マーナ・ガルム(前編)

血の気の失せた白い肌の下に、まるで葉脈のような緑の筋がうっすらと透けて見える。

異相に彩られて立ち上がったシノを前にし、マーナは感涙に咽ぶ。

「シノ…!ああ、シノ…!良かった…!」

喜びに声を震わせるマーナだったが、シノの体を急激に蝕んだ変化の表層…肌の異変に気づくと訝しげな表情を浮かべる。

「…シノ…?肌が…」

内出血か、あるいは大量流血による変化か、一度はそんな事を考えたマーナだったが、彼に刷り込まれたデータには人間の

肌のこのような変化事例は無く、判断がつかずに困惑する。

佇む若い女は目の前のマーナには視線を向ける事なく、ゆっくりと首を巡らせ、特自隊員達を、そして監査官を見遣る。

乱れ髪が顔にかかり、影になったその顔の中で、双眸が爛々と輝いている。

どこかおかしい。シベリアンハスキーはそう直感する。目の前に佇む女性の気配や雰囲気が、マーナの知るシノの物とは明

らかに異なる。

それもそのはず。シノの呼吸は感知が困難な程に浅く、鼓動は把握できない程に緩慢で、体臭には草刈りを行った後のよう

な青臭い香りが混じり込んでいるのである。

明らかに、生きている人間の正常範囲の呼吸でも、鼓動でもない。

変化に目を見張っているマーナの前から、シノの体がバネ仕掛けのような跳躍を見せた。

普通の人間の動きではない。

バッタか何かの昆虫。あるいはゴムかスプリング。そんな、たわめた何かが元に戻る力を利用したかのような急激な動きで

あった。

地面から4メートル。超人的な跳躍で宙に舞うシノは、分厚い雲を貫いて僅かに注ぐ月光を浴び、手足を抱えるように丸く

なりながら、くるくると回転している。

怪しい美すら漂わせるその非現実的な光景を、特自隊員達が、そして監査官が、口をぽかんと開けて見上げていた。

その中の一人、監査官めがけて、シノは落下して行く。

助走も無しの一足跳びで十八メートルもの距離を舞ったシノは、落下しながらその細腕を突き出した。

特自の列を飛び越えたシノと監査官の体が激突し、シノが覆い被さるように上に、監査官が仰向けで下になって重なり合い、

地面に倒れたその直後、

「…っぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいっ!?」

下になっている監査官の口から、絶叫が漏れた。

シノの右手、その揃えて伸ばされた人差し指と中指が、監査官の左目に潜り込んでいる。

振り乱した髪が目にまでかかったシノの顔はよく見えないが、乱れ髪が作った影の中に、赤く輝く光の点が二つ浮かんでいる。

監査官の悲鳴は、そう長く続かなかった。

シノが右手をぐりっと捻るように動かした直後、監査官の頭部のあちこちから鋭い何かが生え、血がしぶく。

ビクンビクンと痙攣する監査官の頭の内側から、血と脳漿にまみれながら生え出ているそれは、やがてシノが指を引き抜く

と、その動作につられてズルッと内側に引っ込んだ。

シノの血まみれの指先からは、爪が変化した、植物の根のような枝分かれした何かが、ぶら下がるようにして生えている。

眼窩から頭蓋内へ侵入し、一瞬で四方八方へ枝分かれしながら伸びて内部を破壊し尽くした、長さ30センチほどのそれは、

ずるるっと指の中に吸い込まれるようにして短くなると、先端からポタポタと赤い水滴と脳の残骸を垂らし、地面を濡らした。

殺害した監査官の上で、幽鬼のようにゆらりと身を起こしたシノに、我に返った特自隊員の銃口が向けられる。

「やめっ…!」

マーナの制止の声も遅く、銃弾の雨がシノを叩く。

が、シノは集中砲火にも倒れない。それどころか、弾丸が弾かれる音が間断なく続く中、ゆらゆらと揺れながら立ち上がる、

シノの体、葉脈のような紋様が見える肌の表面には、先ほどまで無かった物が浮き出ている。

それは一見するとこびりついて乾き、固まった泥のようにも見えたが、クルミの殻のような硬い外殻であった。

その小さな外殻は、樹液のような物である。

着弾する場所を前もって知っていたかのようにピンポイントに肌から染み出し、大気に触れるなり硬化し、弾丸を跳ね飛ば

している。

出現して弾丸を弾くなり砕けてパラパラと落ちて行くため、外殻は長い時間は出現しておらず、気をつけて見ていなければ

何が起こっているのか判らない。

マーナは呆然としながら、信じられない変貌を遂げたシノの姿を見つめていた。

監査官の目を抉ったシノの右手、その細い指先から茶色の爪が伸びているかに見えたが、しかしそれはよくよく見れば爪で

はない。茶色い、植物の根であった。

血まみれのその手が、左手と合わせてゆっくりと上がる。

差し伸べられるなり瞬時に左の五指にも生えた鋭く硬い根は、一瞬で数メートル伸び、最も手前に居た特自隊員の顔面を、

暗視ゴーグルを破砕しつつ突き破って後頭部へ抜ける。

(何だ…?何が…、何が起きている?)

