根無し草の行き着く先に(前編)
「重大な誤情報があった事を、まずは抗議しておく」
首都の地下深くに存在するユミルのアジトを訪れるなり、ダウドは部屋主に指を突きつけられた。
「あん?藪から棒に何の話だ?」
眉根を寄せた白虎は、部屋の奥の戸の向こう、通路の両側についたいくつものドアあわただしく出入りしているエイルと、
部屋の隅に置かれた長椅子に腰を下ろし、項垂れているマーナを交互に見遣った。
「何だこの状況は?で、お嬢ちゃんの遺体はどこだ?」
「無い」
即座に応じたユミルを、ダウドは訝しげに見下ろす。
回収が完了したとの連絡は先程携帯で受けた。それなのに無いとはどういう事か?
理解できずに目を細めたダウドに、ユミルは平坦な口調で言い放った。
「半分生きているアレは、遺体とは言い難い」
ユミルはシノが今どのような状態にあるのかをかいつまんで説明し、ダウドを唸らせた。
「…つまり、蘇生できる可能性がある…、と?」
半信半疑で訊ねたダウドに、ユミルは少し顔を伏せ、かぶりを振る。
「無い訳でもない。が…」
「が…何だ?」
「蘇生したところで、それはもう元の女ではないぞ。脳は既にひとの物では無い。蘇生に成功したとしても、人格と呼べる物
が形成されるかも疑問だ。下手をすれば植物状態だろうな」
「…なるほどな…」
合点がいったとばかりに大きく頷いたダウドの視線が、項垂れているマーナに注がれる。
「保護という依頼に基づき、延命措置は施しているが…」
部屋と部屋の間をせわしなく行ったり来たりしているエイルにちらりと視線を向け、ユミルは続けた。
「依頼主であるお前の判断に従おう。決めろ。安楽死させるか、蘇生を試みるか。繰り返すが、蘇生が上手く行ったところで
元々の人物とは違う。おまけに生粋の人間でもなくなる。いうなれば…」
一度言葉を切ったユミルは、言葉を選ぶようにして先を続けた。
「人間をベースにした半危険生物…とでも称するべきか。蘇生に際しアルラウネの組織の分離は不可能。それどころか、蘇生
には細胞レベルで融合したアルラウネの組織を利用する事が不可欠だ。故に…」
「半分が危険生物…ってわけか…」
「その通りだ。思考や精神の状態としてはエインフェリアに近いものが見込まれる。つまり…、元の女を素体にした危険生物
だな」
了承した印に頷き、ダウドはマーナに歩み寄る。
顔を起こしたハスキーは、苦悩が色濃く滲む瞳で白虎を見上げた。
「…お前はどうしたい?」
「シノに死んで欲しくはない…。どう変わっても生きていて欲しい…。だが…」
ハスキーは再び項垂れた。
蘇生できたとしても、それはもうシノではない。自分のエゴでそんな蘇生を望むのは間違いではないのか?シノ自身はそれ
を望まぬのではないか?
そんな想いがマーナの胸の内を占めている。
死体を元に生み出された自分達エインフェリアが、いかに歪んだ存在であるのか…。マーナは今この時、初めて自覚した。
「生まれた形がどうあれ、生きている以上それは命」
詩の一節でも読み上げるように言ったダウドへ、マーナは問うような視線を向ける。
「俺の古い知り合い…大馬鹿野郎の白熊の台詞だがな…。人造の生命だろうと、自然に生まれたモンだろうと、生きてる事に
変わりはねぇ。…そいつはそう言ってたよ…」
白虎は不機嫌そうにガリガリと頭を掻き、「…そんな認識してたから、結局世界を敵に回しちまったんだがな…」と、口の
中で呟く。
「お嬢ちゃんの処遇については、お前の判断に任せる」
「ま、待ってくれグラハルト殿!」
マーナは慌てた様子で腰を上げようとしたが、激痛に呻いて崩れるように椅子に戻る。
「義理を果たさねば…。拙者は、貴方に捕縛されねばならぬ。貴方の手によって処分を受けねば…」
これを聞いたダウドは、さも面倒臭そうに顔を顰めた。
「…いい」
「は?」
「いいっつってんだよ!お前にゃもう興味がねぇ。ろくな情報も握っちゃいねぇだろうし、あくどい事しそうなヤツでもねぇ。
もうラグナロクにも戻れねぇだろうし…、何より、仲間を見逃して貰ったしな…」
最後の方は口の中で転がすに留めたダウドは、鼻の頭を指先でコリコリと掻く。
マーナと接触したブルーティッシュのメンバー達が命を奪われなかった理由については、今ではもう、問うまでもなく悟っ
ていた。
かつて出会った、戦士としても、指揮官としても自分と互角の勝負を演じた白い巨犬…。
己の命は軽く見ている節があるにも関わらず、仲間や敵の命は無駄に散らそうとしない、大きな矛盾を孕んだ存在…。
