互いに立場は違えども(中編)
「…はい?」
出勤するなり警視に呼ばれ、別室に移ったケンノスケは、出し抜けに問われた内容で目を丸くした。
「火事について調査しているそうだね?」
そう切り出したバーコードヘアーの警視は、面食らっているケンノスケに続けた。
「何か、思うところでもあるのかね?」
「え?あ…。思うところと言いますか…」
混乱気味のケンノスケは、疑問符で頭の中を一杯にしている。
資料室で調べはしたものの、他にはゲンゴロウとしか話をしておらず、調査と呼べるような事はまだおこなっていない。
ついでに言えば、調べたぐらいで警視に別室へ呼ばれる理由も解らない。
「捜査には移っておりませんが、少し気になりまして…」
警視の反応を探るように、刻んだ返事をするケンノスケ。
刑事として独断の捜査をおこなった訳ではない。手帳も出していなければ、そうと知られる動きを見せた訳でもない。
例え知られたとしても、特に咎められるような事はしていないはずだが?と、胸の内では首を捻っていると、
「…実は、同じ件について調べている者が居てね。どこから聞きつけたのか、君に会って情報交換したいと言っている」
「は?」
妙な事を言い出されて、ケンノスケは再び目を丸くした。
直後、ノックの音が響き、警視は「ああ、来たようだね」と腰を上げる。
返事を待ってドアを押し開け、入室するなり敬礼したのは、太った若い警官であった。
その丸い赤ら顔を見つめ、ケンノスケは会釈しながらも眉根を寄せる。
太った警官は彼の地元である東護町で交番に勤務する警察官で、面識のある相手であった。
確かタネジマというはずだと、名前を思い出したケンノスケは、先に入室した警官に続いてのっそりとドアを潜った者を目
にし、「ほぉ…」と声を漏らす。
思わず感嘆の声を上げてしまうのも無理はない程、二人目の入室者は大柄で、目を引く姿をしていた。
それは、巨大な熊であった。馴染みのゲンゴロウよりもさらに大きい。
とんでもなく分厚く、幅のある体躯。腹がぽこんと突き出ている肥満体型だが、丸太のような太い四肢は力強く、その両肩
は首が極端に短く見えるほど丸みを帯びて、大きく盛り上がっている。
白いベストを羽織って、白いカーゴパンツと水色の半袖シャツを身につけており、そのラフな軽装は、スーツと制服でそれ
ぞれ身を固めている警官達の中で異彩を放つ。
ケンノスケが目を奪われたのは、巨体であるばかりが理由ではない。
晴れ渡った空を映した湖面を思わせる、澄んだ水色の瞳。
そして、黄金を溶かし込んだように、鮮やかな金色の被毛。
その見事な色彩と体躯が相まって、ケンノスケの口から吐息を漏らさせていた。
ドアを閉めた金色の熊はケンノスケと視線を合わせると、柔和そうな笑みを浮かべて軽く会釈した。
その拍子に、シャツの胸元に潜り込んでいる鎖が被毛の中で微かに揺れ、金属の輝きをケンノスケの目に投げかける。
(…調停者、それも女性か…。まだ若いな…)
特殊な金属で拵えられている認識票独特の輝きを目にして、ケンノスケは相手の正体を悟った。
調停者。
一般には公開されていない秘匿情報案件に関わる職業。
戦後の法整備によって、それまでの自警団や民兵が職業化されて生まれた、準公務員的な扱いの職種である。
異国では、ほぼ同様の仕事内容で「ハンター」との名称で制度化されている国も多い。
なお、調停者制度が設けられているこの国では、人口に比して警察官の人数は少ない。
調停者達が警察機関の下請け役にもなっているので、同規模かつ同様の制度を持たない国家と比べ、必要となる警官の人員
数が少ないのである。
互いに影響し合う存在なのだが、しかし警察側で調停者と密になって仕事をおこなう者は少ない。
秘匿情報については警官といえども容易に触れる事が許されず、一般の階級とは別に与えられる「監査官」の肩書きを持た
ない者は、調停者や特定の情報について、一般人に毛が生えたレベルの知識しか持たない。
まっとうな警官であるケンノスケもその例外ではなく、調停者については「機動隊顔負けレベルで荒事が得意な協力者」と
いう認識しか持ち合わせていない。
「彼らも、その火事の件について調べていたそうでね」
警視の言葉を聞きながら、ケンノスケは考える。
(何故火事について調べていた事を知っている?あの火事はやはり事件性があるのか?調べるきっかけとなった交通事故も、
やはり事件だったのか?)
