マーナ・ガルム(中編)
高強度の特殊プラスチックの立方体に、若い女性が閉じこめられている。
膝を抱えて体育座りし、ようやく体が収まるような窮屈なケース内に囚われているソレは、一見すれば人間のようであるが、
実際には少々違う。
血の気の失せた白い肌には、透けて見える血管のようにうっすらと葉脈が浮いており、胸と左肩の傷からは、血のように赤
い花が咲いている。
ケースの中で膝を抱えて蹲っているそれは、かつてシノアサカと名乗っていた新人調停者のなれの果てであった。
自害したシノの体を宿とする寄生型危険生物アルラウネは、透明なケースの内側から、自分を取り囲む者達を眺めている。
闇に紛れる黒ずんだ戦闘服に身を包む、銃やナイフで武装した男達…、ラグナロクの兵士、それもヘル直属の精鋭達六名で
ある。
アルラウネを閉じこめた透明なケースは、軍用ジープの荷台に納められ、港まで運搬されてゆく途中であった。
使用されているのは、ヘルがラタトスクに手配させた特自のジープ。
ヘルとヘイムダルを除いて別行動を取っていたラグナロク兵士達は、主人の足回りを良くするべく、あらかじめいくつかの
移動手段を確保して回っていたのである。
運搬されるアルラウネは、やけに大人しい。
それというのも、彼女が悟っているからである。
今は姿が見えないが、あの化け物じみた狐が近くに居れば、そう簡単には逃げ出せないという事を。
突き破るには少々苦労するケースの中、虎視眈々と脱出の機会を窺うアルラウネは、兵士達が動き出した事を確認し、気取
られないよう静かに備える。
ようやく手に入れた大切な宿は、彼女が寄生した際には死に行く途中にあった。
その致命的な損傷と出血をカバーすべく、かなりの労力を費やしてしまったが、殺戮の宴に興じて十分な滋養を摂取し、時
間をかけて修復を終えた今、胸と肩に咲く花は、その心身の充実を物語るように色鮮やかな花弁を開いていた。
しばし運ばれた後、アルラウネは兵士達の変化を嗅ぎ取った。
無線で何か知らされたらしいラグナロク兵達は、慌しくおのおの銃火器の使用準備を整える。
中にはハンディグレネードを手にする者もおり、顔には緊張の色が濃い。
何が起きたのか?ヘルメットに内蔵された通信機で情報を受けている兵士達の行動は、アルラウネには全貌を知る事ができ
ない物であったが、はっきり解る事もあった。
兵士達は戦いに備えている。それも、油断ならない強敵との戦いに。
深夜に及んで車通りの途絶えた二車線道路を走るジープの後方から、鉄の咆吼を上げてハーレーが追いすがる。
猛スピードで追走するバイクの上には、ハンドルを握る白虎と、後部座席に跨るシベリアンハスキー、一時手を組んだ二名
の姿があった。
助手席から身を乗り出した男が小型マシンガンのトリガーを引くと、急激に軌道を変えた大型バイクの横で、降り注いだ弾
丸が路面を抉る。
右腕一本でバイクを御すダウドは、左手に握った黒い巨剣を眼前で水平に寝せた。
「吹き散らせ、ダインスレイヴ!」
直後、後部が開いた荷台から発射されたグレネード弾は、バイクの直前で強風に叩かれて斜め上45度に角度を変え、ハー
レーを飛び越える形で去り、遙か後方の路面で炎を上げる。
絶え間なく注ぐ銃撃も、白虎が駆るハーレーの疾走を止められない。
巧みなハンドルさばきで回避し、あるいはダインスレイヴから発する衝撃波や突風で迎撃し、時にはいなしており、無数の
弾丸は一発たりともバイクにも搭乗者にも掠りもしない。
自らの十数倍も大きなジープへ猛獣のように追いすがるバイクの背で、剣を一振りして衝撃波を放ち、数十発の弾丸を壁に
でも当たったようにひしゃげさせて止めながら、ダウドは声を張り上げた。
「良いな?このポイントを抜けたら派手に仕掛けられる場所は無い。一発勝負だ!しくじるなよ!」
「うむ!やや違うが「すり抜けながらかっさらえ!」だな!?」
