グレイブ最後の日(前編)

「くそったれ…!」

疲労の滲んだ罵声と同時に、非常時に閉鎖される防災用の鉄扉を力任せに叩く音が上がり、細い通路に反響した。

真っ黒いふさふさした豊かな被毛を纏う小柄な犬獣人は、壁に半ば収納されている鉄扉を叩いた腕を戻し、摘むようにして

眉間を揉む。

カーキ色の軍服を纏うポメラニアンは、外見的には少年のようにも見える。

四肢がずんぐり短く、短躯で顔が大きく、毛の量が多い、背の低いむくむくしたそのフォルムのせいである。

その顔には疲労の色が濃い。ここ二週間ほど寝る間も惜しんで通信室にこもり、機材と格闘していたせいであった。

消息を絶った仲間達の事を調べるために。

彼が所属しているラグナロクのグレイブ隊は、三つの小隊からなる。

その内の一つである第二小隊は東洋の島国で任務に就いていたのだが、年末の大規模戦闘勃発後から音信不通となった。

しかし、作戦行動中は意図的に遮断していても、終了後には通信が回復するはずなのに、いつまで経っても応答がない。

そしてそのまま、別のルートから報せがもたらされた。

聞きたくなかった、あり得なくはないがほとんど予想もしていなかった悲報…。彼らが全滅したとの報告が。

しかし、敵側に回収されてしまった死体は、メンバー全員分ではなかったらしい。

作戦終了間際、戦略兵器級の殲滅能力を持つラグナロクの盟主の手によって、戦場の一部は焦土となり、重要な証拠は残ら

ず隠滅された。

そのせいもあってか、それともそれ以前の戦闘で回収不能なまでに遺体が損傷したのか、メンバーの中の数名が、死亡すら

確認されていない状況であった。

「…あのクソハスキーが、そう簡単にくたばるもんかい…!」

何かと衝突が絶えなかった同僚の顔を思い浮かべながら、スコル・ガルムは吐き捨てる。

死んだと確信させられるような情報が見つかるまで納得できない。そんな心境であった。

寝不足でふらつく頭を激しく振り、スコルはシャワールームに向かう。

頭をすっきりさせてから、再び情報収集をおこなうつもりであった。



「スコルは、まだ調べ続けている」

椅子にかけた赤い髪の人間女性は、重厚なデスクの上に広げた地図を睨みながら呟いた。

それは北原と呼ばれる人外魔境…すなわち現在彼らが滞在しているこの地の地図である。

人工衛星によって地上が細かく観察できるようになった現在でも、秘境は地上にいくつか残った。

北原もその中の一つだからという訳でもないが、地図には空白が多い。

白一色の美しい地獄は人類が生きるには過酷で、記されるべき入植地がそもそも殆ど無いのである。

山や丘、巨大なクレバスの名が点々と記された寂しい地図を映す赤い瞳は、しかし今は情報に乏しいその図面を見てはいな

かった。

「納得がいかないそうだ。…まあ、あたしもだがな…」

呟いた女性は顔を上げ、正面に立つ男を見遣った。

その男は、真っ白な被毛と、雪国仕様の白い軍服を身に纏っている。

驚くほどの巨漢であった。

身の丈2メートル12センチという見上げるような体躯は、どこもかしこも太く分厚い。

骨格からして頑強な彼は、骨太で筋肉の量が多い上に、分厚い脂肪を身の内に蓄えている。

言ってしまえば肥満体で、腹が大きく突き出ており、被毛の量もあって全体的なボリュームはもはや人類離れしている。

部屋に入って以来ほとんど声を発していない巨体のグレートピレニーズは、無表情に上官を見つめ返していたが、「お前は

どう思う?」と問われて口を開いた。

「良い事もあろうと考えながら、しかし常に最悪に備えよ」

巨躯に見合った低い声は落ち着いており、口にしたその言葉に、まるで何かの教典から抜粋された聖句であるかのような印

象を添える。

「教官を務めていた頃、新兵に常々聞かせてきた言葉です」

「可能性は諦めていないが、しかし過度な期待もしていない、ということか」

赤毛の女性は小さくため息をつき、小さく首を傾げた。

「納得できていないのは…、実は、全滅という結果についてだけでもない」

