根無し草の行き着く先に(後編)

「ふぁ〜あ…!」

胃袋まで覗けそうな大あくびをした白虎は、目尻の涙を指で擦り、テレビ画面に視線を戻す。

自室ですっかりくつろぎ、床に寝そべっている白虎は、床暖房で暖まって眠気を覚えていた。

その視線が向いたテレビの前には、でかい尻を床にデンと据え、食い入るように液晶画面を見つめている客…白熊の後姿。

今日はアルの母親代わりであり姉代わりでもあるネネが神崎本家に出向いているため、監督を命じられて預かっている。

ヘリを撃墜した事を、用意していた言い訳を交えてのらりくらりと言い逃れた、気だるいあの朝から約一ヶ月。

そして、神原の当主が殺害され、膨大な量のレリックが保管されていた蔵が破られるという大事件からもまた、約一ヶ月…。

神将家筆頭たる神崎家は、神原家の当主継承やお役目引き継ぎなどに深く関わるため、ここ一ヶ月はネネも大忙しであった。

神原の当主イモンとは、これまで神崎家絡みの件で数度しか会っておらず、言葉もろくに交わした事はなかったが、神将中

でも随一の剣豪であると聞いている。

それほどの男が殺された…。にわかには信じられない話であったが、とある話をネネ伝いに聞き、ダウドは納得した。

ヘルとヘイムダル。現場に居合わせた神原猪牙の言葉から浮き上がる襲撃者の特徴からして、間違いなくあの二人が噛んで

いる。

おまけに、神原の蔵があった小高い山の上部は、蔵の前から遙か後方まで、木々までが直線状に消失していた。

生き残った神原の者の証言と、現場を視察した神将…神田家の分析によれば、高温と衝撃波による被害痕跡との事である。

おそらくは指向性の強い光線か、それに類する物で焼き払われたのだろうと推測されているが、この報告は、関係者全員に

とある現象を思い起こさせた。

鳴神、大神、神代の三家が磨き上げた光術の中には、これと非常に近い破壊状況を作り出す技が存在する。

規模こそやや小さいものの、もしもこの現象を引き起こす技術が、襲撃者側で一般化されてしまったなら…。

(あの狐の能力は、ハイメから引き継いだ物のはずだ。あいつの能力じゃねぇ…。となるとレリック…、か?)

ダウドは金眼を鈍く輝かせ、深い思慮に沈む。

(ダインスレイヴやヴァルムンク、それにレヴァティーン…。下手すりゃ三剣と同じクラスじゃねぇのか?既知の戦略兵器扱

いのレリックにも、ここまでの真似ができる品は数個しかねぇ…。実在が疑わしい中には神がかった伝承を持つモンもいくつ

かあるが…、それにしたって尾ひれがついた名前負けの品が大概だ。しかも元々ラグナロクにあったもんじゃねぇ、最近見つ

けたのか?ヘルは一体何を手に入れた?)

ダウドは小さくかぶりを振る。考えても考えても、心当たりのあるレリックには思い至らない。

それが昨年中に、とある国の調査団によって北原で発掘され、自分と浅からぬ因縁のある白い巨犬に奪取された品だとは、

神ならぬ身のダウドは知る由もなかった。

 情報不足での推測を諦めたダウドは、アルの後頭部を眺め、一ヶ月ほど前の神原家先代当主の葬儀について思い出す。

自分やユウヒと歳の近い神原の長男が新たな当主となり、その最初の勤めとなった葬儀には、神崎家関係者としてダウドも

参列した。

両親を同時に亡くし、しかも自分もその場に居合わせたという新たな当主は、辛さも見せず、堂々と振る舞っていた。

その姿は実に印象的であったが、ダウドにはもう一つ気になる事があった。

神原の次男、アルより少し年上の少年猪の存在である。

元服の儀を済ませていないとはいえ、ダウドの事はどこからか伝え聞いていたのだろう。

合間を見てユウヒと一緒にいたダウドに近づいた彼は、面識がある巨熊を介して自分の紹介をした後に、ダウドに申し出た。

二人だけで話を伺いたい、と…。

(真剣だったから素直に教えてやったが…、調停者の事なんか訊いて何するつもりだあの坊主?元服も近いって話だ、神将家

の者としてお役目を担うようになるのも目前だろう?まさか進路で悩んでるって訳でもねぇだろうに…)

