ドレッドノート(後編)

防寒具の繊維を抜けて染み入って来る北原の冷気も、私の動きを妨げていない。

指は動く。足は問題ない。気力体力共に十分。コンディションは決して悪くは無い。

一瞬たりとも逸らさず注いでいる視線の先には、ソバージュをかけた灰色の髪の女。

「訊いておきたいことがいくつかあるが、答えて貰えるのだろうか?」

心拍数から血圧や体温に至るまで仔細に自己分析した私は、30メートル程の距離を置いて向き合っている女に話しかけた。

ドレッドノートの応用で声を飛ばしているので、私の言葉は北原の風雪にも負けずにヘルの元へと届く。

「そうねぇ…、答えられるものなら、サービスして答えちゃおうかしらぁ?」

球状の障壁を震動させて声を増幅しているらしいヘルの言葉もまた、風にかき消される事なく私に届いた。

「死に行くものへの手向けに…か?」

「まぁ、だいたいそんなところかしらねぇ」

艶然と微笑むヘル。その態度や声には自信と余裕が見て取れる。

…好都合だ。時間稼ぎに応じてくれるならば、どんな態度を取って貰っても結構。

私は気になっていた事を確認すべく、機会があればと用意していた問いを発した。

「私が処分対象になる理由は何だ?」

「あらぁ?態度を見るに、何となく察しが付いているんじゃないのかしらぁ?」

「それでも確認したい」

ヘルはじっと私を見つめながら、口の両端を吊り上げた。

「素体の記憶…。それが理由よぉ」

…やはりか…。急襲をかけられた時点で予想はしていたが、私がブライアン・ハーディーの記憶をほぼ全て受け継いでいる

事は、既にバレていたらしい。

「驚いた様子も反論も無いところを見ると、覚悟していた、予想していた、察しが付いていた…、といったところかしらぁ?」

乗じて質問してきたヘルに、私は頷いた。少しでも時間が稼げるならば、私からも話をするべきだろう。

「どうやら自分で思っていた以上に、私は貴女にとって邪魔者らしい。どうあっても消したいのだろう?他の中枢メンバーの

希望を無視して強硬な手段を取るほどに…。いや、標的は私だけではないのだな?」

「……………」

ヘルは興味深そうに私を見つめている。…良い兆候だ…。すぐには仕掛けず、ひとまず私の話を聞くつもりになったようだ。

「…というのも、私が別の部隊に移り、他の中枢の庇護を受ける立場になる事は好ましくなかったからだ。私、そしてスコル、

マーナの三名がグレイブ隊に揃っている事が望ましかった。そう、ゲルヒルデ隊長の下に居る事が…。貴女はどうやら、ゲル

ヒルデ隊長の事がお気に召していないらしい。それは向き合っていた時の鼓動の変化からも解った」

私は口を動かし続けながらヘルの反応を探る。

「始末すべき隊長の下に、始末すべき対象が揃っているという状況が、貴女には必要だったのだろう?グレイブが北原に長期

駐屯させられていたのは、貴女が手を回していたせいなのでは?なにせここは、ご覧のとおり逃亡が困難だ」

確信に近い推測を述べ終えた私に、ヘルは口元を三日月型に吊り上げ、笑いかけてきた。

「貴方は本当に有能ねぇ。…ま、有能だからこそ、なおさらそのままにはしておけないのよねぇ…」

ヘルは艶然とした笑みを浮かべる。が、その目は全く笑っていない。

「第二小隊が日本での作戦に組み込まれたのは、貴方の差し金だな?全滅した彼らは…、我々と分断された状態で始末する為

に、あの戦場をあてがわれた」

「ピンポーン。初めの予定には入っていなかったけれど、タイミングが良かったわ。でっち上げの援護任務の途中で、彼らは

調停者達の待ち伏せに遭い、あえなく…」

「見てきたように語るその待ち伏せも、貴方の手引きだな?」

「再びピンポーン。けどほんの少しだけブブー。見てきたように、じゃなく、見てきたのよ。この目でね」

ヘルは人差し指で自分の目を指し示し、私は一度大きく跳ねた心臓を諫める。

「痕跡が見つからないのは当然よぉ。証拠隠滅の為に、きちんと熱処理して貰ったものぉ」

熱処理という単語が、ねっとりとまとわりつくように私の耳朶をくすぐった。

「…調停者の待ち伏せにあったと、貴女は言ったな?それなのに「処理して貰った」とは如何なる意味だろう?」

