赤銅の守護者(中編)
「あ〜…、食ったっス…!久し振りに腹いっぱいっスぅ…!」
白熊は満足げな表情を浮かべ、お寿司をたらふく詰め込んだ、ぽっこりしたお腹をさすりました。
「ふむ。満足して貰えたかな?」
赤銅色の熊が、お猪口を傾けながら、口元を少し緩めます。
「そりゃもう!無茶苦茶美味かったっスよぉ〜!ご馳走様っス!」
それはまぁ、六人前も食べれば満足でしょう…。
その横では、アケミちゃんが甲斐甲斐しく食後のお茶を淹れています。
が、妙なところで不器用でうっかりさんな彼女が淹れるお茶は、時折凶悪に濃かったりするので、頂く際には注意が必要です。
私も幾度か煮え湯ならぬ煮えミルクを飲まされかけました。
そして今淹れている番茶も、やけに黒々と色の濃い、湯気のたたない謎の液体になっています。
…おそらく、室温と同じ位の生温いお茶なのでしょう…。
お酒が入ったタネジマさんは、元々の赤ら顔を真っ赤にして、機嫌良さそうに笑ってらっしゃいます。
顔には酔いが出ていますが、頭の方はしゃっきりしていらっしゃるようで、口調もしっかりしています。
十八人前はあったお寿司、最初は食べきれないのではと思っていましたが、アケミちゃんが一人前、私が頑張って半人前に
足らない位(大半はネタのみですが)、タネジマさんが二人前ほど片付けて、育ち盛りのアルと、飛び抜けて大柄なユウヒさ
んが、残りを全て平らげました。
なお、ユウヒさんはお寿司の中で、ワサビのきいたカッパ巻きが一番好きだそうです。
私達は、食後にとユウヒさんが用意していた栗ヨウカンをつつきながら、しばし談笑しました。(といっても私は静かに普
通の猫をしていますが…)
やがて、アケミちゃんが「私はそろそろ…」と、皆さんにお辞儀しました。
時計の針は午後九時半を指し示しております。
確かに女子高生は帰宅すべき時間です。護り手の少ない、今のこの街ではなおの事…。
「あ、オレ送ってくっス」
アルがそう申し出ましたが、アケミちゃんは遠慮します。
しかしアルは、「せめてバス停までは送ってくっス!」と言って聞かず、強引にでもついてゆくつもりのようです。
病み上がりなのだから大人しくしていろ、というような無粋な事は、ユウヒさんもタネジマさんもおっしゃいませんでした。
ただ、「寒くないように、着込んで出なさい」と、声をかけるに留めておられました。
久し振りに二人きりになれるのです。若い恋人達に気を利かせたのでしょう。
玄関まで見送りに出て、あとはアルに任せてアケミちゃんを送り出した後、私達はリビングに戻りました。
タネジマさんは赤くなった顔をおしぼりで拭いながら、改めてユウヒさんとお仕事の話をします。
「例の鳴き声と正体不明の獣ですが…、どっちも決定的な情報が掴めていない状況です」
「ふむ…。面妖な声に、宙を駆ける獣、か…」
お二人のお話は、数日前からこの街を騒がせる怪異についての事でした。
一つめは、夜になると何処からともなく響く奇妙な声。
ひょぉう、ひょぉう、という物悲しげでありながらも、何故か背筋が凍るような恐怖を覚えるその声は、人の物とも獣の物
とも鳥の物ともつきません。
実際、私も夜の散歩中に二度ほど聞いておりますが、鳥の物に似ているような気はすれども、その声を発する生き物の姿は
目にできず、正体についても皆目見当がつきませんでした。
ただ、その声はとても危険です。耳にした時は私も恐れを抱きましたが、その声は、耳にした人々を恐怖で硬直させてしま
います。
車などを運転中のドライバーが、アクセルを踏んだまま硬直して壁に激突するなど、数件の事故の発生原因にもなっています。