混乱しているマーナの視線の先で、シノの胸に突き刺さったダガーの柄が、ぽろりと取れた。

地面に落ちたそれを一瞬目で追ったマーナは、戻した視線でシノの胸にある異様な物を確認し、凍り付いた。

シノの胸、ダガーが刺さったそこに赤い物があった事に、マーナはこの時点で初めて気付く。

染み出した血ではない。ダガーが刺さっているはずのそこには、真っ赤な開きかけの蕾があった。

見ている内にも徐々に花弁を拡げてゆくそれを見つめるマーナは、首周りの毛をゾワリと逆立てる。

(シノは…、シノは一体どうなって…、いや、「何になって」しまったのだ!?)

シノではない。アレはシノではない。マーナの直感がそう警告する。

しかし、多少変わっても愛した娘と同じ姿のソレを別物と割り切る事は、マーナにはできかねた。

シノが自害に用いたそれは、かつてとある技術者が、化石となっていたアルラウネを発掘し、その強度に目を付けて武器と

して加工した物であった。

動物の骨にも思えたダガーの素材は、化石となって硬くなった植物の根を削り、加工した物である。

同様の手順で何本かのダガーを作ったその技術者も気付かなかった事だが、シノが手にしたダガーに使われた部位…すなわ

ちアルラウネの根の一点、球根にも等しいその部位だけは死んでいなかった。

しかし生み出された中でもこの一本だけは、いくつもの偶然が重なり長らく実戦で使われる事がなかったので、結果的にダ

ガーに擬態する事になった仮死状態のアルラウネは、何十年もの間、開花の時を待って眠り続けていた。

そして今、シノという宿主を得て蘇ったのである。

柔軟性のある根によってシノの体を内側から強化して操り、瞬時に硬化する樹液を分泌して鎧と為す。

古き時代の錬金術師によって製造方法が確立された暗殺用戦闘生物アルラウネは、長い長い眠りからの解放を喜び、血の宴

に興じた。

人間の範疇を逸脱した動きを強要されたシノの体は、駆動の負担に耐えかねてあちこちから悲鳴を上げるが、アルラウネは

操る宿の脆弱具合を徐々に確認しつつ、必要な箇所に保護を施してゆく。

保護と強化が進むにつれて、葉脈が濃さを増す。

ようやく得た宿主の体を数倍に強化し、自分好みに造り替えながら、アルラウネは喜びを噛みしめた。

そして己と己の宿を脅かす「敵」を、喜びの内に殺戮してゆく。

甘露。甘露。甘露。数十年ぶりに味わう新鮮な血は、彼女を興奮させた。

「あらあら、面白い事になっちゃったものねぇ…」

集中砲火を浴びながらもそれを物ともせず、特自隊員を一方的に殺戮してゆくアルラウネを眺め、ヘルは呟いた。

「ヘイムダル。アレ、捕まえられるかしら?絶滅が危惧される天然物なの。今じゃ希少なのよねぇ」

「おやすいご用だ」

狐は頷いて左腰から剣を抜き、思い出したように尋ねた。

「ところでそれ、生きたまま?それとも生死を問わず?バラバラでもオッケー?」

「なるべくなら五体満足で生きている方が嬉しいわねぇ」

ヘルのその言葉が終わるか終わらないかの内に、ヘイムダルは素早く横に動く。

目にもとまらぬ速度で弧を描き、一閃された黒い細身の直剣が、瞬時に伸びてきた槍のような根を、ヘルに到達する前に切

り捨てていた。

主の前に立ちはだかる格好になったヘイムダルへ、伸縮自在の根による突きを防がれたアルラウネが、ゆらゆらと上体を揺

らしながら幽鬼のように近づいてゆく。

「へっ!面倒臭ぇったらねぇの…、殺しちゃだめなんだとさ」

口をへの字にしたヘイムダルの手がゆっくりと剣を回し、水平に寝せた状態を、垂直に立てた構えに変える。

衝撃と混乱で半ば以上呆けていたマーナは、ヘイムダルの気配が変化した事で慄然としながら我に返った。

(何だ!?あの狐…、急に殺気が…!?)