疑問は山ほどあったが、それに先立つ疑問も一つ。
(果たして、私からの質問は許されるのだろうか?)
一般の法が及ばない影の部分を固める、裏の法と秩序の番人…調停者と監査官を前に、ケンノスケの表情は硬く引き締まっ
ていた。
「あ。次の角を左ですね」
後部座席からかけられた声に、ケンノスケは「ああ」と頷きハンドルを切る。
バックミラーに目を遣れば、後部座席中央に陣取り、それでもなお狭そうに身を縮めている金色の熊の顔。
澄んだ薄い青の瞳は、運転席と助手席の間から前方を見つめている。
朝に警視に紹介されて出会ってから五時間が過ぎているが、神代熊斗と名乗った調停者は、それ以来ずっとケンノスケに付
き従っている。
調停者側で対処するから手を引け。などと言われるのではないかと思ったケンノスケだったが、事態は予想と逆に動いた。
監査官である太った警官が、「では警部にお任せしましょう」と、至極あっさりと言ったのである。
そして、助手兼雑用係として連れて行ってくれと、金色の熊を同行させられたのだが、捜査協力者という扱いの若い調停者
は、ケンノスケの疑問には殆ど答えてくれなかった。
彼女曰く、「調べ始めたばかりでまだ何も解っていない」との事である。
それでも一応は、時間をおいて起こった三つの事故について事件性があるのかもしれないと疑っての調査なのだと述べて、
ケンノスケの疑念との一致を認めた。
が、調停者が動いている理由については、「手が足りないらしくて、お手伝いなんです」との、甚だ疑わしい答えしか返っ
て来なかった。
それからしばし、目的の場所に到着して車を止めたケンノスケは、一見したところ辺りの物と変わりのない一戸建てを、鋭
い目でじっと見つめた。
かつてベランダからの転落事故があった家だが、その後一家は引っ越して売りに出され、現在は別の住人が暮らしている。
「屋根は結構急だな。雪止めもついていない。高さもある。手すりが外れれば…、ベランダから庭まで一気に落ちるな」
「おまけに滑落先はコンクリート敷きの駐車場…。少なく見積もっても高さ5メートルはあるから、普通のご老人が頭から落
ちれば…」
「実際、即死の状態だったそうだよ」
金熊に応じたケンノスケは、自分が考えた犯行手順について述べ、ユウトに意見を求めた。
「金具の腐食を故意に進めて、ですか?う〜ん…、痕跡確認はかなり難しいでしょうね。例えば塩水なんかを使うとしても、
「その箇所だけ」っていう不自然な偏りなんかがなければ、自然に腐食したのか人為的に腐食させたのかは、判別し難いと思
います。この辺だと風向きによっては結構潮風が当たるし、湿気の滞り具合も家の向き一つで結構変わるはずだし…。逆に言
えば、誤魔化しようはいくらでもある訳ですけど…」
すらすらと述べたユウトは、振り向いているケンノスケの顔を見て首を傾げた。
「あれ?変な事言ってますかボク?」
「え?ああいや、そんな事は…」
予想以上に細やかな分析を加えた意見を受け、少し驚いたケンノスケは、「随分詳しいんだね?」と探りを入れつつ、顔を
前に戻す。
「一応、偽装工作についての訓練も受けてるもんで。する側としても、暴く側としても」
「訓練?」
「ええ。実はボク、こう見えても帰国子女なんですよ?海外でハンターの養成学校を出てまして、潜入から調査まで幅広く習っ
てます」
ユウトの話を聞きながら、つくづく特殊な職種だと、ケンノスケは改めて思った。
調停者という仕事に就く者は、様々である。
望んでその道に進む者。仕方なくその道を選ぶ者。そして、最初からその道しか無かった者…。
調停者となる理由も様々ならば、その仕事ぶりも様々である。