胸の内でそう呟いたダウドは、白熊がテレビに少しずつ寄っている事に気が付き、注意を促した。

「アル、テレビからもう少し離れろ。そんなんだと目が悪くなると、ネネに叱られるぞ?」

「うス…」

半ば上の空で返事をしつつも、歳に見合わず大きな白熊の子はずりずりっと尻をずらし、ダウドの傍に寄る。

寝そべっているダウドの腹を軽く背もたれにして寄りかかり、アルは長編アニメーションに見入り続ける。

(…重いぞこんちくしょう…)

胸の内で呟いたダウドは、しかし微苦笑を口元に貼り付けていた。

日に日に大きく、重くなってゆくアルの成長を、嬉しく感じている。

高さだけでなく厚みと幅も過剰に増してゆくのが少々気になるが、父親に似ればそれも当然かとも思う。

そして、日に日に似て来ているのは外見だけに留まらないという事も、ダウドは感じ取っていた。

ネネが強く反対している、将来は調停者になりたいというアルの希望が、一過性の憧れによる安易な将来像だとは思ってい

ない。

カエルの子はカエル、とも言う。

あの両親の血を引く以上、アルは誰かに何か言われなくとも、逆に、誰かに何を言われても、いずれ己の意思で武器を取る。

母を亡くしたアルを引き取る頃に抱いた確信に近いその予感は、薄れる事が無いどころか、徐々に強まってさえいた。

無茶を言うなとアルを説得するよう、ネネに頼まれた事もあったが、

「どうあっても調停者にしたくないんだったら、アルの両腕を切り落とすしかないだろう」

と、肩を竦めて応じた。

当然ネネは嫌な冗談を言うなと怒ったが、ダウドにとってはまんざら冗談でもない。

そこまでしてもアルが諦めるかどうかは定かでないとすら考えている。

「まだ子供なのよ、あの子は…。調停者というものが何なのか判っていないの、たぶんテレビの中のヒーローと一緒だと考え

ているわ…」

アルの将来の話になるたび、ネネはそう言って嘆息する。

確かに子供ではある。青臭い理想論と期待に満ちた、幼くも愛すべき世間知らずだと、ダウドも思う。

だが、ネネとはまた違う事を感じてもいる。

おそらく子供ながらも、アルは調停者という物を危険性の面ではかなり正確に把握している。それを承知の上での希望だろ

うと考えている。

アルは勉強が嫌いだが、調停者という職が背負うリスクを認識できない程の莫迦ではない。

日々声をかけて頭を撫でてくれていた家族同然のメンバーが、ある日を境に突然居なくなる…。

そんな事を、幼い頃から何度も経験して来たのだから。

ダウドの視線に気付いたのか、アルは耳をピクピクと落ち着きなく動かして振り返る。

「なんスか?じっと見て…」

「いや、別に何でも…」

ニヤリと笑って応じたダウドの表情は、しかしすぐさま怪訝そうな物に変わる。

たった今テレビのスピーカーから響いた、聞き覚えのある台詞を耳にした事で。

「今、何て言っていた?「すり抜けながら…」だと?」

ダウドは記憶を手繰り、何処で誰の口から聞いたのか思い出すと、目を細めて頷く。

「ふん…。ああ見えてアニメも楽しむクチだったりしてな?アイツ」

「何の話っスか?」

「まぁちょっとな。ところでこれ、何処の国のアニメだ?」

「日本っスよ。知らないんスかこれ?有名なのに…」

「生憎な。…日本だと?」

アルに応じたダウドは、考え込んでいるような抑えた口調で呟く。

違和感があった。劇中の台詞と同じ言葉をマーナが発したのは偶然である可能性もあるが、思い返せばここまでにも数度、

聞き覚えのある言葉を耳にしている。

「アル、こいつはレンタルショップにも置いてあるか?」

「え?そりゃあ何処でも絶対置いてると思うっスけど?」

一見興味無さそうだったが、そんなに気に入ったのだろうか?急に興味を示したダウドを眺め、アルはそんな風に考えなが

ら首を傾げる。

(じっくり見返してみるか…。ひょっとするとこいつは…)

