タンブルウィード(後編)
首都の目と鼻の先、半島の付け根に位置する、貨物船などが停泊している港の沖合で、鉄の塊が静かに浮上する。
漆黒の潜水艦は側部のハッチを開けて小型ボートを排出すると、ぶつかり合う静かな波と微かな渦をいくつか残し、再び潜
行した。
小型ボートには、二十名足らずの人影が、ひっそりと乗り込んでいた。
ボートを操作しているのは、黒いゴーグルとヘルメット、防弾ジャケット等で武装したラグナロク兵二名。
後ろのスペースには、黒々とうずくまる十数名の黒い人影。全てが武装したラグナロク兵である。
前後から均等の距離にある、武装した兵士達に護られた中央の座席には、潮風に灰色の髪をなぶらせるヘルと、その配下で
ある若い狐が座っていた。
ヘイムダルは両腰に細身の剣を帯びた以外には、艦内に居た時と変わらない格好である。
何を思うのか、低く垂れ込めた雲を下から照らす、街全体が発光しているような首都の姿を、細めた目で眺めている。
一方でヘルは、中枢メンバーである事を表す徽章が襟についた、ラグナロク高級将校専用のダークレッドの軍服に着替えて
おり、小型の携帯端末を耳元にあてていた。
「…そう、逃げたのねぇ?流石はエインフェリア。流石はガルムシリーズの成功例。…と言ったトコかしら?」
『こ、こちら側で何とか処分致します!』
通話相手、ラグナロクと内通している監査官に、「そう願いたいものねぇ」と、さして期待していないような口調でヘルは
返す。
が、シノの生存が明らかになった今、証言されれば立場上あまり宜しくない監査官は、ヘルの自分に対する評価が下落しつ
つある事にも気付く余裕は無かった。
今夜も既に何度か権限を乱用している上、毎晩のように調停者達の通信を非合法に傍受している。
その甲斐あって、今夜はブルーティッシュの通信からシノの生存を確信し、見逃さずに済んだのだが、万が一逃してしまえ
ばまずい事になる。
違反のいくつかが明るみに出れば、身辺調査が行われる。それでラグナロク…非合法な犯罪組織と繋がりが合ったとバレて
しまえば、彼が築き上げて来た物は全て崩れ去ってしまう。
『…ところで…、あの部隊も、あの生き残りも…、何故処分対象に?それも外部の手でとは…。黄昏にとって何か不都合な事
がおありなので?』
ラグナロク内で処分できない理由があるのか?だからこそこんな回りくどい真似をしているのか?
気になって訊ねた監査官に、ヘルはうっそりと、暗い笑みを口元に湛えて応じる。
「それは、知らなくとも良い事だと思うわねぇ…。監査官さん?」
『は?…は、はい!』
通話を終えたヘルは、携帯端末をポケットに納めると、
「ケルベロス最後の頭は、今宵落とされる…。さっき生きていたと聞かされた時にはちょっぴり驚いちゃったけれど、これで
やっと処分完了ね…。なぁにヘイムダル?」
何か問いたそうに自分を見つめている狐に気付いて独り言を打ち切り、首を傾げた。
「北原でも、ここ来る途中でも、かいつまんで話聞いてたけどさ、何でガルムシリーズってヤツらを処分して回らなきゃいけ
ないんだ?理由は?」
「理由が無ければ戦えないかしら?」
「いいや、戦えるなら理由は要らないさ」
ヘイムダルはニヤリと不敵に笑い、ヘルは微苦笑する。
「ガルムシリーズ全てじゃないのよぉ?処分しなければならなかったのは、その内の三名だけなの」
「そうなのか。おれはてっきり…」
一度言葉を切ったヘイムダルの口元に、より深い笑みが浮かぶ。
それは、整っている顔立ちとは裏腹に、とことん獰猛そうで、どこまでも物騒な、酷く危険な笑みであった。
