グレイブ最後の日(後編)

「主力はこっちに流れましたね」

「願ったり叶ったりだ。それだけ向こう側に向かう兵は少なくなる」

追撃部隊に散発的な抵抗をしている小勢の中、通路の角に身を寄せたスコルとハティは、落ち着いた様子で言葉を交わして

いた。

ハティはトンファーを射撃モードで使用し、スコルはベレッタF92を用いて、それぞれ形ばかりの応戦をしているが、実

は自分達だけなら如何様にも逃げ切る事が可能である。

敵味方を問わず人死にを極端に避けたがるハティは、かつての部下であるエンリケを介し、ベース駐屯部隊の生き残りを纏

め、ベース内の撤退戦を行っている。一人でも多く脱出させる為に。

グレイブ隊は厄介者の吹き溜まりとして認識されており、ベースの正規駐屯部隊にも疎まれていたが、ハティを信頼するエ

ンリケの仲介に加えてこの非常事態である。北原滞在中にも数々の武功を打ち立てた白い巨犬が指揮を執る事に、表立って異

論を挟もうとする者は居なかった。

この従順な反応が得られた事には、少し前に先住民族の居住跡地を調査に行ったチームのメンバー達の行動も、少なからず

影響している。

ハティに救われた者達が率先して従う態度を見せた事は、かなり大きかった。信頼に足る将校であると仲間が保証する事で、

グレイブを蔑んでいた面々も白犬に従う気になったのである。

一方でスコルは、彼らに対してハティほど親切にしてやる気にはなれなかったが、結論を言うとハティをそのままにして逃

げるのはいささか気が咎めたので、仕方なく居残っている。

白犬から聞いて知っているエンリケだけはいざ知らず、他の駐屯部隊員達は散々自分達を馬鹿にしてきた相手である。この

まま放っておき、全滅してしまったとしても、正直な気持ちを言えば心は全く痛まない。

だが、自分が逃げてもハティは必ずこの場に留まる。同じガルムシリーズとして他者より親交の深いポメラニアンには、グ

レートピレニーズのそんな性質が良く判っていた。

そんな部分を好意的に捉えているからこそ、スコルもまた、不本意ながら撤退戦に付き合う事にしたのである。

それらはハティの人徳が為せる業だと誰かが言えば、本人は否定するだろう。

だが、この急ごしらえの部隊を纏め上げているのは、まぎれもなく、ハティ・ガルムという男の行動が周囲に影響した結果

であった

現在、急造部隊は逃走経路上で入手した私物及び備品の武器をかき集めて抵抗しているものの、依然として追撃部隊とは火

力に差があり過ぎて、まともな戦闘など不可能。

それでも足止め程度の小競り合いが長時間続けられているのは、ハティの的確な指示とルート選択、及び相手の思念波を視

認して先手を取れるスコルの能力、スライドリードのおかげである。

そんな際どい防衛撤退戦の中、自分達の状況などより別の経路で脱出を試みているゲルヒルデやデカルド達の事が気掛かり

だった二人は、主力がこちらに殺到しているこの状況で、むしろ安心できた。

(主力はこちら側に集中…。さらに隊長達と共に居る今の状況ならば、ミオもいくらかは安全だろう。何より…)

ハティは銃撃戦を挑んで来る部隊の、最後尾に陣取っているであろう二名の事を考える。

手柄を渡したくないのか、ヘル直属の部隊は他の中枢のエージェントであるウルとベヒーモスの前に出ている。

後方に控える形になった両者からすれば、息巻く足手纏い達が邪魔になり、戦闘をしかけられない状況となっていた。

(厄介な二人が思うように動けないこの状況は大歓迎だ。できれば今しばらくこのままの形で引きつけておきたいが…)