ヘイムダルが発散する禍々しい殺気を瞬時に捉えたマーナは、シノがどんな状態になっているかも判らぬまま、彼女を止め

るべく両足に力を込めた。

普通に駆けては間に合わない。そう判断し、オーバードライブを試みたマーナは、

「…ぐっ…!?」

全身に激痛が走り、胸に耐え難い苦しさを覚え、口元を押さえる。

(えぇい!間をおかず使用した為に、体に無理が来たのか!?この大事な時に!)

こみ上げてくる吐き気と、全身を走る悪寒と激痛をこらえ、ぐらりと揺れた体をなんとか一度立て直したマーナは、

「…がぼっ…?」

噎せた途端に大量に吐血し、目の前が暗くなって跪く。

一度吐血すると、堰を切ったように立て続けに喉が蠕動し、ごぽごぽと赤黒い血液を排出し始めた。

「…こ…、これは…!?」

真っ赤になった手を眼前に翳し、細かく強い震えが全身を駆け巡っているのを感じながら、マーナは愕然とした。

兆候は無かった。だから考えた事もなかった。

無理な調整を重ねたエインフェリアなどに特有の致命的な症状が、よもや自分の体にも発生しようとは。

「あら〜?自壊かしらねぇ、それって?」

びくりと体を震わせ、弾かれたように顔を上げれば、いつの間にそこまで歩み寄ったのか、2メートルと離れていない位置

に立つヘルの姿。

しかしヘルはそこまで接近しながらもマーナには何もせず、首を巡らせヘイムダルとアルラウネを眺め遣る。

両手から何本もの根を伸ばし、串刺しにしようとするアルラウネに対し、殺さず捕まえたいヘイムダルは、伸びた根を切り

落としたり弾いたりしながら力加減を計っている。

網のように広がる無数の根をかいくぐり、時には踊るように優雅に、時には力強く荒々しい動きを見せ、ステップに緩急を

つけて身を捌くヘイムダルには、突き刺さってから爆発的に成長し、内部破壊をもたらす死の根がかすりもしない。

一見するとアルラウネが一方的に攻め立てているように見えるが、実際には、ヘイムダルが軽くあしらいながら様子を見て

いるに過ぎない。

どの程度の損傷ならば死なないのか、加えるべき危害のレベルを見定めているのである。

「彼女が気になるの?」

かつて自分がハイメの死体を確保した際、一緒に付いてきて邪魔だったため、高空から落とした新人調停者がシノであった

などという事は、ヘルは覚えていない。

並以下の調停者など、彼女にとっては路傍の石にも等しい、興味のない存在であった。

マーナもまた、自分とシノが巡り会ったのはヘルが原因だったなどとは思ってもいない。

この場において繋がる糸の全てを知る唯一の者は、しかしもはや意識を持っていなかった。

「大丈夫よぉ、珍しいから殺さないわ。…あら?でもあなたが気にしているのは、今の彼女じゃないわよね?そういう意味で

はまぁ、もう手遅れってヤツ?」

「…どういう…事ですか?ヘル…!?」

息も絶え絶えになりながら尋ねるマーナを、ヘルは微笑みながら見下ろした

「だって、今体を動かしているのは寄生しているアルラウネ。彼女は直前に自ら死んでしまったものねぇ。まぁ、寄生される

苦痛や乗っ取られる恐怖を味わうことがなかっただけでも、幸運だったんじゃないかしら?」

「そんな…!」

マーナの中で、何かが砕けた。

シノの様子がおかしい。だが動いている。胸に刺さった短剣の何らかの作用で正気を失っているが、生きている。

マーナはそう思っていた。いや、直感の警告を無視してまでそう思いこもうとしていた。

だが、浴びせられたヘルの言葉で現実を直視せざるを得なくなった。

呆然としているマーナの視線の先で、根を残らず切り落とした狐が、アルラウネ本体に迫る。

「や…、やめ…ごぶっ!?」

マーナのか細い声は吐血によって遮られ、同時に、アルラウネの眼前に迫ったヘイムダルの右手が閃く。

防御と迎撃を試みようとしたアルラウネは、しかし彼が懐に飛び込んだ途端、驚愕したように一瞬動きを止めた。

吐血して口元を押さえたマーナは、剣の柄を鳩尾に叩き込まれてくの字になり、さらに首筋に手刀を落とされて地面に叩き

付けられるアルラウネを、シノの体を、眼に焼き付ける。