構え方や戦いぶりから似た印象を覚えるあの奇妙な男とマーナは、おそらく何らかの繋がりがあると確信している。そして、
マーナはきっとあの男と同じで、他人の死が嫌なのだろうと考えている。
いずれ落ち着いたら訊いてみようとは思うものの、立て込んでいる今はまだ問う時ではないと、先送りにしてはいるが…。
「それは、どういう…」
言葉の意味が判らず、きょとんとして訊ねるマーナに、ダウドは不快げに鼻面に皺を寄せた。
「ちっ!見逃してやるって言ってんだよ!俺にさえ迷惑かけねぇならそれで良い、どこへでも好きに消えろ!」
照れ隠しからか、殊更に乱暴な口調で言い放ったダウドに頭を下げ、マーナは呟く。
「しかし…、拙者はもうそれほど保たぬ…。一存で蘇生を希望し、それが叶えられたとて…、その先彼女はどうなる?…拙者
は…、傍に居てやれぬ…」
「自壊の事ならば、こちらである程度は何とかできる。…安くは無いがな」
口を挟んだユミルに視線を向けたマーナは、説明を求めるように再びダウドへ視線を戻す。
「ラグナロクも知らねぇ事だが、オリジナル由来の技術でな、エインフェリアの自壊を抑え込む手段ってのが存在するんだよ。
ま、完全に治癒する訳でもねぇし、生涯服薬し続ける事にはなるが…、お前の寿命は延ばせる。過ごし方次第だがな」
ダウドは言葉を切ると、そろそろ決めろとでも言いたげに、マーナに顎をしゃくって見せた。
しばし黙り込み、視線を足下へ向けて考えるマーナ。
シノが置かれた複雑な状況と、自分とシノの今後の事、答えを出す前に考えなければならない事は山ほどあった。
長い、長い沈黙の末、マーナは顔を上げる。決意の光を瞳に宿して。
「…では…、頼む…。シノを…」
マーナは葛藤の末に選び取ったその答えを、深々と頭を下げながらダウドとユミルに告げた。
薄く開けた目に、目映い光が飛び込んで来る。
「目ぇ開けたぞ?」
「ひとまずは成功のようだな」
「お疲れ様でありました」
複数の人物の声が鼓膜を震わせ、夢見心地から急激に現実へと引き戻された彼女は、
「…あ…」
フードを目深に被った怪しい人物と、無表情なレッサーパンダと、厳つい顔つきの白虎に顔を覗き込まれたまま、か細い声
を発した。
自分の正面に吊された無影灯以外に視界に飛び込んできた物は、コンクリートが剥き出しの壁と天井。そしてバイタルサイ
ン監視装置や点滴台などの様々な機具。
「あ…、あー…、う…、あ、あ…」
とぎれとぎれのか細い声を漏らしながら、彼女は三名の間で視線を彷徨わせた。
「…どうした?何か言いたいのか?」
厳つい白虎が思いのほか優しい口調で訊ねるが、しかし彼女はその言葉の意味を理解できなかった。
何かを問いたい。そんな気もするのだが、何を訊ねたいのかが自分でも理解できていないのである。
言葉も理解できず、生まれたばかりの赤子のような状態にある彼女は、しかし要求すべき事が判らない。
自分の事さえ判らないのだから、それも当然なのだが。
「やっぱりか?記憶も自我も…」
「そのようだ。だが、蘇生できただけで上出来としなければな…。脳の半分近くはアルラウネの組織に融合され、人とは違う
物に置き換わっている。あとは、人間の思考形態がどこまで再現されるかだが…」
白虎とフードの人物が言葉を交わす中、彼女はレッサーパンダの顔に視線を向ける。
だが、その行動には興味や観察といった意味は一切無い。
単に、自分にじっと注がれているレッサーパンダの視線に反応して目を向けただけである。
レッサーパンダはじっと彼女の瞳を覗き込んでいたが、やがて少し体をずらし、自分の真後ろを振り返った。
視線を追い、レッサーパンダが退いた方向へ目を遣った彼女の瞳に、寝台に横向きに寝かされているシベリアンハスキーの
姿が映り込む。
背の銃創から弾丸を摘出され、マズルをすっぽりと覆う呼吸器をはめられて点滴を打たれ、死んだように眠っている体格の
良いハスキー。
その、自分側を向いている犬の顔を眺める彼女の表情には、変化が見られない。
「…完全に別人か、こりゃあ…」
ため息混じりに漏らした白虎の声を、「しっ」とフードの人物が遮る。
「あ…、あー…。あー、あ…」
彼女は口からか細い呻き声を漏らしながら、麻酔が抜けきっておらず、力の入らない手を震わせながら伸ばした。隣の寝台
で眠っているハスキーに向かって、頼りないほどゆっくりと。
「あー…、あー…あ…、まー…あ…」
彼女のうめき声に微妙な変化を感じ、白虎の表情が微かに変わる。