ヘルは笑みを浮かべたまま答えない。…私が確信を抱いた事に気付いたのだろう。

「あの国の秘匿事項対策機関に、内通者が…?」

「素晴らしいわぁ。貴方は本当に、見た目に寄らず頭が切れるのねぇ?それも素体から受け継いだ物なのかしらぁ?」

「………」

私は返答せずに口をつぐむ。その点については自覚がある。ヘルの言う通りだ。

「皮肉なものねぇ…、思考形態の分野での貴方の優秀さは、おそらくは記憶を引き継いでいるからこそ発揮されているのでしょ

うねぇ…。けれど、エインフェリアに素体の記憶なんて持っていられたら困るのよぉ…」

「素体が持つ、殺された恨みなどを発揮されては堪らないから、だな?」

私が言葉を途中で遮ってやると、ヘルは満足げに頷いた。

「判っているじゃないのぉ?つまりはそういう事なのよねぇ」

「私は素体が殺された事について特に恨みは持っていない。ブライアン・ハーディーが殺されたのは、その行いからすれば妥

当と思っている」

「そうねぇ、そうかもねぇ」

ヘルは笑みを浮かべて頷く。軽く、中身が無く、軽薄に。

私が実際に恨みに思っているかどうかなど、どうでもよいのだろう。

イレギュラー故に、念のため抹殺しておく…。道徳を廃して考えれば、客観的に見て妥当な処分だ。

動作に問題がないとしても、欠陥品の機材など売りに出せないように、どこかおかしい兵器は処分しておくに限る。

「さて、訊きたい事は以上かしらぁ?」

ヘルの言葉に頷きかけた私は、「申し訳ないがもう一つ」と、会話の続行を訴えた。

「あらあら、結構欲張りなのねぇ」

「あるいはこれも素体から引き継いだ性質かも知れない。…ここに来る前、貴女は誰と交戦し、負傷した?」

私のこの問いに、ヘルの顔から笑みが消える。

負傷しているのは肩だ。ほとんど棒立ちのまま動かなくとも、僅かにでも身じろぎすれば、痛む箇所を庇うように動いてし

まうのは生物として当然の反応。会話の最中ずっと観察していたが、彼女は肩を負傷している。

命にかかわるような物ではないし、出血も無いが、彼女に傷を負わせられるとすれば…。

「中枢の一角たる貴女に傷を負わせる事ができる者は、そうそう居ない。ゲルヒルデ隊長と交戦したな?」

「ぴんぽーん」

ヘルは唇を三日月型に吊り上げる。が、その目は全く笑っていない。

「ゲルヒルデちゃんにねぇ、肩を刺されちゃったのよぉ。…ま、お返しはきっちりできたけれどぉ…」

ねっとりとからみつくような、不快な口調。

こちらの反応を観察しているらしいヘルは、蛇が口から舌をチロチロ出し、獲物の様子を窺っている様を私に連想させた。

「お返し…?ゲルヒルデ隊長は…」

深傷を負ったのか?そう問いかけようとした私に先んじて、ヘルの口が言葉を紡いだ。

「首だけ残して滅却してあげたわぁ。首は格納庫に転がしておいたから、貴方も後で同じ所に並べてあげるわよぉ。…あら?」

ヘルは小さく首を傾げ、私をじっと見つめてきた。

「あらどうしたのぉ?怒っているの?それとも哀しいの?」

ヘルの言葉に、私は答えられなかった。

ゲルヒルデ隊長が…死んだ?あの強い女性が殺された?

頭の中では、ヘルの言葉を疑おうとする私と、受け入れようとしている私がせめぎ合っていた。

スコルが言っていた。隊長の事を。彼は何故か私に詫びていた。

あれはそうだったのか?あれは、隊長の死を私に伝えようとしていたのか?

それに、脱出しようとしていた私達にジャミングを貫いて断片的に届いたあの通信。あれが伝えていた戦死者はつまり…。

隊長と合流するまで一踏ん張りすれば、グレイブは如何様にも戦い、逃げ伸びられる…。そんな私の計算と淡い期待は、根

本から崩れ去った。

グレイブは…、ゲルヒルデ隊長に率いられていた、家族同然のおちこぼれ部隊は…、もう…、もう終わっていたのだ…。

隊長から預かったアンクは…、もう返せなくなってしまった…。あれが最後だと知っていれば、礼の一言も、別れの一言も、

伝える事ができたのに…。

…初めて味わうこの気分…。…これが、本当の喪失感なのか…?

哀しいのか、憤りを感じているのか、自分でも判らない。胸の中でうねるこの堪え難い感情は何なのだろうか?