もう一つは、数人の調停者が遭遇したその大きな獣。
おそらくは危険生物で、五人の調停者の命を奪いました。
これまでの三度、何故か調停中に現れては調停者を襲ったその獣は、重傷を負いながらも生き残った調停者数名の話によれ
ば、体長5メートル程で、奇妙な姿形をしていたそうです。
はっきりと判らないのには理由があり、ソレが現れた時は、いずれもにわかに空が曇り、月明かりが途絶えた状況だったら
しいのです。
しかもその獣、翼も無いのに宙を飛ぶとか…。
育った環境もあり、危険生物や、「表」に知られぬよう伏された事柄にもそれなりに詳しい私ですが、思い当たる生き物は
ありません。
全くの新種なのか、それとも国内では確認されていないマイナーな種や希少種なのか…。
さらに判らない事には、一般人に被害は出ていないのです。
調停者のみが、それも任務中にばかり襲われる、謎の生物…。
タネジマさんは様々な憶測をユウヒさんに話して聞かせますが、目撃証言が曖昧、かつ画像も無い状況…、対策を立てるに
も苦しいようです。
やがてアケミちゃんを送ったアルが帰って来ると、二人は話を止めました。
一時的にこの街に駐屯し、現地の調停者に協力するよう、リーダーのダウドさんに命じられているアルですが、外傷は癒え
たものの、今日退院したばかりの病み上がりです。
お二人とも仕事の話をする事をはばかったのでしょう。
「さて…、俺もそろそろおいとまさせて頂きます。ご馳走になりました」
午後十時半。タネジマさんはお礼を言って席を立ちました。
「アル。退院したからって無理はしないで、しばらくは体を大事にしろよ?」
玄関まで見送りに出た私達に会釈すると、真っ赤な顔の割にはしっかりした足取りで、太り気味の警官は機嫌良く帰って行
かれました。
それからリビングに戻ったユウヒさんは、空になった器を重ねて纏めながら、アルに告げました。
「さて、アルビオン君、今日の所はゆっくり風呂に浸かり、念の為だが、早めに休むと良いだろう。預かり物はあるが、それ
はまた明日にした方が良かろうな」
「うス。あ、片付け手伝うっスよ?居候なんスから働かないと」
リビングと繋がっているキッチンへと大量の寿司桶を運び、洗い方と拭き方を始めるお二人。
考えても見れば、この二人は親子のそれに近いほど歳が離れているのですよね…。
大きな熊が仲良く並んで洗い物をする様子は、微笑ましいものがありました。
アルが就寝した後、入浴して浴衣に着替えたユウヒさんは、リビングの大窓のカーテンを開け放ちました。
そしてお酒と杯、おつまみを持って来て窓際に陣取ると、
「しばし付き合うてくれるかな?」
と、私を月見酒に誘われました。
邪魔の入らない状況で、ゆっくり私の話し相手になってくれるおつもりのようです。
先ほどまでは客人が居た手前、しばしお話もできませんでしたので…。
夜空を眺めながら、ツブ貝などをつまみに、朱塗りの杯に注いだお酒をちびり、ちびりと楽しむユウヒさんの傍らで、私も
少しお酒を頂きます。
猫の小さな体では少量のお酒も効きます。ちょっと舐めている内にほろ酔い気分になってしまいました。
「山中で見上げる物とはまた違う色だが…、捕らえて愛でるもまた愉快…」
夜空に浮かぶ黄色い半月が、杯のお酒に映り込む様子を楽しみながら、ユウヒさんは口元を綻ばせます。
午前零時。更けてゆく寒い夜は、しかし何故だかこの大きな熊の周りでだけ、ゆっくりと温かく深まってゆくような気がし
ました。
無骨に見えて風流な、武人にして隠者のような、単純に見えて複雑なこの方は、私が今までに出会った、どんな方とも異な
ります。
