氷雪の墓標(中編)

先日の晴天で融解し、強度が落ちて崩れたのだろう。

半分以上崩れた氷山の脇に、崩れた部分をそのまま飲み込んだ巨大なクレバスが、ぽっかりと口を開けていた。

このクレバスの壁面に、雪と氷に埋まっていた住居跡が見つかったらしい。

今は居ない先住民族の住居跡に聳える氷山は、まるで氷雪の墓標のようだ。半分が崩落して鋭く尖り、吹き付けた雪に一面

が白く覆われている。

その崩れかけた鋭い氷山の横で私が許可証を提示すると、

「視察…ですか?」

見張りの兵士達四名は、あからさまな嫌悪の表情を浮かべた。

面倒臭いと思っているのだろう。早々と調査を終えて戻りたい気持ちは判らないでもない。

クレバスへ降りてゆく道…とも呼べないような物だが、一応の通路となっているラインへの降り口は、四名の兵士が固めて

いた。

氷山の横手や堆積して硬く凍った雪丘の上にも、ちらほらと十名ほどの兵士の姿。警戒が厳重なのは結構な事だが…、ふむ?

来ているのは先発調査と聞いていたのだが、その割に随分と大人数だな。

兵士達はしばらく待つよう私に告げ、通信で上の者の指示を仰ぎ始めた。

疎まれてはいても階級は私の方が上だ。軍曹クラスが独断で、明確な理由も無しに視察を断る事は出来ない。

ついでに言えば、この調査部隊を率いる准尉はかつて私と同部隊だった男だ。今では部隊が違うとはいえ、彼ならば無下に

断る事はあるまい。

私の斜め後方に立つ少年は、行く手に広がるクレバスを、しきりに背伸びして眺めている。

その好奇心剥き出しの仕草は非常に子供っぽい。今からそこの脇を下るのだが、途中で落ちてくれるなよ少年。

ややあって通信を終えた兵士は、あからさまに不満そうな顔をしていた。自分達の上官が、グレイブ隊である私の視察を拒

まなかった事が気に入らないのだろう。

頭二つ分高い位置にある私の目を憎々しげに見つめた彼は、ぶっきらぼうな口調で、調査の邪魔にならないよう行動には注

意を払って欲しい旨の説明を長々とした後に、やっと道をあけた。

崩れた氷山の脇をぐるりと迂回する下り坂を進み、大きなクレバスへと下ってゆく作業道に入ると、少年は見張りの兵士達

が居た方向を振り返り、不機嫌そうに話し始めた。

「何なんですか?あのひと達…!中尉にあんなつっけんどんな態度で!物凄く失礼です!」

ほう。小用を足したいから雪壕を掘れ。と私に要求する行為は失礼に当たらないのだな?

