私の「好き」は誰かを殺す(中編)

それは、今から十二年ほど前の話になる。

百年に一人の逸材ともてはやされた、アメフト選手が居た。

現役時代はたったの一度も、倒れるどころか膝を屈する事すら無かった、無敵のラインマン。

獣人差別が激しい中で、羨望、憎悪、蔑み、奇異、期待…、あらゆる感情が渾然となった視線を集めたその白い獣人の名が、

ブライアン・ハーディー。

基礎身体能力で人間を上回る獣人は、スポーツでは有利。

故に、アメフトにおいても他の競技同様、獣人には出場制限枠があり、どのチームでも起用される獣人は、極めて身体能力

の高い者に限られる。

その中でも、彼の存在は群を抜いていた。

恵まれた体格に、規格外の身体能力…。味方に安心を、敵に恐怖をもたらすブライアンは、獣人であるが故に大々的な賞賛

こそ浴びる事は少なかったものの、誰もがトッププレイヤーの一人として認めていた。

快活で社交的。物怖じしない自信家。サービス精神も旺盛。

特に子供が好きで、小さなファンには格別の便宜をはかっていた彼は、獣人忌避派以外の人間からは、非常に人気の高い選

手だった。

年を追うごとに人気は高まり、彼はチームにとっても協会にとっても重要な存在になっていった。

トップレベルのプレイヤーとしてのみならず、巨人のような白いラインマンは、その目立つ外見から広告塔としても役に立っ

たのだ。



私は一度言葉を切り、ミオの表情を覗った。

長話になると言って促し、ベッドに座らせたミオは、何故私がこんな話をするのか理解できない様子で、戸惑いの表情を浮

かべている。

ひとまずだが、先程まで昂ぶった精神状態だったミオは、今のところ落ち着いて話を聞いている。

唐突に良く判らない話をされ、戸惑いが強いせいだろう。

こんな事にまで計算を働かせる自分に少し呆れながらも、椅子に座っている私は、ミオと向き合ったまま話を続けた。



それは、ブライアンがプロデビューして三年目…、今から九年前の事だ。

彼の熱心なファンだった十三歳の少年が、チームが練習に使用している競技場で行方不明になった。

両親と幼い弟、家族揃って練習見学ツアーにやって来たその日の夕刻、少年は荷物と、片方の靴、そしてブライアンから貰っ

たばかりのサインを残して失踪した。

トイレに行くと言って家族と離れたのだが、しばらく経っても戻って来なかった為、父親が探しに行って発覚したのだ。

トイレは出口近辺にあり、拉致は容易な状況。通報を受けた警察は、直ちに事件として捜査を開始した。

その素早い初動と即座に事件扱いにした判断、及びその後の迅速な行動には、理由があった。

その街では数年前から十代前半の少年が行方不明になるケースが多発しており、警察は少年の失踪を即座に一連の事件と結

びつけたのだ。



「ハーメルン…。当時、その連続失踪事件はそう呼ばれていた。ある大手新聞が「現代のハーメルン」と大見出しをぶった事

を皮切りに、各紙はこぞって事件の事をそう書き立て、やがてその呼び名は瞬く間に浸透して行った。謎の攫い手は、童話に

ちなんで「笛吹き男」とあだ名されたが…」

「…ハーメルン連続失踪事件…、でしたっけ?」

ミオは表情を少し変えている。スポーツ選手であるブライアンについては知識が刷り込まれていなくても不思議では無いが、

さすがにあの事件については知っていたらしい。

「念の為に訊いておくが、ハーメルン事件についてどの程度の知識が有る?」

私が問うと、ミオは考え込むように眉根を寄せた。

「えぇと、あまり詳しくは…。同時期に全部で100件近く少年の失踪事件があったとか…、模倣犯もかなり出ていたから、

