互いに立場は違えども(前編)

「腑に落ちないな…」

パイプ椅子に腰を据えた中年の犬獣人は、顔を顰めて呟いた。

薄暗い部屋の片隅、スチールデスクの上に広げたファイルを捲りながら。

県警察本部の地下、資料室の一角での事である。

知的で誠実そうな顔付きの犬中年であった。

写真や図面、地図が貼付された資料を見つめるその目は、思慮深げに細められている。

犬としては平均的な長さのマズルに、ピンと立った耳。

毛並みの良い茶色の被毛は、水を弾く硬めの外毛に、柔らかくきめ細かな白いアンダーの二重構造。

腕や脚の内側や胸と腹、喉は白く、ソックスと手袋を填めているように、臑の半ばまでと手首と肘の丁度真ん中までが白い。

日本犬の雑種ならではの没個性かつ見慣れた風貌は、しかしこの国の人間の多くが考える「犬」らしい外見であった。

シックなグレーのスーツを着込んだ体には、四十歳目前となった今もたるみは一切無く、若い頃から全く変わらずすらりと

引き締まっている。

「何が気になるんだい?警部」

資料室の主、瓶底のような厚いレンズの黒縁眼鏡をかけた初老のニホンザルが、客の好みに合わせた薄いコーヒーを手にし

て歩み寄り、デスクの隅に乗せた。

原則として資料を閲覧しながらの喫煙や飲み食いは禁じられているのだが、猿は長居する客にはこうして便宜を図っている。

曰く、「舌の一つも湿らせなければ、纏まる考えも纏まらない」との事。

好意に甘えて、椅子を引いて少しデスクから身を離してカップを取った犬中年は、空きっ腹に薄いコーヒーを流し込み、一

息つきながらデスクの上を示した。

「その新聞なんですが…」

初老の猿は促されて、コピーされた昨日の朝刊の記事を読む。

他県で起きた交通事故が、赤い蛍光ペンで囲まれて強調されていた。

「なになに…?ふぅん、高速で事故ですか…。ブレーキが利かずにパーキング入り口のガードレールに接触、横転…。ドライ

バーは死亡…。ああ!ニュースでやってましたなぁ。横転しながらパーキングに突っ込んで入り口を塞ぎ、後続車両も巻き込

んだ大事故!この記事はあれの事ですな?」

「ええ…。それでまぁ、少し気になる事が出来まして…」

犬中年はまたコーヒーを啜ると、先を聞きたそうな猿に向かって口を開いた。

「車内に転がっていた空き缶が運悪くブレーキの下に入って、踏み込めなかった。それが、速度を落とし切れずにガードレー

ルへ衝突、さらには横転した原因だそうです。事故車両は常々整頓されていなくて、普段から空き缶が助手席の下などに転が

されていたらしく、事故という判断になりましたが…」

「ふむ?何が気になるんですかな?」

「事故を起こした人物が、です」

犬中年は言葉を一度切ると、「同じ町に住んでいるんですよ、私と」と付け加えた。

「それは…、ご愁傷様です」

「いえ、特別親しい間柄とか、そういう家では無いんですけれどね。…その家、十年ほど前に火事にもあっていまして、その

時には奥さんが亡くなっているんです」

「おやおや…、それはそれは…」

初老の猿は顔を顰め、犬中年はさらに続けた。

「不幸はそれだけではなく、五年前にはお爺さんがベランダから落ちてお亡くなりになって…」

「そして今度は事故で、またご家族が?」

「ええ、次男です」

「それはまた随分と…続きますなぁ…」

初老の猿はますます顔を顰める。

「これで…、ご主人と、二十五歳の長男の二人暮らしになってしまいました」

犬中年はコーヒーを啜って空にすると、資料に視線を向けた。

五年前と十一年前の新聞記事が留められている、二冊のファイルに。

「不幸な事故です。いずれも…」

