グレイブ最後の日(中編)
通路の硬い壁に、床に、天井に反響し、鼓膜を叩く絶え間ない銃声。
悲鳴と怒号と絶叫が、そのけたたましい音色と絡み合い、見事に調和した、しかし明らかな不協和音を成す。
それは、ある状況下においては、場所、国、時間を問わず、奇妙なまでに似通った音色で奏でられる。
すなわち、一方的な殺戮の場において。
飛び交う銃弾と響く銃声の下、咄嗟に身を屈めた竜人の角を掠め、弾丸が壁に命中した。
(何だ!?何が起こっている!?)
常は冷静なデカルドも、この状況には混乱している。
「中尉っ!」
叫び声と共に横合いから体当たりされたデカルドは、自分を押し倒して覆い被さってきた小柄なポメラニアンに声をかける。
「スコル!無事だったか!下がれっ!皆下がれっ!待避だ!」
そう声を張り上げたものの、デカルド自身、どう退くべきか見当もつかない。
この搬入路は長い通路状で、横道は無く、ベース内と屋外に通じる両端のハッチしか逃げ場は無い。
遮蔽物のないそこまでの道のりは、出迎えの儀礼としてほぼ非武装だった彼らにとっては、飛び交う銃弾のおかげで絶望的
な距離となる。
(ゲルヒルデ隊長!)
自分達のリーダーの安否を気遣い、視線を走らせた竜人は、しかしその視界を白に遮られた。
床に転がった数本の手投げ筒から、勢い良く煙が噴出している。
「ぐっ!?ガス!?」
「煙幕だ!」
誰の物ともつかない声が上がる中、デカルドは自分の上から退かないスコルを振り落として命令する。
「好機だ!スコル、読め!」
「了解っ!」
ポメラニアンがその両目を見開くと、瞳孔にすっと照準マークが浮かび上がった。
思念波感知型能力者であるスコルは、自分の手も見えない程の煙幕が張られたこの状況でも、その超視覚をもって状況を察
知できる。
思念波を視覚情報として捉えるその能力で、サーモグラフィーのように煙幕越しにもやや滲んだ赤い人影として周囲の人物
を捉えつつ、スコルは状況を報告する。
「ハティ大尉が…、発煙筒をばら撒いてます!」
それを聞いたデカルドは、ふと気が付いて自分の胸に手を当てた。
混乱と焦りが、いつの間にか収まっている。
さらに、周囲で恐慌状態だった兵士達も落ち着きを取り戻し、伏せたり防弾ジャケットを頭にかぶったりしながら、続々と
デカルドの下に集まって来ていた。
大多数が銃撃を受けて倒れているが、それでも混乱は異常なほど速やかに去り、防御陣形が整えられようとしている。
「…これは、大尉のドレッドノート…、その応用能力か?」
呻いたデカルドは、しかし疑問を感じた。
周囲の者達から恐れを消し飛ばすこの精神高揚作用には、前準備が長くかかると聞いた事がある。
にもかかわらず、発砲から短時間で効果が現れているのは何故か?
(大尉は、こうなる事も予測していたのか?)
