タンブルウィード(中編)
「早くも面が割れたか」
風にはためく幕の内側、足下を固めたコンクリートに何本か立った鉄骨に背を預けて座したマーナは、危機的状況に置かれ
ても取り乱す様子も見せず、どこか他人事のように呟いた。
一方で、向き合ってコンクリートにあぐらをかいたシノは、駆け通しでやや紅潮した顔に不満げな表情を浮かべている。
一度はブルーティッシュに包囲されたものの、これを難無く突破し、追っ手を振り切っては見せたが、どういう訳かそう距
離も稼がずに休憩を入れてしまったのである。
「だからさぁ、こうなったらもう隠れてもどうにもなんないじゃない?一気に港まで行って、船でも奪おうってこの際」
シノはそう主張するが、マーナは動こうとしなかった。
座り込んだシノがふくらはぎを揉みほぐしている様子を、考え込むような表情を浮かべたまま眺めている。
自分はともかく、連れの方は駆けるにも限界だった事を見抜いたからこそ、マーナは多少の危険を承知の上で、あえて一度
休憩を取ったのである。
高層ビル建設予定地。港まで僅か三キロ足らずの位置に、その場所はあった。
事前に頭に入れておいた地図から、着工して間もないこの場所を候補に入れていたマーナは、先のブルーティッシュとの接
触後、まずはここへ来る事を選んだのである。
実際に赴いて初めて詳細を把握したが、賑やかな太い通りを外れて一本中に入った位置、傍には小さな酒屋が一軒あるが、
他には店も無く人通りも少ない場所であった。
予想以上に休憩にうってつけな事に、マーナは天の配慮だと感謝すらしている。
「どうやら拙者の体は随分となまっていたらしい。久々の運動で少々疲れた。もう五分だけ休憩する」
「…嘘ばっか…」
また自分が足手まといになっている。そう実感しながら俯いたシノは、ピクリと体を震わせた。
都会特有の夜の街声に紛れる、エンジン音と排気音。その中の一つが少しずつ大きくなって来ていた。
車かバイクがこちらへ近づいて来る事を察し、警戒を緩めず音に気を配るシノ。
見た目の上では先ほどまでと変わらず泰然と座しているが、当然マーナはシノより先にそれを察知していた。
やがて、接近していたバイクらしき排気音は、二人が身を潜める建設現場から離れた位置で消え、中腰になっていたシノは
ほっと緊張を解き、立ち上がる。
「行こうマーナ。そろそろ五分じゃない?」
「…うむ」
頷いたマーナは、しかし何かを探るように耳をピンと立て、風の音に注意を払っていた。
(…考え過ぎ…か…?微かに足音が聞こえたような気がしたのだが…)
注意深く神経を研ぎ澄ませていたものの、特に異常は察知できず、シノに倣って腰を上げたマーナは、
「よしよし、どうやら人質は無事らしいな?」
突如響いた太い声で、即座に臨戦態勢に入った。
工事を請け負っている建設会社のロゴが入った、風にはためく丈夫な幕。
現場が外から見えないように、ぐるりと取り囲んで張られたそれの一枚に、マーナは鋭い一瞥をくれつつ、シノを背後に庇
う形で身構える。
それは、高さ2メートル半以上ある幕の上に、突如として現れた。
両膝を曲げて体をやや斜めにし、内側に骨組みを持つ高い幕の上端に手をかけて軽々と飛び越え、細かな砂を踏みしめる微
かな音だけを立て、白い体に濃紺を纏った獣人はコンクリートの上に降り立つ。
着地の際に僅かに曲げた膝と腰を伸ばし、上体を起こして真っ直ぐ立ったその男は、体格の良いマーナよりもさらに大柄な
虎獣人であった。
濃紺のアサルトジャケットにズボン、同色の多目的ベスト、分厚く頑丈な耐加重ブーツといういでたちで、バイクの運転な
どで用いるようなゴーグルを、額に上げて着用している。
筋骨隆々たる見事な体躯は白地に黒い縞模様を持つ毛皮に覆われており、闇夜に煌めく双眸は金色であった。
背には幅広の革ベルトでたすきがけに留めた、分厚い白布で包んだ長大な何かを背負っている。