使命感を持って認識票を首にかける者も居れば、中には職権をかさにきて法すれすれのあくどい商売をする者も居ると聞く。
この若い調停者も中身が相当変わっているのだろうかと不安に思い始めたケンノスケは、しかしすぐさま、それは取り越し
苦労だろうと考え直す。
顔見知りでもあるあの太った警官が監査官だったとは今日まで知らなかったが、彼が質の悪い調停者を選んで自分に付けて
寄越すとは考え難かった。
それに、警戒している自分にあれこれ話しかけ、いくらかでも距離を詰めようと心を砕いている様子から、彼女がまっとう
な神経を持ち合わせている事は容易に察せられる。
「どうかしましたか?」
ケンノスケが黙り込んだ事を不審に思ったのか、金熊は眉根を寄せてバックミラー越しに顔を窺う。
「ああいや、感心してしまって…」
胸の内で巡らせたユウトの素性に対する憶測を、顔には一切出す事無く深い位置に沈め、ケンノスケは思いついたばかりの
事を口にしてみた。
「例えば…、例えばなんだが、君は薬品のような物にも詳しかったりするのかい?」
「物によりますけれど、仕事柄毒物と可燃物はそこそこ得意分野です」
応じたユウトが「それが何か?」と首を傾げ、ケンノスケはこれ幸いと訊ねる。
「例えば、特殊な燃え方をする燃料などに、心当たりはないかな?」
ケンノスケは昨夜ゲンゴロウから聞いた、件の一家を十一年前に襲った火事の話を思い出しながら、疑問に思っていた点に
ついて口にした。
まず訊ねた内容は、家の燃え方や家族の状況、アリバイなどについてではない。ただ一点、ゲンゴロウも疑問に感じていた
ある現象についてであった。
すなわち、彼が目にしたと言う、放水後に認めた妙な燃え方…。
「水がかかったら火が妙な具合に跳ねた…?」
「おかしな話だろう?」
眉根を寄せたユウトは、ケンノスケの言葉に頷く。
「水が跳ねた先で…、落ちた先で…、燃える…。尾を引いて落ちたそこで…、着火…、いや、再着火…?」
ブツブツと呟くユウトをミラー越しに眺めていたケンノスケは、不意に顔を上げた金熊と視線を合わせる。
その瞳に困惑よりも強い思慮の色を見て取り、ケンノスケは確信した。訊ねてみて良かった、と。
「それって、映像記録は残ってませんよね?」
「残念ながら。火災発生当時、消防車よりも一足早く近所の方々が消火活動に尽力してくれてね、その中の一人から得られた
証言なんだ。…もっとも、非公式なんだが…」
ゲンゴロウの名を伏せつつも、警察の正式見解ではない事を仄めかすケンノスケ。そんな彼の態度にユウトは好感を覚えた。
事務所経営の為にも仕事を選ぶ贅沢はできず、これまでにもカズキを経由して何度か警察に協力する形で捜査に付き合った
事もあったが、中にはあからさまに調停者を見下し、ろくに情報を寄越さない刑事も居た。
もっとも、そういった輩も彼女の実家の事を知れば、手の平を返すようにへりくだった態度になるのだが…。
しかしケンノスケは、ユウトについて殆ど何も知らないまま、必要な事はきちんと伝えて寄越す。対等な相手として。
調停者と組むのが初めてなのか、どのように接し、どこまで伝えるべきか迷っている節はあるものの、そこに打算や見下し
といった要素は全く窺えなかった。
(ゲンゴロウさんの知り合いって事を差っ引いても、骨身を惜しまず協力したくなるひとだね)
そんな事を思いつつほんの少し口元を緩めたユウトは、しかしすぐさま真面目な表情に戻る。
「話だけで決め付けるのは良く無いと思いますけど、いくつか思い当たる事がありますよ」
金熊のその言葉に、ケンノスケは振り向いた。
「推測でも構わないよ。それはどんな…?」