だが幸か不幸か、感情の起伏に乏しい私は、憎悪を抱えながらもほぼ平常通りに振る舞う事ができた。

「さて、訊きたい事は以上かしらぁ?」

首を軽く傾げ、おどけるように訊ねてきたヘルに、私は頷く。

言葉での時間稼ぎはこの辺りが限度だろう。ヘルも私の意図に気付き、余裕のある範囲で時間稼ぎに付き合ったに過ぎない。

本当の足止めはここからだ。

嚆矢となったのは、ヘルの術だった。反応した私の体は半ば自動的に動く。

素早く身を右方向へ斜めに傾がせ、大股に一歩動いた直後、左肩のすぐ上を、障壁の解除と共に放たれた雷球が通り過ぎて

行った。

やはりあの障壁は、こちらに向かって術を放つ際には解除しなければならないらしい。

だが確実とは言えない。風雪に負けず声を通す大気の振動操作は、その状態で利用していたのだ。

規模は不明だが、一部の術は障壁を纏ったままでも利用できると考えるべきだろう。

柔らかな雪に沈んだ足で、その下の氷の層を踏み締めた私は、周囲の雪を舞い散らせながら突進を開始する。

トンファーの出力解禁は…、まだだな。あれはそう何度も使うわけには行かない。有効に使える機会を待つ。消耗もそれな

りに大きい事だ、長期戦になる事も考え、使用もあと一度に限定しておくべきだろう。

ヘルの両手がタクトを振る指揮者のように踊る。

見事としか言いようがない。その手の動きに導かれ、身を捻った私の横で炎の柱が上がり、飛び退いたその跡に雷が落ちる。

魔女の指示で乱舞する超常現象は、私のショックフィールドでは性質上防げない物も多い。これは物理的な物や衝撃に対し

てこそ効果的に働くのだ。

気配を察して急停止し、仰け反るように首を引いた私の胸元で、パッと防寒具の残骸が舞った。

水平に飛んでいった真空の刃が、私の胸元を浅く抉り、防寒具ごと被毛を断って皮膚を裂き、皮下脂肪を浅く切って行った。

僅かに血が滲んだ胸元が防寒具の裂け目から覗くが、かすり傷だ。

「太っている割に、結構機敏ねぇ?もっと早く動けるように、その無駄なお肉を全部削いであげましょうか?」

立て続けに術を放ちながらヘルは私を挑発する。だが無駄な事だ。そんな安い挑発に乗る私ではない。何せ自分が肥満であ

ることはしっかり自覚し、諦めてもいるのだからな。…威張れる事では無いか…。

そんな事よりも気になるのは、ヘルの動きの方だ。

見た限りは、術師であれば手放せないはずのレリック…グリモアを手にしていない。

あれが無ければろくな術が使えず出力も大幅に落ちる以上、戦闘中の今、身に帯びている事は間違いないはずなのだが…。

身を捌き、攻撃を回避し、着々と距離を詰める私の狙いが近接戦闘にある事は、当然ヘルも気付いているようで、少しずつ

後退しながらも切れ目無く立て続けに術を放って来る。

無尽蔵とも言えるその思念波の量には恐れ入るが、不確かな彼女の限界を探っている余裕は、現時点では全く無い。

近接戦闘を得意とする私としては、被弾覚悟で懐へ飛び込む以外に手は無い。

…と、思い込んでくれているなら好都合だ。

ドレッドノートでの遠隔攻撃は可能だが、下準備と集中力が要る上に、報告書にも記してあるため、多くは彼女にも知られ

ている。…だが、彼女も知らない遠隔攻撃手段はある。

まだ報告していない技術と、私が隊長から預かっている物という、二つが。

狙いは確かに近接戦闘にあるが、距離をある程度詰められればそれで良い。使用に制限があるこれらの手段で隙を作る事が

できれば良いのだ。

そして、回避に専念しながら前に出続けていた私は、ついにそのラインに足を踏み入れた。

即座に握り締めているトンファーに意識を向ける。

組み込まれた金色の回路が直ちに反応し、私の思念波を一気に吸い上げる。

「…あ…」

ヘルの口から声が漏れた。組織内でも古株である彼女は知っていたのだろう、このトンファーが作り出すソレの事を。

私が握るトンファーの外側から、赤く、薄く、鋭い刃が発生していた。

このトンファーの正式名称は、ヴァルキリーウイング。私は打撃に使用するのが主だが、この武器の本来の使い方は…、

「翼刃、全開射出!」

私は声で命を下しつつ、右のトンファーを振り抜いた。

同時に、超高密度に圧縮形成された翼状刃が、トンファーから離れて拡大する。

限界飛距離は未確認だが、先にベースで一度試した際には装甲ハッチを容易く両断した上、70メートル程先まで切断領域

が広がっていた。距離20メートルを切ったここからならば、確実に届く上に後方への待避は不可能。

鋼鉄をも切り裂く赤い翼は、瞬時に私の前方へ広がり、半径50メートルにも及ぶ扇状の切断領域を生み出した。

ヘルは…、その赤い翼の上へ、障壁を纏って浮かび上がっている。

…ここだ…!