デカルドは疑問に思いつつも、まずはこの場から逃れる事を優先し、部下達を纏め始めた。
一方、床に伏せたミオは煙で軽く噎せながら、自分に覆い被さっている巨漢に訊ねた。
「な、何で判ったんです!?」
腹の下で声を上げる少年に「何となく」と、短く応じたハティは、発煙筒を自分達のすぐ前に転がし、濃いヴェールを立ち
込めさせる。
彼はうつぶせのその状態でも力を発し続けており、直に鼓動へ干渉されているミオは、その臆病さから言えば意外なほど落
ち着いていた。
やがて、発し続けていた能力の効果によって士気を回復された部下達が、煙の中で自分の周囲に集合し始めると、
「退路を用意する。ここを抜けて通路へ…」
白犬はそう言いながら身を起こすなり、すぐ背後の壁に手の平を押し当てる。
銃声と悲鳴が響く中、その分厚い手から、ぶぅううううん、と虫の羽音を思わせる振動音が漏れ始めた。
直後、コンクリートの壁はコーヒーに沈めた角砂糖のようにぼろぼろと崩れ、鉄筋を剥き出しにして隣の通路に繋がる穴を
開ける。
「デカルド中尉達に声をかけ、先にここから脱出しろ。モービルと雪上車は数台だけだがすぐ動けるようにしてある」
用意していた発煙筒をさらに放り投げ、ハティは部下達に告げる。
「た、大尉は!?」
「隊長をお救いした後に、諸君らを追う」
皆の疑問を代表するように問うミオに、そう短く応じた。
「無茶ですよ!こんな煙の中、弾丸のまっただ中に飛び込むなんて…!」
「これは命令だ、行きたまえ」
少年の頭に手を置いた白犬は、目を細めて、小声で呟いた。
「…私も後から必ず行く。約束だ、ミオ」
「予期してたって事かい?」
ヘルの前に立って周囲を警戒しつつ、狐は呟いた。
「あるいは、単に日頃から準備が良いのかしらねぇ。良い判断だわぁ、この状況での視界封じは、あちらの損にはならないも
のねぇ。やるじゃないのぉ?貴女の部下」
「自慢じゃないが、エージェントにも負けはしない優秀な部下を抱えているもんでね」
落ち着いた声は、ヘルの前方からであった。
「ワルキューレは思念波を視認するんだったわねぇ。この状況ではむしろ有利?」
「丸腰でなければ、だがな」
その返答に、ヘルはクスリと笑う。
「貴女が本当の意味で丸腰な事なんて、無いじゃない?」
その言葉が終わるか終わらないかの内に、赤い閃光が煙を突き抜け、ヘルめがけて走った。
しかしその前で素早く動いた狐が、ヘルに達するその軌道を塞ぎ、抜いていた直剣で反射的に斬る。
ガキンっと、金属的な衝撃音を立てて真っ二つになり、左右へ弾き飛ばされたそれは、赤い光が凝縮して出来上がった半透
明の手槍であった。
「レリックの補助も無しに、単独で思念波をエネルギー結晶体に錬成できる貴女は、丸腰なんて状況、生きている限り無いん
だから。ねぇ、ワルキューレ九号?」
ヘルの声が終わる前に、投擲位置を把握した狐が剣で「そこだ!」と指し示す。
そこへ一斉射撃が行われるが、しかし弾丸が殺到する直前に、白い煙の中でおぼろげに何かが動き、次いで奇妙な音が周囲
に響いた。
パパパパパパッ、ギギギギギギンッと、連続したけたたましい音。
銃弾が弾かれる音と、連続した破裂音のような妙な音、しかしそれが何の音なのか判らずに、兵士達は発砲を続ける。
ヘルは「あらあら」と感心しているような声を漏らし、脇に立つ狼を見遣った。
「ドレッドノート…っていったかしら?貴方の一つ後のガルムが持っている能力は?」
ヘルの右横を固めていたウルが、「ええ」と顎を引く。
「銃弾を跳ね返せるのぉ?」
「アレは広く応用できる能力ですので。…恐らく、弾丸を弾いたのは振動波の壁…、ショックフィールドでしょう」
「流石、良いタイミングでカバーに入ってくれる」