風に負けぬよう大声で返したマーナは、左右に広げた両手のグローブを起動させ、思念波を変換した力場で武具を生み出す。
一定距離まで詰めたバイクが急激に進路を変えて斜め方向へ加速し、ジープの右脇を目指そうとしたその瞬間、ジープと自
分との間に開けたスペースを、マーナは跳んだ。
先に被弾したまま弾丸が埋まっている背の痛みにも怯まず、両手に展開した力場のシールドで弾丸を弾き、反らし、受け止
め、ジープの荷台へと躍り込む。
一斉に銃口が向けられる中、シールドを解除したマーナのグローブが形成し直したのは、得意の短刀二本であった。
赤い光が闇を裂き、紙切れのようにライフルを絶ち割る。
高密度に圧縮された、薄く、鋭く、強靱な二本の短刀は、狭い荷台で立ち回るマーナと共に、竜巻のように荒れ狂う。
迎え撃つ兵士達はヘルが選び抜いた精鋭中の精鋭ではあったが、しかし手負いのマーナを相手に全く歯が立たない。
ほんの十二秒で、ことごとく武器を破壊され、軽い裂傷と重い打撲傷により残らず戦闘不能にされた兵士達の中、マーナは
透明なケースへ、その中で座り込む若い女へと視線を向けた。
哀しみとも安堵ともつかない、複雑な色を浮かべるマーナの瞳と、状況が飲み込めないアルラウネの茫洋とした視線が絡み
合う。
ややあって、シベリアンハスキーは口を開いた。
「迎えに来たぞ、シノ…」
その声が終わるか否か、マーナの背後でジープ右側面がズカッと横一文字に裂けた。
風圧と衝撃でめくれ上がり、半ば天井が吹き飛んだジープの荷台で首を巡らせたマーナは、バイクを並走させるダウドに頷
きかける。
「ヘルもアイツも居ないようだ。引き上げるなら今だぞ、急げ!」
何故居ない?ダウドに告げられたマーナは疑問を感じたが、ひとまず頭の隅に追いやる。
「少々手荒い真似をするが、辛抱してくれシノ」
変わってしまった事を悟っていても、未だに愛しい娘の名で呼びかけながら、マーナはケースに手をかけた。
体育座りした女性がすっぽり収まるサイズのケースである。
かなりかさばるが、傷の痛みを堪えて、肩と首後ろで支えるように担ぎ上げたマーナは、併走するダウドのハーレーに飛び
移る。
僅かによろめいたハーレーはすかさず体勢を整えると、半壊したジープから距離を取りつつ急ターン、来た道を一目散に逃
げ帰る。
(これほど鮮やかな奇襲を、しかも市街地で成し遂げるか…!つくづくとんでもない男だなグラハルト殿…)
いつの間にやら殿付けになっているダウドの後ろで、アルラウネ入りのケースを肩に担ぐ窮屈な格好でバイクに跨り、マー
ナは嘆息する。
「がははははっ!ほら見ろ取り返せただろう?なかなかの手並みだったぞ」
気分良さそうに豪快に笑ったダウドは、ジープが追ってこない事を確認すると、幾分細い道路に乗り換え、何かを目指すよ
うにして細かに進路を切り替えながらバイクを走らせる。
「何処へ行くのだグラハルト殿?」
「お嬢ちゃんを担いだままじゃあ、とにかく目立って仕方がない。とりあえず協力者と合流して…、ちっ!」
唐突に言葉を切り、舌打ちしたダウドは、急ハンドルを切って狭い路地へバイクを滑り込ませる。
タイヤを横滑りさせながらビルの壁際にバイクをピタリと寄せた白虎は、夜空を見上げて耳をピクピクと小刻みに動かした。
「…ヘリ…か?」
呟いたマーナは、ダウドの様子の変化に気付くと、バイクを降りてケースを路面に下ろす。
「…まずいか?」
「ああ、まずいな。姿が見えんと思ったら、優雅に高みの見物を決め込んでいたらしい」
ダウドとマーナの鋭い視力が、夜空に溶け込む二つのシルエットをはっきりと確認した。
それは、夜の色で塗装された特自のヘリコプターである。
国内でも数機しか存在しない特別製のそれは、隠密空輸機能が優れており、ローター音が極端に低く、そして小さい。
携帯を取り出して素早く操作したダウドは、手短に通話相手に確認すると、すぐさま通話を打ち切った。