まぁ、失礼というなら、面と向かって散々デブだの何だのこき下ろすスコルの方がよほど失礼なのだろうが。

「お菓子と間違えて「食べられません」の小袋食べて死んじゃえ!」

面と向かっていないと威勢がいい。少年はプンスカしながら妙な、そして内容的には少々酷い悪態をつくと、トトトッと小

走りに駆けて、私の横へ寄った。

「口を慎みたまえM10。彼は君より階級が上だ。階位を無視しては軍隊は成り立たない」

もっとも、階位を盲信し過ぎる余り悲惨な末路を辿った部隊など、星の数ほども在るが。

「…ご免なさい…。でも中尉、怒らないんですか?中尉の方が偉いんだから、あんな態度とるひと、ガツンと怒ってやればい

いのに!」

「怒るにも、怒りが湧いて来ないのでな」

私が応じると、少年は一瞬きょとんとした後、微苦笑を浮かべた。

「…やっぱり中尉って、おおらかで優しいひとなんですね?」

「それは君の勘違いだ」

短く応じながら、私は道の先を眺めた。

私が優しいという事は間違っても無いだろう。これについてはよほど自信を持って言える。私ともう一人、最初期型のガル

ムシリーズは、喜怒哀楽などの感情に極めて乏しい。

ただし、他者の心情についても察せられないという訳ではない。知識と予想によりある程度は理解できる。が、当然その理

解は完全には程遠く、他者とは多少のズレがある。

そんな私が極力敵兵を殺さないようにしているのは、当然優しさなどからではない。

他者の命を人造生命体である私が奪うという行為に、不自然さを覚えているからに過ぎない。

相手がひとの手で開発された危険生物…つまりインセクトフォームなどの人造生命体であればこの限りではないが、わざわ

ざ殺すのが面倒臭い場合はとどめを刺さない。これも慈悲とは少々違う。

…もっとも、スコルやマーナなど開発責任者が変わった後に生産された後期型ガルムは、私と違って人並みの感情を持って

おり、喜び、怒り、哀しむ事ができる。

つまりはより通常の生物に近い仕様になっていると言えるのだが、羨ましいかと問われれば、正直イエスとは言えない。

豊かな感情という物が素晴らしいかどうかは、良く判らない。

感情の起伏は迅速かつ正確な判断に不必要なバイアスと考えているが、完全に無くとも良いのかと問われると考えざるを得

ない。完全な無感情による弊害もまた、指揮官という立場からはいくらか予測されるからだ。

だが、最初から持たざる者だった私は、豊かな感情という物を欲しいとも羨ましいとも思えない。惰性で生きているような

今の状況でさえ何かと手間がかかるのに、その上私自身がいちいち感情に振り回されていては、気が休まる暇もないだろう。

…気が休まる?…ふむ…、感情が平坦な私は、ある意味常に気が休まっていると言えるのだろうか?後でデカルド中尉にで

も意見を求めてみよう。



「うわ〜…!へぇ〜…!ほぉ〜…!」

しきりに感心したような声を上げ、周囲を歩き回りながら、氷の中から切り出されてゆくドーム状の住居を眺めている少年

を、私は少し離れた所から見守っていた。

作業現場はクレバスから水平に中へ入った亀裂の中だ。

天然の空間なので所によりばらつきはあるが、直径20メートル程、高さは3メートル程の円形に近い空間である。

すぐ隣に立つ、口髭が濃いがっしりした体の中年が、同じく少年を見ながらおもむろに口を開く。

「珍しいですな。任務でもないのに現場視察を申し出るとは。余計な事を極力背負い込まない主義ではありませんでしたかな?