素早く決断を下したハティは、黒いポメラニアンに告げた。

「私は皆を指揮し、このまま時間を稼ぐ。君は単独で先行して格納庫へ。デカルド中尉達の援護に回りつつ、あちらの状況を

伝えてくれ」

「イエッサー!」

元気よく返事をしたスコルは、自分が使っていた銃を傍にいた兵士に譲り、一足早く前方へと駆けだした。

このタイミングでのアクションが仲間の危機を救う事になるなどとは、まだ気付かぬまま。



一条の赤い光が宙を走り、燃え盛る炎が道を空ける。

ゲルヒルデが投擲したワルキューレの手槍は、炎を制御する思念波を食い散らしながら前進し、炎を退けヘルを狙う。

しかし命中しない。直立の姿勢からすっと見えない力に引かれて横へ滑るヘルの脇を、手槍は音も無く通過した。

「甘いっ!」

手槍の後を追うように、割れた炎へ自らも突っ込んでいたゲルヒルデは、手槍を投擲したまま前方に翳していた手を、自分

の方へぐいっと引く。

手綱を握って強引に引くようなその動作に連動し、飛び去った手槍は穂先を爆ぜさせ、その勢いで急停止、さらには跳ね返

るような勢いで戻る。

石突部分が新たな穂先となった思念波の手槍が後方から飛来すると、振り返る事無くそれを察知していたヘルは、自分の後

方に氷の壁を出現させた。

炎で熱された床が瞬時に凍結し、そこから生えるように垂直に伸びた氷の壁は、厚さが1メートル程もある。

炎と違ってそれ自体が物理的な障壁でもある氷は、半ばまで食い込まれながらも手槍を押し留めた。

ヘルは今、防御に不可視の障壁を用いていない。

360度、全方向をカバーする強力なあの防壁を使う事は、今は好ましくないのである。

ゲルヒルデは部下が逃げおおせるまでの時間稼ぎを狙っている。障壁を張ればこれ幸いと畳みかけるように手槍を連続投擲

し、動きを封じて来るので、おいそれと使う訳には行かない。

さらに言えば、圧縮した大気を思念波によって固め、防弾ガラスを遥かに上回る防御力を発揮するシールドは、思念波で隙

間無く密封されるが故に、基本的に使用者側からも攻撃ができなくなる。

中で術を使ってもそのまま内に篭るだけなので、使える術が大幅に限定されてしまうのである。

相手の思惑通りに事を運ばせぬため、攻撃に主眼を置いた今、ヘルは防御も他の術の応用でこなしていた。

氷の壁で後方からの手槍を阻んだヘルめがけ、前方から駆け込んでいたゲルヒルデは床を蹴った。

極端な前傾姿勢から飛び込むように跳躍したゲルヒルデの髪を焦がし、ヘルが放った強酸性の水の帯が行き過ぎる。

(いくつだ?今のお前は、同時にいくつの術を使える…?そうだよな…、さすがに三つが限界だろう?ヘル…!)