実際の件数はそこまでじゃないとか…、結局本物の「笛吹き男」は捕まらないまま、連続失踪事件は止まったとか…。その程

度の情報しか与えられていません」

「それで十分だ」

自信無さそうにぼそぼそと言ったミオに、私は頷く。

当時その事件は、多くの模倣犯を生んだ。

社会という物は複雑で、一見平穏で平和に見えても、その実、薄皮一枚剥げば激しい闘争と憎悪、利害を巡る攻防が繰り広

げられている。

そんな中で、誰かに消えて貰いたいと思っていた者は多く、ハーメルン事件を隠れ蓑に、幾人もの失踪者が生まれた。

ただし、その中において成人の失踪は笛吹き男の仕業では無い。

これは警察も重々承知で、当然別件扱いとしたが、それでも、メディアの報道加熱によって模倣犯の出現は後を絶たず、少

年少女の誘拐、拉致は続いた。

あの国は、マスメディアが強力だ。

そのマスメディアに煽られる国民の声は絶対で、時に政策や国の方針すら覆す。

米西戦争に、真珠湾攻撃に始まる世界大戦への参加。どちらもリメンバーなにがしの合言葉で知られるが、これらの開戦は

言うまでもなく世論の高まりに乗って、あるいはお墨付きを得て、政府が踏み切ったというケースの戦争だ。

逆に、ベトナムからの撤兵においては、反戦世論の高まりによって派兵維持が困難になったという事情がある。

グレナダ戦役に至っては、不可欠と判断したこの戦争をやり遂げるために、政府はメディアをシャットアウトし、電撃的に

侵攻を終え、国民が関心を向ける前に短期決戦で終戦に持ち込んだ。

戦争をするにも世論…ひいてはマスメディアの顔色を窺わねばならないあの国で、過熱報道が生み出した偽笛吹き男は、文

字通りメディアによって栽培される結果となった。

一度ドミノが倒れ始めれば、報道の封じ込めなどできはしない。何せ自由の国なのだから…。

「では、基本的な知識はあると考えて話の先を続けよう」

私は水を一口飲み、ここからいよいよ長くなる話を再開した。



警察の対応の早さも功を奏する事はなく、トイレから姿を消した少年は発見されないまま、半年が経過した。

テレビやラジオで必死になって我が子へ呼びかけ続ける両親の元を、ブライアンは訪れた。

自分達の応援に来てくれた際に事件に巻き込まれたのは残念でならない。だがきっと彼は元気にしている。きっと元気に帰っ

て来る。彼が帰ってきたら必ずVIP席を用意するので、家族皆でゲームを見に来て欲しい。自分もファンの皆に情報提供を

呼びかける。どうか諦めないで帰りを待っていて欲しい…。

心優しい彼の励ましに、両親は涙した。

ブライアンの訪問と情報提供の呼びかけ、そして犯人に対する非難の言葉は、地元メディアから発信され、遠くの街でまで

長期間にわたって少年の捜索は続いた。

だが、誰も気付かなかった。

他でもない、真剣な顔で情報提供を呼びかけるブライアン自身が、少年を拉致したのだという事に。

そして、少年は大好きだった彼の手にかかって殺されており、二度と家に帰る事は叶わないという事に。

ブライアン・ハーディーは、希代のアメリカンフットボーラーであると同時に、希代の連続誘拐猟奇殺人鬼、「笛吹き男」

でもあった…。



ミオの表情が曇った。

当然だ。聞いていて愉快な話では無い。

「その子供は…、その選手のファン…、だったんですよね…?」

私は「そうだ」と頷く。

「なのに…、その選手が本物の笛吹き男で…、彼に…殺された…?」

繰り返し「そうだ」と応じた私は、項垂れたミオの頭を見つめる。

「…どうしてそんな…。自分のファンの子を…。応援してくれる子を…。その子…、一体どんな気分で…」

どんな気分で、大好きだったブライアンに殺されたのだろうか?

