タンブルウィード(前編)

「…判った。助かったぜ」

『代金は遅れずに払い込めよ?』

「…その件だけどよ…、やっぱちょっとまかんねぇ…」

皆まで言い終える前に一方的に通話が切れ、ダウドは顔を顰めた。

「本当にまける気ゼロかよあの野郎…。最近のプラモ結構高いってのに…」

ブルーティッシュのリーダーとしてはかなりスケールの小さい収支計算で軽く落ち込み、ブツブツ言いながら足早に廊下を

歩む白虎。

しかし、たった今しまったばかりの携帯がさほど間を置かず再び震動し、「お?まけてくれるってか?」といそいそ取り出

し確認する。

だが、モニターに表示されていたのはユミルの偽名の一つではなく、ブルーティッシュのメンバーの名であった。

「俺だ。どうした?」

『リーダー。どうも山掛けが当たったようで…』

それだけ聞いたダウドの表情が引き締まる。

『対象が寸前まで潜伏していた場所を特定しました。取り囲んで交渉してる最中ですが、口の軽い若いもんをちょっとしめて

やった所、どうやら「夕陽の欠片」と見て間違い無さそうです』

黄昏の残党を意味する隠語を耳にしたダウドは、

「すぐ向かう。で、対象の足取りは掴めたのか?」

全速力で廊下を疾走しつつ状況を聞き出し、慌ただしく通話を終える。

「人海戦術の賜、プラス山勘が大当たり、か…。ユミルとタッチの差で突き止める辺り、ウチのメンバーは実に優秀だ…。こ

いつはユミルに報酬払い損になるか…?」

そう零したダウドの口元には、誇らしそうにも困っているようにも見える、微妙な苦笑いが張り付いていた。



シノを伴って、匿われていたホテルを後にし、しばらく雑踏の中を移動したマーナは、先程から感じている気配を注意深く

探っていた。

「…何か居るの?」

ハスキーの様子が少々変化している事に気付いたシノは、声を潜めて、しかし態度は先程までと同様に平静を装ったまま訊

ねる。

「気のせいであってくれれば良いと思っていたのだが…、どうやらそう甘くもないらしい」

その呟きだけで事態をおおよそ悟り、シノは小さく呻いた。

「もう見つかったの?まさか、警戒して張り込まれてたとか?」

「可能性はあるな。だが、向こうも拙者が何者であるか確信してはいないらしい。疑わしいとは思われているようだが、注視

されているのは拙者だけではなさそうだ。…おそらく、拙者らと同方向から歩いて来た者全てを監視している…」

「…何処から見てるの?」

「教えられん。気配は複数、いずれもかなりの手練だ。シノでは恐らく気付けんだろう。いや、気付いたとしてもそちらを見

てはいかんぞ?気付いている事を気付かれれば…、確信される」

なるほど、と思いつつ小さく頷いたシノは、しかし見られている感覚はないものの、「監視されている」というその事で、

どこか落ち着かない気分になっていた。

相手はマーナの顔も知らない。その状況で警戒に引っかかっている。

つまり、上手く振る舞えばそのまま見逃される可能性も有り得る。

そう頭で判ってはいても、体は緊張してしまう。

そんなシノの様子に気付きながらも、マーナには緊張をほぐしてやる良いアイディアが浮かばない。

(こんな時、ハティ小隊長ならどうする?あのひとなら何と忠告する?あいつなら…、スコルなら良い考えが浮かぶのだろう

か?…くそっ!拙者は何と無能なのだ…!)