それを曲げてもあの新入りに現場を見せてやろうと?」

「いいや、半日書類整理をしていたので、自分自身の気分転換にな」

エンリケという名の彼は、かつて別の隊に居た頃に私を支え、副官を務めていた准尉だ。

私と彼の会話内容を聞き取れる距離には、兵達は居ない。

ベースの連中と我々グレイブ隊はとにかく不仲だ。かつての上官と部下とはいえ、あまり話さない方がお互いのためにも良

いと思い、私達は周囲に誰かが居る時は殆ど言葉を交わさない。ベース内で顔を合わせても、視線すらあわせないのが常だ。

無表情の私と彼が並んで目もあわせずに話している姿は、会話内容が聞こえなければ、お互いを牽制しあって嫌味の応酬で

もしているように見えるだろう。

「気分転換…ですか?」

「おかしいかね?」

「…まぁ少しは。補給無しで何日でも待ち伏せ、張り込みができる忍耐強い貴方に、書類整理ぐらいで気分転換が必要になる

とは思いませんでしたので。実際、私が補佐をしていた頃は、貴方はそんな事は一度もなさいませんでした」

…言われてみればそうだったかもしれない。相変わらず鋭い事だ。

「ところであの新入り…」

言いかけたエンリケの言葉は、「こらーっ!無闇に近付くな!」という怒鳴り声によって中断させられた。

怒鳴られてビクッと毛を逆立てて硬直した少年から視線を外し、私は切り出し作業中の隊員達に目を向ける。

少年は作業の邪魔になるほど近付いてはいない。そうなりそうになったら注意するつもりでずっと見守っていたのだが、お

そらく、邪魔というより単に目障りだったのだろう。ちょろちょろし過ぎだ少年。

「兵士の貌をしていませんな」

そう言ったエンリケは、声音に微かな笑いを含ませた。

「君もそう思うか?」

「ええ。…しかし済みませんな。どうもウチの連中はグレイブがあまり好きではないようで…」

「気にする事ではない。お互いにな。それが普通なのだから」

私と准尉が話している間にも、怒鳴られてビックリしたらしい少年は、さっきよりも少し離れてビクビクと見学を再開する。

が、良く見えないのだろう。小さな身体で必死に背伸びをして、興味深そうに作業を眺めている。

「あんな姿を見ると、まるっきり普通の…一般人の少年のようですな」

「行動や思考のみならず、肉体的にもそうだ。駄目で元々、隊長を通して上へ配置換え希望を出してはみたが…」

ゲルヒルデ隊長に提出した書類の内容を思い出しながら、私は言葉を切った。

先のレリック奪取の手柄を少年一人の物として記し、かつ、情報処理担当者としての手腕に期待できる旨の私見を述べた推

薦書の事を。

あの少年はこの環境ではそう保たない。推薦が通る可能性は低いが、何とか他の部隊へ行かせてやれないものだろうか?

…判っている。これは偽善だ。

他の部下達とて、本音を言えばグレイブになど居たくはないだろう。同じ働くのでも、少しでも安全な所で働きたいのが普

通だ。そんな中から、私はあの少年に限って隊から出してやろうとしている。これは偽善以外の何でもない。

そして、そうせずに居られなかった自分自身が、滑稽でもあり、少々腹立たしくもある。

…そんなにも救いが欲しいのか?ハティ・ガルムよ。

この呪われた体に染み込んだ罪を、ささやかで身勝手な偽善でいくらかでも濯げると思っているのか?

「貴方が心をお痛めになるなど、珍しいですな」

「心を痛める?私が?」

思わず真横を向いてしまった私に、准尉はちらりと横目を向けた。

「心を痛めておいででしょう?あの長生きできそうにない新入りの事で。…といっても、貴方のそんなご様子を目にするのは

自分も初めてなので確証はありませんが」

…私は、心を痛めているのだろうか?まともな感情を持ち合わせていないはずの、この私が?

だとすればそれは、あの弱々しい少年の境遇にだろうか?それとも、単純に長生きできそうにない事に?