「案の定、ウチへは特自出動の連絡は入っていないか…。どうやって持ち出したのかは解らんが、あのどっちかにヘルが乗っ
ていると考えるべきだろうな…。ちっ!それにしても何をしているんだ特自は?ジープに続いてヘリまで奪われるとは…」
ダウドは顔を顰めて舌打ちする。空からの追跡にも備えて、あらかじめ上方からの見通しが悪い道を選んで来たものの、お
そらく大まかな位置は悟られている。
先程は聞こえなかったヘリの音は、距離を詰めたせいではっきりと聞こえるようになったのだから、おそらく間違いない。
「どうやら、ヘルにとっては随分と興味を引かれる物らしいな、アルラウネは…。俺が噛んでいると知ってもなお引き下がら
んところを見るに、相当ご執心らしい」
「ええい、簡単には行かない物だな!…しかしどうする?乗っているのが我らラグナロクだとしても、見た目が特自のヘリに
手出しするのは、さすがに少々まずいのでは?」
バイクから降り、ゴーグルの中で目を細め、短い間何か考え事をしていたダウドは、やがておもむろにぼそりと呟いた。
「…こいつは…、不可抗力…だよな…?」
「む?」
「ヘリの一機や二機が味方の誤射で墜ちるって不幸な事故は、非常事態なら珍しい事じゃねぇよな…?」
物騒な内容をぼそぼそと呟くダウドの横で、マーナがぎょっとしたように目を剥く。
「あれらはそなたの味方の機ではないかグラハルト殿!?」
「本来なら俺達調停者側にも伝えられるべき特自機の出動情報は、現時点じゃ回ってねぇ…。つまり味方だって気付かねぇで
落としても仕方ねぇ…。機体にゃロゴもねぇんだ、自分達から身元を明らかにしなけりゃ見た目はただの所属不明機…。言い
訳なんぞいくらでも思いつける」
口調がぞんざいな物になっているダウドの言葉は、一見するとでたらめだが、実のところ筋は通っている。
調停者の守備範囲である首都市街地においては、作戦内容は伏せたままで構わなくとも、出動の知らせは回さなければなら
ない。
防衛のための綿密な情報交換が義務付けられているこの国の心臓部…すなわち首都のルールでは、この状況で調停者や特自
などに誤って撃ち落とされても、無許可出撃しているヘリは文句が言えない。
そしてなにより、ヘリを操縦しているのが実際に特自隊員でない以上は、撃墜しても結果論で何とでも言い逃れができるだ
ろうという打算もある。
(秘匿技術が流用されている特自の特殊な機体を、所属不明の盗人に持ち逃げされずに済んだ…。咎められたら、まずはその
辺りから攻めるか…)
ダウドは左右を見回すと、ビルの裏手口へ続く細い通路に止められている、業務用の三輪スクーターに目を留めた。
「もうじき手が増えて楽になるが…、ハスキー、お前はここでお嬢ちゃんを護ってやんな」
「む?どうするつもりだグラハルト殿?」
「ちょいとヘリを墜として来る。…ついでにヘルの面ぁ拝んで、脅しの一つも入れてやるってのも悪かねぇな…」
マーナに応じたダウドは、剣呑な笑みを浮かべるなり、ゴーグルに手をかけて鷲掴みにする。
「オーバードライブ…」
ぼそりと呟いたダウドの手は、ゴーグルをむしり取り、路上へ投げ捨てた。
「タービュランス…!」
あらわになった金眼が怪しく輝き、白虎の全身で被毛がブワリとゆっくりと立ち上がる。
その気になったダウドに応じるように、ダインスレイヴから緩やかな風が吹き出し、周囲の冷気を追い払った。
ネズミや野良猫、虫達に、まどろんでいたカラス…。翼持つ者達が、音もなく這いずる者達が、まるで沈没する舟から逃げ
るように、我先にと競ってその場を離れて行く。
その気配を感じ取りながら、マーナはゴクリと唾を飲み込んだ。
ダウドのオーバードライブ、その解放による質の変化は、一流中の一流であるマーナですら萎縮せしめた。
(なんとも圧巻…!そしてなんと勇壮な…!底が全く見えん!過小評価したつもりは無かったが…、拙者はまだグラハルト殿
の力を見誤っていたのか…!)
