マーナ・ガルム(後編)

大気を切り裂き、剣を握る両腕を翼のように左右に広げ、ビルから飛び降りたヘイムダルは真っ逆さまに地上に迫る。

それを見上げるハスキーは、チラリと一瞬だけ振り返り、ケージに囚われたまま大人しくしているアルラウネを見遣ると、

小さく頷きかけた。

アルラウネの支配下にあろうが、シノ自身は死んでいようが、もはや関係ない。

その肉体がシノの物であった以上、決して好きにはさせない。

自分を取り戻し、再び揺るがぬ信念に支えられたマーナの両足が地を蹴り、数十メートルを落下してくる狐の着地地点めが

けて素早く移動する。

敬愛している元同僚の武器を模して生み出された、赤い力場が形を為すトンファーが、闇に赤い影を残す。

両者が接触するその瞬間、振り上げるトンファーの光跡と、振り下ろす黒刃の軌跡が、宙で交わり衝撃音と共に弾けた。

次いで双方が振るったもう一方の得物が、再び闇に火花を咲かせる。

縦の攻撃と横薙ぎの攻撃、二度の接触に次いで繰り出されたのは、マーナのサイドキックと、落下を終えていないヘイムダ

ルの回し蹴り。

靴底でぶつかり合った両者の足が、互いを後方へはじき飛ばす。

着地寸前の刹那、常人の目では捉えられない高速の攻防を繰り広げた末、結局ヘイムダルが最初に踏み締めたのは地面では

なく、吹き飛ばされた先の壁面であった。

強靱かつしなやかな狐の肢体は、壁面に激突する衝撃を見事に殺し、屈み込む格好で壁に立つ。

直後、ニヤリと口元を歪めたヘイムダルは、壁を蹴って地面と水平に跳躍した。そして、足を踏ん張りながら後ろへ滑って

ゆくマーナに矢の如く接近、肉薄する。

「良いっ!いいぜアンタ!サイッコーだ!」

歯応えのある相手を前にして、ヘイムダルは歓喜した。

生まれたばかりの彼が赴いた最初の任務…北原での反逆者粛正戦でも、これほどの相手とは巡り会えなかった。

悪環境で絞られ鍛えられていたグレイブという名の部隊は、集団として見れば質は悪くなかったがヘイムダルにしてみれば

少々物足りず、目ぼしい相手は指揮を執ったヘルや同行していた他のエージェントに屠られて、彼のところには回らなかった。

そこそこ歯応えのあった竜人とポメラニアンのコンビも、結局は地形と気候に慣れた強みを生かされて逃げられた上、最終

的にはベヒーモスに持って行かれてしまい、煮え切らない気分がいつまでも残っていた。

だが今は邪魔が入らない。心ゆくまで殺し合える。

自分がダウドを引き止めていられる間だけとの条件付きではあったが、ヘルの許可も得られている。

歓喜の声を上げつつ、飛びかかる格好でマーナに迫ったヘイムダルは、宙で右の剣による突きと、左の剣で大腿部を狙った

薙ぎ払いを、同時に繰り出す。

胸の前から眼前へ右腕を払って鋭い突きをいなしたマーナは、脚を狙う横薙ぎを逆方向の動きをなぞった左のトンファーで

打ち払う。

体の前面が開いたマーナの顔面へ、喜悦満面の狐の顔が迫った。

『ふんっ!』

額をかち合わせ、強烈な頭突きを見舞いあった両者の口から、同時に気合いの声が漏れる。

顔を顰めたくなるような重々しい激突音が響く中、額を叩き付けあった両者は、至近距離で視線を交わす。

「ひゃはっ!いい石頭してるじゃん!」

「そうだろう。拙者の石頭はハティ中尉殿の拳骨より硬い!」

ギラギラと楽しげに輝く狐の目とは対照的に、ハスキーの瞳は闘志だけを湛え、静謐な光を宿していた。

もしもこの場にダウドが、あるいは彼と同格の神将が居たならば、感嘆の吐息をつく事は間違いない。

再生された死体に宿る人工人格であるはずのマーナは今、ある種の境地に達していた。

それは、幾重にも濾過され、極限まで不純物を取り除かれ、澄み切った水の如き精神。

護る。今、マーナの胸の内には、ただそれだけが存在する。

たった一つの目的のためだけに武を奮い、他の事には一切心奪われず、しかし澄んだ心は周囲の状況全てを静かに映す。

明鏡止水。

考えるともなく考え、感じるともなく感じ、思うともなく思うその澄み切った心が、この一時だけマーナを押し上げた。