「ダウド…グラハルト…!」
シノの口から、驚きで掠れた小さな声が漏れた。
その声に僅かに恐れと尊敬の念が宿っていた事には、本人は勿論マーナとダウドも気付いていない。
立ち上げから数年で瞬く間に成長し、国内でも最大規模を誇るまでになった調停者チーム。ブルーティッシュ。
強者揃いのメンバーを束ね上げるそのリーダーが、今シノとマーナの前に立っていた。
今でこそ広く名と顔を知られている白虎だが、調停者となるまでの経歴も、素性も、一切が知られていない。
神崎家と親密な関係にある事から、神将の類縁なのではないかとも噂されているが、確かな事は判らない。
そんな白虎だが、シノが知っている事もいくつかある。
その一つが、一騎当千を体現する絶対的な戦闘力であった。
彼女が欲しくて欲しくて堪らなかった、調停者として最も重要なファクター…すなわち戦闘能力を、この男は比類ないレベ
ルで保持している。
誰も敵わぬとさえ言われる程のとびっきりの力を持つ、首都の守護神…。シノが憧れた、本物のヒーローであった。
純粋な憧れから来る感動すら宿し、ダウドの姿を映して眩しそうに瞬いたシノの目は、しかしすぐさま我に返って緊張の色
に染まる。
彼女が憧れた最高峰の調停者。現在のその目的は、当然ながらマーナの捕縛、あるいは抹殺にある。
(マーナ…!)
シノが目にした、信じ難い程のハスキーの強さ。
もしかしたらマーナは、ダウド・グラハルトよりも強いかもしれない。
そんな事を考えつつ心の中で呼びかけ、背中を見遣れば、首筋の毛をぶわっと逆立てているハスキーの姿。
(緊張してる…?いや、緊張って言うか、これは…)
ピリピリとした空気を発散させているマーナは、幕を背にしてヌッと立つ、大柄な白虎を凝視している。
(何だ…?何だ、これは…!?)
強烈な圧迫感が、底冷えするような戦慄が、マーナの体を縛り付ける。
シノは察知する事ができず全く気付けなかったが、無表情、かつ面倒臭そうな半眼でマーナを眺め、特に身構えてもいない
大柄な虎から、マーナに対してのみ、濃密な殺意が投射されていた。
幾度も死地を乗り越え、死線を潜り抜けて来た、ラグナロク内でも精鋭中の精鋭であるマーナが、眼差しと殺気だけで射竦
められる。
そして彼はその感覚を、どこかで味わった事があるような気がしていた。
(どこか…、どこかで、これと似た感覚を…?いつだ?どんな状況で?思い出せないが、身体が覚えている…)
必死に記憶を手繰るマーナだったが、緊張と萎縮によって身体も思考も動きが鈍っている。
「…ふん…」
鼻を微かに鳴らしたダウドの、半眼に細められていた金の双眸に、失望の色が浮かんだ。
(確かにエインフェリアではあるが…、どれほどの相手かと思えば、この程度で竦んじまうような腰抜けか…。拍子抜けも良
い所だぜ)
ダウドの右腕がゆっくりと上がって肩を越え、背負った得物の柄に指先が伸びる。
「…まぁ、処分の手間がかからんのは、立場上歓迎すべき事だがな…」
呟いたダウドの手が得物の柄を握りしめる様子を、固まったまま凝視していたマーナは、
「マーナ…!」
背後に立つシノの、困惑と緊張が混じった声で我に返った。
蛇が威嚇するようなシュッという短い呼気を残し、シベリアンハスキーは地を蹴る。
戦慄と緊張からなる呪縛が、シノの声を耳にするなり一瞬で解けていた。
シノを守る。
もはや本能的とも言えるその使命感が、マーナの体を突き動かしたのである。
怯懦が一瞬で消え去り、戦士の顔つきに戻って突進するマーナの手が、赤い燐光に包まれる。
(む?…ありゃあ…)
距離が急速に詰まるその一瞬の間に、ダウドの目はマーナの両手に集中し、細められた。そして、何を思ったのか、白虎の
手は得物を抜かずに柄から離れる。
(懐かしいモンを身につけてるじゃねぇか…。だが何故コイツがヴァルキリーハンドを?誰から手に入れた?)