私は捻った体を戻して左腕に握ったトンファーを振るい、再度展開された切断領域がヘルの障壁に激突する。

表情を消したヘルが翳す手の先で、球状の障壁に赤い刃が食い込む。しかし押しとどめようとする彼女の顔には余裕が見え

ない。

程なく、威力に負けた障壁は真っ二つに切断された。

ただし中身は離脱している。障壁の中で両膝を抱えるようにして跳んだヘルのすぐ下を赤い翼刃が通過した。だが…、

「はっ!?」

そこでやっと気付いたヘルは、近距離に詰め寄った私の顔を瞳に映す。

刃を追って跳んだ私は、障壁を纏わないヘルのほぼ真下で、トンファーを握りしめた右腕を背中まで引いていた。

剛風を纏う一撃。しかしその不意打ちは、大気を操作したのだろうヘルの、空中での急激な体勢変化でやり過ごされた。

くるりと上下反転し、逆さまになったヘルの顔面めがけ、今度は左のトンファーを繰り出す。

その目前で生じた不可視の小型シールドが攻撃を再び阻み、私の腕をいなす。

しかしまだ終わらない。両手の攻撃に次いで、振り抜いた左手を追わせる形で回し蹴りを繰り出した。

ひっかかりなく小型シールドの下を潜った私の足へ、今度はヘルの手が触れる。

手で足を押す事で自分の体勢を僅かに変え、蹴りが側頭部に飛び込むのを避けたヘルは、憎悪に滾った視線を私に向けた。

大した物だ。術師でありながら、ヘルは体術も相当なレベルにある。力の上にあぐらをかかず、弱点のカバーをおろそかに

せず、己を高め続けてきた結果だろう。

距離を詰めればどうとでもねじ伏せられるという目論見はやや外れてしまったものの、それでも私の望んだ距離だ。ここ以

上に得意なレンジは無い。

振り抜いた左足の先でドレッドノートを発動し、衝撃波を弾けさせる。

宙に生み出した一つ目の衝撃波と、足先に生み出した二つ目の衝撃波を触れさせ、その反発を足場代わりに、私はすぐさま

逆回転に移った。

まずはソバット。これはまたしても宙で体勢を変え、横臥するような形になったヘルの下を過ぎ去る。

次いで繰り出したのは回転の勢いをそのまま乗せた右拳。しかしこれも合わせて来たヘルの手に弾かれ、軌道を逸らされて

雪と風を破砕する。

その細腕を覆うのは、大気を押し固めたボール上の小結界か。急ごしらえのそれは強度が低く、今の受け流しだけで破裂す

るように散っている。

しかし、前弾二発が高確率で回避されるであろう事は、コンビネーションに織り込み済みだ。最初からこの回避直後の状態

を狙っている。

右腕を振り抜く勢いそのままに身を捻った私は、左のバックナックルをヘルに叩き付ける。

初めは脇腹を狙うつもりだったが、半ば反射的に太股側面へ狙いを切り替えていた。

脇腹は無防備だが、細いウェストにこの打撃を加えれば致命傷になりかねないと判断しての事だった。

…覚悟を決めたつもりが、なかなか踏ん切りが付かない物だな…。

握ったトンファーの軸が、ヘルの締まった大腿部にめり込む。

皮下脂肪や筋肉から生じる抵抗は僅かな物だった。纏っているのは防弾防刃の丈夫な軍服だが、動きを妨げないようあまり

厚くはない。エインフェリアの一撃を食い止める事など不可能だ。

湿った布にくるんだ枯れ枝が折れるような、ベギュッというくぐもった、そして湿った、不快な音…。砕けた骨の感触が、

トンファー越しにはっきりと伝わってきた。

「ぐぅっ!」

ヘルの顔が苦痛に歪み、その口から苦鳴が漏れた。

大腿骨の粉砕骨折でも悲鳴を押し殺せる辺り、薄ら寒くなる胆力だ。…が、感心しかけた私は、それでも彼女を見くびって

いた事を、直後に思い知らされた。

左の太股を折られ、きりもみ状態になったヘルの右手が、ガッと私の鼻面を正面から掴む。

刹那交わしたその視線から、ヘルの瞳に宿った憎悪と憤怒、そして好機を得た者特有の輝きを見て取った私は、全身の毛を

逆立てた。

唇を割って、何かが入り込んでくる。

ヘルの手が当てられた鼻孔と口から侵入してくるそれは、水だった。そう、何の変哲もない水…。ただし、一見何も無い所

から生み出されたそれが、膨大な量だと言う事を除けばだが。

口の中に溢れかえった水は、そのまま食道と気管に入り込み、一瞬で私の肺と胃を満たした。

いかなる現象によるものか、ヘルの手は私のマズルにピタリと吸い付き、全く離れない。手首を握って引き剥がそうと試み

たが、ビクともしなかった。

肺と胃を満たしただけで収まらない水の奔流は、そのまま幽門をこじ開けて腸へ侵入し、私の胴回りそのものが膨れ始め、

防寒具が張る。

その時点で、私はトンファーに刃を形成させた。

堪らず放った左腕の一閃と共に、ヘルの腕が断面を晒す。

手首のすぐ上の位置で切断されたヘルの手は、ようやく私のマズルから離れた。

ヘルの右手は切断されてもなお大量の水を放出し、私の全身を濡らし、一瞬で凍結した水が、体温を奪っていった。

離れて落下した私が雪面に突っ伏し、大量に注ぎ込まれた水を噎せ返りながら吐き出している間に、ヘルはフワリと雪を踏

んで降り立った。

内臓は…かろうじて無事か。溺死どころか、危うく水風船にされる所だった…。

私をずぶ濡れにし、周囲の雪面をアイスバーンに変えるほど放出された水は、バスタブ三つ分は下るまい。あのまま水を飲

まされていたらと思うとぞっとする。

「…ふぅ…、やってくれるじゃない…?」

破裂寸前まで膨れた胃を収縮させ、大量の水をごぼごぼと吐き出している私に、ヘルは静かに話しかけて来る。

これも術なのだろうか?折れたせいで根本から角度がおかしくなっている脚をそのままに、片足ですっくと立っていた。

苦痛を何らかの手段でシャットアウトしたのか、それとも意識でねじ伏せているのか、余裕の笑みが消えた能面のような表

情から察するに、ダメージは浅くないが、まだ闘志は萎えていないと見える。

流石は中枢の一角とでも言おうか、驚くべきタフさだ。大腿骨複雑骨折と右手を切断された程度では、落とし所としては不

足という事か…。

水を吐き出し終えて背筋を伸ばした私は、水を被ったせいで霜を帯びている顔を払う。

咄嗟の事で混ぜ物をする余裕も無かったのだろう。飲まされたのが真水だった事は幸いだった。

そして…、あの好機に放電や爆発など殺傷力の高い術を選ばなかった事は、ある可能性を示唆していた。

ひょっとするとヘルは、自身の強力過ぎる術を至近距離では扱えないのではないだろうか?

