ドレッドノート(前編)
ベース内での撤退戦は、時間稼ぎという側面もあった。
付き合わされる兵士達にしてみればいい迷惑だが、こればかりは承知して貰うしかない。
揃って脱兎の如く逃げ出したのでは、初めから足が確保できる状況にある抹殺部隊から逃げおおせられる可能性は低くなる。
纏めて追い潰されるのがオチだ。
そんな訳でグレイブ隊と離れ、主力を足止めしつつ別のルートから格納庫を目指している私は、かつての部下エンリケを再
び片腕とし、彼以下十九名の兵士を率いて形ばかりの交戦をしていたのだが…、いかんせん物資不足は否めない。
弾薬も乏しくなってきた事だ、そろそろ潮時だろう。
「爆薬を利用して通路を封鎖する。その後は、いよいよ逃げの一手だ」
「了解大尉。おい、爆薬を…」
私の言葉を受けたエンリケは、傍にいた部下に爆薬を持って来させた。
相手部隊最後尾に押しやられているはずのウル、そして少年エージェントには、今のところ動きはない。
ウルの力は私とほぼ同じだ。遠隔攻撃を仕掛けられない訳ではないが、軌道上に味方が布陣しているせいで、おいそれとは
使えまい。
障害物を避けた使い方もできない訳ではないが、距離があり過ぎて難しいだろう。
しかし厄介だ…。私にできる事はほぼ全てウルにも可能。その事により確かに予測は立て易いのだが、いかんせん彼の力は
応用が利き過ぎて、頭に留めておかねばならない事が山ほどあり、付け入るべき隙がなかなか無い。…ふむ。これもある意味
手前味噌になるか…。
持ち込んだ兵によって爆薬が手早くセットされ、信管と雷管がセットされる。
手際よく起爆装置を繋ぎ、準備を終えて私を見た彼の顔には、覚えがあった。
この隊員は確か…?そうだ。エスキモーの居住痕跡調査の際、撤退戦で一緒になったな。エンリケ直属の部下だったはずだ。
「準備、宜しくあります大尉殿!」
「結構。手際が良いな」
満足して頷いた私は、撤退に移る機会…つまり起爆のタイミングを計り始めた。
この場にスコルが居れば思念波感知でタイミングも計りやすくなるのだが…。無い物ねだりとは、私も焼きが回ったかな?
相手の射撃は隙間無く続いている。すぐに突撃を仕掛けてくる様子はない。
私は身振りで合図し、散発的な射撃を行わせながら皆を数名ずつ下がらせる。
弾薬は惜しいが、急に途絶えては不審がられ、後退を気取られかねない。
トンファーの射撃は途絶えればすぐにも気付かれるので、私がここを離れるのは最後だ。
念のために自分の脳の疲労をモニターすると、まだ問題はないがそれなりに消耗している事が判った。
弾薬のみならず、正直思念波の浪費も惜しいが、そうも言ってはいられまい。
こんな状況にもかかわらず、不意にミオと一緒に食ったグミの味が思い出された。
…ミオ…、必ず君を無事に逃がしてやる。
合流して、休憩が取れる状況になったら、また一緒に菓子を食おう…。だからそれまでは何とか頑張って…、
「大尉?」
エンリケの訝しげな声に、私は我に返る。
「どうなさいましたか?」
「どう…、とは?」
聞き返した私を、エンリケは珍しい物でも見たような顔で凝視していた。
「付き合いはそれなりですが…、大尉が笑っておられる所は初めて見ましたので…」
…そうか。私は今、笑っていたのか…。
「部下が教えてくれたのだ。笑い方を」
応じた私はさらに兵を下げ、最後のグループの引き際を見極めにかかり…、不意に入った通信に反応して、半ば無意識に首
輪に触れた。
『…尉…!ハティ大…………ますか!?』
スコルの声が、骨導で私に伝わった。ジャミングが展開されているのか、その声は著しく明瞭さを欠いている。
『…納庫……落!…繰り返…ます!格納……陥落!…………は…戦死…!…ティ大尉!別……トで撤退……!大…………』
おそらく、奇跡的に一瞬繋がっただけなのだろう。不明瞭な通信は短時間で途絶えた。