マーナはふつふつと湧く焦りを抑えつつ、自問を繰り返す。

自分一人であればどんな危機的状況に陥ろうと、そうそう焦る事などないマーナだが、今は事情が異なる。

シノという保護対象を連れての逃避行。

遅れを取るわけには行かないという意識が強くなるにつれ、緊張と焦りを抑えるのは難しくなって行った。



「どいつも、さほど怪しい素振りは見せないな」

通りに面するビルの非常階段。鉄の床に身を伏せつつ双眼鏡を覗き込みながら、ブルーティッシュの隊員は呟いた。

「だが、絞り込んだ中に居るはずだ…」

同じように双眼鏡を覗いている年配の白猿は、そう呟くと傍らのライフルを掴む。

「ちょ、ちょっと待てって!いきなり狙撃は…」

「ははは!せんせんそんな事は!…少し試してみるだけだ」

焦る同僚に笑いを向け、白い猿はライフルのスコープを覗き、その銃口を数名の監視対象の一人へ向けた。

それは、恐らく黄昏の残党とは違うと思われる、若い日本人女性であった。

白い猿はサイトに女性の横顔を収めたまま、トリガーに指を当てる。

その直後、スコープの中から女の姿が消えた。

「む!?」

ライフルから顔を離した白猿の視線の先では、若い女を組み伏せるようにして路面に押し付け、庇うように身構えている、

屈強な体躯をしたハスキーの姿。

数百メートルの距離を置いて白猿と視線をぶつけたハスキーの顔には、自分の失敗に気付いた痛恨の表情が浮かんでいた。

白猿は確信を込め、通信機を口元に当てつつ声を上げた。

「見つけた!ハスキーだ!おそらくかなり前から監視に気付いていたぞ!」



一流は一流を知る。

マーナが見せたあまりにも鋭い反応が、ただ者ではないという事をブルーティッシュのメンバーにはっきりと認識させた。

この時点で、ブルーティッシュのメンバー達は、潜伏場所だったホテル周辺から遠ざかる者に絞込んでマークしていた内の

一名…シベリアンハスキーの獣人こそが、ラグナロクの敗残兵である事を確信する。

同時にマーナも注意が自分に集中した事を捉えており、咄嗟の事で反応を偽れなかった己を責めた。

「痴漢だ!」

「女の子が押し倒されてるぞ!」

「おいお前!何やってる!?」

この頃の首都は、獣人差別が全く薄れていなかった。

シノを庇ったマーナの動きを勘違いした周囲の人々は、同類に異種族が暴力を振るっていると認識し、殺気立ってマーナに

掴みかかる。

が、その制止行動は、即座に暴行へ発展し兼ねない。

「違う!これは…」

「違うんです!今のは…」

マーナとシノが上げた説明の言葉は、しかし二人を荒々しく引き離そうとする人々の怒声や罵声にかき消される。

マーナは舌打ちをすると、自分の肩と腕を掴み、押さえ付けようとする若い男二人に、「済まぬ…!」と小声で詫びた。

次の瞬間、男達の体が宙に舞う。

それは正に、ふわりと浮いたと表現するのが適当な、重力を感じさせないような浮き上がり方だった。

きょとんとした表情で大人の肩辺りの高さまで浮いた男達は、一瞬後に重力に捕まり、硬い石畳に落下する。

掴まれていた両腕を振って軽く吹き飛ばしてやった男達が、腰を、肩を、背中を打って悶絶している様子には目もくれず、

マーナはすぐさまシノの腕を捕らえた。

「済まん、気付かれた!逃げるぞ!」

短く状況を伝えたマーナは、押し倒されたその時には事情を悟っていたシノが頷くと、強引に引き起こしつつ野次馬の中に

突っ込んだ。



「狙撃は不可能!くそっ!えらい騒ぎになってるぞ?」

「獣人は嫌われとるからなぁ」

白い猿が自嘲気味に呟きつつ階段を駆け下りると、その背に慰めの言葉をかけようとした同僚は、タイミングを逸して辛そ

うに顔を歪める。

「変わるって、その内…。きっと…」

同僚の心情を痛いほどに察して呟いた男は、彼に続いて階段を駆け下り始めた。



監視をまく為に、そして騒ぎから逃れる為に、マーナはシノを連れ、比較的人通りの少ない路地を選んで逃走した。

だが、賑やかな人混みを隠れ蓑にしようと考えたマーナの思惑がここでネックになった。

この界隈はどこの通りも人が多く、入り組んでおり、思うように逃げられない。

地の利は相手側にある。その事を念頭に置き、最大限に警戒しつつ逃げながらも、息を切らせ始めたシノを気遣うマーナ。

(いかん、シノがバテ始めた。追っ手を振り切るまで引っ張り回すのは無理か…!)