「確かに、気になる続き具合ですなぁ」

初老の猿は難しい顔で頷き、犬中年は思慮に暮れて目を細める。

昔、火事が起こったその時に馴染みの大男と話した内容が、彼の胸の隅でコトコトと微かに揺れていた。

しかし、乾健之助(いぬいけんのすけ)はまだ気付かない。

結果的に自分が深く関わってゆくその一件が、何本もの糸が複雑に絡み合った、蜘蛛の巣のように危険で、入り組んだ物と

なっている事には。



その日の夜、時計の針が午後八時を示した頃、ケンノスケは知り合いの家を訪ねた。

「おう。ご苦労さん、あがってくんなさい!」

玄関口で出迎えたのは、茶色い被毛を纏う極めて大柄な熊。

身の丈2メートルを超える熊は、色褪せた小豆色のジャージのズボンにタンクトップという部屋着で、ワイシャツにネクタ

イという仕事着のケンノスケとは対照的なくつろいだ格好である。

ごつい体は中年太りでやや弛み、たぷんと出た腹がシャツをむちっと引き延ばしているが、肩も腕も職業柄鍛えられており、

二の腕などは丸太のように太い。

幅も厚みも相撲取りのそれを上回る巨体で、平均よりやや背の高いケンノスケが小柄に見える程である。

「夜分に済みません、ゲンゴロウさん」

「気にしなさんな。こっちも暇を持て余してたとこです」

厳つい顔を緩めて笑うと、ゲンゴロウと呼ばれた巨体の熊は、ケンノスケを促して居間に案内する。

居間のどっしりと大きなテーブルには、事前に電話を受けてから用意したのだろう、冷凍の枝豆と瓶のビールがあてがわれ

ていた。

「よっこいしょぉ」

どっかと座ったゲンゴロウとテーブルを挟んで向き合い、あぐらをかいたケンノスケは、ネクタイと襟元を緩めながら首を

巡らせた。

テレビがついていないせいもあるのだろうが、家の中は随分と静かである。

「今夜は、チアキさんはお出かけですか?…あ、これはどうも…」

グラスにビールを注がれ、ケンノスケは頭を下げる。

「町内旅行で…、ほれ、アクアマリンと灯台の見学ツアーです。一泊の」

「ああ、参加なさったんですか」

ケンノスケがビールを注ぎ返すと、ゲンゴロウは鼻先を指でコリコリと掻きながら苦笑いした。

「相変わらず旅行好きでねぇ。俺ぁ毎度の如くほったらかしですよ」

「さっちゃんも離れているから、チアキさんまで居ないと寂しいでしょう?」

「う〜ん。まぁ時々、静か過ぎるたぁ感じますねぇ。だがまぁ、アンタも知っての通り元々放浪癖があるもんでねぇウチの家

内は。もうすっかり慣れたもんです。そっちはどうです?きっちゃんとはマメに連絡取り合ってんですか?」

「ええ。ほぼ毎晩のように電話をくれますよ。さっちゃんがついてるから心配はしていませんが、やっぱり嬉しい物です」

「だははははっ!ウチの馬鹿息子がついてるったってなぁ!役に立つどころか、勉強の邪魔してんじゃねぇかなぁアイツは!」

「助かっていると言っていますよ。洗濯から掃除から食事の支度までしてくれると…」

「う〜ん…。そいつぁ、チアキがみっちり叩き込んでましたから…。自分が好き勝手に旅行しても、飢え死にしねぇようにっ

て…」

親元を離れて寮生活している互いの息子達の事を話題にしつつ、グラスを軽く上げて乾杯の真似事をした二人は、ぐいっと

グラスを煽って冷えたビールを胃の腑に落とす。

「…で、話を聞きたいっつぅのは、一体何です?」

プハーッと息を吐いたゲンゴロウが、さっそく本題について訊ねると、ケンノスケはグラスを掴んだままテーブルに置いた。

「随分前の話になりますが…、井沢(いさわ)さんのお宅の火事、覚えておいでですか?」

ゲンゴロウは目を細めて「ああ〜…」と声を漏らす。

「勿論覚えてますとも。ありゃあ酷ぇもんだった…」

