私の「好き」は誰かを殺す(前編)

「ハティ・ガルム、参りました」

「入れ」

ノックに次いで名乗り、返事を待ってドアを押し開けた私は、隊長の執務室の床を踏みつつ「失礼します」と敬礼する。

奥の両袖付き大型デスクに座るのは、燃えるような赤い髪と薄赤い瞳が特徴の女性。

我らグレイブ隊の総司令官、ゲルヒルデ隊長だ。

数歩前に出てゲルヒルデ隊長と向き合った私は、彼女の言葉を待つ。

隊を率いての規定訓練中に、伝令から突然の呼び出しを受けたのだが、理由までは聞いていない。

しばらく黙って待っていると、隊長は小さくため息をついた。

「お前な…、「何のご用でしょうか?」くらい言えんのか?ん?」

「失礼しました。ご用件は?」

素直に応じた私は、しかし何故か隊長に再びため息をつかれてしまった。

「そのだんまり癖は直せ。ただでさえ誤解されやすいんだからなお前は。私のような上官ばかりではないぞ?」

それはそうだろう。むしろゲルヒルデ隊長のような上官はそう居ない。

だがおそらく、私が今後ゲルヒルデ隊長以外の上官の下で働く機会は無いだろう。

異動が期待できない私にとっては、常に言われる揶揄通り、このグレイブ隊こそが墓場だ。

…と思ったものの、口に出しては「気をつけます」とだけ応じておく。

色々と考えはするが口には出さない。私のこの性質は、話したり説明したりするのを面倒がるところに由来するのだろう。

隊長はまだ何か言いたい事があったようだが、本来の用件に入るらしく、小さく咳払いして席を立った。

そして横を向き、部屋の右手側奥にかけられている、デカルド中尉の手による油絵に視線を向ける。

「お前がグレイブに配備されてから、それなりに経ったな…」

北原では望めない、草原と一本杉、その周囲に散らばる羊達を描いた牧歌的な油絵を眺めたまま、ゲルヒルデ隊長が呟いた。

「お世辞でも激励でもなく、これまで良くやってくれたと思っている。お前が上げた戦果…、ひいてはラグナロクにもたらし

た恩恵と、グレイブ隊員にもたらした危難の回避は、私がいくら労った所で足りはしない…」

言葉を切った隊長は、こちらに向き直り、赤い瞳に私の姿を映した。

「おめでとうハティ・ガルム「大尉」。これまでご苦労だった」

僅かに眉根を寄せた私に、ゲルヒルデ隊長は続ける。

「まだ公表段階ではないが、お前の昇格と異動が内定した。大尉昇進に伴い、お前はグレイブ第一小隊長の任を解かれ、他の

部隊へ移る事となる」

…昇進…だと?私が?