闘神と称される、ある男が体現した武の極みへと…。

マーナは、特に何らかの特別な事をするでもなく、しかし加減や容赦もなく、頭突きを噛み合わせたまま勢いに任せて自分

を押し倒そうとしている狐めがけて、真下から脚を蹴り上げた。

当然察知して脚を引き寄せ、膝で鳩尾をカバーしようとしたヘイムダルだったが、マーナの脚は、まるでそのガードの軌道

が、カバー範囲が、タイミングが、全てあらかじめ解っていたように角度を変え、ヘイムダルの左脇腹に食い込む。

「っぐ!?」

水平方向への跳躍の勢いが加わったまま、マーナに弾かれるような格好で斜め上方へ飛んだヘイムダルは、首を捻りつつ眉

を跳ね上げる。

居なかった。

自分をいなして宙へ飛ばしたマーナの姿が、眼下の何処にもなかった。

そう認識した若い狐は、疑問を覚える。

この、背中の痛みは何だろうか?と…。

「がばっ!?」

認識した直後、背の痛みは激痛に変わり、ヘイムダルは地面へ急降下する。

ヘイムダルを吹き飛ばすなり真横に飛び、壁を利用して狐の上方を取ったマーナは、両のトンファーをきつく握りしめ、両

腕ごと振り下ろす格好でヘイムダルを地面へたたき落としていた。

路面に叩き付けられたヘイムダルは、受け身も取れずにアスファルトの上で跳ねる。

その直後、人の形にくぼみ、ひび割れたアスファルトの破片と共に跳ねた狐の体が、再度上方からさらなる襲撃を受けた。

肩甲骨の間に、ハスキーの膝がめり込む。バウンドした直後に再び地面に叩き付けられたヘイムダルは、胸からアスファル

トへ埋没した。

そしてマーナは、膝をヘイムダルの背に乗せたその状態で、両腕を頭上へ振り上げる。

それはまるで、何かに祈りを捧げているような姿勢にも見えた。

一瞬の静止、一瞬の溜め、二本のトンファーは揃えられて、ヘイムダルの後頭部へ振り下ろされた。

地面とトンファーの板挟みになったヘイムダルが、マーナを乗せたまま衝撃で跳ねる。

ヘイムダルは為す術もなく蹂躙されていた。反撃どころか防御もできない。僅かに着弾点をずらす事さえできない。

奇妙なのは、異物感のような鈍痛に続き、やや遅れて激痛がやって来るという現象であった。

気付けば相手の攻撃が終わっており、仕掛けられた事がまるで認識できない。

浮いた足場となった狐の背を、マーナは蹴った。体重を十分に乗せた突き放すような蹴りで、ヘイムダルを踏み台に大きく

跳躍するハスキー。

僅かに浮いた状態から斜めに蹴り落とされたヘイムダルは、三度激しく地面と激突し、アスファルトを砕きながら、転げる

ように吹き飛ばされる。

オーバードライブ、ツナミ。瞬間的に亜音速での移動を可能にするマーナの切り札により発生した衝撃と防風が、一瞬の襲

撃の間に狭い路地を蹂躙していた。

しかも、その切り札をねじ込んだタイミングで起こった現象は、無拍子。

相手の意識の向かう様を感じ取り、認識の間隙を突く…、防御どころか認識すら不能となる妙域の技であった。

相手の思念波に干渉して認識にエラーを起こさせる能力、タンブルウィードを持つマーナは、他者と比べればいくらかはこ

の妙技に近い位置にある。

相互干渉による相手の注意と呼吸の読み取り…。この局面で、マーナは己の能力を拡張利用する術を掴みかけていた。

神将にも比肩し得るレベルへの一瞬の昇華。しかし、土台も整わないまま不相応な武の極みにつま先を踏み入れた代償は、

高くついた。

着地した途端にマーナの喉が蠕動し、どす黒い血液が大量に吐き出される。

一気に進んだ自壊の激痛が、意識を飛ばしかける。

かろうじて意識をつなぎ止め、崩れ落ちずに済んだマーナは、呼吸すらままならない状態で噎せながら、敵の動向へ注意を

向けた。

地面に叩き付けられて数度バウンドし、転げながら遠離っていったヘイムダルは、そのまま宙でくるりと体を返して四つん

ばいで路面に踏ん張り、顔を顰めながらも体勢を整える。

次の一手に備え、短時間睨み合う両者。

マーナはここまでの攻防で、ヘイムダルが自分とは大きく異なるエインフェリアである事を理解していた。