…判らない。少なくとも私自身に心を痛めている自覚は無いが…。

視線を前に戻した私は、目を見開いた。

少年の姿が、無い。

「ん?彼は何処へ…」

私にやや遅れて気付いたエンリケが訝しげに呟く。

「新入り」

私が呼びかけると、少年は「あ…、はいっ!中尉!」と返事をしながら、三角錐に立った氷の陰からひょこっと顔を出した。

そのままトトトっと小走りに私達へ近付くと、横の准尉を気にしてか、「あの…何でしょう…?」と、おどおどしながら顔

を窺って来る。

まただ。

あの時と同じ事が、またも起こった。

准尉の方を見ていたとはいえ、あの三角錐の氷塊は私の視界の中に入っていた。その陰に少年が入ったのなら当然気付いて

いる。

それなのに、私は少年の姿を見失い、彼は三角錐の氷柱の陰から現れた。

…知っている。これと良く似た現象を、私は知っている…。

「…引き上げるぞ」

「は、はい。ご免なさい…」

私の態度が不機嫌そうに見えたのか、少年はビクビクしながら謝った。だが、今はその事について説明してやるだけの余裕

は無い。

幸いにもエンリケは気付いていないようだ。下手に詮索される前にこの場を離れなければ…。

彼自身は信頼できるが、これは別だ。この事は誰にも知られてはいけない。…そう、ゲルヒルデ隊長にすらも…。

「邪魔をした。そろそろ退散する」

「ご苦労様です」

他者の目がある手前、先程と比べてそっけない口調になった准尉に見送られ、私は少年を連れてクレバスを登り始めた。



「あの…、もしかして、ぼくがいつまでも見て回ってたからですか…?それとも、あっちの部隊の人に叱られるような事をし

たから、怒ってるんですか…?」

現場を後にし、見張りからかなり離れた頃、私のすぐ横に寄った少年は、顔を見上げながらそんな事を言い出した。

「ご、ご免なさい…。凄く珍しくて…、興奮しちゃって…、はしゃぎ過ぎました…」

「違う。怒ってなどいない」

しょぼくれて項垂れた少年に、私は短く応じる。

そして、周囲を注意深く見回した後、足を止めて少年の顔を見下ろした。

M10」

「は、はい…?」

オドオドと返事をした少年に、私は訊ねる。

「自分が持つ能力について、自覚しているか?」

「へ?」

問われた少年はきょとんとする。ゴーグルの奥の目は真ん丸になっていた。…やはり無自覚だったのか…。

「ぼく、能力は持ってませんよ?」

少年は戸惑いながらそう応じた。…知っている。少なくともデータ上ではそういう事になっているな。

「君は、能力を持っている。二つの意味でのステルス能力を」

困惑している少年の顔を見下ろしながら、私は続けた。

「良く似た…いや、おそらくはほぼ同一の能力を知っている。発動条件は恐らく…」

私はハッとして言葉を切り、そして考える。

この手の能力を持っている事が知られれば、この少年は前線に張り付けとなるだろう。貴重故にグレイブ隊からは出られる

かもしれない。

だが、この少年は量産型だ。能力を宿していたのは、私個人としてはただの偶然だと思っているが、上はそう割り切らない

だろう。少年と同タイプの兵士全てに付加させられる、あるいは覚醒させられるかもしれないという可能性に、目を瞑ったり

はしない。

可能性の模索をするとなれば、手っ取り早いのは…、少年をサンプルにして実験する事。

栄転どころではない。良くて死ぬまで前線で特殊工作。悪くすればグレイブ隊に居るよりもなお悪い、実験動物としての未

来が待っている。

だからこそ、エンリケにも、ゲルヒルデ隊長にも、他の皆にも伏せたまま、能力について少年に自覚させ、伏せたままでい

るように諭すつもりだった。だが…。

…何を考えているのだ私は?この手の事項に関する無断秘匿は重罪、処罰が免れない反逆行為だ。ありのまま上に報告する

のが私の務め…。

そう、可能性はゼロではないのだ。

この少年がサンプルとして解析され、もしもこの能力が開発によって付加可能な物だと判明すれば…、万が一にも、同タイ

プの量産兵士全てに付加可能な物だと判明したならば、ラグナロクの戦力は一気に増強される。

世界との戦いにおいて、優位に立てるだけの戦力が確保できるかもしれない。

尊い犠牲だ。無駄死にではないし、実験動物などという不名誉な物ではない。

ろくに戦う事もできないこの少年は、ラグナロクが創る新世界において、変革の為に命を捧げた英雄となる。

そう、これは名誉ある犠牲だ。この少年にとって、生を受けた意味を世に知らしめる最大の好機だ。