基本的に術士は、術の使用に際して自身を守る思念波のフィールドを纏い、それを一種のアースとして自らの術の影響を逃

がし、自らを傷つけないようにする。

だが、術の威力が高すぎた場合はどうなる?殺傷力を優先的に追求した場合、アースで流し切れなくなる事もあり得るので

はないだろうか?

私は静かに思考を巡らせつつ呼吸を整えた。大量の水を飲まされた影響で内臓系に鈍痛はあるが、動きに支障はない。付け

入る事ができそうな箇所も見つけた。

だがしかし、接近の為にもう一度ヴァルキリーウイングを最大出力で振るう事は避けたい。こめかみに痛みがある。思念波

を使い過ぎたサインだ。

ならば、もう一度距離を詰めるには…。

「誇って良いわよぉ?ハティ・ガルム」

ヘルは手首から先が無くなった右手を私に向けた。

その、流れ出た血がすぐさま凍り付いてゆく断面の先に、オレンジ色の球体が出現する。

高熱の炎…。無理矢理球体に固めたそれは、見つめる目の表面に熱を感じる程の物だった。

「私をここまで追い込んだのは…、貴方で三人目だわ…」

「それは光栄だ」

応じる私は、既に肉体の操作と精神の調節を半ばまで終わらせていた。

屈強な肉体に強靱な精神を宿す我々エインフェリアですら、めったに辿り着けないというある技能。私はこれの会得に成功

している。

これを使用した際の不快感は耐え難い物があり、反動も大きいため、おいそれと使う気にはなれなかったのだが…、今や贅

沢は言っていられない。

ヘルの唇が動く。声にならないその「さようなら」という言葉を目で聞きながら、私はぐっと腰を落とし凍土を踏み締めた。

まるで宝珠のように美しい、直径十センチにも満たない炎の球体が、ヘルの意志に応じて射出された。

球体は私めがけて突き進みながら、途中で爆ぜる。

一瞬で、冷えた大気が曝散した。

おそらくはナパーム弾を上回る熱量だろう。硬く締まった北原の凍土が融解というプロセスを跳ばして気化し、巻き起こっ

た水蒸気爆発と共に炎が四方八方へ広がる。

爆風に飲まれた私は、しかし寸前に真横へ跳躍していた。

雪面に腕を突っ込んで氷の層にトンファーを突き立て、雪を蹴立てながら8メートル程滑ったが、爆発の影響は全く受けて

いない。蒸気と爆風、そして吹き飛ばされた氷の破片の向こうに、驚愕の色を浮かべた瞳をこちらに向けているヘルの顔が垣

間見えた。

どうやら失念していたようだが、私達は衝撃波の専門家だ。一層の単純爆発で生じたエネルギーをドレッドノートで相殺す

るのは、そう難しい作業ではない。

さて、私自身が忌み嫌っている事もあり、マーナのものとは違ってスイッチが切り替わるまでにやや時間が要るのが欠点な

のだが…、何とか切り替えは終わった。

「オーバードライブ…、ホワイトアウト!」

地面に四肢を踏ん張ったその状態で唸ると、全身に力が漲った。

脈拍が急上昇し、血圧が限界近くまで上がり、血流が増して筋肉が膨れあがり、めきめきと音を立てて全身が歓喜する。

私のオーバードライブは筋力とドレッドノートの出力を引き上げるものの、五感やレリック適性はそのままだ。

むしろ、脈拍と血圧が上昇して常時耳鳴りがし、動悸と呼吸が激しくなり、視界にちかちかと星が瞬く分、感覚においては

鈍化しているとも言える。

その代わり、ドレッドノートの射程と出力は五倍近くまで増幅され、筋力に至ってはリミッターカット時の三倍以上、平常

時の十倍にも跳ね上がる。

上昇する能力に大きな偏りが生じる特化型オーバードライブ故の特典と言える倍率だが、その代償として、感覚の鈍化以外

にもう一つ、運用可能時間が短いという欠点がある。

強靱に造られた私の体でも、増強され過ぎた出力には耐えられないのだ。

…いや、耐えられないのは肉体だけではない。オーバードライブ使用時に沸き上がって来るある衝動が、押さえきれなくなっ

てしまうのだ。

それは、普段は眠っている殺戮衝動…笛吹き男ブライアン・ハーディーから引き継いだ、殺し、犯し、貪りたいという、狂

おしく、禍々しく、忌まわしい衝動…。

60秒。それがホワイトアウトのリミット。

それ以上体を保たせ、己を保っていられる自信が無い。忌まわしいものでありながら、私の肉体と心の根本は、この殺戮衝

動を歓迎しているのだ。殺せ、喰らえ、滅茶苦茶にしろ、と…。

歓喜の咆吼を上げ、存分に羽目を外したくなるような強烈な誘惑に抗いながら、私は凍土を蹴った。