身体性能の高さや反応の良さは、素体のポテンシャルによるという物だけでは説明がつかない。

さらに叩いた手応えもおかしい。ダウドを蹴った時と同様の頑強さが、ヘイムダルの体からも感じられる。

そして、微妙な感触の違いから、おそらくは左腕が生身ではない事…、精巧に作られてはいるが、義手であるらしい事が察

せられた。

ラグナロクでは思念波感知式の義肢類が実用化されている。

当然一般には出回っていない技術だが、存在を知っているマーナにとっては、ヘイムダルの本物にしか見えない義手も驚く

には値しない。

だが、感触がどうにもおかしい事は、意識の隅に引っかかった。

技師が調整を誤ったのか、右腕に比べて義手が重過ぎ、ボディバランスを僅かに崩している。

その僅かなアンバランスさが、完璧に近い素体の動きを僅かに損ねている。

そしてその違和感は、素体となった本人であれば気付けただろうが、最初からこの状態で居るヘイムダルには実感し難い物

であった。

技術者も、ヘルでさえも見逃していたその欠点を、手合わせしたマーナは把握した。

そこまで食らいつける相手が居なかったため、見過ごされてしまっていたヘイムダルの欠点が、この重要な局面で一枚噛む

事になる。

手負いのマーナと無傷のヘイムダルの力が横一線に並んだその時、マーナの体はついにボーダーラインを踏み越えた。

瞬間的に闘神の域にすら達したハスキーの目と耳、鼻孔から、つつっと血の筋が垂れる。

次の瞬間、ゴポリと音を立てて、マーナはまたも大量に血液を吐き出す。

オーバードライブの使用によって一気に進行した自壊が、ついにその身を蝕み切ろうとしていた。

胸に刃を突き立てられ、臓腑を掻き回されるような耐え難い激痛と、手足の先から徐々に力や血液、気力が抜けてゆくよう

な虚脱感。

その、立っている事さえ困難な不調に負けず、口から胸元、腹までをどす黒い血で染めながらも、マーナは両足でしっかり

と地面を踏みしめ、両腕でしっかりとトンファーを握りしめ、双眸でしっかりとヘイムダルを見つめている。

オーバードライブ持続時間の限界間際、マーナは地を蹴った。

ヘイムダルでも反応がぎりぎりとなる高速で突っ込んだマーナは、加速の勢いを乗せた右拳…握ったトンファーの先端を、

やや突きおろす格好で繰り出す。

反射的に跳ね上げられたヘイムダルの左腕は、しかしその途中で微かなブレを見せた。

マーナが仕掛けたタンブルウィードによって、ヘイムダルの注意が一瞬、ほんの一片だけ横へ逸れている。

集中の乱れから失速を見せた左の剣は、防ぐには角度が悪く半ばから折れ飛び、いささかも勢いをゆるめずに突き進んだト

ンファーの先端が、狐の左肩を捉えた。

音速の一撃で肩を突かれ、斜めになったヘイムダルの脇腹に左のトンファーがめり込む。

さらに同じ箇所へ左のすねが飛び込み、体を折ったヘイムダルの右胸部を、射抜くようなサイドキックが襲う。

それは、まさに津波であった。接触すれば踏み止まる事も抗うこともできず、一瞬で蹂躙され、押し流されてしまう圧倒的

な猛威。

刹那の間に四連撃を叩き込まれ、狐の細い体がまたも吹き飛ばされる。

まるで、マーナの突進速度がそのまま移ったように。

突進の勢いをそのまま打撃に変えたマーナは、苦もなく制動をかけ、僅かに滑って停止する。

その前方で、強烈な連撃を受けたヘイムダルが剣を地面に突き刺して、なおも十メートルほど滑りながら止まり、ふらつき

ながら上体を起こす。

しかしその表情は苦痛に歪んではいない。爛々と目を輝かせ、喜悦に口角を吊り上げ、いかにも楽しげな顔となっていた。

この時点で、マーナのオーバードライブは解除された。

持続が危険域に達したから意図的に解除したのではない。もはや物理的に持続が不可能なのである。

あの機動力を発揮するだけの力が、急激に死期が近づいているマーナには残っていない。

それでもなお、折れぬ闘志は握りしめた武器を具現化させ続け、両脚は体を支えている。

「最高だ…。サイッコーだよあんた!」