灰髪の魔女のキャパシティが、以前より高まっている事は間違いない。

だがそれでも、彼女の師たる魔人ロキの領域までは至っていないはず。ゲルヒルデはそう踏んで勝負をかけた。

炎、氷の壁、そして酸の帯…。三つの術を使用した今、あの読めない動きでの回避や見えない障壁での防御は無いだろうと

判断して。

飛び込むような姿勢になっていたゲルヒルデの背で、軍服の背が裂けた。

その内側から、強靱な繊維を突き破って出現したのは、思念波の噴出が形作る赤い翼。

戦乙女は赤い翼を得て急加速すると同時に、両手に携えた手槍を胸の前で合わせ、瞬間的に結晶化を解除、融合させ、より

長く、太く、大きな穂先を備えた槍に仕立て直した。

高速飛行で一気に距離を詰めるゲルヒルデの手から、まるで戦闘機から発射されるミサイルのようにすっと離れた槍が、弾

かれるように彼女以上の速度で飛ぶ。

それを映すヘルの瞳が怪しく輝くと、後方に出現していた氷の壁がすっと引っ込み、彼女の前方で再度生える。

移設された氷の壁に激突した槍は、その穂先を僅かに貫通させて止まった。

「惜しか…」

「詰みだ、ヘル!」

嘲るようなヘルの声を遮り、ゲルヒルデが吼えた。

飛行する戦乙女は、放った槍にやや遅れ、氷の壁に突っ込んだ。

「串刺しっ!」

高速で飛来したゲルヒルデは宙で身を捻り、氷に食い込んだ槍の石突を、飛び蹴りの要領で捉える。

それは、彼女の姉が得意としていた、ワルキューレの基本戦闘技術に体術を融合させた戦技であった。

分厚く硬い靴底が、彼女の加速と体重を槍に伝え、一点集中された力が氷の壁を突き破る。

巨大な氷が砕け散り、無数の破片が美しく煌くその中で、身を捻ったゲルヒルデは前方に背を向け、思念波の噴出によって

形成される翼を爆ぜさせた。

思念波が結晶化した無数の羽毛が、氷の煌きを裂いて前方へ殺到する。

無数の細かな剃刀が、氷の残滓も含めて通路全体を削り取ってゆく。

砕けた氷が熱で気化し、霧が立ちこめた通路で、翼を失い、力を使い果たしたゲルヒルデは、そのまま焼けた床にどさりと

落ちた。

思念波の大量消費によって朦朧とする意識を何とか繋ぎ止め、へたり込んだままゆっくりと顔を起こしたゲルヒルデは、

「…ちくしょうっ…!四つか…!」

疲労の色が濃い顔に、憎々しげな表情を浮かべていた。

羽毛の群れが消え去り、雪のように細やかに破砕、裁断された氷の破片が舞い踊る中、ヒールのあるブーツがコツリと音を

立て、熱で溶け固まって歪んだ床を踏み締める。

「なかなかだったわぁ…。流石のわたしも、今のはちょ〜っと焦っちゃったぁ…」

不可視の障壁を出現させていたヘルは、舞い散る氷の欠片の中、球体の安全空間を纏ったままゆっくりと足を進める。

「四つ目を使うのはちょっとキツいのよねぇ…。頭痛がしちゃう…。でも、惜しかったわねぇ、ホント…」

ヘルは気だるそうな顔に、微かな笑みを浮べた。

「貴女は切り札のつもりだったのかもしれないけれどねぇ…。知っていたのよぉ、あの動き…」

ハッと顔色を変えたゲルヒルデを見下ろし、ヘルの唇が三日月の形にきゅうっとつり上がる。

「ブリュンヒルデちゃんが私に酷い事をしたの…、貴女は知っていたわよねぇ?」

その言葉で、ゲルヒルデは失策に気付いた。

使い手が絶えて久しいあの戦技は、確かに彼女の切り札であった。

今となってはもうあれらの技系を知る者は殆ど居らず、対処され難いからこそ密かに習得もした。

だが、ヘルは知っていた。かつて、身をもってオリジナルを体験しているからこそ、ゲルヒルデの動きから先を読めたので

ある。

「彼女が一度でも見せたヴァルキリーダンスは、わたしには一切通じないわぁ」

余裕の笑みを浮べたヘルの前で、床にへたり込んだままのゲルヒルデは歯を噛み締めた。

「ちくしょうっ…!」

ヘルの死角、足の陰で握ったその手には、もはや槍も作れないほど消耗した思念波を振り絞って結晶化させた、赤い短剣。

「さようなら。ゲルヒルデちゃん」

広げられたヘルの右手がゲルヒルデに向き、そこに青白い光の玉が出現した。

球体は激しく、細かく、絶え間なく明滅している。

それは、有機物を一瞬で炭化させるだけのエネルギーを秘めた、球状のプラズマ現象であった。

「おおおおおおおおおおっ!!!」

プラズマボールがすっとヘルの手から離れるのと、ゲルヒルデが最後の力を振り絞って立ち上がり、飛びついたのは、ほぼ

同時であった。



肉を裂き、腱を斬り、骨を断ち割るその音は、スノーモービルや雪上車のエンジン音の中、不自然なまではっきりと竜人の

耳に届いた。

始動したばかりのモービルの上で振り向いたデカルドの目に、高々と飛んだ部下の首が映り込む。

血しぶきの噴水の真上で踊ったその首は、自分の身にふりかかった災厄の訪れを認識しておらず、計器類を操作していた時

のまま、焦りの表情を浮かべていた。

落下してゆくその首の下、周囲に散る鮮血の中、黒いジャケットに身を包んだ痩身の狐は、口元を笑みの形に歪ませ、目を