「ウルも、いつか殺して良いのかと思ってた」
「予定は無いわよ。「今の所は」だけれど。…ま、彼自身には問題が無いようだし、レヴィアちゃんの管理がしっかりしてい
る以上は、その機会も無さそうねぇ」
「やるならおれにやらせてくれ。アイツは強い。アイツとなら楽しい殺し合いができそうだ」
ヘイムダルは欲しいおもちゃを前にした子供のように目を輝かせながら嬉々としてそう語ると、小首を傾げてヘルに問いか
けた。
「…で、処分対象になってるガルムシリーズは、何でそいつらだけ殺される訳?」
「う〜ん…。まぁ、貴方にとっては下らない理由かもねぇ…。簡単に言うと、ああいったエインフェリアが存在しているのは、
わたしや先生にとって歓迎できない事態なのよ。ただでさえ大量生産兵の質の向上が目覚しい今、一部の再生戦士に欠陥があ
る事が知られたら、ちょっとまずいのよねぇ…」
「ふーん。良く判らないな?」
「でしょうねぇ。上の仕組みが理解できていないと解り辛いと思うわ。要するに、いくつもの部門を持つ会社内での次期主力
プロジェクト争い…みたいな物かしら?苦労して復活させたエインフェリア製造技術を、大量生産クローン技術なんてつまら
ないものに取って代わられるのは、わたしと先生からすれば気分が宜しくないって訳ねぇ」
「へぇ…。やっぱ良く判んね。けど今はいいや。その辺は今度勉強してから改めて教えてくれ」
「今の中枢の仕組みに関しては、艦の誰かに聞くと良いわ。知っている事は教えてくれるでしょう。それで判らなければわた
しにお聞きなさい?」
「じゃあそうするか」
ヘル専用の小型潜水艦のクルーは、直属の士官や兵士達で固められている。
彼女が他者には伏せている事柄も、彼らにはある程度は教えられていた。
ヘルの命令を至上の物とする彼らは、ある意味、ラグナロク内における独立勢力、ヘル親衛隊ともいえる。
彼女と同格である他の中枢メンバーであろうと、その中でも最も頂点に近い位置に居るとされるスルトやロキですらも、ヘ
ルに断り無く彼らを動かす事も、構成に干渉する事もできない。
専属エージェントたるヘイムダルもまた、彼ら同様に、ラグナロクそのものではなく、ヘルに付き従う存在であった。
特殊な条件を整えて生産されたばかりの彼には、本来ならば脳内のチップにインストールされているはずのラグナロクの構
造や体質、そしていくつもの例規が全く入っていない。
ヘルが必要と判断した事だけを徐々に教え込まれ、少しずつ覚えている途中である。
そうやってヘルはこの狐を、組織に従う存在ではなく、自分個人に忠誠を誓い、服従する存在として完成させてゆく。
必要となれば、時には組織内の決まりに背く事も躊躇わず選択する、忠実なるヘルの従者…。
それが、とある優れた調停者を素体として生み出された、ヘイムダルという名のエインフェリアであった。
黒塗りの高速ボートは、脅威を乗せて岸壁へと近付いてゆく。
密やかなる首都の騒動は、ますます混迷の度合いを深めて行った。
速度を落とし、駆動音を虫の羽音ほどに抑えたボートは、闇夜の海上を微かな波音に紛れて進み、岸壁にそっと寄り添った。
灯りの死角となる位置で、まずは兵士達が上陸し、周囲を窺った後にヘルを岸へと迎え上げる。
斜めにかけられた足場を歩んで上陸したヘルに続いて、高さのある岸壁へひょいっと身軽に飛び上がったヘイムダルは、陸
の臭いを嗅ぐように微かに鼻を鳴らした。
「あら?そんなに岸が恋しかったのぉ?」
可笑しそうにクスクス笑ったヘルには答えず、狐は腰の剣に手をかけた。
次の瞬間、しゃりっと微かな足音を立て、暗がりの奥、積まれたコンテナの影から何者かが姿を現した。