喜悦の色を顔全体に広げ、ヘイムダルはぐっと膝をたわめる。今度は自分から攻めてやろうと。

しかし、この時点で再び違和感が彼を襲った。

横合いから誰かに狙われているという感覚。マーナの能力はそんな誤認を生じさせると、ヘルから聞かされている。

実際に味わったが、知っていてもなお完全には無視できない厄介なものであった。

だが、今は距離もあるのでさして問題はない。

そう頭の隅で考え、感じた気配に目を瞑ろうとしたヘイムダルは、しかし風切り音まで耳にした。

本当に気のせいなのか?疑問を覚える前に反射的に動かしてしまっていた左腕を、ひとまず止めようか否か、そんな思考が

形を為したか為さぬかの内に、

「おろ?」

左脇腹に灼熱感を覚え、ヘイムダルは急に不思議そうな顔になる。

首を巡らせると、左脇腹に突き刺さっている、茶色い何かが目に入った。

「おろろ?」

さらにその根本の方へと目を遣れば、どこまでも伸びる茶色の根。

そして、透明なケージを内側から突き破り、指先から生えた根で自分を刺している若い女の姿。

ケージ横手まで吹き飛ばされていたヘイムダルは、アルラウネの攻撃範囲ぎりぎりに達していた。

本来ならば攻撃を回避する事も難しくはなかったが、事前に味わわされたタンブルウィードのせいで判断を誤り、無防備に

受けている。

さらには、ただでさえ僅かに重い左手に加え、左の剣も折られてしまい、バランスの狂いに拍車がかかっていた。

気のせいでは無いと認識するのが遅れたのもあったが、バランスの崩れが僅かに動きを妨げた結果であった。

意表を突かれてきょとんとしたまま、ヘイムダルの体が素早く旋回する。

折れた左の剣で根を断ち切り、素早く振られた左足、そのブーツ外側から、仕込まれていた鍔のない両刃のナイフが飛ぶ。

ストンッと、吸い込まれるように命中したナイフは、突き破られたケージの隙間を正確に抜けて、朝顔にも似た形のアルラ

ウネの花…胸に咲いた最初の一花の中心を貫き、深々と突き刺さった。

「…あ…!」

蹴りを繰り出したヘイムダル本人の顔が、しまったと言わんばかりに引きつった。

本意ではなかった。彼の能力バーサーカートリップの一端により、意志とは無関係に体が動いてしまった結果である。

ヘルから生きたままの捕縛を命じられていたヘイムダルには、アルラウネを不必要に傷つけるつもりはなかった。

ケージのひびが広がり、破れて破片となる中、アルラウネはどさりと仰向けに倒れる。

が、その顔に苦痛の色は無く、瞳はじっとマーナを見つめていた。

まるで、彼の無事を確認するかのように。

接触した瞬間に最後のカード…差し違える形での力場のゼロ距離爆発を仕掛けようと目論んでいたマーナは、その視線で出

鼻をくじかれた格好になり、二歩前に出た後に踏み止まると、

「拙者は…、また君に救われたのだな、シノ…」

自らの血で真っ赤に染まった口元を、微かに綻ばせた。

アルラウネは自問していた。何故あんな真似をしたのだろう?と。

脱出の機会として利用すれば良かったのに、わざわざヘイムダルにちょっかいをかけ、あげくにこの有様…。コアを貫かれ

て致命的なダメージを受け、宿のコントロールもできなくなってしまった。

しばらく考えた彼女は、やっとその事に思い至る。

彼女達は本来ならば生きている時に寄生し、体を乗っ取る、宿主はその課程の苦痛に耐え切れず命を落とす。

だが、自害を試みて意識が消えていたシノは、苦痛によるショック死とはならない。

すでに死んでいると早合点して肉体の修復にとりかかった事が、アルラウネのミスであった。

これは、ダウドも、そしてヘルも、もちろんマーナも想定していなかった事態である。

シノは、死ぬ前にアルラウネによって内側から修復され、死ぬ途中で半端に固定された状態のまま動かされていた。

意識こそ無かったものの、その強い想いがアルラウネの行動にまで影響を与えながら…。

無表情だった若い女の顔が、マーナに向けられたまま僅かに緩んだ。

そして、震える唇が微かに動き、声にならない言葉をつむぐ。

(死んだらダメだってば、あたしのヒーローさん)