爛々と輝かせる。

いつ格納庫に侵入したのか、脱出準備を進めていた隊員達の誰も判らなかった。

追いつかれ次第警告するはずだった出入り口の見張り二名は、狐の接近に際し、一言も発する事ができなかったのである。

双方同時に、剣一振りで首を胴から切り離されたせいで。

鮮やか過ぎる奇襲と殺害を披露して格納庫に入り込んだ狐は、戦いに楽しさを求めるその性質により、腹の底から渇望の声

を上げた。

「さぁ、一番強いのはどいつだ!?楽しく殺りあおうぜ!」

エージェントの大半が極めて高い戦闘能力を有している事を重々理解しているデカルドは、スノーモービルから降りるなり

腰後ろのショットガンを抜き、副長に指示を出す。

「ここで食い止める。お前は皆を率いて先に行け」

「しかし…!」

「口答えも復唱も不要!行け!」

反論しかけた副長を一喝し、デカルドはいつの間にか自分に視線を据えていた狐に注意を戻す。

「へぇ…。あんたはソコソコだな?ま、55点ってトコか…」

狐はニンマリと笑うと、大好物を前にした子供のように舌なめずりした。

「おれはヘイムダル!中枢第三卿ヘルのエージェントだ!あんたの名前は!?」

「…グレイブ第三小隊長、デカルド・ディスケンス中尉。…いや、元小隊長の、元中尉だな…」

デカルドがヘイムダルの名乗りに応じたその直後、竜人の横に、すっと進み出た者があった。

「元グレイブ第三小隊所属、スコル・ガルム軍曹だ!」

狐と竜人の視線を同時に向けられたポメラニアンは、小柄なその体をいくらかでも大きく見せようとするように背筋を伸ば

し、胸を張る。

ハティに先行を命じられたスコルは、その小柄さを生かし、小型貨物用のエレベーターを利用して地下から格納庫まで大幅

にショートカットし、仲間の窮地に駆けつけたのである。

今、ハティの果断とスコルの臨機応変さが、崩れかけた戦況を僅かながら維持の方向へと修正しようとしていた。

「スコル…!一体どこから…!?いや、たった今行けと命じただろう!?」

「今来たばかりなもんで、ご命令が届きませんでした」

しゃあしゃあと言い訳にもならない言い訳をしたスコルに、なおもデカルドが言葉を浴びせようとすると、

「一蓮托生!…そう、約束したでしょう?中尉殿…」

ポメラニアンは上目遣いにデカルドを見上げ、媚びるような視線を向ける。

「何て言われたって、もう二度と貴方の傍を離れませんよ?…生まれ直してまた巡り会えたこの奇跡が、二回起きる保証は無

いんですからね…」

デカルドは口元を引き結んで一旦黙り込むと、

「…二度も、自分の為に死んでくれるなよ…。フレッド…」

悲痛な響きが篭った声で、生まれ直して二度部下になってくれた男に囁きかけた。

「イエッサー!」

威勢の良い返事をすると同時に、スコルは腰の後ろに交差させて装備していたククリを抜き放つ。

道中で確保した作業用具だが、これもラグナロク製。当然武器としても使用に耐え得る一品である。

素体の記憶を宿すエインフェリア、スコル・ガルムは、素体が慕っていた男に並び、格上の相手に挑む。

かつて彼の素体が米軍に所属していた頃の上官であり、地位も名誉もかなぐり捨ててラグナロクに参加し、別人であると半

ば理解しながらも自分を探し出し、そしてわざわざ問題を起こしてグレイブにやって来た、愚かで一途な竜人の隣で…。

「往くぞ!」

「サー!」

同時に床を蹴って前に出た二人を、剣を一振りして刃の血を跳ね飛ばしたヘイムダルが、整った顔を喜悦に歪ませ迎え撃つ。

「どっちもまずまず…!合わせて百点だ…!楽しくなって来たじゃねーの!」

前に出て駆け寄るスコルと、その倍する速度で瞬時に詰め寄ったヘイムダルが、二本のククリと黒い直剣を噛み合わせる。

細身から発せられる予想外のヘイムダルの剛力により、両腕を使っているスコルは片腕一本に圧倒された。

ポメラニアンの上体がぐっと押され、突っ込む際にとった前傾姿勢から、背筋を伸ばした格好まで戻される。

そこへ、後方から遅れて駆け込んでいたデカルドが、レッグホルスターから引き抜いたオートマグの照準を据える。

思念波の感知によって、そしてそれ以上に強い相互理解によって、デカルドの射撃タイミングと狙いを把握したスコルは、

ヘイムダルに押されるがまま後ろへと身を投げ出した。

放たれた四十四口径の弾丸は、背中から床に倒れ込む格好になったスコルの真上を抜け、ヘイムダルの顔面に到達するコー

スを突き進む。

が、次の瞬間スコルの顔が驚愕に歪んだ。

「おっとあぶねっ!」

そう漏らした狐は、倒れたスコルへの追撃を中断し、横手に身を裁き、際どい所で弾丸を避けている。

弾丸の軌道を読み、避ける。それ自体はハティや同僚のシベリアンハスキーもやってのける行為であり、それだけだったな

らばスコルはそこまで驚かなかったが、狐の反応はあまりにも奇妙だった。

(思念波より…、体の方が先に動いただって…!?)