ミオの言葉は皆まで言い終えずに途切れたが、考えている事は私にも解った。

ここから先の話は少々気分が悪くなるが、外す訳にもいかない。多少表現を柔らかくしながらでもミオに教えなければなら

ないだろう。

私は続けた。歴史の闇に葬り去られた猟奇殺人鬼、笛吹き男ブライアン・ハーディーの話を。



アメフト選手のブライアンは異常者だった。それもとびっきりの。

少年…それも十代前半の男の子を好んで拉致し、殺害するシリアルキラー。全米を震撼させ、後には映画まで作られた顔の

無い誘拐者、笛吹き男の正体だった。

しかも、被害者はただ殺されるのではない。犯されながら殺された。

ブライアンは、幼さの残る少年にしか性的興奮を覚えられない性質を有していたのだ。

拉致した少年の肛門にいきり立った陰茎を突き立て、首を絞めながら交わるのが、彼のお気に入りの性交だった。

大きく、重く、力も強い彼にとっては、未成熟な少年達の抵抗など何でもない。

むしろ無駄な抵抗をして貰う事も、彼にとっては楽しみだった。

苦痛と恐怖に顔を歪ませ、目を充血させて意識を失いそうになっている少年を犯し、その表情に、最後の抵抗に興奮をかき

立てられながら絶頂を迎え、その強力な両手で首をへし折るのが、彼のスタイルだった。

気管…喉頭に頸骨、一緒くたにぐしゃりと握り潰され、息絶えた相手の体から力が抜け、肛門が弛緩する。その感触を彼は

愛した。

だが、彼の異常さはそれだけに留まらなかった。

彼は犯して殺した少年達を…。



「喰らっていたのだ」

ミオの肩がびくんと跳ねた。

嫌悪と恐怖に顔は引きつり、気分が悪いのか、胸元を手で押さえている。

無理もない。自分が受けた物に近い仕打ちに加えてカニバリズムと来れば、兵士特有の性質を持たない繊細なミオならば、

トラウマを刺激されてそれなりの衝撃を受けるだろう。

「ブライアン・ハーディーは、お気に入りの少年を拉致し、犯し、殺し、挙げ句に喰っていた。その行為には証拠隠滅を計る

という側面もあったが、それ以上に、可愛い少年が自分の血肉となり、一体となるという快感を覚えていた」

ブライアンがどのように少年達を「調理」し、喰らっていたのかをひとしきり淡々と語った後、私はミオに問いかけた。

「水を飲むか?少し落ち着いた方がいい」

脈が乱れ、異常に体温が上がっている事が私には判る。だがミオは首を横に振った。

私は少々ミオの様子を気にかけながら、先を続ける事にした。



ブライアンは、その生涯において199人の少年を殺した。

笛吹き男の犯行として知られている行方不明者の数は、彼の犯行と断定できないグレーケースを含めてもせいぜい100。

…だが、実際のところ彼はそのほぼ倍の少年を殺している。

出自がはっきりしない、そして身寄りの無い、貧困層のストリートチルドレン達が犠牲者の大半を占めていたせいで、半分

近くの犯行が知られていないのだ。

彼は、少年と性交…つまり殺害した後は、解体して冷蔵庫に入れ、肉が傷まぬよう三日以内に食い切るようにしていた。

少年とはいっても、ひと一人だ。普通であればそれだけの量を喰い切るのは大変だが、彼は食欲も並外れていたし、何より

も、愛した少年と一体になりたいという願望は異常なほどの物だった。

ある週末、冷蔵庫に食いかけの恋人が居るにもかかわらず、一目惚れした少年を「誘って」しまった時には、彼は二日連続

で殺し、四日間で二人を食い切った。

己が定めた期限ぎりぎりに無理矢理詰め込み、はち切れんばかりに腹を膨らませた彼は、胃壁に軽い裂傷が生じた痛みすら

も快楽として認識していた。

それほどまでに、彼は異常だった。

笛吹き男ブライアンは、戦争などの特殊な状況を除けば、人類史上屈指の大量連続殺人を犯したが、死ぬまで警察に捕まら

なかった。

異常ではあったが、実に優れた殺人者だったのだ。

犯した殺人の内、少なくないケースが突発的な一目惚れからの短絡的拉致によって行われていたが、彼は巧みに、臨機応変

