私の「好き」は誰かを殺す(後編)

イレギュラーという物は、何処にでも、何にでも存在する。

私が中枢直属のエージェントに不適合とされたのは、おそらくこの可能性が怪しまれたからだろう。

エインフェリアが素体の記憶を持つ事は、組織にとって極めて不都合だ。

本来ならばエインフェリアは、ラグナロクの外の社会を知らず、ラグナロクの常識内で生きる、生まれながらの兵士だ。

己はそういう存在なのだと捉え、生き方に、死に方に、疑問を差し挟むような事はない。

しかし、平穏な生活を「知っている」となれば、自分が組み込まれている体制や自分を取巻く環境に疑問を持ちかねない。

記憶を引き継いだエインフェリアが、素体が生活していた日の当たる場所での生活に、自由に、快楽に、そして家族や友人

に焦がれてしまったならば、どうなるだろうか?

ラグナロクによって殺された記憶まで受け継ぎ、素体と今の自分の人生を繋げて捉え、組織に反感を抱いたらどうなるだろ

うか?

反逆する可能性は、否めない。

故に、記憶を持つエインフェリアなどという不安定で危険な存在が居ると知れば、組織が見逃す訳がない。

私はおそらくマークされていたが故に遠ざけられ、グレイブに来たと思っていたのだが…。

昇進の話が来たという事は、疑いが晴れたのか?

それとも私が考えすぎていただけで、そもそも勘ぐられてもいなかったのか?