アルの訝しげな視線を受けながら、ダウドは自分の思い付きについて吟味し始めた。



「よう!土産持ってき…」

「プリン如きで支払いの延期はしないぞ」

ケーキ屋の袋を差し出したダウドは、顔を合わせるなり言葉を遮りにかかったユミルに渋い顔をして見せる。

「そんなんじゃねぇよ。純粋な土産だ。それに支払いは俺持ちじゃねぇぞ?」

ユミルが受け取ろうとしないので紙袋をテーブルの上に置いたダウドは、「踏み倒す気か?」との問いかけに渋面をキツく

する。

「各所の映像記録からお前とマーナの画像を消去した分。二人の救助分。そして治療費。いずれも割引はしないし踏み倒させ

もしない。肝に銘じておけ」

「ありゃマーナの支払いだ!マーナにもそう言ってある!本人から聞いてねぇのか!?」

向き直ったダウドはユミルに指を突きつける。

「聞いた。が、馬鹿も休み休み言え。マーナは無一文だ」

「金がねぇなら体で払わせろ。仕事あてがうのは得意だろうお前?」

ユミルは「ふむ…」と顎を引くと、

「今も雑用は率先的に引き受けてくれているが…。確かに…、働き者のようだし、使うのも悪くはないか…」

ぼそぼそと呟きながらダウドの意見について検討し始める。そこへ…、

「親方!クロウラーの給餌が済みました!」

威勢の良い声を上げながら、少し汚れた白い作業用エプロンを纏ったシベリアンハスキーが飛び込んで来た。

「おおグラハルト殿!」

顔なじみの来客に気付いて背筋を伸ばしたマーナに、ダウドは笑いかけた。

自壊遅延治療が必要だったマーナは、ここ一ヶ月ほどユミルのアジトに居候している。

当初は一両日保たずに死亡する程に自壊が進み、瀕死の有様だったマーナは、ユミルの治療によって自壊を食い止められ、

一週間ほど経った頃には何とか日常生活が送れる程に回復していた。

そして今では、宿賃と食費代わりにと様々な雑務を引き受けては、持ち前の生真面目さと一途さで丁寧にこなし、労働力と

してそれなりに重宝されている。

「邪魔してるぜ。体の方はもうすっかり良いみてぇだな?土産にプリン買って来た。冷蔵庫にでも放り込んどいてくれや」

「承知!毎度毎度かたじけない」

ラグナロク式の敬礼をして紙袋を預かり、部屋の奥へ引っ込んで行くマーナを見送ると、ダウドは口元を綻ばせた。

「すっかり馴染んだなぁ、あいつ」

「実に働き者で助かっている」

「で…、体調は良さそうだが、自壊の方はどうなんだ?」

「現時点では完全に止まっている。薬煙が覿面に効果を現しているな。定期的な喫煙さえ欠かさなければ日常生活に支障は無

いはずだ。…もっとも、リミッターカットやオーバードライブをおこなえば、当然ぶり返すだろうが…」

「その点は言ってあるんだろ?」

「当然だ。本人も重々承知している」

「ならそう無茶もしねぇだろう。…お嬢ちゃんを悲しませたくはねぇだろうからな…」

ニヤリと笑ったダウドは、

「実は、今日は様子を見に来ただけじゃねぇ。ちょいと話があってな…」

口調と表情を改めて長椅子に腰を下ろし、ユミルを促して本題に入った。



「シノ、エイル女史、グラハルト殿がお見えになったぞ。差し入れにプリンを頂戴した」

そう声をかけながらドアを潜ったマーナは、ベッドに座っている若い娘と、その傍らで鉢植えの位置を調節しているエイル

に歩み寄った。

そして、嬉しそうな顔をしたベッド上の若い娘に歩み寄り、そっと髪をすいてやる。

くすぐったそうに目を細めて「マーナ!」と呼びかけてきた娘に頷き、ハスキーは顔を綻ばせた。

シノアサカとアルラウネの融合体である彼女は、ただただ「マーナ」と繰り返すだけの、赤子に近い状態で誕生した。

当初は人間的な自我の芽生えすら危ぶまれていたのだが、既に二歳児ほどの知能と反応を示し、ゆくゆくは人間と遜色のな

いレベルの知能を獲得するだろうと、ユミルも太鼓判を押している。

彼女は最初からマーナの「シノ」という呼びかけを自分の名と認識しているらしい反応を見せていた事から、元の名字を名

に変えて、ユミルに命名された。

シノ・ガルム、と。

シノアサカとしての記憶は持たず、ようやくオウム返しに言葉を真似るレベルまで持って来られた段階だが、マーナが嬉し