思念波を力場に変換する機能を搭載したレリックウェポン、多目的兵装ヴァルキリーハンド。それがマーナの装備である。
かつて面識のある者も使用していた、この世にたった二組しかないはずのそれを、今マーナが使用している事に疑念を感じ
たダウドだったが、
(…そういえば、あのでぶっちょもヴァルキリーウェポンの一つを使ってやがったな?犬獣人でエインフェリア、おまけに気
配も少々似てやがる。何か関係が…?…おっと、考え事は後回しだな)
マーナとの距離が詰まり、すぐさま思考を臨戦態勢に引き戻す。
突進の勢いそのままにフェイントもなく正面から突っ込んだマーナは、赤い燐光を灯した右拳を、白虎の顔面めがけて繰り
出した。
左腕を内から外へ動かし、拳を弾いて軌道を逸らしたダウドは、繰り出しかけた右腕を思い直して引きつけ、胸の前で水平
に寝かせて構えた。
鳩尾を狙って続けざまに繰り出されたマーナの左拳は、しかしガードしたダウドの太い腕をがつんと殴りつけて弾かれる。
しかしマーナは止まらない。息をつく間も与えず、ハスキーの右足が軽く地を蹴り、膝が跳ね上がる。
ボディブローは防がれたものの手応えは十分だった事から、右腕でのガードは膝で潰せると踏んでいたマーナは、しかし素
早く降りた白虎の右手が、十分に上がっていない膝をスパンと叩いていなすと、驚愕で首筋を冷やす。
(格闘の腕はハティ中尉殿と良い勝負か…。えぇい!とんでもない化け物が居たものよ!)
素手での格闘がダウドの本分でない事は、当然マーナにも分かっている。
相手に背の得物を抜かれて、間合いを保持されてはまずい。
マーナはその一心から、相手の抜剣を下手に誘わない為にも力場の双刀を使用せず、ゼロ距離での肉弾戦を挑んでいるのだ
が、格闘の腕においても優位には立っていない。
鋭い呼気が、肉を打ち骨が叩かれる鈍い音が、建築現場に響き続ける。
力場を纏っているマーナの拳を生身で受け続けながら、しかしダウドは痛みに顔を歪ませる事も、動きを鈍らせる事も無い。
(この男、合金ででもできているのか!?)
肉体の強度がマーナの両腕を覆う力場に負けていない。
本来あり得ないはずのその現象が自分の勘違いや錯覚などではない事を、手応えから悟る。
殴った感触が、弾かれるその手応えが、目の前の白虎の肉体がこれまで叩いたいかなる者とも異なっていた。
(何だこの感触は?まるで…、まるで、そう…)
マーナが想像したのは、金属か何か常識はずれの頑強な骨組みに、トラックのタイヤのような分厚く頑丈なゴムを被せ、縞
模様の毛皮で覆ったサイボーグのような存在の姿であった。
何故か毛皮の内部構造が空飛ぶ古代文明のロボット状のフォルムだったが。
(目から光線を出したり腕を翼のようにして飛んだりしたらどう闘えば良い?)
一瞬自問したマーナだったが、すぐさま、いくら何でもそれはない、と否定する。
だが、ダウドの体の頑強さは錯覚などではない。
(何らかの能力によるものか?人類の範疇を越えている…!自然な物では…)
そこまで考えたマーナは、手を休めぬまま己の考えに慄然とした。
(自然の物ではない…?つまり…、拙者のように…?)