それは、軍服を纏う、背筋の伸びた壮年の男であった。
紺色の軍服の胸元には、特自である事を示す徽章。帯びた階級章は准将のそれである。
壮年は自分に気付いたヘルに向かって口を開き、
「お早いお着きで、ヘ…っ!?」
目前へ不意に飛び込んで来たそれに気付き、息を飲んだ。
「お止めなさいヘイムダル」
壮年の顔が蒼白になり、大きく見開かれた目が、自分の首横数ミリの位置で止まった、片刃の黒い直刀を凝視する。
その顔を、ぶわっと風が叩いた。
引き連れる風だけを通り過ぎさせ、壮年の目前で抜刀したまま静止している若い狐は、
「斬っちゃマズいヤツだったのか?ヘル。この制服、特別自衛隊とかいうアレだろう?」
首を巡らせ、ソバージュの女性を振り返って、全く緊張の無い声で訊ねた。
岸壁に登る前から何者かの存在を察知していたヘイムダルの行動は、淀みも無ければ躊躇いも無い。
しなやかな細い肢体は、瞬時に全身のリミッターを解除し、肉眼で捉える事も困難な程の神速で移動していた。
「彼は味方よ。擬態しているだけでね。貴方と同じくエージェントなの、名前はラタトスク」
「ふぅん…」
ヘイムダルはちらりと壮年の顔を見遣ると、剣を収めて無造作に踵を返す。
興味を失ったように自分に背を向け、ヘルの傍らへ戻る狐を見つめながら、ラタトスクは一瞬で汗だくになった体を寒気に
震わせる。
若い狐は壮年がヘルの前方に現れると同時に、左腰に吊るしていた剣を抜き放ちつつ、素早く前進していた。
夜風の如く接近し、十数メートルにも及ぶ距離を一瞬でゼロに変え、握った剣を素早く横なぎにしたヘイムダルの動きは、
兵士としても決して無能ではないラタトスクの目ですら、捉え切る事ができなかった。
ヘルが止めなければ首が飛んでいた所である。
何よりも彼を慄然とさせたのは、その異常な殺気であった。
目前に至り、抜刀するその瞬間まで殺気は無く、気付いた時には濃密な、物質的な影響力すら持っているかのようなねっと
りとした殺気が、彼を完全に覆っていた。
しかもそれは、ヘルが制止した途端に錯覚だったかのように消え失せている。
まるで、スイッチ一つで戦闘モードと通常モードを切り替える機械のようだと感じながらも、それだけでは説明の付かない
アンバランスさに恐怖に近い物を覚える。
無造作な足取りでぶらぶらとヘルの元へ戻る若い狐には、機械的な無機質さは全く感じられない。
むしろ兵士にすら見えず、その辺りに居る気ままな若者のような雰囲気すらある。
その振る舞いと奇襲の際に見せたスイッチングが、どうにも噛み合わない印象をラタトスクに与え、薄気味悪さをその心へ
刻み込んでいた。
「で、誰のエージェント?」
ヘルの傍に戻った狐は、退屈そうに両腕を頭の後ろで組みつつ主に尋ねる。
「フレスベルグのエージェントよ。…あら?今はニーズヘッグのところだったかしら?」
「へぇ。ま、どーでも良いや」
自分の事をヘルに訊いてはみたが、実はさほど興味は無い。そもそも敵と誤認して切りかかった事を詫びもしない。
そんなヘイムダルの態度に腹を立てる事も、萎縮している今のラタトスクにはできなかった。
「わざわざお出迎えしてくれたのに、ごめんなさいねぇラタトスク。この子ったらホントあわてんぼうさんだから…」
本当に悪いと思っているのかどうか、いつも通りに微笑むヘルの表情からは、本音が全く覗えない。
「改めて紹介するわねぇ。この子はヘイムダル、わたしのエージェントよ。就任したばかりなの、よろしくね?」
「は…、はぁ…」