どちらにせよ、今後も引き続き慎重に動かねばならないだろうが…。

私がブライアンの記憶をほぼ完全な形で引き継いでいるという事、そしてそれはエインフェリアとして重大な欠陥にあたる

のだという事を説明している間に、ミオは徐々に顔を下げ、やがて完全に俯いた。

ミオは聞きたくないだろうが、私は話を続ける。今を逃せば機会は無い。徹底的に教えておくべきなのだ。

私が指揮を執る際に活用している計画性、柔軟さ、洞察力は、その多くがブライアンの犯行に用いられていた犯罪技巧の応

用だ。

感情が乏しい私が他者の心理を窺い、見越した行動を取ることができるのは、素体の記憶を持っているからに他ならない。

それだけではない、ブライアンが犯した199回の異常な殺人…、彼がそれらで体験した快感や、細やかな感情の動きまで

もが、私には思い出せる。

この手で絞め殺した、少年達の首の感触を、温もりを、嘆きを、表情を…。

殺さずにはいられない、体の中心から突き上げてくる強い疼きと乾きまでも…。

私はこの記憶が嫌いだった。だが、忘れる事ができるようなおぼろげな記憶でもなかった。

それらの記憶も、データと何ら変わりないと割り切る事もできる。

いや、実際にある程度は割り切れていた。

…少なくとも、ミオと出会うまでは…。

説明を終えた私は、俯いたままのミオの頭を眺める。

この少年と出会って以来感じるようになった、微細にして不可解な感情の揺れ…。

当初の私は、ミオがあまりにも兵士としてなっていないが故に、苛立ちのような物を感じているのだろうと自己分析してい

た。あるいは、心配や不安、そういった類の感情に近い何かであろうと…。

だが、私はいつしかその感覚に疑問を抱き、それは時を追うごとに深まった。

今は小さなこの感情の揺らぎは、もしかしたら、ブライアンが抱いていた忌まわしい衝動の一種なのでは無いかと…。

無いとは言い切れないのだ。

これだけ完全に記憶を引きついでおきながら、ブライアンの影響が都合の良い方にだけ現れると考える事自体おかしい。

ブライアンの記憶が、少年兵であるミオとの出会いで影響力をより強めて、私を変えて来ているのかもしれない。

そう。私はいずれ「笛吹き男」になってしまうかもしれないのだ。

長い沈黙の後、私は口を開いた。

「…私の「好き」は誰かを殺す…。だから、君はこれ以上私を…私の中のブライアンを刺激してはいけない」

私の言葉が終わると、しばし黙り込んでいたミオはゆっくりと顔を上げた。

「で、でも…、でも大尉は大尉で…、そのひと本人じゃなくて…」

まだ縋るような声を、言葉を吐くミオの前で、私は立ち上がった。

「私を見ろ」

両手をだらりと体の脇に垂らし、私は自然体で立つ。

ミオの視線がまず私の顔に向き、次いで下へ動いた。

足を、腿を、腰を、腹を、胸を、首を、そしてまた顔を、ゆっくり足元から登ったミオの視線が撫でてゆく。

「判るか、ミオ」

「はい?」

困惑している少年に向かって、私はゆっくり足を踏み出した。

「よく見るのだミオ、私の姿を」

少年は戸惑っているような表情を浮かべ、私の顔を見つめている。

その目には、怯えが潜んでいた。

恐怖と嫌悪。私が期待したとおりの光だ。

私はミオのすぐ前で足を止め、怯えが表情にまで出始めた少年の顔を見下ろす。

「とくと見ろ。199人の少年を犯して殺した、歪んだ衝動を宿す悪鬼の姿を。199人の少年を喰らい、その血肉で肥え太っ

た、醜悪で呪わしい私の姿を」

囁くようにそう言って、私はミオの手を取った。

「ひっ!」

ミオは小さく悲鳴を上げて腕を引き、尻を浮かせ、私から逃れるように体を横へずらした。

恐怖からだろう。全身の被毛が逆立って、大きく見開かれた目は涙で潤んでいる。

どうやら、彼にもようやく実感できたようだ。

自分の目の前に居る者が、史上最悪級の猟奇殺人鬼…そのリメイク品だという事が。

「判ったかミオ?私が「何」なのか、判ったか?」