…そうですね。私がユウヒさんに素性を知られた経緯や、今に至るまでの事も、少しお話ししておくべきかもしれません…。
私がユウヒさんと始めて出会ったのは、二年と少し前、クリスマス直前の首都です。
その時の私は既にこの体…、白猫の姿でした。
おじいさまに連れられて首都を離れる際に、駅で出会ったのが一度目です。
もっとも、記憶と意識のダウンロードをおこなった直後の私は、まだ猫の体に慣れておらず、半分微睡んでいるような状態
でしたが…。
その時のユウヒさんは、手提げケージの中に居た私を一瞥なさっていただけでしたが、その際には既に、私の正体を半ば看
破なさっておられたようです。
何でも、眼差しと気配がひとの物と同様に感じられたのだとか…。
他の誰にも、そんな事を言われた事はありませんでした。
唯一見破ったタケシさんですら、いくつもの情報から推理し、私の正体に思い至ったのですが…。
その後、再びお会いしたのは昨年の暮れでした。
あの事件後…。ユウトさんが重傷を負って昏睡状態となり、タケシさんが行方不明となったあの頃…。
私は誰の干渉も受けず、自由に動き回れる身を活かして、タケシさんの行方を探りました。
しかし、警察の捜索と同様に、バベルに侵入した後の足取りはやはり掴めませんでした。
相棒のユウトさんが、生死の境を彷徨っているにもかかわらず、姿を現さないタケシさん…。
事情があって姿を現す事ができないのか?それとも姿を現せる状況に無いのか?…それとも…。
押し込めども押し込めども、脳裏に浮かんでくる最悪の事態を頭から追い出し、私は諦めきれずに街中を探し回り、連日、
ひょっこり帰って来ているかもしれないと淡い期待を抱き、事務所に通いました。
そんな数日を過ごした後の事でした。見上げる事務所の窓に、明かりが灯ったのは…。
帰ってきたのだ!そう思い、急ぎ階段を駆け上って、玄関の前で呼びかけた私の前で、ドアは久し振りに開きました。
そこに立っておられたのが、ユウトさんでもタケシさんでもなく、ユウヒさんだったのです。
その圧倒的なボリュームを誇る巨躯に気圧され、逃げる事も、普通の猫のふりをする事も忘れた私は、しかしある種の感動
すら覚えて、山のようなその巨熊を、身じろぎ一つできずに見上げていました。
訝しげに眼を細めて私を見下ろしたユウヒさんは、耳をピクリと動かし、階段下まで視線を走らせ、私達以外には誰も居な
い事を確認すると、
「上がって行かれよ、稀なる客人」
片足を後ろに下げて体を横にして通り道を開け、口元を微かに綻ばせながら、そうおっしゃいました。
立ち去る事もできたはずなのに、私は何故か、お招きに応じて玄関に踏み入ってしまいました。
「…ユウトの友人かな?いや、フワ殿の方か?」
ユウヒさんはそう私に話しかけながら、人肌に温めたミルクをあてがってくれました。
「どちらにせよ、他言するつもりは無い。ご安心召されよ、お嬢さん」
驚きは、その何気ない一言の数瞬後にやって来ました。
どういう訳か、ただの猫でない事を看破されてしまったのです。
いつでも距離を取れるよう、背を丸めて後退する私に、大きな熊はニィっと歯を見せて、ユウトさんと良く似た笑みを浮か
べます。
「これは失礼…、申し遅れたが、某(それがし)は神代勇羆と申す」
クマシロ…?もしや、ユウトさんのご家族?
驚きながら漏らした私の言葉は、しかし「ニニャッ?」という猫の鳴き声になります。
「さよう。ユウトの兄にあたる」
ユウヒさんは顎を引いて頷きながら、そう答えました。
あまりにも自然にそう返答なさったので、私はその異常に気付くのが遅れました。
私の問いに返事をするという、その異常に…。
私の言いたい事が判るのですか!?