金熊は太い人差し指を立てて口を開き、ケンノスケに聞き返す。
「ちょっとお尋ねしますけど、「ギリシア火」ってご存知ですか?」
出し抜けに耳慣れない言葉を放られたケンノスケが「いや…」と首を振ると、ユウトは頷いて先を続けた。
「製法も原理も伝えられていないんですけれど、七世紀後半ごろから東ローマが用いていた焼夷兵器です」
「それが…、どうしたんだい?」
焼夷兵器という表現にひっかかりを覚え、ケンノスケは期待を込めて先を促した。
「空気に触れると発火する性質を持った、今で言う液体火薬のような物だったそうですが…、水を吸っても燃え上がったらし
いんですよ。それって」
「はいぃっ!?」
裏返った声を上げたケンノスケに、ユウトは続ける。その古い時代の海戦で、ギリシア火と呼ばれたその兵器が、海に流さ
れて敵船を燃え上がらせたという逸話や、直接噴射された船が水上にありながら残骸も無く燃え堕ちたという話を。
「念の為に言うと、これは神話や童話じゃありません。史実です。製法は門外不出とされてらしくて、当時の王様が残したっ
ていう「絶対に他所に漏らすな」って文書まで確認されてるくらいです」
「全く知らなかった…」
「あんまり関係無いから、この国じゃ学校でもまず教えませんからねぇ…。とにかく、間違いなく当時の超兵器ですよ。水で
火は消えるっていう常識が覆されるからこその心理的効果もあったでしょうけれど…、今で言うナパームですからね。当時は
防ぐ手立ても対抗策も無かったでしょうから、それこそ魔法みたいに見えても不思議じゃないかと」
「魔法…」
ケンノスケは唸る。それこそ、家事を目の当たりにしたゲンゴロウ自身が目の迷いかと疑ったその現象を表すに適切な単語
ではないのか?と。
「他の国…、今じゃ石油大国なんかになってる中東の国でも、遥か昔には似たような発火材があったらしいです。もっとも、
兵器転用されてもギリシア火ほど目覚しい効果を挙げた物はあまり無いですけど」
「ちょっと待ってくれ…。そんな大昔に使われていたっていうその火…、製法は失われたんだね?」
「ええ、国家機密だったそうで、滅亡と同時に製法も失われたとか…」
「それは…、今でも解明できていない?」
「正確には。けれどおおよその目星はついてます。当時精製可能だった薬剤や得られた鉱物、そして技術レベルからの推測で」
「個人的に作る事は?」
「結論から言うと、そういった専門の知識や器材を持たない一般人が個人レベルで作るのは、極めて難しいです」
身を乗り出していたケンノスケは、ならば何故今そんな話をするのかと、肩透かしでも食らったような気分になって眉根を
寄せた。だが…、
「けれど十二年ほど前…、この兵器について知ったある国の十代の学生が、全く別の物を原料にして、伝承に有るギリシア火
と良く似た性質の着火剤を作り、自分が通っていた学校を燃やした事があります。クラスメートとトラブルがあったとかで」
そう続けられたユウトの言葉で、はっと表情を強張らせる。
「スプリンクラーの水で事態は悪化し、十五人亡くなりました。…その少年が作った着火剤の原料は、現代では有り触れた物
なんです。具体的に言うと…」
ユウトはまず成分について述べ、次いでそれが含まれる品物を並べた。
「…スーパーと薬局で普通に揃ってしまうじゃないか!」
「ええ、子供のお小遣いでも買えちゃいます」
驚愕するケンノスケと、神妙に頷くユウト。
「「混ぜるな危険」…、確かに洗剤だって毒物に早代わりするが、しかしこんな…」
「元素記号って、確かこの国では中学校で習うんですよね?」
唸るケンノスケをよそに、ユウトは続ける。
「普通の学生はテスト用に覚えるだけでしょうけど、ボクらは違った。元素記号に合わせてその応用方法と現実的な活用方法