本人はもはやラタトスクへの興味を完全に失っているのか、ヘルの兵達に紛れ込んで周囲を眺めたり、街灯りを遠く望んだ
りと、紹介されているにもかかわらず注意を向けさえしない。
「で、先に監査官のおじさまから連絡は受けていたけれど、状況はどうなのかしら?」
問われたラタトスクは、気を取り直してヘルに状況の説明を始めた。
「…と、改めてご報告できるような事は以上です。特自の腕利きを二十名与えました。そう人数は居ませんが、質だけならブ
ルーティッシュにも負けません。抹殺対象のエインフェリアも、その連れも、揃って負傷しているようなので、追跡も間もな
く終わるでしょう」
「結構よ。…まぁ、あのおじ様の指揮では詰めに不安も残るけれど。…それにしても…」
ヘルは細めた眼を怪しく光らせる。
「ダウドと接触したのねぇ…?それでも逃げおおせた、と…」
「監査官が駆けつけた際には既に白虎の姿があったので、半ば諦めていたようですが、幸いと言えましょうな。…一体どんな
手を使ってダウド・グラハルトから逃れたのか…」
「惜しいわねぇ…」
訝しげに述べたラタトスクの前で、ヘルはポツリと呟く。
「欠陥品でさえ無かったら、グレイブのケルベロスは全員、エージェントとしても合格のレベルにあったのに…」
「シノ…!しっかりしろ!」
脱いで引き裂いた自分のシャツでシノの左肩をしっかりと縛りながら、切羽詰った声でマーナが呼びかける。
己の負傷を全く考慮せず盾にし、シノを抱えて窮地を脱したマーナは、窓を破って侵入した建造物から裏へ抜け、同じくい
くつかの建物の壁を強引に破砕して最短距離で逃走した。
四発被弾し、血流と筋肉を操作して意図的に出血を抑え、手負いの状態でありながらも地の利を押さえた特自の精鋭達を引
き離すその機動力と判断力、勘の良さは、負傷者を抱えている事を加えて考慮すれば驚嘆すべき手腕であった。
その逃走劇の後、路地から路地へと縫うように駆けてたどり着いた場所が、現在身を潜めているここ、港からほど近い位置
にある消防団のポンプ車置き場である。
シャッターをこじ開けて侵入し、シノを冷たいコンクリートの上、ポンプ車の脇に寝かせて手当をするマーナの顔には、焦
慮と苛立ち、そして悔恨の色が深く滲んでいた。
「平…気…。痛い事は痛いけど…、そんな…、我慢できないぐらいじゃないから…」
答えるシノの唇からは赤みが失せ、紫色に変じつつある。
血の気を失った肌は白く、どこまでも白く、陶磁器のように無機質な白へと近づいてゆく。
痛みが漠然としているのも当然で、シノの出血は既に危険な域に達している。
弾丸は骨に当たって止まったらしく、貫通していない。
軽トラックの屋根に当たって勢いを削がれたせいもあるが、今回に限っては威力減殺が被弾者にプラスに働いていなかった。
勢いを弱めて体内に留まったその弾丸は、シノの肩に侵入した後に軌道をずらされ、動脈を損傷させてから止まっている。
心臓に近い位置の太い動脈を傷つけられたシノの体からは、夥しい量の血液が止めどなく流れ出て、見る間に体温が低下し
てゆく。
逃走経路には血痕も残っている。今回ばかりは、痕跡を気にして逃げるだけの余裕がマーナには無かった。
追撃を振り切れてはいないはずだが、それでも彼が足を止めたのは、シノの負傷が危険なレベルにあると敏感に察知したか
らである。
兵士。それもラグナロクの兵士としては完全に失格となる穴だらけの行為ではあったが、今のマーナにはシノの状態が全て
に優先されている。
(深手だ…!止血や応急処置でどうこうできるレベルではない。一刻も早く治療を受けさせねば致命傷となる!このままでは
シノは…!)