目を見張ったまま、声を発する事もできなくなった私に、
「おおよその所は。間違っておるようなら指摘して頂きたい」
と、これまた普通に応えられました。
輪をかけて奇妙な事に、今度は声すら発していないにもかかわらず、です。
驚愕しながらもその意思疎通に夢中になり、あれこれ質問した私に、ユウヒさんは丁寧に受け答えしてくれました。
色々と尋ねた私の質問が済んだ後に、ユウヒさんはこうおっしゃったのです。
「二年ほど前、首都で一度お会いしておるのだが、覚えてはおられぬかな?」
面白がっているようなその表情を眺めながら、お恥ずかしいことに、私はやっと、その時の事を思い出しました。
ユウヒさんは自分が神将家の一つ、神代の当主である事を含め、その身分を私に話してくれました。
驚いたことに、ユウヒさんは、私達のような裏の住人の間でもその名が知れ渡っている神将、奥羽の闘神そのひとだったの
です。
この時私は、それまで心の内では「ちゃん」付けで呼んでいたユウトさんが、神将の血族である事を知りました。
「貴女の身の上に興味がある。話を聞かせては貰えぬものかな?」
他言しないというユウヒさんの言葉を信用して、すっかり観念した私は、身の上を打ち明けました。
隠す必要も、偽る必要も感じられませんでした。半分は自ら望んで、私はユウヒさんに全てをお伝えしました。
話し相手に餓えていたというのもあるのでしょう。
タケシさんとの「会話」ですら、文字を書いたシートを使った物になります。
しかしユウヒさんとの「会話」は、どんな仲介器具も必要としないダイレクトな物です。
その日、私はユウヒさんと長々と話をしました。
嫌な顔一つ見せず、ニャーニャーと煩く鳴く猫に付き合ってくれたユウヒさんは、
「某が滞在しておる間は、ここで寝泊まりしては如何かな?至らぬ事ばかりとは思うが、不便の無いよう取り計らうが…」
と、提案してくれました。
おそらく、猫の姿に身をやつし、他者との接触内容が制限されている私の身を案じ、そして不憫に思い、そうおっしゃって
くれたのでしょう。
今は無力な猫の姿とはいえ、私も元々は裏の世界の住人です。
見逃して頂けるだけでも有り難いというのに、神将たる方が犯罪者を傍に置くなど…。
「黒伏と言えば、ダウド殿から話を伺っておる。他の組とは少々違っていた、と」
ユウヒさんは顎を撫でさすりながらそうおっしゃると、口の端を少し上げました。
「無害な者を理由無く捕縛する事は、某の役目には含まれぬ。もっとも、帝より命じられた場合と、貴女が帝に牙を剥く場合
に限っては、話は別だが」
そうおっしゃったユウヒさんのとぼけた口調は、以前タケシさんが私を見逃してくれた時の口調と、どこか似ていました。
ひとの意思と記憶を持つ猫は、無害なのでしょうか?
「貴女に限って言うならば無害であろう。こう見えて、いささか目の方には自信がある。貴女は神将が武を振るうべき害威で
はないと、断言できる」
そして私はその日から、この街の案内役として、ユウヒさんと行動を共にするようになったのです。
なお、私の意志を完全に汲み取れる事に関しては、
「仕草や雰囲気で、だいたいの所を察しておるのだよ」
との事ですが…、謎です。はっきり言って底が知れません。
それから二週間程が経ち、ブルーティッシュの駐屯部隊が首都へ帰還した、すぐ後の事でした。
年末の事件以降、ずっと意識不明だったユウトさんが、病院から姿を消したのは…。
御守り代わりにと、ユウヒさんがベッドのすぐ傍に置いていたタケシさんの愛刀と、備え付けの棚に置いていた貝のネック
レスも、消えていたそうです。
ユウトさんが消えた後の病室に残されていたのは、調停者の証でした。
何故か、チェーンが引き千切られていた認識票…。
私もユウヒさんも手を尽くし、調停者達や監査官も頑張って探してくれたのですが、その後、ユウトさんの行方は現在も判っ
ていません…。
「帰り次第、叱ってやらねばな…。あいつは、自分を案ずる者の心を軽視しておる…」
ある意味自己中心的なのだと、ユウヒさんは怒ったふりをして、そうおっしゃられました。
彼女の身を最も案じているのは、御自身でしょうに、辛そうな様子は押し隠して…。
私は、月見酒を楽しむユウヒさんにお付き合いしながら、明日からのアルの扱いについて話し合いました。
傷はもうすっかり良くなり、体もなまっている事でしょうが、大事を取って数日間は様子見をするのが良いだろうと、意見
は一致しました。
勘を取り戻すトレーニングについては、ユウヒさんが付き合ってあげるそうです。