打開策を考えつけないマーナの手には、上昇したシノの体温がグローブ越しにも感じられている。

焦りが強くなったその局面で、マーナは目を見開いて急停止した。

路地の出口が車両で塞がれ、飛び出してきた数名の調停者が身構える。

振り返ったその時には、後方も同じ有様となっていた。

サイレンが鳴り響き、一般人に待避を促す警告が大音量で流れる。

路地に居たマーナとシノ以外の人々は、突然の出来事に恐慌状態になりながらも、前後どちらか近い方の出口へ殺到し、ブ

ルーティッシュのメンバーによって路地の外へと次々待避させられてゆく。

立ち尽くす二人だけが、前後を敵に封鎖された路地に取り残された。

この時、マーナは重大なミスを犯した。

逃げ惑う一般人の一人でも適当に捕らえてしまえば、交渉材料にも盾にも人質にもできた。

だが、根っからの戦士である彼の頭には、非戦闘員を盾に取るというその選択肢は、最初から浮かばなかったのである。

ラグナロク内で生まれ、ラグナロク内にしか居場所が無かったはずの彼は、自覚こそ無かったものの、骨の髄までラグナロ

クの方針とは相容れない存在だった。

交戦は避けられない。そう判断したマーナは、シノの手を放してグローブに燐光を灯す。

「…シノ」

「何?」

この状況下でも、シノの心中は不思議と落ち着いていた。乱れた息の隙間から出した返事は、弾んではいたが冷静その物。

一蓮托生。マーナが戦うその時は、自分も武器を手に取る。

来るべき時が来た今、その覚悟が彼女を常にない程落ち着かせていた。

「あと二十分、走れるか?」

小声で尋ねたマーナに、シノは頷く。

「あんたとだったら、何処までだっていつまでだって!」

その返答に、ハスキーは微苦笑した。

護るべき存在であるシノが、自分を支えてくれている。彼女が居たからこそ、心折れずに今日まで雌伏の時に耐えて来られ

た。

その事を強く自覚したマーナは、ダガーを抜いて身構えたシノに頷きかける。

同業者に刃を向けるその行為は、名実共に調停機関と決別する事を意味する。

(もはや何も言うまい…。シノを連れてこの国を出る。そしてグレイブ隊に戻り、隊長殿に直訴して彼女の保護を許して貰お

う。ハンターや調停者だった者が受け入れられた前例は無く、望みは薄いが…、それが叶わぬ時には…)

シノの決意を感じ取ったマーナは、迷いを捨てた。

(シノを何処か安全な国へ連れて行こう。辺境で良い、争いのない、穏やかな所へこの娘を送り届けよう。結果、反逆罪で抹

殺対象となっても…構う物か!)