ゲルヒルデはニヤリと笑い、自分の前に立つ白い巨犬の背に声をかけた。
ハティが前へ突き出した、五指を広げた両手。そこから十数センチの位置で弾丸が潰れ、ひしゃげ、弾かれている。
高速連続炸裂する衝撃波が、弾丸すら防ぎ止める不可視の障壁を形成していた。
「退路は確保済みです。退いて下さい」
「手際が良いな?」
「良い事もあろうと考えながら、しかし常に最悪に備えよ。…という事で」
「なるほど…。ハティ、預かって欲しい物がある」
ゲルヒルデは首下から手を入れると、軍服の下からネックレスを掴みだした。
彼女の首にかかったそれは、いびつな十字架のようなアクセサリーであった。
丸と十字が組み合わされた形状の、アンクと呼ばれるそのネックレスを首から外し、ゲルヒルデは部下の白犬に放り投げる。
気配だけを頼りに片手を振って、肩越しにしっかりと掴んだそれをちらりと確認したハティは、首だけ巡らせて説明を求め
るようにゲルヒルデを見遣った。
「一時お前に預けておく。…が、返せそうにないと思ったら、お前の物にして構わん。…お気に入りなんだ。無くすんじゃな
いぞ?」
嫌な予感を覚えたハティは、しかし喉元まで上がって来た言葉を発する事無く、開きかけた口を閉じた。
「死ぬ気ですか?」
そんな事を問うたら、ゲルヒルデが本当にそんな末路を選んでしまいそうな気がして。
ゲルヒルデはニヤリと不敵に笑い、両手を胸の前に上げながら呟いた。
「できれば、お互い生きてまた会おう」
「できればではなく、「必ず」です」
即座に切り返されたゲルヒルデは、意外そうに部下の背を見つめ、目を細めた。
「必ず…か…。変わったな、お前…」
「生きる目的らしきものが、ようやく見つかりましたので」
クスッと鼻を鳴らして笑い、「そいつは何よりだ」と顔を緩ませるゲルヒルデ。
そしてそれは、二人の間で交わされた、最後のやりとりとなった。
「では、往くぞ!」
ゲルヒルデは両腕を胸の前で交差させ、軽く握った拳に赤い燐光を灯す。
思念波をエネルギーに変換し、力場を発生させる…。生命力を力場に変えるエナジーコートと良く似たその力こそが、彼女
達に備わる能力であった。
煙に紛れてゲルヒルデが後退したのを確認し、ハティは素早く横へ跳ぶ。
雪中迷彩の軍服を纏った白い巨体は、白い煙に紛れると異常なまでに視認し難い。
弾丸が弾かる音が途絶えた事で離脱されたと悟った兵士達は、しかしハティを完全に見失ってしまった。
だが、その場で二人だけ、ハティの移動を把握した者が居た。
「………」
無言で腰の鞘に手を添え、黒髪の少年が煙幕の中に飛び込む。
視界は極めて悪いが、並の獣人を凌駕する、人間としては異常な程に鋭いその聴覚が、微かな衣擦れの音と床を踏む音を、
銃撃音の中から拾い上げ、聞き分けた。
白い煙を纏って散らし、目にも止まらぬ速さで抜刀した少年の先には、煙に紛れる白い巨躯。
距離、位置、共に音のみで完璧に捉えた抜き打ちが、銀光を迸らせて煙幕と大気を切り裂き迫る。
鞘走りの音で気付いたハティは、自分の右手側から繰り出されたその刀を、素早く身を回転させつつ退く事で避けた。
ハティのジャケットは切っ先に掠られ、右胸から右腕の脇の下までがスパッと綺麗に切り裂かれ、薄い断熱材が剥き出しに
なった。
予想以上の鋭い太刀筋に緊張を強めたハティは、煙を裂いて斜め下から跳ね上がる物を視界の隅で捉えたが、しかしあえて
無視する事にした。
人間の脚力で繰り出される蹴りは、頑強な彼の肉体にとって脅威とならない。
急所でも狙われれば問題だが、跳ね上がる蹴りの軌道は脇腹狙いであった。
が、ハティは途中で自分のその判断が誤りである事を察した。
尋常では無い加速を見せた蹴りが、ハティの脇腹に深々とめり込む。
「…っぐ…!」