回避行動、攻撃行動、いかなる行為であろうと、本人の意志に基づいての行動である以上、いかなる生物も思念波に何らか

の動きが生じる。それこそ機械でもない限りは。

思念波を視認するスコルの瞳は、本人にまとわりつく個人ごとに色が異なる霧のような物としてそれを捉える。

しかしヘイムダルの今の回避行動については、それが一切認められなかった。

相手の行動に先駆けてその霧の動きが見え、それによって動きを先読みできるのが彼の能力の強みなのだが、ヘイムダルは

霧が先駆けて動く事なく、逆に本体の方が早く動いており、先読みが効かなかったのである。

しかし直前まではある程度効いていた。ヘイムダルのスピードが速過ぎて、思念波の動きが読めても対処にさほど余裕が持

てなかったが、それでも認識自体はできていた。

だが、弾丸回避のその時だけ、逆に思念波の霧が置き去りにすらされている。

スコルは驚愕と疑問を胸の深い部分に押し込め、回避後の体勢立て直しの隙を突き、両手を床についたその状態から、得意

の蹴り技を繰り出した。

小柄な体全部をバネにして、半ば逆立ちするような格好で両脚を揃え、ヘイムダルの胸部と喉を狙うが、しかし今度もヘイ

ムダルは思念波を置き去りにして身を捻り、胸元を掠らせて回避する。

(なっ!?またっ!?)