寝かされたシノは苦痛を訴える事もなく、ぐったりとしたままマーナの深刻な表情を見つめている。
寒い。そして切ない。雑巾となってぎりぎりと身を絞られているような、為す術も無い不安がある。
流れ出て行った血があまりにも多過ぎて、もはや痛みも遠のき、頭に霞がかかったように思考が緩慢になりつつある。
(…あ〜…。あたし、たぶんここまでなんだろなぁ…)
自分の傷が楽観できるような物でない事を、マーナの顔を見るまでもなく悟っていたシノは、ぼんやりとそんな事を考えて
いた。
おそらく自分は間もなく死ぬ。
そう確信してもなお、恐怖を覚えることはなかった。
ただ、寂しさと申し訳なさが、様々な物が抜けて嫌にすっきりしてしまった胸の真ん中に、プカッと所在無く浮かんでいる。
(…マーナを…、逃がしてあげられなかった…。あたしの故郷…、一回で良いから…、一緒に見て貰いたかったなぁ…。逃げ
る途中の、余裕の無い一見でも構わないから…)
悔いてはいない。そもそもマーナが助けてくれなければ、自分は何度も死んでいる。
とっくに死んでいたはずの、居場所も、行き場すらも失った自分を、マーナは傍に置いて護ってくれていた。
他人の事を気遣うような恵まれた環境には自分自身もなかったくせに、それでも見捨てなかった。
胸の中心に浮かぶ寂しさの理由は、死に対しての恐れが薄い理由は、すぐに解った。
自分はマーナをどう思っているのか?答えはそこにあった。
死への恐怖そのものより、会えなくなる寂しさの方が強いせいだと。
「…マーナ…」
浅く速い呼吸の隙間から、シノは静かに呼びかける。
「うむ!何だ?」
身を乗り出したマーナに、シノは笑みを作って見せた。
「あたしさぁ…、マーナに、感謝してる…」
微笑みかけるシノの蒼白な顔を見つめ、マーナはかぶりを振る。
「やめろ…」
「何の得にもならないのに…、助けてくれたし…、傍に置いてくれた…。あたしに…、居場所をくれた…」
「やめろ、シノ…!」
別れを告げるようなその言葉を止めろ。
達観したようなその微笑みを止めろ。
激しくかぶりを振るマーナの目が濡れて光り、目尻に輝く滴がある事を認め、シノは笑みを深くする。
(なぁんだ…。マーナも、まんざらじゃあ無かったんじゃない…)
「ねぇ、マーナ…。迷惑かもしんないけどさ…、あたしね…、マーナ…」
今言わねば、機会は永久に失われてしまう。
心残りはたくさんあったが、せめてこの気持ちだけはと、シノは想いを言葉に乗せる。
が、その告白が最後まで紡がれる前に、マーナは顔を上げ、シノを庇うようにして上に覆い被さった。
マーナが身を伏せてシノを護った一瞬の後、シャッターがけたたましい音を立てて穴だらけになる。
銃撃からシノを護り、這いずって裏口に回ったマーナは、彼女をコンクリート製の壁の影に横たえてから離れ、ドアを蹴り
破り、行く手を睨み据えた。
銃を構える特自の精鋭達。その後ろに、見覚えのある顔があった。
監査官の方はハスキーの顔を良く覚えていなかったが、マーナは忘れもしない。
自分にはできそうもない非情な判断を下し、味方であるはずのシノもろともにグレイブ第二小隊を攻撃した男…。
この男が居るからこそ、おそらくはシノを見逃さぬと考えたからこそ、マーナは彼女の身を案じて、名目上の人質として傍
に置き続けていた。
銃口が自分に集中しているその状況で、怒りと悔しさを噛みしめながらも、マーナは両手を上げる。
降伏。
少し前の自分ならば決して取らなかったであろう行為を、マーナは今、プライドをかなぐり捨てて選択した。
戦って戦って戦い抜いて、それで自分一人が死ぬならそれで良い。
理想の為に戦い、その結果戦士として死ねるなら悔いは無い。マーナにとっては本望ですらある。
だが、その自己満足の最期にシノを付き合わせるよりは、万に一つの望みに縋ってでも投降し、彼女の助命を乞う方が良い
と、彼は判断した。
シノの為に、自分に残された最後の希望…、理想を掲げての戦死という選択を、彼は捨て去った。
急いで治療を受けさせれば、きっとシノは助かる。
だが、立てこもるか逃走し、治療を遅らせれば、おそらく一時間と保たずにシノは死ぬ。
(シノだけは…、死なせたくない…。今や拙者にとっては、このちっぽけな誇りよりも、シノの方が大切だ…)
シノの為にどんな処分も受け入れると決めたマーナは、ギリリと牙を噛みしめる。
行き着く先に逃れ得ぬ死という結末があるのは当然として、そこまでの間に凄惨な実験や容赦のない検査が待ち構えている。
ラグナロク製の兵器として、満足の行くまで研究され尽くした後に殺処分される事は、揺ぎ無い現実であった。
だが、それでも良いと、マーナは覚悟していた。
シノが助かる望みを繋ぐ為ならば、モルモットになってくびり殺されても良いと、ハスキーは心の底から思っていた。
降伏の意志を言葉にしようとマーナが口を開きかけた途端、
「あらあらあら。間に合ったかと思えば、ちょっと面白い事になっているのねぇ」
と、どこからともなく女性の声が響いた。
マーナを警戒して銃を構えたままの特自兵士達も、監査官も、そしてマーナも、一斉にそちらへ目を向けた。
少し離れた位置、対峙する双方の横手側から、二つのシルエットが歩み寄って来る。
その片方は、マーナの知った顔だった。
(…アドバンスドコマンダー、ヘル…?)