呻いたハティの口の中に、胃液が逆流して来た。
人間とは思えない重い蹴りで、少年の脛はハティのぼってりとした脇腹へ、ふくらはぎが元々のボディラインと一致する程
めり込んでいた。
脂肪の下の分厚い筋肉がひしゃげ、衝撃が内部まで達する一撃は、並の獣人ならば複数の内臓が破裂して背骨がへし折れる
程の破壊力を伴っていた。
(ぬかった…。そうか、これが…、この少年が…)
むせ返りそうになるのを強引に堪えたハティは、油断を悔いる。相手の見た目で対応を緩くしてしまった自分の甘さを。
(名前以外は殆ど知られていない、ロキのエージェント…、ベヒーモスか。人間らしいと話には聞いていたが、まさかミオと
変わらぬ年頃の少年だったとは…)
チカチカと星が瞬く視界の中、静かな殺意を称えた無表情な少年の手が、再び翻る様子を捉える。
蹴り足を戻しつつ、振り抜いた剣を片腕で引き、顎先を狙って今度は反対の斜め下から跳ね上げた少年は、しかし軌道の途
中で剣を手放していた。
上体を後ろに倒しつつ、お返しとばかりに煙を纏って蹴り上げられたハティの爪先が、ブーツの頑丈な先端で少年の右手を
したたかに痛打している。
メリッと、小指と薬指が悲鳴を上げたにもかかわらず、しかし少年は表情一つ変えずに前に出た。
自分の胴回りほどもあるハティの左脚を、右腕で抱えるようにして捕まえ、引っ張りながら時計回りに回転、膝を砕くべく
己の左膝を跳ね上げ、叩き込む。が、
「…む…」
低く声を漏らした少年は、その瞬間には既に空中にあった。
抱え込み、折りに行った脚が勢い良く真上へ跳ね、振り飛ばされている。
離れ際に膝へ入れた一撃のダメージは無いのか、煙幕の切れ目から一瞬だけ視線を交わしたグレートピレニーズは、雪中迷
彩仕様の軍服と真っ白な被毛を纏うその体を、すぐさま煙の中に紛れ込ませてしまう。
宙で体勢を変え、頭を下に、靴裏を真上した逆さまの状態で天井に着地し、叩き付けられる事は避けた少年は、グレートピ
レニーズが煙に紛れ込む際の動きを目にし、追撃は諦めた。
(あの動き…、雪上車側へ?…アレは予想以上の化物だ。恐らく、ウルやスレイプニルと同等の…。ウルも先ほど列を離れた
ようだった。護衛が狐一人の所へ突っ込ませる訳には行かない)
ヘルの護衛は殲滅以上の優先任務である。天井を蹴った少年は雪上車の上に降り立つと、すぐさまヘルの下へと駆け戻った。
車列の反対側では、駐屯部隊がグレイブ隊以上の被害を受けていた。
「負傷者を下がらせろ!下手に応戦しようとするな!」
床に伏せたエンリケが声を枯らして叫ぶが、混乱の中にある周囲の同僚達には言葉が届いていない。
「くそっ!何なのだ!何故こんな事に!」
武装らしい武装もしていない彼は、彼我の火力差が明らかで、もはやお守りにしかならない小型拳銃を握り締めて唸る。
逃げるにも退路は無い。周りではばたばたと仲間が倒れてゆく。
絶望的なその状況下で、エンリケは間近に出現した気配に反応し、そちらへと素早く銃を向けた。
「私だ、エンリケ」
すっかり聞き馴染んだ、低く落ち着いたその声は、銃撃音の中でもエンリケの耳にはっきり届いた。
「中っ、いや大尉!」
向けた銃を慌てて下ろしたエンリケの前で、白い煙の中からぬぅっと現れたのは、見上げるような白い巨体。
その姿を目にし、エンリケは目を見開いた。
「大尉、血が…!」
「返り血だ。やむを得ず数名負傷させた」
淡々と応じたハティは、しかし銃撃の雨の中、平然と佇んでいる。
飛び交う弾丸は、まるでハティに触れるのを嫌がるかのように、一発たりともその身に触れはしない。
ハティの能力、ドレッドノートの作用で弾丸の軌道が曲げられているのだと察したエンリケは、彼の声が耳元へはっきりと