まで叩きこまれました。市販の薬から強酸に匹敵する薬剤を作らされた事も、その中和剤を作らされた事もあります。それも
普通の学校とあまり変わらない設備の化学実験室と、教室で」
金熊の言葉を受けて、ケンノスケは表情を険しくする。
「つまりこういう事かい?特殊な環境は必要無い…。義務教育で普通に習得する知識と僅かな金、そして薬局とスーパーがあ
れば…」
「加えて、興味と好奇心と応用力と根気、できれば図書館とガスコンロや流し台もあれば…、ですね」
口を挟んだユウトの目を見つめ、ケンノスケは唾を飲み込んだ。
「水を注いで燃えるなんていう非常識な着火剤が…、一般家庭で作れてしまうのか…」
「さっきの話だと、その家事では水が跳ねた後にも発火したんですよね?だとすれば、可能性が高いのは…」
ユウトはいくつかの有り触れた商品の名前を出し、それらに含まれる化学物質を用いての着火剤製法を具体例として挙げ、
ケンノスケの表情を引き攣った物に変えた。
「…これなら予めかけておくか塗っておく事で、そこそこ低い温度でも水と空気があれば燃焼します。屋根や壁に塗布してお
けば放水を受けて範囲を広げますから、大量放水での消火活動は確実に失敗しますね」
「しかし…、当時の現場検証では何も見つかっていないようだが…?」
不意にその事に思い至ったケンノスケは、しかしそれに応じたユウトの言葉に呻いた。
「ほとんど痕跡無く燃焼しちゃいますから、後で現場検証しても家屋の塗料なんかと区別がつきません。言ったでしょう?材
料になってるのは「ありふれた物」だって…。確信じみた見解を持って検証…それも燃焼具合が相当マシな所を確認できれば
ですけれど、そうでもなかったらまず気付かないかと…」
「そういう事か…!」
超難問クイズの答えか複雑な数式の解を見せられたような気分になりながらも、ケンノスケの心は晴れなかった。
ユウトが口にしたような手段を用いるという事は、明らかな計画性をもっての犯行…。
まだ証拠を押さえた訳ではないが、もしそうだったとしたらケンノスケの予想通り、長期に渡る家庭内連続殺人という事に
なる。それも、冷徹な計算に基いた、凶悪な犯行…。
しばし黙り込んでいたケンノスケは、意を決してユウトの顔を見つめた。
「済まないが、もう一つ意見を訊きたい件があるんだ。済まないけれど一度資料室に寄って、それから現場まで…、また付き
合って貰えないかな?」
「当然お付き合いしますよ。…って言うか、もしかして勘違いなさってますか?」
首を傾げたユウトに、ケンノスケも「ん?」と首を傾げ返す。
「「付き合って貰えないかな?」じゃなくて、付き合わせて貰わないと困るんですよボクも。イヌイ警部に協力して付き従う
ようにって依頼なんですから。この件が解決するまでは、遠慮なく助手として使ってやって下さい」
ニカッと笑ったユウトに、ケンノスケは微苦笑を返す。
快活で博識なこの金熊の事を、ケンノスケの方でも気に入り始めていた。
なかなかどうして、そのボリュームと迫力満点の見た目以上に、ブレインとしても頼りになる相棒だ、と。
「よろしく頼むよ。では、早速引き返…」
ぐごーっきゅるるるるるるるるっ…
顔を前に向けかけたケンノスケは、その車内の空気全体を振動させるような盛大な腹の虫を耳にし、半端に向き直った状態
で静止する。
そのままゆっくり視線を戻すと、気恥ずかしそうに両耳を寝せ、太い両腕で恰幅のいい腹を抱えこむようにし、まだ鳴り止
んでいない腹の虫を必死に宥めている金熊の姿。
「そろそろ昼時だし、その辺りで飯を食ってから戻ろうか」
「す、済みませんっ…!」