確かに、中隊を持たず、三個小隊編成のグレイブには、大尉級士官の居場所はない。昇進に伴い異動が生じるのは当然だ。

だがこれは、昇進が先か?それとも異動の為に昇進させられたのか?私に昇進話が来る以上、何か裏があると思うのだが…。

「大抜擢だ」

私の考えている事を読んだように、隊長は言った。

「ことごとく握り潰されて来た私の昇進推薦状だが、お前個人を戦果から評価した「ある人物」が、自分の配下に欲しいと言

い出した」

「ある人物…とは?」

訊ねた私に、赤髪をかき上げながら隊長は応じる。

「中枢の一角…、ニーズヘッグ・ノートリアス…」

かつて一度見た、プラチナブロンドの美しい髪が印象的な、色白で痩身の青年の姿が、私の脳裏をよぎった。

中枢メンバー、レヴィアタンとロキ…。二人のエージェント選考が同時に行われた折、物見遊山にやって来たのが彼だった。

結局、レヴィアタンにはウルが、ロキにはベヒーモスと呼ばれていた黒瞳黒髪の見慣れぬ少年が、それぞれのエージェント

として選ばれた。

私を含むガルムシリーズ成功例は、ウルを除いて全てが落選したが…。

私がそんな物思いに耽っている間にも、ゲルヒルデ隊長の説明は続いている。

「お前は昇進に伴い、ニーズヘッグお抱えの強襲揚陸部隊付けの大尉となる。百名からの中隊規模の指揮を受け持つ事になる

だろう。彼は癖の強い男だが、部下の扱いと配下選びの手腕は確かだ。お前の制圧力、指揮力、判断力、全てを高く評価して

いるそうだが…」

隊長は言葉を切り、赤い瞳で私をじっと見つめた。

「…これまでにあれだけの戦果を上げられた者が、エージェント選考に落ちた理由についても気になっているのかもしれない

がな…」

窺うような赤い眼光が、私の瞳に探りを入れる。

だが、例え隊長が相手でも、この心当たりについてだけは言うつもりはない。

私が無言のままでいると、「それともう一つ…」と隊長は先を続けた。

「お前の他にも一人、技官として抜擢された者が居る。こちらも大抜擢だな」

ほう…。昇進と異動だけでも珍しいというのに、二人同時とは…。グレイブ設立以来の珍事といえよう。

「誰がですか?」

私の脳裏に浮かんだのは、竜人、ポメラニアン、シベリアンハスキーの顔。技官という事だと、スコルの線が濃いか…。

だが、ゲルヒルデ隊長の口から出たのは、いずれの名でもなかった。

「新入りだ」

垂れ耳をぴくりと動かし、私は目を僅かに細めた。

…M10が?