私はずいっと身を乗り出した。

「もしかしたら私も君を殺し、喰らうかもしれないと、判ったか?」

ついに耐えられなくなったのか、畳み掛ける私の前から、ミオは転ぶようにして部屋の中央へと逃れて行った。

怯え、竦み、震えている小柄な少年に向かって、私はまた足を踏み出した。

ミオは「ひっ!」と声を漏らして後ずさると、背中からドアに当たる。

そして、振り向いてドアを確認するなり、慌ててドアを開けた。

ゆっくり歩み寄っていた私は、目の前で大きな音を立てて閉ざされたドアを見つめ、やがて施錠した。

一目散に廊下を走って逃げ去って行くミオの姿が、はっきりと思い浮かんだ。

少々脅かしすぎただろうか?…いや、これで良いのだ。これで…。

踵を返してベッドに腰かけた私は、乗せた手に温もりを感じた。

手を置いたそこは、偶然にもミオが座っていた位置だ。

望んで遠ざけたにも関わらず、私は胸の中に隙間風が吹き込んでいるような気分を味わった。

これで良かったはずなのに、おかしな事だ。

私は灯りを消しもせず、そのままベッドに横になる。

だが、先程デカルド中尉やスコルと共に口にしたウイスキーは、眠気をもたらしてはくれなかった。



横になってから三時間ほどが過ぎた。

一向に眠くならないまま、私は天井を見上げている。

ミオの怯えた目が、恐れの表情が、私の目に焼き付いて離れない。

私がそう望んで引き出したはずのそれらは、予想以上に…。

悪いことをした…。そう思う。

最初からもう少し距離を置くべきだったのだ。

ところが私はミオに余計な期待を抱かせてしまった。

その結果、こうして自らの正体を晒し、強引に突き放す事になった。

私は寝返りを打ち、壁側を向く。

もうじきお別れになる、染みや細かな凹凸まで見慣れてしまった壁をしばし眺め、目を閉じようとした私は、ノックの音に

耳を動かした。

弱々しい、控えめなノック。

そのリズムだけで、来訪者が誰なのかは判った。

横臥したまま私は考える。応対すべきか。それとも狸寝入りを決め込むべきか。

私は後者を選ぼうとしたが、しばし間を置いて二度目のノックが響き、次いで三度目のノックが鼓膜を揺すり、立ち去る様

子が無いと感じて、ついに諦めた。

体を起こし、ベッドから降りる。

僅か数メートルのドアまでの距離が、何と長い事か…。

私はドアの前に立つと、ノブについている簡素な鍵を外した。

ドアが、訪問者の手によってゆっくりと開けられる。

控えめに、窺うように、半端に開いたドアの隙間から私を見上げているのは、分かり切っていたが、アメリカンショートヘ

アの顔…。

「た…、大尉…」

掠れた声で呟いたミオは、一度目を伏せて押し黙ると、意を決したように私の目を見つめてきた。

「もう一度…、もう少しだけ…、お話をさせて貰えませんか…?」

数時間を置いて再び見たミオの眼差しは、私が予期していた物とは少し違っていた。

恐れ…は、少しは窺える。だが、それ以上にその目を輝かせているのは…、これは…、決意…だろうか?

数時間の間に何を考え、何を思ったのだろう?無言で見下ろす私の話し合いを拒絶する態度を見てもなお、ミオは引き下が

るそぶりを見せない。

ドアを開けたまま立ち話できる内容ではない。私は仕方なく踵を返し、ドアの前を空けた。

ミオは途端に部屋へするりと滑り込み、通路を見回して誰かに見られていないか確認してからドアを閉め、施錠した。

ゆっくりと向き直ったミオは、再び椅子に座った私に、ぺこりと頭を下げた。

「さ、さっきは…、あんな風に出て行って…、済みませんでした…」

君が謝るべき事ではない。私がそう望んで、そうなるようし向けたのだから。

…とは思ったが、私は声に出さず、表情も変えず、ミオの視線を正面から受け止める。

やはり少々おどおどしてはいるが、先刻ほど強い恐怖は抱いていないらしい。目を逸らさずに私を見つめている。

一体どんな事を考え、どう受け止め、そしてまたここへやって来たのだろうか?