「まー…あ…、まー…な…」
うわごとのように繰り返す彼女を見下ろし、白虎は「へっ!」と、嬉しそうに鼻を鳴らして笑った。
そして、寝台を回り込んでレッサーパンダに目配せして手を借りると、キャスター付きの寝台で眠っているハスキーを、点
滴台ごと彼女の寝台に寄り添わせる。
「まー…な…。まー…な…」
たった一つ。その言葉しか知らないように繰り返し続ける彼女の無表情は、白虎が互いの手を取り、握らせあった途端に、
「…まーな…」
満ち足りた、穏やかな微笑へと変化した。
「僥倖…と言って良いな」
フードの男が抑揚のない口調で呟いた。
「呼び水となる認識が一つ残った…。奇跡と言って良い。ささやかなようでこれは大きい。リハビリ次第ではあるが…、上手
く行けば、ひととしての思考形態を持たせられるかもしれない」
「そいつは何よりだ」
白虎とフードの男との会話も耳に入らず、彼女はただただ「まーな」と繰り返す。
自分が誰なのかも、周りの三人が何者なのかも、ここが何処なのかも、どんな状況なのかも理解できないままだったが、彼
女には二つだけ、判っている事があった。
「まーな…」
それが、自分の傍らで眠り、手を握っている大柄なハスキーの名である事。
そして、「まーな」という名のこの男は、決して自分を裏切らない、最愛の存在であるという事…。
空っぽのはずの彼女の心は、それらたった二つの事だけで一杯に埋められていた。
それから数日。
首都の警戒網は規模を大幅に縮小され、ヘリコプター墜落のニュースも大物政治家の闇献金問題に押し流され、人々の記憶
から薄れかけていた。
そして、改めてヘリ撃墜の件について特自側から審問を受けたダウドが、涼しい顔でのらりくらりと言い逃れしていたその
日曜日、とある美術館は、静かな賑わいを見せていた。
海外から運び込まれた古代の王。そして王家の財宝…。いわゆる王とその副葬品類が、今日から展示されているからである。
その中の一角、日本の古美術品や年代物の書物、帳簿類が並ぶそのブースは、しかし他と比べて人が少ない。
皆が遙か遠い砂の国の王と、その豪華な副葬品に興味を奪われ、何千年もの遙か過去へと想いを馳せているせいで、常時展
示のこちらのブースへは客が流れて来ないのである。
その閑散としたブースの一角で、細身の若い狐がケースの中の展示品をじっと見つめていた。
黒い革のジャケットにジーンズという、普通の若者のファッションに身を包んでいるその男は、エインフェリア、ヘイムダ
ルである。
無言で、値踏みするような視線をケース内に向けている狐の目には、しかし困惑と失望の色が微かに浮かんでいた。
「名前負け、か…。号はイカしてんだけどなぁ…」
残念そうに呟いたヘイムダルは、意識を後方に向ける。
少し前から気配を感じている。その気配が自分の様子を窺っている事を、先天的な戦士である彼は感知していた。
おもむろに振り向き、気配の元に目を向けると、観察者は少し驚いたように「あ…」と声を漏らした。
「何か用か?」
相手の目を真っ直ぐ見つめて意図を探りながらヘイムダルは訊ねる。
「いやぁ、用事って訳でもねえんすけどね…」
その視線を注がれている猪の少年は、居心地悪そうに首を縮めて頭を掻き、詫びるように軽く頭を下げつつヘイムダルに歩
み寄った。
猪特有の立派な牙を備え、鼻穴も大きい顔はかなり厳つい。が、素体の二十二歳という年齢を外見に反映しているヘイムダ
ルよりもかなり若い。
雄への変化の途中、幼さが抜けて大人になりつつある年頃、おそらく十代半ばになったかならないかであろうとヘイムダル
は見積もる。
発達した筋肉の上に皮下脂肪と剛毛を纏っており、背丈はヘイムダルよりだいぶ低いものの、ボリュームでは既に上回って
いた。
肩幅は広く、胴は分厚く、文字通りの猪首。西瓜でも丸飲みにしたように腹が突き出しており、四肢が極端に太いせいで手
足が短く見える。
かなりずんぐりしているが、重機を思わせる力強い体躯であった。
(…ふぅん…。この坊や、結構できるんじゃねーのかな?…身ごなしや視線への反応からすると一般人だが…よく鍛えられて
る。そこらの警官なんぞより、よっぽど良い線行ってるぜ)
一瞬だけ値踏みするように猪少年の姿を眺め回したヘイムダルは、その人なつっこそうな猪の笑みが不可解で、小さく首を
傾げた。
「…どっかで会ったかい?」
「え?いやぁ初対面すけど…。つくづく狐って二枚目揃いだよなぁ…なんて思って、ちょっち見入っちまったかなぁ?」