…誰が戦死した?…いや、今は憶測を巡らせている場合ではない。格納庫が落ちたとなれば、他の脱出手段を考えねば。
それなりに上手く行く自信はあったのだが、やっつけの下準備というメッキは、思いの外あっさり剥がれたな。
素早く考えを巡らせた私は、すぐさま次の手段を思いついた。
かなり危険だが…、しかし他の手ではおそらく駄目だろう。いくつか安全な手段も思い浮かんだが、その悉くは例え実行に
移した所で、そう保たずに捕まるだろう。
エンリケに耳打ちし、作戦の変更を伝えると、彼は眼球が飛び出さんばかりに目を見開いた。
「正気ですか!?」
「お互いにとって不幸な事に、どうやらこの期に及んでもそうらしい」
「イカレていますよ!」
「では止めるか?」
私の問いに、エンリケはニヤリと笑った。
「イカレてますが、イカしてもいます。冗談を言わない大尉がこの状況でそんな事を言い出されるなら、どのみち他に手は無
いのでしょう?」
「残念ながら」
私は頷き、エンリケは「やりましょう」と笑う。
「座して死すより進んで死ぬ。悪くはないですな」
「一つ訂正だ。生きる為に進む」
私の言葉に、エンリケは笑みを深くした。
「大尉は、本当に変わられましたな」
…だとすれば、それはミオのおかげだろうな。
エンリケは直ちに皆へ伝えた。彼から変更後の撤退ルートを聞かされ、数名は首を傾げていた。
勘の良い者は疑問を覚えただろう。そのルートが、やや戻って行く形になっている事に。
命令を出し直し、改めて撤退タイミングを計った私は、最終的に私以外の全員を先に進ませた。
起爆は私が行う。できれば気付かれずに新たなルートに入りたいが…。
いよいよとなり、起爆スイッチを手に取った私は、唐突に上がった妙な声を聞いた。
それは、銃声に半ばかき消された、驚きの声。沸き上がった違和感は、すぐさま危機感を伴う確信に転化された。
私は対銃弾用にショックフィールドを展開しつつ角から飛び出し、銃撃に晒される位置に立ってソレを確認した。
飛んでくる銃弾が減っている。幾人かの射手がトリガーから指を離した事と、前に出たソレに阻まれた事で。
一瞬目を疑った。
隊列の前に出て、味方の銃撃の真ん中を、躊躇いなく走ってくるという信じがたい行動を取ったその少年の姿は、現実味が
薄い。
一体どんな能力を持っているのだろうか?明らかに弾丸を背中に受けているように見えるが、エージェント、ベヒーモスは
倒れない。
いや、倒れないどころか、背面に当たっているはずの銃弾は、命中せずに消えてしまっているかのように、少年の体を揺ら
しもしない。
まるで、黒い疾風のようだった。
人間とは思えない速度で通路を駆け抜ける少年は、その瞳を私に真っ直ぐ向け…。
…?
私は少年の風貌のどこかにおかしな点があるような気がして、一瞬目を細めた。
何か違う。先程接触した時とは、何かが…。
それが瞳の色であると気付いた時には、疾走する少年の手がまっすぐに伸びている。
こちらに向けて開かれたその手から、何かが発せられるのではないかと警戒した私は、唐突にショックフィールドの全面、
私の顔の真正面に生じた黒い球体に視線を釘付けにさせられた。
…何だこれは?物体…ではない。いやに深い黒さのこれは…、…穴?まるで、一切の光が射さぬ底なしの洞穴のような…。
私の短い思考が終わらぬ内に、少年の手が、何かを握り潰すようにして閉じられた。
次の瞬間、黒い球体は一気に収縮し、消滅する。重なっていたショックフィールドを飲み込んで…。
何だ?どういう現象だ?衝撃波の無効化能力?…いや違う。飲み込まれたのは一部分だけで、きっかりそこ以外は影響を受
けていない。事実、衝撃の伝播は直ちに再開し、穴は塞がった。
では、衝撃波が途切れたのは…、伝播すべき対象が無くなったせいか?