「彼の准尉待遇の技官昇進、及び採用が内定した。これもニーズヘッグの手回しによる物だろう。…どうした?あまり嬉しそ

うではないな?」

「いささか、待遇が良過ぎると感じまして」

疑念を抱いている私が率直に応じると、隊長も頷いて同意を示す。

「おそらくは、私が昇進推薦と同時に上げてやった、お前が書いた新入りについての推薦状が併せて目に止まったのだろう。

M10についてはニーズヘッグ直属の隊ではないが…、オセアニア方面の巡回調査部隊への配属だ。お前の望んだ通り、戦闘

頻度は低くレリックや遺跡などの調査がメイン。おまけに待遇も良い」

「至れり尽くせりですな」

「気に入った相手を口説き落とす為なら、並べられる飴玉は惜しまず並べる…。ニーズヘッグの常套手段だ。彼は優れた部下

は大事にするし、有能な兵士は正当に評価する。M10の異動にまで働きかけたところを見るに、どうあってもお前が欲しい

らしい。断られる可能性を削りにかかっている」

つまり、もしも私が辞退すれば、M10の昇進及び異動の話も無しになる…という事か。

「姑息だが効果的だ。お前を高く評価している証拠でもあるがな」

「光栄ですな」

予想も期待もしていなかったせいか、少々驚いてはいるものの嬉しさは無い。むしろ気が乗らない。

だが、警戒して断れば、千載一遇とも言えるM10の異動が立ち消えになる。

おまけに、ゲルヒルデ隊長への風当たりも強くなるだろう。断るのは私でも、勘ぐる側がどう取るか知れた物ではない。隊

長が部下を出し惜しんだとも見られかねないのだ。

「それともう一つ…。お前の後任にはニーズヘッグの部下が派遣されて来る。それなりに知られた彼の手駒だ」

私の後任は左遷者ではなく、ニーズヘッグが送り込む信頼できる部下…。つまり…。

「グレイブにある程度の庇護をくれると…、そういう事ですか」

私が口にした推測に、隊長は「らしいな」と頷く。

「中枢メンバー子飼いの士官が居る部隊に、あからさまな嫌がらせや玉砕命令など、相当な高官でもおいそれとは出せん。不

当な扱いはホットラインでニーズヘッグに筒抜けだ」

「なんともご利益のあるお守りですな」

「全くだ」

「私以外の誰かを代わりに推薦する事は…」

「ここまで来て?馬鹿も休み休み言え。あちらが欲しがっているのはハティ・ガルムだ。それ以外の誰かではない」

隊長はそう言ったきり口をつぐみ、じっと私を見つめた。

「…グレイブが受けられる恩恵についての話を、わざわざ私にする。断りにくくなるのを承知で。…どうあっても追い出した

いようですな?」

「口を慎め。親心のような物だ」

隊長はニヤリと笑った。

判っている。隊長は私をグレイブから解き放ちたいのだ。

私だけではない。隊の多くの兵について、危険な現場を離れられるよう上申を繰り返している…。

「お前はこれまで、人一倍働いてきた…。お前はいつまでもこんな舞台で燻っているべき男ではない。日が当たる場所に出て、

実力が正当に評価される舞台に立ち、より上を目指すべき男だ。エージェント選考に落ちた理由も、左遷理由も、今は問わん

し、もうどうでも良い…」

隊長は口の端を緩め、滅多に見せない女性としての柔らかな笑みを浮かべた。

「十分だハティ…。もう十分働いてもらった…。助けて貰った…。お前は「あんな男」が素体になったとは信じられないほど

立派な戦士になった…。残す部下達が心配なのは判るが、もう良いだろう?自分の名誉と安全を少しぐらい求めても…。何に

対しての償いなのか、何のために自分を罰しているのかは判らないが…」

私は心臓が跳ねるのを感じ、冷静に見えるよう努めながら口を開いた。

「おっしゃられる意味が、良く判りませんが」

隊長は苦笑した。…やはり、このひとは私の秘密について、ある程度近い推測をしている…。

「お前…、これまでに何度自分の手柄を部下に譲った?最近ではあの新入りに、少なくとも三つのレリック入手という戦果を

譲っているだろう」

「おっしゃる意味が、良く判りませんが」

全く同じ言葉を繰り返した私に、隊長は「まぁ良い…」と、苦笑を深めた。そして机を回り込み、私の前に立つ。

「そのまま墓に入る事はない。そもそも、これから少しは居心地が良くなるんだ。もうグレイブに…」

目前に立った隊長は、片手を上げて拳を握り、私の胸をドンと、やや強く叩いた。

「墓守は、必要ない…」

笑みを浮かべているゲルヒルデ隊長の顔が、それでもどこか寂しげに見えたのは、私の自惚れだろうか?

踵を返して背を向けた隊長は、「話は以上だ。ご苦労だったな」と、デスクに戻りながら私に告げる。

「まだ内定の段階だが、グレイブ内では話して構わん。新入りにもお前から伝えてやれ。ただ、アジア出向中の第二小隊は、

今夜は日本での任務に従事している、そちらには終了後に私の方から連絡を入れよう」

「………」

無言の私を、ゲルヒルデ隊長はじろりと睨んだ。口元に笑みを湛えたまま。

「私にここまで話させておいて、まさか断るつもりじゃなかろうな?返事はどうした?ハティ大尉!」

「はっ。ハティ・ガルム、拝命致しました。ただちに後任への引き継ぎ準備を行います」

敬礼した私に、隊長は「宜しい…」と、満足げに頷いた。

その顔がまた少しだけ寂しげに見えたのは、私の目の迷いだろうか?

…?…寂しい…?