唇を捲り上げ、牙を見せて獰猛な表情を作ったマーナの顔には、どこかしらすっきりしたような色が浮かんでいた。

警戒しつつ、全速力ではなく小走りに駆けて来るブルーティッシュの前衛三名。

対するマーナはぐっと身を沈め、「参る!」と叫ぶなりパチンコ玉が弾き出されるような勢いで突進を開始した。

遅れて後を追うシノは、相手が銃器で武装しているのを見て取っても怯まなかった。

ブルーティッシュメンバーが小脇に抱えて構えているのは、至近距離でも使用できる大型ゴム散弾をまき散らす銃。

スタンダードな武装として最近急速に広まりつつある、特自開発のスタンショット12Gは、それ自体も鈍器として扱える

銃だった。

ゴム弾とはいえ当たれば痛い。痛いどころか頭にでも当たれば一発で昏倒し兼ねない。体の前面に浴びせかけられれば、鳩

尾から顔面からまんべんなくゴム弾でタコ殴りにされ、大変な事になってしまう。
当然、目にでも当たってしまったら、か

なり高い失明の危険性がある。

そんな銃器が自分達の方を向いているにもかかわらず、シノは冷静だった。

ダガーを握った手が僅かに汗ばんでチリチリする。

銃口の動きを追う目はヒリヒリする。

鼓動は速まり血圧は上がり、体温も上昇している。

それでいて、肉体とは対照的に心は静かである。

適度な緊張によって理想的な臨戦態勢に入っているシノは、先行するマーナに大きく離されたせいで、そこからの一部始終

を全て観察する事ができた。

正面衝突を狙うかのようなマーナの突進に、まず真ん中の男が怯んだ。

マーナの圧倒的な速力は、ブルーティッシュのメンバーから見ても驚異的。

反射的な発砲。飛び散るゴム弾。しかしその全ては、マーナが前方に翳した右手の前で四方八方へ弾け散る。

グローブからドーム状に力場を発生させ、自身は勿論、後方のシノをもゴム弾から守ったマーナは、その半透明の赤いシー

ルドを展開させたまま正面の男に突っ込んだ。

前に突き出す腕はそのままに、半球形の力場を押しつけるようにして接触したマーナの前で、瞬時に力場の斥力に囚われた

男が勢い良く後方へ吹き飛ぶ。

一方、左右から挟み込む形になったブルーティッシュの二名は、三人一組でのポジション中央へマーナが進入した事で、同

士討ちを恐れて発砲が制限されてしまう。

脇に抱えた銃を離し、殴打すべく持ち替えて肉弾戦に切り替えた二人は、しかし同時に左右へ開いたマーナの掌を向けられ

た直後、鳩尾に衝撃を受けて体をくの字にする。

グローブから発生させたソフトボール大の力場の塊…斥力を伴う赤い球体は、弾丸にも劣らない速度で二人を襲っていた。

球形に凝縮した力場を、手の平に発生させた新たな力場で反発させ、はじき飛ばす。

斥力の相乗効果で高速射出されたそれは、グローブが生み出す力場がマーナから離れてはそう持続しないが故に射程が短い

ものの、範囲内であれば掌を向けるだけで撃てる。

(嘘みたい…!ブルーティッシュ三人が瞬殺じゃないっ!)