そうに述べる所によれば、「強情で快活な所はそのままだ」との事である。

部分的にアルラウネの植物としての形質を引き継いだ、半人類半植物とでも言うべき奇妙な体質を有しており、体質や生存

可能環境について入念なチェックを受けている段階だが、ユミルの見立てでは、人工物まみれの悪環境においても人間よりよ

ほど逞しく生きてゆけるはずらしい。

愛した娘の欠片から生まれたこの二人目のシノを、マーナはシノ本人として扱っている。

そして今度こそ、命に代えても守り抜くと誓った。

「…時に、何をなさっておいでなのだエイル女史?」

見慣れた鉢植えが別の物に変えられている事に気付いたマーナが訊ねると、

「実用的な鉢植えに変えていたのであります。シノさんのリハビリにもきっと役立つかと…」

エイルは鉢植えから生えている大根の物にも似た葉をおもむろに掴み、ギュポンッと引っこ抜いて見せた。

柔らかな土から現れた根は、やはり大根の物にも似ていたが、そこに皺が深く刻まれていた。まるで、人の顔のように。

マーナがしげしげと見つめていると、その皺にも見えた口と目がくわっと開いた。

「四十秒デ支度シナ!!!」

「おおおおおっ!」

女傑の声が室内に響くと、マーナは驚きの表情で、やや興奮気味の声を上げた。

「マンドラゴラの改良種、マンゴラドーラさんであります。呪いの叫びで外敵を殺害する本家とは違い、やる気の出る台詞で

気分を盛り上げてくれるであります」

「名前が本家と微妙に紛らわしい…。だが良しっ!」

「バリエーション豊かでありますから、言語学習の助けにもなるはずであります」

エイルはマンゴラドーラを土の中に戻し、再び抜く。土から出される度に、女傑の声が部屋に響き渡った。

「スリ抜ケナガラカッサラエェッ!!!」

「おおっ!」

「女ハ度胸ダ!」

「おおおっ!」

「ヤーイ!オ前ンチ、オッバッケヤーシキ!」

「違う作品が混じったぞエイル女史!?」

良い反応を見せたマーナの脇で、シノが小首を傾げる。

「おっばっけ、やーしき…?」

「いやシノ、覚えるなら別の物が…」

「かっさらえー?」

「それは良いな。うむ、良いぞ非常に」

子供のように無垢な女へ愛おしげに笑いかけたマーナは、しかしこの時は予想もしていなかった。

エイルが持ち込んだこのマンゴラドーラの影響が、ゆくゆく、シノの口調と性格を「そういった風」にデザインしていって

しまうという事までは…。

「拙者は戻るが、エイル女史はどうする?」

「片付けが終わったらシノさんと行くであります」

「判った、では先に茶を出しておこう。シノ、君にはレモンティーを用意しておこうな」

すっかり園芸用のエプロン姿が板に付いたマーナは、シノに笑いかけつつ手を上げて見せ、熱い紅茶とコーヒーをいれるた

めに部屋を離れた。



コーヒーに紅茶、番茶を用意したマーナが扉を潜ると、ダウドとユミルの視線が揃って彼に据えられた。

「話がある。ここに来て座れ、マーナ」

「はい、親方」

ユミルに促され、大人しく従ったマーナに、ダウドが一枚の写真を差し出す。

マーナが受け取ったその写真には、真面目な顔つきのシベリアンハスキーが、正面向きのバストアップで写っていた。

「ローレンス・ビッキオ。国際警察の武装捜査官。四年前に失踪…」

ダウドの呟きに、マーナは頷く。

言われるまでもなく知っている事だった。写真の男…、自分にうり二つのそのハスキーこそが、エインフェリア、マーナ・

ガルムの素体になった男だという事は。

エインフェリアは基本的に、自分の素体となった者の経歴と姿については最低限知らされる事になっている。これはあらか

じめ知識を仕込んでおく事で素体と近しい者との接触を避けさせる為でもあり、もしも接触してしまった場合にも動揺せずに

言い逃れできるよう配慮されての措置である。

だが、素体がどんな性格だったのか?どんな事を好んだのか?などといった細かな事まではまず知らない。与えられるのは、

家族構成や職業上の付き合い、行動範囲など、あくまでも対外的に必要な情報に限られる。故にマーナも、ローレンスという

名の自分の素体が、どんな性格だったのかという事までは知らなかった。

マーナが写真の男を知っている事はあらかじめ予想していたのだろう。ダウドもユミルも目立った反応を見せないハスキー