ゲルヒルデはもうじき自分の下から離れる事になる部下に尋ねた。

「今回の協力要請は、そもそも最初からおかしな所があった。支援目的との事で、都合の良い位置から招集できるのが第二小

隊だけだったという理由は、まぁそれらしく聞こえるが…。ハティ、戦術的に見てどうなのだ?」

問いながらゲルヒルデが裏返した地図を見て、ハティ・ガルムは目を細める。

「あの国の首都の地図だ。略図ではあるが、第二小隊の進行ルートを記してある。極秘中の極秘と言うことで、この襲撃作戦

の最終目標と、何をもって成功とされているのかは皆目判らんが…。どうだ?指示されたこのルートと押さえるべきポイント

の指定、ここから何か判らないか?」

「極秘中の極秘な割に、よく情報が手に入りましたな」

「だからこそ二週間近くもかかったのさ。そしてわざわざリバーシブルにカモフラージュしている。始末書を書くのは好きじゃ

ないからな」

しゃあしゃあと言い放った上官の前で、ハティは考え込む。

一個人としても超一流の戦士である彼は、同時に極めて優秀な指揮官でもある。

いかなる戦闘でも最大の戦果を引き出してきたその戦術眼は、隊の頭であるゲルヒルデが、自分以上だと認めて頼みとする

ところでもあった。

「ランデブーポイントの確保…。撤退部隊との合流、あるいは支援、または救出が任務だったように思えますが、指定された

ポイントが複数存在するのが引っかかりますな。まるでチェックラリー、これでは危険も数倍に跳ね上がります」

「だろう?しかも、待ち伏せに近い形で交戦状態に陥り、全滅したとの話だが…」

「隊長。結論から言いますと…」

ハティは地図から視線を外し、顔を上げて上官を見つめた。

「第二小隊が確保しようとしたランデブーポイントは、戦術的に極めて価値が低いと思われます。少なくとも、私が撤退する

隊を率いていたならば、こんなルートで迎えに来られるのは少々迷惑だ」

「何?」

訝しげな顔をしたゲルヒルデに、ハティは各部隊の動きを指で指し示しながら説明する。

その長く、しかも細かく、非常に込み入った説明は、上級士官として決して実力不足ではないゲルヒルデでも付いていくの

がやっとのハイレベルなシミュレートであった。

そしてその行動シミュレートは、彼ら自身も知らない事だったが、実際の戦闘とほぼ違わない、完璧な予測となっている。

「…以上の事から、いずれ二箇所の激戦区に挟まれる事になるこのルートを選ぶ危険性を鑑みれば、実際に撤退を試みるなら

迎えが居ようと居まいと選択したくはないところです。…この戦場で、まるで第二小隊だけが別の戦争をしているようですな」

理解がいって唸ったゲルヒルデの前で、ハティは考え込む。

これはまるで、第二小隊を始末するために仕組まれたようだ、と。



シャワールームから出たスコルは、脱衣場で自分よりも小柄なアメリカンショートヘアーとばったり顔を合わせた。

「あ…。ど、どうも…」

「おう」

シャツを脱ぎかけていた猫少年は、恥ずかしげに隅の方を向く。

バスタオルでむくむくした被毛を拭って、ドライヤーで乾かし始めたスコルは、少年がそそくさとシャワールームに入って

行く様子を鏡越しに眺めた。

スコルはあの少年の事が何となく苦手であった。

嫌味と皮肉を冗談交じりに軽快に飛ばす彼は、しかしミオという名を最近つけられた新入りにだけは、面と向かっては何も

言わない。

おどおどびくびくと顔色を窺う臆病そうな少年は、ちょっと何か言っただけで気にしてしまいそうで、自分のペースで話が

できないのである。

直属の上官であるハティには気を許しているようだが、他のメンバーとはろくに話もしないあの少年は、しかしもうじきこ

こから居なくなる。

「…アイツの事まだ何も知らないのに、行っちまうんだなぁ…」

呟いたスコルは、ふと思い出した。

あの少年が気付かずに持ち込んでしまったらしいデータチップ。

あれもまた正体を知らないまま、ハティの指示で処分してしまった。

(大尉は「処分すべき」ってしか言わなかったけど…、何のデータだったんだろうな?)