優れた素体…、要するに優秀な者の死体を利用して産み出された人造獣人エインフェリア達は、程度の差こそあれ人工筋肉
や臓器、強化骨格への置換術などによって随所を改造されており、身体性能から反応速度、肉体そのものの強度までもが、並
の人類とは比較にならないレベルにある。
その中の一人であるマーナから見ても、ダウドの頑強さは通常の生物の範疇を大きく逸脱していた。
(まるで…、まるでこの男、エインフェリ…)
生じた疑念について、じっくり検討する余地は無かった。
力場を纏う拳を苦もなく弾いた白虎の左腕がマーナの右手首を取る。
しまった、と思うや否や、間髪入れずにダウドの右足が跳ね上がる。
咄嗟に左腕を下ろし、脇腹めがけて飛び込んだ丸太のような脚を防ぎ止めるが、片腕を捕らえられて吹き飛ばされる事すら
許されない体勢のマーナには、ガードの上からでも十分に効く蹴りであった。
得物を抜かせない為の近接肉弾戦においても、マーナ優性とは言い難い。
しかし離れれば相手側にとって有利になる以上、この間合いでこの戦闘方法を選択し続けるしかない。
苦痛を意志の力でねじ伏せ、捕らえられた腕を捻りつつ足払いをしかけて気を逸らし、自由を取り戻したマーナは、僅かに
間合いを開け、蹴り一発、拳一撃分のタイムロスを覚悟し、精神を集中させた。
瞬時に広域チャンネルに跨る思念波を発し、相手の思念波に同調作用を及ぼす独自の能力を発動させるマーナ。
だが、発すると同時に再び攻め入ろうとした彼は、ピタリと動きを止める。
金色の瞳をひたっと自分に据えている白虎に、能力の影響が見られなかったせいで。
「効かなかった…か?」
動揺を見透かしたようなダウドの囁きに、マーナはぎくりとした。
繰り出す蹴りが、拳が、相手の鼻先をかすめるか否かという、いまだ至近距離範疇にある僅かな間合いを保持した両者は、
交戦開始以来、初めて動きを止めている。
「センスジャック系能力。お前のソレはたぶん、一種のジャマーみたいな物か」
白虎が確信を込めて言い放つ。
「一切の媒介を用いずに相手の認識や意識、感覚に干渉する…。実際に体験した部下共の報告から察するに、それがお前の持
つ能力だろう?…だが、あいにく俺にはその手の能力は作用せん。そういう特異体質なんでな」
マーナは驚きながらも頷く。驚きよりも先に立ったのは、己の能力を看破したダウドへの素直な感心であった。
「…いかにも。拙者の能力は思念波の同調を利用して相手の感覚に干渉、気配を誤認させ、隙を生じさせる力よ…。拙者や仲
間は「タンブルウィード」と呼んでいる」
西部劇などで、向き合うガンマンの周囲を風に吹かれて転がってゆく、草の玉。
神経を限界まで張り詰める決闘に水をさすかのようなソレにちなんで名付けられたマーナの能力は、いわば意図的かつ強制
的に隙を作り出す能力であった。
思考の際には誰でも必ず発している思念波の同調を利用する為、この能力には効果的な防御手段は存在しない。
そして、手練であればある程、危機察知能力が優れていれば優れている程、マーナの能力は脅威となる。
能力などで無効化でき、全く作用しない相手を除けば…であるが。
素直に認めたマーナを前に、ダウドの顔が微妙に歪んだ。
「俺には効かんから暴露しても問題ないだろうが…、不意を突く性質上、バラさない方が効果的なんじゃないのか?その手の
能力は…」
短い間何かを考えるように黙り込んだシベリアンハスキーは、
「…できれば聞かなかった事にして頂きたい!」
真顔でダウドにそう告げた。
(…バカだコイツ…。ホンモノだ…)
半眼になったダウドは、顔を顰めつつ舌打ちし、それを合図にしたようにマーナが再び攻め込む。