遅ればせながらその事に気付き、私は少なからず驚いた。

どうした事だろうか?他者の感情を情報として洞察する事しかできなかったはずの私は、いつの間にか他人の「寂しい」を

理解し、共感する事ができるようになっていた…。



小隊長用の執務室に入った私は、すっかり見慣れてしまった部屋を見回した。

時計を確認すれば、訓練終了予定時刻は既に過ぎている。

私が戻らなくとも予定通りに切り上げるよう言っておいたので、皆そろそろベースに戻って装備の点検をしているか、シャ

ワーを浴びて着替えている頃だろう。

デスクには向かわず、私は上着を脱いでソファーに投げ出し、その隣に腰を下ろした。

「M10、いつまでそうしているつもりだ?」

私の声に反応し、少し気まずそうな含み笑いが響いた。誰の姿も無かったはずの、私の背後から。

「やっぱりばれちゃってました?」

「匂いでな。だがコントロールは完璧だった」

微苦笑しながら私の横に回り込み、直立不動の姿勢を取ったのは、青みがかったグレーの被毛と蒼紫の瞳をしたアメリカン

ショートヘア。

我が隊一の新品少年は、訝しげな顔をして私を眺め回す。

「あれ…?中尉、なんだか…、お疲れなんですか…?」

「…いや…」

M10の視線は、応じた私を通り越して、ソファーに投げ出された上着を見ている。

「だって、服もかけないで…。中尉にしては珍しいです…」

…なかなかよく見ている…。気を配った甲斐はあったな。どうやら観察眼はきちんと培われて来たようだ。

「隊長の用事って何だったんですか?何か怒られたんですか?」

「いつものように、無愛想さを何とかしろという小言は貰った」

答えながら、私は手で向かいの席を示し、立ったままこちらを窺っている少年を座らせる。

「今日中に小隊の皆にも話す予定だが、当事者の君には先に話しておこう」

私はまず、自分の大尉昇進の話を伝えた。少年は「おめでとうございます!」と単純に喜んだが、

「併せて、この隊を離れ、別の部隊へ配属となる」

「えぇっ!?」

続けた言葉で、大げさなほどに驚き目を見開いた。

「そ、そんな…。どっか行っちゃうんですか?中尉…。嘘でしょう…?」

不安げなか細い声が私の胸をチクリと刺す。が、誤魔化しても仕方がない。私は頷いて先を続けた。

「同時に、君も准尉級に昇進し、異動する事となった。巡回調査部隊に技官として配属される。戦闘が少ない部隊な上に、前

に出ない比較的安全なポジションだ」

そんな私の言葉にも、少年は目を見開いて絶句したまま、喜ぶそぶりを見せない。

「嬉しくないのか?」

「う…、嬉しいです…。嬉しいですけど…、でも…、中尉と…、一緒に居られなく…」

「誰でもそうだ。異動すれば信頼し合う部下や上官とも離れる事になる。それでもグレイブから抜けられるのは滅多にない幸

運だ」

「…中尉は…、寂しくないんですか…?」

「特にこれといっては」

応じた私の胸の中で、「それは欺瞞だ」と声が上がる。

そう。隊を去り、皆を残して行く事に対して、名残惜しいという気持ちが無いわけでもないはずだ。感情に乏しい私でも確

認できるこの胸の疼きは、きっとそのような物なのだろう。

だが、別れは訪れる。そしてそのまま今生の別れとなる事も、我々にとっては珍しい事ではないのだ。

だが、言ってどうなる事でもないし、どうこう出来るものでもない。

その事を諭す私の前で、少年は俯いた。

「だって…、だって…!せっかく中尉の事も解って来たのに…、今異動とか昇進とか言われても…!」

肩を震わせた少年は、やおら勢い良く顔を上げ、縋るような目で私を見つめた。

「能力は!?ぼくの能力の訓練は!?中尉が見てくれなかったら…!」

「コントロールはほぼ完璧だ。実戦でも使用に耐えられるだけのレベルに仕上がっている。ボロを出す事は無いだろうし、必