二度同じ現象を目にしたスコルは、それが偶然ではないと確信する。

時に達人は、意志に先んじて肉体が危険に反応するが、まさにその現象が起こっていた。

ヘイムダルの素体となった男は、そんな反応を全自動で行える能力者であり、彼自身もそれを完全に受け継いでいる。

本人が意識を失っていても全自動で回避、反撃を行い、戦闘を継続する能力…。防衛本能の遙か延長線上にあるその能力は、

バーサーカートリップと呼ばれていた。

肉体の自動回避反応の途中でスコルの攻撃を確認したヘイムダルは、回避行動を体任せにしたまま、「手動」での反撃準備

を整えている。

自動回避中にも意識を別行動に向ける事ができ、なおかつマニュアルとオートを自在に切り替えられるのが、この能力の恐

ろしさであった。

相手の崩れた姿勢を観察し、より効率よく急所を狙える角度を割り出したヘイムダルは、しかしやや残念そうに眉根を寄せ、

構え直しかけた剣を引く。

狐の首筋めがけてデカルドが放った二射目が、引き戻した剣の鍔で弾かれた。

一瞬の猶予を得たスコルは、逆立ちの姿勢から足を左右に開き、ブーツに思念波を喰わせて推進力に変え、独楽のように回

転してヘイムダルを蹴り払いにかかった。

その蹴りへ己の靴裏を乗せるように合わせた狐は、回転に逆らわず、勢いを利用して跳ぶ。

6メートル上の天井に達するその大跳躍を、デカルドは逃さなかった。

即座に片腕で構えられたスパス12が、空中のヘイムダルに銃口を向けるなり火を噴いた。

装填されていたのは12ゲージのショットシェル。無数の散弾が広がりながら襲いかかり、ヘイムダルの全身を打ち据えた。

が、散弾の雨を浴びながらも、ヘイムダルは顔と胸部など、深刻なダメージに至る部位への被弾は、自動反応で小刻みに動

いた剣により弾いている。

天井へ逆さまに着地した狐の体はあちこちに被弾しており、ジャケットにも穴が空いているが、軽傷と言って良い程度のダ

メージしか負っていない。

その、手傷を負った体が天井を蹴って高速落下した先には、体勢が戻っていないスコルの姿。

回避が間に合うタイミングではない。が、駆け込んでいた竜人がポメラニアンへタックルを仕掛けてかっさらい、真上から

跳んできた狐の剣先から遠ざける。

「くっ…!とんだ化け物と出会ったものだ…!」

床に転がって即座に体勢を立て直したデカルドは、スッパリと切られたズボンのふくらはぎをチラリと見遣り、ぎりっと歯

噛みする。

寸前で切り払いに転じつつ着地したヘイムダルの剣先が、交差する一瞬で竜人の足を浅く掠めていた。

際どいタイミングであった。下手をすれば二人揃って仕留められていた所である。

デカルドの脇にじりっと進み出たスコルが、緊張に引きつった顔で囁いた。

「…中尉…。こりゃあちょっと勝てそうにないですよ…。どういう仕組みか判りませんが、先読みできません。スライドリー

ドが役に立たない…、正に天敵です」

「同感だ。二人がかりでこの有様とは…。下手をすると、ハティ大尉と同等クラスの化け物かもしれん…」

応じるデカルドの顔も、色濃い危機感で強張っている。

戦闘が勃発した格納庫内で、雪上車へ武器や物資を投げ込む手伝いをしていたミオは、惨劇を目にした瞬間から固まってし

まい、今もなおガタガタと震えていた。

「大尉…!ハティ大尉…!ここは…、ここはもうダメです…!」

無力で臆病な少年は、恐怖に震える声で頼みとする上官の名を繰り返すのみで、何もできなかった。



コツンと、ブーツが床を踏み締める硬質な音が、通路に反響した。

ソバージュをかけた灰色の髪を揺らし、ヘルは熱気が荒れ狂う通路を、一歩一歩、ゆっくりと進む。

左腕は力なくだらりと下がっている。肩口に赤い短剣が深々と突き刺さっており、指一本動かない。

右手には赤い物を掴んでいる。燃えるような鮮やかな、髪の毛を。

ヘルの右手にぶら下げられたゲルヒルデは、眠っているように目を閉じている。

その首から下は、炭化して焼失してしまっていた。

頬が僅かに煤で汚れているだけで、血も流していないゲルヒルデの頭部は、そこだけ見れば、まるでまだ生きているように

も見えた。

「貴女には、恨みも憎しみもあったけれど…」

ゲルヒルデの生首に、ヘルは疲れたような口調で語りかける。

「それ以上にね、邪魔だったのよ…。わたしにとっても、スルトにとっても…」

高熱で溶けて歪んだ通路に、ヘルの独白が寒々しく響く。

その声音は、常日頃の人を食ったような間延びした口調ではなくなっていた。

「過去の良き日々を思い出させる物なんて、今のスルトには害にしかならないわ…。世界を焼き尽くす無慈悲な紅蓮に、ひと

としての情や感傷なんて…邪魔にしかならない…。彼に、ワルキューレ達と世界を駆け巡ったあの頃を思い出させる貴女は…、