雪を巻き上げ、衝撃波を周囲へ撒き散らしながら突進する私を、ヘルは困惑しているような瞳で見据えている。

不可解な色だった。驚愕?郷愁?困惑?ヘルの瞳に浮かぶその感情は、そのどれらのようでもあったし、どれとも違うよう

な気がした。

「…ジーク…?」

しかしそれも一瞬。唇を震わせて謎の呟きを発した次の瞬間には、ヘルの表情が引き締まっていた。

手首から先を失った右手が稲妻を発し、直前に横っ飛びしていた私の傍らを行き過ぎる。

無事な左手がひらりと動き、急停止した私の眼前で、鋭い氷塊がいくつも隆起する。

衝撃波を纏ったトンファーの一振りで氷塊を破壊し、砕けた氷の欠片を巻き込みながら、私は猛然と前に出た。

ヘルの左手が再び踊る。今度はほとんど見えなかったが、走りながらも察知して身を斜めに傾かせる。

右肩、首に近い位置にズガッと衝撃を受けた。直後、そこから盛大に血飛沫が上がる。

ショックフィールドすら貫通してきたそれは、圧縮された大気の刃だった。

伊達にこの魔境で任務についていた訳ではない。地の利は私にある。北原の細かな氷混じりの空気は、視覚が著しく衰えて

いる今の私に味方して、刃の飛来を教えてくれた。

右肩を割られて腕がだらりと下がるが、頭を割られるより遥かにましだったのは言うまでも無い。

傷は骨にまで及んでいたが、構わず突進を続ける。

立ち止まれば速やかな死が待っている。ホワイトアウトを二度も連続使用する事は叶わず、もはや逃げ延びるだけの余裕も

ないのだから、どうあっても今ヘルを行動不能にしなければならない。

天災クラスの術を連続発動させるヘルとの距離を縮めたのはほんの数秒での事だったが、しくじれないというプレッシャー

からか、私にとっては数十分の戦闘にも等しい長さに感じられている。

先に推測した通り、強過ぎる術は自らの身も傷つけるらしく、距離が縮むにつれてヘルの術は規模を落として行った。だか

らこそ、後半は一気に距離を詰められた。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

衝動が押さえきれなくなり、我知らず咆吼を上げた私の左拳が、衝撃波を纏ったトンファーを繰り出す。

加速と体重が乗ったそのストレートは、しかし瞬時にヘルが張った不可視の障壁に阻まれた。だが…、

「脆弱っ!」

私の口を突いて出た哄笑と共に、トンファーの先端で障壁が砕ける。ホワイトアウトの使用に伴い出力が上がったドレッド

ノートは、ヘルの障壁をも一撃で破壊した。

「馬鹿な…!」

ヘルの顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。そのまま障壁が再展開されようとしたが、

「鈍いっ!」

私の口が嘲りの言葉を吐くと同時に、だらりと下がっていた右腕が傷みを無視して弾かれるように動き、間に存在する大気

を粉砕しつつ彼女の胴に飛び込んだ。

「…げぼっ…!?」

突き上げるようなボディブローを叩き込んだヘルの体は、可能な限り加減してはいたが、それでもくの字に折れながら浮き

上がる。

が、吹き飛ばない。無意識に、いつの間にか伸びた私の左手は、浮き上がった彼女の右腕を掴んで、引き止めていた。殴れ

る範囲に留め置くように。

その状態から、私の左腕が勝手に動いた。

ヘルの右腕を掴んだまま、その細い体を宙へぐんっと引っ張り上げ、そのまま雪面へ叩き付ける。

打ち付けられたヘルが硬く締まった凍土にめり込み、握りしめている細腕が手の中で嫌な音を立てた。どうやら、力を入れ

過ぎて握り潰してしまったらしい。

もういい。このくらいで良いだろう。そう思った。思ったのだが…、

「ぐっ!げうっ!うぶっ!がふっ!」

ヘルの苦鳴は止まらない。その、宙と地を行ったり来たりする動きもまた止まらない。

私の左手は折れたヘルの腕を掴みながら、何度も何度も、自分の四分の一程度しかないその体を、凍り付いた雪に叩き付け

ていた。

そして私は、ふとその声に気が付いた。

「はははははははははっ!はーっはっはっはっはっはっはっはっ!」

笑っていた。

私はいつしか、声を上げて笑っていた。

楽しくて楽しくて仕方がないというように、大声で笑っていた。

…まずい…!遅まきながら私は察した。殺戮衝動を押さえきれていない事を。普段ならこの程度の短時間で蝕まれる事など

ないのに…!