そんな事を考えながら体を乾かし終え、服を身につけ始めたスコルは、腕時計型の通信機が呼び出しを告げると、半ば無意

識の反射で素早く手に取った。

『こちらデカルド。第三小隊全員に告ぐ。急だが、中枢の視察がこのベースに入る事となった。明朝五時到着予定につき、総

員、出迎えの準備を怠らないよう』

小隊長からの一斉通信を受け、スコルは首を傾げる。

「あと六時間も無いじゃないか?それに何だってそんな朝っぱらに…」



同時刻、デカルドが発した物と同様の通告をメンバーに送ったハティは、小隊のシンボルでもある通信機内蔵の首輪から手

を離した。

灯りを抑えた薄暗いその部屋を、ハティはこのベースに滞在している間、私室として使っていた。

上着を脱いでアンダーウェアとズボンだけになり、ベッドを軋ませて腰を下ろしたハティは、膝に肘をつき、組んだ手に額

を乗せて俯き、目を閉じた。

(マーナ程の戦士がついていながら、誰一人生きて帰れなかった…。それだけでも十分奇妙なのだが、それ以上に…。奇妙と

いえば突然の視察というのも気に掛かる。急な上に、先日の遺跡発見時にも視察団が派遣されていない。それなのにリッター

が調査をしている今になって?来訪目的も不明な上に、あまりにも唐突だ)