届けられるその現象もまた、その力の一端である事を理解した。
周囲に安全な領域を作りながら、ハティは足早にエンリケの脇を通り抜け、囁きかけた。
「退路を作る、なるべく多くの兵を連れて格納庫へ向かえ、脱出の下準備はできている」
「え!?」
聞き返すエンリケが目で追った先で、ハティは壁に手を当て、精神を集中させた。
「ハティのドレッドノートは、つまり振動だ」
狼は煙の中に佇み、静かに呟く。
「時には振動波を重ね合わせて衝撃波を生み出し、時には相手の鼓動に干渉し、心肺蘇生や精神高揚など、応用した現象を引
き起こす」
コツリと一歩踏み出したその前方には、黒い被毛を纏う小柄なポメラニアン。
眼光鋭く睨みつけるスコルの視線を平然と跳ね返し、ウルはさらに一歩前に出た。
その周囲は、スコルの背後に向かって大気が移動しているため、煙が極端に薄まっている。
「ドレッドノード(恐れ知らず)とはよく言ったものだ。鼓動に干渉し、兵達の恐怖を緩和させて士気を高め、さらには衝撃
波のフィールドによって自身を狙う弾丸すら阻む。恐ろしく応用が利く能力だ。…私の力と同様に」
狼の視線は、スコルの後方に向いていた。
そこは、グレイブの生き残り達が脱出して行った箇所である。
壁にあいた大穴は、白い煙を外へと排出していた。
「出力も上昇しているようだな。ソニックフィールドを纏いながらこんな工作までできるとは…。相変わらずでたらめな男だ」
ウルは言葉を切ると、そこで初めてスコルに視線を向ける。
「ハティは、信頼できる腕利きが止めに行った。勝つのは難しいが、彼の妨害を掻い潜ってヘルに到達するのは、ハティにとっ
ても生易しい事ではない。その間に、私はこちらを叩きに来たのだが…。君達を処分しなければならないのは、少しだけ残念
だよ。スコル」
「…あんたはそういうヤツだったよな…。冷てえ…、冷てえよ…、どこまでも機械みてえに…」
呟いたポメラニアンは、穴を背後に庇ったまま、ぐっと身を沈めた。
その両脚を覆う、膝下まで達するロングブーツの爪先から、ガキョンと音を立てて爪が生えた。
赤い、光の爪である。四本のかぎ爪は床に食い込み、チリチリと音を立てて周囲を焦がす。
思念波を武器として利用する擬似レリックウェポン、ヴァルキリーレッグは、スコルの精神を喰らって生み出したエネルギー
を、爪先に加え踵からも噴出させた。
思念波由来のエネルギーを推進力に変え、静止状態から急加速、ほとんどロケットのように跳んだ小柄なポメラニアンは、
宙で身を捻り、かぎ爪のついたブーツでの回し蹴りでウルを急襲する。
ウルは頭部を狙ったソレを仰け反ってかわし、さらに回転して放たれたソバットは、跳ね上げた腕で軌道を上にずらしてや
り過ごす。
その、完全に背を向ける格好になった一瞬を逃さず、狼はすっと手を伸ばした。
グローブを填めただけで武器を携帯していないその手から、スコルは過敏な反応を見せて逃れる。
踵と靴裏からのエネルギー噴射で空中に居ながら姿勢と軌道を難なく変え、その場でトンボを切るようにしてウルの頭上を
越える。
その重力と慣性に抗った回避は、しかし狼の目に追尾されていた。
素早く動いたウルの手が、スコルの右足首をがっちり掴む。
直後、スコルの顔からさっと血の気が引いた。
「さようなら、スコル」
静かな、そして厳かなその声音には、しかし哀れみや慈悲は欠片も混じっていない。
ウルはスコルを始末する事に対して、殆ど何の感情も抱いていなかった。
「っく!」
スコルの意志に反応して右足のブーツが外れ、足が抜けたのは、際どいタイミングでの事だった。
ウルの手に残ったヴァルキリーレッグが、ブブンッと震え、次いで結合部からバラバラに分解される。
(あぶね…!ちょっと遅れたら餌食だった…!)