…原理は判らないが、どうやらこの少年は真空状態を生み出す事ができるらしい。
大気干渉…にしては少々妙だが、今の現象は真空領域が生じたせいで、衝撃の伝播が滞ったと説明できる。
「衝撃波の連続放射によって形成される障壁と認識…。ウルと同じ能力を持っているというのは、どうやら本当らしい」
少年の声は、駆けているにも関わらず乱れていない。その冷たい視線と声音からは、機械的な印象を受けた。
あるいはこの少年も、まっとうな生き物ではないのかもしれない。私やウルのように…。
瞬く間に距離は詰まった。が、少年の能力を僅かながらも把握できた事は大きい。
抜かれた刃が翻り、駆け込む勢いを乗せた鋭い突きが繰り出される。
正直な事を言うと、私はこの瞬間ソレを予期していた。
だからこそ、その鋭い一刀を避ける事ができた。
弾丸の軌道すらねじ曲げるショックフィールドを、何の抵抗も無く貫通して来たその一刀を…。
僅かに体を斜めにし、横へ退いて首を曲げた私の頬で、白い被毛がスパッと失われた。
斬り散らされたのではない、「消失」したのだ。
…私の推測は外れていた。真空を作る能力ではない。少年の力は、それとは違う「何か」だ。
しかし際どかった。先にあの遠隔攻撃を一目見て警戒していなければ、フィールドに穴を開けて直進して来た剣先で顔の中
心を消されていただろう。
少年を巻き添えにする事を避ける為だろう、今や銃撃は止んでいる。もはやフィールドを展開しておく必要は無い。目前の
極めて危険な少年を相手取りながら、余計な事をしている余裕など…。
「…むぅ…」
フィールドを解除しつつ追撃を飛び退いてかわした私は、我知らず呻いていた。
返す刃が纏う黒い霞のような物が、私のジャケットを消して行った。
ゾックリと抉られたように繊維が削られている。そして、削られた残骸はどこにも見当たらない。
極めて速く正確な、見事としか言いようのない太刀筋だ。それに加えてあまりにも不自然な頬毛と繊維の消失現象が、私の
警戒心を煽る。
剣を受けず回避に徹している私だが、トンファーで受けないのはどうにも嫌な予感がするからだ。
この少年の能力は得体が知れない。うかつに受け止めようとするのは危険だ。
しかし妙な太刀筋だ。尋常ではない剣速にも関わらず、風切り音が全くしない。
大気が唸るのは剣が駆け抜けた後。その軌道に駆け込む空気の、移動に伴う物だけ…。
…?…刃が空気を裂く音が…しない…?
斬られた頬毛や削られた繊維の残骸が見当たらない事といい、またもや不自然な点が見つかった。
この剣が纏う霞のような物が、先程の球体と似た性質を持っている事は間違い無いだろう。では、その正体は?この現象の
説明はどうすればつく?
私は思い返してみた。ショックフィールドを破ったあの球体の事を。
衝撃が伝播できなくなる状況は…、つまり伝う物…空気が無くなれば生じる。私の能力は真空を伝う事は無い。
だが、真空を生み出したとしても、斬り飛ばしたはずの私の被毛やジャケットの繊維が消えるという現象には説明がつかな
い。故に真空状態を生み出す能力ではないと思ったのだが…。
…まさか…?
驚愕と供に、この有り得べからざる現象の正体を連想した私は、一瞬の隙を突かれ、剣を振り切った少年が繰り出した一撃
を鳩尾に受けてしまった。
「…ぐ…!」
薙いだ剣の勢いそのままに回転した少年は、腰の鞘を外して私の鳩尾に突き込んでいた。
胃液が喉元まで込み上げ、眼圧の変動によって目の前で星が舞う。
…今、あの能力での追撃を繰り出されてはまずい…。
私は瞬時に意識を足下へ向け、床面に力を叩き付ける。
ベゴォッ、という凄まじい音と共に、床が直径50センチ程のすり鉢状に陥没し、その中心点から走った衝撃波が、私と少
年の体をしたたかに殴りつける。
備えが出来ていた上に体重のある私は、腰を落とすだけで堪えたが、衝撃に弄ばれた少年はバランスを崩す。
好機だった。衝撃波に叩かれ、押された少年は、感覚器官の集合体である顔面を、交差した両腕で庇っているせいで、胸が