寄生というより、融合に近い形でアルラウネの支配下にあったシノの残骸は、その影響力が弱まった事で、僅かに表面に現

れる事ができた。

それほどまでにコントロールができなくなったアルラウネは、花をしおれさせて枯れてゆく。

選ぶ余裕はなかったが、とんだ不良物件を掴まされた…。人の心境でいうならばそんなところであろうか。

アルラウネは釈然としない気分を味わいながら、しかし自分の宿と、そしておそらくは自分にまで向けられているのだろう、

お人好しのハスキーの穏やかな視線に満足し、自我を闇に溶け込ませた。

「…やっちまった…」

ヘイムダルはボソリと呟く。顔を顰めて若い女を見下ろしながら。

脇腹に食い込んだアルラウネの根は筋肉組織の表層で止まっており、筋肉と血流の操作により出血も殆ど無い。

おまけに、マーナの強烈な打撃で被った痛みも、彼が素体から引き継いだ能力によって、動きを妨げるには至らない。

肋骨が何本か折れている物の、動くには全く支障がないとさえ言えるヘイムダルは、しかし激しい苦痛でも感じているよう

に顔を顰めていた。

任務であれば殺害も辞さないし、戦って相手を殺す事に躊躇いはない。

だが、今傷つけた相手は戦士でもなければ殺害を命じられた存在でもなく、身を守る為に殺さねばならない程の敵でもない。

おまけに、ヘルから言い渡された任務を果たせないというこの結果…。

望んでやった事ではないものの、エージェントとしての矜持に傷が付いた狐は、苦い感情を噛みしめる。

その苦々しい表情のまま、ヘイムダルはぞわっと首周りの毛を膨らませた。

弾かれたように振り向くヘイムダルと、微妙にシノの方へ移動するマーナが、闇に佇む小柄な影を認める。

「…ダウドの言った通り、随分と毛色の変わったエインフェリアだな」

フードを目深に被り、貫頭衣で全身を覆い隠した小柄な人物は、合成音のような声で呟いた。

その、手袋をはめた手がすぅっと上がると同時に、ヘイムダルはシノとは逆方向、謎の人物の方へと飛び込むように身を投

げ出した。

直後、まるでシノからヘイムダルを遠ざけるように銃弾の雨が斜め上方から降り注ぎ、一瞬前まで彼が踏んでいたアスファ

ルトに無数の弾痕を刻む。

飛び込み前転の要領で転がりつつ頭上を一瞥したヘイムダルの目は、しかし発砲されたとおぼしきポイント、非常階段に射

手の姿を見つけられない。

「誰だっ!?」

邪魔が入った事で苛立ったヘイムダルが牙を剥いて吠えると、フードの下でユミルの双眸がキラリと輝く。

「いくら出す?」

「ん?」

「私の名を知る為に、いくら出すと聞いている」

からかわれている事を悟ったヘイムダルの顔が、不敵な笑みを浮かべた。

「いいや、聞かなくたって。財布持ってきてねーし。それに…、力ずくってのも嫌いじゃねーし」

ゆっくりと剣を構えたヘイムダルは、マーナの様子をちらりと窺いつつも、突如現れた謎の乱入者へと注意を傾け始めた。

「あんた。結構やるんじゃねーの?首筋にチリッと来たぜぇ…!」

新たな強敵の出現を喜び、舌なめずりしたヘイムダルを注視しつつ、マーナはシノの方へと移動し、

「お迎えに上がったであります」

唐突に背後から声をかけられ、いつでも跳べるよう足を僅かに曲げて動きを止めた。

「何者だ?」

警戒するマーナの誰何に応じ、少し離れた位置にある建物と建物の隙間から声が漏れ出る。

「怪しい者であります。が、それほど怪しくはないであります」

妙な断りを入れつつ、窮屈そうに横歩きで隙間から這い出て来たのは、ぽってりと太ったレッサーパンダであった。

建物の隙間はやっと通れるほどのスペースしかなかったらしく、闇に溶け込む黒いアサルトジャケットは、腹と背中が埃で

盛大に汚れて白くなっている。

「自分達は味方であります。貴方達を援護し、無事に脱出させ、保護する事。それが、ダウド・グラハルト氏からの依頼であ

りますから」

ダウドの名を出したレッサーパンダの言葉を、マーナは即座に信用した。

白虎がそれとなく臭わせていた手助けの存在…。それがこの二人なのだと確信して。

一方ヘイムダルは、ユミルとの間合いをじりじりと詰めて行く。

遠くまで逃げられないだろう弱ったマーナより、無傷のこちらをどうにかするのが先決だと判断して。

「あんた得物は?丸腰だからって手加減はしねぇよ?それとも、さっきの不意打ちみてーにお仲間頼りかい?」

「先程の?あれは仲間の手による物ではない。それに、武器なら既に配してある」

フードの下から、合成音が静かに響いた。

「戦においては一点に縛られない事が肝要。見るともなく全体を観察し、些細な変化も逃すべからず。…素体となった坊主だっ

たら決してしでかさないはずのミスだ。スペックは素晴らしいが、どうやら戦闘経験は蓄積不足のようだな」

フードを目深に被った怪しい男…いや、男か女か性別すら判然としない人物が、静かに片手を上げる様を、ヘイムダルは怪

訝そうな顔をしながら見つめる。

(こいつ…、おれの素体になったヤツを知ってるのか?)