私が思慮に暮れている間に、ミオはツカツカと足早に歩み寄ると、すぐ目の前で足を止めた。

立っているミオは、しかしそれでも座っている私より僅かに目線が低い。

少し見上げるような形で私の目を見つめたミオは、予期せぬ行動に出た。

両手を広げ、私の首に腕を回し、体を預けるようにして抱きついて来たのだ。

完全に予想外だった。

触れる事は勿論、同じ部屋に居ることすら忌まわしいと感じているだろうに、ミオは事もあろうに私に密着してきたのだ。

「まだ判らないのか?私は君を…」

「殺したくなったら、殺して下さい大尉っ!」

私の耳元で、ミオは声を上げた。

悲鳴のような、高く、そして微かに震えているその声は、私の鼓膜を強く震わせる。

「ぼくの命は、大尉に拾ってもらいました…」

「蘇生については運が良かっただけだ。私のドレッドノートは本来あのような用途で用いる能力ではない。君の場合はたまた

ま拾えただけに過ぎない」

何を余計な事まで口走っているのだろう?私はそう自問しつつも、ミオの手をふりほどく事もせず、少年の温もりを感じて

いる。

私は悟った。

言うべき事を言い尽くした今、ミオを遠ざける為の十分なカードは、もう手元に無い。

だから私は、余計なことまで喋って、少年の言葉をはぐらかそうとしているのだ。…姑息だな、ハティよ…。

ミオは震えていた。恐れで、緊張で、小刻みに震えていた。だがそれでも私から身を離そうとはしない。

鼓動の高鳴りが、呼吸の乱れが、少年の内心を私に伝えてくる。

ミオは恐慌状態に陥ってもおかしくないほどの恐怖と緊張を抱えている。

忌避と嫌悪を抱えながらも、必死にそれらを押し殺し、私にしがみついている。

「単純に…、蘇生の事だけじゃ無いんです…!命も…、生きる希望も…、誰かを慕う事も…、居場所もっ…!全部全部、大尉

がくれたんです!」

ミオは叫ぶ。私の耳元で。声と体を震わせながら。

健気だと感じた。

ミオが及んでいる行為は、自分を取って食うかもしれない、忌まわしくおぞましい蛇蝎の如き怪物に、無防備に抱きついて

いるに等しい行為だ。

本当ならばすぐにでも身を離し、距離を取り、できれば顔も見たくないだろうに、それでもミオは必死に我慢し、私に抱き

ついている。

何が少年をそうまでさせるのか、私には理解しかねたが、それでもその必死さは伝わって来る。

「ぼくの命は大尉の物です…!大尉が全部くれたんだから、誰が何て言ったって大尉の物なんです…!だから…、だから文句

なんて言いません!我慢できなくなったら、ぼくを殺して下さい!」

首に巻き付いたか細い腕が、震えながら力を強めた。

何を言えば良い?

こうまで愚直に己を差し出す少年に、私は何を言えば良い?

ミオが本気だという事は解る。少年は本気で、私に殺されても構わないと考えている。

そして、それと同じだけ、私を信じようとしている。

私が殺人鬼ブライアンとは別物だと、必死に自分に言い聞かせ、信じようとしている。

半ば脅しでああ言った私自身には、今のところミオを殺したいというような衝動は自覚できていない。

それが、今の私には弱みとなった。

そうなるかもしれない…、という仮定で脅しをかけた私に対し、ミオの決意は本物なのだ。

私を信じる。そして、脅し通りに私に殺されても構わない。…そんな強い決意は偽りの無い物だ。

それを覆すだけの強い説得材料は、もはや私には残っていない。

言葉も出ない私に抱きついたまま、ミオは鼻を啜った。

「大尉…、ごめんなさい…!」

何故謝る?そう声をかけそうになったが、私は飲み込んだ。

「大尉は…、ずっと我慢して来たんですね…?記憶に負けないように、徹底的に闘って来たんですね…?自分はブライアンっ

て人とは違うって…、だから大尉は…、誰も殺さないんだ…」

しゃっくり混じりのその言葉で、私は殴られたような衝撃を味わった。

自覚していなかった。

全く気付いていなかった。

だがすぐさま確信した。ミオの言葉は、真実を言い当てていると。

そう、きっと私はブライアンという素体を忌むが故に、安易に命を奪う事を良しとしなかったのだ。

それはささやかな抗いだが、ハティ・ガルムという自分を確立させるために、私にとっては必要な儀式だったのだ。

自分はブライアンとは違う…。そう思い込みたいが故に、私は…。

ミオが鼻をすする音が、耳元で大きく響いた。

「大尉は…、そんなに辛かったのに…、ずっと戦ってたのに…、そんなの全然見せないで…!なのにぼくは…、ぼくは…、頼

るばかりで…!甘えてばかりで…!さっきだって…!お礼って言いながら、本当は自分の為にっ…!ごめんなさい大尉…!大

変だったんですよね…?辛かったんですよね…?解ってあげられなくて、ごめんなさい大尉…!」

ミオは私に抱きついたまま、嗚咽を漏らし始めた。

「可哀相に…!大尉、可哀相に…!ずっとずっと、ひとりぼっちで戦ってたんだ…!敵だらけの世界で、敵だらけの戦場で、

自分の中にまで敵を抱えて…!なのに誰にも「助けて」って言わないで…!可哀相に、大尉…!」

可哀相…?私が…?

一般的に言えばかなり不遇であるミオに、泣きながら同情され、私は戸惑った。

そして、気分が悪くなった。

ミオに同情して貰えるほど、私はこの事を重荷に感じていたか?

ミオに泣いて貰えるほど、私はこの事で思い悩んでいたか?

ミオにここまでさせておきながら、私は今まで、どの程度本気でこの子の事を考えてきた?