に状況を利用し、痕跡無く少年達を連れ去った。

工作員も舌を巻く偽装能力に行動力。そして演技力と想像力。大胆さと繊細さを兼ね備えたナチュラルボーンサイコパス、

笛吹き男…。

犯行の数が尋常でないにも関わらず、ブライアンは、警察の捜査線上には一度も浮かんだ事が無い。

こんなケースもあった。クリスマスの白昼、チームのファン歓待イベントでサンタクロースに扮していた彼は、巡回中の警

官達と談笑したその三十分前には、ロッカールーム内で少年を殺害していた。

ロッカールームを見せてあげようと、言葉巧みにファンの少年を誘い入れ、犯して殺して袋詰めにした彼は、プレゼントと、

ビニールシートで密封された少年の死体が詰まった白い袋を担いだまま、涼しい顔で立ち話をした。

自分達が少年の死体を担いだ笛吹き男と談笑していた事など、警官の誰一人として気付けなかった。

彼は実に優れていた。度胸までもが一級品だった。人類史上最高クラスの、犯罪の天才と言っても差し支えないだろう。



「…そのひとは…、死ぬまで捕まらなかったって…、大尉はさっき言いましたよね?笛吹き男は…正体不明のままだし…」

私の話が途切れるのを待って、ミオは恐る恐る口を開いた。

「そうだ。199人も殺して喰らっておきながら、法で裁かれる事は無かった。彼が手にかけた少年達の数も顔ぶれも、警察

は半分以上把握していない。そして今でもなお、彼が連続殺人を犯していた事は世間に知られていない」

「彼は…、どうして死んだんですか?それに…」

ミオは質問に次いで発しかけた言葉を、途中で飲み込んだ。

訊きたかった事が何なのかは判る。

どうして私が世間で知られていない、ブライアン・ハーディーが異常快楽殺人者だったというその事を、そしてその犯行の

子細を知っているのかという事…。それが、ミオが言わずに飲み込んだ疑問だろう。

それについてもおいおい話すが、まずはブライアンの最後の犯行…、いや、彼にとって最初で最後、たった一回だけ未遂に

終わったその事件と、彼の最期について話してゆこう。



今から六年前。捕まる事も殺しを止める事もなく変わらぬ生活を続けていたブライアンは、練習見学ツアーにやって来た、

とある懇意にしている家族と、スタジアム内のラウンジで顔を合わせていた。

辛い事を思い出すはずなのに何度も見学に来てくれてありがたい。来シーズンも期待に応えられるよう頑張るので、変わら

ず応援して欲しい。

ブライアンはそんな事をその家族に告げた。

自分が長男を喰ったにも関わらず、それをおくびにも出さない神妙な顔付きで。

行方不明の少年に関わる情報提供の呼びかけで、揃ってマスコミに取り上げられた事もあり、ブライアンとこの家族はそれ

なりに交流を持っていた。

もっともブライアンには、自分のファンの中の悲運な家族という認識は無い。

交流を保っていたのは、そんな普通の心遣いからでは決して無い。

ブライアンが殺し、犯し、喰らったあの少年の弟…、その一家の次男は、失踪当時の兄と同じ歳になろうとしていた。

彼は待っていたのだ。会うたびに兄と似て行く弟が、かつて自分を楽しませ、血肉の一部となってくれた少年と瓜二つに成

長する…、「食べ頃」になるその時を…。



「うっ!」

呻いたミオが、口元を手で覆った。

吐き気がするのか背を丸めており、首周りから頭頂部まで、見えている範囲の被毛は全て逆立っていた。

「…少し、休憩を入れるか」

私はそう告げて、ミオの返事を待たずに水差しを手に取る。

喉が渇いていた。元々あまり多弁でない私にとって、これはかなりの長話だった。

コップ一杯の水を飲み干した私は、ミオにも勧めてみたが、飲みたくないほど気分が悪いらしく、黙って首を横に振った。

ミオの瞳には、今や嫌悪と恐れだけでなく、疑惑の光も浮かんでいた。

喉を湿らせた私は、発汗と動悸が激しいミオの状態をそれとなく確認し、とりあえず卒倒したりはしないだろうと判断して