その家の婦人が亡くなり、子供も軽傷を負った火事を、熊は目を細めて思い出す。

「サツキが幼稚園に行ってた頃だから…、もう十年以上も前か…」



その晩秋の夜中、ゲンゴロウは息子の声で目を覚ました。

「親父!親父っ!」

乱暴にドアを叩く音と切羽詰まったような声が、夢の中でも炎天下で建材と格闘していたゲンゴロウを、真夜中という現実

に引っ張り起こす。

妻と枕を並べて眠っていたゲンゴロウは、目を擦りながら身を起こし、

「何だぁ?サツキがまた寝小便でもしたのかぁ?」

と、不機嫌にがなった。

「違う!燃えてんだよ!」

高いびきで眠っている妻を残し、ぼりぼりと尻を掻きながらドアに向かったゲンゴロウは「サツキが燃えるってな、どうい

う状況でぃ…」と零す。

「頭をサツキから離せ!近所で家が燃えてんだよ!」

ドアを開けたゲンゴロウに噛みつきそうな顔で詰め寄ったのは、はんてんを羽織った大柄な若い熊。

中学三年生とは思えない大人顔負けの立派な体格で、父親と良く似た体型をしている。

貫禄があると言えば聞こえは良いが、とても少年には見えないほど厳ついおっさん面と体つきであった。

その足下には、兄のズボンを片手で掴み、しきりに寝ぼけ眼を擦っている、コロコロと太った熊の男の子。

顔は幼くあどけないが、親譲りの体は、今度の年の瀬で五歳になる幼稚園児にあるまじき大きさ。

そんなナリをしていても甘えん坊で臆病な次男は、泣いていたせいで目の回りが濡れて、茶色い毛が色濃くなっていた。

はんてんを引っかけた親父面の若熊は、父親にかいつまんで状況を説明する。

高校進学を控えたゲンゴロウの長男は、その夜も受験勉強に勤しんでいたのだが、気分転換に窓を開け、冷たい風を吸おう

とした際に、あまり離れていない場所の赤色に気付いたのだと言う。

初めは灯りかと思ったそれが踊っている事に気付き、暗い中で気付き難いが、どうやら煙が上がっているらしい事まで見て

取ると、これは一大事と、大慌てで親に知らせに来たのである。

もっとも、部屋を出る際に、まだ寂しくて一人で眠れない弟が目を覚まし、置いて行かれると思ってわんわん泣いたため、

なだめながら連れて来て少々スタートダッシュが遅れたのだが。

事情を理解したゲンゴロウは、すぐさま両頬を平手で挟み込むように叩き、意識をしゃきっとさせ、寝間着の作務衣を腕捲

りすると、妻を起こして身支度を調えた。

何せ我が家の工務店の資材置き場付近なので、熊一家にとっても他人事ではない。

妻に電話で近くの社員数名へ連絡を入れさせ、バケツをありったけかき集め、連れて行けと言ってきかない長男を伴って現

場へ急行したゲンゴロウは、群がり始めていた野次馬を叱咤し、大人同様に働ける息子と、駆けつけた社員達を率いて、応急

バケツリレーの指揮を執る。

しかし火の回りは早く、部分的に消火するどころか、消防車が来るまでの時間稼ぎで手一杯。

果たして住人は無事なのか?それが気がかりなゲンゴロウは、水を運びながらも大声で呼びかけるが、二階部分が中央から

半分炎に包まれた民家からは答えがない。

しばらくすると炎が強まって近付けなくなってしまい、消火活動はやむなく中断。群衆は家を遠巻きにする。

もしや住人達は運良くそろって外出中かと、親子熊がほっとしかけたのも束の間、騒ぎに気付いて飛び出してきた近所の住

民から、家族皆が家にいるはず、特にインフルエンザで体調を崩した奥さんは寝込んでいるはずだという凶報がもたらされる。

程なく地元消防団が駆けつけて放水を開始したが、炎の勢いは一向に弱まらず、二階部分は完全に炎に飲まれた。

(…なんだこりゃあ…?)