の様子については、特に何も言わなかった。

「…それで、拙者の素体について何か?」

話を促したマーナに、ダウドが頷いた。

「その男、日本が大嫌いだったそうだ」

「ほう…。む?それは何故だ?こんな素晴らしい国を嫌いなどと…」

この事は知らなかったので、マーナは困惑した。今ダウド達がこんな話をする理由も、素体の日本嫌いの理由も解らない、

二重の困惑である。

「アニメ以外に見所のない国だと公言していたそうだ。侍と忍者と将軍が居なくなった時点で、日本という国は本当の意味で

は滅んでいるとも…。ま、だいぶ偏った日本感の持ち主だったらしいな」

「ふむ…」

ダウドの言葉から素体と自分との共通点を少しだけ見つけ、マーナは頷く。そこへ、ユミルの質問が飛んだ。

「マーナ。この国のアニメが好きだったな」

「は!それはもう!」

身を乗り出して頷いたマーナに、ユミルは続ける。

「実際に観たのか?」

「当然です。あの素晴らしい映像にストーリー、胸を打つBGMに挿入歌!素晴らしい品ばかりです!」

熱を帯びたマーナの言葉を聞きながら、ユミルとダウドは顔を見合わせる。

「…どうかなさったのかダウド殿?親方も?そのように黙り込まれて…」

さすがに様子がおかしいと察したマーナは、訝しげに眉根を寄せた。

「…訊くがマーナ。お前、それらのアニメは何処で観たんだ?」

ダウドの問いに、マーナは首を捻った。

「自室で、ビデオやDVDにて鑑賞したが…、それが何か…?」

「自室ってのは…、お前が居た隊の宿舎のか?」

「いや、我が隊は駐屯場所が不定期に、しかもそれなりに頻繁に変わっていたので、宿舎のような物はあてがわれておらず、

各所で間借りするのが常だった」

「ふん、なるほどな…。じゃあ、何処に行った時にあてがわれた部屋で何を観たのか、思い出せるか?」

「む?いや、繰り返し何度も観たので、何処で何を観たと断定は…」

マーナは少し困ったような顔になり、それからはたと気付いた。

違和感がある。しかもそれがとんでもない事に繋がっているような気がして、マーナは無意識に身を強張らせた。

「「繰り返し」、「様々な場所」で、それらを観たのか?」

ユミルの問いかけに、マーナは歯切れ悪く応じる。

「…いえ…。いつも同じ部屋だったが…、あそこは…」

思い出せなかった。

何度も何度もアニメを観たあの部屋が、何処へ赴いた際にあてがわれた部屋だったのか、一向に記憶と結びつかない。

それどころか、記憶にあるその部屋は、兵士にあてがわれる部屋にしてはあまりにも生活臭が濃く、無駄な調度品も多く、

まるで…。

「お前はビデオやDVDのデッキを移動の度に持ち歩いていたのか?」

「所持しては…、いなかった…。拙者は…、そのような私物の所有が認められるような立場にはなかった…」

重ねられたユミルの問いで、違和感はますます強まる。

何故今まで気付かなかったのだろうかと、マーナは愕然とした。

内容や台詞を丸暗記するほど繰り返し鑑賞した。何度も何度も同じ部屋で観た。だが自分は、気に入っているあれらのアニ

メを、そこまで繰り返し鑑賞できるような環境には居なかったはず…。

気味の悪い矛盾が、マーナの中で生まれた。

足が地に着いていないような、背中と胸の間にすきま風が吹き込んでいるような、落ち着かない、そして気分の悪い違和感

は、耐え難い程に強まっている。

そして結論が出た。自分は、好きだったアニメを、実際には一度も観ていない、と…。

「どういう事だこれは…?拙者は…、拙者は何故「知っていた」のだ?シーンを、音を、声を!色を光を息遣いを!学習させ

られるような内容ではない、刷り込まれた知識ではない、…ならば、何故…!?あの部屋は、あのモニターは…、まさか…!」

苦悩するマーナを眺めながら、ユミルはため息をついた。

「半信半疑だったが、これではっきりした…。お前の予想通りだったなダウド」

フードの下から向けられた視線に、白虎は神妙な面持ちで頷いた。

「マーナ、それはお前の素体になった男の記憶だ」

ダウドの宣告は、マーナの心に衝撃を与えた。

(素体の記憶を部分的に引き継いだエインフェリア、か…。どうりでな、ヘルが始末したがる訳だぜ…)