(くそっ!妙な野郎だ、エインフェリアらしくねぇ!こっちの調子が狂う、やり辛くて仕方ねぇぞ…!しかも…)
最初こそマーナの萎縮する様子を見て見下げていたダウドだったが、今ではその評価を改めていた。
エインフェリアと一括りにしても、素体の力の影響を大きく受けるため、ピンからキリまで居る。
そんな中、自分が出会ったエインフェリアでも五指に入る強者だと、ダウドは気を引き締めている。が、疑問と好奇心が先
に立ち、本気でねじ伏せにかかれない。
(どういう訳だこりゃあ?見た目はまるっきり違うが、気配は似てるわ腕は立つわ、おまけにこの格闘術…、加えてヴァルキ
リーウェポンだと?アイツとやけに似ていやがる)
至近距離で蹴り、打ち、殴り、組み、投げ、受け、追い、叩き合う凄まじい格闘の応酬。
専門家である神代の当主ですら感嘆するであろうめまぐるしい肉弾戦の最中、ダウドの金眼はマーナに別人の影を重ねた。
(確かに似てるぜ…、あの白いでぶっちょに…)
かつて一度矛を交えた白犬の、体格の良いマーナよりもさらに一回り大きい姿が、どういう訳かハスキーに重なって見える。
内に宿す何かを無関心と無気力という枷で縛り付けたような、静かで危険な白い巨犬…。
追憶と幻想をダウドの頭と視界から追い払ったのは、無数に放たれたマーナの攻撃の一つではなく、皮肉にも別方向からの
刺激であった。
派手な破砕音と、闇に慣れた目を刺す強烈な光。
音と光の出所は、即座に瞳孔を収縮させて目を細めた二人の横手方向。
建築現場の出入り口となっている組み立て式の鉄のゲートを突き破って進入し、目映いヘッドライトで二人を照らしたのは、
ボディ横に酒屋の名前がペイントされた、塗料の白も汚れでくすんだ軽トラックであった。
「マーナ!逃げようっ!」
開け放たれていた運転席の窓から乗り出すようにして顔を出して叫んだのは、二人の戦闘中に機転を利かせて足を用意した
シノである。
悔しいが、二人の戦闘に自分が介入できない事は判りきっていた。
手助けに出てもマーナの邪魔にしかならない事も。
そこで彼女は、来る途中で見かけた酒屋まで走り、キーが付いていた軽トラックを拝借して来たのである。
「何だと!?」
珍しく白虎が驚愕と焦慮の表情を見せた。
思うところがあり、マーナに意識を奪われていたダウドは、彼女の動きにさほど気を配っていなかった。
シノがこっそりと離れ始めた様子は視界の隅に捉えていたものの、それは人質である彼女が逃亡のチャンスを得て、離脱し
ようとしているからだと考えていた。
だが、救出対象である同業者は、居なくなったと思えば軽トラックに乗って戻って来て、敵であるはずのハスキーの逃走を
手助けしようとしている。
多少の事ならそこまでの隙は生まなかっただろうが、これは事態の全てを察している訳ではないダウドにとって衝撃的な展
開であった。
脳はすぐさまその異常な状況を把握したが、同時に浮かんだ「何故?」が、次の行動を阻害した。
シノを敵と断じられず、彼女がマーナに協力する理由も解らない。
混乱と困惑。そして何よりもダウド・グラハルトという男の最大の弱点、「女に対しての甘さ」が僅かな隙を生み出した。
相手が男であればマーナと距離を取って抜剣し、巨剣の一振りで突風を発生させ、とりあえず邪魔にならないよう車を横転
でもさせて黙らせる所である。
が、相手が女性であるが故に、ダウドはその乱暴な手段を実行に移せなかった。
ダウドが見せた一瞬の動揺。刹那のその隙を、シノが作ってくれた最大の好機を、マーナは逃さなかった。
踏ん張った足が一瞬で最大緊張。各所全てのリミッターが外れ、皮膚が爆ぜそうな程の力がマーナの全身に漲る。
(動け体よ!オーバードライブ…、ツナミ!)