がら空きになっていた。
素手で構わない。一歩踏み込んでそこへ触れ、直接ドレッドノートを叩き込めば、内臓破壊や心停止などで如何様にも仕留
められる。
だが、結局私は追撃を断念した。殺す踏ん切りが付かなかったのだ。
どうにも、必要な際にまでこうして己を御すように癖がついてしまっているらしい。…致命的だな、これは…。
咄嗟の事で加減する余裕は無く、かなりの衝撃波が発生したが…、顔をガードしたまま衝撃波を浴び、それに押しやられる
形で後退した少年は、どうやらほぼ無傷のようだ。やはり肉体強度も普通の人間レベルでは無いらしい。
転倒しかけた少年は踏み止まったものの、痛みと痺れは相当残ったようで、切りかかっては来ない。
突っ込んで来て以来初めて動きを止めた少年を見据え、私はゆっくり後ろ向きに後退した。
集中が途切れたのか、それとも持続の限界が来たのか、少年が手にした剣からは霞が消えている。ふと気が付けば、瞳の色
も紫紺から黒に戻っていた。
…無理もない。空間に干渉する力など、並大抵の集中力と思念波では使いこなせないはずだ。少年の負担はかなりのものだ
ろう。
そう。にわかには信じ難いが、この少年の能力の正体は空間への干渉なのだろう。
希少能力の代名詞たる重力子干渉系能力以上にレアで、この能力についての正式な記録は全く残っていないが、口伝レベル
での伝承では、そうとしか思えない能力者が数名存在している。
異空間とでも呼称すれば良いのか、それとも宇宙空間などの絶対真空領域に繋げているのか…、どちらにせよあの黒い霞や
球体は、此処ではない何処かと繋がっているらしい。
そして、ある種のゲートであるそこが閉じる時点で範囲内に囚われていた物は、大気であろうと物質であろうと、成分や強
度に関係なく「持って行かれてしまう」ようだ。
さて困った。この能力の攻略方法が思いつかない。この少年の命を奪う以外には…。
不可能ではないが、この手強い少年を仕留めるのは簡単な事ではない。ついでに言うと殺したくもない。今更殺す気になれ
るなら先程殺していたところだ。…ならば…。
私は後ろ向きに大きく跳躍し、少年と距離を離してどしっと床を踏み締めた。
剣を引いた少年は、間髪入れず空いた手をこちらに向けた。能力発露の影響なのか、その瞳には再び紫紺の輝きが宿る。
「逃がしはしないぞ、白い肥満体の大男」
おそらくはあの球体による攻撃を仕掛けようとしたのだろう少年は、さらりと失礼な表現を交えて私を呼び止めた。
だが、私の容姿の表現として間違ってはいない事も否めない。声音に悪意を感じない所に、それは正直な感想なのだろうと
実感させられる。
「そこの爆薬、間も無く起爆するぞ?」
大人の対応で言い返す事は避け、距離を取って着地した私は、代わりに踵を返しつつ警告を発した。
一瞬向けた私の視線を追って、少年の目が爆薬を映す。
「…見事…」
ぼそりと呟いた少年が、後ろ向きに跳んで通路に戻り、爆薬との遮蔽物が無いデッドポイントから退いた。
おそらく、先程弾丸の中を無事に駆け抜けて来たのは、空間の歪みを背面に展開して銃弾を消すという芸当による物なのだ
ろうが、やはり消耗が大きいのか、爆風を真っ向から防ぐつもりは無いらしい。
その姿を追った視線をそのまま通路の奥に走らせた私は、僅かに目を細める。
「ウル…」
いつの間にか兵士達の前に出ていた見知った顔は、物憂げに私と少年の方を眺めながら、左腕を真横に伸ばして味方の射撃
を制していた。
ウルの姿を確認したその直後、私はポケットに押し込んでいた起爆スイッチを押し、爆薬を爆ぜさせた。
…あれが、ベヒーモスか…。
ウルが前に出ず、私との戦闘を任せた理由が良く判った。
驚嘆すべき戦闘能力だ。人間型とは思えないほどの身体能力に加え、卓越した剣術と、驚異的な能力…。下手を打てば抵抗
もできぬまま屠られていた所だ。
爆風と爆炎をショックフィールドで防ぎ止めつつ、倒壊によって塞がった通路を尻目に、私は駆け出した。先に行かせた皆
を追って。
「大尉殿!ご無事で!」