うつぶせになったアルラウネの背に足を乗せた狐が、細い女の首を横から剣の鞘でしたたかに殴りつけた。

アルラウネ自体は宿の神経系に結合して支配し、そのまま利用している。つまり、宿に衝撃を加えられれば、そのまま本体

であるアルラウネのダメージにもなる。

立て続けの強烈な打撃三発で大人しくなったアルラウネを踏みつけ、押さえたまま、ヘイムダルは主に視線を向けた。

「あっちは終わったみたいねぇ。…で、次は…」

一時部下を眺めていたヘルは、マーナに視線を戻すと、にっこりと微笑んだ。

「グレイブ第二中隊所属、マーナ・ガルム軍曹。反逆罪により、貴方を処分するわねぇ」

「…反逆…罪…?」

もはや魂が抜けてしまったような、ぼんやりとしているマーナの顔を見下ろしながら、ヘルは続ける。

「グレイブ隊は、ラグナロク内の機密情報を不正に入手、無断で保持していたのよねぇ。立派な裏切り行為よ、これ。それが

司令官だったゲルヒルデちゃんの指示なのか、小隊長の誰かの指示でそれが行われていたのかは判らないけれど、グレイブ隊

全てに対して抹殺命令が出ていたの。まぁ、あの事件の直前から行方不明だった貴方は知らなかったでしょうけれど」

ヘルはそうマーナに建前上の解説をするものの、実際には違う。

グレイブの第二小隊はその事実が明るみに出る前にヘルの抹殺リストに載り、彼女の手配によって首都の作戦に組み込まれ、

彼女の意思によって情報がリークされ、彼女の望みに従って壊滅させられていたというのが、事の真相である。

入念に準備されたグレイブ完全抹殺の為のシナリオにおいて、その力を削ぐために引き離され、どさくさ紛れに壊滅させら

れたはずだった第二小隊。

その一員であるマーナが今まで生き延びていたのはヘルにとっても計算外であり、奇妙な縁を意識せずにはいられなかった。

「そんな話は知らない。…って顔ねぇ?けどねぇ、昨年末、グレイブ隊に居た全ての構成員が処分対象になっているのよ。貴

方が知っていたかどうかなんて、もうどうでも良いのよねぇ。グレイブの全ては無に返す…。それが、もはや覆る事のない中

枢の決定よ。もっとも、予想以上に長引いた処分活動も貴方で最後だけれど」

ヘルの話をそこまで聞くと、無気力だったマーナの顔に、微かな変化が生じた。

「…グレイブ…、全て…?拙者が最後…?」

ハスキーは疑問の色を浮かべた瞳をヘルに向ける。

「どういう事です!?グレイブが裏切り行為!?隊長も、中尉殿達もそんな真似など…!」

「現実に、彼らが情報を保持していたのよ。第三世代エインフェリア製造についての、重要なデータをね」

「第三…世代…?世代とは…何だ?」

聞き慣れない単語に引っかかりを覚えたマーナに、ヘルは首を横に振る。

「知ってはいけない事…よ。そのデータを貴方の上官達は握っていたの」

「知らぬ!拙者はそんな事など…、いや、皆は?隊長や皆はどうなったのだ!?」

もはや冷静ではいられなくなったマーナは、敬語すら忘れてヘルに問う。

「隊長は!?小隊長達は!?皆はどうなった!?」

灰髪をかきあげたヘルは、婉然と微笑みながらさらりと告げた。

「だから言ってるじゃないのぉ?貴方が最後だって」

「嘘だっ!」

先ほどまで魂が抜けたように呆然としていたマーナが、全てを否定するような大声で吠える。

「嘘だ嘘だ嘘だ!ゲルヒルデ隊長が!ハティ中尉殿が!スコルが!彼らが裏切っていたなど何かの間違いだ!処分されたなど

でたらめだ!」

「認めたくなくとも事実なのよぉ。グレイブ隊は北原で壊滅したわ。完全にね」

ヘルは微笑みを絶やさぬまま、すっと右手を地面に向けた。

向けられた手の平に誘われるように、無色透明なそれが地面から沸き上がるが、マーナはそれに気づけない。

「さて…、そろそろサヨナラね、最後のケルベロス…」

呟いたヘルは、満足して胸の内で呟く。

(結局邪魔になっちゃったけれど、貴方達を生産したのは無駄じゃあ無かったわよぉ?成功と失敗を含めて、ガルムシリーズ

の生産データは強化の限界を見定める上で重要な参考資料になるわぁ。第三世代エインフェリアの礎として、貴方達は生まれ、

そして死ぬの)