そんなヘイムダルの思考を断ち切るようにユミルの手が振り下ろされると、四方八方から一斉に銃弾の雨が降り注いだ。

「ちっ!何だこれ!?どっから…!くそっ!」

仕掛けられた無数の銃器から放たれる弾丸を、ヘイムダルは舌打ちしながら避け、弾き、防ぐ。一発たりとも直撃はしない

が、回避と防御に集中し、他の事はできない。

つまり、シノを担いだマーナがエイルに促されて待避に移っても、牽制する事すらできない。

「援護しなければ…。あの狐、相当な化け物だ。死に損ないとはいえ、拙者の手もあった方が…」

「手出しは無用でありますからして、速やかに撤退するであります」

そっけなく応じたエイルの視線の先で、路地奥の丁字路、太い道路と交差するポイントに車が走り込み、急停止する。

それは、ユミルの能力によって遠隔操作されたライトバンであった。

「相手が殺界に足を踏み入れたままでいる限り、お師匠のデウスエクスマキナは無敵でありますから」

マーナがアルラウネをバンに運び入れ、エイルがストレッチャーで固定すると、一斉砲火を耐えしのぐヘイムダルを棒立ち

のまま眺めていたユミルは、くるりと踵を返した。

同時に銃撃が止み、若い狐は獰猛な笑みを浮かべる。

「面白ぇ能力だけど、もう種切れか?」

背を見せているユミルに飛びかかるべく身構え、直後に実行に移したヘイムダルは、

「…つくづく読み易い男だ」

そんなユミルの呟きを耳にすると同時に、素早く真横を向いた。

フォシュッという気の抜けた音と共に、黒い球体がヘイムダルの進路めがけて飛び込む。

細身の直刀が邪魔なそれを切った途端、内部に詰め込まれていた黒い煙が、爆発的な勢いで吹き出した。

「極めて好戦的な性質と直情径行は、どうやらダウドが目を付けていたあの小僧と変わらないらしい。…プロジェクトヴィジ

ランテの中核を担えるかもしれぬとまで期待していた候補者が、よもやこんな形で自分の計画を阻む側に回ろうとは…、流石

のダウドも考えていなかっただろう…」

エイルお手製の黒胡椒風味煙幕で目と鼻をやられ、激しく噎せ返るヘイムダルを無視して、ユミルは物思いに耽るような足

取りで歩を進める。

激しく痛み涙が溢れる目で煙の向こうを睨むヘイムダルは、ユミルの背を目にして舌打ちした。

「こんなんでむざむざ逃がすと思…」

言葉を切ったヘイムダルは、急に表情を硬くする。

(ヘイムダル、そろそろよ。任務の成否に関わらず、今すぐにでも撤退して…)