今や毒にしかならないのよ…」

ヘルは足を止め、己が放った熱で溶け、岩窟のようにいびつになった天井を見上げた。

「貴方は悲しむでしょうけれど…、これも貴方の為よ、スルト…。貴方が、世界を焼き尽くす審判の炎になる為の…」

目を閉じたヘルは、甘美な夢に酔いしれているように、うっとりと表情を緩ませる。

格納庫は、すぐそこであった。



幾度目かの接触と離脱。響き渡る銃声と剣戟音。

既に半数以上が脱出した格納庫では、デカルドとスコルの奮戦が続いていた。

二人とも浅い傷をいくつも負っているが、深傷はない。

それは両者を一人で相手取るヘイムダルも同じ事なのだが、こちらは少々具合が違う。

その能力、バーサーカートリップの一端による作用で、痛みが行動を全く妨げないため、二人と違って一向に動きが鈍って

いない。

しかし無痛となっている訳ではない。傷を負った事を認識しながらも痛みが緩和されている状態であり、痛み自体は信号と

して脳に伝わっている。

怪我の具合を冷静に見つめながら、必要とあらば痛みを無視できる…。バーサーカートリップという能力は、自動反応と信

号操作により、使用者の体を戦闘マシーンのようにしてしまう事も可能な力なのである。

二人がかりでもなお押されているデカルドとスコルは、一瞬たりとも気が抜けない激しい戦闘によって、息が上がり始めて

いた。

対してヘイムダルはまだまだ余力を残しており、息のあった動きを見せる二人との戦闘を楽しみ、笑みすら浮かべている。

「ちぃっ!」

12ゲージシェルを撃ち尽くしたデカルドは、眼前に迫った狐の斬撃に合わせてショットガンを投げつけ、刹那の足止めに

利用する。

鋼鉄の塊のような頑強なショットガンはジルコンブレードによって左右に切り分けられ、狐はその中央を素早く踏み抜ける。

が、そこで唐突に動きを止めると、真横へと剣を突き出した。

「ウォルター!」

デカルドの悲鳴に近い声が上がったのと、横合いからヘイムダルに掴みかかった男が胸を貫かれたのは、ほぼ同時であった。

第三小隊の副隊長、ウォルターは、半分命令に従い、半分命令に逆らった。

命令通りに隊員達を脱出させながら、しかし彼らを先導するという命令には従わず、最後まで残っていたのである。

胸の中央を貫かれて喀血しながらも、ヘイムダルの腕をがっしり掴んだ屈強な中年は、もはや声も出せなくなった口を僅か

に動かし、ニヤリと笑った。

「ウォル…」

再び叫びかけたデカルドの体を、その半分程度しか体重の無いスコルが、リミッターをカットしつつ腰にタックルする格好

で捕まえ、ヘイムダルとウォルターから遠ざける。

「お別れです」

ウォルターが声に出来なかったその言葉を、スコルだけは唇の動きから聞いていた。

ヘイムダルは自分の腕を掴んだ男の胸元をじっと見つめ、舌打ちしながら顔を顰める。

貫いた際の感触には、今思い返せば不自然な抵抗があった。

「こいつは一本取られたな…」

呟いた狐の前で、ウォルターの体が爆風と共に四散した。

彼が胸に抱いていた爆薬が炎をまき散らし、ヘイムダルを飲み込む。

爆風に飛ばされ、格納庫の端まで転がったデカルドとスコルは、よろよろと身を起こし、炎の中心を見つめた。

「ウォルター…!」

ギリリと歯ぎしりしたデカルドは、ギュッと目を瞑って拳を握り締めると、しかしすぐさま踵を返し、何かに耐えるように

歯を食い縛って無事なモービルを探す。

部下の思いに報いる為にも、今は立ち止まっていられなかった。

「こいつはまだ動きます!」

あちこち焦げているものの、運転には支障が無さそうなモービルを首尾良く見つけ、スコルは声を上げた。

「脱出しよう…。先に行った皆に追いつかなければ…」

応じたデカルドは、しかし爆炎の中に人影を確認し、ギョッと目を見張った。

「あらあらあら?聞いていたよりモービルが少ないわぁ。どうやら随分逃げちゃったみたいねぇ?」

限界まで見開かれたデカルドの目は、炎の中を歩むヘルではなく、彼女の右手がぶら下げている物に向いていた。

「た…、隊長…!」

無惨にも物言わぬ生首と成り果てたゲルヒルデの顔から、デカルドは目が離せなくなった。

何と言われても、彼女の下を離れるべきではなかった。

後悔が胸を満たし、激しい憎悪がはらわたを焼く。

元々変革とは別の目的を持ってラグナロクに参加していたデカルドは、組織に心からの忠誠を誓っていた訳では無い。

だがそれでも、ゲルヒルデ個人は信頼に足る、忠誠を誓うに値する、良き上官であった。

「ぐ…う…!」

牙を噛み締めるデカルドの口から悔恨の呻きが漏れると同時に、ヘルの手がゲルヒルデを離した。

ゴトっと、床に転がるゲルヒルデの首。そちらに目を奪われ、ないがしろに扱うヘルへの憎悪をますます掻き立てられたデ