胸の内で呟いたダウドは、いまや確信していた。マーナがヘルの口から聞いたという処分の理由…、彼の所属していた隊が

重大な反逆行為を犯していたという話が、嘘であるという事を。

ここ一ヶ月の生活でユミルが観察し、細かに様子を訊いていたダウドが、アルのお守りをしながらアニメを視聴していて偶

然気付いた、マーナが抱えている矛盾…。
それこそが、彼が抹殺対象となった本当の理由であった。

エインフェリアが自分の素体について知る事は問題ない。ラグナロク側が率先すらしている。だが、素体の記憶が受け継が

れているのは少々まずい。

エインフェリアは生まれたその瞬間からラグナロクの兵士であり、それがそのまま存在理由となる。だが、自由意志に基づ

く生活を送った記憶を持てば、ラグナロクの体質に疑問を持ちかねない上、忠誠心に揺らぎが生じる可能性も出てくる。

おまけに、素体から引き継いだのが、ラグナロクへの憎悪や敵意、それに類する感情や記憶だったとしたら…。

エインフェリアは、ラグナロクの手によって命を落とした者が素体となる事が多い。もしも彼らの記憶が引き継がれれば、

内側に不穏分子を抱える事になる。

ヘルが恐れたのはこの事が組織に…、特に他の中枢メンバーに知られる事であった。

現行の生産方法では、ラグナロクに敵対しかねない素体の記憶を受け継いだエインフェリアが生まれる可能性がある。それ

が他の中枢メンバーに知られ、自分とロキの手柄であるエインフェリア製造技術が凍結される前に、記憶を引き継いでいる可

能性を持つエインフェリアを探し出し、抹殺を試みたのである。証拠隠滅として。

しばし顔を伏せて黙り込んでいたマーナは、おもむろに顔を上げた。

「…記憶を受け継いだ拙者は…、ローレンス・ビッキオなのだろうか…?マーナ・ガルムではなく…。そもそも拙者の人格は

人造物に過ぎぬ…。では…、正しくは…」

己が何者なのか、改めて考えなければならなくなったマーナへ、白虎は「ふん…」と鼻を鳴らして告げる。

「お前はお前だろう。そして俺は俺、他のヤツは他のヤツだ。自分で決めろ、後は知らん」

お前はお前だ。俺が俺であるように…。そんな含みを持たせたダウドの言葉は、突き放すようでいて実は優しい。自分とマ

ーナ、そして他の者が「同じである」と、誰だって別人なのだと、ぶっきらぼうにほのめかしていた。

「………」

無言のまま項垂れるマーナは、今はまだ、「お前は何者なのだ?」という自分への問いに、答えを出すことができなかった。

…人工の疑似人格でも、素体の記憶を一部引き継いでいても、今ある自分が自分である…。

その回答をマーナが導き出せるのは、まだまだ先の事…。数ヶ月経ち、シノが人並みのコミュニケーション能力を身につけ

る頃になってからであった。

「…ま、小難しい話はこれで終わりにして…」

ダウドは口調を少し明るい物に変えると、奥のドアを見遣った。

「随分遅くねぇか?エイルとお嬢ちゃん」

「そう言えば…、様子を見て来よう」

悩むそぶりはまだ見て取れたが、それでもマーナは腰を上げる。

ハスキーの背を見送るダウドは、横からじっと注がれるユミルの視線に気付いて顔を顰めた。

「何だ?何か言いたそうじゃねぇか?」

「告げなくて良かったのか?マーナはまだ、自分が始末されそうになった本当の理由が、記憶を引き継いだせいだと知らない。

本当の事を話せば、ヘルへの憎悪や怒りを糧に、お前の手足となって動いてくれる可能性もある」

「それはねぇな。あの状態のお嬢ちゃんをほっぽり出して復讐に走るようなヤツだったら、危険性に目を瞑ったりしてねぇよ。

ここに連れて来る事もなく、出会った晩に斬り捨てて終いにしてた所だ」

「果たして、本当に殺せたか?お前はマーナの事を随分気に入っているようにも見えるが…」

ユミルに肩を竦めて見せたダウドは、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「エインフェリアは野放しにできねぇ。「あんなおかしなヤツ」でなけりゃあ、間違いなく殺処分にしたさ」