例えるならば、ひとのサイズにまで凝縮したハリケーン。マーナは今のダウドをそのように捉えている。
(エインフェリアを事もなく屠る実力者…。軍を率いては倍する兵力を噛み破る戦上手…。理由はいくつもあるだろうが、グ
ラハルト殿をラグナロクが恐れねばならなかった理由は、もっと単純な事だったのだ…)
ラグナロクが危険視する最大の敵の一人。マーナはその理由を、今やはっきりと認識していた。
(天災クラスの力を秘める絶対的な個…。あまりにも強過ぎるが故に、一個人としてラグナロクの脅威足り得る…。そう、こ
んな…、こんなにも単純な理由で…、この男はラグナロクから警戒されていたのだ…!)
風を纏う白虎はマーナを一瞥する。その金色の瞳には青く六芒星が浮かび上がり、全身からはうっすらと白い蒸気が漂い、
夜へ滲んで行く。
「護りは任せたぜ?」
そう告げるが早いか、ダウドの姿がかき消える。
マーナでも眼で追うのが精一杯の速度で、ダウドの巨躯は先に目をつけていたスクーターの元へと移動していた。
ダインスレイヴの気流操作により、任意方向へ極めて限定的な範囲の突風を巻き起こし、それに乗る形で跳躍する白虎の体
は、夜に白い光尾を残す。
マーナの視線が追いついた次の瞬間には、屋根付きの三輪スクーターがふわりと浮き上がっていた。
前輪の太いシャフトを掴み、片手で無造作に吊し上げたダウドは、青い六芒星が浮き出た双眸を夜空へ、そこに浮かぶヘリ
へと向ける。
地上高、彼我直線距離、風向風速、湿度気温、対象近辺の情報を細かに捉えたダウドは、口の端を獰猛に吊り上げて剣呑な
笑みを浮かべた。
「そこか、ヘル…」
呟きが消え入る前に、発した本人の姿がその場から失せた。
一瞬の後には、その場から十数メートル離れた位置の壁面、地上から20メートルは上の位置を、片手にダインスレイヴ、
片手に三輪スクーターをぶら下げた白虎は垂直に駆けている。
勢いを付けて壁を駆け上り、壁面めがけて仰角45度で吹き付けさせた突風をその身に受けて、ずり落ちる事も無く、平地
を駆けるが如く疾走してゆく。
バイクを捕まえてから五秒程度で十階建てのビルを登り切り、屋上に到達したダウドは、中央に陣取ってダインスレイヴを
床に突き刺し、両腕でしっかり三輪スクーターを保持すると、遮る物が無くなったヘリに背を向け、大きく身を捻った。
「必殺…、ヘリ墜とし!」
半回転のジャイアントスイングとでも形容すべきモーションから、吠えるような声と共に放られた三輪スクーターは、砲弾
と遜色のない速度で三百メートル以上も飛翔して片方のヘリのコックピットに飛び込む。
直撃を受けたパイロット…ラグナロク兵は上半身を持って行かれて即死し、彼の体の半分ごとシートの背もたれと後方の隔
壁を粉砕したスクーターは、ヘリ後部で壁に当たってそのバランスを大きく崩させた。
後に若い白熊にも直々に伝授される事になる、常軌を逸したヘリ撃墜術が、最新技術の結晶を継続飛行不能に至らしめる。
砲撃用に作られたものでは決して無い、プラスチックや鉄の雑多な塊ではあっても、速度と重量さえ兼ね備えていれば申し
分ない破壊兵器になり得るという事を、ダウドは実践し、証明して見せた。
ダウドの姿を屋上に捉えたと思った次の瞬間、何が起こったか解らないままコックピットのフロントを破壊されてパイロッ
トを失い、副操縦席の兵士は動転していた。
が、なんとか立ち直り、とにかく機体を不時着させなければと慌てて立ち上がったその時、眼前に迫った絶望を目にして凍
り付く。
「よう」
抑えられているとはいえ、ヘリのローター音もある上に、高所を吹き抜ける強風と、破れた窓から吹き込む激しい風の音に
邪魔され、本来ならば聞こえないはずのその声を、男は確かに聞いた。
事切れたパイロットの下半身が座る、ヘリ操縦席の向こう側。窓の外に、先程まで数百メートル先の屋上に居たはずの白虎