ゲンゴロウが違和感を覚えたのは、その時であった。

厳しい親方に師事して建築のいろはを徹底的に叩き込まれ、若い頃から大小短長いくつもの現場に関わって来たゲンゴロウ

は、この燃え方がいささか奇妙である事に、途中から気付いていた。

そこへ、たった今、放水が始まった途端にたまたま目にした現象が重なり、違和感は一層強まる。

だが、何故「そんな事」が起こるのかが解らない。実際に「そんな事」が起こり得るのかという疑問を覚え、目の錯覚では

ないかと自分の見た物を疑い始める。

その時だった。傍らの倅が「あ!」と声を上げたのは。

「どうした?」

「声だっ!聞こえねぇか親父!?」

若熊は目付きを鋭くし、二階部分が燃え落ちそうな民家を睨む。

小刻みに動き、情景を細かに、隅々まで探ったその目がある一点で止まるまで、そう時間はかからなかった。

「…子供…か!?」

燃えて行く家の呻きと、猛り狂う炎の唸りにかき消されかけた泣き声を、ゲンゴロウも聞いた。

ごうごう唸る炎の音に掻き消されそうな、弱々しくか細いその泣き声が、幼い泣き虫の次男坊の声と重なり、全身の毛がぶ

わっと逆立つ。

「…畜生っ!」

そんな悪態は、ゲンゴロウの真横で上がった。

手にしたバケツを頭上に持ち上げ、逆さまにしてザバッと水を被った若熊は、父の制止が飛ぶより早く、群衆の最前列から

飛び出していた。

「ミヅキ!」

ゲンゴロウの口から悲鳴に近い声が上がったその時には、若熊は生け垣を太い腕で掻き分け、横に渡された木製の支え棒を

腹でへし折り、緑の壁を突き破るようにして庭に侵入していた。

咄嗟の機転で、肩まで捲っていたはんてんの袖を下ろし、後ろ襟を頭の上まで引っ張り上げ、二人羽織の裏方のような格好

になって露出部分を少なくした若熊は、頭上で踊る炎にも全く怯む様子を見せず、猛然と庭を駆け抜ける。

水を吸ったはんてん一つを防火服替わりに、己が身も省みずに。

驚くほど剛胆かつ勇敢な我が子を追って、自らも飛び出そうとしたゲンゴロウは、しかし周囲の社員達にしがみつかれて止

められてしまう。

周囲から悲鳴や制止の声が上がる中、迷い無く駆けた若熊は、その眼差しを、最初からじっと一点に注いでいた。

四枚の雨戸でカバーされた大窓。日当たりが良い位置のそこは庭木などもなく、窓下に踏み台らしき石の足場とサンダルが

ある。

そこが居間だと目星を付けて突進した若熊の耳には、先程よりも明瞭さが増した泣き声が届いている。

考え、そして確信したのである。もしも自分だったなら、追いつめられ、パニックになった際、逃げ場として選ぶのはおそ

らく、家族が揃う機会の多い団欒の場所だろうと。

そして、その確信は正しかった。雨戸越しに呼びかけると、中から漏れ出る泣き声は、一層大きくなったのである。

若熊は雨戸を掴んで揺さぶるが、ロックがかかっているのか、ガタガタ揺れるだけで開かない。

「おい!俺の声は聞こえてっか!?窓ぶち破るから、できるだけ離れてろよっ!」

舞い落ちる火の粉と、爆ぜて落下して来た建材の破片を浴びながら、若熊は大声で怒鳴ると、4メートル程駆け戻る。

そして、ぐっと肩に力を込めて首を縮め、上体を固めて突撃した。

加速を付け、直前で地面を蹴り、飛び込むように肩口からの体当たりを試みた若熊の巨体は、175キロの砲弾に等しい。

連結部にタックルされたトタン製の雨戸二枚は、耳障りなけたたましい音を上げてひしゃげ、内側で壊れたガラスと窓もろ