普段あまり口数が多くないハティは、いつでも黙って何かを熟考している。

そして今日に限れば、考え事に没頭している時間は普段にも増して長かった。

まるで彫像のように身じろぎ一つせず、長いこと思案を巡らせていたハティは、ノックの音に反応して顔を上げた。

「開いている」

相手が誰なのか察しを付けて応じると、予想した通りの顔がドアの隙間から室内を覗き込んだ。

「まだ起きているのか。先に通達したが、朝は早いぞ」

「そんな事言って、大尉も起きているじゃないですか?」

耳を倒し、笑みを浮かべて応じたアメリカンショートヘアーは、ハティの部屋へするりと入り込むと、後ろ手にドアを閉め

て施錠した。

「フルーツグミ持って来ましたっ!」

シャワー後に食堂へ侵入してきたミオは、手の上に乗せた戦果を誇らしげに見せる。

「力を乱用するなと言ってあるはずだが?」

釘を刺すハティに、ミオは困ったような愛想笑いを浮かべて軽く頭を下げた。

総指揮官であるゲルヒルデや、同じ小隊の隊員にすら気を許さず、臆病な程に距離を取る少年だが、ハティにだけは懐いて

いる。

しかもその懐き具合は、上官に対しての態度が殆ど見られない。

とはいえ、敬意を欠いているという訳でもなく、どちらかといえば保護者…父か兄にでも接するような、くだけた懐き方で

ある。

硬いビニールのパックに詰め込まれたグミを封を開けつつハティに渡し、ミオは巨漢の隣に腰を下ろす。

ハティの体重を受けて大きく沈み込んでいる敷き布団は、すぐ隣は斜めになっており、小柄な猫は巨大な白犬の太い腕に軽

く寄りかかるような具合になった。

歯応えのあるビタミン補充用携帯食料を一粒摘んで口に入れ、オレンジの味を噛みしめたハティは、傍らから手を伸ばし、

自分の手の中にある袋からイチゴのグミを取ってゆくミオの手を視線だけで追った。

第二小隊全滅の報せは、しかしミオにとっては、ハティやスコル達とは別の意味で実感し難い物であった。

彼がこの部隊に来た時には、第二小隊は既に招致に応じて独立行動を取っており、メンバーと顔を合わせた事は無い。

それ故に、仲間を喪ったと聞かされても、約三分の一が居なくなったと言われても、いまひとつピンと来ないのである。

その上ミオは本当の意味での「戦闘」を知らない。一般的な意味での「戦闘」がどういう物なのか、理解できていない。

彼がグレイブに配属されて以来就いてきた各任務では、ハティの超人的な働きと采配で被害が殆ど出ていないせいで、仲間

を喪うという経験が未だに一度も無く、敵味方含めての「人死に」という物を体験していない。

「元気出して下さい大尉…。遺体で見つかってないひと達は、きっと無事に逃げて隠れてるんですよ。ね?」

そんな気休めを口にできるのも、現実を知らないが故なのだが、しかしハティは楽観的過ぎるミオの慰めを鼻で笑い飛ばす

ような事はしなかった。

有り得ない事ではない。希望的観測を抜きにしても、可能性はゼロではない。ハティはそう思っている。

特に、死体が敵側にもこちら側にも回収されていない内の一人、自分と同じガルムシリーズのシベリアンハスキーは、極め

て高い身体能力と技能に加えて特異な能力も持ち合わせており、そう簡単に死ぬような男ではないと評価すらしている。

グミを噛みながら無言で考え込んでいるハティに寄り添い、ミオは目を閉じる。

昇進に伴ってもうじき部隊を離れるグレートピレニーズにとっては、グレイブの戦力ダウンが気になるのは当然である。

もしやこの土壇場で昇進と異動を断ってしまうのではないかと、ミオは心配していた。

もっとも、ハティにその選択はできない。

ミオは知らされていないが、ハティの昇進と異動にはラグナロク上層部、中枢メンバー、ニーズヘッグの思惑が絡んでいる。

今後グレイブ隊を優遇するという保証と、ミオの非戦闘要員としての異動、ニーズヘッグはこれらを餌として提示してまで

ハティを欲しがっている。それらを逃してまで昇進を蹴る事はできない。

「ミオ」

「はい?」

突然名を呼ばれて目を開け、顔を起こしたミオは、ハティの真っ直ぐな視線を受け、微苦笑した。

「…帰って寝ます」

言いたい事を先取りされ、ハティは顎を引いて頷く。

最後に一度、白犬の太く逞しい腕にギュッと抱きつき、ミオは腰を上げた。

「お休みなさい、大尉」

「お休み、ミオ」

ベッドに座ったまま応じたハティは、ドアを潜って外へ出るミオを見送ると、手にしていた袋を口元に持って行ってあおり、

残っているグミを全て口の中に収めた。

殆ど噛まずに丸飲みし、ベッドを軋ませて横になったハティは、目を閉じはしたものの、眠りに落ちるまでの長時間、ずっ

と思案に暮れていた。



カモフラージュの為に白く塗装された雪上車が五台、北原を行く。

機械的な駆動音を殆ど立てずに凍った足場を踏み締めて行くそれは、ラグナロクの車両群である。

その車列の中央、前後どちらから数えても三台目の車両の中で、