恥かしさのあまりすっかり小さくなっているユウトから視線を外したケンノスケは、口の端に笑みの残滓を乗せたまま、ゆっ
くりアクセルを踏み込んだ。
「生憎、ユウトは不在ですが…」
無月の闇夜を思わせる黒髪黒瞳、衣類も黒ずくめな長身痩躯の青年は、体格の良い大柄な熊の前に濃い緑茶が入った湯飲み
を置き、ソファーに腰を降ろす。
「ああ、そいつは構わねぇよ所長。たぶんそうだろうとは思ってたからなぁ」
事務所ゆえに、立場上ここの長であるこの青年の事を、ゲンゴロウは所長と呼ぶ。所員が所長と副所長の二名しか居ない事
務所であっても。
もっともこの青年…不破武士の事を所長という役職名を用いて呼ぶ人物は少ない。というのも、業界内では調停者チームの
トップはリーダーと呼称されるのが一般的なのである。あえてゲンゴロウが所長という呼び方をするのは、一般人が居る場
所で呼んでしまっても違和感が無いようにとの配慮からであった。
そして、無表情で感情に乏しい黒髪の青年は…、密かにこの所長という呼ばれ方が気に入っていたりもする。
ここはカルマトライブ調停事務所。ゲンゴロウ自身が建築に携わったここは、彼から見て親戚筋であるユウトの勤め先でも
ある。
彼を迎えたタケシはワイシャツに黒のスラックスといういでたちだが、来客用ソファーに幅広い尻を深く沈めたゲンゴロウ
は、工務店のロゴ入り作業着を纏っていた。
今日はここから近い現場に出向いていたので昼食休憩を利用して足を運んだゲンゴロウだったが、おそらくユウトが居ない
だろう事は察していた。昨夜遅くに電話を寄越した事から、よくよく考えればそれなりに急ぎか、あるいは忙しい中での事件
なのだろうと予想できたので。
「昨夜ユウトちゃんから訊かれた件、知り合いの警察官も調べてたって話したんだが…、その辺りの事ユウトちゃんからは?」
「簡単にですが聞いています。生憎丁度別件も抱えていたため、ユウト一人が出向く形になっていますが」
バニラ味のプロテインをコーヒーに大量投入しながら応じたタケシは、ゲンゴロウの表情から何か察する物があったのか、
不意に手を止めた。
「あのひとは冷静なタマなんだがなぁ…。もしかすると、今回に限っちゃあ結構熱くなってんのかもしれねぇ…」
ゲンゴロウは熱い茶をズズ〜ッと啜ると、黙って話の続きを待つタケシに告げた。
「実はイヌイさん…、数年前に事故で息子を亡くしてんだよなぁ…。サツキの幼馴染でよ…、中学二年生になろうかって時期
の頃だった…。ウチにもよく遊びに来てたんだけどなぁ…。ホレ、サツキはオレに似て顔も厳ついし体もでけぇ上に、あのが
さつな口調だ。つるむ相手ってのは限られててなぁ…」
以前は気弱で頼りなかった自分の倅といつも一緒に遊んでくれていた少年の顔を思い出し、ゲンゴロウは視線を伏せながら
深いため息をつく。
「ウチもそうだったが、当事者のイヌイさん家は見てらんねぇような落ち込み具合だった…。それでもまぁ、今はきっちゃん
が…。おっと話が逸れたな…。まぁその、状況はよく解らんけどなぁ、昨日訊いてきた火事の件で、焼け出されたあの家族
に関わる事件…。ありゃあひょっとすると、息子さん方にかかってくるような事なんじゃねぇのかなぁ?他人の子供でも、感
じるモンがあるのかもしれねぇや…」
無言で聞き入るタケシに、顔を上げたゲンゴロウは語りかけた。
「今回イヌイさんが追ってるヤマ…、ユウトちゃんが元々噛んでた件と関係があるんだろう?調停者が受け持つような仕事と
関係が…。だったら相当危険なんだろうし、できれば…」
そこまで言って、ゲンゴロウは口を噤んだ。