要に迫られれば十分に使える。私の指導はもう必要ない」

「そんな…!自信ないです!中尉に見て貰わなかったら、ぼくは…!」

「M10。はっきり言うが、何と理屈をこねても無理だ」

訴えかける少年に、私は静かに、しかしきっぱりと告げた。下手な希望など持たないように。

アメリカンショートヘアは再び項垂れ、黙り込んだ。

私はその頭に向かって、慰めの意味も込め、一足早く別れの言葉を投げかける。

「君が下で働いてくれた、この短い日々は、私にとって楽しい物だった」

口にしてから、私は少し驚いた。

そう。きっと楽しかったのだ。あれは楽しいという感覚だったのだ。

兵士らしからぬこの少年の世話をやいた日々は、思い返してみれば楽しかった。

これまでに出会ったどんな部下より、どの新兵より頼りなく、手間がかかり、戦力にならなかったこの少年の面倒を見てき

た日々は、私にとっては新鮮で…。

私は小さく息を吐き出し、まさかこのタイミングで告げる事になろうとは思ってもいなかった言葉を口にした。

「…一応、君の名を考えてみた」

私の言葉に反応して耳が動き、少年は顔を上げる。

それは、旅立つ君への、せめてもの贈り物。

編入から日は浅く付き合いは短く、上官らしい事などあまりしてやれなかったが、これがいくらでも埋め合わせになれば…。

「ミオ・アイアンハート。…というのは、どうだ?」

「…み…お…?」

少年が呟き、私は頷く。

名前を考えて欲しいと言われ、頭を悩ませながらメモにいくつも書き殴っていた、「M10」の三文字…。

その際に偶然部屋を訪れたスコルは、それを「MIO」と読み間違えた。その時にふと頭に浮かんだのがこの名だった。

あまりにも淡泊過ぎるような気がして、それからもしばらく考え続けたものの、結局ろくな名前は思い浮かばなかった。

恵まれた身体は与えられなかった少年だが、せめてその心は強くあるように…、柄にもなく願いを込め、セカンドネームは

鋼鉄の心とした。

「…ミオ…アイアンハート…」

少年は口の中で何度も繰り返していたが、やがて少し恥ずかしそうな顔になった。

「ぼくに…、そんな立派な名前、似合いますかね…」

「ファーストネームはともかく、セカンドネームが似合うかどうかは、考えた私にも判らない。だが、君がそうあって欲しい

と願っている」

しばらく黙り込んだ後、少年は頷いた。浮かない顔ではあったが、それでも口の端と目尻に笑みの欠片を浮かべて。

「ありがとうございます…!頂いた名前に恥じないよう、頑張ってみます。中尉…!…あ、いや…、大尉」

ミオは深々と頭を下げ、私はもう一つ告げておく必要があった事を、この場で併せて伝えた。

ノンオブザーブ。

それが、ミオが授かった希有な能力の名だ。



「…以上だ。ただしまだ内定の段階であり、実際の異動は後任者が到着してからとなる。新たな指揮官の下でも、これまで以

上に任務に励んで欲しい」

会議室は、私の声の短い反響が終わると同時に、水を打ったように静かになった。

夜半になっての唐突な招集に、集まった部下達は、最初は困惑気味だった。

だが今は、不安と動揺をその顔に浮かべ、私を注視している。

何という顔をしているのだろうか?死地にあってもなお普段通りに笑いあえる、極めて剛胆なはずの我らが精鋭達は…。

解散をかけても、皆はなかなか動こうとしなかった。

私は先に部屋を出て、僅かに開いた戸から漏れてくる嘆きのようなどよめきを背中で聞きながら、同僚の部屋へと向かった。



「足抜け…かね」

「意に反してそうなってしまった」

屈強な体躯の竜人は、気難しそうなその顔に、微妙な表情を浮かべていた。

「貴官が居ない第一小隊など、想像し辛いな…」

「同感だ。百名からの兵士を指揮する中隊長となった自分の姿は、非常に想像し辛い」