ラグナロク最高幹部のみが着用を許される軍服に身を包み、ソバージュの髪を夜風になびかせる女性は、マーナの驚きの視
線を受けながら妖艶に微笑んでいる。
その傍らにはマーナの知らない若い狐。こちらはどうやら戦闘要員らしく、両腰に細い鞘に収められた剣を帯びている。
ラグナロク最高幹部たる中枢の一人、灰髪の魔女の姿を目にし、マーナは驚愕と忘我の挟間で揺れる。
願ってもいない援軍。そう喜ぶべきだと思うのだが、疑問が先に立つ。
敗残兵の回収は諦めたものだとばかり思っていたのに、ここに来て幹部直々の登場。
何故自分の位置を知っていたのか?
こうもタイミング良く現れるのは都合が良過ぎるのではないか?
お人好しのマーナだが、戦士としての状況判断能力は優れている。
何かある。そう直感したが故に手放しには喜べなかった。
ヘル自身が潜入調査のような真似をしているのであれば、ここで自分との関係を暴露するのはまずい。
そうも思ってマーナはだんまりを決め込み、必死に脳を回転させながら様子を窺う。
一方、監査官も戸惑っていた。まさかヘルが堂々と姿を見せるとは思わなかったのである。
特自兵士達もヘル達の出現で警戒を強めている。ヘルの正体を、そして彼女と自分の繋がりを下手に勘ぐられては立場がま
ずい。
「ああ、気にしないで頂戴ねぇ?ただの視察みたいな物よ。邪魔はしないから。なお、わたし達の所属と階級については詮索
無用よぉ?答えてあげられないから。監査官さんも、わたし達の事は口外しないでねぇ?」
ヘルは緊迫した場面にそぐわぬ、どこかのんびりとした口調でそう言った。
その発言内容から、特自兵士達はヘルが「こちら側のどこかの部署に所属する高官」と、勝手に解釈した。
同時にマーナは確信した。
ヘルは自分を助けに来た訳ではない。処分を見届けに来たのだと。
経緯は判らないが、自分はもはやラグナロクには不要となり、切り捨てられたのだと。
そう確信したマーナは、どこか清々しい気分になる。
投降を選択した時から感じていた組織への後ろめたさが、薄れていった。
「…タンブルウィード(根無し草)…か…」
呟いたマーナの口元に、微かな笑みが浮いた。
元々少なかったが、失う物ももう殆どなくなった。
手元に残ったのは、自分の命と、シノという護るべき存在だけである。
(ゲルヒルデ隊長…、中尉達…、スコル…、済まぬ…。拙者は誇りを捨て、敵の手に落ちる…)
マーナは監査官を真っ直ぐに見つめ、口を開く。
「抵抗はしない。大人しく投降する。また、逃走の途中で人質にしていた調停者がこの中に居るが、重傷だ。手当を急いだ方
が良い」
この期に及んでもなお、シノはあくまでも自分とは無関係であると、突き放すような表現で強調したマーナは、監査官の顔
が引きつり、特自の兵士達に微かな動揺が広がるのを見逃さなかった。
(おそらくだが、特自の連中はシノが何者なのか、正式には知らされていなかったようだな)
ちらりとヘルに目をやれば、口を挟むつもりは無いのか、沈黙を守っている。
投降を口にした途端に口封じを試みて来るのでは無いかと考えたのだが、どうやらそのつもりは無いらしい。
マーナにしてみれば、口封じされれば後々の苦渋を味わう事無く逝けるため、ヘルが動いてくれれば願ったり叶ったりであっ
たのだが。
ヘルの傍らに立つ若い細身の狐もまた、手出しをするつもりは無いらしい。
狐が自分に向ける興味深そうな視線については少々気になったが、己の末路を選んだマーナにとっては、もはやそれも些細
な事である。
だが…、
「…待っ…て…」
背後からかけられた微かな声に、マーナの耳がぴくりと反応する。
蹴り破られて四角い穴となったドアの縁にもたれかかり、肌から完全に血の気の失せたシノが、そこに立っていた。