マーナに続いて駆けるシノは、未だ間合いに入れないまま舌を巻く。

強い強いとこれまで繰り返し思って来たものの、その気になったマーナは想像以上の強さだった。

一瞬の減速の後、再度加速したマーナの行く手には、長銃を構える年配の白猿。

マーナは間合いを詰めるその最中に精神を集中させ、能力を発動させた。

それは、ほんの一瞬の内に起きた、極めて奇妙な出来事だった。

交錯する寸前からその結果まで、周囲で一部始終を眺められる状況にあった他のブルーティッシュ達や、マーナ後方のシノ

でさえ、何が起こったのか把握できなかった。

発砲適正距離の内側に入られた白猿が、長い銃をクルリと回して逆手に持ち替え、まるで野球の打者のように大きく身を捻

り、フルスイングの一撃での迎撃を試みる。

極端な前傾姿勢で突進するマーナは、左右に大きく広げた両手から炎のようにたなびく赤い燐光を薄く、硬く収束させ、両

の掌を、特に指先を重点的に力場でコーティングする。

リーチの差、タイミング、接近速度、その全てが白猿の一撃でマーナが打ち払われる事を予測させた。

が、誰しもが予想したそのようには、事態は転ばなかった。

「…っむぅ?」

身を引き絞った白猿が、渾身の一撃を今まさに振り出そうとしたその瞬間、彼は何故か身をこわばらせ、脇を締めてスイン

グを中止する。

それはまるで、横合いから見えない何者かに不意打ちを受けたかのような、あまりにも不自然な動き…。

そのほんの一瞬の停滞は、類い希な戦速を誇るマーナに対して致命的な遅れとなった。

スイングを直前で停止させ、前に出ている白猿の左肩をマーナの右手が掴む。

力場によりコーティングされたハスキーの指先は、鋭い赤い爪を備えている。

力場の爪は強靱なジャケットをいともたやすく引き裂き、マーナはあけたばかりの穴に指を通してしっかりと握り込んだ。

それは言うなれば、肩に取っ手をつけられたような物である。

一瞬で有利なポジションと手掛かりを得たマーナは、一時逸らされた注意を戻した猿を飛び越し、宙で逆さになった。

その一瞬だけは、マーナが白猿の上で逆立ちしているようにも見える、力強くも不安定な、曲芸の一幕を思わせる絵ができ

あがっていた。

不安定な姿勢から振り上げられた白猿の長銃は、しかし力場でコーティングされたマーナの左手で捕らえられ、なおしっか

りと保持されてしまう。

「せいっ!」

ハスキーの薄く開いた口から気合いの声が漏れる。

掴んだ相手の肩を支点に、跳躍の勢いと己の体重をかけ、白猿の後方へと自分の体を引きずりおろすマーナ。

体格の良いハスキーと体を入れ替えられるようにして、白猿の体が浮き上がる。

足が地面から離れたかと思えば、着地したマーナに後方へと背負い投げされ、白猿はなすすべもなく、きりもみ状態で後方

に控えていた仲間達へつっこんだ。

投げ込まれた白猿になぎ倒される格好になった封鎖班は、しかしすぐさま体勢を立て直し、マーナの進撃を阻もうとしたが、

その時には既にハスキーは距離を詰めていた。

いち早く発砲しようとした一人は、マーナが投擲した槍のような物に襟を射抜かれ、路地出口を封鎖している車両側面に貼

り付けにされる。

バレルを車両のドアに突き刺して彼を縫いつけているそれは、白猿を投げ飛ばす際にマーナが奪った長銃。

牽制すら許さず一息に距離をゼロにし、シベリアンハスキーは卓越した体術でブルーティッシュのメンバー達をなぎ倒しに

かかった。

一名の首根っこを取って俯せに地面に押さえつけ、背中に掌で打撃を加えて息を絞り出させ、衝撃と酸欠で昏倒させる。

屈んだままのそこへ横合いから警棒で殴りかかった男を、手を取って勢いそのままに投げ飛ばし、横手の壁面へ叩き付ける。

立ち上がると、左右から直剣を手にして同時に斬りかかった二名を、片方は横蹴りで顎を砕き、もう一方は力場で覆った手

で剣を捕らえて食い止める。

八面六臂が現実の物となったかのようなマーナの戦いぶりに、後を追って駆け寄ったシノは手を出す余地もない。

死なない程度の加減を施しつつ、狭い範囲で荒れ狂うそれは、まるで竜巻のようですらあった。

半数以上が中位調停者で構成されるブルーティッシュの精鋭達が、マーナたった一人を相手に手も足も出ない。

剣を奪って鳩尾に拳を突き入れ、最後の一人を昏倒させると、

「このまま走れるな?シノ」

「え?ええ!」

あまりの光景に我を忘れかけていたシノに駆け寄ったマーナは、その手を掴み、路地の出口を封鎖している車両を乗り越え

にかかる。

(こんな…強かったんだ…)