カルドの目に、灰髪の魔女が翳した右手の輝きが映った。

再びプラズマを放とうとしたヘルは、しかし、

「っつぅ…!?」

左肩に走った鈍痛により、集中を乱された。

ゲルヒルデによって打ち込まれた赤い短剣が、デリケートな作業に入ったヘルの思念波を吸収し、掻き乱す。

制御が不安定になり、暴れ出そうとするプラズマをヘルが抑え込むそこに、一瞬の隙が生じた。

「中尉!」

スコルの叫びと同時に、デカルドはぐんっと引っ張られた。

モービルに跨ったスコルは、デカルドの腕を片手で掴み、強引に引っ張り上げる。

補助キャタピラで床をガリガリと抉りつつ加速してゆくモービルの前方には、ぽっかりと空いた白い世界への四角い境界。

「隊長ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

デカルドの悲痛な叫びを残し、二人を乗せたスノーモービルは白いヴェールの向こうに消えた。

「…しくじったわねぇ…」

プラズマの制御を取り戻し、収縮させて消したヘルは、開け放たれたままのハッチを眺めながら呟いた。

その肩に食い込むゲルヒルデ最期の一撃、思念波の短剣から、赤い霧が立ちこめ始める。

ゲルヒルデの執念か、それともそういう性質を付加して具現化させたのか、造物主が息を引き取った後も具現化を続け、ヘ

ルの行動を阻んだ短剣は、役目を終えたかのように結合を失って霧散し、静かに消えて行った。

短剣が消えたおかげで出血を始めた傷を手で押さえ、ヘルはゲルヒルデの首を見下ろす。

「最後の最後まで、邪魔をしてくれるのねぇ…、貴女は…」

そう呟くなり、ヘルは炎が踊る格納庫を見回した。

「ヘイムダル、何処にいるの?」

「あ〜い、ここにぃ〜」

そのくぐもった返事は、ヘルの足元から聞こえた。

すぐさま床がビシッと切り裂かれ、下に潜っていたヘイムダルが「よっこいせ…」と姿を現す。

「あらあらあら、酷い格好ねぇ」

ゲホゲホと噎せ返る狐は、衣類があちこち焼け焦げ、いたるところの毛が炎で炙られチリチリになっていた。

「いやー参った参った。自爆攻撃しかけられてさー、爆風より速く飛び退くのは無理そうだったから、咄嗟に潜って床を盾に

した。…けどま、ご覧のとおり床下まで入って来たよ。火。見てくれよこれぇ、自慢の尻尾が先に焦げ目作って…ん?まさか、

怪我してんのかいヘル?」

ヘルの負傷に気付いて顔を顰めたヘイムダルは、「大した傷じゃないわよぉ」と言う主の返答を受けても、表情を引き締め

たままであった。

「貴方の落ち度じゃないわよぉヘイムダル。離れて動くように言ったのは、他でもないわたしなんだからぁ。…むしろ、この

程度の傷で済んだのは幸運だったかもしれないわぁ」

微笑んだヘルは、しかしその表情とは裏腹に、最後のワルキューレが見せたあがきを思い返して安堵していた。

(もしも邪魔が入っていたら…、他に誰か一人でもそこそこ使える者があの場に残って居たなら…、あるいは、この程度じゃ

済まなかったかもしれないわねぇ…)

グレイブの頭は落ちた。

銀世界へ逃亡した者達、そして未だにベース内で交戦している者達、残党の掃討戦は残っているものの、ヘルの目的はこの

時点で半分達成されている。

目障りだった最後のワルキューレは死に、始末すべき三体のエインフェリアは残り二名…。

「さて、ヘイムダル。貴方は追撃に向かってちょうだいな。わたしは基地内に留まっている方を見物して来るから」

「おれ、あんたと一緒に行かなくても良いのか?」

ヘイムダルの窺うような視線と問いかけを受け、ヘルは微笑んだ。

「有り難う、でも大丈夫よ。さぁ、追撃の方、しっかりお願いねぇ?」

「ああ…」

釈然としない顔つきではあったが、ヘイムダルは主に頷くと、被害を免れたスノーモービルを探り当て、ひらりと跨った。



竜人が駆るスノーモービルの後ろで、騎手を交代したポメラニアンは、簡易通信機を使用して仲間に呼びかけていた。

憤りと哀しみに歪むその顔を、雪の結晶が叩き、白く染めてゆく。

デカルドとスコルを乗せたモービルの前方には、先に脱出していた雪上車とモービルの群れ。

双方は同じ方向へ進みながら合流すると、白い世界を突っ切ってゆく。

白い闇と景色の中で、今や逃亡者の群れとなったグレイブの残党達が列を成す。

群れの中の一機、やや前方をゆくモービルの後部に乗せられたミオは、同僚の背にしがみ付きながら首をねじり、後方を見

遣った。

もはや格納庫の出入り口は見えず、後方には白い闇が蟠るのみ。

「…大尉…」

まだベースに留まっているはずのハティを案じ、ミオは呟く。

北原は今夜も容赦なく吹雪き、彼らの身を白く埋め、景色に塗り込めようとしていた。