ともに、居間へと倒れ込んだ。

若熊のタックルによって見通しの良い位置にぽっかりと空いた四角い口から、もうもうと黒い煙が溢れ出し、群衆からどよ

めきが上がる。

破壊して押し倒した雨戸の上で、勢い良くがばっと身を起こした若熊は、居間を見回し人影を探し当てた。

ソファーの脇に蹲り、抱き合って震えているのは、若熊よりやや年下の少年と、おそらく小学校低学年の男の子。

「来い!さっさと逃げんぞ!立てるか?坊主はどうだっ!?」

若熊は煙に噎せながらも、少年を叱咤し、男の子の手を取る。

少年はともかく、男の子は腰が抜けて立てなくなっている事を確認すると、若熊は水を吸って重くなっている丹前を脱いで

被せ、ひょいっと抱え上げた。

「走んぞ!付いて来いっ!」

少年の腕を右手で掴み、左腕一本で男の子を胴に抱えた若熊は、火の粉が舞い散る庭に飛び出し、歓声を浴びながら群衆の

中に駆け込んだ。

拍手が沸き起こる中、消防隊員に少年達を引き渡し、自らも毛布を被せられて後方へ下がらせられた若熊に、ゲンゴロウは

厳しい顔をして歩み寄る。

「無茶にも程があるわっ!」

「いでぇっ!」

周囲の人々が思わず顔を顰めるほど凄まじい音を立て、ゲンゴロウの拳骨が若熊の脳天に炸裂した。

頭を押さえて苦痛に呻く息子の前で、しかしゲンゴロウは直後に相好を崩し、ニカッと笑う。

「良くやった!この馬鹿野郎っ!」

愛情たっぷりの鉄拳を見舞われた若熊は、

「どっちだよクソ親父…!」

涙が目尻に溜まった恨みがましい目つきで、ゲンゴロウを睨め上げた。



一瞬の内に、十年以上も昔の事を鮮明に思い出したゲンゴロウは、心なしか渋い顔になっている。

「…あの火事が、どうかしたんですかい?」

訊ねられたケンノスケは、顎を引いて頷いた。

「何故今になって?と疑問に思われるでしょうが…。あの火事の後、ゲンゴロウさんが言っていた事が急に気になりまして」

「俺が言った事?んん?何か言いましたっけ?」

眉根を寄せたゲンゴロウに、ケンノスケは少し身を乗り出しながら頷く。

「私の記憶違いでなければですが、あの後しばらくして、幼稚園の父兄会の後一緒に飲みに行った時、「燃え方が妙だった」

と、おっしゃっていませんでしたか?」

「ん?あ〜、申し訳ねぇんですが、言ったかどうか覚えちゃあ…。けど、あの時は確かにそう思ったなぁ…」

ゲンゴロウは天井を睨んで記憶を手繰り、ケンノスケは軽く頭を下げる。

「妙だと思った事さえ忘れていらっしゃらなければ、それで結構です。どこが妙だったと感じたのか、教えて頂きたいんです。

覚えている限りでも…」

「忘れもしませんよ、あの家は知り合いの大工が建てたもんでね、吹き抜けにエントランスと、建て方の注文も洒落てたそう

で、ちょいと図面を見せて貰った事があったんだが…」

ゲンゴロウは専門的な知識が必要になる事ははぶき、ケンノスケに要約した説明をおこなった。

「…つまり、建材と間取りの関係から、あの燃え方は不自然だ…と?」

「そういう事です。まぁ風向きや、変わった条件での火の回り方なんかの事は良く解らねぇが、建材の種類と使用箇所からす

りゃあ、燃えにくいはずの所に優先的に火が回ってるみてぇに見えましてね。…おまけに…」

ゲンゴロウは一瞬言いよどみ、ケンノスケは「おまけに?」と先を促した。