デカルド中尉は私のグラスの中身が減っている事に気付くと、傍らの黒いポメラニアンに目で催促した。

スコルは無言のまま腰を浮かせて私のグラスを取り、ウイスキーを注ぎ足して氷を追加する。

昇進の話を伝えると、最初こそ驚き、そして喜んでくれたスコルだったが、異動も伴うと知った今は、いつものような皮肉

一つ言うでもなく神妙な顔をしている。

ここはデカルド中尉の執務室だ。私達は応接用のソファーに向き合ってかけている。

私の正面にデカルド中尉、中尉の隣にスコルが座る形だ。

「最初に貴官が、しばしあってからスコルとマーナがここへやって来たと聞いている。私はそのすぐ後だったが…、ガルムシ

リーズは欠陥品揃いなのだろうと、当初は偏見すら持って赴任してきたものだ」

デカルド中尉はそう言うが、さてどうだろうか?私の目にはそうは映らなかった。特にスコルについては最初から高く評価

していたように見えたが。

「寂しくなるな、この部隊も…。だが、貴官ほどの男が戦死する前に栄転できたのだ。素直に喜ばねばなるまい」

「どうだろうか。あるいは今より厳しい環境に置かれるかもしれないが」

私はデカルド中尉に応じつつ、スコルに視線を向けた。

「怒っているのか?スコル」

「なんで怒らなきゃならんのですかね?」

ポメラニアンは明らかに不機嫌そうだったが、同時に少しばかり寂しそうでもあった。



デカルド中尉とスコルとの長話の後、かなり遅くなってから部屋を出た私は、少し歩いた後に気配を感じて足を止めた。

そのまま少し待つと、追ってきたスコルが私の顔を見て口を開く。

「お話したい事が…、執務室へお邪魔しても構いませんか?」

追ってくる事に気付いた私が待っている事は、予想の内だったのだろう。ポメラニアンに驚いている様子は無い。

「判った。ではこのまま向かおう。何の話だ?」

「チップの事です」

歩き出しながらも、私は横目でスコルを見る。

「解析の方、上手く行ったんですが…」

スコルは、続きは部屋でというように、中途半端に言葉を切った。



「おかしいんです。中身その物も、解析できた経緯も…」

ソファーに座るなり口を開いたスコルは、懐から小型の携帯PCを取り出した。

小型のキーと画面からなる、そのままノートPCを小さくしたような機材に、専用の接続端子を繋いでテーブルに置くと、

スコルは摘んだチップを顔の前に翳した。

それは、ミオが来た後に私の部屋で見つかったデータチップだ。

状況から考えるにミオの荷物に紛れ込んでいたと思われるのだが、本人はこのチップの事を知らなかった。よって、出所も

正体も不明。

「大尉。驚かないで聞いて下さい。このチップの中身は…」

私はスコルの説明を聞き、接続されたチップ内のデータを確認した後、首を傾げた。

「何かの設計図のようだが…、これだけでは断片的で判らない、か…」

「ええ。ぶっちゃけジャンクデータですよ。これ単体じゃ役に立たない上に、何が組み上がるのか判らない。なんでこんな物

にあれだけ高度なプロテクトがかけられていたのか…。読み取り自体ができていないように偽装するプロテクトなんて、初め

て見ましたよ」

私は首を捻るスコルに、「解析できた経緯もおかしい、と言ったな?」と、気になった点について訊ねる。

「ええ、時間制のプロテクトだったようです。今日の夕刻まで開けないようにされていただけで、今は好きに閲覧できる設定

になっています。…本当は、大尉の転任準備のどたばたが落ち着いてから報告するべきかとも思ったんですけどね…」

「いや、今知らせてくれて正解だった」

そう答えながらも、私は何故「正解だった」と思ったのか、一瞬遅れて自問した。

虫の知らせ…とでも言うべきか、早めに知っておけて良かったのだという予感がある。