から話を再開した。



拉致のチャンスはいくらでもあった。

両親はブライアンを信じ切っていた上に、少年もまたブライアンとチームの熱烈なファンだった。

たまには車に乗せてドライブに、時には遊園地に連れて行ったりもしていた。

まだ獣人蔑視意識が刷り込まれていない子供達には非常に人気があるブライアンは、遊園地に行けば注目の的で、着ぐるみ

のように子供達に群がられていた。

そんなブライアンを丸一日独り占めできる事を、少年が喜ばないはずもない。

喜びはしゃぐ少年と、優しくエスコートするブライアンの姿は、周囲には、まるで少し歳の離れた兄弟のように見えていた

事だろう。

だからその日、計画実行を決意したブライアンが唐突に訪れ、ベースボールのナイターゲーム観戦に誘った際も、少年は疑

いもしなかった。

テストを控えたこの時期、両親に許可を求めても、おそらく首を縦に振らないだろう。

少年はそうブライアンに言われるがまま、彼の入れ知恵で、友人の家でテスト勉強をすると書き置きし、車に乗った。

自分の手で書かされたその書置きが、ブライアンの偽装工作の一環である事など、当然疑いもせずに。

だが、一向に裁かれないブライアンに業を煮やしたのか、この日天が裁きを下した。

天気予報に反してその日は夕刻から大雨となり、天候は荒れに荒れた。

ワイパーも役に立たない激しい雨で、やむなくブライアンはパーキングに入った。

彼を兄のように慕う少年は、上着を傘のように広げ、自分の脇にしがみつかせて雨から守ってくれたブライアンの行為を無

邪気に喜んだ。

殺すつもりではあったが、しかしブライアンの殺意は少年には察知できない。

結局犯して殺害して喰らうつもりでも、ブライアンは心の底から少年を愛していた。

歪んではいたが、確かに愛していたのだ。それまでに殺した199人と同じように…。

パーキングのレストランで悪天候によるゲームの中止の報を聞き、少年は残念がった。

ブライアンもまた本心から残念がった。最期には苦痛に歪ませる事になるとしても、その前に少年の喜ぶ顔を見ておきたかっ

たから。

だが、この悪天候を喜んだ者達も居た。

それは、密かにブライアンを追跡していた者達だ。

警察でも突き止められなかった、一繋ぎにできなかった、模倣犯による偽物すら混じった、夥しい数の少年達の失踪事件…。

これを完璧に調べ上げたある非合法組織は、ブライアンを密かに見定めようとしていた。

彼がトイレに立った隙に、客を装って様子を見ていたその赤髪の女は、ペンシル型の通信装置で仲間に合図を送っていたが、

誰にも見咎められはしなかった。

そして、一人席に残されクリームソーダを啜る少年は、知る由も無かった。

それっきり二度とブライアンが帰って来ない事も、知らぬ間に自分が命拾いした事も。

トイレに入ったブライアンは、ゲームが中止になった今、最後に何をして少年を喜ばせようか考えていた。

そして、希代の殺人鬼にして無敵のラインマンは、少年の喜ぶ顔を思い浮かべ、にやけながら用を足していた最中に背後か

ら忍び寄られる。

ジッパーを上げ、便器から離れようとしたその時、彼は初めて気付いた。

いつの間にかすぐ後ろに、自分にも匹敵するほど大柄な誰かが立っていた事に。

トイレには誰も居なかったはず。ドアが開閉したのにも気付かなかった。

しかし彼が驚くよりも早く、突き出た腹に何かが押し当てられた。

警棒にも見えるそれは、接触すると同時に先端から何らかの液体を滲み出させ、ブライアンは冷たいその感触を味わうか否

かの内に、電気ショックで四肢を突っ張らせ、次いでくずおれ、汚れたトイレの床に棒のように倒れた。

衝撃で体が動かないブライアンは、仰向けになったまま、自分を見下ろしているその男の顔を確認する。

筋肉の塊のような、自分と背丈が変わらないほどに大柄な灰色の馬の顔を。

「貴様のような屑でも、我らには必要だ」