もしもマーナがもう少しだけ好戦的で、もう少しだけ冷酷で、もう少しだけシノへの想いが少なかったなら、ダウドは結局、

彼を殺していたのだろう。
しかし、マーナが「あんなおかしなヤツ」であったが故に、ダウドは命を絶つ事を諦めた。それだ

けに留まらず、調停者としての立場からすれば重大な違反行為…それどころか裏切り行為にすら等しい真似までして、マーナ

とシノの身を守る羽目になった。

「なんともはや…、我ながら物好きな真似したもんだぜ…」

そう呟いたダウドは、マーナとエイルに誘われてドアを潜った、土まみれになってマンゴラドーラを抱えているシノの姿を

見ると、耳を倒して破顔する。

「…けどまぁ…、こうして悪くねぇ眺めも拝めるんだ、今回はこれで良しとしておくか…」

土だらけのシノの顔を拭ってやるマーナ、そして無邪気な笑みを浮かべているシノを眺めながら、ダウドは機嫌良さそうに

声を張り上げた。

「おらお前ら、ちゃんと手ぇ洗って来いよ!今日のプリンは高級品だ。奮発したんだからちゃんと味わって食わねぇと承知し

ねぇぞ?」



そして、数年後…。

人里離れた林道に、保冷車が停まっていた。

一般道ではなく管理用の作業道で、冬に入ってからは車が通っていなかったそこは、数ヶ月ぶりに迎えた客を、穏やかな静

けさで歓迎していた。

保冷車の荷台脇には、道のそこかしこに雪が残っている砂利の道を踏み、車に寄りかかっている若い女性の姿。

二十代半ばと思われる細面の女性は、携帯端末を片手に誰かと通話していた。

「了解親方。届け物が済み次第さっそく向かうとするよ。…なぁに、夜通しぶっ飛ばせば二十四時間以内に着くさ」

からからと快活に笑う気っ風の良さそうな女は、通話を終えるなり携帯を腰のホルダーに納め、運転席の横へと足を運ぶ。

窓をこんこんと軽くノックすると、くぐもった返事に続いてウィンドウが下り始めた。

「仕事が入ったよ。今度は親方直々の極秘依頼だ。今のが済んだら北上だね」

運転席のハスキーにそう声をかけた女性は、何かを思い出したように眉根を寄せた。

「あんたタバコは?何時間経った?」

「む?…ふむ、そろそろだな」

フロントのデジタル表示を見て頷いたハスキーは、ドアを押し開けて外に出ると、ジャケットの内ポケットからタバコとラ

イターを取り出した。

「そうだ。久々に首都経由で行けるし、グラハルトさんにも土産買ってこうじゃないか。エイル姐とドーラ先生にもさ」

「それは良い案だな、シノ」

紫煙を吐き出しながら応じ、マーナは大きく頷いて笑う。

「…ってか先生何なら喜ぶかね?やっぱ肥料?」

「慕ってくれる君の真心をまず喜ぶとは思うが…。いや待て「喜ぶ」?マンゴラドーラ先生が喜んでいるところなど拙者は見

たことがないぞ?」

首都の騒動から時は流れ、マーナとシノは今、運び屋として全国を渡り歩いている。

最初こそユミル専属の運搬要員だったが、シノのリハビリが済み、十分な働きを救って貰った恩返しに当てた後、マーナは

ユミルの勧めで独立を果たした。

職業上、情報を得た輩に荷物を狙われ、襲われる事も当然ある上に、警察の検問すら天敵である。

しかし、マーナの腕前であれば大概は襲撃者を追い散らすのも簡単で、ユミルからリアルタイムで交通情報を買っている事

もあり、検問は避けて移動できる。

やがてマーナとシノ、全国何処へでも何でも届けるタンブルウィードデリバリーは「期日以内の確実なお届け」をモットー

に、裏の社会ではそれなりに知られる運び屋となった。

それとなく発信されたユミルの宣伝の効果も、知名度アップには一役買っていた。しばらく居候させた二人である、ユミル

は親心にも似た心持ちでマーナとシノをこき使っている。

そして、軌道に乗ってしばらく経った現在では、依頼はほぼ途切れる事無く、オブシダンクロウや黒武士会といった大物組

織までが、下請けを介さずホットラインで依頼して来るようになっている。

無法の社会でも信頼は財産となる。依頼達成率100パーセントの運び屋は、秘密裏に物品やひとを動かす場合、非常に重

宝される存在であった。

また、この件についてはダウドも黙認している。日の当たる場所での目立つ商売は当然出来ない二人だからこその、仕方な

しの黙認であったが。

「見逃すのはこれっきり。目に余るやんちゃは許さねぇからな」

というのが、運び屋として独立する際に、ユミルを介して届けられたダウドの言葉であった。