どうにも嫌な感覚があった。このチップは、あまり良くない物のような気がする…。

「大尉、何をお考えで?」

覗うような光を帯びたポメラニアンの目が、私の瞳をじっと見つめる。

「おそらくは君と同じ事を考えている。スコル、君がチップの解析をしていた事は何人に知られている?」

「デカルド小隊長と、第三小隊の同僚数人…、それとゲルヒルデ隊長ですね。もっと正確に?」

「いや、良い。その中で解析に成功した事を知っているのは?」

「今のところ我々だけです」

「では、そのチップは処分してくれ。何か問われたら、壊れていると判断した私が、廃棄するように命じた事に」

「イエッサー」

私の指示に、スコルは疑問を差し挟む事もなく頷いた。



スコルと別れて再び通路を歩み、自室のドアを開けた私は、一歩踏み入りつつ部屋の中を見回した。

異動に伴う荷物の整理は、私には特に無い。

持ち物は武装だけだ。…ただし、グレイブ第一小隊のトレードマークでもあるこの首輪だけは置いて行くが…。

ドアを閉め、机の水差しを取ってコップに注ぎ入れながら、私は口を開く。

「いつから待っていた?ミオ」

「………」

無言の気配は、私の背後…たった今くぐったばかりのドアの横で能力を解除した。

薄暗いランプに照らされるミオの姿が、水差しに映り込んでいる。

「何の用だ?」

「………」

「今日はもう遅い。急ぎでないなら明日にしろ」

「………」

ミオは無言のまま答えない。俯き加減で顔が影に沈んでおり、その表情は窺えない。

コップに注いだ水を一口飲み、私は振り返る。

ミオは顔を上げ、向き直った私の顔をじっと見つめた。

「大尉…。あの…、お話が…。大事な…、お話が…」

先程のチップの事が頭の隅を掠めたが、ミオが切り出した話は、私の予想に反した物だった。

「ぼくが…、前に、上官からどういう事をされたか…、お話しましたよね…」

頷きながら、私は思い起こす。かつて語られた、ミオが受けた仕打ちの事を。

男色の上官によって虐待を受けていたミオは、その意図を無視して体を汚された。

その事がトラウマになっていたらしく、ここに来て間もない頃は、眠っている所を誰かに起こされたり、体に触れられたり

すると、極端な拒絶反応を見せるようになっていた。

今ではだいぶ落ち着いたようだが、それでも他の隊員とあまりうち解けていない。どこが気に入ったのか、私に対しては態

度を軟化させるのだが…。

「ぼく…、た…大尉になら…、ああいう事されても…平気です…」

ミオはそう言うと、襟のボタンを外した。

「しばらく北原に釘付けで…、女の人と、その…、できなくて…。た、大尉も…、お困りでしょうし…」

目を伏せてボソボソと言うミオは、次いで胸元のボタンに指を這わせた。

「な、何も取り柄がないから…、ぼく、こ…、こんな事でしかお礼できないですけど…」

「よせ」

何をしようとしているか悟った私は、ミオの言葉を遮って制止した。

「礼など必要ないし、君がそんな事をする必要もない」

ミオは震えていた。小刻みに、微かにだが、ボタンを外そうとしている手の震えは特に目立つ。

「で、でも…、お世話になりましたし…。一生懸命、ご奉仕しますから…」

「無理をするな」

「無理なんかしてません。大尉、ぼくで良ければ抱いて下さい。好きにして頂いて結構です…!」

「必要ないと言っている」

私がそう言うと、ミオは口を閉ざし、縋るような目を向けてきた。

…嫌な予感はしていた。

ミオが私だけになついている理由の中に、もしかしたらソレも含まれているのではないかと、つい最近になって疑惑を抱き

始めていた。

「大尉…」

潤んだ瞳に私の顔を映し、ミオは懇願するような声を漏らす。

…予感が正しかった事を、私は悟った。