シノは改めて、自分を導いてゆくシベリアンハスキーの常識外れの戦闘力に、度肝を抜かれていた。

騒ぎでごった返す人の波に、路地から飛び出した二人が突進する。

警官の規制線まで下がらされ、遠巻きに見物に回っていた野次馬は、路地から飛び出した獣人と若い女が自分達に迫ると、

暴徒を思わせる人の塊へと変貌した。

悲鳴に怒号。我先に逃げようとする野次馬達は、前に居た者は押し合いへし合い将棋倒しとなり、後方に居た者は蜘蛛の子

を散らすようにでたらめに駆け出す。

その混乱に紛れ込んだマーナとシノは、周囲の何人かに気付かれ、悲鳴を上げられながらも、ジグザグに走って自分達の姿

を人々に溶け込ませ、見えなくなった。



「そう…。生き残りが居たの…」

細くしなやかな指が、灰色の髪をかき上げた。

バーを思わせるカウンターと席が設けられた、薄暗い部屋である。

一度に二十人以上が入ってもゆったり過ごせそうなその部屋には、しかし人影はポツポツと三つあるばかり。

一人は、カウンターに立って黙々とグラスを磨いている。

能面のように表情が無い、長身で色白、整ったマスクに金髪碧眼の若い人間男性である。

もう一名はカウンターの方を向くソファーに踏ん反り返り、組んだ足をテーブルの上に投げ出し、女性の背を眺めている。

こちらは平均的な背丈に細く締まった体付きの、二十代前後と思われる狐獣人。

最後の一人は、カウンターの席について、飲みかけのブラッディマリーを前に、携帯端末で通信している。

おそらく三十には達していないと思われる人間の女性で、光量を抑えたブルーライトを背中に浴びながら、ソバージュのか

かったグレーの髪に赤く塗られた長い爪をからませ、携帯端末から漏れ出る声に耳を傾けている。

「そうねぇ、対処できれば良いけれど…、お願いできるかしら?…まぁ、念の為に私も向かうとしましょうね。せっかく近く

まで来ていたんですもの…」

小さく含み笑いを漏らす女性の唇が、きゅうっと三日月形を描く。血のように赤い三日月を。

一旦通話を終えた女性は再び端末を操作し、何処かへ連絡し始めた。

「そう、湾の中へ。なるべく近くで上陸したいわ。どれくらいかかるかしら?…ええ、結構よ」

二度目の通話を終えた女性の背に、若い狐が声をかけた。

「なあヘル。この潜水艦、今どの辺りだい?陸はまだ?」

椅子を半分回して振り返ったヘルは、退屈しているような狐の問いに、妖艶な笑みを浮べながら応じた。

「そうねぇ…、きっと二時間後の貴方は地上の空気を吸っていると思うわ」

「本当かい?…やれやれやっと外だ…」

背伸びをした狐の青年は、すっくと立ち上がるとヘルに歩み寄った。

乾いた血のようなダークレッドのジャケットとパンツで装われたしなやかなその肢体を、身ごなしを、ヘルは満足そうな目

で眺める。

「北原じゃ歯応えがイマイチなのばっかりだった。今度こそ骨の有るヤツと闘れると良いんだけどさ…」

「あらあらあら。困った子ねぇ、今回の目的は戦闘その物じゃないのよ?それにね、北原にも居たのよヘイムダル?腕が立つ

相手は」

微苦笑したヘルに、ヘイムダルと呼ばれた狐は隣に座りながらつまらなそうな表情を見せた。

「結局そいつら、ウルとベヒーモスに狩られちまったんだろ?おれの出番なかったじゃん」

「それは仕方が無いわねぇ。第一貴方、何本剣を駄目にしたと思っているの?見合う武器が現地に無かったんですもの、おま

けに大事な物を預けていたんだから、私としても下げざるを得ないじゃない?」

「だってどれも脆過ぎるんだ。…そういえば、おれの素体になったヤツって、普通の剣を使ってたのかい?」

「いいえ。…だからこそ、この国に来たのよ」

ヘルは薄く微笑むと、グラスを傾けて赤い液体をそっと啜る。

「名剣…いえ、名刀と呼ぶべきかしら?この国にはね、貴方が使えそうな刀剣類、いくつか心当たりあるのよねぇ…」

「それ、どういうのだ?」

目を大きくし、口元を弛ませつつ少し身を乗り出したヘイムダルに、ヘルはクスクスと含み笑いを返す。

「ひ・み・つ。着いてのお楽しみ」

「ケチ」

口を尖らせた狐から視線を外したヘルは、グラスの中の残り少なくなったブラッディマリーを一息に飲み干した。

バーテンの男性は二人の会話に口を挟む事もなく、黙々とグラスを磨いていたが、空になったグラスがしなやかな細指で押

し出されると、目礼して受け取り次の一杯を作り始める。

(この子に相応しい刀剣を探しに来たつもりが…、丁度、グレイブの生き残りが見つかった報告を貰えるなんてね…。つくづ

く、縁があるのかしら?)