ゲルヒルデ隊長の監視下に置いたまま、中枢の誰かにコンタクトを取っても良い。

グレイブ隊の待遇を上げる程度の交渉は、この大発見を手土産にすれば可能だろう。

…そうだな、ウルを介して、彼を専属エージェントにしているレヴィアタンとかいう中枢メンバーに話を持ちかけても良い。

直接会った事は無く名前しか知らないが、ウルの話では若い女性であるらしい。中枢メンバーに昇格してまだ日が浅いらし

く、発言力はそう強くもないと聞いた。

立場を強められるかもしれないこの情報は、中枢になりたての若輩なら、まず間違いなく欲しがるはずだ。

そう、この少年一人の犠牲で戦局は大きく動き、ラグナロクは世界に対して優勢に立てる。

グレイブ隊の立場も改善され、ゲルヒルデ隊長も今の境遇から抜け出せる。

隊員達もそうだ。上手く行けば何人か昇進させ、別の隊へ移らせてやる事も…。

……………。

「えっと…中尉?」

黙り込んでいる私の顔を見上げながら、少年は恐る恐る尋ねて来る。

「あの…、お腹でも痛いんですか?何だか、すごく辛そうなんですけど…」

気遣うようなその言葉と、風に半ば吹き散らされた弱々しい声音を、私は聞いた。

心配そうなその表情と、冷たい風にさらされて凍えながら動く口元を、私は見た。

私の調子を案ずる少年の不安と気遣い、相変わらずの微かな怯えを、私は感じた。

……………。

…できない。

何故だろう、私にはこの少年の事を報告する事はできそうにない。

少なくともこの少年は、生きたいと、あの時私に言ったのだ。

部下を失う事には慣れている。そもそも執着心が殆ど無いのだから。死なせないようにはしているものの、戦死してしまっ

たならそこまでだと割り切れる。

だが、判らない。

兵士としての心ができあがっていないこの少年を過酷な環境に送り込んでも、同じように諦めがつくかどうか、私には判ら

ない。

「中尉?あの…、大丈夫ですか?中尉?」

いよいよ心配になったのか、すぐ前まで歩み寄り、真下から顔を見上げて来た少年に、私は返事ができなかった。

苦悩とは、こういう心理状態の事を指すのだろう。

惰性で生きてきたツケが回ってきたのだろうか?私にも、これほど悩む時が来るとは…。これほどの問題を抱える時が来る

とは…。

「M…10…」

「はい?」

名とも呼べぬ名を呼んだ私に、少年は心配そうな顔のまま返事をする。

「これから、ある検証を行う」

…私は…、

「しかしこの事は私以外の誰にも絶対に言ってはいけない。例えゲルヒルデ隊長相手でも、幹部相手でも、中枢相手でもだ」

組織への裏切り行為に…ひいては己のレゾンデートルを否定する行為に及ぶ事を、決意した。



「本当…、なんですか?これ…。夢とかじゃ…」

「本当だ。そして夢ではない。そもそもこの外気で眠るようなら私が叩き起こしている。判り辛いなら自分の影を見てみろ」

少年の驚きと疑問がないまぜになった声に、私は頷いて応じた。

実際に発動していても実感が沸かないらしい。声が訝しげだ。

私も今初めて知ったのだが、どうやらこの能力が引き起こす現象は、発動者本人には知覚し辛いようだ。

「すっごい!これすっごい便利かも!」

「解けたぞ。多くの能力は集中が途切れると効果が切れる。君のソレも同様のようだ。今後はコントロールを磨かなければな

るまい。鍛錬を怠らないようにしろ」

はしゃぐような声を上げる少年に、私は釘を刺す。

意図的な発動に漕ぎ着けるまで二時間程かかったが、これは早い方と言って良いだろう。

これまで数度無意識に発動していたせいもあるだろうが、私が偶然にもこれと同系統の能力を知っており、その特質を理解

していた事も助けとなった。

手間取ったもののセンスはあるようだ。持って生まれた能力故、センスがあるという言い方もおかしいのかもしれないが。

コントロールの方も自在とはいかないものの、少年はたった今、目の前でその現象を引き起こし、かねてからの私の予感が

正しかった事を証明した。

今後の問題は、この能力を如何にして隠し通すかという点だ。

無意識に発動し、それを誰かに認識されてしまった場合、この少年の運命は決まる。

不用意に発動しないよう、うっかり使ってしまわぬよう、入念なコントロール研磨が必要になるだろう。

「帰るぞ。ベース内では無闇に使う事を禁ずる。何処に監視があるか判った物ではないからな」

「え?でも、それじゃあ鍛錬って…」

直前まで興奮していた少年は、首を傾げて眉根を寄せる。

「私の部屋には監視が無い」

曹長までは数人纏って相部屋をあてがわれるが、准尉以上の部屋は個室だ。この慣習は、この北原のベースでもいきている。