が、今正にマーナの命を摘み取ろうとしたその瞬間、ヘルは唐突に首を巡らせると、素早く退がった。

跳び退る…というよりも見えない何かに引っ張られて後方にスライドしたような動きを見せたヘルと、跪いたままのマーナ

の間で、地面がズカッと音を立てて裂ける。

バターのような断面をさらす断ち割られたアスファルトから眼を離し、マーナはヘルの視線を追った。

暗く深い闇の中より大型バイクが走り出る。跨っているのは、大人一人ほどの重量を持つ巨大な黒剣を片手に携える、大柄

な白い虎。

「あらあらダウド。まずいわねぇ、もう来ちゃったのぉ?」

ヘルは困っているとも面白がっているともつかない口調で呟き、ダウドはゴーグルの奥の金眼を不快げに細め、口元を歪ま

せる。

「厄日だぜ…。面倒そうな場面で見たくねぇツラぁ目にする羽目になるとは…よぉっ!」

鉄のいななきを上げる金属の獣を片手で御し、大柄な白虎は漆黒の巨剣を水平に振るう。

横薙ぎの斬撃から放たれた、高密度に圧縮された空気の刃が宙を走る。

手を翳したヘルの前で、障壁にぶつかった風の刃が不可視の壁と相殺して割れ砕け、ガインッと甲高い音を上げる。

バイクを疾走させつつ巨剣振るう事二度、ヘルを下がらせたダウドは、その前に躍り出た者を目にすると、

(…ハイメ…!?)