困っているような、そして気まずそうな苦笑いを浮かべる少年を観察し、どうやら自分の素体と面識がある訳でもなさそう
だと、ヘイムダルは判断する。
「刀、興味あるんすか?」
猪はケースの中を覗き込む。狐がしげしげと眺めていたのは、刃長二尺二寸五分の日本刀であった。
「ああ、獅子王(ししおう)か…」
猪が顎を引いて頷くと、ヘイムダルは「ん?」と横目で見る。
「有名な刀?」
「まあそこそこは。結構知られた伝説に絡んでくる刀だし」
「伝説って?」
ヘイムダルが問いを重ねると、猪はニンマリ笑って「お?聞きたいすか?」と小首を傾げる。
訊ねる形はとっているものの、むしろ彼自身が話したくて仕方がないといった様子であった。
「ちょっと気になるな…。聞かしてくれる?」
ヘイムダルがそう応じると、猪は一つ咳払いし、「では…」と語り始めた。
「ずっとずっと、ずぅーっと昔…、都で偉い人に悪さをした怪物がおりましたとさ」
昔話でもするように、猪は語り出した。
当時の帝居を夜な夜な脅かした怪物…鵺と、それを撃退した高貴な武者、及びその従者である猪の物語を。
なかなか上手い語りに思わず引き込まれて聞き入ったヘイムダルは、時に感心し、そして時に納得顔で頷きながら、それな
りに楽しく猪の話を静聴した。
「…で、偉い人はその武者に、「これはそなたへの褒美じゃ、此度の働きに見合う物は、これを置いて他には思いつかぬ」と、
一振りの刀を授けました。その刀こそが…」
一度言葉を切った猪は、ケースに向かって顎をしゃくり、「この獅子王って訳さね」と話を締めくくった。
「なるほど。サンキュー、良く判った。…にしても、大層な名前と逸話だが、そう大した刀にも見えないよなー…。これが鵺
退治に見合う褒美?今も昔も、偉い人の考える事はわっかんないねー」
「たはーっ!上手いこと言うねぇあんちゃん!そいつは言えてらあ!」
カラカラと笑った猪少年は、大声を咎めるような警備員の視線に気付くと、「おっといけね…」と両手で口を覆う。そして、
口元に当てた手をそのままメガホンにし、ボソボソとヘイムダルにささやきかけた。
「けどね、実はその時の獅子王と今展示されてるこれ、別物なんじゃないか?…な〜んて噂もあるんだっけなぁ実は…」
「別物?」
「そ。コイツについてはさ、元々は三尺五分五寸だったって説もあるんさねぇ。それが…、ホレ、見ての通り明らかにサイズ
が違う。研ぎ減ったにしたって反りや造りが妙だってんで、「本物の獅子王」は別に存在するんじゃないかって話も…」
まるで内密の話を聞かせるように、真剣な顔でボソボソと囁いていた猪は、
「ま、所詮は根拠もねえ噂さねぇ」
急にニカッと笑って、狐から少し離れる。
「っと、長話しちまったい!邪魔してごめんよあんちゃん」
少年猪は、太い手首に巻き付けた、やや似つかわしくないカラフルでファンシーな安物腕時計を確認すると、待ち合わせで
もしていたのか、「やべ、兄貴にどやされっちまう…!」と呟きつつ踵を返し、太い五指を開いた手をひらひらと振った。
足早に立ち去って行くずんぐりした猪の背を見送り、ヘイムダルは呟く。
「本物の獅子王…、か…」
興味を覚えたように、狐の瞳が怪しく光った。
「東北、のぉ…」
手すりに背中を預けている中年太りした白い熊は、鯛焼きがぎっしり詰まった紙袋を片手に、頭から半分が欠けた鯛焼きを
もう片手に、思慮に耽るような声で呟いた。
展望の良い公園の端、ドッカーが寄りかかる手すりの向こうには、午後の日を浴びて煌めく首都の海。
春の息吹があちこちで実感されるこの時期、海からの風は暖かみを帯びており、ドッカーの白毛を穏やかに撫でてゆく。
「ええ。数年ぶりの地元です。長くなりましたが、ようやく正規の監査官として赴任ですよ」
そう応じたのは、赤ら顔が印象的な、太った若い人間の男。
ドッカーと並んで手すりにもたれかかっているこちらも、片手には食べかけの鯛焼きが掴まれていた。
調停者と監査官という間柄ではあったが、二人の関係はそれだけに留まらない。
年末にようやく正規の監査官となったカズキは、研修生として現場で学習する中、ドッカーには公私共に世話になった。
血気盛んな調停者達の上手い扱い方、付き合い方から、酒の飲み方まで教えられている。
変わり者ではあったが、チームリーダーのハイメとも歳がそう違わない事もあり、それなりにウマがあった。
が、ハイメはもう亡く、チームも壊滅している。
皮肉にもアイゼンシルトというチームは、駆け出し監査官のカズキに、結果的に全てを教えてくれた。