セーブをかけようとする気持ちはあるのだが、私はなかなか手を緩めなかった。

「隊長はどう死んだ?どう殺された?どう殺した?」

言葉が勝手に口を突き、私はやっとその事に気付く。

ホワイトアウトの影響下にある私の腕でも、ヘルの体が粉砕されない…。

答えは簡単だ。ヘルが頑丈なのではなく、その逆。

私の方が手加減していた。彼女が簡単には死なないように、執拗に嬲り、痛めつける為に…。

そう。私は憎悪しているのだ。隊長を殺されて怒り、この女を憎んでいる。

簡単に死なれては収まりが付かないから、嬲り殺しにしようとしているのだ…。

自覚すると同時に寒気を覚え、腕が止まる。が、その一瞬の停止が、躊躇が、ヘルに機会を与えてしまった。

叩きつけた格好で一瞬止まった私に、半ば雪面に埋もれたヘルの左手が向けられる。

瞬き一つの間に雪を跳ね除け、ピタリと私の顔に向いた手の平から、爆発的な勢いで大気の塊が放たれた。

ガードは間に合わなかった。咄嗟に両目の前に腕を出して眼球は保護したものの、殴りつけられたような衝撃を受けた私の

頭部は真上を向かされ、体が浮き上がり、仰け反るような格好で後ろへ回転する。

首で、グキリと嫌な音がした。

少なくとも15メートルは宙を舞い、三回転してうつ伏せに雪面へ落下した私は、その衝撃で飛びかけた意識を覚醒させら

れた。

平衡感覚がおかしい。上下左右が判らない。感触を頼りに目の前の雪へ手をかけ、顔を引き剥がす。

顔からだくだくと溢れる血が、雪面を染めつつ凍結してゆく。

鼻から大量の血が溢れていた。口の中や舌も歯で切れたらしい、鉄の臭いが鼻の奥から喉まで満たしている。

脳が揺れたらしく、視界がぶれ、見下ろす雪面が回る。裂傷だらけの顔の中、眼球が無事だったのは僥倖だったな。

はいつくばったまま震える両腕で体を支え、なんとか首を起こして前を向けば、ゆらりと立ち上がるヘルの姿。

髪は千々に乱れて凍りつき、顔は裂傷だらけで所々青く張れ始めている。

雪に埋まる氷が刺さったのだろうか?左の瞼の上から頬までがザックリと縦に裂けており、眼球は潰れていた。

肩で息をするヘルの隻眼には、もはや憎悪すら浮かんでは居ない。不自然な程表情が無く、瞳はひたりと静かに私へ据えら

れ、僅かにも動かない。

それはいうなれば、ひとが精密な作業に集中する時の顔。そしてこの場合の作業とは、私の抹殺に他ならない。

視界のブレが収まってゆく中、私は小さくため息を付いていた。

どこまでも甘い…。折り合いが付けられない自分にほとほと呆れた。

あのままヘルを殺しておけば良かったのに、せっかく詰めた距離をまた空けられてしまった。

素体への嫌悪から来る、自己満足に過ぎない不殺主義を押し通して、仲間を危険に晒すのか?そんな愚かしい真似を、この

期に及んで望むのか?

この戦いは、もはや私とヘルだけの戦いではない。ヘルがここを抜けて行けば、先の皆が危険に晒される。

殺すも止む無し…!

殺害も辞さぬと心を決めた私は、これまで人類相手に使用した事の無い奥の手の使用準備に入った。

今までは障害物や、手に余るような大型危険生物相手にしか使って来なかったが…、これを浴びせればほぼ確実に死に至る

だろう。

深く息を吸い込んで胸を膨らませ、喉に意識を集中させた私の頭の中には、はにかんだ笑みを浮かべるミオの顔。

奪われない為に奪う。どうあってもヘルをここで倒さなければならないのだ。

先に行った皆の為…。殺害を決意した理由の中には確かにそれもある。だが、それを言い訳にはしたくない。

私は、私自身の意思で、これからひとを殺すのだ。決して仲間のせいではない。

予備動作から私の攻撃を察したらしいヘルが球状の障壁を展開する。

だが、私がこれから放つものは、その強固な障壁でも防げはしない。

限界まで息を吸い込んで止めていた私は、喉への力の集中が完了したと同時にそれを解き放った。

大きく開けた口腔から、声無き咆哮が迸る。それでも音ではあるのだから、当然それは音速となる。

放つ私にも聞こえないそれは、しかし対象者にだけは聞こえるはずだ。

ドレッドハウル。この破壊の遠吠えを、私はそう名付けている。

照準を絞って吐き出したが故に全く拡散せず、指定方向にしか進まないその咆哮は、一瞬でヘルを障壁ごと飲み込んだ。

突き破れ!