殿を務めていたエンリケの部下は、追って来た者が私だと気付くと、顔と歩調を弛ませた。
「エンリケは?」
「先導中であります!ここまでに交戦は無く、脱落者もありません!」
訊きたかった事をすらすらと気持ちよく教えてくれた兵士に頷き、その肩をポンと叩いて力付けつつ、列の先頭を目指す。
口々に声をかけてくれる皆に頷きながら駆け抜けた私は、先頭のエンリケと並んで口を開いた。
「首尾は上々のようだな」
「今のところは。…ただ…」
「確かに。そろそろ近いな」
エンリケは途中で言葉を切り、私が後を引き取った。
「全体並足、これより接敵前進に切り替える。三列縦隊」
低く押し殺した私の号令は、小声で復唱されながら後ろへ向かい、全体に行き渡る。
程無く、最前列で横に並んだ私とエンリケ、そしてもう一人の兵士が歩調を緩めると、後続も次々と足を緩め、敵との接触
に備える。
エンリケにイカレていると評された私の作戦は、確かに、安全とは言い難い物だ。
掃討戦をおこなう敵に対し、迂回して始めの入り口へ戻り、彼らが乗って来た雪上車を奪って逃走する…。
いかに掃討が主任務とはいえ、見張りがゼロであるはずはない。フル装備の相手と真正面から殴り合い、速やかに雪上車を
奪取するこの作戦は、少なからず犠牲を出すだろう。
だが、格納庫が使えなくなった今、これ以上の作戦は立案できそうにないのが現状…。
適当な出口から徒歩で逃げる手も無いではないが、足を持つ相手から逃げおおせられるとは思えない。
吹雪の中を逃走し、疲弊した所で追撃を受け、噛み潰されるのが関の山だ。正直そのような結末は御免被りたい。
いよいよ目的地が近付き、敵との遭遇に備えた歩みで前進しながら、私は今回の騒動の発端という事になっている例のデー
タが入っていたチップの事を思い浮かべた。
口実だ。あのチップは口実だったのだ。
スコルに解析して貰い、私が嫌な予感を覚えたアレ…、持っていたミオ自身も存在と正体を知らなかったあのチップは、気
付かぬ間に誰かに持たせられた物だったに違いない。そしてそれを開封した際に、何らかの信号が勝手に発信されていたのだ
ろう。
何のために?それは、恰好の口実を作るために。
誰が?それは恐らく、ヘルか、その配下の者が。
あのチップを口実とすれば、でっちあげでグレイブ隊を潰せる。ミオは当初、その為に送り込まれたのだ。
知らずに運び屋となったミオ自身も、恐らくは最初から、その口実によって同時に始末される対象となっているのだろう。
考えてもみれば、我々の長期北原駐屯もまた、始末する恰好の場所として留め置かれていた結果なのだろうな…。北原は広
く、逃走手段は限られる上に、道も険しい。
相手はヘルとそのエージェント、さらに直属の精鋭達。そして黄昏の楽士…エージェント、ウル・ガルム。加えて同じくエー
ジェントのベヒーモス。
これほど念の入った徹底的な対象除去はそうそう無い。本気の度合いが良く判る。ヘルはそこまでしてでも、失敗作である
我々を始末したいらしい。
私は自分でもそうと気付かぬ内に、ゲルヒルデ隊長から預かった品を握りしめていた。
手の平に食い込むその僅かな痛みで気付き、手を開いてそれを見つめる。
風変わりな十字架…、エジプトの装身具、アンク。
重要な品だと言っていたが…、隊長がそう言うならば、本当にそうなのだろう。
入念に調べてみると、アンクの頭に当たる上部の丸みを帯びた三角の根本と、両腕に見立てた横軸が交わる部分に、微かな
切れ目が見つかった。
トンファーを脇に挟んで手を空け、上部に指をかけ、慎重に真上へ引っ張ってみれば、ヘッド部分がするりと抜けて、首無
しアンクが出来上がった。
私は目を細め、分割されたそこを見つめる。
細い、直径1ミリ程度の金色の金属棒が二本、分割されたアンクから顔を覗かせていた。
これは、ヴァルキリーウェポンの制御棒?…いや違う。色が…。
脇に挟んでいたトンファーを再び握り、決まった手順でグリップ部分を外す。
簡易メンテナンス用の軽い分解で剥き出しになった制御機構表層部を見つめれば、回路を繋ぐ橋渡しとして固定されている、