いつ、いかなる状況で、唐突な別れが訪れるかもしれないという、最も重要な事まで…。
「ドウカさんの方は、順調ですか?」
「さっぱりじゃ。自分で思っとった程人望がなかとよ。皆散り散りじゃ」
苦笑いしたドッカーは、鯛焼きをかじってほおばりながら、くぐもった声で続けた。
「けんど、行くあてがのうなった連中、数人ばかり面倒を見る事になったけぇの、そろそろチームとしての届け出も済ませて、
活動再開せにゃあならんのぉ」
年末の事件で被害を被った多くの調停者達には、未だに十分な保証が為されていない。
チームを失った若手数名を引き取ったドッカーも、そろそろ働き出さなければ蓄えが減る一方なのである。
纏め機関の一員としてその事を申し訳なく思い、カズキは視線を足下に落とした。
「いつ頃発つんじゃ?」
「来週末には」
「急じゃのぉ」
「済みません。こっちも通達を受けたのは今日でして…」
ドッカーは残り三分の一まで欠けた鯛焼きをくわえ込み、口から尻尾を出したまま空を仰ぎ見る。
しばし黙り込んだ後、白熊はかぽっと口を開けて鯛焼きの残りを頬張り、せわしなく噛んで飲み下す。
「わしも、東北に行くかのぉ…」
「は?」
「心機一転じゃ。どのみち、首都は離れるつもりで移動先探しとった」
軽い口調だったので半ば冗談だろうと思ったカズキは、しかしドッカーの笑顔を見て、本気である事を悟る。
「地元だつぅても、調停者にあんまりツテは無いんじゃろ?顔見知りの一人や二人、おっても損はせん。おっちゃんで良けれ
ば新天地まで付き合うけぇの。遠慮せんでえぇ」
「で、ですが…、ドウカさんはここに…」
首都に、余りにも多くの想いを残している…。
その言葉を、カズキは声に出す前に飲み込んだ。
殉職し、しかも遺体が奪われてしまったハイメ…。
首都に散った多くの同僚、多くの同業者、知り合いの監査官…。
情が深いドッカーだからこそ、それらを簡単に後にできるとは思えなかった。
口をつぐんだカズキをしばらく横目で見つめていたドッカーは、おもむろに左手を上げ、バムッと分厚い胸を叩いて見せた。
「皆、ここにおる…」
何かを懐かしんでいるような穏やかな笑みを口の端に乗せて呟き、白く分厚い手でジャケットの胸元をぎゅっと握り込む。
まるで、相棒の遺体を取り戻してやれなかった無念を、そこに押し込めるように。
「居なくなってしもうたヤツらも、皆ここにおる。わしだけじゃなしに、色んなヤツらのここにおる」
「ドウカさん…」
呟いたきり二の句を継げなくなったカズキの横で、ドッカーは笑みを深くした。
「そしてわしもいつか…、皆のここに残れたら幸せじゃ…」
「縁起でもない事を言わないで下さい…!」
困ったように言ったカズキに、ドッカーはニカッと歯を剥いて笑いかけた。
「がははははっ!ちと臭かったかのぉ?ま、それはそれとして…」
腹を揺すって愉快そうに笑ったドッカーは、顔つきを改めてカズキの顔を見つめた。
「そろそろ、さん付けは止めぇ。あんたはもう研修生じゃなかとよ。正式な監査官じゃけぇの。わしの事は呼び捨てにせぇ」
「ですが…」
「敬語も不要じゃ。示しをつけぇ、タネジマ監査官殿」
カズキはドッカーの言葉を聞いて、戸惑ったように一瞬黙り込んだが、やがてこくりと頷いた。
「判り…、判った…。ドウカ」
「個人的には、ドッカーと呼んで貰えた方が嬉しいがの。そっちのが気に入っとるでよ」
片目を瞑って見せたドッカーは、苦笑いしながら頷いたカズキと共に、手すりから離れて歩き出した。
「申し上げます!」
スターンと音を立てて勢い良く開かれた襖へ、少年猪は「もご?」と、くぐもった声を漏らしながら視線を向けた。
畳敷きの十畳間の中程、とろろと卵をかけてかき回した麦飯を頬が膨れるほど詰め込んでいる少年猪の前には、夕餉のお膳
一式。
お膳のそのまた向こう側には、五十歳前後と見られる厳つい体躯の大猪がどっしりと腰を据えている。
いかなる荒事を潜り抜けて来たのか、左側の牙は先端近くが欠けており、左目が縦一文字の刀傷で潰れている。
歳のせいで強い毛には白い物がだいぶ混じっていたが、その頑強そうな体躯と居住まいからは、落ち着いた雰囲気に加え貫
禄と威厳が感じられる。
その傍らには、こちらも女だてらに体格の良い黒い猪婦人。やや吊り目気味で気の強そうな顔立ちをしており、美人ではな
い物のひとの目を惹きつける、高潔そうな眼差しが印象的な女傑であった。
さらには少年の隣にも成人猪が座っている。