の姿がある。
獰猛な虎の笑みの中で光る金色の双眸。そこに浮かぶ青い六芒星を彼が目に焼き付けた次の瞬間、ヘリが大きく傾いた。
破れた窓の縁に手をかけたダウドが、ぐいっと大きく腕を動かした途端、まるで重みのない張りぼてが強引に揺さぶられる
ように、巨大な金属の塊が簡単にバランスを崩す。
なんとも無造作な、掴んで下方めがけて叩き付けるような腕の振りに引きずられ、ヘリは三車線道路へ急降下した。
車通りの無い路面に激突したヘリが上げる炎に下から照らされ、夜空に仁王立ちする白虎は惨状を睥睨する。
風力操作によって水平になって宙に浮かぶダインスレイヴ。その幅広の腹をダウドのブーツが踏みしめていた。
これはダインスレイヴに備わっている機能ではない。
この巨剣はそんなにも細かくデリケートな使用を目的に造られた訳ではないのである。
ダウドが頻繁に使用する真空波も、圧縮した空気を飛ばす斬撃も、強風による足止めも、実際の所は本来の用途から大きく
逸脱している。
それらは、リンゴの皮をチェーンソーで剥く行為に近いと言える。
街一つを簡単に潰し得る天災そのものの力を宿すダインスレイヴにとっては、毎回無体な要求をされているに等しい。
ダウドは常にかなりの努力を傾けて荒々しい巨剣を御し切り、必要最小限の出力に留めさせているのである。
その驚異的な制御能力で気流を操作し、制作者すら考えもしなかった飛行という使用方法すら確立させるに至ったダウドは、
真にダインスレイヴを使いこなせる唯一無二の戦士と言っても過言では無い。
白い体躯から白い蒸気を滲み出させ、サーフボードに乗るようにダインスレイヴを足場にしているダウドは、ヘリの爆砕を
見届けると即座にもう一方へと視線を向ける。
「これで邪魔は入らねぇな…。そうやって鉄の棺桶に入ったまま死ぬか?ヘル」
火力と機動力と小回りにおいて空中戦における優位を占めるヘリだが、それ以上に小回りが効き、さらに機動力まで有して
いる存在に対しては、その優位性を著しく失う。
ダインスレイヴを足場に、ジェット機にも匹敵する速度で空を駆け、まして風を自在に操るダウドには、現存するどのよう
なヘリでも太刀打ちできないのである。
そのことを熟知しているからこそ、ヘルは挑発に応じた。
ボディサイドのハッチがスライドし、灰髪を風になぶらせながらヘルが姿を現すと、ダウドはかかって来いと言わんばかり
に顎をしゃくる。
「こうなったら仕方ないわねぇ、ヘリは適当に乗り捨てなさい」
ヘルは機内の部下達にそう告げると、縁を蹴ってふわりと宙へ躍り出る。
そのヒールを履いた両足が、空中を踏み締めた。
宙に静止して向き合う二人からヘリが遠ざかる。
高所を吹き抜ける風は、しかし今はヘルの髪を揺らしていない。
足場であると同時に防壁でもある不可視の球体が、彼女をすっぽりと覆っているせいで。
「あのお嬢ちゃんの事は諦めろ」
「あらあらあら?どうして貴方がアルラウネに執着するのかしら?」
「希少だろうが価値があろうが、俺にゃあ知ったこっちゃねぇ。…が、この街は俺達の縄張りだ。勝手されちゃあ気分が良く
ねぇから、嫌がらせに邪魔してやるのさ」
ダウドが挑発的に言い放つと、ヘルはクスリと笑う。嘲るような光を双眸に宿して。
「本当は、マーナに肩入れしてあげたかったんでしょう?あの子は貴方の大嫌いなエインフェリアなのに…。丸くなったもの
ねぇ、ダウト・ジハードも」
「ふん!懐かしい呼び方を…!」
口の端を歪ませたダウドは体を前傾させると、ほぼ後方を向く形になったダインスレイヴの剣腹付近で圧縮させた大気を爆
発させ、驚異的な推進力を得てヘルへ突進する。
その勢いを継続させたまま足場にしている黒剣の柄を掴み、一撃を繰り出す体勢に移る白虎と、それを押し留めるように右
手を前方に翳すヘル。
刹那の一閃。刹那の衝撃音。