ドレッドハウルはヘルの周囲を覆う球状の障壁を粉々に砕き、彼女の体を飲み込んだ。

直後、その体がばばばっと激しく震え出す。

自発的な震えではない。ドレッドハウルを浴びた事により、彼女の体は強制的に震動させられているのだ。

直後、バチュッと音が響き、何が起こったのか解らぬ様子のヘルの鼻腔や耳、眼窩から、鮮血が吹き出し、あちこち裂けた

肌から血がしぶく。

私の奥の手であるドレッドハウルの有効射程は、オーバードライブ時でおよそ50メートル。

端的に言えば、咆哮に乗せて放つ極めて指向性の強い震動波なのだが、これは私の能力ドレッドノートをあるベクトルで…

つまり遠距離からの無音暗殺という方向で突き詰めていった結果、生まれた物だ。

その効果は、範囲内の物質への高速震動による破壊。

無色不可視の衝撃波はヘルの体をズタズタに引き裂き、骨を粉砕し、散らした血飛沫すら細かな霧に変える。

範囲外へは全く漏れない私の咆哮を聞いてしまった者は、その時点で破壊震動に脳まで飲み込まれている。皮膚が裂けて骨

が崩れる程の震動で揺さぶられた生物の脳がどうなるかは…、改めて説明するまでも無いだろう。

ビクンと大きく跳ね、痙攣したヘルの体は、その場で硬く締まった雪面に崩れ落ちた。

もはやピクリとも動かなくなった彼女の元へ、私は警戒しながら歩み寄る。

先に述べた通り、オーバードライブしても私の五感は強化されない。ホワイトアウトはあくまでも筋力と能力の増大に限ら

れたオーバードライブなのだ。

だが、心音や呼吸の感知ならば私の得意分野。止まない耳鳴りが少々邪魔だが、能力の応用でかなり離れていても察知する

ことができる。

仰向けに転がっているヘルの鼓動、呼吸などから、彼女が瀕死の状態にある事は確認できた。

生命維持が不可能な程の損傷…、もはやいかなる治療を施しても延命がはかれない有様だが、油断はできない。

術士は手で術を扱う訳ではない。四肢がもげようと意識さえあれば戦闘が可能なのだ。

まして彼女はグリモアを手にしていない。少なくとも見える範囲には持っていない。つまり隠し持っている。体から離れて

いる事が確認できない以上、グリモアに秘められた術を使える状態にあると見て対処した方が良いだろう。息がある限り脅威

と見るべきだ。

警戒を緩めず接近する私の右脚、そのふくらはぎで、小さくパツッと音がした。

良く保ってくれたが、ついに筋繊維が断裂したようだ。

これ以上の交戦は危険だ。足に加え、ドレッドハウルを吐いたおかげで肺が正常に機能していない。機動力と持久力を欠い

たこの状況では、継続戦闘したところで数分保つかどうか…。

ようやく辿り着き、その顔を見下ろした私に、ヘルは血塗れの顔で微笑みかけてきた。

私は警戒を解くと同時に、オーバードライブも解除した。彼女にはもう、交戦の意志が無い。

だが、これで終わった訳ではないという事を、私は彼女の顔を一目見た瞬間に思い知らされていた。

ヘルの顔に浮かぶのは賞賛。そして同情の色。…それは、敗者の貌では決してない…。

奇跡的に破裂していなかった右目が、虚ろな光を湛えながら私を映す。

「ふふ…。私を…殺せたのは…、貴方で二人目…よぉ…?やっぱり貴方…、有能…ね…」

奇妙な物言いに疑問を感じはしたが、私は返事をしなかった。

夥しい出血で、ヘルの周囲で雪が赤く染まって行く。血が染みて僅かに溶けた雪は、しかしすぐさま凍り付き、雪に埋もれ

て白くなる。

「また…ねぇ…、大尉殿…。いいえ…、反逆部隊の…隊長…殿…」

言い終えたヘルは、笑みを浮かべたまま、完全に動きを止めた。

その体がざらりと崩れて塵になり、雪と混じって赤を埋める。

…何だ、これは?この死に方は何だ…?

寒さに極めて強いはずの私の体は、足下から這い登るような寒気を感じていた。

まだ終わっていない。

彼女が残した言葉の奇妙さから、私は彼女との…彼女の部隊との戦いがまだ終わっていない事を確信した。

影武者…だったのだろうか?…いや、推測は後回しだ。一刻も早くこの場を去り、皆と合流せねば…。

立ち去ろうとした私は、しかしふと思い止まり、身を屈めた。

そして、風雪に混じって減ってゆく塵を包む軍服に手をかけ、中を検める。

結論から言うと、グリモアはあった。だが、いずれのポケットにも入ってはいなかった。

ではどこにあったのかと言うと、軍服の内側…ヘルの体が崩れた残骸である塵の中に埋まっていたのだ。

ハードカバーの本程の大きさの石版を手に、私は考える。

…もしや、体内に埋め込んでいたのか?これが、グリモアを手にせず術を使えた理由…?

確かにそれならば奪われる心配も無いし、四六時中術が使えるだろうが…、まともな神経ではここまでできまい。…いや、

手段を選ばず生物兵器を生み出す者なのだ。自身の体を弄る事をも躊躇しないならば、それは平等な精神とも言えるか…。

少し考えたが、結局グリモアは捨てて行く事にした。貴重なレリックウェポンではあるものの、回収したところで我々の中

には術士としての技能を持つ者が居ないのだから、持って行っても宝の持ち腐れだ。

それに、ヘルほどの者が探知系の術を仕込んでいないとは思えない。せっかくモービルや雪上車からその手の機材を廃棄し

たというのに、いらぬ欲をかいて探知されたのでは笑い話にもならない。

グリモアを遠くへ放り投げた私は、新雪に埋没するボソッという音を聞きながら、衣類だけを人型に残したヘルの死体に背

を向けて歩き出した。

先ほど乗り捨てたモービルは転倒して止まっていたが、問題なくエンジンがかかった。

…グレイブの仲間達は無事だろうか?スコルは?デカルド中尉は?そして…。

「…ミオ…」

私の呟きは、モービルの低いエンジン音と共に一陣の風にさらわれ、北原の空気に溶けた。

それほど時間はかからなかったとはいえ、遅れは遅れだ。一刻も早く追いつかなければ…。

袖を噛み裂いて肩の傷を縛った私は、他の浅い傷はそのままにしてアクセルを全開にした。