こちらはおそらく二十代後半、鍛え抜かれた堅太りの体つきで、涼しげな目元に鋭い物を秘めた、母親譲りの意志の強そう
な眼をしていた。
襖を開け放った中年の猿は、跪いてかしこまり、一家団欒の夕食に水を差した非礼を詫びた。
「構わん。火急の用であろう、申せ」
厳かとさえ言える低い声が、歳のいった大猪の口から漏れる。
思慮深そうな光を湛える隻眼が細められ、黒ずくめの御庭番の慌てぶりを訝しんでいた。
「はっ!弐の蔵より至急の報告です!時刻一九三八「襲撃有リ、相手方正体不明、多勢ニヨリ苦戦、至急援護求ム」との事!」
「弐の蔵だと…?」
そう呟いた猪は既に立ち上がっており、着物の裾を翻して襖へ歩み寄っている。
元々が武家の出である神将、神原家は、武芸百般に通じており、所持及び管理する武具の数は他家の比ではない。
槍に弓に刀剣類、鎧具足に装飾品と、種類も量も膨大な遺物は、本家の蔵には収まり切らず、他に所有する三つの蔵に分け
て保管されていた。
それらは人目につかないよう、木々も深い郊外の山などに配されているのだが、どうやらその内の一つが蔵破りに襲われて
いるらしい。
無論、文字通り宝物庫であるそれらは無防備に建て置かれている訳ではない。
広い敷地に宿舎を構えたそれぞれの蔵には常時百名近い腕利きの御庭番達が詰めており、人員数だけで言えば本家よりも多
いほどである。
これまで幾度も宝物を狙う不届きな輩に攻め入られたが、その都度完膚無きまでに叩き潰して来た。
そんな、一個師団でも落とす事は不可能とされるその蔵の一つから、今夜は救援要請が入っている…。
どのような組織も収奪を諦めている近年では、希に見る異常事態であった。
「何者かさっぱり見当もつかんが、よほどの物だろう。急ぎ出兵の準備を」
猿に重々しく告げた大猪へ、続いて腰を上げた雌猪が問う。
「今宵は何を持たれますか?あなた」
「獅子王を」
首を巡らせた夫が応じると、妻は一礼して先に部屋を出る。
「親父。今日は俺っちも連れて…」
口の中の物を飲み下し、あわただしく腰を浮かせた猪少年の頭を、同時に立ち上がりかけていた傍らの成人猪の手がむんず
と押さえつけた。
尻餅をついた少年は恨みがましい目つきで見上げたが、兄猪は軽く目を閉じて首をゆっくり左右に振る。
「駄目じゃイノタ。お前はまだお役目に加えられん」
「お前は留守番しておれ。元服の儀も済んでおらんのだ、同伴など罷りならん」
諭すように言った兄に次いで、父にまでそう告げられると、少年は不満げな顔をする。
が、父は歳の離れた次男坊を見下ろし、隻眼を細め、口元を緩めて笑みを浮かべる。
活発で血気盛んな二番目の息子は、思慮深く腕も立つ兄と比べれば、精神面においても腕前においても出来が良いとは言い
難いが、それでも猪夫妻にとって可愛くて仕方のない子であった。
血が濃く混じり合っているが故に子を為し辛い神将でありながら、運良く授かった二粒目の種…。世継ぎを得た後に時をお
いて諦めかけた頃に生まれた、得たいと願う事すら憚られる期待の外の授かり物であるからこそ、愛おしさも一層強い。
「元服が済めば嫌と言うほど連れ回してやろう。それまでは我慢せい、イノタ」
噛んで含めるように言い聞かせる父に、少年は不承不承頷く。
その夜が、自分にとって人生の転機である事を、少年はまだ知らない。
家族四人揃って食卓を囲むのが今宵で最後になる事など、考えてもいない。
ついさっきまで交わしていた何気ない言葉が、父母との最後の会話になる事もまた、夢にも思っていない。
神原猪太(かんばらいのた)は部屋に一人残され、長男と御庭番を伴って歩み去る父の背を見送った。
いつか追いつきたいと思っていた、それきり眺める事の叶わなくなる広く大きな背中を…。
匂いも感じず目にも見えないが、襲撃者達によって何かが噴霧され、立ち込めているのか、頭の芯が疼いて、鼻の奥、喉と
鼻孔の間に苦い味が感じられる。
体調不良に気付いた時には手遅れだった。あまりにもゆっくりと異常が進行し、そして突如悪化したせいで、深刻な事態に
なるまで実感できなかったのである。
おかしいと気付いたのは、狐と切り結ぶ父を見ての事だった。
確かに手練れではあったが、それにしてもやや押され気味の父は動きに精彩を欠いていた。
頭が痛み、耳鳴りがして、平衡感覚が狂っている。
乱れた心音は耳元で大きく鳴り響き、入ってくる音を妨げる。
猪がその事に注意を引かれ、二人切り倒した直後に顔を顰めつつよろめいたその時、
「猪牙(いのが)!」