嫌悪と恐怖を押し殺してまでミオが寄せてくれた同情に対し、私の実情は不釣り合いなほどに矮小に思えて、気分が悪くなっ

た。

…私は本来、ミオに可哀相だと同情して貰えるような存在ではないのに…。

私は自覚した。この少年に対して感じる、愛おしさと申し訳なさを。

それは危険な兆候だと察し、即座に身を固くする。

この落ち着かない気持ちが、いつ殺害衝動に変化するか判らないのだ。

ブライアンが、殺すつもりの少年達に対してそうであったように、今の私はミオに対して強い好意を抱いている。

皮肉にも、初めて自分自身で味わうその感覚は、私に恐怖に近い嫌悪をもたらした。

「大尉…!ねぇ、大尉…!」

ミオは泣きじゃくりながら、嗚咽混じりの声を上げた。

「大尉は…!大尉は負けませんよ…!ブライアンなんてひとに負けたりしません!これまでと同じで…、絶対に…、絶対に負

けたりしません…!」

滴った涙だろうか?私の肩、ミオの顎が触れている部位が、じわりと湿った。

私はいつのまにか上げていた両手を…、無意識にミオの背に回そうとしていた両腕を…、宙で止め、自問した。

その手は何だ?ハティ・ガルム。

お前はその腕でミオをどうする?

お前はミオをどう思っている?

お前の「好き」は、その子を殺すのではないか?

しばし宙で彷徨わせた腕を、私は意を決してミオの体に回した。

ビクッと、ミオの体が震えた。

だが少年は嫌悪と恐怖を押し殺し、必死に我慢して、私から離れまいと腕に力を込める。

背を押してくれたのは、ミオの言葉だった。

私はブライアンに負けない。

ミオが口にしたそれは、何の根拠もない言葉だったが、その一言は私に自信をくれた。

誰にも打ち明けずに来たが故に、誰の意見も聞けなかった私は、今日この日、初めて他者の言葉を受けた。

同情と励ましの言葉…、自覚は無かったが、きっと渇望すらしていたのだろう言葉を…。

頼りないほど細く、柔らかく、少し力を込めればぐにゃりと折れ曲がってしまいそうなミオの体を、私はその温もりと共に

抱きしめる。

…この気持ちは…、おそらく感謝なのだろう。

私の成り立ちを知ってもなお、恐怖と嫌悪を必死に押し殺し、慕ってくれ、同情し、励ましてさえくれたミオへの…。

何と繊細なのだろう?何と心優しいのだろう?

理解と共感。戦場では時に禁物となる同情心を、この少年は持ち合わせてしまっている。

兵士としては失敗作なのだろうが、それでもこの少年の心は、今の私には何物にも換え難い宝のように思えた…。

私はミオを抱いたまま、その耳元へ訊ねる。

「私が、怖くはないのか?」

「ぜ、ぜんぜん…!」

「私を、嫌悪しないのか?」

「しませんっ!絶対にしませんっ!」

ミオは小気味良いほど明快に即答する。

間違いなく強がり混じりではあったが、しかしそうありたいと願ってくれているのだろう。どこか自分に言い聞かせている

ような返答でもあった。

そして私は…、その答えに、心の底から安堵していた。

作戦は失敗だった。

この話をすれば、ミオの方から私を避けるようにし向けられると確信していたのだが、ミオは私の予想を遙かに越えて頑固

だった。

目論見通りに事が運ばなかったというのに、一体何なのだろうか?この不思議な気分は…。

…そう、これはきっと安堵だ…。

私は、ミオに嫌われなかった事で安堵しているのだ。

何たる軟弱な精神だハティよ。お前はそれでもラグナロクの将校か?