「え?それじゃあ…」

少年の顔が、微妙に明るさを増す。

「鍛錬に際し、そう動き回る必要もない能力だ。手狭だが私の部屋で十分だろう」

「え?え?中尉のお部屋で!?」

「屋外を除けば現状で確保し得る最も安全な場所の一つと言える。任務や訓練の合間に時間が確保できそうな時は、こまめに

コントロールを掴む訓練を行うようにする」

他に場所が全く無い訳でもないが、手軽に利活用できるというメリットは大きい。

屋外という選択は、いちいちこの少年を屋外に連れ出し、二人だけの時間を確保する行動的な不自然さからいって選択し辛

い。その都度適当な理由もでっち上げなければならなくなる。まるっきりできない訳ではないが、そうそう頻繁には出かけら

れないだろう。こう見えて私はそれなりに忙しいのだ。

「やったーっ!」

少年は背を丸めて両拳を旨の前で握り、ガッツポーズを取る。

「…?何をやったのだ?」

「あ、い、いえっ!ありがとうございます!…でも、良いんですか?そのぉ…、中尉のプライベートな時間は…」

「問題ない。非番の時には、寝るか栄養補給するか、装備の手入れをする以外にやる事もない」

少年は不意に不思議そうな表情を浮かべ、私の顔をマジマジと見つめて来た。

「あの…、中尉って、何かご趣味はお持ちじゃないんですか?」

「無い」

簡潔に答えた私は少年から視線を外し、改めて周囲を見回す。

分厚く密度の高い雲の下、北原の白い風景は暗く染まり始め、いよいよ夜を迎えようとしている。

いくら何でも時間を費やし過ぎた。既に数度入った所在確認の通信には、少年へ個人的に雪中行軍指導を施していると説明

していたが、さすがにそろそろベースに戻らねばなるまい。

「…趣味無いんだ…。じゃあいつも暇…?」

何やら考え込んでいる様子でブツブツ呟いている少年を「戻るぞ」と促した私は、三歩踏み出した後に足を止めた。

風向きが変わり、如何なる物でも凍て付かせるような鋭利で冷たい風が、微かな匂いの粒子を運んで来た。

立ち止まった私の後ろから、少年が「中尉?」と声を潜めて尋ねて来る。私の様子から何か悟ったのか、微かに緊張を帯び

た声音だ。

「…何者かは不明だが、接近して来る」

私の言葉に、少年は腰の後ろに帯びていたソウドオフタイプのショットガンを、慌てた手つきで耐凍結ホルスターから取り

出した。

銃身が極限まで切り詰められ、グリップが銃身と水平に近い角度に調節されているそれは、一見すると大振りな鉈のように

も見える。

実際の所、白兵戦でも利用できるよう、縦に二本並んだバレル下には一体型のエッジが備わっている。いや、より正確に述

べるなら、分厚く重いエッジの中に二本のバレルが内蔵されていると表現すべきか。

頑丈で取り回しが便利なこのソウドオフブレードは、私の部隊では好んで用いられている。時には12ゲージシェル二連装

のサブウェポンとして、時には白兵戦での殴り合いで。

同じ品でもこの小柄なアメリカンショートヘアが持つと、鉈どころか普通サイズの刀剣に見えてしまうから不思議だ。

「膝着し、接敵体勢維持」

「さ、サー!」

跪いて姿勢を低くし、抑えた声で命じた私に、少年は素早く屈みながら応じる。

ふむ。訓練の成果はまずまず出ているようだ。…いや、この程度で評価するのはいささか甘いか。

雪面に片膝を着いた姿勢で鼻を鳴らす私は、匂いの元が何であるのか推察する。が、情報が少ない。風はすぐに向きを変え、

匂いは届かなくなってしまった。…だが…。

「最悪の場合、リッターかもしれん」

私の呟きに、少年は「へ…!?」と、驚愕と恐怖の入り交じった声を被せた。

無理もない。独軍特殊部隊、通称リッターとは、我々ラグナロクのみならず、世界中の犯罪組織が恐怖する、国家お抱えの

特殊軍だ。

秘匿技術や知識に関わる特殊部隊は、概ねどんな国でも持っている。だが、独軍特殊部隊はその中でも屈指の強兵揃いだ。

彼らがこの近辺を探索しているらしいと、つい先日我々も情報を得ている。シュヴァルツか、ヴァイスか、どちらかは不明

だが…。

私は首輪型通信機に触れ、ベース内で交代勤務しているグレイブの通信兵に連絡を入れた。なお、現時刻の担当はスコルで

はない。

すぐさま警戒態勢に移る旨、通信は返って来た。間をおかずゲルヒルデ隊長達の耳に入るだろう。

「M10。方角は判るな?先にベースへ戻れ」

「え?ちゅ、中尉は?」

発掘中の部隊にもベース経由で連絡は入るだろうし、見張りが立っている以上すぐにも気付くだろうが…、直接会って伝え、