父に突き飛ばされた猪は、砂利に顔から突っ込みながら、温かい液体を背に受けた。
バタタッと強い雨のように降り注いだそれを顔の半面にまで浴び、手にした薙刀を杖代わりに身を起こしたイノガは、切れ
長の目を大きく見開く。
目前に、太い何かが落ちている。
それが、刀を掴んだまま付け根から切り落とされた、父の右腕であるという事を認識するまで、数瞬を要した。
子を庇った隙に利き腕を根本から切り飛ばされた大猪は、傷口から大量の血を迸らせながらも、自分の半分も体重がないで
あろう長身痩躯の狐を睨みつける。
こと剣術においては神将中でも随一の腕を誇る神原家当主が、毒を盛られたとはいえ剣術で互角の勝負を演じられた上に、
不意を突かれて腕を失った。
神将に比肩し得るとんでもない化け物を前に、しかし隻眼隻腕となった猪は背を向けない。
「父上!獅子王を!」
父が丸腰である事を遅れて察し、切断された腕に取り付いて大太刀を取ったイノガは、
「ふぅん、そいつが獅子王なのかい?「本物」の?」
耳元でそっと囁かれ、総毛立った。
父と間合いを取って向き合っていたはずの狐は、いつの間にか彼の傍らに立っており、手元を覗き込んでいた。
刀を取るために確かに目を離してはいたが、いつ移動したのかが全く判らなかった。
「下がれイノガ!」
初めて耳にする父の切羽詰まった声に続いて、側頭部に衝撃を受けたイノガは、十メートル以上も飛んだ後に、再び砂利に
伏す。
ガードは間に合わなかった。震えが生じ始めた腕は上がり切らず、得物を離さないだけで精一杯である。
自分よりも遙かに重い猪を軽々と遠方まで蹴り飛ばし、大太刀を奪い取った狐は、それを頭上に翳して透かし見る。
「へぇ…、こいつはすげぇや…。どうりで受けた剣が紙切れ同然に切られる訳だ」
それまで大猪が使用していたそれは、鉈のような形状の刀身を持つ、異形の大太刀であった。
刃は分厚く、そして重く、先端に寄るほど幅広くなっており、頭が特に重い。
ヘイムダルは試しに軽く振るって、手首のしならせ方によっては、刀身の絶妙な重心バランスが振りに加速をもたらす事を
確かめると、感嘆の息を漏らした。
「とんでもねーなお前…。硬いとか振りやすいとか、それだけじゃねーんだ?何を隠してる?どんな機能を持ってんだい?」
太刀に語りかける狐の姿に、神原の現当主は心の底から震え上がった。
奪ったばかりの獅子王に秘められた能力を嗅ぎ取っている。狐の異常な程高い親和性に。
一方で、ふらつきながら身を起こしたイノガは、足を滑らせて再び転倒する。
吸い込んだ薬物の影響や、強烈な蹴りで脳が揺すられた事もあるが、足下の水たまりに踏ん張った膝を取られていた。
揺れる視界で、それがやけに黒い水たまりであると認識したイノガは、すぐ傍らに横たわっている物に気付き、惚けた表情
を浮かべる。
物言わぬ骸と成り果てた母が、生前そのままの眼差しで空を見上げていた。
「母…上…?」
「あらあら、貴方のお母様だったのぉ?」
呟いたイノガの頭に、場にそぐわぬ、のんびりとした女の声が注がれた。
振り仰ぐと同時にほぼ反射的に中央を掴んだ薙刀を振るったイノガの前から、闇に紛れるシルエットとなって女性が逃れる。
「おっと危ない危ない…。一撃で貫通なんて、冗談じゃないわねぇ…」
後方へスライドしたヘルは、胸元に手を当てる。
「フェイタルミストを吸い込んで、そこまで動ける…。神将恐るべし、ね…」
障壁を破壊されてはいなかったものの、鋭い切っ先が障壁内部まで潜り込んで胸を掠め、ジャケットを薄く切り裂いている。
「収奪に時間がかかりすぎて、お出ましになった時にはどうしようかと思ったけれど…」
ヘルは隻腕となった大猪を見遣り、薄く笑う。
「思わぬ好機だわぁ…。感動しちゃうわよねぇ、息子を庇って傷付き、倒れる父親…」
己の無力さと不注意さを針でつついて来るようなヘルの言葉に、イノガは憤怒で顔を染める。
焼け付くような敵意の視線を涼しい顔で受け止めながら、ヘルは口元を三日月の形にして笑う。
「ヘイムダル」
「うん?」
手にした獅子王を空に翳していた狐は、神経は大猪に集中させたまま、ヘルに視線を向ける。
「ギャッラルホルン、使って良いわよ」
主の言葉を耳にした狐の顔に、僅かに戸惑いの色が浮かんだ。
「え?けど、蔵の中のモンがまだ…」
「構わないわぁ。砕けたなら砕けたで、所詮貴方の使用に耐えないでしょうし。少なくとも一本は手に入ったわぁ。…ソレ、
使えそうなんでしょう?」