「マーナ…、逃げて…。捕まったら、あんた…」
自分にようやく届くかどうかというシノのか細い声に、しかしマーナは答えない。
関係を疑わせるような行動は、この危うい状況を崩してしまう。
動くな。喋るな。安静にしていろ。
そう言いたくて仕方がないマーナは必死になって自制し、無理をしてくれるなと、心の中でシノに懇願する。
だがシノは、悲壮な決意を胸に、ダガーを引き抜いた。
得物を抜いた事で、特自隊員達の銃口がマーナから後方のシノへと向きを変える。
「よせ…!シノ…!何とかする。何とかするからじっとしていろ…!」
マーナの制止の言葉にも、しかしシノはゆっくりと首を横に振る事で応じた。
自分が居るからマーナは逃げられない。
自分の存在がマーナを危険に晒している。
それならば…。
「マーナ…。今までありがとう…。ずっと、ありがとう…」
血の気が失せた顔に晴れ晴れとした、しかしどこか寂しげな笑みを浮かべ、シノは手首を返し、短剣の刃先を自分の胸に向
ける。
その気配を察して振り向いたマーナに、シノは微笑んだ。
「死んだらヤだからね?あたしの…ヒーローさん…!」
シノのその行動が何を意味しているのか、マーナは理解し損ねた。
シノのその言葉が別れを意味している事にも、気付く事ができなかった。
身構える事もなく、殆ど力すら込めず、シノはダガーを抱き込んだ。
あまりにも構えない、躊躇いのない、自然な動作だった為に、マーナはその行為を制止し損ねた。
シノが何をしようとしたのか、理解できなかったのである。まさかそんな真似をするとは、夢にも思っていなかったせいで。
ブツッと音を立て、抱き込むようにして突き立てられたダガーが、シノの乳房の下に潜り込む。
肋骨の隙間を縫い、乱れた脈を打つ心臓を、鋭いダガーの刃先は、さしたる抵抗もなく刺し貫いた。
(これでもう…、マーナは自由…。風に吹かれて、どこにでも行ける…)
胸から走った灼熱感は、耐え難い程の物であった。
だが、その苦痛すら一瞬で薄れ、シノは穏やかに意識を霧散させてゆく。
さらさらと風化するように、端から崩れて消えて行く思考の中、最後に残った断片的なイメージが彼女の脳裏に浮かぶ。
抜けるような春の青空と穏やかな波を立てる海、そして暖かな陽光を背にし、小さな船の縁に足をかけ、自分に向かって手
を差し伸べる、照れ臭そうなマーナの笑顔。
その、叶う事の無かった夢の残骸も、やがてシノの意識と供に闇に溶け、消えていった。
「…シ…ノ…?」
両手で握ったダガーを己の胸に突き立てたまま、ゆっくりと仰向けに倒れてゆくシノ。
そんな彼女を前にして、幾度も差し延べ、支えてやったマーナの手は、今回限りは伸びなかった。
風も感じず、音も聞こえず、シノが倒れていく様子をスローモーションで捉えながら、マーナの中で何かが折れた。
「お…、おお…」
ドサリと、仰向けに倒れたシノを前に、マーナは呻き声を漏らす。
「おおおおおお…!」
低い嗚咽に喉を震わせるマーナの瞳に、ダガーを握ったまま、まるで祈るように手を組んでいるシノの姿が、苦痛を感じさ
せない目を閉じた顔が映りこみ、揺れる。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
背を反らし、天を仰ぎ、喉も裂けよと声を張り上げるマーナの双眸が潤み、たちまちの内に滂沱の涙が頬を濡らす。
信頼していた上官を、交友を深めた仲間を失い、敵地に一人置き去りにされた彼に、それでも残った最後の支え、シノ。
マーナを解き放つつもりでその行為に及んだ彼女は、重要な事に気付いていなかった。
一見強靱そうなマーナの心が、危うい所でそれでも折れなかったのは、自分の存在が最後の支えとなった結果だったという
事に。
相手を思い遣るが故のその行為は、哀しいほどのすれ違いにより選択された。