背後から頭上を通し、力任せに叩き付けるように繰り出された巨剣の一撃は、しかしヘルの手前で何かにぶつかったように
静止していた。
同時に、前方に手を翳して障壁の厚みを増やしたヘルは、自分を覆う不可視の球体ごと、押し流されるように後退する。
剣を障壁に叩き付けた姿勢のまま、ダウドは両腕に力を込めると、瞬時に剣を横へ引き、水平の薙ぎ払いを繰り出す。
反応して右手を動かし、手の平をダインスレイヴへ向けて障壁の厚さを再度操作して弾いたヘルは、障壁の耐久限界が近い
事を悟り、後方へと滑るように移動して間を取る。
バズーカの直撃すら物ともしない思念波と大気によって形成される強固な障壁は、オーバードライブを使用しているダウド
のたった二撃で、耐久性の八割を削がれていた。
ヘルは僅かに目を細める。
壊れかけの障壁はそのまま強度を回復させられない。
元通りの強度にする為には、一度解除して再構築しなければならず、その際に隙が出来る。
知らない相手であればこまめに解除して作り直し、強度を維持させるところなのだが、幾度もの戦闘で障壁の事を熟知して
いるダウドが相手である以上、簡単に張り直しはできない。
空気を圧縮して作り出した球体を足場に、ダウドは水平に跳躍した。
炸裂した空気の塊が白い体躯に推力をもたらし、一気にヘルとの間合いを消失させる。
次の一撃は完全には防ぎ切れない。障壁を解除して張り直すにも僅かに時間が足りない。
完全に追い詰められたかに見えたヘルは、しかし妖艶な笑みを浮かべつつ障壁を解除する。
障壁があろうと無かろうと、構わず渾身の一撃を叩き込む心積もりのダウドは、ヘルを袈裟懸けに切り捨てるべく巨剣を担
ぐように振り上げ、
「ちっ!」
舌打ちするなり、掲げたダインスレイヴを止めた。
障壁を解いたヘルの腕は、懐に伸びていた。その細く白い指が摘んでいるのは、香水が入っているような瀟洒な小瓶。
中に入っている物が何であれ、安全な品でない事は確実と見て取ったダウドは、ヘルが摘んで放ったその小瓶を、圧縮大気
の球体に閉じこめる。
急停止し、再びダインスレイヴに乗ったダウドと、やや落下する形で下がりつつ障壁を張り直したヘルの間で、小瓶はピタ
リと静止していた。
「それ、何が入っていると思う?」
「体に良くねぇ何か…だろ?お前が持ち込むような品を、首都に降らせる訳にはいかねぇな」
仕切り直しの格好になった両者は、共に不敵な笑みを浮かべながら睨み合う。
その気のダウドに反応していきり立つダインスレイヴの影響で、首都の空を覆う雲は白虎の頭上を中心にぽっかりと穴をあ
け、四方へ追い散らされてゆく。
(我慢しやがれダインスレイヴ!角度が悪過ぎる、せめて完全に真上にでも来てくれりゃあ、本気でぶっ放させてやっても良
いんだが…)
半端に力を引き出され続け、焦らされてだだをこね始めているダインスレイヴに、ダウドは心の中で語りかける。
ヘルが下方に居る今、水平やそれに近い状態でも危ういダインスレイヴの本気を披露する事はできない。
うっかり気を抜いて勝手を許せば、ダウドの正面には薙ぎ倒されたビルが連なる瓦礫の道ができあがってしまう。
攻め立てていたダウドが手を緩めた事で、ヘルの瞳に窺うような光が浮かんだ。
「さて…、「星」を出してからどれくらい経ったのかしらねぇ?そろそろキツくなって来たんじゃないのかしら?」
「ぬかせ。倍も生きてやがるばばぁに心配される程老いちゃいねぇよ」
オーバードライブの限界が近いのではないかとかまをかけたヘルに、ダウドは不敵な笑みで応じる。
ヘルはダウドのオーバードライブ継続限界時間を正確には掴んでいない。
まだまだ余裕はあるが、当然ダウドが正直に応じてやる必要は無い。
限界が近いと踏んで功を焦り、下手に動きを変えてくれれば、ダウドにとっては面白い事になるのだから。
常軌を逸して頑丈なダウドの体は、実際のところ、オーバードライブの負荷に十数分以上耐えられる。