強固な擬似レリックすら瞬時に破壊してしまうその能力に、片足だけ裸足になって着地したスコルは寒気を覚えた。
ウルの能力は、ハティのそれとほぼ同質であるが故に、繰り出されるものも酷似している。
ハティにできる事はウルにもできる。その知識があったからこそ、スコルは瞬時に正しい選択を行うことができた。
しかし、辛くも難を逃れたものの、片足をもがれたも同然の有様である。
(もしかしたらあしらえるかも…。なんて手前を過信した自分が恥ずかしいぜ。悔しいが一人じゃ無理だな…)
胸の内で呟くスコルの背後で、前に出てきた兵士が気付き、ポメラニアンの後頭部へマシンガンの銃口を向ける。
しかし思念波の流れを掴んでいるスコルは、慌てず騒がず相手の動きに対応し、土下座の格好で上体を沈ませつつ、左足を
真後ろへ跳ね上げた。
思念波が凝縮したかぎ爪で手と銃を一緒くたに撫でられ、鮮血を撒き散らして悲鳴を上げたその兵士は、逆立ちしたポメラ
ニアンの両脚に胴を挟まれる。
「でぇえええええいっ!」
小柄な体躯の何処にそんな膂力が宿っているのか、スコルは自分より背も高く、体格も良いその兵士を、全身を使って投げ
捨てた。まるでクワガタ虫が、大顎で挟んだ相手を放り投げるように。
投げられた先に居るのはウル。無感動なその眼差しを、飛んでくる兵士へ興味の欠片すら示さずに向け、力を込めた様子も
無く、すっと腕を一薙ぎした。
指揮者がタクトを振るうような軽いその手の動きで、逆さまに飛んできた兵士はくるりと上下反転しつつウルのやや横方向
へと進路を曲げられ、足から床に着地、たたらを踏んで前のめりに転ぶ。
力の作用点を完全に見切った、無駄を極力省いたエスコートで障害を除去したウルは、埃を払った程度の足止めを喰らわさ
れたに過ぎなかったが、しかしその僅かな一瞬は、スコルにしてみれば得難い好機である。
兵士を目くらましに使ったポメラニアンは、残った片足のブーツを使い、ロケットの如く白煙の中へ突入、既に姿を消して
いる。
すっと手を上げて前方に向け、何かを伺うように目を細めたウルは、
(放出軌道上にこちらの兵士が多過ぎる。撃つ訳には行かないな)
視覚に頼らずに煙の向こうの状況を探り、手を下ろした。
そして、先に自分めがけて投げつけられた、手傷を負っている兵士に視線を向け、口を開く。
「君、そこの穴から少なくない数の処分対象が逃亡したと思われる。ヘルへ報告しつつ指示を仰ぎたまえ」
「え?は、はい!」
かぎ爪の一撃で切れた手首を押さえながら、兵士はこくこくと頷き、直ちに上官へ通達する。
一方ウルは、最後にもう一度穴を見遣り、踵を返した。
(ハティはまだここから脱出していないはずだ。あの男はいつでも最後尾に付きたがる。脱出した後の守りに誰かを残しはし
ない。…だが、他に出口が作られれば…)
その思考は、轟音で中断された。
「やはり退路を増やしにかかったか、ハティ」
呟いたウルは両手を軽く握り、そして開き、感触を確かめながらも足早に煙の中へ踏み行って姿を消した。
「スコル?」
煙の中からまろび出てきたポメラニアンの姿を認め、ハティは目を細めた。
大穴の向こうには、いつでも脱出できるよう体勢を整えたエンリケや他の隊員の姿がある。
「あちらの穴はどうなった?」
「ウルが出て来て、押さえられちまいましたよぅ」
ブーツを失った片足を上げ、顔を顰めつつプラプラと揺すって答えたスコルは、
「思った通り、二つめの抜け穴ですか」
「こちら側を見殺しにする事もできなかったのでな。で、皆は?」
「あっちから逃げられるだけ逃げました。ゲルヒルデ隊長も撤退済みです」
「それは何よりだ。…おそらく、ここから撤退できるのは、お前と私が最後だな」
悲鳴がほとんど聞こえなくなっている事に気付いたハティは、スコルを促して穴を潜る。
止めを刺される手負いの兵士や逃げる方向を誤った者の声が、白犬の鼓膜を震わせ続けていた。