会話を弾ませていた私達は、月明かりが陰った事に気付き、窓の外を見上げました。
月を楽しむ為に灯りを落としていたリビングは、突如湧き出した黒雲に月明かりが遮られ、途端に暗闇になります。
「…奇妙な…。雲が出る空でも無かったというに…」
ユウヒさんがすぅっと細めた瞳が、窓から射し込む僅かな光を反射します。
確かに妙です。真夏ならともかく、空気も冷えて乾燥しているこの時期に、まるで入道雲のようにもくもくと…。
にわかにゴロゴロと鳴りだした空を見上げていたユウヒさんは、おもむろに立ち上がりました。
「少し出る。何やらきな臭い…」
では、お伴致しましょう。
私の方がこの辺りの道に明るいので、もちろん案内を買って出ます。
ユウヒさんは「済まぬなぁ」と、鼻の頭を人差し指で掻きながら部屋に戻り、作務衣に着替えると、玄関へ向かいます。
大きな足が床を踏み締める震動を感じながら、私はその傍らを歩みました。
事務所を出て無目的に歩き出した私達は、いくらもしない内に、ふと見上げた空を駆ける何かに気付きました。
遙か彼方、米粒のような大きさのそれは、低く垂れ篭めた黒雲に紛れ、光も浴びていないため、はっきりとは姿を確認でき
ませんでした。
しかし、私の器としておじいさまが作り出したこの体は、通常の猫を遙かに超える鋭い感覚を備えています。
縦長の瞳孔が、それの動きをかろうじて捉えました。
走るように四肢を動かすそれは、なるほど確かに、翼もないのに宙を飛ぶ獣です。
「件の獣か…」
見えていらっしゃるのか、ユウヒさんも私と同じ意見のようです。
獣が飛んでゆく方向へと、私達は駆け出しました。
ユウヒさんの巨躯はグングンと速度を上げ、私は次第についてゆくだけで精一杯になります。
見かねたのか、ユウヒさんは駆けながら身を屈め、大きな手で掬い上げるようにして、私を抱き上げました。
「失礼。非常時ゆえ、赦されよ」
言うが早いか襟元を広げ、私を作務衣の懐に入れました。
落ちないように襟の上から左手で押さえながら、赤銅色の巨熊はさらに速度を上げます。
時速7〜80キロは出ているでしょうか、襟元から顔を覗かせる私の耳元では空気が激しく唸り、冷たい風が真正面から吹
き付けてきます。
しかし、ユウヒさんの懐に抱かれているおかげで、さほど辛くはありません。
不謹慎ながら、温かく、安心できて良い具合です。
…アンダーウェアを着ていらっしゃらないので、鍛え込んだ筋肉の上に乗った脂肪と豊かな被毛が、私の体に直に触れてい
ます…。
私には、殿方と肌を重ねた経験などありませんので、直に肌を触れ合わせるに近い状態である事に気付いた途端、顔に血が
上って来ました…。
もっとも、ユウヒさんにしてみれば、非常事態の今は、そんな事は考えの外なのでしょう。
猫を懐に入れて走る。ただそれだけの感覚に違い有りません。
おそらくはリミッターの制御を外し、獣人の身体能力を限界まで引き出しているのでしょうユウヒさんは、車に等しい速度
で深夜の街を駆け抜けます。
会得自体が困難な上に、本来ならば長くて数秒程度の禁圧解除を、時折緩めているとはいえ、分単位で持続できる…。とんで
もない持久力です。
私はその懐で、人気の無い、そしてなるべく短時間で走破できるルートを考え、獣の飛んで行く先へとナビをしました。
やがて、先の事件で大きな被害を受けた、オフィス街に到達すると、
「…匂うな…」
ユウヒさんは駆けながら、そう低く呟きました。私もその香りには気付いています。
それは、微かな血臭…。流れ落ちた生命の残り香…。
プシュプシュン、ギンッ、と、くぐもった音と金属音が、行く手に聳えるビルの残骸群から微かに聞こえて来ます。
おそらくはサウンドサプレッサーを付けた銃の発砲音です。
そして、次の瞬間、
ひょぉぉぉおおおおおう…
その「声」が、私の体を恐怖で縛りました。
「もしや…?」
呟くユウヒさんは、私と違って「声」を耳にしても硬直していません。
しかしその声からは、微かに戸惑っているような様子が感じられました。
ユウヒさんはぐっと身を屈めてさらに速度を上げると、本通りからビルの隙間へと入り込む、いくつもある横道の一つに飛
び込みました。
急停止したユウヒさんは、私が懐から前に放り出されるのを、大きな手で押さえる事で防ぎながら、「むぅ…」と唸りました。
人も車もない、まだ復興には至っていない区域の、暗い一車線道路。そこに、二人の男性が横たわっています。