黒い制御棒。
…制御棒と同じサイズ、同じ形だが…、色だけが違う。
ゲルヒルデ隊長がこの品を持っていた事については、特に疑問はない。
元々マーナのグローブも、スコルのレッグガードも、私のトンファーも、隊長達戦乙女が使用していた品だ。予備品として
持っていたとしてもおかしくは…。
私はそこで一度考え直した。
予備?いや待て、これはそうそう換えが必要になるような部品ではない。例え予備だったにしても、こうしてアクセサリー
に収納して隠し持つような品では…。
ある予感が私の頭を掠めた。そしてそれは即座に確信へ変わる。
制御棒…。制御する為の部品…。何を?それは当然出力を。所有者がヴァルキリーウェポンに精神を食い尽くされないよう、
安全装置として機能する品、それが制御棒…。
不審げに私の手元をちらちら見てくるエンリケの視線を感じながら、左右のトンファーの部品を素早く交換した。
試してみる価値はある。もしかしたら加減できないかもしれないが、敵と味方の命を天秤にかけても、優先すべきはやはり
味方だ。
「このまま直進し、非常ハッチから一度屋外に出た後、入り口から強襲をかける。虎穴に飛び込み主の尾を踏むような真似だ
が、虎児を得るには仕方あるまい」
段取りを再確認する私の囁きに、エンリケが不敵に笑って頷いた。
「お供しましょう。こうなったら地獄の底まで…!」
結論から述べれば、奇襲は成功した。
鋭利な刃物で切ったバターのような断面を晒す、上下に真っ二つとなった装甲板と外部ハッチ、そして気密ハッチを内側か
ら眺め、眉間を押さえた。
…ここまでとは思いも寄らなかった…。
軽い頭痛を覚えながらトンファーを見遣る。この惨状を作り出した、真のヴァルキリーウェポンを。
見慣れたはずのトンファーは、今や別物のように感じられている。
ワルキューレ達は…、ゲルヒルデ隊長は…、かつてこれほどの品を用いていたのか…。
扉を切断した巻き添えで、雪上車は二台が大破し、相手方にもかなりの損害が出た。
無惨にも胸から上が無くなっている死体がごろごろと転がり、血と臓腑の臭いが冷気に漂い出て深く混じり始めている。
期せずして先制攻撃で混乱に陥れる事ができた我々は、一方的に制圧し、雪上車を一台奪う事に成功した。
誤算はあった。
私が不用意に使用したコレのせいで、恐慌状態に陥った敵兵達は、降伏勧告を受け入れてくれなかった。…いや、そもそも
話を聞いてもくれなかった…。
殲滅。一人残らず。…それが、この奇襲の結果だ。
…今では敵とはいえ、極力、殺したくなかったというのに…。
「大尉。出発できます!」
エンリケの声が私を現実に引き戻す。
残る二台の雪上車にすぐには走れぬよう細工を施し、燃料も積み替えた。これで追撃を大幅に遅れさせる事ができる。
「エンリケは雪上車で指揮を。私はモービルで行く」
「了解。…本来なら、大尉こそ暖かい所から指揮を飛ばすべきでしょうが…」
心苦しそうに言ったエンリケの肩を軽く叩き、「適材適所だ」と言って雪上車へ顎をしゃくる。
「私は涼しい方が好きだ。苦ではない」
そう、適材適所だ。こんな状況では贅沢など言えない。部隊の指揮はエンリケでも執れるが、迎撃となれば私の方が適任だ。
よって雪上車には乗らず、数名を率いて小回りの効くスノーモービルで迎撃に当たる。
車内に居たのではいざというとき出遅れる可能性がある。戦力差が大きい今、出来うる限りの備えはしておきたい。
防寒具を被って早速跨ってみると、連中が用意してきた最新型のスノーモービルは、実に具合が良かった。
シートに据えた尻には、硬過ぎず柔らか過ぎず、程よい快適な感触。表面加工のおかげなのかあまり滑らず、非常に安定が
良い。今までの硬くて滑りやすいシートとは大違いだ。
おまけに足回りと馬力も強化されているのか、私の図体を乗せても、そう苦しそうな様子を見せずに動いてくれる。
これはおそらく、以前話に聞いていた、来期から北原に送られて来るはずだった新型…その第一ロットだろう。