二箇所に空いた穴から排出されている煙幕は、そう保たずに晴れる。穴の位置と状況が特定されるのは時間の問題、速やか
に撤退する必要があった。
「大尉…」
問いかけるようなエンリケの視線と声を受け、ハティは頷いた。
「脱出する。まだ生きていたい者は私に付いてこい」
一方その頃、反対側の穴から一足早く撤退していた兵士達は、
「格納庫だ!走れ!」
先導する竜人の声を受けながら、必死に通路を駆け抜けていた。
その中にはミオもおり、列の中央付近には兵士達にガードされているゲルヒルデの姿がある。
先を行く竜人は、舌を巻いていた。
一体どのような予測を立てていたのか?ハティの部下から聞いた話によれば、あの白犬は脱出用の足と装備を整えていたら
しい。
(事実はどうあれ、もはや見逃しては貰えまい…。我々は反逆者扱いか…)
そう胸の内で嘆息したデカルドだったが、すぐさま気を取り直す。
(いや、世界に背いてまでラグナロクに加わった目的は、既に果たされている…。潮時だったのかもしれん…)
そんな複雑な心境を抱えるデカルドの足は、格納庫まであと僅かという所まで迫った所…、最後の角の手前で止まった。
「鮮やかねぇ。あの状況からこんなにも生き残りを出すなんて。彼らをフォローする訳じゃないけれど、私の部下達は決して
無能じゃないのよぉ?」
そんな声と共に硬質の床をカツンと鳴らし、角の先から現れたのは、灰色の髪の将校であった。
「ヘル…、やっぱり振り切れなかったか…」
ゲルヒルデは忌々しげに呟くと、部下達を制して前に出る。そしてデカルドの横に並ぶと、部下の顔を横から見上げた。
「先に行け。そいつは、このあたしに用があるんだ」
「あらあらあら?勝手に決めつけないでくれる?確かに貴女にも用はあるけれど、他のみんなには用が無いかというと、それ
はちょっと…」
「やかましい」
ぴしゃりと言葉を遮ったゲルヒルデは、雌虎の如き凄まじい顔で嗤った。
「あたし相手に用事を済ませながら、余所事に気を回す余裕があるとでも思ってるのか?あたしがどういう生き物か、お前は
解ってるとばかり思ってたがな…」
挑発するような言葉を浴びせられたヘルの唇が、きゅぅっと三日月を描いた。
「解ってるわよぉ?己の内外から思念波を捕まえる貴方達は、術士の天敵だって言いたいんでしょう?」
灰髪の魔女の瞳にちらちら揺れる、暗い熾火のような物を確認しながら、ゲルヒルデは両手に燐光を纏わせた。
「ワルキューレを舐めるなよ!」
吠えると同時に拡大、変形、凝縮した赤い光は、手槍の形を成す。
両手に握った思念波の槍を、ゲルヒルデは素早く投擲した。
手槍はまるでそれ自体が意志と命を持っているかのように、ゲルヒルデの手から離れた瞬間に投げられた以上の加速を得て、
一直線にヘルめがけて走る。
その眼前で、同じく思念波変化の応用で形成された障壁が、槍の進行を妨げた。
「行け!」
ゲルヒルデが部下達に叫ぶ。
「し、しかし…!」
当然快諾などできないデカルドが難色を示すと、赤い髪を逆立てたゲルヒルデは、怒りもあらわに吠えた。
「命令だ!行け!あたしを困らせたいのか!」
ヘルの障壁によって手槍が妨げられた瞬間に、ゲルヒルデは確信していた。
もう自分では、この魔女には勝てないだろうという事を。
自分はここ数年で衰えたが、相手はその逆。ますます技術に磨きがかかっている。
思念喰らい。それこそが、ワルキューレ達が持つ、術師特効能力とも呼べる希少な力であった。
だがゲルヒルデのソレは、他のワルキューレと比べてもやや弱い。それ故にかつてはヴァルキリーウエポンによる補助を受
けていたのだが、今やそれらは部下達に与えており、彼女の手元には残っていない。
そして今、思念喰らいの性質を付加して投げたにもかかわらず、手槍は障壁を喰い切れずに止まってしまった。