冷たいアスファルトには黒く見える血が広がり、夜風に撫でられて湯気を上げています。
他にも二人の男性が立っていて、それぞれが映画の中で兵士が使っているような、アサルトライフルを構えていました。
四人とも、おそらく調停者でしょう。
私達が駆け付けた事にも気付かず、背を向けたままの二人の視線、その先に、ソレは居ました。
虎のような縞のある、太く逞しい四肢。
茶色の剛毛に覆われた、ずんぐりとした胴体。
ウネウネと動く、細やかな鱗に覆われた長い尾。
センターラインを跨ぐ格好で立ち、こちらを睨むその獣の顔は、猿のものでした。
…こんな危険生物…、私の知識にはありません。
マンティコアと呼ばれる戦闘用合成生物にも似ていますが、あれは翼を持ち、人の顔をしています。
近種かもしれませんが、しかし…。
謎の怪物は、私達に注意を向けているようでした。銃を構えた男性達よりも、ユウヒさんへ。
その視線を受けながら、ユウヒさんは小声で私に囁きました。
「マユミさん、少し下がっておられよ」
私を懐からすっと出したユウヒさんは、地面に下ろしてくれるその間も、獣から視線を離しませんでした。ただの一瞬も。
そして、雪駄を脱いで素足になると、袖をまくり上げながらゆっくりと足を進め、二人の男性に声をかけました。
「ソレは、貴兄らが相手にすべきモノではない。下がられよ」
その時始めてユウヒさんの存在に気付いたのか、男性達は驚いて振り返ります。
振り返った拍子に銃口が向けられるという無礼を働かれながらも、ユウヒさんは意に介する様子も見せません。
「安心召されよ。某は貴兄らの味方…、タネジマ監査官殿より、この件に関して相談を受けていた者だ」
そう告げたユウヒさんは、二人の間を通って進み出ると、
「話を聞き、あるいは、とは思うたが…。よもや、まことに「伝説」とまみえる事になろうとは…」
そう呟きながら、ぐっと腰を落とし、半身になって身構えました。
その首周りや剥き出しになった太い腕で、赤銅色の豊かな被毛が逆立ち、巨躯が淡い燐光に包まれます。
妹のユウトさんと同じ、エナジーコート能力。
本来は使用者の肉体を力場でコーティングする護りの力ですが、幾百年に渡って磨かれて来た神代の技は、通常の能力者が
扱う物とは一線を画します。
使用者の意志により剛柔自在の光を、力場として、または熱エネルギーとして使用し、身を護り、あるいは敵を滅ぼす力。
その威力の程は、ユウトさんの戦いぶりを目にした私には、良く判っています。
小山のようなユウヒさんと相対する獣は、赤銅色の熊よりもさらに大きい体躯をしています。
声を発さぬその獣は、不気味に輝く明るい紫色の目で、ユウヒさんを見据えています。
その背後では、テラテラと光沢を帯びた尻尾が、柔軟にくねっていました。
ひょぉぉぉおおおおう!
突如として、高い、哀しげな、しかし身の毛もよだつ声が、猿の顔をした獣の口から発せられました。
私は全身の毛を逆立てて身を竦ませ、ライフルを構えた男性達も、ビクリと体を震わせます。
身の自由を奪われた私達とは違い、いささかも怯む様子を見せなかったユウヒさんは、
「…参る…!」
と短く呟くと、その姿を霞ませました。
一瞬消えたその姿を、私の目が次に捉えたその時には、獣が跳び下がり、ユウヒさんがその拳を振るった後でした。
ユウヒさんが放った、打ち下ろし気味の右フックが大気を抉り、一度は下がった獣は素早く踏みだしつつ、右前脚を伸ばし
て振るいます。
巨体にも関わらず敏捷な獣の鋭い爪は、虎のそれです。
自分の倍以上ある、ワゴン車にも匹敵するサイズの獣の一撃を、ユウヒさんは一歩も退く事なく、差し上げた左腕で受け止
めました。
ズシンという震動が、私の体にまで伝わります。
振り下ろされた爪を、力場で覆った左腕で真っ向から受け止めたユウヒさんの足が、アスファルトを割って僅かに地面に沈
み込みました。
獣の攻撃はそれだけでは終わりません。
ユウヒさんが受け止めた右前脚に体重をかけて上体を上げ、左前脚を真横に薙ぎました。
危ない!可能であれば目を覆いたかった私は、しかしその直後、目を丸くします。
ごうっと振るわれた獣の左前脚、その手首に当たる部分を、ユウヒさんの右手ががっしりと掴み止めたのです。
足に根でも生えたかのように、小揺るぎ一つせず…。
「砕月衝(さいげつしょう)!」
かけ声と共に、ユウヒさんの右足が跳ね上がりました。
掴み止めていた獣の左前足、その肘に当たる部位が、強い燐光を纏った太い脚に蹴り上げられました。
ひょぉぉおおおおおおおうっ!