「なぁなぁ?今度の任務って、手強い相手居るのか?」

引き締まった体躯をレザーのジャケットとパンツで覆った細身の狐が、テーブルを挟んで向き合っている女性に尋ねていた。

「そこそこ、手強い相手は居るわねぇ」

灰髪にソバージュをかけている女性は、分厚いハードカバーを捲りながら応じる。

「少なくとも四人は居るかしら。だからこそ、エージェントを三人も集めたのよ」

本から視線を上げずに応じた女性の前で、狐は「へぇ」と声を漏らし、ミネラルウォーターのボトルをあおる。

二人が座しているのは、まるで列車の高級個室のような部屋であった。

士官専用に快適性が追求されたその車両には、同じ個室が四つ設けてあり、いずれも寝台洗面所完備、さらには携行型ミサ

イルの直撃を受けてもビクともしない堅固な隔壁で護られている。

「先生の所からスレイプニルも借りて来るつもりだったんだけれど、残念な事に日本での戦後処理部隊の護衛に当たっている

のよねぇ。…まぁ、ベヒーモスを借りて来られただけでも良しとしましょうか…」

呟いたヘルは、怪しく瞳を輝かせた。



「あと三時間程度だ」

灰色の被毛を纏う狼は、腕に填めた通信機を見つめて呟いた。

背の高い、筋肉質な体つきの狼である。被毛も瞳も全く同じ色の薄いグレーで、特に豊かな量の毛は艶やかで美しく、まる

で金属のように光沢がある。

その向かいの席で、片刃の直剣を抜いてチェックしていた少年が、愛剣を鞘に収めて顔を上げた。

こちらは黒髪黒瞳の人間で、長身痩躯。しかし十代半ばに見えるその顔に幼さは微塵も無く、整った顔は無表情で、切れ長

の目からは鋭く冷たい印象を受ける。

「ウル、一つ聞きたい」

口を開いた少年に、ウルと呼ばれた狼は「何かな?」と静かに応じた。

「ガルムシリーズとは兄弟のような物だと聞いている。それは、俺とシャモンのような関係なのか?」

「…どうだろう?先行生産された自分は、処理能力を高める為、感情を大幅に廃されている。よって、肉親の情と我々の関係

を比較し辛い。我々同期生産シリーズは、一般的な見方からすれば兄弟のようなのかもしれないが、実際には血の繋がりは無

い。各々別人の死体から造られている事だし。…少なくとも、君とレヴィアタンのような強い繋がりは無い」

「だが、俺達とシャモンも血の繋がりは無い」

少年がそう答えると、狼は思慮深げな眼差しで相手の瞳を見つめた。

「それでも君達とレヴィアタンは、同じ希少能力者であるという同族意識はあるのだろう。事実、以前レヴィアタンは君達の

保護者でもあられたし、一般教養部門においての教育者でもあられたと伺っている」

「誰からだ?」

「レヴィアタンご本人から。…それとベヒーモス」

ウルは少年の瞳から視線を外し、外部の景色が映し出されているモニターに向けた。

「あの方の事をみだりに本名で呼んではいけないな」

「判っている。相手がお前だから口にしているだけだ」

少年は愛想無く応じると、腕を組んで目を閉じた。

少年の教育係でもあり保護者でもあった女性は、今はウルの上官、中枢メンバーの一人となっている。

その縁もあり、少年と狼は違う中枢メンバーに仕えるエージェントでありながら、比較的親しい関係であった。

モニター越しの銀世界を眺めながら、ウルは考える。

この少年もいずれ、自分の主に酷似したその能力から、中枢に抜擢される時が来るのかもしれない、と。



「視察って話だったが、それにしては警備が随分物々しいじゃんか…」

ポメラニアンの囁き声を耳にした竜人は、じろりと睨んで私語を止めさせた。

(だが確かに…。視察にしてはいささか規模が大きい)

デカルドは胸の内で呟きながら、自分達が左右に作った列の間に続々と侵入して来る五台の雪上車を凝視する。

長い搬入路の片側を整列したグレイブ隊が、もう片側をベースの正規駐屯部隊が、それぞれ出迎えとして固めていた。

中央の指揮車両はともかく、他の雪上車には二十名近い兵士が乗れるはずであった。

(中枢直々の視察なのだから、護衛が大規模になってもおかしくはないか…)

自分を納得させたデカルドは、自分の小隊と並んで列を成す第一小隊を見遣る。

同僚の白犬はいつも通りの無表情で車列を眺めており、特に何か疑問を感じているようにも見えなかった。

程なく全車両が停止すると、ハッチを開けて降りて来た武装済みの兵士達に、居並ぶ一同が敬礼を送る。

武装した兵士達が完全に車両周辺を固め終えた後、中央の車両から最初に降りたのは、黒いレザースーツを纏った狐。

(初めて見る顔だが…、エインフェリアか)

ハティはその能力をもって、狐が自分と同様の再生戦士である事を見抜き、僅かに目を細めた。

(…妙な波動だ。旧式の私と大きく異なるのは当然だが、スコルやマーナ、後期生産型ガルムとも随分違っている。…それに

あの左腕は何だ?ただの生体義手では無い…、ナノマシンか?)