エナジーコートなどで肉体を補強する例を除けば、これは驚異的な持続時間と言えた。
五感…特に視覚の機能上昇と鋭敏化。
三輪スクーターを数百メートル向こうへ投げ飛ばし、軍用ヘリを片腕で地面へ叩き落とす程の筋力の異常増加。
大柄な体躯を弾丸のような速度で跳ね回らせる機動力の獲得。
さらには元々高いダインスレイヴとの親和性の急激上昇。
あらゆる機能を大幅に底上げするオーバードライブ…、それがダウドのタービュランスである。
焦れて暴れたがるダインスレイヴをなだめながら、ダウドはヘルとの間合いをゆっくり詰める。
今度は後手に回るつもりは無いらしく、ヘルもまた右手を翳すように眼前に上げ、目を細めつつ術の発動へと意識を集中さ
せる。
仕切りなおし後の先手はヘルであった。
前方で障壁に円形の小窓が生じ、翳した手の先に生じたオレンジ色の炎が矢となって夜気を裂く。
冷えた大気を焦がしながら高速で飛翔するそれは、より正確に言うなら高熱ガスの塊である。
触れれば被毛が蒸発し、皮膚が瞬時に炭化するであろうそれを、ダウドはダインスレイヴに足をつけたまま上下逆さに反転
して避ける。
次いで、発光する水球がダウドめがけて射出された。
スノーボーダーがトリックを決めるような格好で、ダインスレイヴを駆って宙で回転したダウドは、身を低くして素早く真
横へスライドする。
そのすぐ脇を、パリパリと音を立てながら発光水球が飛び過ぎる。
帯電した危険な水球は、しかし炎の矢とは異なり、まるでそれ自体が生きているかのように宙で旋回して再度ダウドめがけ
て突き進む。
「ギムレットにアクアビット…、ロキ仕込みの術ばかりだな?」
「先生に褒められる程の出来ですもの、ひけらかしたくもなるでしょう?」
軽口を叩き合いつつダウドは剣を掴んで一振りし、触れるのを避けて風圧で水球を破砕する。
ついでの牽制にヘルめがけて浅く放った衝撃波は、しかし今度はあっさりと回避された。
大柄な白虎と灰髪の女性が空中戦を繰り広げているその間に、ヘリは戦闘空域を離れてゆく。
先程ヘルが出していた指示によればヘリは乗り捨てられるらしいので、逃走される事自体は構わないのだが、ダウドはヘル
と派手に撃ち合いながら、少々面白く無さそうに顔を顰めた。
(あの感覚がねぇ…。さてはあの狐、ヘリに居なかったな?)
ダウドのそんな思考を見透かしたように、ヘルは口元を綻ばせた。
「ヘイムダルの事が気になるのかしら?」
「まあな。だが予想はつく。いつだって奇手を忍ばせておくのがてめぇの常套手段だからな」
呟いたダウドは、口の端を吊り上げる。
「だが、簡単に取り返せるなんて思わねぇ方が良いぜ?番犬は残して来たからな」
一機撃墜された轟音が響き、残るヘリの音が遠ざかり、遠くからサイレンの音が聞こえ始めると、マーナは立てている耳を
ピクリと動かした。
微かな風切り音が近づいて来る。それも、かなりのスピードで。
ちらりとアルラウネに目を遣ったハスキーは、じっと自分を見つめているその瞳を窺った。
もうシノではない。そう解っていながらも、マーナの目には穏やかな光が浮かんでいる。
「グラハルト殿から聞いた。そなたがもう、シノではないのだという事は…」
穏やかな、落ち着きのある声でそう語りかけながら、マーナはグローブを起動させる。
二つの意味で時間がない。
ビルの上や壁面、鉄柱や街灯、電線など、非常識な物を足場に非常識なルートで迫って来るソレは、間もなくここを嗅ぎつ
ける。
そして、自壊が始まったマーナの体は、恐らくはあと一度の戦闘が限界である。
特に、負担が大きいオーバードライブをもう一度試みれば、一気に自壊が進むのは間違いない。
ダウドが自分をこの場に残した意味を、マーナは理解している。
何者かがシノを奪いに来るであろう事を見越して配備された迎撃要員。それが今の自分の立場だという事を。