獣が上げた身を竦ませる声は、しかし今度は苦痛の響きを伴っています。
三日月のような弧を描いて振り上げた前蹴りで、左前脚を肘から真逆に折られた獣は、転がるようにして横へと逃れました。
足を垂直になるまで振り上げ、一本足で立ったユウヒさんは、太っていらっしゃるにもかかわらず、私の予想に反して柔軟
でした。
…太ももに圧迫されたお腹が少し苦しそうにも見えますが、余計なお世話でしょう…。
「ふん!」
一本足のまま身を捻り、気合いの声と共に振り下ろされたユウヒさんの足から、纏っていた強い燐光が放たれ、横へ跳んだ
獣に浴びせられました。
蹴り上げから、踵落としのようにして纏った燐光を放つ…。どうやら二段構えの技のようです。
かろうじて反応し、身を捌いた獣の横で、アスファルトがズガッと音を立てて裂けました。まるで光のギロチンです。
腕を折られた獣は、しかし怯むどころか、唸りを発しながら素早く飛びかかりました。
残る右前脚を、爪を広げて振り下ろす獣。ユウヒさんはそれを避けもせずに、両手を頭上に上げます。
頭上からの一撃を両手で受け止め、獣の腕をしっかりと掴んだユウヒさんは、
「ぬんっ!」
身を捻りつつ、その巨躯を強引に投げました。
背負い投げとも違う、ただ両の腕の膂力だけで放り投げられた獣は、凄まじい速度でビルの壁面に叩き付けられます。
壁の破片と共に地面に落ちた獣は、唸りながら身を起こし、ユウヒさんを睨み据えました。
私も、二名の男性も、ただただその戦いを傍観するばかりで、介入の余地などありません。
ユウヒさんが獣の最初の一撃を受け止めてから、ここまで僅か五秒程度…。
映画のアクションシーンを早送りで見ているような、息つく暇もない目まぐるしい攻防です。
私の特別製の瞳でもかろうじて追える程の速度ですから、二人の男性には何が何だか判っていないでしょう。
それにしても、あきれる程の強さです。
獣は相当なものです。あの巨体であのスピード、そしてパワー…。
恐らくは、この国の危険生物としての基準に当てはめれば、最上位を遥かに越えるでしょう。
しかし、ユウヒさんはそれを速度でも、膂力でも、軽く凌ぎます。おまけに戦闘の開始以来、一ヵ所から殆ど動いておられ
ません。話に聞く奥羽の闘神は、噂通りの強者でした…。
圧倒的な戦力差を見せ付け、優位に立つユウヒさんに対し、獣は唸り声を漏らしながら、ゆらりと身を起こします。
私は、獣が見せたその変化に、少し遅れて気付きました。
いつからでしょう?獣の猿の顔。それが真っ赤に変色し、体の回りでパチパチと、蒼い何かが瞬いています。
…電気?いえ、それにしては何かおかしい…。
獣は声もなく、地を蹴りました。その速度たるや、手負いにも関わらず、先ほどまでのそれを超えています。
右腕を上げ、斜め上から振り下ろされる爪を受け止めたユウヒさんは、「…む!?」と声を漏らしました。
私は、瞳孔を広げてその現象を凝視しました。
獣の爪を受け止めるユウヒさんの腕。それを覆う力場から、細かな光の粒子が火花のように散っています。
獣の爪の表面を駆け巡る、電気のような細かな蒼い筋…。あれに力場が侵食され、分解されている…?