頭の中に直接響く、言葉ともイメージともつかないメッセージ。

その少々切羽詰まった感覚が混じるヘルからの念話を受信した狐は、即座に踵を返す。

優先すべき事があるせいか、ユミルも乗り込んだライトバンが走り出しても一度も振り向かぬまま、ヘイムダルは大きく跳

躍し、ビルとビルの間を跳ねながら、夜空へと駆け上って行った。



「ふぅ…」

ヘイムダルに撤退を伝え、ため息をついたヘルの眼前では、障壁に白い手が添えられていた。

ダインスレイヴを横から食い込ませ、発生する烈風で食い破らせようとしながら、ダウドは障壁を素手で押し込んでいる。

うかつに触れれば体がずたずたになる、弾丸の軌道すら変えてしまう強固な障壁を。

その手からも全身と同じように滲み出ている白い蒸気が、どのような作用による物か、障壁を少しずつ蝕んでいた。

浸食分解とでもいうべきなのか、蒸気に触れる傍から障壁は溶け崩れており、密度が薄くなるにつれて真横からのダインス

レイヴの食い込みが深くなって行く。

「チェックメイトだぜ?ヘル」

「それはどうかしら?破られる前にこっちの準備も済むと思うけれど…」

微かにヘルの口元が緩んだその瞬間、ダウドは憎々しげに牙を剥く。

追いつめられたかに見えたヘルは、障壁内で無色の毒ガスを生成していた。

またしても眼下の街並みを盾に取られ、白虎は歯がみする。

「くそっ!」

咄嗟の判断で攻め手を変えようとしたダウドの意志に反応し、黒い巨剣がブゥウウンと、虫の羽音のような唸りを上げた。

柄に両手を添えたダウドは、障壁に剣を食い込ませたまま、力任せにスイングする。

まるで、強打者にミートされた硬球のように、球状の障壁ごとヘルが飛ばされる。

その、距離が離れて行くヘルめがけ、両手でしっかりと保持した愛剣の切っ先を真っ直ぐに向けたダウドが吠える。

「吹き飛ばせ、ダインスレイヴ!」

咄嗟の判断で命じたダウドに、黒い巨剣は豪風を吹き出す事で応えた。

ダインスレイヴの周囲、さらにはダウドの後方からも大気がかき集められ、ジェット機が巻き起こす気流以上の突風が、一

塊になってヘルに殺到する。

うかつに障壁のガードを解く事もできず、障壁内に毒ガスをため込んだまま少し残念そうに顔を顰めたヘルは、そのまま弾

丸のような速度で遙か彼方へ、海に向かって飛ばされてゆく。

「またねぇ?ダウド…」

呟いた唇をきゅうっと三日月の形にし、ヘルは目を細める。

言葉は届かなかったものの、「ふんっ!」と不快げに鼻を鳴らしたダウドの金眼は、双眼鏡でも確認できない距離でも、別

れの言葉を把握していた。

おそらくこのまま離脱される。追っても間に合わない。そう判断したダウドは、ダインスレイヴを寝せて足場にすると、疲

労を覚えた様子で眉間に指を当てた。

その途端に瞳孔に浮かんでいた六芒星が薄れ、たちまち消える。

オーバードライブを解除したダウドは、苦々しい顔をしていた。

ヘルを撤退まで追い込んだ。といえば聞こえは良いが、実際にはむざむざ取り逃がした格好である。

戦闘の半ばでヘルが諦め、撤退を考え始めていた事は、ダウドには判っていた。

それでも、眼下の街そのものを人質に取られたあの状態では、逃がしてやる以外に選べる道は無かったのである。

攻め込まれて迎え撃つという形になれば、一般人を躊躇なく盾にするヘルは、ダウド達調停者にとって非常に厄介な相手で

あった。

自分にとっても因縁深い魔女は、同時に、盟友が狙う怨敵でもある。

仕留められる時に仕留めておかねば、次にいつ何処でいかなる災厄をもたらすか判った物ではない。

機会を逃した口惜しさに浮かない顔をしていたダウドは、ダインスレイヴを降下させる。

路面が近づいてくる途中、携帯の振動を感じて手に取った白虎は、着信相手の名前で状況を判断し、僅かに表情を緩めた。



「済まない。傷つけた上に持ってかれた…」

岸壁の際に跪き、耳を倒しながら手を伸ばしたヘイムダルを、ヘルは3メートルほど下から微笑を浮かべて見上げる。

「構わないわぁ。ダウドがああいう風に絡んで来ると、思い通りに進めるのもちょっと難しいもの」

ヘルは波打つ海面に足を乗せ、まるでそこが地面であるかのように立っている。

液体の上に直に立つのではなく、硬いビニールシートが張られた水面に足を乗せているように、海面のうねりに合わせて体

が持ち上げられたり、ゆったりと下がったりしていた。

海面を軽く蹴ったヘルは、まるで目に見えないロープで吊られてでもいるように、フワリと奇妙な跳躍を見せ、差し伸べら

れていたヘイムダルの手を握る。

細身の狐は細腕に見合わぬ腕力で、女性とはいえ平均的な成人であるヘルの体を軽々と岸壁上へ引き上げた。

ヘイムダルの周囲では、武装したヘルの親衛隊が油断無く身構え、周囲を警戒している。