シノは、自分の価値に気付けなかったのである。
「シノ…、シノ…!何故っ…!」
跪き、這いずってシノの元へ寄ったマーナは、眠るように目を閉じている若い女の顔を、涙を流しながら見つめる。
失った事で、初めて気が付いた。
無くした事で、初めて実感した。
自分がシノに対して哀れみ以上の感情を抱いていた事は理解していたが、その想いが何なのか、はっきりと認める事ができ
なかった。
だが、眠るように目を閉じている、生気を失ってもなお美しいシノの顔を見つめながら、彼はついに認識した。
自分が、この保護すべき迷い子を、幸薄き娘を、愛してしまっていたのだという事を。
喪失感に打ちのめされたマーナが項垂れる。
蹲って震えるその姿は、ブルーティッシュのメンバー達をも一蹴し、ダウド・グラハルトすらも一度は退けた戦士と同一人
物とは到底思えない程に弱々しく、もの悲しい。
予想外の出来事に、任務が至上とたたき込まれている特自の兵士達すら、あっけにとられて指示を乞う事すらできずにいる。
シノを処分したがっていた監査官すらも、事態が飲み込めずに呆然とし、声一つ立てられない。
項垂れたマーナの喉から、押し殺された嗚咽が微かに零れ出る。
失った。
失ってはいけない物を失ってしまった。
幾多の偶然が重なり巡り会えた、この上なく大切な存在を、自分は失ってしまった。
考えたのではなく、漠然とそう感じながら、マーナはシノの頬に手を伸ばす。
触れた指先に、シノの体にまだ残る温もりが、じわりと染み入る。
もはや足掻く理由も失った。この期に及んでは僅かに生き永らえる意味も無い。
だが、幸薄いこの若い娘に、せめて自分は寄り添って逝ってやろう。
グローブを起動して短刀を作り、己も自決しようと心を決めたマーナは、微かな違和感を覚えてシノの首筋を凝視する。
血の気が失せた白い肌に、薄く、青い筋が見えたような気がして。
マーナがそれに眼を凝らすと同時に、シノの体がびくりと震えた。
「シ…ノ…?」
目を見開き呟いたマーナの前で、シノの細い体がビクンビクンと痙攣し、弓なりになって跳ねる。
マーナが首筋に認めた青い筋は、徐々にその範囲を拡げ、今や頬にまで達して緑に変色していた。
血管のように浮き上がる、しかしどこか禍々しい緑の筋が頬を抜けて眼下に達し、そのまま額へと範囲を拡大し、髪の中へ
消える。
震えにしても、断末魔の痙攣にしてはどこか異質である。
マーナは勿論、特自隊員も、監査官も、ヘルも、ヘイムダルも、自害したシノの体に何らかの異常が発生した事を認めた。
戸惑うマーナの前で、シノの体は唐突に痙攣を止める。
皆が息を殺しているような、耳の痛くなる静寂の中、遠くから救急車のサイレンが響いて来る。
一陣の強い海風が一同が会する場に達し、その前髪を揺らした途端、シノはカッと眼を開いた。
胸に刺さったダガーの柄がぐぐっと内側から押され、下から僅かに除いた真っ赤な蕾が、先端に柄を被ったまま夜気にさら
される。
だが、事切れたと思っていたシノが息を吹き返したと思っているマーナは、その異常さに注意が向かない。
「…シノ…!?おお、シノ!これは一体いかなる奇跡だ!?」
驚愕しているマーナの前でむっくりと起きあがり、ややふらつきながらも立ち上がったシノの肩からは、いつの間にか出血
が止まり、代わりに胸に現れたのと同じ赤い蕾が、衣服に穿たれた銃創から顔を出している。
瞳孔の開いた虚ろな瞳が、自分の体を見下ろす。新鮮な血肉を得て、歓喜に身震いする。
新たな宿。新たな手足。新たな肉体。
脆弱ではあるが当面の活動には差し支えなく、文句も当然無い。
ダガーの形状となって数十年眠り続けていた、寄生型危険生物アルラウネは、シノの血肉を滋養とし、新たな宿を得て覚醒
した。