「散華衝(さんげしょう)!」
ユウヒさんが繰り出した左拳の先で、閃光が爆ぜました。
が、獣は素早く飛び退き、破壊の閃光から逃れています。
ユウヒさんが、私が、そして二人の調停者が、目を見開いて獣の姿を見上げました。
ユウヒさんの拳を避け、大きく飛び退いた獣は、空中で静止していました。
「翼も持たぬ身で、宙を踏み締める…、まったくもって伝承通りよな…。神崎家が総出で仕留め損なうだけの事はある…」
…え?
呟いたユウヒさんに私が視線を向けた途端、獣があの声を上げました。
身を竦ませる私達の前で、獣は宙を駆け上がります。階段を登るように、脚を動かして、音も無く、凄まじい速度で…。
「逃さぬ!」
ビルの隙間の何も無い空間を駆け上る獣を追い、ユウヒさんはぐっと身を縮め、跳びました。
力場の炸裂を利用したのか、地面が大きく抉れて、赤銅色の巨躯は弾丸のように飛翔しました。
斜めに跳んだユウヒさんは、ビルの壁面を蹴り、反対側のビルの壁をまた蹴り、鞠が弾むように二つのビルの間を跳ねてゆ
きます。
あの恰幅の良いお体で、なんて身軽な…!
追跡に気付いた獣が首を巡らせたその時には、ユウヒさんは最後の跳躍を終えていました。
捉えた!そう私が思った次の瞬間、獣は宙で跳躍しました。地面を蹴るような動作で…。
進路上から身を退けた獣に対し、しかしユウヒさんは宙を蹴るように脚を出し、足裏で力場を爆ぜさせ、空中で跳躍します。
翼持たぬ身で宙を踏み締めるのは、あの獣だけではありませんでした。
後に、「空歩(くうほ)」と、名前を教えてくれたその技術で軌道を変えたユウヒさんは、再度左拳に閃光を纏いつかせます。
ひょぉぉおおおおおおおう!
身の毛もよだつ、あの声が響き渡りました。
その途端に、ユウヒさんは後ろに引いていた拳を素早く戻し顔の前で交差させます。
蒼い閃光。そして轟音と衝撃。
獣の声に応えるように黒雲から迸った稲妻が、ユウヒさんを直撃しました。
落雷の一瞬前に、体の前面でドーム上に力場を展開したユウヒさんでしたが、雷を防ぎきったその力場は、卵の殻が砕ける
ように分解しました。
危ないところでした…。けれど、これで追い詰めました!
一瞬足止めされたものの、再度宙で跳躍すれば、今度こそ捉えられる距離です。
しかしユウヒさんは、何故かちらりとこちらを見て、それから両手を前に突き出します。
手の先で発生させた力場を爆ぜさせ、高速落下して来るユウヒさん。
何故?と訝った私は、獣の視線に気付きました。…見ているのは、私達の方…?
ひょぉぉぉおおおう!
黒雲の表面を蒼い雷が走り、閃光が…。
「雷障陣(らいしょうじん)!」
落下して来たユウヒさんが、地面にズシンと降り立つと同時に力場を展開するのと、黒天から何条もの雷撃が立て続けに降
り注いだのは、殆ど同時でした。
両手を頭上に翳し、私や調停者達を護るよう、ドーム上に大きく展開した力場で降り注ぐ雷を受け止めながら、ユウヒさん
はギリリと歯を噛み鳴らしました。
「知恵の回る事よ…。手負いの者と女人を盾に取るとは…」
私や調停者達を標的とした足止めに、たいそうご立腹のご様子です。
やがて雷撃が収まり、ユウヒさんが防壁を解いたその時には、獣の姿は消えていました。
激しく雷が落ちていたのが夢だったかのように、黒雲は散り散りになって、夜空に溶けるようにして消えてゆきます。
「…不覚…!取り逃がしたか…!」
喉の奥から唸り声を漏らしながら、ユウヒさんが呟きました。
先程のユウヒさんは、あの得体の知れない生物をご存知だったような口ぶりでした。
問いかけようとその顔を見上げた私に、ユウヒさんは小さく顎を引いて頷かれます。
「話は後ほど…。今はとにかく怪我人を…」
倒れたまま動かない二人に、ユウヒさんは足早に歩み寄りました。
呆然と立ち尽くしていた二人の調停者もまた、その様子を見て我に返ったか、慌てて仲間に駆け寄ります。
更けてゆく夜の空気は、とても乾いた、冷たいものになってゆきました…。