ルージュとカクテルで、血に濡れたように赤く染まった唇を笑みの形に綻ばせ、ヘルは呟く。

「帰る所を無くした最後のグレイブに、安息への導きを…」



アイドリングするバイクに跨ったまま、白虎は顔を顰めて唸る。

「鮮やかなもんだ…」

タッチの差でマーナ達と接触できなかったダウドは、一連の話を部下達から聞き、感心すらしてしまった。

「ただ感心していられれば良いんだが…、そいつとこれから一戦交えるんだよなぁ…」

ガリガリと頭を掻き、面倒臭そうに零したダウドの目は、搬送されて行くメンバー達の姿を追っている。

(あれはわざと…か?殺せたはずだ。いや、殺す方が楽だったはずだ。なのに全員命に別状は無い…。きっちり死なん程度に

加減されてやがる。どういう事だ?俺達に対しての挑発にしては妙だ。メッセージ性が全く読み取れん…)

しばし考えたダウドは、傍らに立つ、ややしょぼくれている白猿に顔を向けた。

「連れられていた女の様子も、おかしかったと?」

「ええ。一度は完全に離れましたし、逃げられそうにも思えたのですが、刃物は抜いていたものの、無抵抗に腕を掴まれてそ

のまま…」

「恐怖で逃亡する意志も希薄になっている…か?しかし刃物を持っていたのは解せんな。取り上げられていない事にも何か意

味が…?」

接触状況の報告によりシノの様子を想像したダウドは、軽く頭を振って思考を切り替えた。

(この点に関してだけは幸いと言うべきだろう、そこそこ大事に扱われてるらしいな。下手をすりゃあ逃げられねぇように足

の腱でも切られているんじゃねぇかと心配していたんだが…。ま、認識や感覚に何かされちまってる可能性も考えるべきだろ

うな、何せ相手の能力は下手をすると…)

黙考したダウドは、白猿に改めて確認を取り始めた。

「話を戻す。繰り返して悪いが…。気配を察した。が、反応したらそっちには何も無く、その隙を突かれた。だったか?」

「妙な話と思うでしょうが…、事実です。何かの錯覚にしてはあまりにも…、実際に横合いから斬りかかられたような、あま

りにリアルで、極めて濃厚な気配でした。息づかいまで感じるような…」

ダウドは腕を組み、目を細くして「ふぅん…」と唸る。

「…こいつはやはり、シバユキと近い系統の能力者か…?顔や体格はちっとも似ていないが…」

呟いたダウドは携帯を取り出し、ユミルから送られてきた画像…街中の防犯カメラが遠方から捉えた、潜伏場所を変える際

のマーナとシノ、他複数名が写った画像を眺める。

 首を傾げた部下達の視線を受け、白虎は軽く顔を顰めながら呟いた。

「知り合いのトコに居るんだよ。相手の感覚に介入するっていう、とんでもなくえげつない能力を持ったヤツがな。…となる

といよいよ厄介だ。あの能力は性質上強弱関係にある能力者…つまりネネなら何とかできるが、それ以外の無効化手段となる

と…」

しばしブツブツ呟いていたダウドは、意を決して指示を下した。

「総員に通達。監視専念を命じる。そいつを見つけても絶対に手を出すな」

「は?はぁ、了解しました…。しかし、監視だけとは…?」

白猿に問われたダウドは、バイクのハンドルを握りながら口端を鋭角につり上げる。

「捕らえる役は、俺がやる」

獰猛な笑みを浮かべた白虎の感覚は、異質なそれをはっきりと捉えていた。

先日いくらか感じた微弱な残り香とは違う。ほんの数分前まで本人が居た場所の、新鮮な痕跡を。

今やダウド・グラハルトは、エインフェリア…マーナの反応を完全に捉えていた。