ヘイムダルは獅子王に視線を戻すと、「まぁね」と頷いた。
「神殺しの好機、逃す手は無いものねぇ…。それじゃあ、総員撤退準…」
「イノガ!皆の物!」
部下達を下がらせようとしたヘルの声を遮り、神原猪門(かんばらいもん)の大声が響き渡った。
「蔵は捨てる!退けい!」
「しかし父上!賊の好きには…」
薙刀を構えてヘルを睨むイノガの言葉は、しかし父の鋭い眼差しで断ち切られる。
「当主命令だ。口答えは許さん」
低く抑えた声で吐き捨てると、イモンは足元に転がっていた折れた剣を拾う。
それは、ヘイムダルが用いていた剣の一本、両者の剣撃に耐え切れずに折れた三本の内の一つであった。
切っ先から10センチ程の位置で折れてはいるものの、他の残骸と比べれば幾分まし。
そう見て取って選んだものの、実際には、これから繰り出すつもりの奥義には、根本しか残っていなくとも問題は無い。
腕を切断された際に集中が途切れ、効果が切れていた神卸しを、イモンは再び試みた。
体の左側を前に、右をやや後ろに、折れた剣を眼前で水平に構え、腰を落とした半身の構え。
「轟猪…激進(ごうちょげきしん)!」
右腕の切断面から迸っていた血液が、筋肉の収縮でせき止められる。
猪特有の剛毛がぶわっと逆立ち、筋肉の膨張と相まって、全身を一回り膨れ上がらせる。
「へっ!腕一本失ってもこれかよ!背筋がゾクゾクする…!首筋がチリチリする…!あんた、ほんっと強ぇなぁっ!骨の髄ま
で!芯まで!魂まで感じるぜ!」
ヘイムダルの目に強い光が灯る。
それは強敵を前にした歓喜であり、強者に対する敬意の光でもあった。
邪魔が入らなければどう転んだか判らない勝負であったが、もはや手負いの猪に勝機は無い。ヘイムダルはそう思っている。
それでもなお、命の残りを燃やし尽くすような激しい闘志に応じ、被毛をざわりと逆立てた。
ヘルが告げた言葉の意味を、彼と同僚達は理解していた。
普段はきつく使用を禁じられている左腕のレリック。それを使ってもよい…。
言い換えればそれは、痕跡残さず消し飛ばせという命令である。
狐はゆっくりと左手を上げ、顔の前で握り、開く。
神の左手とヘルは呼ぶ。だが、このレリックが仕込まれた義手は、実際には悪魔の手であろうと、ヘイムダルは考える。
一回り大きくなったように見える大猪に視線を戻し、細身の狐は左腕を真っ直ぐ前に向け、手の平を大きく広げた。
その左手に周囲から集ってゆく何かの存在を、イモンは確かに感じ取る。
(これは…、鳴神の…!)
危機を直感で捉え、イモンは叫んだ。
「皆!退けい!一歩でも遠くへ!」
大量出血と右腕の切断で大きく力を削がれながらも、イモンは奥義を放つべく気力を振り絞り、ヘイムダルと睨み合う。
「射の奥義…、鵺射(ぬえいり)!」
「消し飛ばせ!ギャッラルホルン!」
「胸を張って良いわよぉ?ヘイムダル。神殺しなんて、誰にでもできる訳じゃないわぁ」
機嫌のよさそうなヘルの声に、「そうかい…」と、ヘイムダルは低い声で応じた。
両側から支えて貰う格好で同僚達の肩を借り、黒塗りのワゴン車に向かって歩きながら、狐は右肩を見遣る。
ヘイムダルの体には、胸の中央から右肩に抜ける形で、深い傷が刻まれていた。
被毛に皮膚、脂肪に筋肉、そして肋骨までが、一切の区別無く、一緒くたに抉れ、消え去っているその傷は、ヘルが凍結さ
せたおかげで出血が止まっているものの、下手をすれば致命傷になっていた。
それどころか、受ける角度が僅かにも違っていたなら即死していたところである。
放った力の奔流を貫き、自分をえぐって行った、猪の最後の牙…。
発射の反動で態勢を崩したせいで、運良く掠めて駆け抜けていったものの、もしもしっかり踏ん張れていたなら、胸の中央
に大穴を穿たれていた。
決着目前で邪魔が入ったマーナ。
軽くあしらわれたユミル。
そして今回のイモン…。
ヘイムダルの心は晴れない。イモンとの戦いに関しては、特に納得が行かなかった。
偶然にも交戦範囲が重なってしまった息子を庇って腕を失う…。
その点に関しては良い。入り乱れての混戦に不測の事態はつきものであり、咄嗟とはいえ自分の判断で腕と息子を天秤にか
け、息子を取ったのだから、何を防ぎ何をかわしどう打ち込むかといった戦いの選択となんら変わりない。
だが、最後の一撃は違う。運良く生き延びたに過ぎず、実力だけならば良くて相打ちだったと感じている。
背負った戦利品…、後に若き猪との因縁の品となる獅子王の重みは、しかしヘイムダルの心を浮き立たせてはくれなかった。