危険なのはタケシやユウトも同じである。そこへ知り合いの身の安全まで求めるのは、余りにも調子が良過ぎると感じて。
「できればそのぉ…、仲良くしてやってくれねぇかなぁって…。…あ、こりゃあユウトちゃんに言うべきか。だははははっ!」
取り繕うように笑い声を上げたゲンゴロウの様子を、青年は頷きながらもじっと観察していた。
十数分後、事務所の階段を降りて外まで見送りに出たタケシに、ゲンゴロウは簡単な別れの挨拶を済ませ、巨体を巡らせた。
そしてのっしのっしと地面を踏み締め、丸々車庫スペースになっている一階に停めていた軽トラックに、窮屈そうに体を押
し込む。
ゆっくりと出て行く軽トラック内のゲンゴロウと会釈しあい、タケシは考えた。
顧客であるだけでなくユウトの事もあり親しく付き合ってはいるが、ゲンゴロウは普段、自分達の領分では無いと割り切り、
彼らの仕事について詮索も口出しもしない。
にも関わらず、さらりとした物とはいえ、あの大熊は今回初めて調停者としての仕事の内容に触れてきた。
これを重く見たタケシは、世話になっている巨漢の軽トラックを見送った後、素早く踵を返す。
看板を階段入り口に引っ込めてシャッターを下ろし、休業の体を取った青年は、常と変わらぬ無表情ではあったが、
「ユウトが付いている以上間違いは無いと思うが…。棟梁には分割払いの猶予にも随分と便宜をはかって貰っている。報いな
ければならないな」
そう呟きつつ、足早に階段を登って行った。
道すがら立ち寄ったファミリーレストランで、和風おろしハンバーグ定食をつつくケンノスケは、感心しきりといった様子
で嘆息した。
向き合って座る金色の熊は、おかわり自由をいい事に、サラダとライスとスープを大量に胃袋へ詰め込んでゆく。
メインで頼んだチキンステーキとジャンボハンバーグは序盤で平らげられており、今やその眼前にはヘルシーかつ無料の品
が並ぶばかりである。
(五人前?六人前?いやもっとだなこれは…。しかし凄い食欲だなぁ、ゲンゴロウさんも大概だが、さすがにここまでは…。
この体格だし、確かにたくさん食べないと保たないのかもしれないな)
視線に気付いたのか、ユウトはライスを口元へ運んでいたスプーンを止め、それからやや恥かしげに目を伏せる。
(あちゃ〜…!今日は朝ごはん以来、間食も抜きだったからなぁ…。お腹が減ってついつい意地汚くがっついちゃった…)
ややペースを落として行儀良く食べようと心掛け始めたユウトは、それまですっかり訊ねるのを忘れていた件について、周
囲を憚り声を潜めて質問する。
「ところで、今夜辺り早速張り込みとかするんですか?」
「うん?いや、流石にそこまではしないよ。例え黒だったとしてもすぐに動きは無いだろうしね。それに、何せ次男が先日亡
くなったばかりだ。まだ葬礼も途中だよ。証拠固めがまず先だから、そんなに焦る事も無いさ」
「それもそうですね」
ケンノスケの言葉にユウトも同意する。
ここに来るまでに車中で聞かされた話によれば、これまでに起こっているグレーの「事故」は、約五年数に一度のペースで
起こっている。
本当に保険金目当てに家長が家族を殺害しているのだとしても、保険金が転がり込む直前の今、しかも人目もあるこの時期
に動きを見せるとは思えなかった。
「だから、私も夜は定時に帰る。君も上がってくれ」
「了解です」
応じたユウトはスープをすすり、事務所に残して来た相棒の事を考える。
夜は別件で動く予定だったはずなので、帰ったら自分も手伝おうかと思い始めたユウトは、しかしまだ知らない。
つい数分前に別件の先送りを決めた相棒が、事務所を閉めて外出してしまっている事までは。
ぼんやりと薄白い灯が、電信柱の上から投げかけられる光の中に浮いていた。