沈み込んだマーナの体が伸び上がり、注意が逸れたダウドの顔面、その眉間から上の半分を覆うように手で捕らえ、仰け反
らせる。
「むぅ!?」
目隠しした手に、我に返ったダウドの手が伸びるが、掴まれる前にマーナの右足が、分厚い筋肉に守られた白虎の腹を捉え
ていた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
咆哮と供に放たれる、裂帛の気合いと渾身の力を込めた、射抜くようなサイドキック。
頑強なダウドの体をくの字に折らせる程の蹴りに続き、手を離して身を捻ったマーナの左足が鋭く跳ね、白虎の顎をつま先
で蹴り上げる。
自分より大きな白虎の体を宙へ浮かせたハスキーは、衝撃に備えて腰を落とし、両手を前に突き出し、バスケットボール大
の球状に集中させた力場を爆ぜさせた。
大気が粉砕される破裂音と同時に、衝撃波を全身に受けたダウドが宙を舞った。
腕を交差させて首と顔面をカバーしながらも、砲弾のように飛ばされた白虎の体は、プレハブの仮設事務所の壁を背中で破
壊し、轟音と共に中に消える。
ハスキーの体を彩る白い毛が闇にラインを引き、僅かに速度が落ちたポイントに残像が留まる、電光石火の瞬撃であった。
射出と近距離炸裂の反動でざざっと後退したマーナに、シノの声が浴びせられる。
「マーナ!乗って!」
「面目ない、助かったぞシノ!」
タイヤを鳴らしながら滑り込んだ軽トラックの荷台に、礼を言うマーナがひらりと飛び乗り、オーバードライブを解除する。
マーナのオーバードライブは、瞬発力増強と思考の高速化に偏ったタイプである。
飛び交う弾丸に反応し、爆発的な加速を生み出し、打撃力までも上昇させるものの、その持続時間は短い。
頑丈なエインフェリアの体にもその負担は大きく、数秒間の発動に留めなければあっという間に体がズタズタになってしま
うのである。
マーナを荷台に乗せたままけたたましいスリップ音を響かせ、急旋回した軽トラックは、進入時に破壊したゲートの残骸を
ボコボコと踏み、身じろぎするように揺れながら道に出て行く。
軽トラックが姿を消したちょうどその時、砲弾にも等しいモノを撃ち込まれて半分倒壊した仮設事務所の一角、その天井を、
黒い何かが下から裂いた。
巨剣が高速で動き、三角に切り裂いた屋根に生じた空間から、白い虎がぬぅっと姿を現す。
「ふん…。逃がしたか…」
剣に巻き付けてあった白布はずたずたになり、破砕された仮設事務所から立ちこめる粉塵と共に、その残骸をダウドの周囲
に漂わせている。
緩やかな風を纏う黒い巨剣を肩に担いだ白虎は、残骸の中に落ちていた自分のゴーグルを拾うと、トラックが姿を消したゲートを見遣り、遠ざかるエンジン音と危なっかしいスリップ音に耳を澄ませた。
「…姉ちゃんのあれは…、ストックホルム症候群の一種…と言った所か?」
蹴られた顎下を擦りながら呟いたダウドは、思慮に沈むように目を細めた。
常人ならば即死どころか、遺体も五体留めたままではいられないであろう強烈な近距離爆破を受けながら、しかし白虎はい
ささかのダメージも負っておらず、蹴られた顎を少し気にしている程度である。呆れるような頑丈さであった。
「人質に取られての逃亡劇の内に、情でも湧いたか…」
ゲート方向を見据えたまま、白虎は腕を組み、面倒な事になったとばかりに顔を顰める。
(やれやれ、厄介な事だ…。調停者の内情を知ったヤツが付いたとなれば、普段通りの包囲じゃあ、予期せず穴を潜られる可
能性もある…。おまけに相手はエインフェリア…、万が一にも生きたまま捕らえられて下手に解析されてもまずいからな、監
査官や特自まで巻き込んでのおおっぴらな包囲網は敷けん…)
胸の内で呟き、踵を返したダウドは、周囲に散乱するガラス片を踏みにじりながら携帯を取り出すと、
「俺だ。対象の捕縛に失敗。現在地を転送する、逃走ルートを張り込んでくれ。…それと、現場の事務所を壊した。この位置
に処理部隊を…」