警戒を続けつつも合流した主に敬礼する彼らは、ヘリに乗っていたメンバー達がダウドに殺されてしまったせいで、上陸時

に比して頭数が三分の二に減じていた。

「ハスキーはどうする?」

「マーナは…、ダウドが処分してくれると思っていたんだけれど、あの様子だと怪しいわねぇ…。まぁ、自壊が始まっていた

からそう保たないでしょうし、重要な事は何一つ知らないから尋問されても問題ないわ。厄介払いは済んだと考えましょうか」

ヘルが肩を竦めると、ヘイムダルは小さく顎を引いた。

正直なところ、決着前に邪魔が入り、さらにその男にも興味をそそられていたため、消化不良の感がある。

しかし今は諦めるしかない。ヘリが墜落した現場には既にパトカーや消防車などが集まり始めており、これ以上派手に動く

事はできない。

今回は戦争をしに来たわけではない。首都に喧嘩を売るにはあまりに頭数が違い過ぎ、一方的に損害を被るだけになってし

まう。

他の部隊ならいざしらず、今動かせるのは全てがヘルの私兵なのだから、損失は全てヘルの痛手となる。

自分一人が戦って満足できればそれでいい。そんなシンプルな行動理念だけで動くほど、ヘイムダルというエインフェリア

は幼くも、甘くも無かった。

ヘルの存在が第一にあり、自分の満足の優先度はその僅か下にある。差は僅かな物でも、この順位は決してひっくり返りは

しない。

戦闘狂ではあるが、同時にヘルの忠実な懐刀でもある、己が役目をわきまえる狂戦士…。

狂気と執着と忠誠心を腹に収め、完全に同居させている事。あるいはそれが、ヘイムダルというエージェントの真の恐ろし

さなのかもしれない。

「アルラウネは諦めるわ。本来の目的は別にあるわけだし…、欲張り過ぎは良くないわねぇ」

「判った。…もっとも、殺しちまったかもしれねーけど…」

ボソッと呟いて付け加えたヘイムダルは、少々気になっていた事を思い出した。

「ヘル。自壊ってのは、どういうもんなんだい?」

唐突に何だろう?と少し訝りながらも、自壊について簡単な説明をしてくれた主に、ヘイムダルは首を傾げて問いを重ねた。

「それって、おれはどうなんだ?」

「貴方は心配無いわ。自壊対策の調整がしてある事も、第三世代エインフェリアの特長よ」

「ふぅん…。で、自壊ってのは治らないのか?遅らせるとかは?」

「今のところそんな方法は無いわねぇ。例えば、最初から外気や日光に強い特殊なゴムを作る事はできるけれど、日に当たっ

て風に当たって劣化していく普通のゴムが、変化してしまったらもう元には戻せないように…、「そうなってしまったら」も

う手の打ちようが無いのよぉ」

一度言葉を切ったヘルは、「ただ…」と目を細めて何かを思い出すような顔つきになる。

「あるいはヴェカティー二さんなら方法に心当たりがあったかもしれないけれどぉ…、どうかしらねぇ…?」

「誰それ?」

聞き馴染みのない名を耳にしたヘイムダルが訊ねると、ヘルは小さく肩を竦めた。

「エインフェリア技術を確立させた人物なのよぉ。見方によっては全てのエインフェリアにとっては生みの親という事になる

のかしら?まぁ、もう名前を知っている者も少ないけれど…」

「ヘルは会った事あるのかい?」

「昔、先生と一緒に研究を手伝ったわぁ。その時に第二世代…、つまり現行のエインフェリア技術の元になる知識を盗んだの

よねぇ。懐かしいわぁ」

「どんなヤツ?」

「パンダよ。おデブさんで不細工で、白衣がパジャマで仕事着で余所行きで正装っていう変人。…そして、天才だったわ…。

好みじゃあなかったけれど、頭脳と技術に関しては認めるしかなかったわねぇ…」

「そいつ、今何してんの?」

「…体は、冷凍保存してあるわ」

ヘルは低めた声で呟くと、口調をやや変えた。

「とにかく、今のところは自壊をどうにかする手段は存在しないわねぇ。ラグナロクで無理な以上、地上の何処を探しても見

つかりっこないわ」

「そっか…。んじゃもうあのハスキーとは喧嘩できねーな…」

少し残念そうに呟き、ヘイムダルは腰に帯びた剣の一方をちらりと見遣る。

認めるに足る男に、半ばから折られた剣を。

「あらあら?また折っちゃったのぉ?」

視線を追ったヘルが呆れたように眉根を寄せると、ヘイムダルはふるるっと首を横に振る。

「今回は「折った」んじゃねーもん。「折られた」の。ジルコンブレードが綺麗に真っ二つだ」

そう言いつつヘイムダルは折れた剣を抜き放ち、水平に寝せて頭上に持ち上げた。

いきり立ったダインスレイヴの影響で雲が押しやられたおかげで、首都の上空にはぽっかりと生まれた円形の晴れ間が広がっ

ている。

そこから降り注ぐ月光に透かすようにして、折れた剣を頭上に翳して見上げながら、若い狐はニンマリと笑う。何とも無邪

気に、何とも楽しげに。

「任務は達成できなかったし、短かいもんだったけど…、楽しい喧嘩だった!」