喪を知らせる電光板が門構えの外に出たその家は、表札に井沢と記されている。
若い次男の死を悼み、しめやかに通夜が行われているその家で、長男である二十代半ばの男はリビングに立ち尽くしていた。
兄弟が並んで写った、学生時代の写真をじっと見つめて。
その、自分が大学の入学式に向かう朝に撮った写真では、弟は明るく笑っていた。
フォトスタンドを手に取り、縁の上を人差し指で優しく擦ると、あるかなしかの埃が指先に付着した。
哀しいはずなのに、涙は出なかった。
受けたショックが強過ぎるのだろうと、男は自己分析する。
「ショウ。こんな所にいやがったか…。こっちに来い。ぼーっとしてないで、客に顔見せろ」
唐突にぶっきらぼうな声がかけられて振り向けば、不機嫌そうな父親が、ビールが回って赤くなった顔を、少し開けたドア
の隙間から覗かせているのが見えた。
先ほどまでは通夜に相応しい、それらしい、決まりきった顔と態度をしており、あまり機嫌も悪くなかった。
だが、この場には他に誰も居ないからか、いつも通りの何もかもが気に食わないという顔に戻っている。
男は父への反感を押し殺し、静かに頷いた。
「今…行く…」
フォトスタンドをそっと棚に戻し、次いで隣に立てられた祖父母、そして母の写真を眺めやると、男は踵を返した。
去った父親が半端に開けたままにしているドアに向かって一歩踏み出す度に、その胸の内でどす黒い怒りの炎が燃え広がる。
(お前が死ねば良かったのに…。お前が死ねば良かったのに…!母さんの時も!お爺さんの時も!…そして今回もっ!)
帰る客に声をかけているのだろう、通夜の席から父親の大袈裟な挨拶が聞こえてくると、その体の横で硬く握り締めた拳が、
力を込めて小刻みに震えた。
爪が手の平に食い込んでもなお、男は力を抜かなかった。
(お前が死ねば良かったのに…!)
一方その頃、住宅街の細い通りを少し進んだ位置、街路灯の間にできた闇の中には、井沢家を遠めに監視している黒塗りの
ワゴン車があった。
その中には、朝方にかつての火災現場を訪れたゲンゴロウを見張っていた男の姿がある。
ワゴン後部に所狭しと積み込まれているのは、モニターやスピーカー、そして何らかのコントロールパネル。
モニターには井沢家の玄関が映し出されている。庭の松の中に仕込んだ監視カメラからの映像であった。
さらには一体何処にマイクがセットされているのか、通夜の席でかわされているらしい客の会話がざわめきとなってスピー
カーから零れ出ている。
盗聴盗撮に勤しむ監視者達は、男の他にもワゴン後部に一名、さらに運転席にも一名の三人体制。
一様に緊張が…というより怒気が漲ったピリピリした表情をしており、ただでさえ悪い目つきは険呑な光を宿していた。
「出たぞ…」
片方の男が呟くと、傍らからもう一人が身を乗り出し、モニターを覗き込む。
玄関先まで客を見送りに出た世帯主の姿が、二名の血走った目に映り込む。
「こいつか…、こいつの家族殺しに巻き込まれて…、くそっ!」
吐き捨てた男の隣で、もう一人が眉間に深い皺を刻む。
運転席では、三人目がハンドルをきつく握り締め、歯を噛み締めていた。
「落ち着け…。いいな…?調べがつくまでは手は出すなって、親父もおっしゃってんだ…。先走っちゃなんねぇぞ…」
自分に言い聞かせるような同僚の声に、男は固い動作で頷く。
何度も悲惨な事故に見舞われる家族。
疑問を抱いた警察官。
そこへ何故か関係しているらしい調停者。
そして、暗躍する監視者達…。
静かに深まり濃さを増し、そこかしこに夜霧を吐き出してゆく今夜の重い闇は、事態の見通しの悪さを暗示しているかのよ
うでもあった。