「ああいや…、あんな状況だったんだ、俺の目の迷いかもしれねぇが…、放水が始まって二階に水がかかったら、火がおかし

な具合に跳ねたように見えて…」

「おかしな具合?どんな風にです?」

「いやね、水が壁に当たって、こう、跳ねるでしょう?その跳ねた水が落ちた先で…、燃えてるみてぇに見えたんですよ。こ

う、尾っぽを引いて落ちた途端に、そこでポッと火が灯るみてぇに…。そんな事あるんですかねぇ?」

ケンノスケは目を細めて考え込む。

確かに妙な話だとは感じるが、しかし肝の据わったこの古馴染みの事、火災に動転していて見誤ったと簡単に言い切る事は

躊躇われた。

黙したままあれこれ考えを捏ねる馴染みの犬獣人を見遣りながら、ゲンゴロウはビールを注ぎ足してやった。

おそらく、何らかの事件や捜査に繋がるので、今になってそんな昔の事をこねくり回しているのだろうとは思うが、あえて

訊ねる事はしない。

警官であるケンノスケのみならず、親しい相手に「その手」の職に就いている者も幾人か居るので、ゲンゴロウは相手が返

答に困るような事は訊かないようにしている。

訊かれた所で、捜査に関わる事を簡単に漏らせないケンノスケにとっては、その気遣いは有り難い。

しばし考え込んでいたケンノスケは、自分だけでは手に余ると判断して頭を切り換え、話題を世間話に戻す。

その後、ひとまず満足が行くまで歓談し、ケンノスケが帰って行ったのは、日付が変わる直前であった。

(十一年前ねぇ。何だってそんな昔の話を?…そういやぁ、あの一家は今どうしてんだろうな?火事の後、少し離れた年寄り

の親父さん家に越したはずだが、その後爺さんが亡くなったとかでまたどこかに…)

玄関でケンノスケを見送り、タンクトップの胸元に手を突っ込んでモソモソと掻いたゲンゴロウは、脇の電話台に乗った電

話の子機が突然鳴り、まるで音が耳障りだったかのように顔を顰めた。

「何だぁ?こんな時間に…」

真夜中の電話は不吉な知らせを連想させる。

親戚の危篤を知らせる物だったり、知り合いの事故を知らせる物だったり。

無言電話や悪戯電話の可能性もあるが、とにかくあまり良い事が聞けるように思えない。

「「奥さ〜んパンツ何色ですか〜?」な〜んて言いやがったら、しなでも作って「穿いてませぇ〜ん」とか答えてやる」

野太いドラ声でそんな芝居をうたれたなら、さぞかし相手はへこむであろう。

自分で考えている以上に効果的な撃退手段をひっさげて子機を掴んだゲンゴロウは、

『もしもし?夜分遅くに失礼します。クマシロですが…』

「…んお?」

親戚のやや高い澄んだ声を耳にし、顰め面をきょとんとした顔に変えた。



翌朝、かなり早い時間帯。

新聞配達のバイト学生が駆る自転車が通りを行くのを眺めながら、タバコを咥えたゲンゴロウは、鼻穴から紫煙を吹き出さ

せる。

大熊の前には、雑草が生い茂る空き地。

彼が経営している工務店の資材置き場から近いそこは、かつての火災で失われた家が建っていた場所である。

十年以上も買い手がつかず、何度か換えられた看板も、今では木杭が腐って倒れ、草の中に沈んでいた。

以前起こった火災で、住んでいた若い奥さんが焼け死んだとなれば、買い手は付き難い。土地の余っている田舎ではなおの

事買い控えられる。

(ケンノスケさんに続いて、ユウトちゃんまで…。十年以上経った今、あの火事が一体なんだってんだ?)