まったくもって救い難い、どこまでも半端な男だな、私は…。

私はミオをそっと離し、代わりに腰を抱き寄せ、右脚に座らせた。

私の大腿は太く、膝を立てた脚は椅子代わりに丁度良い。小さなミオの尻は余裕を持って私の太腿に乗っている。

相変わらず身を硬くしているミオの顔は、涙と鼻水でぐしょぐしょになり、酷い有様だった。

机の上からナプキンを取って渡してやると、少年は盛大な音を立てて鼻をかむ。

「ミオ。ついでにもう一つ、話しておかなければならない事がある」

近距離から顔を覗き込む私に、ミオは神妙な顔で頷いた。

もはや何を聞かされてもどうという事はない…。そんな決意すら見て取れる、良い顔付きだ。

「私が素体の記憶を持っている事は秘密だ。誰にも言わないで欲しい。もしも知られれば私の立場は非常にまずくなる」

「はい…!」

ミオは即座に頷き、私は軽く肩を竦めた。

「これ以上の左遷はさすがに無いが…、昇格取り消しは惜しいし、降格させられても少々困る」

本当に知られたら昇格取り消しどころではないのだが、私が冗談めかして言うと、ミオは口元を綻ばせた。

「そ、それじゃあっ、何があっても秘密ですねっ!大尉が出世できなくなったら困ります!」

まじめ腐った顔でそう言ったミオは、少し硬い笑みを浮かべた。

「大尉にはもっと偉くなって貰って、いつかまたぼくを部下に呼んで貰うんですから。絶対秘密です!」

…いつかまた…か…。

そうだな、またミオを傍に置ける日…、そんな日が来る事を、当面の生きる理由にしてみるのも悪くないかもしれない。

「…ありがとう、ミオ」

礼を言った私の顔を、ミオは驚いたような表情を浮かべて見つめた。

「どうした?」

訊ねる私に、ミオは「あ…、いえ…」と、少し口ごもりながら応じる。

「大尉の笑った顔…、初めて見ました…」

私は今、笑っているのか?

…私にも、笑うことができたのか…。

そうか、笑えるのだな、私のような者でも…。

「鏡が無いのが残念だ。どんな顔で笑うのか見てみたかったが…」

首を巡らせて部屋を見回し、ひとりごちた私に、

「ステキな笑顔ですよ。とっても優しそうな!」

ミオは耳を倒して愛らしく笑いながら、そう説明してくれた。



ベッドに横たわる私の右腕に、ミオがしがみついている。

あどけない顔で熟睡している少年の、柔らかで頼りない温もりを感じながら、私は夜明けの訪れを待っていた。

結局、私は妥協してしまった。

あまりにもミオが熱心に迫るので、宿泊と添い寝を許したのだ。…一度だけなら、この程度の甘やかしも許容範囲か…。

それに何より、私自身嬉しかったというのが、折れた理由の一つかもしれない。

私への嫌悪感と恐怖感を完全に拭い切れてはいないはずのミオが、それらを押し隠してかなり無理をしているのは判ったが、

強がる少年の私への気遣いが、「平気だ」と行動で主張してくれている事が、私には嬉しかった。

お互い、これからどうするか?

ミオは眠りに落ちるまで、ずっとそんな事を語っていた。

いつか私が昇進し、人事にある程度干渉できる程になれたら、部下として引き抜いて貰う…。

ミオは行く手にそんな希望を見出し、これからの日々を歩んでいく決心がついたそうだ。

そんな日が来る事を想像すると、私も少しばかり気分が良い。

以前エンリケに、ミオの事が気に入っているのだろう?と指摘された際、私は頭のどこかで、ミオの容姿にブライアンとし

ての記憶が反応しているのではないかと考えていた。

それは、ミオが実に笛吹き男が好みそうな外見年齢と容姿をしていたからだ。

それ故に、あの時は当然認める事ができずに否定したが、今なら判る。

彼が言うとおり、私はミオを気に入っているのだ。

あまりにも簡単に散ってしまいそうな、場違いに咲いた弱々しい華…。

戦場において価値は無く、邪魔にさえされ、蹂躙されるのを待つだけの無力で脆弱な存在…。

あまりにも不似合いだからこそ、場違いだからこそ、私はミオに生き延びて欲しいと思っている。

この少年の兵士らしからぬところが、私に様々な事を教えてくれる。

ミオは、希有な存在だ。能力を抜きにしてそう思う。

兵士として、兵器として、戦う事を目的に生み出された消耗品でありながら、誰よりも戦闘に不向きな体と心を授かった少

年…。

今の私には、ミオがこんな人格を持って誕生したその事が、天啓のようにも思えている。

私のような者は、平和な世の中、安定した社会の中では、おそらくまともに生きられない。

だがきっと、ミオは今の状態でも、今の世界と折り合いをつけてやって行く事ができる。

人造生物という人権を持たない存在である事を除けば、一般社会で普通に生きてゆける。

ミオは本来、ラグナロクの外に、あるいは戦の無くなった後の世に、ごくごく普通の存在として生まれるべき少年だったの

ではないだろうか?