狐の後に降りてきたのは、灰色の狼。こちらは見知った顔である。

知り合いの顔を見て、懐かしさよりも先に違和感を覚えたスコルが僅かに眉根を寄せる。

(ウルだ。けどあのひと確か、今日来る予定の中枢のエージェントじゃないよな…。何で同伴してんだ?)

狼の後ろから降りたのは黒髪の少年で、こちらもスコル、ハティ共に見覚えがない新顔であった。

そして最後に、エージェント三名が降りて脇を固め終えるのを待ち、護衛の一般兵二名に両脇を護られながら雪上車から降

りたのは、中枢の一人、ヘル。

ベースの部隊長とゲルヒルデは、並び立ってヘルを出迎え、敬礼する。

嫣然と微笑むヘルの前で、部隊長を務める壮年の人間男性は、敬礼を崩さずに口を開いた。

「このような辺境までご足労頂きまして、恐縮でございますレディ・ヘル。ご視察により、我ら一同より一層士気を高め、身

も心も引き締めて任…」

「あぁあぁ、結構よぉ堅苦しい挨拶は」

ヘルはにこやかな笑みを浮かべてパタパタと手を振り、発言の順番を待っていたゲルヒルデに視線を向けた。

「お久しぶりねぇ、ゲルヒルデちゃん」

「お元気そうで何よりでございます。レディ・ヘル」

にこりともせず応じたゲルヒルデの前で、ヘルは笑顔のまま続ける。

「あらあらあら、そんなに畏まらなくて良いのにぃ。私と貴女の仲じゃない?」

これを聞いたスコルは訝しげな顔をする。声と態度には出さないものの、ハティとデカルドもまた、ヘルと自分達の隊長が

親しい間柄だという話は聞いた事が無く、疑問に思っている。

「今じゃあちっとも会えなくなっちゃったけれどぉ、思えば長い付き合いよねぇ…。ラグナロク設立時のメンバーがどんどん

減っていく中、お互い良く生き残って来られたものだわぁ」

「は」

親しげなヘルの様子とは対照的に、ゲルヒルデは態度を崩さない。

その事から、両者の関係は良く判らないものの、ゲルヒルデの方はヘルの事をあまり良く思っていないらしい事が推測され、

ハティは僅かに目を細める。

本来ならばかなり厚遇されていても不思議ではないゲルヒルデが、長い事グレイブの隊長を務めさせられているのは、もし

やこの女が原因なのではないかと考えて。

「でもぉ…。本当に残念だわぁ…」

ヘルは哀しげに見える表情を作り、軽くかぶりを振った。

「こんな形で貴女とお別れになるなんて」

その言葉の意味について、聞いた者が疑問に思うか否かの内に、事態は急変した。

「なっ!?」

デカルドの口から漏れたその声は、多くの者が同様に発していた。

車列を固めていた兵士達が、グレイブ隊と駐屯部隊に、一斉にその銃口を向けたのである。

「こ、これは!?レディ・ヘル!い、一体何を…!?」

「数ヶ月前…、極秘も極秘、超極秘の研究データが収められたチップが紛失したのよぉ」

駐屯部隊長の声を遮り、ヘルの軽やかな声が響いた。

「結局、誰かに盗み出されたらしいんだけれどぉ、そのデータがどうやら、このベースで閲覧されてたようなのよねぇ。まぁ

難しい説明は省かせて貰うけれど…、結論から言うわねぇ」

灰色の髪をそっとかき上げ、灰髪の魔女は囁いた。

「情報流出の危険性を鑑みて、今現在このベースに居る全ての人員を反逆者として処分させて貰う事になったから。全員、そ

の場から一歩も動かないでねぇ?」

「なっ!?」

駐屯部隊長をはじめ、居合わせた多くの者からどよめきが上がる。

一石を投じて場を混乱に叩き込んだ張本人であるヘルは、すぅっと目を細めてゲルヒルデを見つめた。