マーナは紫煙を吐き出し、冷たい空気が駆け抜ける木々の上を見遣る。

ユミルが作ったタバコの効果で、自壊はそうそうぶり返す事もなく、平時にはすっかり治まっている。とは言っても、リミッ

ターに働きかけるなどして無理をすれば、すぐさま自壊が始まってしまう。そのため注意は必要なのだが、とにもかくにも日

常生活は全く支障無く送る事ができていた。

アルラウネの組織を宿すシノに至っては、光合成できるだけあって元気過ぎるほど元気で、おまけに随分としっかりしてき

てしまったため、半ば尻にしかれているのが実情である。

腕は立つが、やや抜けた所やうっかりの目立つマーナに、金銭感覚もしっかりしている交渉役のシノ。二人は互いを補い合

い、唯一無二のパートナーとして、そして夫婦として、この数年を生き抜いて来た。

「ところで、親方の依頼というのは一体?」

「詳しくはまだ教えて貰えてないねぇ。会ってから直接伝えるって話だよ。それぐらい重要な、極秘の仕事なんだとさ。信用

できるあたしらにしか任せられないって言ってた」

「嬉しい事を言ってくださるものだ。親方は相変わらずひとを使うのが上手い」

「あんた見てると、あのひとは人心掌握の手練れだなぁって思うよホント。すっかり飼い慣らされちゃってまぁ…」

「親方になら飼われているのも悪くない」

微笑したマーナに、シノも肩を竦めながら笑い返す。

「運ぶのは生き物か…、それとも物品か…、などという事も聞かされていないのか?」

シノは「ああ…」と漏らすと、僅かに首を捻った。

「ひとだよ、「馬鹿でかいお嬢さんを一人」って事だった」

「馬鹿でかいお嬢さん?」

「何でも、体重と同じだけの黄金と等価値なんだってさ。どっかの組織のご令嬢なのかねぇ?馬鹿でかいってのは物の例えか

何かかい?」

「ふむ…」

マーナはプカリと煙の輪を吐き出しつつ、眉根を寄せて思案する。が、やがて小さくかぶりを振って、詮索を止めた。

何者であろうと一向に構わない。

大きな恩があるユミルの依頼である以上、どんな素性の相手であろうと確実に、そして無事に送り届ける。

ただそれだけであると改めて肝に銘じ、マーナは首都の風景に想いを馳せた。

「ああ、そうそう」

シノは思い出したようにポンと手を打ち、夫の顔を見上げる。

「次の荷物はひとなんだ。判ってると思うけど、あんた客の前じゃなるべく喋るんじゃないよ?」

「…うむ…」

マーナは釈然としない表情で、歯切れ悪く返事をする。

このハスキーはやや抜けた所があるため、うっかり口を滑らせてしまう事も多い。

体格も良く、黙っていればそれなりに強面でいかにも頼りになりそうなのだから、ボロを出さないよう客とは極力喋るなと

いうのがシノの言い分である。

よって、依頼者との交渉の席などでは、シノに意見を求められた際に首を縦か横に振るだけに留め、なるべく喋らない。

…というよりも、下手に口を開くとシノが悪鬼の如き凄まじい形相で睨むので、怖くてうかつに喋れないというのがより正

確なところであった。

半分アルラウネのせいか、シノは怒ると、その細面な顔に葉脈からなる隈取りが、歌舞伎役者のそれのように浮くのである。

「さて、そろそろ行こう」

「おっけー。次の予定も入った事だしね、とっとと済ませて首都行きだ。できれば徹夜で」

「…容赦が無いなシノは」

携帯灰皿に吸い殻を落とし入れたマーナは、軽く片眉を上げてぼやいた。

基本、ドライバーは彼である。届け物を済ませて首都までの道のりを運転するのも、当然マーナの役目であった。

「あたしとしてはそれなりに労ってるつもりなんだけどねぇ?」

「労られているのをあまり実感できんのだが…」

苦笑いしたマーナは、不意に口をつぐむ。

背伸びしたシノに、キスで唇を塞がれたせいで。

「時間無いから、悪いけど今はこれだけで勘弁しとくれ」

数秒の口付けの後、唇を離したシノが照れくさそうに言いながら笑うと、

「十分だ…!粉骨砕身!不眠不休で事に当たろうではないか!」

俄然やる気が湧いてきたのか、単純なシベリアンハスキーは鼻息を荒くして、大きく頷いた。

尻尾をブンブン振りつつ、胸の前で両拳を力一杯握り込みながら。

やがて夫婦は、それぞれ運転席と助手席に乗り込んだ。

長い長い旅路の果てに辿り着くのは、安息か、それとも枯死か。

行き着く先が未だ見えぬまま、根無し草はその日その日を転がり続ける。

二人を乗せて走り出した保冷車の行く手には、雲の切れ間から斜めに陽が差す、幻想的な空が広がっていた。