指示を出しつつ困ったように眉尻を下げて周囲を見回し、ガリガリと乱暴に頭を掻いた。
疾走する軽トラックの荷台から脇に身を乗り出し、マーナは運転手に話しかける。
「このまま海岸付近まで走れるか?」
「まかせて!」
開け放っている窓から威勢の良い声を返し、シノはアクセルを踏み込む。
警察に見つかろうが検問があろうが、なりふり構ってはいられない。
マーナの顔が知られた上に、自分が協力している事もバレた。
もはや一刻の猶予も無い。ブルーティッシュが各方面に連絡を入れ、包囲網を完成させる前に、脱出手段を確保しなければ
ならない。
「湾岸についたら適当な船を探すからね!…贅沢言えないしこの際ボートとかでもいいや。運転できる?」
「問題無い。経験は無いが、プログラムされている」
マーナは自分のこめかみを指先でトントンと軽く叩いた。
「は?プログラム?」
「つまり、やった事は無いが知識はあるので問題ない」
「…ほんっと〜に大丈夫なんでしょうね…?」
「任せておけ」
サイドミラー越しに胡散臭そうな視線を向けて来たシノへ、マーナは自信たっぷりに頷いて見せた。
エインフェリアの脳には、任務や戦闘に関わる一通りの知識などが収められたチップが埋め込まれている。
だが、それは単なるデータチップなどではない。
そのチップこそが、一度は死んだ脳を再生させ、人工人格を形成している。
一度死に、再活性させられた脳は、五体に駆動指令を出す二次的かつ補助的な器官に過ぎず、素体となった者の生前の体験
や記憶はエインフェリアに受け継がれない。
いわばチップは、エインフェリアとしての本当の脳の役割を果たしているのである。
(会いたくない相手と不運にも出くわしてしまったが、シノのおかげで事無きを得た。幸運の女神とは正にこれだな)
呼吸を整えつつそんな事を考えたマーナは、ふと、体の不調に気付く。
(手足が重い…。体がだるい…。冷却機能が上手く働かず、体温が下がらない…。オーバードライブの副作用がもう出始めた
のか?…いかんな、この状態で敵と出くわすと少々ほねだ…。歯痒いが、中尉殿のおっしゃる通り多用すべきではないな)
軽い眩暈を覚えて俯き、額に手を当てたマーナは、しかし何かに気付いたようにすぐさま顔を上げる。
「…シノ。行く手が騒がしくないか?」
荷台から身を乗り出しているマーナが、目を細めて背筋に力を込める。
「え?…何も聞こえないけど?サイレンだって鳴ってないし」
「騒がしいのは音ではない。気配だ。密かに何かを為そうとしても、急げば気配に乱れが生じる。サイレンの如き騒々しい音
を探すな。鳥がせわしなく羽ばたき、小動物が駆け回るような、地味で騒がしい気配を探せ」
まるで音や気配を目で見ろとでも言うように諭すマーナの言葉に、半信半疑ながらも従うシノ。
(マーナの耳とあたしの耳じゃ出来が違うんだから、耳澄ましたって、どうせ風の音とエンジン音で聞こえやしな…)
心の中でぼやいたシノは、しかし驚きに目を見開いた。
カシュッ…キン…と、彼女自身はあまり馴染みの無い、しかし記憶に残っている音が、数度聞こえて。
「何今の!?上っ!?」
「いかん待ち伏せだ!狙撃されるぞ!」
マーナの警告が発せられるその直前に、シノは急ハンドルを切っていた。
軽トラックはけたたましいスリップ音を響かせつつ、車体の左側を前に向ける。
大きく傾き後ろ側になった車体の右側を浮かせ、滑りながら急停止した軽トラックの天井に、バチュンッと音を立てて何か
が当たり、風穴を開ける。
荷台のマーナはバランスを崩したものの、すぐさま体勢を立て直して両手を頭上に翳し、グローブを起動させる。
薄く広く傘のように展開された力場が、軽トラックの屋根を覆って頭上からの射撃を防ぐ。
舌打ちしながら頭上を睨むマーナの瞳が、横手に聳える英会話教室のビルの非常階段や、反対側の銀行の屋上に潜んで自分
達を狙う、ネイビーブルーの軍服に身を包んだ一団の姿を捉える。
(あのいでたちは確か…、特自の工作部隊?厳戒態勢でもない今、何故避難勧告も出されていないここに?)