さすがにすぐさま弾かれるという事はなく、障壁に食い込んで削ってはいるものの、これでは時間稼ぎにしかならない。
「無駄なのよ、もうね。私の力と貴女の力には歴然たる差が生じているの。もう相性に関係なくどうにかできるのよねぇ。所
詮貴女達ワルキューレはスカディちゃんの劣化コピー…。いかにオールドミスの性質を部分的に受け継いでいるといっても、
本物の足元にも及ばないその力じゃあ、私には勝てないわぁ」
「よく言う…。ブリュンヒルデには叩きのめされて、ほうほうの体で逃げ帰って来たくせに…!」
ゲルヒルデが口にした名を聞き、ピクリと、不快げにヘルの眉が動く。
「…ああ、居たわねぇ…。そんな娘も…」
ヘルの口調が粘り気を濃くし、ゲルヒルデは「してやったり!」と胸の内でほくそ笑んだ。
ヘルは今、自分の挑発ではらわたが煮えくり返っている。他へ手出しする余裕があまりないこの状況で、得意の策謀を巡ら
す冷静さを奪えれば、部下達の安全をいくらかでも確保できる。
そこまで読んでのゲルヒルデの挑発は、しっかり実を結んでいた。
「早く行けっ!」
唸ったゲルヒルデがもう一本の手槍を構え、空いた手にさらなる手槍を生み出す。
可能な限りの時間稼ぎを試みようという、余裕のないゲルヒルデの表情に、声に、
「…わかり…ました…!」
デカルドは、苦渋の決断を下して頷いた。
「…隊長…、どうかご無事で…!」
「お前達こそ…!」
ニヤリと笑ったゲルヒルデに一礼し、部下達は往く。
障壁を解けずに足止めされているヘルの横を抜け、彼らは往く。
二度とは会えぬ上官に背を向け、打ちのめされながら、足早に…。
「本当に良い娘よねぇ貴女。自分を犠牲に部下を助けようだなんて…。泣けて来るわぁ…」
手を目の所に持って行き、泣き真似までしているヘルに、ゲルヒルデは二本目の手槍を投げ込んだ。
二本に増えても障壁は破れず、やはり新たな槍も止まってしまう。
「健気ねぇ、健気過ぎて泣けるわぁ。ついでに、それが無駄な努力だと思うと、さらに泣けるわぁ…。何も知らない貴女に、
泣けて来るわぁ」
三本目を投擲しようとしたゲルヒルデが、動きを止めてぴくっと眉を上げると、ヘルはクスクスと、不快に耳にまとわりつ
くような含み笑いを漏らした。
「や〜っぱり、気付いてなかったわねぇ…?先回りしたのは私一人だけだと思っていたのかしらぁ…?」
「まさかっ…!」
ゲルヒルデの顔から血の気が引いた。同時に、障壁に食い込んでいた手槍の顕現力が弱まり、ブブンと震えるように形状が
ぶれる。
その隙を逃さずに障壁を解き、動きの鈍った槍を屈んで避けたヘルは、まるで見えないロープによって操られるように、足
などを動かす事無くスライドし、ゲルヒルデの眼前に迫った。
すぅっと伸びたヘルの手が、ぼわっと音を立てて燃え上がる。
凄まじい熱量を放つ炎を右手に纏わせたヘルの間合いから、ゲルヒルデは素早く後方に跳んで逃れた。
ヘルが翳した手から上下左右に広がった炎の壁は、瞬く間に壁を、天井を、床を焦がし、融解させた。
猛烈な熱気に顔を叩かれて目を細めるゲルヒルデは、以前より格段に力を増しているヘルを睨み、またも空いた手に手槍を
形成し、二本携える。
「状況が変わった…。何としてでもお前を排除し、あいつらを護る!」
「あらあらあら、熱いわねぇ、部下思いねぇ。…もっと、熱くさせてあげるわ…」
憎悪が溶けて混じった笑みを浮かべるヘルに、ゲルヒルデは挑みかかる。
散りゆく我が身の運命を悟ってか、その脳裏を懐かしい思い出が駆け巡る。
浮かんだのは、懐かしい姉妹達の顔、巨大で太っている快活な北極熊や年老いた金色の獅子の顔、仏頂面の巨漢パンダに女
好きな白虎の顔。
そして、燃えるように鮮やかな深紅の被毛を纏った虎の、慈愛に満ちた穏やかな微笑み。
(スルト…。これも、あんたが望んだ事なのか…?)
胸を締め付けられるような絶望感と哀しみを噛みしめながら、ゲルヒルデは深紅の炎に飛び込んで行った。