三撃目を繰り出す直前、横薙ぎにした状態から手首を返して振りかぶっていた剣を、そこで一旦止めた。

ヘイムダルの姿を捉えた途端、理解と悔恨、そして憤りが、ゴーグルの奥の眼を燃えるように輝かせる。

ハイメの遺体を持ち去られた顛末については聞き及んでいる。

狙いが判っているダウドは、当然この事態も覚悟していた。が、かつて認めていた相手と同じ姿の敵が目の前に立つと、さ

すがに堪える。

一拍を置いて放たれた三撃目。迷いから手加減が生じた風の刃は、ヘイムダルの左手による抜刀からの斬撃で相殺される。

能力ではない。同等の衝撃波を纏う音速の剣筋が、ダインスレイヴが生み出す風の刃を強引に破壊したのである。

腕力、瞬発力、技能、それらが常識はずれのレベルで揃って初めて可能となる、レリックや能力者が引き起こすような奇跡

を、自らの腕と技で実現させる力業であった。

もっとも、ダインスレイヴの機能そのものへの適切な対応については、素体となった者の体に染みついた技能や戦闘パター

ンを引き継いでいる所が大きい。

体が覚えているからこそ、初めて遭遇したダウド相手にも、ある程度の対処が可能であり、実際、初見で彼の攻撃を相殺せ

しめた。

ガルムシリーズに代表される数々のエインフェリアの生産、それらの強化調整、そして様々な実験という過程を経てようや

く生み出された、最初の第三世代再生戦士にして、直接戦闘でダウドにも抗し得る者…。

それが、永らくヘルが欲しがっていた自分のエージェントであった。

者によってはエージェントを二名抱えている中枢メンバー達の中、専属の片腕を持とうとしなかったヘル。

彼女のエージェントという席だけは、やがて生み出せるはずの理想の戦士の為に、あえて空けられていたのである。

永らく埋まる事のなかったその空席は今、適任者を迎えて埋められた。

純粋な戦闘能力に限れば現時点で生産できる最高峰とされた三名のエインフェリア、すなわちスレイプニル、ウル・ガルム、

ハティ・ガルムの三者に比肩し得る程の驚異的な性能を生まれながらにして持つ、ヘイムダルという最高傑作によって。

二刀を抜いたヘイムダルは、剣を眼前で交差させて構え、剣呑な、そして楽しげな、興奮によるギラつきを隠せない瞳を瞬

かせた。

元となった男を知っている上に、ヘイムダルの持つ他のエインフェリアとは少々異なる気配にいち早く気付いたダウドは、

簡単には制圧できないと判断し、素早く状況を確認する。

近場まで至ったところで丁度殺戮の騒ぎを聞きつけてこの場にたどり着いたのは良いものの、駆けつけたばかりのダウドは、

この込み入った状況に至るまでに何が起こったのか、どんな状態となっているのかが、さっぱり判っていないのである。

宿敵の一人であるヘルを見かけ、おまけに自分が追っていたマーナとなにやらもめていたようなので、とりあえず先制攻撃

をしかけてヘルの動きを中断させたというのが、今の行動の理由であった。

白虎の金眼が素早く動き、惨殺された監査官と特自隊員達を、倒れ伏したままの異形の存在と化したシノを、余裕すら窺わ

せる笑みを浮かべたままのヘルを、その前に立つ眼をぎらつかせているヘイムダルを、そして、跪いたまま呆然と自分を見つ

めているマーナを、順に映す。

決断は早かった。

ハンドルを切ったダウドは、この場に居る、まだ生きている者の中で唯一話を聞けそうだと判断したマーナへと、バイクの

鼻を向ける。

その判断を鋭く察したヘイムダルが動く寸前に、一振りされた黒い巨剣が行く手を阻むつむじ風を巻き起こす。

体が浮き上がりそうになる程の強風の中、剣を地面に突き刺して踏ん張ったヘイムダルの瞳が、ギラギラと熱を帯びて輝く。

「おい行くなよ!斬り合おうぜ!?殺し合おうぜ!?お前となら楽しく戦れそうだ!」

遊びに誘うような、どこか無邪気なその言葉と声音が、ダウドの顔を歪ませる。

良く知っていた若き天才と、同じ顔で、同じ声で、敵が自分に呼びかけて来る。

悪夢のようなその出来事は、しかしそれでも現実であった。

(どうあっても、こいつをアンジ達と会わせる訳にはいかんな…)

胸の内で呟くダウドは、ヘルを一瞥し、彼女が目を閉じて何かに集中しているのを見て取ると、

「ちっ!珍しく集中が必要なほどの術か!そこまでしての口封じとは…、どうあっても事情を知られたくねぇようだな、えぇ

おい!?」

そう苛立ち紛れに吐き捨てるなり、マーナに向かって呼びかける。

「手ぇ出せハスキー!」

反射的にその命令に従ってしまった自分の手が、剣を握ったまま差し伸べられた白虎の手首を掴む様子を、マーナは他人事

のように眺めていた。

即座に引っ張り上げられ、バイクの後部に乱暴に押しやられ、シートに落下したマーナを、目を開けたヘルがじっと見つめる。

マーナが初めて目にする表情が、彼女の顔に浮かんでいた。

(しまった…!)