ミオは、かつての上官の仕打ちでトラウマを負っただけでは済まなかったのだ。

確かに心理的な傷ではあるのだろうが、その傷跡はミオの繊細な心には深過ぎて、おそらく「そのように」なってしまった

のだろう。

深過ぎた傷が、時に引きつれたように歪んだ傷痕を残すように、ミオの心にも消えない痕跡が…。

「大尉…。お願いします…。一度だけで…、一度だけで良いですから…」

ミオは私に向かって一歩踏み出した。震えは一層強くなり、潤んだ目からは涙が零れそうになっている。

臆病なミオが、その一歩を踏み出す為にどれだけの勇気を振り絞ったのか…、感情の薄い私でもある程度は理解できた。

「もう一度…、もう一度…、温もりを下さい…!また会える日まで我慢できるように…、ぼくを…、抱いて下さい…!」

かつての上官に仕込まれたミオは、今や同性と異性を区別しなくなってしまったのだろう。…いや、あるいは同性にしか…。

そして今ミオは、私を求めている。

私に、かつての上官にされたような事をしろと、目で訴えている。

今、私の胸の中にあるこの感覚は、一体何なのだろうか?

困惑?哀れみ?憤り?どれかであるような気もするし、それらが混じりあった物のような気もする。さらにはどれとも違う

のでは無いかとも思える。

元々感情の起伏が乏しい私には、判断が付かなかった。

ミオがさらに一歩踏み出し、私は小さくかぶりを振ってから顔を上げた。

私は二歩目で足を止めているミオに、大股に近付く。

ミオの首が角度を上げ、媚びるような縋るような光を湛えた瞳が、正面に立つ私の顔を見つめた。

「…ミオ。止めろ」

私の言葉に、アメリカンショートヘアは顔を歪ませた。

「大尉…。大尉はやっぱり…、ぼくの事は好きじゃないんですよね…。役立たずだし、いつも足を引っ張るし…!」

「ミオ…」

冷静さを失っているのか、ミオは自嘲するような笑みを口元に浮かべ、次第に語気を荒らげながら続ける。

「お荷物で、迷惑かけてばかりで、使えない部下で…!き、嫌われて当然だけど…、そ、それでもっ…!それでもぼくは…!」

「やめろ、ミオ」

「言って下さい大尉!好きでないなら、嫌いなら、はっきり言ってぼくを追い出して下さい!」

追いつめられた小動物のように、ミオは威嚇するような激しい口調で私に言い募る。

完全に頭に血が上っている。己の行為が取り返しの付かない所まで及んでいると察し、結論を求めている…。

自分にとって良い方に転んでも、悪い方に転んでも構わない。そんな自暴自棄な精神状態で、ミオは答えを求めている…。

しばしの沈黙の後、私は口を開いた。

「ミオ…。ならばはっきり言おう」

ビクリと、ミオの華奢な肩が震えた。

「私は、君の事が嫌いではない」

ミオの瞳が僅かに揺れて、微かに明るい光が灯った。

「だが、私が君に対して好きだと言う事はない」

ミオの目が大きく見開かれ、絶望の表情がその顔を染め上げた。

だが私は構わずに続ける。

ここで言っておかなければならないだろう。はっきりと伝えなければならないだろう。

ミオは私と秘密を共有している。下手に口外する恐れも無い。この少年になら、スコルやマーナ、そしてウル達…、さらに

ゲルヒルデ隊長にすら言っていないこの事を話しても差し支え無いはずだ。

「ミオ、君にだけ話そう。しっかりと聞いて欲しい」

私はミオの潤んだ瞳から視線を外し、踵を返して机に歩み寄った。

「私は、誰かを好きになってはいけない。誰かを好きになる事は許されない。なぜなら、私の「好き」は誰かを殺すからだ」

振り向いた私の顔を映すミオの瞳は、怪訝そうな光を湛えていた。

「君は、ブライアン・ハーディーという名の男を知っているか?」

私は椅子に腰を下ろし、その話を始めた。

私が「私」として存在するに至った経緯に関わる、全ての他者に秘してきた話を…。