体重と図体のせいで生半可なモービルだとすぐに乗り潰してしまう私だ、伝え聞いた新型に興味はあったが、まさかこんな
形で乗る事になろうとはな…。
同じくモービルに跨った勇敢な五名の兵士に頷きかけ、私は先陣を切って白い世界に飛び出した。
このまま逃げ切れれば良いのだが、北原から補給無しで脱出するのは厳しい。
追撃を阻むべく雪上車に小細工はしたものの、物資確保の為にちょくちょく足を止めている間に、彼らに追いつかれてしま
う可能性は高い。
私は死屍累々たる有様の入り口を一度だけ振り返り、殺してしまった彼らに詫びた。
仕方がなかった…、とは言いたくない。私の不用意さが招いた、避けられたはずの殺戮戦だった。
顔を前に戻し、私は雪を顔面に浴びながら行く。
レンズにぶつかってゴーグルを鳴らす、全身を叩く硬い大粒の雪は、まるで私を責めているようだった。
あれだけの人数を殺してまで生き延びる価値が、お前にあるのか?と…。
何故だか、急にミオの声が聞きたくなった。
この惨状を生み出した私にも、生きていて良いのだと言って欲しくなった。
…弱気になっているのだろうか、私は…。
通信が復活したのは、ベースを出て三十分ほど進んだ後の事だった。
あらかじめ伝えておいたランデブーポイントへ既に到達したグレイブ隊は、我々の無事を喜んでくれた。
ひとまずお互いの無事を喜んだスコルは、モービルで走行しながら首輪に触れて通信に参加している私に、口調を改めて語
りかけた。
『大尉…。隊長の事は…、申し訳ありませんでした…』
「何?」
私が聞き返すと、電波の向こうに気まずい沈黙が落ちる。
「どうしたのだスコル?隊長に何かあったのか?今そちらに居るのではないのか?」
エンリケやこちら側の通信兵も、私とスコルの会話に耳をそばだてている。
『通信は…、届いてませんでしたか…。た、大尉…?落ち着いて聞いて下さいよ?ゲルヒルデ隊長は…』
スコルの言葉は、そこでかき消された。急遽割り込んだ通信が、追撃者視認の報せをもたらしたせいで。
『狐だぞっ!モービルで追って来た!』
『うぅっそ!中尉!デカルド中尉!アイツです!アンニャロ生きてやがった!また来やがった!』
スコルの焦り声が耳元で響く。彼がここまで嫌がる相手も珍しい。
狐というとヘルの連れてきたエージェントだと思うが…、一体何者なのだ彼は?
「ランデブーポイントをEに切り替える。こちらは直接向かう、そちらは直ちに離脱せよ」
私が一方的にそう告げて通信を切ろうとしたその時、
『大尉!後方200!』
通信兵の声が首輪から脳に駆け上り、私は素早く振り向いた。
瞳孔を調節し、遠望視認を試みた私は、…まさか…?
それは、非現実的な光景だった。
真っ白い吹雪の中を、虚無の如き球状の無風空間を纏った女が飛翔している。直立不動の格好で、モービル以上の速度で…。
あの球体は何らかのシールドだ。全面を覆って風雪を防いでいるのだろう。ソバージュがかかった灰色の髪は乱れず、僅か
に揺れている。
灰髪の魔女、ヘル…。中枢直々に出て来たか…。
果断と言える。雪上車に仕掛けた細工を解除し、走行可能になるまで待つよりは、彼女が単独で飛んだ方が遙かに早い。
「総員、全速前進。以降の指揮はエンリケが執る」
『駄目です大尉!何をするおつもりですか!』
私の号令に、無線機をひったくったらしいエンリケから抗議の声が被さった。
「私一人ならどうとでも逃げられる。何とか足止めしてみよう」
『止めて下さい!大尉は…、大尉はここから先も必要なひとです!』
エンリケの言葉は、何故かアメリカンショートヘアの少年の顔を私に思い出させた。
…私が必要…。ミオ。私を必要としてくれる少年…。
私は胸に食い込み心臓を鷲掴みにするような鈍痛を覚えながら、しかし覚悟を固めた。
どう足掻いても逃げられる状況ではない。ならばすべき事は決まっている。
「…では、他の如何なる手段ならば彼女を止められる?逃げおおせる事ができる?」
『そ、それは…』
口ごもったエンリケに、私は畳みかけた。