口に出さず、ゲンゴロウは考える。

昨夜電話をかけてきた親戚の若い女は、建築業に携わるゲンゴロウなら知っているかもしれないと前置きし、ケンノスケが

訊ねたのと同じ件について、何か知っている事は無いかと話を聞きたがった。

相手が相手なので包み隠さず全て話したゲンゴロウは、知り合いの警部も同じ話を聞きに来たと、相手に正直に告げていた。



「立て続けに、しかも知り合いから同じ事を聞かれるなんてなぁ…」

『変だなぁ?この件は交番経由での下請けだけど、県警が別口で動いてるなんて話は聞いてないのに…。そもそも今回はまるっ

きり「こっち」の件だし…』

「個人的に調べ始めたって段階かもなぁ。その警部の名前と連絡先、教えとくかい?」

『はい。できれば…』



ゲンゴロウは昨夜の電話を思い出しながら、作務衣の懐に手を突っ込み、腹巻きの中から携帯灰皿を引っ張り出してタバコ

を入れる。

「何が起きてんのかねぇ…」

呟いた大熊が踵を返してゆっくり歩き去る。

と、路上に止めてあった一見無人に見えるワゴン、その後部貨物スペースで、

「…熊は退散。どうやら、ただ散歩していただけの親父らしい」

無線機を口元に当てた男が、覗き見防止用スクリーンシートが張ってある窓から、遠ざかるゲンゴロウの背中を眺めたまま

呟いた。

『了解。引き続き監視を続行せよ』

ノイズ混じりの音声に「了解」と返し、男は再び空き地を監視し始めた。



(火事…。ベランダからの転落死…。そして今度は交通事故…)

朝の渋滞が起こり始めている県道を車で飛ばしつつ、ケンノスケはこれまでに調べた事を反芻していた。

(三度とも保険金はそれなりの額…。おまけに世帯主は競馬が趣味で、以前から時折少なくない額の借金を抱えていた…。ベ

ランダからの滑落は、手すりが外れた事が原因。交通事故に至っては、直前まで世帯主が乗っていたが、高速に入る前に降り

て次男だけが事故に…)

対向車のボンネットに跳ねた陽光に目を細めた犬中年は、思慮深い眼差しで車の流れを計りながら考え続ける。

(降りる際に空き缶をこっそりと運転席側に転がしておく…。確実ではないが、可能性にかけた殺害方法と見ることも…。ベ

ランダの件は、手すりが外れた事自体を怪しむこともできる。留め具の破損が確認されているが、腐食しての劣化が原因…。

あれも、故意に痛めておく事が可能だろう。塩水などをかけておいて…)

最初は考えすぎかと思ったが、しかし一晩考えても疑惑は薄まらず、むしろ強まるばかりであった。

おまけに、ゲンゴロウから聞いた話が、ケンノスケの直感を刺激している。

(火事だけは確信が持てなかったが、ゲンゴロウさんの話を聞くと怪しいところも窺える…。おまけに火事が起きたあの日、

世帯主は残業で遅くなり、帰って来たのは消火が済んだ後…。アリバイはあるが、その場に居なくとも点火する手段はいくら

でも…)

ウインカーを上げて県警敷地内へ車を乗り入れるケンノスケの表情は、険しい物に変わっていた。

(これまでの三件は、全て殺人ではないのか?あまりにも確実性に乏しいが、いずれも可能性に賭けた犯罪だとしたら?もし

かしたらあの一家の周りでは、他にもいくつか事故めいた事が起きているかもしれない…。失敗による、殺害未遂の産物が…)

駐車場のいつもの位置に車を止め、軽く頭を振り、「まぁ待て、早々と決め付けにかかるな…」と、口に出して自分を戒め

たケンノスケは、

「…あのひとだ。東護にお住まいなんだぞ?」

「へぇ〜。会うのは初めてだけど、ちょっと親近感」

二階の一室で自分の到着を待っていた二人が、窓を覆うブラインド越しに自分を見下ろしている事には気付いていない。

「もうじき警視からお呼びがかかる。そうしたら面会だ」

赤ら顔の若い太った警官がそう声をかけると、隣に立つ極めて大柄な獣人は顎を引いて頷いた。

「ゲンゴロウさんのお友達って事だし、失礼が無いようにしないとね」

身の丈が2メートルを軽く越える太った金色の大熊は、澄んだ水色の瞳にケンノスケの姿を映し、目を細めて微笑んだ。