ついでに撤収作業を手伝った方が効率的だろう。

私がその事を述べると、少年は首をプルプルと横に振る。

「ぼくも行きます!作業の手伝いぐらいならできます!」

「無理をするな。震えているぞ」

「こ、これは寒いからです!あと武者震いです!」

私が震えを指摘すると、少年は首をさらに激しくブンブンと振る。

…ふむ。積極性と恐怖の自制が見られるのは良い傾向だ。撤退の手伝いをするだけで、戦闘をするつもりもない事だし、連

れてゆくのも今後の為には良いか…。

「では、急ぎ戻る。ペースは落とせん。遅れは許さん。それでも構わないな?」

「は、はいっ!」

少年は片膝立ちの姿勢のまま、ビシッと背筋を伸ばした。

気を引き締める為に脅しをかけたが、私が本気で駆けたら付いてこられる訳がない。索敵前進程度の少々早めのペース。そ

れが、今の彼が付いて来られる限界速度だろう。

私は少年を伴い、先程発掘現場から歩いてきた道を引き返し始めた。



「リッター…ですか?」

エンリケは懐疑的な表情で私に再確認し、それから首を横に振った。

「いえ、ベースからは何も連絡はありません」

発掘現場に戻った私が確認したところ、作業はあれからもずっと続けられており、撤収準備は全くされていなかった。

「それは妙だな。私が連絡を入れたのはしばらく前になるが」

私とエンリケは、おそらく同時にその事に思い至った。

我等グレイブは嫌われ者部隊だ。その忠告を、余計なお節介として突っぱねられたなら?ベースの連中が掴んでいない情報

をこちらがたまたま握った事が面白くなく、自分達で確認が取れるまで保留されたなら?

「有り得ますね。もみ消しは」

エンリケが苦々しく呟き、私は無言で頷く。

確執結構。嫌いで結構。だが、それで現場の兵を危険に晒すのは、容認できかねる行いだ。

後で駐屯部隊側の誰に伝えたのか、通信兵に確認しておく必要がある。場合によってはゲルヒルデ隊長を通してベース側へ

正式に抗議しなければなるまい。

私一人ならば多少ぞんざいな扱いを受けても構わないが、通信兵を頼みとしている任務中の部隊をないがしろにする行為は

到底認められない。

「こちらに来るとは限らない。風向きも視界も悪く、進軍ルートも規模も確認できてはいな…」

「車両群を視認!距離1500!」

希望的な推測を述べ始めた私の言葉は、作業道へ駆け込んで来た兵士の言葉で途切れた。

エンリケが渋い顔をし、私の傍で硬くなっていた少年が声を上げる。

「せ、せんごひゃくっ!?千五百って…、キロ!?メートル?センチ!?ミリ!?ちゅ、ちゅちゅ中尉ぃっ!?」

「正解は二番だ。とりあえず落ち着け」

「近過ぎる…。何故こうも簡単に接近された?」

エンリケが尋ね、報告に来た兵は顔面を蒼白にして口ごもる。私もそこが疑問だ。初見距離があまりにも近過ぎる。

見張りは居た。入り口にあの人数が居たのだから、遠方索敵にはもっと人数を絞って…、…まさか…?

私は考える。先程通った際も居たが、あの入り口近辺の人数は多過ぎる。この隊の規模を考えれば、なおの事割合が多い。

もしや、遠方索敵を命じられた者達は、探索がキツくて入り口近辺にたむろしていた?その分人数が多かったのか?だとす

れば、気付かずに接近を許してしまった事も頷ける。

「詮索は後だ。猶予は無い、直ちに撤収準備にかかるべきだろう」

私の忠告を聞き入れ、即座に頭を切り換えたエンリケは、部下の半分に我々がラグナロクであるという痕跡を残さない徹底

した撤収作業を、もう半分に交戦準備を命じる。

距離1500。見過ごされるという贅沢ができればそれに越した事は無いが、最悪の場合、この二個分隊規模で交戦しなが

ら撤退しなければならない。

…いや、もしも気付かれれば、撤退どころかこの場で包囲、殲滅される線も濃い。

私の黙考は、そう長くは続けられなかった。すぐさま駆け込んできた二人目の兵が、向こうもこちらに気付いた事を、絶望

的な叫び声で告げてくれたおかげで。

慌ただしくなった現場を見回す私のすぐ横に寄り添い、少年は心細そうな声で「中尉…」と囁きかけて来る。

「撤収作業を手伝っていろ。私は上で相手を確認する」

「は、はいっ!」

もはや相手がグレイブなどと言っていられないのだろう。駆けていった少年は、特に反発される事も無く作業に加えられた。

その様子を見届けた私は、見張りの兵の案内を受け、作業道に向かって足早に歩き出す。

距離1500。風雪の状況にもよるが、私の目なら細部まで視認できる距離だ。