無表情に、しかし目と声に宿した不快さは隠そうともせず、灰色の大馬はブライアンに語りかけた。

「貴様を元に造られる者が、貴様とは違う、気高き魂を宿した戦士となる事を願って止まない」

灰色の馬はそう言いつつ、ブライアンの喉に手をかけた。

「祈る神を持つならば懺悔しろ。ただし、祈りの時間は極めて短いがな」

灰馬の手は、ブライアンの首を一気に締め上げた。

いかに強靱でも所詮は一般人。最高傑作とされるエインフェリアの膂力に耐えられる肉体ではない。

ブライアンの喉はグシャリと音を立て、一瞬で潰れた。

ブライアンは自分がそれまでそうして来たように、首を絞められ、気管と頸骨を握り潰されて、三十二年の生涯を終えた。

倒錯したその性癖がそうさせたのか、喉を潰されるその瞬間、ブライアンは喜悦の表情を浮かべ、射精していた。

…もう判っただろうが、ブライアンの悪行に気付き、監視していたその組織は、他でも無い我らラグナロクだ。

ブライアンはその日まで数ヶ月間、ラグナロクに監視されていた。

エインフェリアの素体としてふさわしい、最高のポテンシャルを持つ存在として…。

ブライアンを確実に入手すべく投入された上級特殊工作員…つまりゲルヒルデ隊長と、エージェント、スレイプニルは、予

定通り彼の死体を確保し、帰投した。

何も知らぬままただ一人残された少年は、しばらく経った後にブライアンが帰って来ない事を訝しみ、店主に訴えてトイレ

などで確認を取り、彼が消えた事が公になった。

そして笛吹き男ブライアン・ハーディーは、彼が殺した199人の少年達同様に行方不明扱いとなり、今に至る…。



長い長い話を終えた私は、いつしかその視線を、太腿の上に置いた自分の手に注いでいた。

ゆっくりと視線を上げ、ミオの目を見た私は、そこに予想通りの物を認める。

ミオの目は、限界まで見開かれて、私の顔を映していた。

「もう、判っただろう」

私はミオに語りかける。

私がこの話をした意味が…、ブライアンという男が「何に」なったのかが…、察せられない程ミオは鈍くない。

「た…、大尉は…」

ミオは掠れた声を漏らす。喉が干上がっているのか、隙間風のような乾いた声だった。

「そうだ。君の目の前にいるエインフェリア、ハティ・ガルムは、異常快楽殺人鬼、笛吹き男ブライアン・ハーディーの死体

から造られた」

私はミオから視線を外し、コップに水を注いだ。

「これで判ったな?私は、君が慕うような存在では無い」

コップを差し出す私の手を、ミオは大きく見開いた目で見遣り、そしてまた私の顔に視線を戻す。

喉は渇いているはずなのだが、手を伸ばそうとはしなかった。…当然だが…。

私は望んでこの話をしておきながら、おそらく今は…そう、いささか残念な気分になっている。

だがこれでいい。ミオはもう私を慕う事はないだろう。未練無く新たな任務に就く事ができるはずだ。

「…け…けどっ…」

ミオは掠れ声を発し、少し噎せた。やはり喉が乾燥しているのだろう。

「けど大尉は前に教えてくれましたよね?エインフェリアは素体になったひとの事を教えられはするけれど、決して本人じゃ

ないって…。知識として素体のひとを知っているだけで、人格は違うし記憶も…」

「本来はそうだ」

縋る物でも探すように、記憶を手繰りながら早口に言ったミオを、私は一言で遮った。

「本来は…?」

「そう。本来は」

頷いた私の顔を見つめながら、ミオは「本…来…」と繰り返す。

その瞳に理解の色が浮かぶまで、そう時間はかからなかった。

どうやら思い出したらしい。

私が、どう考えても本人以外知り得ないような事柄…、ブライアンの心中についてまで、細かに話していた事を。

「た…、大尉は…、もしかして…?」

躊躇いがちに声を発したミオに、私は淡々と応じた。

「ブライアン・ハーディーの記憶、そのほぼ全体を引き継いでいる」

…それが、私がこれまで伏してきた秘密の正体だ。