間に合わなかった事を悟ったヘルの表情を見て取り、ダウドはニヤリと不敵に笑う。

「ひとまず退却だ!状況は良く判らんが、お前がもしヘルの敵なら、俺にとっては単純に敵って訳でもないからな」

叫ぶように呼びかけ、ダウドはアクセルを全開にする。

後輪をやや滑らせて急加速したバイクは、二人を乗せて走り去った。

「追うかい?」

バイクのエンジン音がまだ近い内に、二本の剣を両手にぶら下げたヘイムダルが、ヘルに問いかける。が、

「いいえ、深追いは危険よ。あの男は何を仕掛けて来るか判らないわ」

灰色の髪をかき上げ、ヘルはため息をつく。

「タッチの差で間に合わなかったわねぇ…。やっぱり、もう少し発動速度が上がるよう形式を弄らないと…」

彼女の周囲には、術によって生み出された無色無臭の猛毒ガスが立ち込めていた。

毒素に極めて強いアルラウネと、自力で中和できるヘイムダル、そして術者であるヘル自身を除けば、その範囲内で生きて

いる者はいない。

虫から細菌に至るまでが、ヘルの周囲では瞬時に死滅していた。

「さて、とりあえずそのアルラウネを運びましょうか。なかなか面白い研究対象だから、ちょっと嬉しいわねぇ」

「アイツはどうする?虎野郎が連れてったけど?」

「まぁ、待っているのはどのみち殺処分だから良いわ。マーナ自身はよけいな事は知らないから、尋問されたところでこっち

は痛くも痒くもないし。…むしろ他の中枢に「彼の異常さ」を知られた方が面倒だったのよねぇ。戻って来る事も無く処分さ

れるなら、それで良しとしましょう。帰艦するわよ」

「え?え〜?帰艦?って事は終わり?終わりなのか?…なんだよぉ、やっと歯応えありそうなのが出て来たと思ったのに…」

子供のようにふてくされた声を上げたヘイムダルに、ヘルは微笑みかける。

「あらあら困った子ねぇ。今回の元々の目的は貴方の得物の入手よ?それに、用事が済んだら帰りがてら、どこか苦戦してい

る戦地に寄ってあげるから」

「ホントか…?ホントにホント?」

疑わしそうにヘルを見遣りながらも、声音に期待を込めたヘイムダルは、主が頷くと顔を綻ばせた。

「だから、ここは一旦大人しく退却。良いかしらヘイムダル?」

「イエス、マスター!」

機嫌良く満面の笑みで敬礼した狐は、鼻歌交じりにアルラウネを引っ張り起こした。



交戦地点からかなり離れた場所、出店するには位置を間違えたとしか思えない、いつも夜はガラガラに空いているコンビニ

の駐車場に、今はハーレー一台だけが停められていた。

そのひと気の無い駐車場で、タイヤ止めに腰を下ろして項垂れているマーナを、仁王立ちになったダウドが見下ろしている。

「…殺せ…」

ぼそりと呟いたマーナの前で、腕を組んだ白虎が「ふん!」と鼻を鳴らす。

簡単に事情は聞いた。

どうやらマーナはラグナロクから切り捨てられたらしい事も、かいつまんで話を聞いたダウドは理解している。

これが何らかの罠かもしれないと、先ほどの異常な状況で接触した際に一度は考えもした。が、今ではその可能性は低いと

見ている。

拾い上げる際に、剣を握っている方の手首を掴ませ、あげくバイクの後ろに乗せて背中を無防備にさらして見せたが、マー

ナは敵対的な行動や害意のあるようなそぶりは一切見せなかった。

この自暴自棄とも言える無気力さと精根尽き果てたような様子から察するに、まず罠ではないだろうと、ダウドは判断して

いる。

が、完全に罠でないとも思っていない。マーナ自身は何も知らなくとも、ヘルが何かを企んで、わざと連れ去るに任せた可

能性も否定できないからである。

それ故にマーナとの対話からさらに何か判断材料が掴めないかと考えたのだが、無気力なハスキーは「殺せ」と繰り返すば

かりであった。

「頼まれなくとも殺してやるさ。お前みたいなのが政府の手に渡ったら、何かと面倒だからな」

「ならばさっさと…、ごぶっ!?」

口元を押さえて体を折ったマーナが、大量に吐血したのを目の当たりにし、ダウドの表情が変わる。

「…お前…、自壊が始まってやがるのか…?」

噎せ返るマーナから返事は無かったが、ダウドの目にいわく言い難い複雑な色が浮かんだ。

「お前、自壊についてどのぐらい知っている?」

黙って首を横に振り、「死期が近いという事程度なら…」と呟いたマーナに、頷いたダウドが静かに語りかける。

「最初に吐血してから早ければ二、三日。長くても一ヶ月半程度…。個人差がかなりあるが、それが自壊のリミットだ。力を

使えば使う程、リミットは近づく」

「…ならば…、急いでやらねばな…。一ヶ月など待たせようものなら、叱られてしまいそうだ…」

護るべき相手であり、同時に支えでもあったシノを失い、今度は自壊によって自らの命も尽きようとしているマーナは、部

外者であるはずのダウドが自分達エインフェリアについてやけに詳しいという奇妙さに気付けない。

寂しげに微笑んだマーナを、ダウドは半眼で見下ろした。

「皆、逝ってしまった…。本隊の皆までも…。拙者も逝ってやらねば…。…何より、シノが寂しがるかもしれん…」