「これは命令だ。先に行け。何としてでも逃げ延びろ」
一方的に通信を切り、私はモービルの速度を落とす。
やはり優先すべきは私の始末と見える。ヘルは予想と期待に背かず、速度を落とした私に合わせ、追撃スピードを緩めて横
に出た。
「感心な指揮官ねぇ。自分を囮に部下を逃がそうというわけ?」
ヘルの声は、我々の間で吹き荒れる風雪の影響を全く受けずに私の耳朶を震わせた。
「もう一つ、確認したい事があった。貴女に対して私という囮が、どの程度効果的であるかという事を」
私もお返しに、発する声をドレッドノートで調節し、ヘルに言葉を送る。風に散らされないよう調節した声は、彼女の障壁
を揺さぶり、はっきり聞こえたはずだ。
「それで、確認できたのぉ?」
「ほぼ。やはり貴女の目的は私の…いや、「私達」の抹殺にある」
直立不動で併走するヘルが、腕を組んで唇に指を添え、面白がっているように笑った。
もはや誤魔化すつもりも無いらしい。なりふり構わず私の首を取る気か。
「引き抜きをかけていたニーズヘッグには悪いけれどぉ、貴方も処分しなくちゃいけないのよねぇ」
薄く笑ったヘルの手がすっと動き、私の方へ手の平を向ける。
呼吸や鼓動は障壁が邪魔で読めないが、仕掛けて来る事は予想できていた。
急制動をかけて回避、横滑りさせたモービルが、爆炎に煽られながらスピンした。
瞬時に障壁を解除し、向けた手の先から術による爆破攻撃を仕掛けてきたヘルは、ふわりと凍土に舞い降りる。
スピン中に追撃を加えられては、避けられる物も避けられない。
離脱のためにモービルから飛び降りた私は、慣性に従ってかなりの距離を転がったが、俯せになるタイミングで四肢を踏ん
張った。
そのまま四つん這いの格好でかなりの距離を滑って止まり、身を起こす。
術の発動までが予想よりも大幅に速い。並の術士が相手ならば、近距離戦闘に持ち込み術の発動前を押さえるのが定石なの
だが、速過ぎて無理だな。…これが中枢か…。
両手でトンファーを引き抜き、腰を落として身構える。
動きに支障が生じるような負傷は無い。疲労は問題になる程ではない。思念波を少々使っているが、集中力を持続できない
程でもない。コンディションは、悪くない。
だが、仕掛けるのはまだだ。いくらかでも時間を稼がねばならない。
最悪私が敗れる事になろうと、その時皆が少しでも遠く離れているように、一分でも、一秒でも、時間を稼がなければ…。
正直なところ、今の私には、皆と合流せねばならないという気持ちはあまりない。
ここで少しでも足止めできるならば、どんなに遅れようが、敵に追いつかれて包囲されようが、一向に構わない。
この絶望的な状況で自らの生還と仲間の安全を揃って求めるのは、欲張りが過ぎるという物だろう。
まずは皆の安全。我が身だけなら何とでもけじめを付けられる。
自らの呼吸と鼓動を確認し、体を適度に緊張させる私の脳裏に、ミオの顔が浮かんだ。
君を生かす為に生きる。それこそが、この私がようやく得られた、闘い、生きる理由…。
今の私は、最期の一瞬まで理由ある生を歩み続けられる。中枢を前にしても、諦観の念は湧いてこない。
諦めるのはいつでもできる。動けなくなったその時でも遅くはあるまい。
「…貴方…」
私を見つめるヘルの瞳が、怪訝そうに瞬いた。
「雰囲気が少し変わったかしら…?以前はもう少し機械的だったと思うけれど…。今はまるで…」
探るようなヘルの視線を浴びながら、私は口の端を僅かに吊り上げる。
それを見た途端、ヘルの表情が僅かに引き締まった。
「どうやってかは知らないけれど、人並みの感情を備える事ができたようねぇ?そうなると、貴方はますます危険だわぁ…。
自覚できているのぉ?貴方、今の自分がどういう存在なのか…」
「さて?何がどう危険なのやら…」
判っていながらはぐらかし、私は言葉を探しつつヘルの様子を観察する。
もっとだ。もっと時間を稼ぐ。矛を交えるのはその後だ。
可能な限りここに足止めして見せる。ミオや皆の生き延びられる確率を、僅かでも上げる為に…。