何の因果か生まれる場所を誤ったか、生まれるのが早過ぎただけで、彼の在りようはおそらく、これでも正しいのだろう。

願わくは、その日が来るまでミオに生き延びて貰いたい。

本来自分が生きるべき世が訪れた後に、精一杯生を謳歌して欲しい。

戦う理由を見つけられず、惰性で生きてきた私は今、ようやく明確なヴィジョンを持った。

戦いを終わらせる為に戦う。その為に、私は生きる。

いずれ来る、政府連合を相手取っての、既存の世界全てを敵とする大戦で勝利し、生き延びる。

今は危険生物と同じ扱いで、いかなる権利も持たないエインフェリア、コピー、その他全ての人造人類…。

我ら「造られし者」の存在を、権利を、人格を、黙殺し続ける世界に、私達もまた人類であると認めさせる。生存権を認め

させる。

これまでは漠然と従って来ただけの、ラグナロクの掲げる大儀…。その目的に尽力するだけの明確な理由を、私はやっと得

る事ができた。

ラグナロクが目的を果たした後の世に、私のような者の居場所があるとは思えないが、この小さく、弱く、そして優しい少

年に、生きる世界を与える為に戦うのは、戦い生き抜く理由としては悪くないだろう。

ミオが身じろぎし、私の腕に絡ませた両腕に力を込めた。

右腕を抱き枕にされているので、少々自由が利かなくて不便だが、不快ではない。

ベッドも少々窮屈で、ミオが落ちてしまわないように気をつけていなければならないが、大して苦でもない。

今のところ、私が与えてやれる物など何もないが、せめて今は望む通りに…。

ミオの寝顔を眺め、満たされた気分とはこういう心境を指すのだろうかと自己分析していた私は、首輪の振動を感じて頭を

切り替える。

ミオは…起きない。少年の首輪は沈黙している。どうやら小隊ではなく私個人への通信のようだ。

首輪に手を添えた私に、振動となって首を伝った声が危急を知らせた。

「…ミオ。起きろ」

私の呼びかけにミオは唸って応じ、寝ぼけたような半眼をこちらへ向けた。

「呼び出しがあった。君は部屋に戻れ」

「呼び出し…、こんな時間に…ですか…?」

両目をグシグシと擦りながら、ミオは私の腕を放して身を起こした。

「すぐに行かなければならない。とにかく部屋に戻って準備だけはしておけ。出撃命令が下る可能性もある」

言い残してミオの足をまたぎ、ベッドを降りた私は、アンダーウェアの上に素早く軍服を纏い、通路に出た。

が、思い直して再び部屋を覗く。

「…いや、眠いならそのまま眠っていても良い。出撃が必要なら皆と同じく通信で起こす。それまで寝ておけ」

「え?」

私のかけた言葉は、提案は、甘かっただろうか?

…まぁ、今ぐらいは良いだろう。上官として一緒に居てやれる今だけは…。

少々意外そうにきょとんとした顔を向けてきたミオを残し、私は部屋を後にした。

危急とはいえ、内容はいつも通り、リッターがベースの傍を通っているなどの警戒喚起だろう。

そんな事を考えていた私は、数分後、予想もしていなかった知らせをゲルヒルデ隊長から受ける事になる。

日本で任務に就いていた第二小隊が壊滅したという知らせを。



歯車は静かに回り、グレイブは壊滅への道を急激に進み始める。

この時の私は知る由もなかったが、この時点で何もかもが、既に手遅れだったのだ…。