小さくため息をついたダウドは、おもむろに足を上げ、分厚いライダーブーツの底でマーナの額を押すように蹴った。

蹴り付けるというより、靴底を押しつけて転がすといった具合だったが、堪えきれず仰向けに転げたマーナは、額を押さえ

て身を起こし、屈辱的な行いに腹を立てて抗議する。

「な、何をするか貴様っ!?」

「てめぇこそ何してやがる!」

見下ろすダウドが大声で一喝すると、マーナは怒りの表情を引っ込め、きょとんとした。

「仲間が皆逝った?だから自分も逝こうってか?で、惚れた女が先に逝った?だから後を追うってか?まぁいいだろう、仲間

意識と恋路の果てなんぞひとそれぞれだ。だがな…」

「ま、待て!惚れた女などと何故そのような…」

「黙って聞きやがれこのぼんくらぁっ!」

本心を看破されて慌てふためくマーナを、ダウドは罵声一発で黙らせる。

「惚れてんだろうが?好いてんだろうが?せめて助けてやりてぇとか思わねぇのか?おうっ!?」

胸ぐらを掴み、体格の良いマーナを乱暴に半吊りにしたダウドに、つま先立ちになったハスキーが悲痛な表情で叫ぶ。

「仕方無いではないか!シノは、シノはもうっ…!今更どう足掻こうと、もはや取り返しが付かぬのだ!」

それを聞いたダウドは、「ちっ!」と露骨に舌打ちすると、乱暴にマーナを突き飛ばす。

尻餅をついたハスキーを睥睨したダウドは、口を開き、低い声音で問いかけた。

「取り返そうとしたのか?」

その問いの意味を計りかね、マーナは黙り込む。

「取り返しがつかねぇって言ったな?取り返そうとしてみたのか、てめぇは!?」

白虎は猛烈な怒気を発散させながら、静かになったマーナに続ける。

「アルラウネ…って言ったな?寄生する危険生物だと。なるほど、この俺ですら名前程度しか聞いた事のねぇレア物、悪趣味

なヘルなら欲しがるのも頷けるってもんだ。で、ヘルがそれをどうするか、てめぇ考えたか?考えた上で歩くの止めたのか?

どうなんだ!?」

「それは…」

「考えたくねぇなら言ってやる。解らせてやる。ヘルはあのお嬢ちゃんの体を刻んでアルラウネを取り出そうとするだろうな。

一般人とそう変わらんアサカ嬢ちゃんの体を乗っ取っただけで、特自の猛者を短時間で皆殺しにできたんだ。身体強化って点

では研究のし甲斐がある」

マーナは「ぐっ…!」と呻くと、後ろで体を支えていた手で拳を作り、きつく握り込んだ。

「取り返しがつくかどうか決めるのは、結局てめぇ自身だ。…けどな、惚れた女なんだろうが!?例え死体でも他人の好きに

させてんじゃねぇ!」

尻餅をついたまま白虎を見上げるマーナは、その言葉で、がつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。

まだやれる事があったのに、諦めていたのではないか?

本当の意味でシノを取り戻す事は叶わなくとも、せめて亡骸を弄ばせる事はまだ止められるのではないか?

表情に、瞳に、見る間に生気を取り戻してゆくマーナに、ダウドは鼻を鳴らしつつ口の端を吊り上げて見せる。

「どうせ後を追うんなら、例え亡骸だろうと、取り返して抱き締めて傍らで死んでやれ。…利害は一部一致するからな、少し

ぐれぇだったら手ぇ貸してやっても良いぜ?」

「…うむ…。うむ…!」

頷いたマーナは、よろめきつつも立ち上がる。

近く散る事が定められた命の、最後の使い道。シノ奪還という最終任務を己に課して、マーナの心に炎が灯る。

「シノを…取り戻す!せめて安らかに眠って貰うためにも、必ず取り戻す!」

力強く頷き、声に出して意思を固めたマーナは、ダウドに頭を下げた。

「礼を言わせてくれ…。拙者は、まだやるべき事が残っていた事に気付かぬまま、楽な方へ逃げ出す所であった…」

頭を下げられてこそばゆさを覚えたダウドは、「へっ!」と、居心地悪そうに顔を顰めた。

そんな二人の視線が、同時にコンビニの窓に向く。

雑誌のレイアウトを弄っていたバイトの若者が、困惑顔で二人の様子を眺めていた。

喧嘩か?警察に通報すべきか?ハスキーの胸元を汚しているのは血ではないのか?だが一緒にバイクに乗って来た。二人は

一体どんな関係だ?

困惑と興味が入り混じった顔で店内から自分たちを見ている若者に、ダウドとマーナはまるで示し合わせたように揃ってヘ

ラッと作り笑いを浮かべつつ、片手を上げて「問題ない」とでも言うようにパタパタ振って見せた。

若者が安心したようにつられ笑いを浮かべ、奥の菓子棚整理に引っ込んで行くと、

「さて、そうと決まればぼやぼやしちゃあいられねぇ、すぐ行くぜ?準備が要るなら三十秒で支度しな」

ダウドはマーナにそう告げて、携帯を取り出した。

「うむ!」

頷いたマーナは、しかし何かひっかかりを覚えたように小さく首を傾げ、何か期待しているような口ぶりで問いかける。

「…四十秒ではないのか?」

「あ?四十秒も必要なのか?何の準備…おう、俺だ俺!…ちがうって詐欺じゃねぇよダウドだよ。悪ぃがまた依頼だユミル、

ちっと手ぇ貸してくれ」

助力依頼の電話を始めてしまったダウドの傍で、マーナは少し残念そうな顔をしていた。