「…だが…、拙者は思った。…いや、感じたと言うべきか…」
マーナはアルラウネの瞳を真っ直ぐに見つめながら、優しげに口元を綻ばせた。
「シノの意識の残滓は、行動に影響を与えているのだろう?だからこそ、成り変わったあの場で目の前に居た拙者に手出しを
せず、わざわざ離れている相手に襲いかかった…」
アルラウネの表情に変化は無いが、マーナは確信を込めて言った。
ダウドに一喝された後、落ち着いて思い返して気付いた事なのだが、アルラウネの襲撃行動は少々不可解であった。
あの時、アルラウネは無防備だった目の前のマーナを無視した。
そして最初に襲いかかった相手は、シノを切り捨ててグレイブ第二小隊を壊滅させたあの監査官であった。それも、わざわ
ざ特自の隊員達を飛び越えて、真っ先に始末している。
次いで殲滅したのは自分に銃を向けた特自隊員達。その後はヘルに襲いかかっている。
襲われた者に共通しているのは、シノとマーナに危害を加えるであろう相手であったという事。
そして、シノが恨みを持つか、危険だと判断していた者であったという事。
消え失せたはずのシノという存在。しかし、アルラウネに取って代わられてもなお、その想いまでは奪われていなかった。
夢の残骸は、アルラウネですらも知らず知らずに影響を受け、その行動を縛られている。
「シノ…。拙者も共に逝こう。愛する君の傍らに、せめて来世で寄り添えるよう…」
微笑みながら、マーナは告げる。
それは、手遅れの告白。遅くなった返事。
全てを受け入れたような穏やかな笑みを浮かべているマーナを、アルラウネは無表情にじっと見つめた。
その双眸から、静かに涙がこぼれ落ちる。
アルラウネは身じろぎ一つせずマーナを見つめ続け、困惑しつつ考える。
解らなかった。
都合良く自分を脱出させてくれたこの男が何を考えているのかも、完全に支配下にあるはずの肉体が何故勝手に涙するのか
も、そして、その涙の理由すらも。
ただ漠然と理解できるのは、おそらくこのハスキーと自分の宿となった人間は強い絆で結ばれており、自分が寄生して乗っ
取った今でも、ハスキーはこの体に執着しているという事。
まだ言葉を持たないアルラウネは、それらの事をイメージとしてしか掴めない。
寄生した宿主を滋養にし、土に埋まって株を増やす事が定めである彼女にとっては、二人の心情が異質過ぎて理解し難い。
だが、おそらくはじきに死ぬのであろうこのハスキーが、愛した伴侶ではなくなっていると理解しながらなお、危険を冒し
て自分を取り戻しに来た事実は、彼女に深い興味を抱かせた。
「共に逝く。だからこそ君を誰かに奪われる訳にはいかん。根無し草の拙者は、生きる時も死ぬ時も、常にシノの傍らに…!」
起動した両手のグローブが、一対の武器を生成し始める。
実力を垣間見ただけでそうと判る強敵を相手に、自壊が始まった体で立ち向かわなくてはならない。
猶予も余裕も無い中で彼が生み出してゆく武器は、しかし得意の双刀ではなかった。
やがて煙のように漂っていた赤い力場は凝縮し、形を整える。赤い一対のトンファーに。
それはマーナが敬い、同時に目標としていた、彼の精神に多大な影響を与えた戦士の武器であった。
赤く輝くトンファーを握りしめ、腰を落として身構えたマーナは、キッと上方を睨む。
ビルの屋上の縁を蹴り、闇に踊ったのは若い狐の姿。
両手に握った細身の長剣をやや後方で左右に広げ、腕を翼のようにして落下して来るヘイムダルと、見上げるマーナの視線
が交錯し、見えない火花を散らす。
「…へっ!さっきは死に損ないの取るに足りないヤツだと思ったけど…、違うねこりゃ…!」
不敵な笑みを浮かべたヘイムダルの瞳に、喜悦の光が踊った。
「匂う匂う!おれには解る!極上だ!極上の相手だぜぇアンタっ!」
闘志を顕にしたマーナから漂う一流の戦士の気迫を嗅ぎ取り、戦闘中毒者ヘイムダルは興奮と期待から歓喜の声を上げた。