、そこから凍傷になるぞ」

「えぇぇぇぇええええっ!?あ、あの…!この間みたいに、せ、せめて雪壕とかそういうのは…」

…掘れと言うのか?排尿の為に?私に?

この少年、つくづく北原を舐めている。舐められているのは私も同様かもしれないが。

「そんな物は用意しない」

「うえぇえええええっ!?」

少年は嫌そうに声を上げたが、背に腹は代えられない。しぶしぶ風下に向かう。そして、

「痛い痛い痛い!寒いとか冷たいじゃなく風が痛い!あと縮んで苦しいっ!」

そんな風にやかましくわめきながら、用を足し始めた。

ややあって戻って来た少年に、私は訊ねる。

「濡れてはいないな?尿で濡れたなら即座に拭き取って乾かしておけ。水気を帯びたままでは危険だ」

「は、はぁ…」

頷いた少年は、上目遣いに私を見て、ゴーグル越しに不思議がっているような視線を投げて寄越した。

「中尉って…、こういう事話す時でも真面目な顔なんですね…」

真面目な話をしているのだから、それは当たり前だと思うのだがな。

それともこの少年は、先程からの話を真面目に聞いてくれてはいなかったのだろうか?