調停者とは違う、国家直属の部隊である。いかに警戒態勢下の首都とはいえ、警官のようにパトロールしている訳も無い。
そもそも、マスクまで着用した完全な戦闘態勢でパトロールなど、普通に考えればありえない。
(たまたま他の任務に当たっている最中で、我々の捕縛…いや、抹殺の協力を求められたのか?それとも拙者が読み違えただ
けで、包囲網はいささかも緩められてはいなかったのか!?)
そう自問したマーナは、答えが出せないまま当面の危機を乗り切るべく、素早く視線を走らせる。
相手部隊の規模を探りつつ突破口を模索したマーナは、軽トラックは捨て、その辺りの建物に侵入し、屋内を通過しつつ徒
歩で逃げる事に決めた。
「シノ!悪いが再び徒歩で逃げるぞ!」
銃撃の隙をついて荷台から飛び降りつつ叫び、ハスキーは運転席のドアに手をかける。
「行くぞシノ!銃弾は拙者が防…」
ドアを開け放ったマーナは、言葉の途中で、口を開けたまま固まった。
シノは硬く目を瞑り、右手で左肩を押さえている。
その白く細い指の隙間から、滾々と赤い液体が湧き出ていた。
「シノ!?被弾したのか!?」
軽トラックの天井に穴を空けた一発は、シノの左肩にほぼ真上から命中していた。
「シノ、しばし我慢してくれ!」
シノを車内から引っ張り出したマーナは、抱える手からシノを覆うように力場を発生させた。
防弾ジャケットを着ているとはいえ、自分の被弾を全く顧みない格好でシノを護るマーナは、奇しくも、最初に出会ったあ
の夜、爆炎から彼女を庇った時と同じ選択をしている。
「気をしっかり持て!すぐ手当てする!」
一刻も早く安全な所へ。それだけを考え、マーナは無防備に背を晒して駆ける。
ビスッ、ビスッと音を立て、ハスキーの背中左側と、右肩に、銃弾が潜り込む。
それでもマーナは止まらない。己の痛みよりもシノの負傷で顔を歪ませ、歯を食い縛り、呻き声一つ漏らさずひた走る。
だが、マーナは気付かない。
シノが帯びている材質不明のダガーが、彼女の体から流れ出た夥しい血液が鞘を染め、僅かに中に流れ込んだ事で、変化を
生じ始めている事には。
刃に染みたシノの血に反応するように、ダガーが微かに、怪しく脈打ち始めている事には。
背や肩に四発もの銃弾を浴びたマーナは、シノを正面から抱き締める格好のまま、横手の英会話スクールの窓を破って内部
へ侵入し、姿を消した。
銀行の屋上からその様子を見ていた男がヒステリックに叫ぶ。
「ええい何をしとる!逃げたぞ!追え!」
特自隊員達は、言われなくとも判る事を喚く監査官の指示に従い、言われなくともそうする事を無言で実行に移す。
上からの命令で極秘任務に就いている彼らは、監査官が何者を追っているのか、追われる側が何をでかしたのか、全く知ら
されていない。
中将から直々に、何も問わずに監査官に従えと命じられただけである。
疑念はあるが、今はその事を考えない。
彼らは、ブルーティッシュのメンバーにも匹敵する精鋭中の精鋭であると同時に、忠実なる愛国の徒であった。
そんな彼らを率いている、ブツブツと何事かを呟き、爪が手の平に食い込むほど強く拳を握り締めているその監査官は、
「あの犬の始末はレディヘルの厳命…!おまけに小娘も一緒だった…!逃がす訳には…、逃がす訳には…!」
襲撃事件の夜、人質のシノもろともにグレイブ第二小隊殲滅命令を下した、あの男であった。