「残念だわぁ…。知り合いの居るこのベースを、中身ごとぜ〜んぶ抹消しなくちゃいけないなんて…」

「…ふん…!」

ゲルヒルデは鼻を鳴らすと、突然不敵な面構えになった。

「あたしを消したいってだけで、また随分と大がかりな真似してくれるじゃないか…。えぇ?」

「あらあらあら、私は貴女を処分したくなんかないのよぉ?本当に残念に思っているわぁ」

ヘルの口調はあくまでも軽く、死刑宣告をしているようには見えない。

「お、お待ち下さい!じょ、冗談ですよね?ねぇレディ…」

駐屯部隊長が一歩前に出て愛想笑いを浮かべると、ヘルの傍らに居た狐が滑るように前に出た。

その手がひらりと動いたかと思えば、丸い何かがぽーんと宙に舞い、続いて赤い噴水が吹き上がった。

「今さ、動くなって言われたじゃん。聞こえてなかった?それとも命令無視?ま、どっちにしろ殺るんだけどさ」

狐がそう言って、いつの間にか引き抜いていた剣を腰の鞘に収めたその時、一瞬の抜き打ちで斬り飛ばされた駐屯部隊長の

首が雪上車の上にドンッと落下し、頭部を失った胴体がぐらりと揺れ、棒のように仰向けに倒れた。

現実味のない、あまりにも速やかな、あまりにも鮮やかな殺害であった。

悲鳴と怒号、動揺の声に混乱の叫び。

一瞬で大混乱に陥ったその場で、ヘルはすっと腕を上げる。その手が前方に振り下ろされたと同時に、代弁者として狐が声

を発した。

「殺れっ」

直後、彼女に率いられて来た粛正部隊が、かつて同胞にして処分対象めがけ、発砲を開始した。



「粛正だと?」

赤い虎は深紅のロングコートから腕を抜きながら声を発し、動きを止めた。

大きな虎である。筋骨隆々たる体躯は分厚く頑強そうで、身の丈は2メートル近い。

「ええ。…報告を受けていなかったの?スルト」

分厚い絨毯が敷かれた立派な広間の中央、革のソファーに背筋を伸ばして座っている若い黒髪の女性は、訝しげな視線を赤

い虎に向けた。

美しい女である。長い黒髪は艶やかな光沢を帯びており、染み一つ無い肌は白く、まるで雪と影で作られたかのように陰影

がくっきりしている。

「生憎、今初めて聞いたところだ。どういう事だ?」

年始まで滞在した東洋の島国から大陸沿岸へ、そして東南アジアの諸島を巡り、今やっと本部へ帰還したばかりの多忙な赤

虎は、その場で足を止めたまま女性に説明を求めた。

黒髪の女性が事情を話し、自分の所からも応援にエージェントを派遣した旨説明すると、赤虎は僅かに眉根を寄せる。

「北原のベースだと…?今あそこにはゲルヒルデが…」

脱ぎかけたコートを再び羽織り、赤虎は踵を返した。

「スルト、何処へ?」

「ヘルに通信を入れる。さすがにゲルヒルデは処分対象ではないと思うが…、いささか気になる。新たに産まれたエインフェ

リアをエージェントに迎えたとは聞いているが、何故粛清の事は私に言わなかった?」

「急を要する故に…ではないのかしら?三時間で部隊を整えて、出て行ってしまったもの。…そういえば、ニーズへッグと何

かもめていたようだけれど…」

「彼はグレイブのハティを欲しがっていた。お前のエージェント候補だった内の一人だな。横槍を入れられては堪らないといっ

たところだろう」

金色の目を鋭く細め、スルトは足早に部屋を出る。

その後を追うようにして黒髪の女性も席を立ち、ドアへ向かった。

しかし、結局盟主の言葉は届かない。

作戦行動に移ったヘルは全ての外部通信を絶っており、北原のベースもジャミングによって通信機能が止まっている。

そして、その麻痺した通信機能が回復した時には、全てが終わっていた。